短編・中編
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グッバイ・マイ・サマー
-2- ※夢主視点
連日の夏日、ジリジリ照り付けアスファルトに反射する太陽の熱さは、時に判断力を鈍らせる。溢れる感情のコントロールなら、尚更言うことを聞かないだろう。眩しい日差し、セミの鳴き声、遠くで揺らめく地面の上の陽炎、そのどれもが体温を一段と高くさせた。
日傘を差して、なるべく日影に逃げ込むように歩いた二十分後、辿り着いた立派な一軒家はモデルハウスのようにオシャレなおうち。総北高校がインターハイを優勝した翌日、直接おめでとうを言いたくて、私がやって来たのは裕ちゃんのご実家だった。
前の日の夕方、お祝いのメッセージと共に、少しだけでも会いに行きたいと伝えたら、疲れているにも関わらず裕ちゃんは了解してくれた。
さすがにあのハードなレースの後…ゆっくり休んでいるはずだ。
インターホンを押して数秒後、玄関を開けたおばさまに案内されて私は裕ちゃんの部屋に通された。一人部屋にしては広々として、物がキチンと片付けられている部屋で、案の定、疲労でぐったりとした様子を見せ、椅子に腰掛けながらアイスを食べていた裕ちゃんと目が合った。間もなく、グラスに注がれた冷たいソーダをおばさまが持って来てくれて、静かに扉が閉じられた後のこと。
“優勝おめでとう”――私の一言を皮切りに、ぽつりぽつりと会話をし、何だか二人で話すの久々だなぁなんて懐かしい気持ちになった。観に行ったんだよ、とか、カッコよかったよ、とか正直に伝えたら、裕ちゃんはテキトーな相槌を打って目を逸らした。素っ気ないように見えるが口元が緩んでいるのは隠せてない。
それから主にインターハイの話題で何度か会話のキャッチボールを繰り返した後、嫌じゃない沈黙が訪れる。
――刹那、沸々と湧き上がる抑えていた想いが喉で止まらず、意図せず零れた言葉と同時に、グラスの中の氷がカランと鳴った。
「ずっと好きだったの」
目だけ大きく見開いて裕ちゃんは驚いていた。何の脈絡もなく声に出て、相手の耳に届いてしまったからには取り返しがつかない。じわじわと顔に熱が登ってきて、きっと頬が真っ赤だ。冗談だよと誤魔化すのは難しい。口を引き結んで視線を足元へ向ける。本当は伝えるつもりなんてなかったのに、感情任せに出た告白。好きなのは本当だけど、伝えるシーンはこのタイミングじゃない。そもそも伝えるかどうかも迷っていた。これは、暑さのせいだと言い訳したい。
「…そりゃ、想定してなかったっショ」
裕ちゃんは手を伸ばしてラグの上に座る私の頭の上に手を置いた。ぽんぽんと、長い指に優しく撫でられる。
「その言葉、そっくりそのまま返してもいいかァ?」
目を丸くして顔を上げて裕ちゃんを見れば、ニヤリと笑って人差し指で鼻先をこすっていた。照れた時の仕草だ。瞳が一瞬で涙の膜を張り、ジンとして視界が滲む。同じ気持ちだったなんて夢みたいに嬉しい。裕ちゃんはずっと、私がお兄さんのレンくんのことが好きなんじゃないかと勘違いしていたらしい。私は私で、妹みたいに接するから恋愛対象から外れてるものかと思っていた。
どうやら不器用同士、すれ違いが起きていたらしい。
9月になったら、裕ちゃんはイギリスに旅立つ。
大学に通いながら、レンくんのサポートをしつつ二人で生活する。これは以前からわかっていたこと。告白して両想いになったとしても、その先の時間を一緒に過ごしたいという願いは叶わない。
だけど、気持ちが通じ合ったこの瞬間だけは悲観しない。悲観したくない。顔を見合わせて照れくさそうに笑い合う。切り取られたような幸せなワンシーンにしたかった。
□ □ □
