短編・中編
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Adrenalimit!
――信じられない事に、三日前に好きな人から告白された。
経過しても未だ現実味がなく混乱が極まっている。何せ、そんなミラクルを引き寄せる体質でない限り、思い当たる節もない。夕暮れの告白シーンを何度も頭の中で繰り返し回想しては、あれは自分の妄想でなく現実に起きたことではないかと疑ってしまう。
夏の夜空に浮かぶ青白く光る月を眺めながら、夢の中にいるみたいに心がふわふわと浮いていた。
二年の秋…正確には夏休み明けから、自転車競技部にマネージャー兼マッサーとして途中入部していた私は、他の女子よりも東堂くんとの関わりは少なかった。
彼と同時期に入部した女子マネや、先輩達の方が、過ごしてきた時間も長ければ関係性も深い。クラスも委員会も東堂くんと同じになったことはなかったけれど、学園内にファンクラブもあるような有名人だから知っていたというぐらいで、入部するまでは話したこともなかった。時々、寿一くんから聞いていた“優秀なクライマー”の話が彼の事なのだと、頭の中で一致したのも入部後のこと。
異性の部員同士、適度な距離を保ちつつ話したりと入部してからは関わりを持ち、僭越ながらマッサーとして足を触らせてもらったこともあるが、それを加味しても接触は些細なものだ。
どういうルートで東堂くんからの告白エンドに辿り着いたのか、どれが伏線になっていたというのか未だに解明しない。自分からならまだしも、彼の方からの告白は、まさに晴天の霹靂――告白エンドと同時に新たな関係が始まろうとしている。
□ □ □
部室内の空調機器点検の為に部活が休みになった金曜日に続き、あらかじめオフ日に設定されていた翌日の土曜日。久々に訪れた完全な休日。レギュラー陣は自主練もあるし、インハイまではしばらく休みらしい休みがなさそうだからと、告白された日に連絡先を交換し連絡を重ねて急遽デートすることになった本日――緊張のあまり待ち合わせの一時間前に私は小田原駅前に到着していた。
梅雨明けした七月初旬、まだ午前中だというのに太陽は容赦なくアスファルトを照り付ける。燦々とする日差しを避けて日陰を歩きながら駅ビル近くまでやって来ると、ショーウィンドウに自身の姿が映っていた。
私服で会うなんて初めてだ。そもそも今週、予想してない怒涛の展開のまま今日が来たのだ。持ち合わせの服でどうにかめかしこむしかなかった。気張り過ぎても可笑しくなりそうで、考えた結果、水色のシャツワンピにショルダーバッグ、スニーカーという、たくさん歩けそうなスポーティーな服装になってしまった。
地味だったかなぁ…と、ショーウィンドウに映る全身を確認しながら、胸中で呟いた。ショートカットについては前に誉めて貰えたけど、他にどんな服装か好みかなんて知らない。聞く機会もなかったし、聞いたところで自分が東堂くんの恋愛対象になりはしないだろうと思い込んでいたから。鏡代わりにガラス張りの飾り窓に近づいて、前髪を指で整えている最中、隣に並ぶ影にはたと気付いた。
「私服、涼し気でいいな」
声がする方に顔を向けると、東堂くんがそこに居た。黒地に白色で8とプリントされたシンプルなTシャツに、カーキのカーゴパンツ。細身だけど引き締まった体型と、足の長さが際立つ。珍しくグレーキャップをかぶり、髪を一つ結びにして伊達眼鏡をかけている。いつもとだいぶ雰囲気が違って見えた。
「東堂くん…!?お、おはよう」
「ああ、おはよう、汐見。まだ待ち合わせの時間迄まだだいぶあるが、早め行動とは気が合うな」
「何かそわそわしちゃって…」
「俺もだ」
「そうなの?」
「彼女との初デートだからな。浮かれない男などおらんよ」
