短編・中編
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燦然前夜
-2- ※夢主視点
尽八くんに案内されるまま、直線の廊下をしばらく歩いた先で辿り着いたのは、一人で泊まるには充分な広さの客室だった。
畳と木の香りがする上品な和室。広縁には小さなテーブルと、囲むように二脚の椅子が置いてあり、木枠のガラス窓から敷地内の立派な庭園を眺めることが出来る。美しい新緑の色が目に飛び込み、ふっと張り詰めていた糸が緩み出した。無事にご家族への挨拶を終え、大きなミッションをひとつ完遂させた気分だ。
椅子に腰かけ、長い溜息を漏らすと尽八くんが背中を擦ってくれた。尽八くんのお父さんは温泉協会の集まりに行ってるとのことで、残念ながら今日は会えないかもしれないと行きの車内で話していた。もしかしたら時間帯によっては、お姉さんやお母さんとも会うことが出来なかったかも知れない。タイミングが合って、ご挨拶が出来てよかった。
……よかったけど、緊張した…!
「確かに、逆の立場だったらと思うと緊張するな」
「尽八くんでも?」
「さすがにな」
「あんまり想像出来ないなぁ」
「まぁ、そんな機会が早く訪れる事を願っているよ」
言葉の真意を尋ねる前に、彼は私の髪をにそっと手の平を滑らせていく。心地よさに目を閉じる前に、一緒に部屋の中を回ろうかと手を取られた。浴衣が収納されてる棚から、空気清浄機の使い方、テーブルの上にあった分厚いファイルを広げて館内平面図まで丁寧に説明してくれた。お土産売り場や日中だけ営業しているラウンジ内のカフェ。フロントの上の階には資料館的もあり見学できるらしい。
メインの客室露天風呂は広縁の左側に位置していた。横開きのガラス戸を開けると流れきた湯気が香り、すぐにふわりと散っていった。視線の先には、四角い形の石張りの露天風呂があった。
「自家源泉から引いた東堂庵自慢の温泉だ。好きな時にいつでもゆっくり浸かるといい」
「わぁ…贅沢!いいのかなぁ、こんなご褒美…嬉しい…」
「ワッハッハ!いい反応だな」
なんて豪華な露天風呂なんだろう。湯気が立ち登り、絶え間なく湯が流れる音に心がほぐれていく。私ひとりが入るのではもったいない気がして、にわかに邪な感情が胸中を過った。
尽八くんの法被の袖を指でクイと張っぱると、こちらを向いた彼と至近距離で目が合った。
アメジスト色の瞳の中で、ゆらゆらと揺れるお湯が反射して光っている。
「今夜はご実家に帰るんだよね?」
「そのつもりだ」
「この部屋もお風呂も一人だと広いね…。やっぱり一緒に泊まるのはダメ?」
寝室にはベッドも二つ設置されているし、ちょうど二人部屋だ。
私の意味深な問いかけに、彼の喉が鳴る音が聴こえた。
風向きで湯気が頬を掠めたせいか、二人共しばしの沈黙の後に頬が赤く染まる。いや、このタイミングじゃ絶対に湯気のせいじゃない。
眉根を寄せた尽八くんから意志がひしひしと伝わって来るのに、どうしても本人から返事が聞きたかった。
「そうしたいのは山々だが……」
珍しく端切れが悪いまま、彼は口を噤んだ。
今のは私が悪い。一人で宿泊することは、あらかじめ知らされていた事だったのに。
「試すような事言っちゃったね」
自嘲気味に苦笑いを漏らし、顎を胸の方に下げる。それ以上、視線を通わすことは難しかった。そもそも彼の“誕生日前日”なのに、私がここへ招待されている事自体が逆サプライズみたいなものだ。
――『旅館のもてなしや、自慢の温泉を体験して欲しい』
尽八くんは誕生日前日に合わせて随分前からこの部屋を予約してくれていたのだ。そして翌日は、朝から一緒に観光しようと計画を立ててくれた。去年の誕生日は一緒に過ごせなかった分、今年は尽八くんの好きな場所に行こうと提案したら、彼は“箱根巡り”を希望した。箱根町で生まれ育った尽八くんにとって今更珍しい場所なんてほとんどないだろう。私も箱根学園に入学してからこの駅周辺には馴染みがある。それでも『知ってる場所だからこそ一緒に回ってみたい』と、嬉しい理由を告げられた。