思えば、咄嗟に『好き』が零れたのも、離れ離れになることが分かっていたからだろう。“ここで伝えないと、もう伝えるチャンスがない”って、本能的に理解していた。
イギリスへ出発する日まであと一週間を切った頃、二人で買い出しに出かけた。帰りの電車内が満員で、身体が密着する最中に『傍に居てやれなくて悪いなァ』と裕ちゃんは私に謝った。私から告白したことが重荷になったんじゃないかって心配したら、『嬉しかった』と言ってくれて心が救われた。
日本にいる残された時間、もっと一緒に過ごしたかった。叶わないとわかりつつも胸中で願ってしまう。
裕ちゃんは荷物をまとめたり引っ越しの準備をしながら、単位取得を前倒しで終わらせるために図書館にも通っていた。空いた時間にカフェで待ち合わせしてお茶するか、夜寝る前に電話するとか、それぐらいしか共に過ごせる時間がなかった。
残ったのは、満員電車の中で抱きしめるように私の体を支えた裕ちゃんの手の体温と、骨ばった手に包まれた感触だけ――っていうのは、これから遠距離恋愛になる恋人への触れ合いとしてはやや心許ない。
だから出発の日、お見送りの時に勇気を出して裕ちゃんの口元のホクロに唇を寄せた。子供みたいなキスは、今の私からの精一杯だった。きっと唇同士が触れていたなら、泣いて駄々をこねて引き止めて困らせていたと思う。
□ □ □
裕ちゃんがイギリスに旅立った日からわかりやすく気落ちしていた私を、両親は小旅行へと連れ出した。
季節問わず忙しく働く庭師の父の休みは不定期だから、家族旅行なんて久しぶりだった。“仕事仲間の伝手で少しお得に泊まれるんだ”と、機嫌良く父が予約したのは、まだオープンして間もない箱根の大きなホテル。定番の観光地をぐるりと巡ってから、夕方頃にチェックインする予定だ。
大涌谷で景色を眺めながら黒たまごを食べ、彫刻の森でアートに触れながら、パワースポット箱根神社でお参りをしてお守りを買った。旅行に行こうと誘われた時はあまり乗り気じゃなかったけれど、両親は楽しそうにしているし、一人で家で落ち込んでいるよりは精神的にもいい過ごし方だ。せっかくの旅行、楽しまないとは思うけど思い出さずにはいられない。空を仰げば広がる9月の入道雲。今、裕ちゃんはどんな青色を見上げてるんだろう。遠く遥か彼方の空は、イギリスまで繋がってる。
ホテルに向かう前に箱根の山道をドライブしようと、父の運転でインターハイロードレースの道を辿って走った。ほんの少し前の夏、この場所は手に汗握る白熱の戦いに空気が震えていた。
国道1号最高地点を通った時、『裕介くんが箱学の選手と勝負してた道だな』と父が話しはじめた。
独特のフォームで地面を削りながらロードで登る車輪の音、湧き上がる歓声、沿道からの声援、どこまでも澄み渡る夏空――随分前のことのように感じる。夕暮れの橙がミラーに反射して、私は目を細めながら相槌を打った。目に焼き付いてる滾るようなレースの光景。あの時、どんな気持ちだったの?もっとたくさん、インハイやライバルの話も聞かせて欲しかったな。今ここに裕ちゃんも居てくれたらよかったのに。言葉にしたら余計に寂しくなりそうだけど、吐き出せたら楽になる気もする。もどかしさは消えないまま、山道を走る車の窓から、青々とした景色を眺めていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
フロントでチェックイン手続きを済ませた両親は、部屋へ行く前にラウンジに併設されたカフェで一休みしようとソファに腰掛けていた。まだオープンして間もホテルは、新しい建物の独特の香りがする。その間、私はホテル周辺の庭園の散歩でもしようと、二人にことわってからロビーから続くテラスを通って庭園に出た。両親はコーヒーを片手に、手を振って私を見送っている。私を元気づけようと今回の旅を企画してくれたのかなと思うと、両親の優しさがありがたい。