口角を上げて堂々と告げるものだから、気恥ずかしさに体温がグンと上がってしまいそうになる。しかも今日は一段とカッコイイ。最強美形クライマーと豪語するだけの美しさが、東堂くんにはある。涼し気な目元、筋の通った高い鼻、艶やかな薄い唇。パーツの黄金比はもちろん、どこから見ても完璧だ。瞳の色はアメジストカラーで、宝石のよう。特徴的な眉の形でさえ自信家な彼にしっくり来ている。帽子をかぶってようが眼鏡をかけてようが、彼のオーラが霞むことはない。これが私の“彼氏”だなんて、本当に信じられない。
「今日は何だかいつもの雰囲気と違うね」
「変装仕様になってしまったが、俺だから何でも似合ってしまうな!ワッハッハ!しかし、伊達眼鏡は少々やり過ぎだったか」
「ううん、似合ってるけど――」
変装?と、小首を傾げると、東堂くんは頷いた。しかし、よく通る笑い声を隠さなければ目立ってしまうのでは、と心配になった。
箱根から近いこの小田原は、箱学の生徒もよく遊びに来ている場所だ。大きなショッピングモールがあるおかげで買い物には事欠かないし、飲食店も多数、箱根にはない映画館も小田原にはある。
他の生徒やファンクラブの女子達に見つかっても厄介なので、変装してきたとのことだった。確かに東堂くんはどこにいても存在感がバッチリだから目立ってしまうだろうし、ましてや特定の誰かとデートしてるなんて知れ渡ったら大変だ。
「芸能人のお忍びデートみたいだね」
「面倒事はなるべく避けたくてな。卒業までの間だけ、箱根から近い場所に限っての対策だよ」
やれやれと言った感じでフゥ、と息をつき、東堂くんは肩をすくめた。“卒業までの間”――って、それって、卒業してからも東堂くんの彼女で居られるってことですか?って質問したくなってしまう。
そんな幸せな未来の確約、どれだけ前世で徳を積んだら得られるのだろう。
太陽は既に高く昇り、気温も上がってきていた。これからデートがスタートするって時に、緊張がピークになって体が火照り出す。東堂くんの発する言葉に、一挙手一投足に、全神経が昂っている。赤くなる顔を、チークの色で誤魔化せてるといいなぁと頭の片隅で考えていると、東堂くんはズイッとと距離を詰めて来たので思わず後ずさった。背後のショーウィンドウと彼に挟まれ、背中にひんやりとガラスの温度が伝わった。
真っ直ぐ見据えてから、東堂くんは右手で私の頬を包んだ。親指が、意図せず唇付近に触れる。バクバクと脈打つ自分の心音がうるさすぎて、鼓膜の中で直に鳴ってるかのよう。
「顔、赤いな。熱でもあるのか?」
「な、ないれふ!」
冷静に喋れないまま声を出したら、語尾が変になってしまい動揺してるのも隠しようもない。目前に東堂くんの美しい顔が迫っていて、こんなに至近距離で互いを見つめる状態になったのは当たり前だが、初めてだ。つい三日前まで、私達は部活仲間でしかなかったのだから。
キッチリと揃った二重の幅、黒々とした長い睫毛に、心配そうにひそめた眉。彼の瞳に映るのは、赤らんだ顔色で強張った表情の、わたし。
「いや、熱いぞかなり」
「……夏だからね」
「それはそうだが…」
頬に添えていた手を離し、東堂くんは指先で私の前髪をサラリと撫でた。そして、バクバクと脈打つ心音が、夢じゃないって教えてくれてる。もう片方の手でキャップを脱ぐと、露わになった私のおでこに自分のおでこをくっつけたのだった。
「どれ、測ってみよう」
親が子供の熱を測る際によくやるやつだ。迷いなくこれを相手に出来るというのは、愛情表現の現れ。顔が近づきすぎて東堂くんの全体が把握できない。目前に見えるは顔の一部分のみ。睫毛の束の隙間から見える伏し目がちな瞳に光が反射してキラキラしてる。鼻先が今にもくっつきそう。
血が沸騰する錯覚。何が起きてると脳が理解するや瞬時に体がグツグツと煮えていくようだった。
