短編・中編
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グッバイ・マイ・サマー
-3- ※巻島視点
ひやりとした風が頬を撫で、肌寒さにジャケットの前を閉め歩き出す。大学の講義の後、構内の庭を抜けて歩きながら明日の朝食と今晩の献立を考えるのがすっかり日課になってきた。イギリスで兄貴の仕事を手伝いつつ、家事をこなす毎日にもだいぶ慣れた。
実家にいた頃はキッチンにも立ったことがなかった俺でも、今は簡単なものならば作れるようになった。今夜はズッキーニとマッシュルームのトマスパスタにするか。鶏肉も焼いて混ぜるよう。
朝食を作る事が主だが、時々夕飯を作る事もある。だいぶレパートリーが増えた気がする。
スーパーに寄って買い物を済ませ、アパートのポストを覗くとそこには見慣れない色の封筒が入っていた。“淡いピンクの封筒”。男ならばあまり使うことはないような色。小野田からでも東堂からでもない。差出人を確認する前に気づいた。
それは恋人の――琴音からの手紙だと。
日本とイギリスの遠距離恋愛が三ヵ月を経過した頃に、俺たちの関係は終わろうとしていた。
はじめは二週間に一度くらいの頻度で届いていたあいつからの手紙が、月一になり、そして今日届いたこの手紙で完結したのだと悟る。筆まめでない俺は返事も書かずに、かといって電話もメールもせずに過ごしていた。しようと思ったこともあるが、何て言やいいか何を書けばいいか思いつかなかった。不器用もここまで来たかと自身で呆れるも、これが俺なのだから仕方ない。
買ってきた食材を片付け、ダイニングチェアに腰かけると溜息が漏れた。開けた封筒には“手紙”が入っていなかった。
その代わりに俺が昔、琴音に渡したカフェのコースターだけがそこに入っていた。
自転車で走った先でカフェを見つけると休憩がてらに入店し、その店のコースターを集めていた時期があった。琴音が俺の部屋に訪ねて来た際に、無造作に机に置いてあったのを見つけ決まって目を輝かせて眺め始める。コレクションしてたワケじゃないが、並べてみるとなかなか圧巻。各店舗の特徴がオシャレにデザインされている、イラストやロゴ。しばらく眺めているものだから欲しいのかと尋ねれば、目を見開いてぱちくりと瞬きしてた。いいの?って、嬉しそうな顔して。気に入ったものをひとつ手に取ったので、「やる」と告げたら、わぁいと弾んだ声を上げて喜んでいた。
そのコースターだけ、ぽつんと封筒の中に入っていたのだ。
よほどの鈍い奴でなければ“お別れ”の意味だと理解するだろう。『大事にするね』と繰り返し告げてくれたあの声は、もう遠い。悲しみと虚しさを感じたものの、見限られたのは妙に納得していた。自分が逆の立場だったなら同じ結末に至ったかもと、ほんの僅かでも思うなら咎める事は出来やしない。
お互いの気持ちを通わせたはずだったのに、イギリスを経つ日までに出来たのは手を握る事だけ。それ以上は…出来なかった。荷物をまとめたり諸々の手続きで時間に追われ、とにかく忙しかったのもあったが、頭の片隅でリアリストの俺が制止していたのかも知れない。
出発当日、空港まで行ったら引き止めちゃいそうだからと、琴音とは自宅前で別れを告げた。
『ちょっとだけ屈んで目を閉じて』と、あの時、車を準備していた両親に隠れて琴音は俺にそう促した。言われた通りにすると、俺の口元のホクロに柔らかな感触が触れた。唇に近い場所ではあったが、肝心な唇には触れずに離れて、目を開けるとそこには頬を赤らめた琴音が瞳を潤ませて見つめていた。血が沸騰しそうに熱くなったのを、鮮明な記憶と共に思い出す。
…結局、あの子供みたいなキスが最初で最後になっちまった。
□ □ □