自然の渓谷を活かした広い庭園に、涼やかな音が響いている。湿気を含んだ夕方の風も、ここにいると随分涼しい。ホテルも立派だけれど、お庭も本格的だ。景観を損なわないように細やかな手入れはしっかりとされているし、ライトアップの為の間接照明も点々と設置してあった。音のヒーリング効果もある。父親の造園業の手伝いを時々するようになってから、一つとして同じものはない“庭”の美しさが、前よりも魅力的に目に映る。
肩の力を抜き、流れる水音に耳を澄ませながらベンチに座ると、ふと見た事ある人物が目の前を横切った。
Tシャツにクロップドパンツ…と随分ラフな格好の、カチューシャで前髪をまとめてる、美形。顔のいい人ってシンプルな服装で余計に美しさが際立っちゃうんだよねーと、羨ましくなりつつ心の中で呟けば、“記憶してるとある人物”と重なった。
「……あ、箱学の東堂くん」
気付けば声に出ており、彼は足を止めてこちらを一瞥した。視線を交わし会釈すると、ずいと近づいて来たので座りながらも反射的に後ずさる。
「俺のことを知ってるとは、さてはファンか!?どこから来たんだ?」
「ち、千葉から…」
「ほう、ついに俺の人気は県を越えてしまったな」
このままファンという設定で話が進んでしまいそうなので、首を横に振って否定させてもらった。
「えーと、…ファンではないです」
「なんだ、違うのか」
残念そうに眉間に皺を寄せ、少しだけ唇を尖らせた表情があどけない。裕ちゃんから聞いていた、“いつでも自信たっぷりでおしゃべりな奴”――その印象とは一致する。
「インターハイ一日目で、裕ちゃんと山岳賞を競っていた選手ですよね」
「ああ、その通りだが………“裕ちゃん”?キミはもしかして、巻ちゃんの――」
「幼馴染…あ、今は彼女の、汐見琴音といいます」
ベンチから立ち上がって深々とお辞儀をすれば、今度は東堂くんが後ずさっていた。一体、何に驚いたのだろう?私が“彼女”だと名乗ったことにだろうか?確かに裕ちゃんは笑顔がちょっとコワイけど、よくよく見ると愛嬌あるし、優しいし。別に彼女が居たって意外じゃないはずなのに。
「ま――、巻ちゃんにカノジョ!?」
こちらが話しかける前に、東堂くんは声を張り上げた。透き通るキレイな声が庭園内に反響した。
「俺というライバルがありながら!しかも幼馴染だと!?そんなドラマみたいな展開が現実にあるとは羨ましすぎる…!」
「…はい?」
東堂くんの取り乱しっぷりとおかしな台詞に、意図せず素っ頓狂な声が出てしまった。
「否!俺たちはロードが恋人だろ!俺の知らないところでちゃっかり青春していたなんてずりーぞ巻ちゃん!」
「あ、あの、付き合ってすぐ裕ちゃんはイギリス行っちゃったんで、東堂くんが想像してるような青春はそこまでしてないです」
「そうなのか!?」
「付き合いはじめたのもインターハイの後ですし、彼女らしいことは全然……、できないうちに遠くに行っちゃたから……寂しいなぁって……」
最後の方はもう独り言だった。徐々に小声になり、渓谷の音に混ざって消える。ふう、と息をつくと、東堂くんはベンチに座るように促し、彼も隣のベンチに腰掛けた。
「それは……、辛いことだな。恋人にこんな顔をさせるとは、まったく罪な男だ」
先ほどの慌てようが嘘みたいに、彼は静かな眼差しを向けている。
ゆっくりと腰を下ろしながらも、目を逸らすことが出来なかった。
「俺も、いつでも勝負できるライバルが近くにいないというのは寂しいよ」
「…そう、ですよね」
「だが、マイナスな気持ちは糧にしてこそだ。次に会った時にうんと成長した姿を見せて、逞しくなって驚かせてやるのもいいだろう。やりたいことを見つけて熱中してれば、時間などあっという間に過ぎてしまうものだよ」
