短編・中編
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・8月8日、誕生日前日。東堂庵に泊まる話。
・従業員や、東堂家の母・姉が出てきます。名前捏造。
・4話(最終話)で事後を仄めかす描写が出てきます。
燦然前夜
-1- ※夢主視点
一年に一度の特別な日が、忘れられない時間になりますように。
八月のカレンダーに切り替わった頃、恋人を心に浮かべながらそう願った。当日どころか、前日から“特別”な日が始まるとは、その時は思いもよらなかった。
『海の日』の祝日から始まった夏休みも三週間が過ぎた頃、お盆が目前に迫る八月七日――私は箱根湯本駅にやって来た。
実家のある秦野駅から電車に揺られて四十分。毎日通学で眺めていた車窓からの景色を懐かしみながら、あっという間に到着した。
高校時代、朝の通学では学生やサラリーマンでほどほどに混んでいた車内は、夏休み中ともなると観光客で賑わっていた。
海外からの観光客も多く、様々な国の言語での会話が聴こえてくる。毎日通っていたルートだから慣れ過ぎて時々忘れちゃうけれど、箱根町は有名な観光地だと改めて認識した。
改札を抜け、土産売り場を横目に階段を下りてロータリーを目指す。南中高度の時間帯を過ぎた午後三時前でも、ジリジリと太陽に照らされたアスファルトは鉄板状態。待ち合わせの時間まで余裕があるはずだと思いつつも、心が躍って自然と足早になる。
今日はいつもより荷物が重いから転ばないように、慎重になりながら階段を下りた。小さめのボストンバッグの中には泊まりに必要なスキンケアグッズなど諸々を。手持ちバッグに替わりに使えるトートバッグも中に入っている。地元に戻って来る前に都内で購入した人気の焼き菓子の詰め合わせは、手土産として常温で日持ちするものを選んだ。
ロータリーのバス乗り場から少し離れた場所に停まっている一台の車のすぐ横に、待ち合わせをしているその人は立っていた。
濃紺の作務衣の上に、『東堂庵』と襟字が入った法被を羽織っている。背筋を伸ばし凛とした立ち姿はいつだって美しくて、遠目からでもわかる程。制服だろうがサイクルジャージだろうが、尽八くんの気品は服装などで左右されない。
階段から降りてくる私に気付くと、彼は小走りに駆け寄って来てすぐにボストンバッグを持ってくれた。
「暑い中よく来てくれたな。ようこそ箱根町へ」
「うん、お迎えありがとう。夏休み中だと人がすごいね」
「近頃は海外からの観光客も増えて、夏に限らず通年賑やかになったものだよ」
会話を交わしながら、尽八くんは車の方へと歩き出した。
これから向かう先は彼のご実家の旅館だ。法被も着たままということは、手伝いの途中で抜け出して来てくれたのだろう。
「久しぶり――、でもないか」
「そうだね。数日前にインハイで……」
「後輩達の努力を見届けるつもりで行ったのだがな。正直、ライバル同士の熱い闘いが羨ましくなったよ」
「一度きりの特別な時間だったね」
「…ああ、本当にな」
脳裏に浮かぶ、宇都宮からスタートした三日間の真夏の灼熱のレース――インターハイ。
尽八くんとは別に、私は去年卒業したマネージャー仲間数人で箱学を応援しに行った。三日目、沿道で偶然にも尽八くんに会うことが出来て、少しだけ話をした。『前の晩にかつてのライバルと走ることが叶った』と、彼は満面の笑みで声を弾ませていた。
尽八くんと付き合っている事は周囲に知られていたものの、マネ仲間のもとへ戻った後でアレコレ質問責めにあったりして大変だった。
声を出して全力で応援した。OB達もたくさん応援に駆けつけていた。それでも箱学の総合優勝はあと一歩届かなかった。
報われなかった悔しさ、後輩達への誇らしさ、心の中で色んな感情が一緒くたになって、やっぱりレースの後はみんなで肩を寄せ合って泣いてしまった。
停まっているワゴンに近づくと、尽八くんは後部座席のドアを開けてくれた。