日に日に寒さを増し、羽織る物がジャケットからコートに変わる頃、街には巨大なクリスマスツリーが飾られ華やかなムードで溢れている。イギリスではクリスマスは最高に盛り上がるイベントのようだ。アパートのドアにもリースを飾っている部屋がチラホラある。日本では『恋人と過ごす日』みたいな風潮があるが、こっちではもっと大きな行事のように感じる。
大学の授業は新鮮で楽しいし、兄貴の店の手伝いや家事をこなすのであっという間に一日が終わる。時間を見つけては峠や坂を愛車で登った。充実した毎日に、他には何もいらないように思えても、ふと肌寒い季節になるとわずかな期間だけ恋人だった琴音が頭に過る。返されたコースターは捨てられず、女々しい一面が俺にもあったんだと驚いた。いずれ、気にならなくなるその日まで取っておいても罰は当たらねェだろ。
『ずっと好きだったの』と告白され、心が重なったあの日まで無理に忘れなくていい。寒空の下、イルミネーションは街をキラキラと飾り付ける。ライトアップされた街路樹を歩いて、感傷に浸るぐらいは許されるはずだ。
・・・
・・・・・
・・・・・・
この時期、アパレル業の兄貴は猛烈に忙しそうだった。クリスマスプレゼントにとオーダーする客も多く、店舗の仕事に加えもう春夏に向けてのデザインを思案していた。徹夜も何日か続き心配していたら、『明日のイブは早く帰ってくる』と、目の下にクマを作りながらも意気揚々と告げられたのが数日前のこと。十二月半ばから大学が冬休みに入っていた俺は、とりあえず手伝えることをこなしては自転車に乗る日々を過ごした。
24日のイブの夕方、デリやケーキや飲み物を適当に買って帰宅すると、アパートの部屋は静かで、兄貴はまだ帰って来ていなかった。
両隣の部屋からはパーティーがはじまるクラッカー音が漏れ聞こえる。
イギリスで過ごす初めてのクリスマス、男二人が暮らすこの部屋だけは過ごし方が地味なもんだ。日本に居た頃は、母親が張り切って作った手料理が食べきれない程テーブルの上に並べられていた。チキンにキッシュにビーフシチュー、手作りのシュトーレン、…色々豪華だった気ィする。
兄貴からは遅れるって連絡のメールも届いてないし、少し待ってやるかとデリをダイニングテーブルに並べていると玄関のチャイムが鳴った。こっちのチャイムはメロディもなくブザーみたいな音で、未だに慣れない。
珍しく鳴らされたチャイムに、鍵でも忘れたかぁ?と小首を傾げた。廊下を歩きながらやれやれと息ついてドアの鍵を解除してから、いきなり開けて不用心だったか…なんて遅すぎる懸念が過る。
ガチャリと開けると、予想だにしない光景が飛び込んで来た。
暖かそうな白いニット帽を被り、チェック柄のマフラーを巻いた少女。目前に映る琴音の笑顔に聖夜の幻影かと錯覚した。いや、本物だ。
「裕ちゃん、メリークリスマス!」
「………っショ!?」
ニッコリと微笑んで現れた琴音に、驚愕のあまり声が出ない。やっと出た一言といえば語尾の『ショ』だけ。
・・・・・・
つづら折りの山道を全力で登った時と同じぐらい、俺の心臓はバクバクと鳴っていた。
ひとまず暖を取ってもらおうと家に招いてコートをハンガーラック掛け、キャリーは玄関先に置いてもらった。明らかに旅行用の大きさだったが…旅行、なのか?何も注文されてないのにミルクパンを火にかけ、ココアを作ってテーブルに置いた後、あいつが好きな飲み物を覚えてたことを指摘されないかと内心で冷や冷やした。
「ありがとう。美味しい」
「ああ、ならよかった。……にしても、お前…」
両手でマグカップを持ち、フーフーと冷ましながらちびちびと飲む琴音の愛らしさたるや、相変わらずだ。数ヶ月ぶりに本物を見ると、やっぱ可愛い。離れてからは携帯で撮った2ショット…正確には琴音の携帯で撮ったものが送られてきた画像、ばかりを見てたからな。ふたくちくらい飲んでから、俺の冷静でない胸中を察してか琴音は切り出した。
「レンくんがイギリス行きのチケットを送ってくれたの。冬休みだろうし遊びに来なって」