夕日が沈み、橙から群青へと空がグラデーションに彩る頃、間接照明がオートセンサーによって点灯した。東堂くんの照らされた横顔は、さすがというか、女子ファンが多く居るのも納得の美しさだった。インターハイ、沿道にもたくさん女子から黄色い歓声を浴びていたこと思い出す。
『ヒルクライムレースでよく会う、うるせーのがいるんだわ』、と、毒づきながらもどこか嬉しそうに、裕ちゃんは珍しくライバルの――東堂くんの話を聞かせてくれたことがある。会える距離なら何度でも勝負できるのに、それが叶わない彼もまた、裕ちゃんを恋しく思う内の一人なんだと思う。形は違っても、想いの丈は変わらない。
「さすが、東堂くんですね。励ましの言葉が身に染みます」
「ワッハッハ!俺は山神だからな、ついつい格言が出てしまうな!…っと、自慢したいところだが、少し前に俺も巻ちゃんからイギリス行きを聞かされた時には、だいぶ打ちのめされたものだ」
「…そうなんですか?」
「ああ、先月直接聞いて…それまでは都内の大学へ行くのかと思っていたからな。同じチームメイトになることを夢見て志望校まで合わせていたのに、肩透かしをくらった気分だったよ」
「そんなギリギリの時期に…裕ちゃんてば…」
「巻ちゃんらしいよ。だが、俺は転んでもただじゃ起きないし、諦めるつもりもない。――君はどうだ?」
その笑みはどこか寂し気。しかし、瞳の輝きは消えず未来を見据えているよう。東堂くんに鼓舞されて、膝の上で握りしめている拳に力を込めた。やりたいことを見つけて、打ち込んで、中身も成長して――裕ちゃんに会いに行きたい。例え、どれだけ遠く離れていても。
『私もです』と、真っ直ぐに返事をして頷いた様子を見て、東堂くんはふっと安堵の息を漏らしていた。
・・・・・・
東堂くんが箱根のホテルの庭園を歩いていた理由は、ご家族から頼まれた用事を済ませる為だったそうだ。
彼の実家は箱根町の老舗旅館。温泉協会から依頼された資料を渡しに行ったその帰りで、気分転換に庭園を見てから戻ろうと歩いていた際に私に話しかけられた、と。こんな偶然もあるもんだなぁと思うけど、これも裕ちゃんが繋げてくれた不思議な縁だ。
「次会う時は俺の実家の東堂庵で、だな。巻ちゃんが日本に一時帰国する時でにも一緒に泊まりに来るといい。最高のもてなしをしよう」
「はい、楽しみにしてますね」
裕ちゃん、東堂くんに『邪魔すんなショ』とか文句言いそうだなぁって想像したら、思わず笑いが漏れそうになった。
「だが、俺にも少しばかり貸してくれよ?一緒に走りたくて我慢ならんからな」
「もちろんです!裕ちゃんも、東堂くんと走りたいと思いますよ」
口角を上げて微笑む東堂くんに、私も笑顔を向けた。二人の特別なレースを間近で見守ることができたら、幸せだろうな。すぐじゃなくても実現しそうな気になってくる。これが東堂くんの山神パワーなのかも知れない。
今日は――気分転換にと、旅行に連れて来てもらってよかった。神社以上に運気が上がりそうな人物に偶然会えるなんて。裕ちゃんへの手紙にも書いてみようか?メールしてみようか?と迷ったけれど、会った時に直接話すことにする。他の返事はよこさないのに、東堂くんが絡む内容だけすぐ返信が来たら妬けちゃうから。
東堂くん、人を励ますのが上手い人だ。そして、裕ちゃんが日本に居ないことへの……胸にぽっかりと穴が開いた気持ちを、共有できる人に会えてよかった。自分でも『寂しい』と言葉にできたことで心が楽になり、ロビーまで戻る足取りは軽かった。
夜、露天風呂から夜空を眺めれば、私は再び裕ちゃんに想いを馳せるだろう。そこにはもう、必要以上の寂しさも切なさもいらない。これからは募る愛おしさだけ、心に留めておくことにする。