「尽八くん。今日はお世話になります」
「そんなにかしこまらなくていい。俺の希望で来てもらったのだから」
深々と一礼するも、肩を軽く叩いて車に乗るように促される。相変わらず優しい。空いたスペースにボストンバッグを丁寧に置いてから、尽八くんは助手席へ座って運転席の男性に声を掛けた。
「ヨシさん、お待たせしました」
「いえ、全然!」
「琴音。こちらはうちで長年働いてくれている吉野さんだ」
シートベルトを締めながら首を傾け、こちらに振り返る尽八くんと視線が通った後、隣の吉野さんに視線を移した。
白髪交じりの黒髪短髪に肌が小麦色に焼けた、大人の男性だ。目が合ってからお互い会釈をすると、吉野さんは両眉を上げた。
「へぇ、この方が尽八ぼっちゃんの彼女さんですか。どうも、吉野と申します」
「は、はじめまして。汐見琴音です」
「はは、私で緊張してどうするんですか!旅館についたら本丸のお女将さんやお嬢も居るんですよ」
「本丸……」
尽八くんには三つ年の離れたお姉さんがいて、やはりこの時期は旅館の手伝いに来ているらしい。女将さんというのはお母さんのことだろう。
『誕生日の前日にうちの旅館に来て欲しい』と誘われた日から、今日の事を何度も頭の中でシミュレーションしたのに、緊張が走って手の平が汗ばむ。顔色にも出ていたのだろうか、尽八くんが私を見て苦笑していた。
「ヨシさん、そんなに脅かさないで下さい。今日は彼女を客人として招待してるんですよ」
「そうでしたね。すいません。ではお客様、お宿までご案内致します!」
溌剌とした声を合図に、吉野さんはシフトレバーに手をかけた。ゆっくりと車が動き出し、見慣れた駅周辺の景色が車のガラス窓越しに流れていった。
・・・・・・
後部座席で人知れず、肩の強張りや疼く指先を解そうと静かに深呼吸していたのも束の間、三人で会話ををしてるうちにすぐに到着してしまった。申し訳ない事に、多分、私は相槌ぐらいしか打ててなかったと思う。
駐車場の手前の宿入口で下してくれた吉野さんにお礼を告げ、私は迫力のある長い石段を見上げた。
ここが、温泉街から少し脇道に逸れた国道沿い――車を二十分程度走らせた場所にある、明治から続く箱根でも有名な歴史ある老舗旅館『東堂庵』。
「転ばないようにな。この石段は慣れてないと登るのに意外と苦労するんだ。段差も高い」
尽八くんはボストンバッグを肩にかけ直し、先導して石段を登りはじめた。続いて、私もゆっくりと登り始める。明日の観光の予定も考えて、スニーカーを履いて来てよかった。
石段を登り切った先で、深い緑の屋根瓦の重なりと細密な飾り模様を施した妻飾りが印象的な入母屋造りの建物に出迎えられた。
屋根を見上げれば、わぁ…と思わず感嘆の声が漏れた。
尽八くんが入口の木枠のガラスの引き戸を開けると既に、艶めいた黒髪を後ろでまとめ上げ、淡い色の着物姿の二人の美しい女性が立って待っていた。目が合うと「いらっしゃいませ」と、凛とした声と同時にお辞儀された。
白い肌、切れ長の瞳に高い鼻筋、わずかに吊り上がった眉の形――これは、想像以上に似てる……!紹介されるより早く察した。尽八くんのお母さんとお姉さんだ。
すぐ隣に尽八くんも並んでるので、似てるなぁと見比べてるうちに、眩いばかりの“美”で視界がいっぱいになった。
「はじめまして、汐見琴音です。今日はお招き頂きありがとうございます」
煌めきに気圧されつつも一礼すると、尽八くんのお姉さんはすぐ側まで近づいて私の顔を覗き込んだ。至近距離でも肌が白くきめ細かいことが分かる。黒々とした睫毛も長く、女優のような顔立ちだ。
「かわいいっ!」
開口一番、大きな声が空気を振動させた。聞き間違えではないぐらいハッキリ聞こえたのだが、私は目が丸くした。口がポカンと開き、すぐに返事することが出来なかった。
「尽八、こんな可愛い子が彼女だなんて幸せ者ね」
「いえ、そんな…恐縮です」
「うむ。俺は一生の運を使い果たしたかも知れんな」