「…兄貴が?」
「それで、滞在中はアパートに泊まってけばいいって」
「ハァ!?泊まるっつったってベッドも…」
「『裕介と一緒でいいだろ』って言ってたよ」
「いいわきゃねーっショ!」
テーブルを挟んで向かあって座っていたが、琴音の台詞を聞いて反射的に椅子から立ち上がった。
二人が恋人になったことは誰にも話していないが、兄貴には全部お見通しだったってことか。しかし、二人の関係はもう終わっている事には気づいていないようだ。粋な計らいのつもりでクリスマスに琴音をイギリスまで――まだ、恋人関係で居たのなら喜んでいたところだが、今はそうじゃない。
あれから少しずつ気持ちの整理もつけたつもりだったのに、本人を前にまたぶり返しそうな感情が胸の中でグツグツと溢れて来そうになる。落ち着け…と、細く息を吐いて椅子に座り直し、俺は琴音を一瞥した。
「いいわきゃねェ。俺らはもう、ただの幼馴染だ」
ぽつりと呟いた言葉に自分でショックを受けそうになる。
“ただの幼馴染”…つい夏まではその関係が普通だったはずだ。ちょっとの間恋人を経由しただけなのに、やたら強いワードに感じて傷が抉られる。項垂れそうになるのを堪える最中、意外にも間の抜けた声が返って来た。
「えっ…、そうなの?」
「は…、いや、もう別れたショ」
「私たち、お別れしたの?」
「お前が送ってきたんだろ?あのコースター。そーゆー意味で」
キョトンとした表情になって数秒固まった後、今度は琴音がガタッと音を立てて勢いよく椅子から立ち上がった。
テーブルに手をついてたせいで、並べていたデリが揺れる。
「違うよっ!あれは私の宝物だから、取りに行く日まで持っといてもらおうと思って、会いに行くための願掛けのつもりで…っ!……その事を書いた手紙を入れ忘れちゃったんだけど…」
視線が交わって冷静さを取り戻したのか、先ほどの俺と同じく琴音は丁寧に椅子に座り直してから順を追って説明をし始めた。
俺がイギリスに発ってから花屋でバイトはじめたこと。加えて、親父さんの造園業の手伝いで忙しくなり手紙を送れなくなったこと。バイト代が貯まったらイギリスに行くと俺の両親にも話したこと――。両親経由で兄貴の耳にも入ったんだろう。それで琴音にチケット送った…つーわけか。なるほど、理解した。だが、うっかりとは言え手紙を入れ忘れコースターだけ届いたのがすれ違いのはじまりだ。こんな遠くまで来てくれたこいつにゃ悪いが、抗議しくなってきた。
「お前なぁ、紛らわしいにも程があるショ!手紙入れ忘れたんなら補足をしろ、補足を!電話もメールもねェから俺はフラれたとばかり……」
「ごめんごめん!バタバタしてて……!でも、電話もメールもくれなかったのは裕ちゃんだって同じでしょ?もう、面倒くさがりなんだから」
「あー、そりゃ…まぁ、…悪ィ」
「それに、好きでもない人のためにわざわざイギリスまで来たりしないよ」
唇を尖らせ拗ねた様子を見せる琴音に、つい先刻の失敗談の不満など忘れ、心臓が鼓動する。
じゃあ今、イギリスのこのアパートにわざわざ来たお前は、俺を好きってコトでいいのかよ?って、当たり前のように肯定してもらえそうな問いを投げかけてみたかった。この一ヶ月程の寂しさが、ただの悪い夢だったと安堵する。
二人の関係は終わってなかった。どれだけ距離があろうが会いに来ようとするこいつは、決して俺を手放すつもりなどないらしい。同じぐらい熱量で、好き居続ける気概が俺にあったのなら余計な不安を抱えず済んだのに。自分の気弱さが嫌になる。
琴音はおもむろに立ち上がると、俺の近くまで来て顔を覗き込んできた。長い睫毛が縁取るブラウンの瞳が揺れている。頬が赤らんだまま、しばらく見つめ合うだけの時間が過ぎた。互いの気持ちが視線から流れ込んでくるみたいで、じわじわと耳が熱くなる。ほっとして泣きそうになるのは、生まれて初めての感覚だった。