それ、子供にするやつだよ!――って、苦笑しながら返せていたのならよかったのに。私の脳も体も全神経も、クールに対処できる作りにはなってないし、既にキャパシティを超えている。
顔が離れていった光景が、まるでスローモーションに見えていた――途端、肩の力が抜けて鼻がスース―する。興奮のあまり、私の鼻からは血がツゥと垂れ、着ていたワンピースに赤い水玉を落とした。
・・・
・・・・・
・・・・・・
終わった、もうダメ、完全に嫌われた……。
呆然と落ち込む間もなく、あの後、東堂くんは私をテキパキと介抱してくれた。ハンカチで鼻を抑えながらやや上向きのままの姿勢を保つんだ、と、静かな口調で告げると、手を取ってゆっくりとした歩調で駅ビルの涼しい場所まで誘導してくれた。
エレベーターで上層階まで上がると、長椅子が設置してある開けたエリアに辿り着く。ここにちょっとした休憩が出来る場所がある事を、彼も知っていたようだ。小田原にはよく買い物に来ると話していた事を思い出した。
長椅子の上に仰向けになるようと、言われるままに体を倒すと、東堂くんは自分のボディバッグを枕替わりにと貸してくれた。そんなことまでしてもらえて、心苦しい気持ちになる。甲斐甲斐しいお世話に、泣きそうになってしまう。まだデートが始まってもないのに、出だし早々情けない。
「……熱中症じゃないの」
三十分程度経過した頃、鼻から水の抜けるような感覚はすっかり止まっていた。体を起こして椅子に座り直しながら、ぽつりと漏れた本音に、東堂くんは驚くことなく首を縦に振った。
「マネージャ―を務めるお前に限って、最初から熱中症だとは疑ってないよ。緊張してる事に気付いていたが…いや、万が一にも具合でも悪いのかと……すまんね、ついやり過ぎてしまったな。あんな風に熱を測るなど」
「う、ううん、それは全然…!どのみち鼻血出してたと思うし」
「どのみち?」
「や、あの、それより……嫌いになったりしてない?」
「こんなことで嫌いになるものか。今だから言えるが、俺だって汐見が原因で鼻血を出したことがあるのだぞ」
「えっ、ウソ、いつ?…前に、スカートのを顔の上から押し付けた時?」
「そうだ。ちなみに、圧迫が原因じゃないからな?……俺とて健全な男子高生だ。察してくれ」
「あ………」
横になってる間、一定のリズムを刻むよう言い聞かせていた心臓がまた高鳴り出す。東堂くんにそんな男の子らしい一面があったなんて、意外だ。隣に座る彼を観れば、顔色は変わっていない代わりに、耳の端っこが赤味を帯びている。
部活で毎日顔を合わせていても、どこか遠くにいる存在だと思っていた。自信満々で己の美学を掲げる姿には憧れるし、音もなく加速して山を登って行く華麗な走りは見惚れてしまう。彼を見上げるばかりで、同じ世界にいるのに手が届かない人なのだと。なのに、今目の前にいる“東堂くん”は歳相応の男の子だ。私が勝手に線引きをして、神格化してただけなのかも知れない。
気持ちが通じ合えたのに相手に向き合わないなんて――したくない。
「今日は一日中、見つめててもいいかな」
「ああ、穴が開くほど見つめてくれて構わんよ」
「慣れるまで頑張るから。ドキドキしちゃうと思うけど…」
「確かに、慣れてもらわないと困る。これから俺たちは、……だ、男女の交際をするのだから」
「う、うん」
“この程度で鼻血を出していたら先に進めない”とでも言いたげだ。東堂くんの言葉を深読みして、気恥ずかしさからしばしの沈黙が流れた後、膝の上で固く握った私の手の上に一回り大きな彼の手が重なった。肌は色白く細く長い指が繊細だが、骨ばった手の甲は男らしさを感じる。“手が届かない”と思っていた存在に、“手”を握られているなんて、不思議だ。
東堂くんの『特別』になったという自覚は、きっと日々の積み重ねで芽生えていく。逸る鼓動をコントロールするのは難しそうだけれど。