風呂のガラス戸を閉じ室内に戻ると、尽八くんは私の方に向き直っって正面から優しく抱きしめた。壊れ物を扱うよう、包み込むみたいに。あたたかい手の平が背中に優しく触れ、不意の抱擁に心臓の鼓動が速くなっていく。くっついた胸から体温を伝播し合う感覚に、熱が昇っていくみたい。
「ここに泊まれるのは客人だけということになっている。温泉も、客人が癒されるために作られた空間だ。俺も三度ほどしか入ったことがない。去年の夏に巻ちゃんと総北のメガネくんを招待して共に入っのだが、それが“恋人”となると俺も一緒にというわけには…やはり、難しいな」
言葉を選びながらも心残りを感じる声色が、耳元に穏やかに響く。私は、ますます紅潮していく顔を隠すように俯いた。
気持ちがいつも以上に高揚して、口を衝いて出た誘いで彼を困らせてしまった。
「それに一緒に泊まったりでもしたら、実家の旅館とは言え、俺は手を出さん自信がない。むしろそんな自信はあったところで男の沽券に関わるが」
「そっか…、そうだよね!ごっ、ごめん」
「謝らなくていい。だが、恋人の前では俺の理性など紙ぺら同然だという事を覚えておいてくれ。お前が吹けば容易く飛ぶものだ」
……紙ぺら?吹く?
何を忠告されてるのかと理解が遅れて目が点になり、意図せず尖らせた唇は『ふ』の形になった。
「そんな風に煽惑してはならんということだ」
「えっ!あ、違うのこれは………や、うん、わかった」
「うむ。……なら、よし」
徐々に腕を解かれると、いつもの尽八くんに戻っていた。
ふっと口角を上げた優しい笑みが向けられ、綺麗な指先が肩まで伸びた私の髪の一束を掬い上げる。一年前の夏、ショートカットにした私の髪はすっかり伸びて、毛先が鎖骨下まで届いていた。愛情が伝わる仕草に、全身にあたたかいものが流れ込んでくるみたい。こんなに大事にされてるなんて、私は幸せ者だ。
言い訳に過ぎないけど――、困らせるような事を言ったのは、脳裏に過ってしまったから。卒業式の数日後、思いがけないタイミングで機会が訪れ、初めて同士で体を重ねた日の事を。
お互い大学生になり東京と茨城での中距離恋愛がはじまってからは、夏休み前までに二度、お泊りデートの日があった。
ここが何処なのかわかってるはずなのに、ほんの一瞬、心の隙間に淡い期待を抱いてしまった。尽八くんの葛藤を考えずに零れてしまった言葉に、自分でも驚いてる。
「もう上がっていいと言われたがキリのいいところまでは手伝いたい。夕方には終わるだろうが、すまんね、待たせてしまうな」
「ううん、大丈夫だよ。なんか、大変な時にお邪魔しちゃったね」
「何を言う。俺が誕生日前に招待したかったんだ。気にするな。それに、忙しいのはうちが繁盛してる証拠だ。心配は要らんよ」
髪からするりと指が離れていき、尽八くんは両手で法被を整えから部屋を後にした。
・・・・・・
付き合うより前から、聞いたことがある話。
実家は温泉旅館で、夏休みは客足が多いため家の手伝いに駆り出されると。特にお盆前後は繁忙期のピークだそうだ。
大学の講義に課題、自転車競技部の活動に寮暮らし――毎日忙しなく過ごす尽八くんは、たまのお盆に帰省してもゆっくりは出来ないらしく、唯一、誕生日当日だけは羽を伸ばせるらしい。小さい頃から家業を手伝っていたみたいだから、慣れたものだと語っていた。改めて、自然と身についたと話す尽八くんの“奉仕の精神”に感心してしまう。
将来はプロのロードレーサー?医療心理学士?どれも似合うけれど、旅館の若旦那もしっくりくる。大人になった尽八くんに着物姿で出迎えられたなら――あまりにも似合いすぎて、想像しただけで再び心拍数が落ち着かないことになりそうだった。