-2- ※夢主視点
連日の夏日、ジリジリ照り付けアスファルトに反射する太陽の熱さは、時に判断力を鈍らせる。溢れる感情のコントロールなら、尚更言うことを聞かないだろう。眩しい日差し、セミの鳴き声、遠くで揺らめく地面の上の陽炎、そのどれもが体温を一段と高くさせた。
日傘を差して、なるべく日影に逃げ込むように歩いた二十分後、辿り着いた立派な一軒家はモデルハウスのようにオシャレなおうち。総北高校がインターハイを優勝した翌日、直接おめでとうを言いたくて、私がやって来たのは裕ちゃんのご実家だった。
前の日の夕方、お祝いのメッセージと共に、少しだけでも会いに行きたいと伝えたら、疲れているにも関わらず裕ちゃんは了解してくれた。
さすがにあのハードなレースの後…ゆっくり休んでいるはずだ。
インターホンを押して数秒後、玄関を開けたおばさまに案内されて私は裕ちゃんの部屋に通された。一人部屋にしては広々として、物がキチンと片付けられている部屋で、案の定、疲労でぐったりとした様子を見せ、椅子に腰掛けながらアイスを食べていた裕ちゃんと目が合った。間もなく、グラスに注がれた冷たいソーダをおばさまが持って来てくれて、静かに扉が閉じられた後のこと。
“優勝おめでとう”――私の一言を皮切りに、ぽつりぽつりと会話をし、何だか二人で話すの久々だなぁなんて懐かしい気持ちになった。観に行ったんだよ、とか、カッコよかったよ、とか正直に伝えたら、裕ちゃんはテキトーな相槌を打って目を逸らした。素っ気ないように見えるが口元が緩んでいるのは隠せてない。
それから主にインターハイの話題で何度か会話のキャッチボールを繰り返した後、嫌じゃない沈黙が訪れる。
――刹那、沸々と湧き上がる抑えていた想いが喉で止まらず、意図せず零れた言葉と同時に、グラスの中の氷がカランと鳴った。
「ずっと好きだったの」
目だけ大きく見開いて裕ちゃんは驚いていた。何の脈絡もなく声に出て、相手の耳に届いてしまったからには取り返しがつかない。じわじわと顔に熱が登ってきて、きっと頬が真っ赤だ。冗談だよと誤魔化すのは難しい。口を引き結んで視線を足元へ向ける。本当は伝えるつもりなんてなかったのに、感情任せに出た告白。好きなのは本当だけど、伝えるシーンはこのタイミングじゃない。そもそも伝えるかどうかも迷っていた。これは、暑さのせいだと言い訳したい。
「…そりゃ、想定してなかったっショ」
裕ちゃんは手を伸ばしてラグの上に座る私の頭の上に手を置いた。ぽんぽんと、長い指に優しく撫でられる。
「その言葉、そっくりそのまま返してもいいかァ?」
目を丸くして顔を上げて裕ちゃんを見れば、ニヤリと笑って人差し指で鼻先をこすっていた。照れた時の仕草だ。瞳が一瞬で涙の膜を張り、ジンとして視界が滲む。同じ気持ちだったなんて夢みたいに嬉しい。裕ちゃんはずっと、私がお兄さんのレンくんのことが好きなんじゃないかと勘違いしていたらしい。私は私で、妹みたいに接するから恋愛対象から外れてるものかと思っていた。
どうやら不器用同士、すれ違いが起きていたらしい。
9月になったら、裕ちゃんはイギリスに旅立つ。
大学に通いながら、レンくんのサポートをしつつ二人で生活する。これは以前からわかっていたこと。告白して両想いになったとしても、その先の時間を一緒に過ごしたいという願いは叶わない。
だけど、気持ちが通じ合ったこの瞬間だけは悲観しない。悲観したくない。顔を見合わせて照れくさそうに笑い合う。切り取られたような幸せなワンシーンにしたかった。
□ □ □
思えば、咄嗟に『好き』が零れたのも、離れ離れになることが分かっていたからだろう。“ここで伝えないと、もう伝えるチャンスがない”って、本能的に理解していた。