「今日は涼しい場所で過ごそうか。小田原にはカフェもたくさんあるんだ。夕暮れ時になったら、浜辺まで散歩に行くのもいいだろう」
穏やかな口調に、心が解けていくみたい。東堂くんがこちらに顔を向けたのを視界の端で捉え、私も俯いていた顔を上げて互いを見交わした。慈愛に満ちてた目の色、深い紫色の煌めきに惹き込まれる。彼の瞳の中に映る私と、目が合った。
「どうしてお前を好きになったのか、ゆっくりと伝えたかったんだ。好意のある素振りは隠して接していたからな。突然の告白で驚かせてしまっただろう。今日に至るまでの想いを聞いてくれるか?――汐見、“琴音”」
こんなにも甘く響く音で名前を呼ばれたのは、生まれて初めてだった。たった一人、私だけの名前を大事に告げられ、目の奥がジンとなって胸の奥が切なくなる。ときめきが溢れ、照れを誤魔化すことも上がる体温も阻止できない。
「尽八くんの話、聞かせて欲しい。私からも話したいな」
「うむ。互いに回想編といこうではないか!」
私の手を取ったまま尽八くんは立ち上がって、嬉しそうな笑顔を見せた。いくら変装していても、彼特有の眩しさは隠せてないなぁと思った。
「とびきり心地いい響きなのだな。好きな相手に名を呼ばれるというのは」
見上げれば目を細めて微笑む愛しい人がいる。優しい言葉にしっかり頷いて、同じ気持ちを噛み締めた。好きな相手、だなんて恐縮しちゃうけど、どんなシーンにも慣れていかないと。私はもう尽八くんの彼女なのだから。
さすがに、赤い染みかついた服のままだと恥ずかしいから、まずはショッピングモールで新しいワンピースを尽八くんに選んでもらおう。どんな服が好みなのか、これを機に知っておきたい。恋人の好みを知りたいと思うのは、ごく自然なことだ。
告白された三日前のあの日が『忘れられない日』になったのは間違いないのに、またしても『忘れられない日』が増えていく。ひとつずつ確かめ合うように、知らなかったことを知っていく。これからは、たくさん名前を呼び合おう。手を繋いで一歩一歩、恋人らしい二人になっていけたらいい。
――信じられない事に、三日前に好きな人から告白された。
経過しても未だ現実味がなく混乱が極まっている。何せ、そんなミラクルを引き寄せる体質でない限り、思い当たる節もない。夕暮れの告白シーンを何度も頭の中で繰り返し回想しては、あれは自分の妄想でなく現実に起きたことではないかと疑ってしまう。
夏の夜空に浮かぶ青白く光る月を眺めながら、夢の中にいるみたいに心がふわふわと浮いていた。
二年の秋…正確には夏休み明けから、自転車競技部にマネージャー兼マッサーとして途中入部していた私は、他の女子よりも東堂くんとの関わりは少なかった。
彼と同時期に入部した女子マネや、先輩達の方が、過ごしてきた時間も長ければ関係性も深い。クラスも委員会も東堂くんと同じになったことはなかったけれど、学園内にファンクラブもあるような有名人だから知っていたというぐらいで、入部するまでは話したこともなかった。時々、寿一くんから聞いていた“優秀なクライマー”の話が彼の事なのだと、頭の中で一致したのも入部後のこと。
異性の部員同士、適度な距離を保ちつつ話したりと入部してからは関わりを持ち、僭越ながらマッサーとして足を触らせてもらったこともあるが、それを加味しても接触は些細なものだ。
どういうルートで東堂くんからの告白エンドに辿り着いたのか、どれが伏線になっていたというのか未だに解明しない。自分からならまだしも、彼の方からの告白は、まさに晴天の霹靂――告白エンドと同時に新たな関係が始まろうとしている。
□ □ □
部室内の空調機器点検の為に部活が休みになった金曜日に続き、あらかじめオフ日に設定されていた翌日の土曜日。久々に訪れた完全な休日。レギュラー陣は自主練もあるし、インハイまではしばらく休みらしい休みがなさそうだからと、告白された日に連絡先を交換し連絡を重ねて急遽デートすることになった本日――緊張のあまり待ち合わせの一時間前に私は小田原駅前に到着していた。