「じっ、尽八くんまで何言ってるの…!それは言い過ぎ!」
取り乱しながらも尽八くんを嗜めると、お姉さんは一歩下がって浮かない顔を見せた後、再び丁寧にお辞儀をした。
「ごめんなさい。思わず近づいてしまって…、失礼致しました。尽八の姉の八重と申します。愚弟がいつもお世話になっております」
「愚弟……何度聞いても慣れない謙譲語だ」
「あの、尽八くんはいつもしっかりしてて頼り甲斐があるので、私の方がご迷惑ばかりを…」
「しっかりしてるかしら?ふふ、志望校をギリギリで変えたりしてませんでした?」
「八重姉さん、それは理由があると何度も――」
お姉さんと尽八くんのやりとりが一層ヒートアップしていく最中、柔らかく笑う上品な声に振り向けば、彼のお母さんが楽しそうに微笑んでいた。
「はじめまして、尽八の母です。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう」
「こちらこそ…!いつも親切にして頂いてます」
「琴音さん、会いたかったわぁ」
「――え?」
両手を合わせ目を見開いて、数回の瞬き。
花が咲いたような明るい表情は、ふとした時に見せる尽八くんの面持ちと重なった。
「去年から尽八の浮ついた様子が目につく度に、特別な子でも出来たのかしらなんて思ってたの。クリスマスやバレンタイン前もそわそわが隠しきれてなくてね。本人は隠してたつもりなのでしょうけど。そしたら卒業式の日、制服のネクタイがリボン紐になってて、これは決定打だわぁって――」
「母さん、その話はできれば胸の内に仕舞っておいて欲しいのだが……」
「ふふ、そうね。今日が答え合わせになったものね」
眉間に皺を寄せて顔を赤らめながらの彼の抗議も意に介さず、尽八くんのお母さんは私の両手をそっと包むように握った。
「琴音さん、これからも尽八と仲良くしてやってくださいね」
目を細めて優しい笑顔を向けられた途端、目の奥が熱くなった。初対面なのに受け入れて貰えて、喜びと安堵で力がふっと抜けていく。はい、と、か細い声で返事をするのが精一杯だった。
・従業員や、東堂家の母・姉が出てきます。名前捏造。
・4話(最終話)で事後を仄めかす描写が出てきます。
燦然前夜
-1- ※夢主視点
一年に一度の特別な日が、忘れられない時間になりますように。
八月のカレンダーに切り替わった頃、恋人を心に浮かべながらそう願った。当日どころか、前日から“特別”な日が始まるとは、その時は思いもよらなかった。
『海の日』の祝日から始まった夏休みも三週間が過ぎた頃、お盆が目前に迫る八月七日――私は箱根湯本駅にやって来た。
実家のある秦野駅から電車に揺られて四十分。毎日通学で眺めていた車窓からの景色を懐かしみながら、あっという間に到着した。
高校時代、朝の通学では学生やサラリーマンでほどほどに混んでいた車内は、夏休み中ともなると観光客で賑わっていた。
海外からの観光客も多く、様々な国の言語での会話が聴こえてくる。毎日通っていたルートだから慣れ過ぎて時々忘れちゃうけれど、箱根町は有名な観光地だと改めて認識した。
改札を抜け、土産売り場を横目に階段を下りてロータリーを目指す。南中高度の時間帯を過ぎた午後三時前でも、ジリジリと太陽に照らされたアスファルトは鉄板状態。待ち合わせの時間まで余裕があるはずだと思いつつも、心が躍って自然と足早になる。
今日はいつもより荷物が重いから転ばないように、慎重になりながら階段を下りた。小さめのボストンバッグの中には泊まりに必要なスキンケアグッズなど諸々を。手持ちバッグに替わりに使えるトートバッグも中に入っている。地元に戻って来る前に都内で購入した人気の焼き菓子の詰め合わせは、手土産として常温で日持ちするものを選んだ。
ロータリーのバス乗り場から少し離れた場所に停まっている一台の車のすぐ横に、待ち合わせをしているその人は立っていた。