イギリスへ出発する日まであと一週間を切った頃、二人で買い出しに出かけた。帰りの電車内が満員で、身体が密着する最中に『傍に居てやれなくて悪いなァ』と裕ちゃんは私に謝った。私から告白したことが重荷になったんじゃないかって心配したら、『嬉しかった』と言ってくれて心が救われた。
日本にいる残された時間、もっと一緒に過ごしたかった。叶わないとわかりつつも胸中で願ってしまう。
裕ちゃんは荷物をまとめたり引っ越しの準備をしながら、単位取得を前倒しで終わらせるために図書館にも通っていた。空いた時間にカフェで待ち合わせしてお茶するか、夜寝る前に電話するとか、それぐらいしか共に過ごせる時間がなかった。
残ったのは、満員電車の中で抱きしめるように私の体を支えた裕ちゃんの手の体温と、骨ばった手に包まれた感触だけ――っていうのは、これから遠距離恋愛になる恋人への触れ合いとしてはやや心許ない。
だから出発の日、お見送りの時に勇気を出して裕ちゃんの口元のホクロに唇を寄せた。子供みたいなキスは、今の私からの精一杯だった。きっと唇同士が触れていたなら、泣いて駄々をこねて引き止めて困らせていたと思う。
□ □ □
裕ちゃんがイギリスに旅立った日からわかりやすく気落ちしていた私を、両親は小旅行へと連れ出した。
季節問わず忙しく働く庭師の父の休みは不定期だから、家族旅行なんて久しぶりだった。“仕事仲間の伝手で少しお得に泊まれるんだ”と、機嫌良く父が予約したのは、まだオープンして間もない箱根の大きなホテル。定番の観光地をぐるりと巡ってから、夕方頃にチェックインする予定だ。
大涌谷で景色を眺めながら黒たまごを食べ、彫刻の森でアートに触れながら、パワースポット箱根神社でお参りをしてお守りを買った。旅行に行こうと誘われた時はあまり乗り気じゃなかったけれど、両親は楽しそうにしているし、一人で家で落ち込んでいるよりは精神的にもいい過ごし方だ。せっかくの旅行、楽しまないとは思うけど思い出さずにはいられない。空を仰げば広がる9月の入道雲。今、裕ちゃんはどんな青色を見上げてるんだろう。遠く遥か彼方の空は、イギリスまで繋がってる。
ホテルに向かう前に箱根の山道をドライブしようと、父の運転でインターハイロードレースの道を辿って走った。ほんの少し前の夏、この場所は手に汗握る白熱の戦いに空気が震えていた。
国道1号最高地点を通った時、『裕介くんが箱学の選手と勝負してた道だな』と父が話しはじめた。
独特のフォームで地面を削りながらロードで登る車輪の音、湧き上がる歓声、沿道からの声援、どこまでも澄み渡る夏空――随分前のことのように感じる。夕暮れの橙がミラーに反射して、私は目を細めながら相槌を打った。目に焼き付いてる滾るようなレースの光景。あの時、どんな気持ちだったの?もっとたくさん、インハイやライバルの話も聞かせて欲しかったな。今ここに裕ちゃんも居てくれたらよかったのに。言葉にしたら余計に寂しくなりそうだけど、吐き出せたら楽になる気もする。もどかしさは消えないまま、山道を走る車の窓から、青々とした景色を眺めていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
フロントでチェックイン手続きを済ませた両親は、部屋へ行く前にラウンジに併設されたカフェで一休みしようとソファに腰掛けていた。まだオープンして間もホテルは、新しい建物の独特の香りがする。その間、私はホテル周辺の庭園の散歩でもしようと、二人にことわってからロビーから続くテラスを通って庭園に出た。両親はコーヒーを片手に、手を振って私を見送っている。私を元気づけようと今回の旅を企画してくれたのかなと思うと、両親の優しさがありがたい。