「裕ちゃん。座ったまま目を閉じて」
「やだね」
「お願い……」
「……ずりぃ奴」
穏やかな声に促され、目を閉じると左の目元のホクロ辺りに柔らかな感触が触れた。またしても、肝心な唇には触れずに離れていく。一度目は出発の朝に、二度目は再会の今に、俺のチャームポイントはキスのマトにされたようだ。
何で唇にしなかったのか…、この意味が察せないほど鈍感じゃない。ちゃんとしたキスは、俺からして欲しいからだろ。わざわざ聞くのも野暮ってもんだ。
離れていく体を、腕を掴んで引き寄せれば鼻先が触れ合った。互いの体温を感じ、余計に体が熱くなる。隣の部屋から陽気なクリスマスソングが聴こえてくるが、曲調が明るすぎてムードなんてありゃしないが、んな事は気にしちゃいられない。
「あっ…、もうすぐレンくん帰って来ちゃうかな」
「今、俺からしなかったら意味ねェショ」
「待…てないよね?」
「お前からしたんだろ」
「これ以上は後でゆっくりでもいいかなって…」
「ダメだ、一秒も待てねぇ。ずっと会いたかった触れたかった、全部――」
好きだ、と言葉が口から零れた。
感情が先走って、バラバラと取り留めのない本音しか出て来ない。
琴音が次に何か言いかける前に、優しく後頭部に手を添えて引き寄せ、俺が少し首を伸ばせば簡単に唇が重なった。すぐにでも思い出になっちまような無責任なことは出来ないと、キスすらしなかったあの夏の後悔を、やっと払拭できた気がする。琴音からの口付けは、一歩踏み出せない俺へのエールだったんだと今頃になって気づいた。
柔らかさを確かめるように、離れては触れを繰り返す。椅子から立ち上がって琴音を強く抱きしめ、今度は貪るようにキスをした。舌が絡み合い息が荒くなって、どちらとも分からない唾液が混ざり合う。漏れた吐息が色っぽく感じるも、口の中は子供が飲むような甘いココアの味がした。
抱き合う心地よさもあたたかな体温も、全部腕の中にある。
もう二度と、手放さねェ。
end.
-3- ※巻島視点
ひやりとした風が頬を撫で、肌寒さにジャケットの前を閉め歩き出す。大学の講義の後、構内の庭を抜けて歩きながら明日の朝食と今晩の献立を考えるのがすっかり日課になってきた。イギリスで兄貴の仕事を手伝いつつ、家事をこなす毎日にもだいぶ慣れた。
実家にいた頃はキッチンにも立ったことがなかった俺でも、今は簡単なものならば作れるようになった。今夜はズッキーニとマッシュルームのトマスパスタにするか。鶏肉も焼いて混ぜるよう。
朝食を作る事が主だが、時々夕飯を作る事もある。だいぶレパートリーが増えた気がする。
スーパーに寄って買い物を済ませ、アパートのポストを覗くとそこには見慣れない色の封筒が入っていた。“淡いピンクの封筒”。男ならばあまり使うことはないような色。小野田からでも東堂からでもない。差出人を確認する前に気づいた。
それは恋人の――琴音からの手紙だと。
日本とイギリスの遠距離恋愛が三ヵ月を経過した頃に、俺たちの関係は終わろうとしていた。
はじめは二週間に一度くらいの頻度で届いていたあいつからの手紙が、月一になり、そして今日届いたこの手紙で完結したのだと悟る。筆まめでない俺は返事も書かずに、かといって電話もメールもせずに過ごしていた。しようと思ったこともあるが、何て言やいいか何を書けばいいか思いつかなかった。不器用もここまで来たかと自身で呆れるも、これが俺なのだから仕方ない。
買ってきた食材を片付け、ダイニングチェアに腰かけると溜息が漏れた。開けた封筒には“手紙”が入っていなかった。
その代わりに俺が昔、琴音に渡したカフェのコースターだけがそこに入っていた。