濃紺の作務衣の上に、『東堂庵』と襟字が入った法被を羽織っている。背筋を伸ばし凛とした立ち姿はいつだって美しくて、遠目からでもわかる程。制服だろうがサイクルジャージだろうが、尽八くんの気品は服装などで左右されない。
階段から降りてくる私に気付くと、彼は小走りに駆け寄って来てすぐにボストンバッグを持ってくれた。
「暑い中よく来てくれたな。ようこそ箱根町へ」
「うん、お迎えありがとう。夏休み中だと人がすごいね」
「近頃は海外からの観光客も増えて、夏に限らず通年賑やかになったものだよ」
会話を交わしながら、尽八くんは車の方へと歩き出した。
これから向かう先は彼のご実家の旅館だ。法被も着たままということは、手伝いの途中で抜け出して来てくれたのだろう。
「久しぶり――、でもないか」
「そうだね。数日前にインハイで……」
「後輩達の努力を見届けるつもりで行ったのだがな。正直、ライバル同士の熱い闘いが羨ましくなったよ」
「一度きりの特別な時間だったね」
「…ああ、本当にな」
脳裏に浮かぶ、宇都宮からスタートした三日間の真夏の灼熱のレース――インターハイ。
尽八くんとは別に、私は去年卒業したマネージャー仲間数人で箱学を応援しに行った。三日目、沿道で偶然にも尽八くんに会うことが出来て、少しだけ話をした。『前の晩にかつてのライバルと走ることが叶った』と、彼は満面の笑みで声を弾ませていた。
尽八くんと付き合っている事は周囲に知られていたものの、マネ仲間のもとへ戻った後でアレコレ質問責めにあったりして大変だった。
声を出して全力で応援した。OB達もたくさん応援に駆けつけていた。それでも箱学の総合優勝はあと一歩届かなかった。
報われなかった悔しさ、後輩達への誇らしさ、心の中で色んな感情が一緒くたになって、やっぱりレースの後はみんなで肩を寄せ合って泣いてしまった。
停まっているワゴンに近づくと、尽八くんは後部座席のドアを開けてくれた。
「尽八くん。今日はお世話になります」
「そんなにかしこまらなくていい。俺の希望で来てもらったのだから」
深々と一礼するも、肩を軽く叩いて車に乗るように促される。相変わらず優しい。空いたスペースにボストンバッグを丁寧に置いてから、尽八くんは助手席へ座って運転席の男性に声を掛けた。
「ヨシさん、お待たせしました」
「いえ、全然!」
「琴音。こちらはうちで長年働いてくれている吉野さんだ」
シートベルトを締めながら首を傾け、こちらに振り返る尽八くんと視線が通った後、隣の吉野さんに視線を移した。
白髪交じりの黒髪短髪に肌が小麦色に焼けた、大人の男性だ。目が合ってからお互い会釈をすると、吉野さんは両眉を上げた。
「へぇ、この方が尽八ぼっちゃんの彼女さんですか。どうも、吉野と申します」
「は、はじめまして。汐見琴音です」
「はは、私で緊張してどうするんですか!旅館についたら本丸のお女将さんやお嬢も居るんですよ」
「本丸……」
尽八くんには三つ年の離れたお姉さんがいて、やはりこの時期は旅館の手伝いに来ているらしい。女将さんというのはお母さんのことだろう。
『誕生日の前日にうちの旅館に来て欲しい』と誘われた日から、今日の事を何度も頭の中でシミュレーションしたのに、緊張が走って手の平が汗ばむ。顔色にも出ていたのだろうか、尽八くんが私を見て苦笑していた。
「ヨシさん、そんなに脅かさないで下さい。今日は彼女を客人として招待してるんですよ」
「そうでしたね。すいません。ではお客様、お宿までご案内致します!」
溌剌とした声を合図に、吉野さんはシフトレバーに手をかけた。ゆっくりと車が動き出し、見慣れた駅周辺の景色が車のガラス窓越しに流れていった。
・・・・・・
後部座席で人知れず、肩の強張りや疼く指先を解そうと静かに深呼吸していたのも束の間、三人で会話ををしてるうちにすぐに到着してしまった。申し訳ない事に、多分、私は相槌ぐらいしか打ててなかったと思う。
駐車場の手前の宿入口で下してくれた吉野さんにお礼を告げ、私は迫力のある長い石段を見上げた。