自然の渓谷を活かした広い庭園に、涼やかな音が響いている。湿気を含んだ夕方の風も、ここにいると随分涼しい。ホテルも立派だけれど、お庭も本格的だ。景観を損なわないように細やかな手入れはしっかりとされているし、ライトアップの為の間接照明も点々と設置してあった。音のヒーリング効果もある。父親の造園業の手伝いを時々するようになってから、一つとして同じものはない“庭”の美しさが、前よりも魅力的に目に映る。
肩の力を抜き、流れる水音に耳を澄ませながらベンチに座ると、ふと見た事ある人物が目の前を横切った。
Tシャツにクロップドパンツ…と随分ラフな格好の、カチューシャで前髪をまとめてる、美形。顔のいい人ってシンプルな服装で余計に美しさが際立っちゃうんだよねーと、羨ましくなりつつ心の中で呟けば、“記憶してるとある人物”と重なった。
「……あ、箱学の東堂くん」
気付けば声に出ており、彼は足を止めてこちらを一瞥した。視線を交わし会釈すると、ずいと近づいて来たので座りながらも反射的に後ずさる。
「俺のことを知ってるとは、さてはファンか!?どこから来たんだ?」
「ち、千葉から…」
「ほう、ついに俺の人気は県を越えてしまったな」
このままファンという設定で話が進んでしまいそうなので、首を横に振って否定させてもらった。
「えーと、…ファンではないです」
「なんだ、違うのか」
残念そうに眉間に皺を寄せ、少しだけ唇を尖らせた表情があどけない。裕ちゃんから聞いていた、“いつでも自信たっぷりでおしゃべりな奴”――その印象とは一致する。
「インターハイ一日目で、裕ちゃんと山岳賞を競っていた選手ですよね」
「ああ、その通りだが………“裕ちゃん”?キミはもしかして、巻ちゃんの――」
「幼馴染…あ、今は彼女の、汐見琴音といいます」
ベンチから立ち上がって深々とお辞儀をすれば、今度は東堂くんが後ずさっていた。一体、何に驚いたのだろう?私が“彼女”だと名乗ったことにだろうか?確かに裕ちゃんは笑顔がちょっとコワイけど、よくよく見ると愛嬌あるし、優しいし。別に彼女が居たって意外じゃないはずなのに。
「ま――、巻ちゃんにカノジョ!?」
こちらが話しかける前に、東堂くんは声を張り上げた。透き通るキレイな声が庭園内に反響した。
「俺というライバルがありながら!しかも幼馴染だと!?そんなドラマみたいな展開が現実にあるとは羨ましすぎる…!」
「…はい?」
東堂くんの取り乱しっぷりとおかしな台詞に、意図せず素っ頓狂な声が出てしまった。
「否!俺たちはロードが恋人だろ!俺の知らないところでちゃっかり青春していたなんてずりーぞ巻ちゃん!」
「あ、あの、付き合ってすぐ裕ちゃんはイギリス行っちゃったんで、東堂くんが想像してるような青春はそこまでしてないです」
「そうなのか!?」
「付き合いはじめたのもインターハイの後ですし、彼女らしいことは全然……、できないうちに遠くに行っちゃたから……寂しいなぁって……」
最後の方はもう独り言だった。徐々に小声になり、渓谷の音に混ざって消える。ふう、と息をつくと、東堂くんはベンチに座るように促し、彼も隣のベンチに腰掛けた。
「それは……、辛いことだな。恋人にこんな顔をさせるとは、まったく罪な男だ」
先ほどの慌てようが嘘みたいに、彼は静かな眼差しを向けている。
ゆっくりと腰を下ろしながらも、目を逸らすことが出来なかった。
「俺も、いつでも勝負できるライバルが近くにいないというのは寂しいよ」
「…そう、ですよね」
「だが、マイナスな気持ちは糧にしてこそだ。次に会った時にうんと成長した姿を見せて、逞しくなって驚かせてやるのもいいだろう。やりたいことを見つけて熱中してれば、時間などあっという間に過ぎてしまうものだよ」