夕食の時間になったら部屋まで迎えに行くから、それまで自由にくつろいでくれ――そう言って尽八くんがフロントの方へ戻って行くのを見送ってから、私は早速、部屋にある露天風呂を楽しむことにした。
洗い場もあるから全てここで済みそうだ。寒い時期じゃないから、屋外の洗い場でも問題ない。ちょうど日が傾いた夕暮れ時、まだ明るいうちから温泉なんて本当に贅沢だ。
髪と体を丁寧に洗って、足先から静かに入り石張りの湯舟に浸かれば全身の力が抜けていった。
「ふぅ……」
途端、ふわふわと極楽気分になる。
静かに瞬きをする度、箱根山が橙に染まった美しい情景が目に飛び込んできた。目に焼付けておきたい程の情景に感動を覚えながら、お湯を両手で掬い上げる。
無色透明のアルカリ性単純温泉。疲労回復をはじめ効能は様々で、美肌効果も期待できそう。しっとり肌に馴染んで、やわらかくて心地いい。尽八くんの自宅のお風呂にも同じ温泉を引いているらしい。美肌の秘訣はやはり温泉なのかな。
そもそも温泉に入ったのなんて人生でも数えるぐらいしかない。春から一人暮らしを始めてからというもの、湯舟にお湯を張らずにシャワーで済ませることがほとんどだった。やっぱり体を温めて心身の疲れを癒すのって大事なんだ。柔道整復師の資格取得を目指して、人体の事を勉強してる身なのに。自分の事はすっかり適当になっていたことに気付く。はぁ、反省点だ…。
ひとしきり温泉を堪能し、水分補給を済ませてから身支度を始めた。
備え付けのドライヤーで髪を乾かし、スキンケアを済ませてから浴衣を羽織れば、自然と背筋が伸びる。浴衣はグレージュの生地に黒の格子柄、濃紺の半纏に臙脂色の帯とシックなデザインだ。
左手側を輪にしてリボン結びで帯を締め、髪を一つに束ねてからヘアクリップでアップした。見慣れない自分の姿を鏡が映し、気持ちが華やぐ。うん、いい感じ。
夕飯までまだ時間があるから、旅館内と敷地内の庭園を散策してみたい。お土産売り場も先にチェックしておきたいし……せっかくの記念に、お揃いで使いたい物があるといいな。そういえば、夏季限定でラムネを配ってるってフロント近くのボードに書いてあったから貰いに行こう。ラウンジの大きな窓からの景色も眺めながら、ラムネを飲んで湯上りのほてりを冷ましたい。
持参した巾着バッグの中に部屋の鍵と財布と携帯を入れて、扉に施錠してひやりとした木造の廊下に出た。
ふと、首を傾けて見渡せば、館内はところどころ修繕の跡を残していた。歴史を語る趣深い魅力があって、初めて訪れるのにどこか懐かしさを憶える。明治時代からたくさんの人を癒して来たのだろう。時折、歩くとギシと鳴る床の音もご愛敬だ。
尽八くんが生まれ育った箱根町。
この旅館にも、彼は幼少期から出入りしているはずだ。どんな子供だったんだろう。きっと黒々とした艶髪も大きな瞳も愛らしくて、よく女の子に間違えられたんじゃないかな。
そんな想像をしながら、彼の大切な“東堂庵”を巡れると思うと嬉しくて仕方がない。胸を躍らせながら歩き出せば、手首にかけた巾着がゆらゆら楽しそうに揺れていた。
-2- ※夢主視点
尽八くんに案内されるまま、直線の廊下をしばらく歩いた先で辿り着いたのは、一人で泊まるには充分な広さの客室だった。
畳と木の香りがする上品な和室。広縁には小さなテーブルと、囲むように二脚の椅子が置いてあり、木枠のガラス窓から敷地内の立派な庭園を眺めることが出来る。美しい新緑の色が目に飛び込み、ふっと張り詰めていた糸が緩み出した。無事にご家族への挨拶を終え、大きなミッションをひとつ完遂させた気分だ。
椅子に腰かけ、長い溜息を漏らすと尽八くんが背中を擦ってくれた。尽八くんのお父さんは温泉協会の集まりに行ってるとのことで、残念ながら今日は会えないかもしれないと行きの車内で話していた。もしかしたら時間帯によっては、お姉さんやお母さんとも会うことが出来なかったかも知れない。タイミングが合って、ご挨拶が出来てよかった。
……よかったけど、緊張した…!