梅雨明けした七月初旬、まだ午前中だというのに太陽は容赦なくアスファルトを照り付ける。燦々とする日差しを避けて日陰を歩きながら駅ビル近くまでやって来ると、ショーウィンドウに自身の姿が映っていた。
私服で会うなんて初めてだ。そもそも今週、予想してない怒涛の展開のまま今日が来たのだ。持ち合わせの服でどうにかめかしこむしかなかった。気張り過ぎても可笑しくなりそうで、考えた結果、水色のシャツワンピにショルダーバッグ、スニーカーという、たくさん歩けそうなスポーティーな服装になってしまった。
地味だったかなぁ…と、ショーウィンドウに映る全身を確認しながら、胸中で呟いた。ショートカットについては前に誉めて貰えたけど、他にどんな服装か好みかなんて知らない。聞く機会もなかったし、聞いたところで自分が東堂くんの恋愛対象になりはしないだろうと思い込んでいたから。鏡代わりにガラス張りの飾り窓に近づいて、前髪を指で整えている最中、隣に並ぶ影にはたと気付いた。
「私服、涼し気でいいな」
声がする方に顔を向けると、東堂くんがそこに居た。黒地に白色で8とプリントされたシンプルなTシャツに、カーキのカーゴパンツ。細身だけど引き締まった体型と、足の長さが際立つ。珍しくグレーキャップをかぶり、髪を一つ結びにして伊達眼鏡をかけている。いつもとだいぶ雰囲気が違って見えた。
「東堂くん…!?お、おはよう」
「ああ、おはよう、汐見。まだ待ち合わせの時間迄まだだいぶあるが、早め行動とは気が合うな」
「何かそわそわしちゃって…」
「俺もだ」
「そうなの?」
「彼女との初デートだからな。浮かれない男などおらんよ」
口角を上げて堂々と告げるものだから、気恥ずかしさに体温がグンと上がってしまいそうになる。しかも今日は一段とカッコイイ。最強美形クライマーと豪語するだけの美しさが、東堂くんにはある。涼し気な目元、筋の通った高い鼻、艶やかな薄い唇。パーツの黄金比はもちろん、どこから見ても完璧だ。瞳の色はアメジストカラーで、宝石のよう。特徴的な眉の形でさえ自信家な彼にしっくり来ている。帽子をかぶってようが眼鏡をかけてようが、彼のオーラが霞むことはない。これが私の“彼氏”だなんて、本当に信じられない。
「今日は何だかいつもの雰囲気と違うね」
「変装仕様になってしまったが、俺だから何でも似合ってしまうな!ワッハッハ!しかし、伊達眼鏡は少々やり過ぎだったか」
「ううん、似合ってるけど――」
変装?と、小首を傾げると、東堂くんは頷いた。しかし、よく通る笑い声を隠さなければ目立ってしまうのでは、と心配になった。
箱根から近いこの小田原は、箱学の生徒もよく遊びに来ている場所だ。大きなショッピングモールがあるおかげで買い物には事欠かないし、飲食店も多数、箱根にはない映画館も小田原にはある。
他の生徒やファンクラブの女子達に見つかっても厄介なので、変装してきたとのことだった。確かに東堂くんはどこにいても存在感がバッチリだから目立ってしまうだろうし、ましてや特定の誰かとデートしてるなんて知れ渡ったら大変だ。
「芸能人のお忍びデートみたいだね」
「面倒事はなるべく避けたくてな。卒業までの間だけ、箱根から近い場所に限っての対策だよ」
やれやれと言った感じでフゥ、と息をつき、東堂くんは肩をすくめた。“卒業までの間”――って、それって、卒業してからも東堂くんの彼女で居られるってことですか?って質問したくなってしまう。
そんな幸せな未来の確約、どれだけ前世で徳を積んだら得られるのだろう。