夕日が沈み、橙から群青へと空がグラデーションに彩る頃、間接照明がオートセンサーによって点灯した。東堂くんの照らされた横顔は、さすがというか、女子ファンが多く居るのも納得の美しさだった。インターハイ、沿道にもたくさん女子から黄色い歓声を浴びていたこと思い出す。
『ヒルクライムレースでよく会う、うるせーのがいるんだわ』、と、毒づきながらもどこか嬉しそうに、裕ちゃんは珍しくライバルの――東堂くんの話を聞かせてくれたことがある。会える距離なら何度でも勝負できるのに、それが叶わない彼もまた、裕ちゃんを恋しく思う内の一人なんだと思う。形は違っても、想いの丈は変わらない。
「さすが、東堂くんですね。励ましの言葉が身に染みます」
「ワッハッハ!俺は山神だからな、ついつい格言が出てしまうな!…っと、自慢したいところだが、少し前に俺も巻ちゃんからイギリス行きを聞かされた時には、だいぶ打ちのめされたものだ」
「…そうなんですか?」
「ああ、先月直接聞いて…それまでは都内の大学へ行くのかと思っていたからな。同じチームメイトになることを夢見て志望校まで合わせていたのに、肩透かしをくらった気分だったよ」
「そんなギリギリの時期に…裕ちゃんてば…」
「巻ちゃんらしいよ。だが、俺は転んでもただじゃ起きないし、諦めるつもりもない。――君はどうだ?」
その笑みはどこか寂し気。しかし、瞳の輝きは消えず未来を見据えているよう。東堂くんに鼓舞されて、膝の上で握りしめている拳に力を込めた。やりたいことを見つけて、打ち込んで、中身も成長して――裕ちゃんに会いに行きたい。例え、どれだけ遠く離れていても。
『私もです』と、真っ直ぐに返事をして頷いた様子を見て、東堂くんはふっと安堵の息を漏らしていた。
・・・・・・
東堂くんが箱根のホテルの庭園を歩いていた理由は、ご家族から頼まれた用事を済ませる為だったそうだ。
彼の実家は箱根町の老舗旅館。温泉協会から依頼された資料を渡しに行ったその帰りで、気分転換に庭園を見てから戻ろうと歩いていた際に私に話しかけられた、と。こんな偶然もあるもんだなぁと思うけど、これも裕ちゃんが繋げてくれた不思議な縁だ。
「次会う時は俺の実家の東堂庵で、だな。巻ちゃんが日本に一時帰国する時でにも一緒に泊まりに来るといい。最高のもてなしをしよう」
「はい、楽しみにしてますね」
裕ちゃん、東堂くんに『邪魔すんなショ』とか文句言いそうだなぁって想像したら、思わず笑いが漏れそうになった。
「だが、俺にも少しばかり貸してくれよ?一緒に走りたくて我慢ならんからな」
「もちろんです!裕ちゃんも、東堂くんと走りたいと思いますよ」
口角を上げて微笑む東堂くんに、私も笑顔を向けた。二人の特別なレースを間近で見守ることができたら、幸せだろうな。すぐじゃなくても実現しそうな気になってくる。これが東堂くんの山神パワーなのかも知れない。
今日は――気分転換にと、旅行に連れて来てもらってよかった。神社以上に運気が上がりそうな人物に偶然会えるなんて。裕ちゃんへの手紙にも書いてみようか?メールしてみようか?と迷ったけれど、会った時に直接話すことにする。他の返事はよこさないのに、東堂くんが絡む内容だけすぐ返信が来たら妬けちゃうから。
東堂くん、人を励ますのが上手い人だ。そして、裕ちゃんが日本に居ないことへの……胸にぽっかりと穴が開いた気持ちを、共有できる人に会えてよかった。自分でも『寂しい』と言葉にできたことで心が楽になり、ロビーまで戻る足取りは軽かった。
夜、露天風呂から夜空を眺めれば、私は再び裕ちゃんに想いを馳せるだろう。そこにはもう、必要以上の寂しさも切なさもいらない。これからは募る愛おしさだけ、心に留めておくことにする。