「確かに、逆の立場だったらと思うと緊張するな」
「尽八くんでも?」
「さすがにな」
「あんまり想像出来ないなぁ」
「まぁ、そんな機会が早く訪れる事を願っているよ」
言葉の真意を尋ねる前に、彼は私の髪をにそっと手の平を滑らせていく。心地よさに目を閉じる前に、一緒に部屋の中を回ろうかと手を取られた。浴衣が収納されてる棚から、空気清浄機の使い方、テーブルの上にあった分厚いファイルを広げて館内平面図まで丁寧に説明してくれた。お土産売り場や日中だけ営業しているラウンジ内のカフェ。フロントの上の階には資料館的もあり見学できるらしい。
メインの客室露天風呂は広縁の左側に位置していた。横開きのガラス戸を開けると流れきた湯気が香り、すぐにふわりと散っていった。視線の先には、四角い形の石張りの露天風呂があった。
「自家源泉から引いた東堂庵自慢の温泉だ。好きな時にいつでもゆっくり浸かるといい」
「わぁ…贅沢!いいのかなぁ、こんなご褒美…嬉しい…」
「ワッハッハ!いい反応だな」
なんて豪華な露天風呂なんだろう。湯気が立ち登り、絶え間なく湯が流れる音に心がほぐれていく。私ひとりが入るのではもったいない気がして、にわかに邪な感情が胸中を過った。
尽八くんの法被の袖を指でクイと張っぱると、こちらを向いた彼と至近距離で目が合った。
アメジスト色の瞳の中で、ゆらゆらと揺れるお湯が反射して光っている。
「今夜はご実家に帰るんだよね?」
「そのつもりだ」
「この部屋もお風呂も一人だと広いね…。やっぱり一緒に泊まるのはダメ?」
寝室にはベッドも二つ設置されているし、ちょうど二人部屋だ。
私の意味深な問いかけに、彼の喉が鳴る音が聴こえた。
風向きで湯気が頬を掠めたせいか、二人共しばしの沈黙の後に頬が赤く染まる。いや、このタイミングじゃ絶対に湯気のせいじゃない。
眉根を寄せた尽八くんから意志がひしひしと伝わって来るのに、どうしても本人から返事が聞きたかった。
「そうしたいのは山々だが……」
珍しく端切れが悪いまま、彼は口を噤んだ。
今のは私が悪い。一人で宿泊することは、あらかじめ知らされていた事だったのに。
「試すような事言っちゃったね」
自嘲気味に苦笑いを漏らし、顎を胸の方に下げる。それ以上、視線を通わすことは難しかった。そもそも彼の“誕生日前日”なのに、私がここへ招待されている事自体が逆サプライズみたいなものだ。
――『旅館のもてなしや、自慢の温泉を体験して欲しい』
尽八くんは誕生日前日に合わせて随分前からこの部屋を予約してくれていたのだ。そして翌日は、朝から一緒に観光しようと計画を立ててくれた。去年の誕生日は一緒に過ごせなかった分、今年は尽八くんの好きな場所に行こうと提案したら、彼は“箱根巡り”を希望した。箱根町で生まれ育った尽八くんにとって今更珍しい場所なんてほとんどないだろう。私も箱根学園に入学してからこの駅周辺には馴染みがある。それでも『知ってる場所だからこそ一緒に回ってみたい』と、嬉しい理由を告げられた。
風呂のガラス戸を閉じ室内に戻ると、尽八くんは私の方に向き直っって正面から優しく抱きしめた。壊れ物を扱うよう、包み込むみたいに。あたたかい手の平が背中に優しく触れ、不意の抱擁に心臓の鼓動が速くなっていく。くっついた胸から体温を伝播し合う感覚に、熱が昇っていくみたい。