ここが、温泉街から少し脇道に逸れた国道沿い――車を二十分程度走らせた場所にある、明治から続く箱根でも有名な歴史ある老舗旅館『東堂庵』。
「転ばないようにな。この石段は慣れてないと登るのに意外と苦労するんだ。段差も高い」
尽八くんはボストンバッグを肩にかけ直し、先導して石段を登りはじめた。続いて、私もゆっくりと登り始める。明日の観光の予定も考えて、スニーカーを履いて来てよかった。
石段を登り切った先で、深い緑の屋根瓦の重なりと細密な飾り模様を施した妻飾りが印象的な入母屋造りの建物に出迎えられた。
屋根を見上げれば、わぁ…と思わず感嘆の声が漏れた。
尽八くんが入口の木枠のガラスの引き戸を開けると既に、艶めいた黒髪を後ろでまとめ上げ、淡い色の着物姿の二人の美しい女性が立って待っていた。目が合うと「いらっしゃいませ」と、凛とした声と同時にお辞儀された。
白い肌、切れ長の瞳に高い鼻筋、わずかに吊り上がった眉の形――これは、想像以上に似てる……!紹介されるより早く察した。尽八くんのお母さんとお姉さんだ。
すぐ隣に尽八くんも並んでるので、似てるなぁと見比べてるうちに、眩いばかりの“美”で視界がいっぱいになった。
「はじめまして、汐見琴音です。今日はお招き頂きありがとうございます」
煌めきに気圧されつつも一礼すると、尽八くんのお姉さんはすぐ側まで近づいて私の顔を覗き込んだ。至近距離でも肌が白くきめ細かいことが分かる。黒々とした睫毛も長く、女優のような顔立ちだ。
「かわいいっ!」
開口一番、大きな声が空気を振動させた。聞き間違えではないぐらいハッキリ聞こえたのだが、私は目が丸くした。口がポカンと開き、すぐに返事することが出来なかった。
「尽八、こんな可愛い子が彼女だなんて幸せ者ね」
「いえ、そんな…恐縮です」
「うむ。俺は一生の運を使い果たしたかも知れんな」
「じっ、尽八くんまで何言ってるの…!それは言い過ぎ!」
取り乱しながらも尽八くんを嗜めると、お姉さんは一歩下がって浮かない顔を見せた後、再び丁寧にお辞儀をした。
「ごめんなさい。思わず近づいてしまって…、失礼致しました。尽八の姉の八重と申します。愚弟がいつもお世話になっております」
「愚弟……何度聞いても慣れない謙譲語だ」
「あの、尽八くんはいつもしっかりしてて頼り甲斐があるので、私の方がご迷惑ばかりを…」
「しっかりしてるかしら?ふふ、志望校をギリギリで変えたりしてませんでした?」
「八重姉さん、それは理由があると何度も――」
お姉さんと尽八くんのやりとりが一層ヒートアップしていく最中、柔らかく笑う上品な声に振り向けば、彼のお母さんが楽しそうに微笑んでいた。
「はじめまして、尽八の母です。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう」
「こちらこそ…!いつも親切にして頂いてます」
「琴音さん、会いたかったわぁ」
「――え?」
両手を合わせ目を見開いて、数回の瞬き。
花が咲いたような明るい表情は、ふとした時に見せる尽八くんの面持ちと重なった。
「去年から尽八の浮ついた様子が目につく度に、特別な子でも出来たのかしらなんて思ってたの。クリスマスやバレンタイン前もそわそわが隠しきれてなくてね。本人は隠してたつもりなのでしょうけど。そしたら卒業式の日、制服のネクタイがリボン紐になってて、これは決定打だわぁって――」
「母さん、その話はできれば胸の内に仕舞っておいて欲しいのだが……」
「ふふ、そうね。今日が答え合わせになったものね」
眉間に皺を寄せて顔を赤らめながらの彼の抗議も意に介さず、尽八くんのお母さんは私の両手をそっと包むように握った。
「琴音さん、これからも尽八と仲良くしてやってくださいね」
目を細めて優しい笑顔を向けられた途端、目の奥が熱くなった。初対面なのに受け入れて貰えて、喜びと安堵で力がふっと抜けていく。はい、と、か細い声で返事をするのが精一杯だった。