自転車で走った先でカフェを見つけると休憩がてらに入店し、その店のコースターを集めていた時期があった。琴音が俺の部屋に訪ねて来た際に、無造作に机に置いてあったのを見つけ決まって目を輝かせて眺め始める。コレクションしてたワケじゃないが、並べてみるとなかなか圧巻。各店舗の特徴がオシャレにデザインされている、イラストやロゴ。しばらく眺めているものだから欲しいのかと尋ねれば、目を見開いてぱちくりと瞬きしてた。いいの?って、嬉しそうな顔して。気に入ったものをひとつ手に取ったので、「やる」と告げたら、わぁいと弾んだ声を上げて喜んでいた。
そのコースターだけ、ぽつんと封筒の中に入っていたのだ。
よほどの鈍い奴でなければ“お別れ”の意味だと理解するだろう。『大事にするね』と繰り返し告げてくれたあの声は、もう遠い。悲しみと虚しさを感じたものの、見限られたのは妙に納得していた。自分が逆の立場だったなら同じ結末に至ったかもと、ほんの僅かでも思うなら咎める事は出来やしない。
お互いの気持ちを通わせたはずだったのに、イギリスを経つ日までに出来たのは手を握る事だけ。それ以上は…出来なかった。荷物をまとめたり諸々の手続きで時間に追われ、とにかく忙しかったのもあったが、頭の片隅でリアリストの俺が制止していたのかも知れない。
出発当日、空港まで行ったら引き止めちゃいそうだからと、琴音とは自宅前で別れを告げた。
『ちょっとだけ屈んで目を閉じて』と、あの時、車を準備していた両親に隠れて琴音は俺にそう促した。言われた通りにすると、俺の口元のホクロに柔らかな感触が触れた。唇に近い場所ではあったが、肝心な唇には触れずに離れて、目を開けるとそこには頬を赤らめた琴音が瞳を潤ませて見つめていた。血が沸騰しそうに熱くなったのを、鮮明な記憶と共に思い出す。
…結局、あの子供みたいなキスが最初で最後になっちまった。
□ □ □
日に日に寒さを増し、羽織る物がジャケットからコートに変わる頃、街には巨大なクリスマスツリーが飾られ華やかなムードで溢れている。イギリスではクリスマスは最高に盛り上がるイベントのようだ。アパートのドアにもリースを飾っている部屋がチラホラある。日本では『恋人と過ごす日』みたいな風潮があるが、こっちではもっと大きな行事のように感じる。
大学の授業は新鮮で楽しいし、兄貴の店の手伝いや家事をこなすのであっという間に一日が終わる。時間を見つけては峠や坂を愛車で登った。充実した毎日に、他には何もいらないように思えても、ふと肌寒い季節になるとわずかな期間だけ恋人だった琴音が頭に過る。返されたコースターは捨てられず、女々しい一面が俺にもあったんだと驚いた。いずれ、気にならなくなるその日まで取っておいても罰は当たらねェだろ。
『ずっと好きだったの』と告白され、心が重なったあの日まで無理に忘れなくていい。寒空の下、イルミネーションは街をキラキラと飾り付ける。ライトアップされた街路樹を歩いて、感傷に浸るぐらいは許されるはずだ。
・・・
・・・・・
・・・・・・
この時期、アパレル業の兄貴は猛烈に忙しそうだった。クリスマスプレゼントにとオーダーする客も多く、店舗の仕事に加えもう春夏に向けてのデザインを思案していた。徹夜も何日か続き心配していたら、『明日のイブは早く帰ってくる』と、目の下にクマを作りながらも意気揚々と告げられたのが数日前のこと。十二月半ばから大学が冬休みに入っていた俺は、とりあえず手伝えることをこなしては自転車に乗る日々を過ごした。
24日のイブの夕方、デリやケーキや飲み物を適当に買って帰宅すると、アパートの部屋は静かで、兄貴はまだ帰って来ていなかった。
両隣の部屋からはパーティーがはじまるクラッカー音が漏れ聞こえる。
イギリスで過ごす初めてのクリスマス、男二人が暮らすこの部屋だけは過ごし方が地味なもんだ。日本に居た頃は、母親が張り切って作った手料理が食べきれない程テーブルの上に並べられていた。チキンにキッシュにビーフシチュー、手作りのシュトーレン、…色々豪華だった気ィする。