太陽は既に高く昇り、気温も上がってきていた。これからデートがスタートするって時に、緊張がピークになって体が火照り出す。東堂くんの発する言葉に、一挙手一投足に、全神経が昂っている。赤くなる顔を、チークの色で誤魔化せてるといいなぁと頭の片隅で考えていると、東堂くんはズイッとと距離を詰めて来たので思わず後ずさった。背後のショーウィンドウと彼に挟まれ、背中にひんやりとガラスの温度が伝わった。
真っ直ぐ見据えてから、東堂くんは右手で私の頬を包んだ。親指が、意図せず唇付近に触れる。バクバクと脈打つ自分の心音がうるさすぎて、鼓膜の中で直に鳴ってるかのよう。
「顔、赤いな。熱でもあるのか?」
「な、ないれふ!」
冷静に喋れないまま声を出したら、語尾が変になってしまい動揺してるのも隠しようもない。目前に東堂くんの美しい顔が迫っていて、こんなに至近距離で互いを見つめる状態になったのは当たり前だが、初めてだ。つい三日前まで、私達は部活仲間でしかなかったのだから。
キッチリと揃った二重の幅、黒々とした長い睫毛に、心配そうにひそめた眉。彼の瞳に映るのは、赤らんだ顔色で強張った表情の、わたし。
「いや、熱いぞかなり」
「……夏だからね」
「それはそうだが…」
頬に添えていた手を離し、東堂くんは指先で私の前髪をサラリと撫でた。そして、バクバクと脈打つ心音が、夢じゃないって教えてくれてる。もう片方の手でキャップを脱ぐと、露わになった私のおでこに自分のおでこをくっつけたのだった。
「どれ、測ってみよう」
親が子供の熱を測る際によくやるやつだ。迷いなくこれを相手に出来るというのは、愛情表現の現れ。顔が近づきすぎて東堂くんの全体が把握できない。目前に見えるは顔の一部分のみ。睫毛の束の隙間から見える伏し目がちな瞳に光が反射してキラキラしてる。鼻先が今にもくっつきそう。
血が沸騰する錯覚。何が起きてると脳が理解するや瞬時に体がグツグツと煮えていくようだった。
それ、子供にするやつだよ!――って、苦笑しながら返せていたのならよかったのに。私の脳も体も全神経も、クールに対処できる作りにはなってないし、既にキャパシティを超えている。
顔が離れていった光景が、まるでスローモーションに見えていた――途端、肩の力が抜けて鼻がスース―する。興奮のあまり、私の鼻からは血がツゥと垂れ、着ていたワンピースに赤い水玉を落とした。
・・・
・・・・・
・・・・・・
終わった、もうダメ、完全に嫌われた……。
呆然と落ち込む間もなく、あの後、東堂くんは私をテキパキと介抱してくれた。ハンカチで鼻を抑えながらやや上向きのままの姿勢を保つんだ、と、静かな口調で告げると、手を取ってゆっくりとした歩調で駅ビルの涼しい場所まで誘導してくれた。
エレベーターで上層階まで上がると、長椅子が設置してある開けたエリアに辿り着く。ここにちょっとした休憩が出来る場所がある事を、彼も知っていたようだ。小田原にはよく買い物に来ると話していた事を思い出した。
長椅子の上に仰向けになるようと、言われるままに体を倒すと、東堂くんは自分のボディバッグを枕替わりにと貸してくれた。そんなことまでしてもらえて、心苦しい気持ちになる。甲斐甲斐しいお世話に、泣きそうになってしまう。まだデートが始まってもないのに、出だし早々情けない。
「……熱中症じゃないの」
三十分程度経過した頃、鼻から水の抜けるような感覚はすっかり止まっていた。体を起こして椅子に座り直しながら、ぽつりと漏れた本音に、東堂くんは驚くことなく首を縦に振った。
「マネージャ―を務めるお前に限って、最初から熱中症だとは疑ってないよ。緊張してる事に気付いていたが…いや、万が一にも具合でも悪いのかと……すまんね、ついやり過ぎてしまったな。あんな風に熱を測るなど」
「う、ううん、それは全然…!どのみち鼻血出してたと思うし」
「どのみち?」
「や、あの、それより……嫌いになったりしてない?」
「こんなことで嫌いになるものか。今だから言えるが、俺だって汐見が原因で鼻血を出したことがあるのだぞ」