「ここに泊まれるのは客人だけということになっている。温泉も、客人が癒されるために作られた空間だ。俺も三度ほどしか入ったことがない。去年の夏に巻ちゃんと総北のメガネくんを招待して共に入っのだが、それが“恋人”となると俺も一緒にというわけには…やはり、難しいな」
言葉を選びながらも心残りを感じる声色が、耳元に穏やかに響く。私は、ますます紅潮していく顔を隠すように俯いた。
気持ちがいつも以上に高揚して、口を衝いて出た誘いで彼を困らせてしまった。
「それに一緒に泊まったりでもしたら、実家の旅館とは言え、俺は手を出さん自信がない。むしろそんな自信はあったところで男の沽券に関わるが」
「そっか…、そうだよね!ごっ、ごめん」
「謝らなくていい。だが、恋人の前では俺の理性など紙ぺら同然だという事を覚えておいてくれ。お前が吹けば容易く飛ぶものだ」
……紙ぺら?吹く?
何を忠告されてるのかと理解が遅れて目が点になり、意図せず尖らせた唇は『ふ』の形になった。
「そんな風に煽惑してはならんということだ」
「えっ!あ、違うのこれは………や、うん、わかった」
「うむ。……なら、よし」
徐々に腕を解かれると、いつもの尽八くんに戻っていた。
ふっと口角を上げた優しい笑みが向けられ、綺麗な指先が肩まで伸びた私の髪の一束を掬い上げる。一年前の夏、ショートカットにした私の髪はすっかり伸びて、毛先が鎖骨下まで届いていた。愛情が伝わる仕草に、全身にあたたかいものが流れ込んでくるみたい。こんなに大事にされてるなんて、私は幸せ者だ。
言い訳に過ぎないけど――、困らせるような事を言ったのは、脳裏に過ってしまったから。卒業式の数日後、思いがけないタイミングで機会が訪れ、初めて同士で体を重ねた日の事を。
お互い大学生になり東京と茨城での中距離恋愛がはじまってからは、夏休み前までに二度、お泊りデートの日があった。
ここが何処なのかわかってるはずなのに、ほんの一瞬、心の隙間に淡い期待を抱いてしまった。尽八くんの葛藤を考えずに零れてしまった言葉に、自分でも驚いてる。
「もう上がっていいと言われたがキリのいいところまでは手伝いたい。夕方には終わるだろうが、すまんね、待たせてしまうな」
「ううん、大丈夫だよ。なんか、大変な時にお邪魔しちゃったね」
「何を言う。俺が誕生日前に招待したかったんだ。気にするな。それに、忙しいのはうちが繁盛してる証拠だ。心配は要らんよ」
髪からするりと指が離れていき、尽八くんは両手で法被を整えから部屋を後にした。
・・・・・・
付き合うより前から、聞いたことがある話。
実家は温泉旅館で、夏休みは客足が多いため家の手伝いに駆り出されると。特にお盆前後は繁忙期のピークだそうだ。
大学の講義に課題、自転車競技部の活動に寮暮らし――毎日忙しなく過ごす尽八くんは、たまのお盆に帰省してもゆっくりは出来ないらしく、唯一、誕生日当日だけは羽を伸ばせるらしい。小さい頃から家業を手伝っていたみたいだから、慣れたものだと語っていた。改めて、自然と身についたと話す尽八くんの“奉仕の精神”に感心してしまう。