兄貴からは遅れるって連絡のメールも届いてないし、少し待ってやるかとデリをダイニングテーブルに並べていると玄関のチャイムが鳴った。こっちのチャイムはメロディもなくブザーみたいな音で、未だに慣れない。
珍しく鳴らされたチャイムに、鍵でも忘れたかぁ?と小首を傾げた。廊下を歩きながらやれやれと息ついてドアの鍵を解除してから、いきなり開けて不用心だったか…なんて遅すぎる懸念が過る。
ガチャリと開けると、予想だにしない光景が飛び込んで来た。
暖かそうな白いニット帽を被り、チェック柄のマフラーを巻いた少女。目前に映る琴音の笑顔に聖夜の幻影かと錯覚した。いや、本物だ。
「裕ちゃん、メリークリスマス!」
「………っショ!?」
ニッコリと微笑んで現れた琴音に、驚愕のあまり声が出ない。やっと出た一言といえば語尾の『ショ』だけ。
・・・・・・
つづら折りの山道を全力で登った時と同じぐらい、俺の心臓はバクバクと鳴っていた。
ひとまず暖を取ってもらおうと家に招いてコートをハンガーラック掛け、キャリーは玄関先に置いてもらった。明らかに旅行用の大きさだったが…旅行、なのか?何も注文されてないのにミルクパンを火にかけ、ココアを作ってテーブルに置いた後、あいつが好きな飲み物を覚えてたことを指摘されないかと内心で冷や冷やした。
「ありがとう。美味しい」
「ああ、ならよかった。……にしても、お前…」
両手でマグカップを持ち、フーフーと冷ましながらちびちびと飲む琴音の愛らしさたるや、相変わらずだ。数ヶ月ぶりに本物を見ると、やっぱ可愛い。離れてからは携帯で撮った2ショット…正確には琴音の携帯で撮ったものが送られてきた画像、ばかりを見てたからな。ふたくちくらい飲んでから、俺の冷静でない胸中を察してか琴音は切り出した。
「レンくんがイギリス行きのチケットを送ってくれたの。冬休みだろうし遊びに来なって」
「…兄貴が?」
「それで、滞在中はアパートに泊まってけばいいって」
「ハァ!?泊まるっつったってベッドも…」
「『裕介と一緒でいいだろ』って言ってたよ」
「いいわきゃねーっショ!」
テーブルを挟んで向かあって座っていたが、琴音の台詞を聞いて反射的に椅子から立ち上がった。
二人が恋人になったことは誰にも話していないが、兄貴には全部お見通しだったってことか。しかし、二人の関係はもう終わっている事には気づいていないようだ。粋な計らいのつもりでクリスマスに琴音をイギリスまで――まだ、恋人関係で居たのなら喜んでいたところだが、今はそうじゃない。
あれから少しずつ気持ちの整理もつけたつもりだったのに、本人を前にまたぶり返しそうな感情が胸の中でグツグツと溢れて来そうになる。落ち着け…と、細く息を吐いて椅子に座り直し、俺は琴音を一瞥した。
「いいわきゃねェ。俺らはもう、ただの幼馴染だ」
ぽつりと呟いた言葉に自分でショックを受けそうになる。
“ただの幼馴染”…つい夏まではその関係が普通だったはずだ。ちょっとの間恋人を経由しただけなのに、やたら強いワードに感じて傷が抉られる。項垂れそうになるのを堪える最中、意外にも間の抜けた声が返って来た。
「えっ…、そうなの?」
「は…、いや、もう別れたショ」
「私たち、お別れしたの?」
「お前が送ってきたんだろ?あのコースター。そーゆー意味で」
キョトンとした表情になって数秒固まった後、今度は琴音がガタッと音を立てて勢いよく椅子から立ち上がった。
テーブルに手をついてたせいで、並べていたデリが揺れる。
「違うよっ!あれは私の宝物だから、取りに行く日まで持っといてもらおうと思って、会いに行くための願掛けのつもりで…っ!……その事を書いた手紙を入れ忘れちゃったんだけど…」
視線が交わって冷静さを取り戻したのか、先ほどの俺と同じく琴音は丁寧に椅子に座り直してから順を追って説明をし始めた。