「えっ、ウソ、いつ?…前に、スカートのを顔の上から押し付けた時?」
「そうだ。ちなみに、圧迫が原因じゃないからな?……俺とて健全な男子高生だ。察してくれ」
「あ………」
横になってる間、一定のリズムを刻むよう言い聞かせていた心臓がまた高鳴り出す。東堂くんにそんな男の子らしい一面があったなんて、意外だ。隣に座る彼を観れば、顔色は変わっていない代わりに、耳の端っこが赤味を帯びている。
部活で毎日顔を合わせていても、どこか遠くにいる存在だと思っていた。自信満々で己の美学を掲げる姿には憧れるし、音もなく加速して山を登って行く華麗な走りは見惚れてしまう。彼を見上げるばかりで、同じ世界にいるのに手が届かない人なのだと。なのに、今目の前にいる“東堂くん”は歳相応の男の子だ。私が勝手に線引きをして、神格化してただけなのかも知れない。
気持ちが通じ合えたのに相手に向き合わないなんて――したくない。
「今日は一日中、見つめててもいいかな」
「ああ、穴が開くほど見つめてくれて構わんよ」
「慣れるまで頑張るから。ドキドキしちゃうと思うけど…」
「確かに、慣れてもらわないと困る。これから俺たちは、……だ、男女の交際をするのだから」
「う、うん」
“この程度で鼻血を出していたら先に進めない”とでも言いたげだ。東堂くんの言葉を深読みして、気恥ずかしさからしばしの沈黙が流れた後、膝の上で固く握った私の手の上に一回り大きな彼の手が重なった。肌は色白く細く長い指が繊細だが、骨ばった手の甲は男らしさを感じる。“手が届かない”と思っていた存在に、“手”を握られているなんて、不思議だ。
東堂くんの『特別』になったという自覚は、きっと日々の積み重ねで芽生えていく。逸る鼓動をコントロールするのは難しそうだけれど。
「今日は涼しい場所で過ごそうか。小田原にはカフェもたくさんあるんだ。夕暮れ時になったら、浜辺まで散歩に行くのもいいだろう」
穏やかな口調に、心が解けていくみたい。東堂くんがこちらに顔を向けたのを視界の端で捉え、私も俯いていた顔を上げて互いを見交わした。慈愛に満ちてた目の色、深い紫色の煌めきに惹き込まれる。彼の瞳の中に映る私と、目が合った。
「どうしてお前を好きになったのか、ゆっくりと伝えたかったんだ。好意のある素振りは隠して接していたからな。突然の告白で驚かせてしまっただろう。今日に至るまでの想いを聞いてくれるか?――汐見、“琴音”」
こんなにも甘く響く音で名前を呼ばれたのは、生まれて初めてだった。たった一人、私だけの名前を大事に告げられ、目の奥がジンとなって胸の奥が切なくなる。ときめきが溢れ、照れを誤魔化すことも上がる体温も阻止できない。
「尽八くんの話、聞かせて欲しい。私からも話したいな」
「うむ。互いに回想編といこうではないか!」
私の手を取ったまま尽八くんは立ち上がって、嬉しそうな笑顔を見せた。いくら変装していても、彼特有の眩しさは隠せてないなぁと思った。
「とびきり心地いい響きなのだな。好きな相手に名を呼ばれるというのは」
見上げれば目を細めて微笑む愛しい人がいる。優しい言葉にしっかり頷いて、同じ気持ちを噛み締めた。好きな相手、だなんて恐縮しちゃうけど、どんなシーンにも慣れていかないと。私はもう尽八くんの彼女なのだから。
さすがに、赤い染みかついた服のままだと恥ずかしいから、まずはショッピングモールで新しいワンピースを尽八くんに選んでもらおう。どんな服が好みなのか、これを機に知っておきたい。恋人の好みを知りたいと思うのは、ごく自然なことだ。
告白された三日前のあの日が『忘れられない日』になったのは間違いないのに、またしても『忘れられない日』が増えていく。ひとつずつ確かめ合うように、知らなかったことを知っていく。これからは、たくさん名前を呼び合おう。手を繋いで一歩一歩、恋人らしい二人になっていけたらいい。