将来はプロのロードレーサー?医療心理学士?どれも似合うけれど、旅館の若旦那もしっくりくる。大人になった尽八くんに着物姿で出迎えられたなら――あまりにも似合いすぎて、想像しただけで再び心拍数が落ち着かないことになりそうだった。
夕食の時間になったら部屋まで迎えに行くから、それまで自由にくつろいでくれ――そう言って尽八くんがフロントの方へ戻って行くのを見送ってから、私は早速、部屋にある露天風呂を楽しむことにした。
洗い場もあるから全てここで済みそうだ。寒い時期じゃないから、屋外の洗い場でも問題ない。ちょうど日が傾いた夕暮れ時、まだ明るいうちから温泉なんて本当に贅沢だ。
髪と体を丁寧に洗って、足先から静かに入り石張りの湯舟に浸かれば全身の力が抜けていった。
「ふぅ……」
途端、ふわふわと極楽気分になる。
静かに瞬きをする度、箱根山が橙に染まった美しい情景が目に飛び込んできた。目に焼付けておきたい程の情景に感動を覚えながら、お湯を両手で掬い上げる。
無色透明のアルカリ性単純温泉。疲労回復をはじめ効能は様々で、美肌効果も期待できそう。しっとり肌に馴染んで、やわらかくて心地いい。尽八くんの自宅のお風呂にも同じ温泉を引いているらしい。美肌の秘訣はやはり温泉なのかな。
そもそも温泉に入ったのなんて人生でも数えるぐらいしかない。春から一人暮らしを始めてからというもの、湯舟にお湯を張らずにシャワーで済ませることがほとんどだった。やっぱり体を温めて心身の疲れを癒すのって大事なんだ。柔道整復師の資格取得を目指して、人体の事を勉強してる身なのに。自分の事はすっかり適当になっていたことに気付く。はぁ、反省点だ…。
ひとしきり温泉を堪能し、水分補給を済ませてから身支度を始めた。
備え付けのドライヤーで髪を乾かし、スキンケアを済ませてから浴衣を羽織れば、自然と背筋が伸びる。浴衣はグレージュの生地に黒の格子柄、濃紺の半纏に臙脂色の帯とシックなデザインだ。
左手側を輪にしてリボン結びで帯を締め、髪を一つに束ねてからヘアクリップでアップした。見慣れない自分の姿を鏡が映し、気持ちが華やぐ。うん、いい感じ。
夕飯までまだ時間があるから、旅館内と敷地内の庭園を散策してみたい。お土産売り場も先にチェックしておきたいし……せっかくの記念に、お揃いで使いたい物があるといいな。そういえば、夏季限定でラムネを配ってるってフロント近くのボードに書いてあったから貰いに行こう。ラウンジの大きな窓からの景色も眺めながら、ラムネを飲んで湯上りのほてりを冷ましたい。
持参した巾着バッグの中に部屋の鍵と財布と携帯を入れて、扉に施錠してひやりとした木造の廊下に出た。
ふと、首を傾けて見渡せば、館内はところどころ修繕の跡を残していた。歴史を語る趣深い魅力があって、初めて訪れるのにどこか懐かしさを憶える。明治時代からたくさんの人を癒して来たのだろう。時折、歩くとギシと鳴る床の音もご愛敬だ。
尽八くんが生まれ育った箱根町。
この旅館にも、彼は幼少期から出入りしているはずだ。どんな子供だったんだろう。きっと黒々とした艶髪も大きな瞳も愛らしくて、よく女の子に間違えられたんじゃないかな。
そんな想像をしながら、彼の大切な“東堂庵”を巡れると思うと嬉しくて仕方がない。胸を躍らせながら歩き出せば、手首にかけた巾着がゆらゆら楽しそうに揺れていた。