俺がイギリスに発ってから花屋でバイトはじめたこと。加えて、親父さんの造園業の手伝いで忙しくなり手紙を送れなくなったこと。バイト代が貯まったらイギリスに行くと俺の両親にも話したこと――。両親経由で兄貴の耳にも入ったんだろう。それで琴音にチケット送った…つーわけか。なるほど、理解した。だが、うっかりとは言え手紙を入れ忘れコースターだけ届いたのがすれ違いのはじまりだ。こんな遠くまで来てくれたこいつにゃ悪いが、抗議しくなってきた。
「お前なぁ、紛らわしいにも程があるショ!手紙入れ忘れたんなら補足をしろ、補足を!電話もメールもねェから俺はフラれたとばかり……」
「ごめんごめん!バタバタしてて……!でも、電話もメールもくれなかったのは裕ちゃんだって同じでしょ?もう、面倒くさがりなんだから」
「あー、そりゃ…まぁ、…悪ィ」
「それに、好きでもない人のためにわざわざイギリスまで来たりしないよ」
唇を尖らせ拗ねた様子を見せる琴音に、つい先刻の失敗談の不満など忘れ、心臓が鼓動する。
じゃあ今、イギリスのこのアパートにわざわざ来たお前は、俺を好きってコトでいいのかよ?って、当たり前のように肯定してもらえそうな問いを投げかけてみたかった。この一ヶ月程の寂しさが、ただの悪い夢だったと安堵する。
二人の関係は終わってなかった。どれだけ距離があろうが会いに来ようとするこいつは、決して俺を手放すつもりなどないらしい。同じぐらい熱量で、好き居続ける気概が俺にあったのなら余計な不安を抱えず済んだのに。自分の気弱さが嫌になる。
琴音はおもむろに立ち上がると、俺の近くまで来て顔を覗き込んできた。長い睫毛が縁取るブラウンの瞳が揺れている。頬が赤らんだまま、しばらく見つめ合うだけの時間が過ぎた。互いの気持ちが視線から流れ込んでくるみたいで、じわじわと耳が熱くなる。ほっとして泣きそうになるのは、生まれて初めての感覚だった。
「裕ちゃん。座ったまま目を閉じて」
「やだね」
「お願い……」
「……ずりぃ奴」
穏やかな声に促され、目を閉じると左の目元のホクロ辺りに柔らかな感触が触れた。またしても、肝心な唇には触れずに離れていく。一度目は出発の朝に、二度目は再会の今に、俺のチャームポイントはキスのマトにされたようだ。
何で唇にしなかったのか…、この意味が察せないほど鈍感じゃない。ちゃんとしたキスは、俺からして欲しいからだろ。わざわざ聞くのも野暮ってもんだ。
離れていく体を、腕を掴んで引き寄せれば鼻先が触れ合った。互いの体温を感じ、余計に体が熱くなる。隣の部屋から陽気なクリスマスソングが聴こえてくるが、曲調が明るすぎてムードなんてありゃしないが、んな事は気にしちゃいられない。
「あっ…、もうすぐレンくん帰って来ちゃうかな」
「今、俺からしなかったら意味ねェショ」
「待…てないよね?」
「お前からしたんだろ」
「これ以上は後でゆっくりでもいいかなって…」
「ダメだ、一秒も待てねぇ。ずっと会いたかった触れたかった、全部――」
好きだ、と言葉が口から零れた。
感情が先走って、バラバラと取り留めのない本音しか出て来ない。
琴音が次に何か言いかける前に、優しく後頭部に手を添えて引き寄せ、俺が少し首を伸ばせば簡単に唇が重なった。すぐにでも思い出になっちまような無責任なことは出来ないと、キスすらしなかったあの夏の後悔を、やっと払拭できた気がする。琴音からの口付けは、一歩踏み出せない俺へのエールだったんだと今頃になって気づいた。
柔らかさを確かめるように、離れては触れを繰り返す。椅子から立ち上がって琴音を強く抱きしめ、今度は貪るようにキスをした。舌が絡み合い息が荒くなって、どちらとも分からない唾液が混ざり合う。漏れた吐息が色っぽく感じるも、口の中は子供が飲むような甘いココアの味がした。
抱き合う心地よさもあたたかな体温も、全部腕の中にある。
もう二度と、手放さねェ。
end.