短編・中編
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precious heart
※大学編
会えない時間が愛を育てる――遠距離恋愛ではよくある事例だが、俺たちの場合は“遠距離”とは呼ばない。茨城と東京、同じ関東圏。日帰りでも会いに行ける距離だ。卒業に向け徐々に忙しくなる学生生活の中でも、頻繁に連絡を取り合い、月に一度は必ずデートをした。会える時間が充分でない日も、どうにか都合を合わせて予定を作った。顔を合わせて直接話をしたり、互いを確かめるように触れ合ったりと、当然のように愛が育ってゆく。
年明けからのデート、女子特有の月のもので体を重ねる事が出来ず――迎えた春休みに、再び二泊三日で俺は琴音のアパートに泊まっていた。夜になれど、眠らない。眠れない。カーテンの隙間から月明りが照らしていたこの部屋に、間もなくぼんやりとした暁の光が差し込んでくるだろう。
去年の夏、酒が入っていたとは言え半ば強引に抱いてしまった件を反省し、紳士的な振舞いを心がけようと誓ったはずなのだが。
二月、三月と、転勤や引っ越しのシーズンもあってか、隣と下の階の部屋が空室になっていると聞いた後、『私もしたかった』と、頬を赤らめながら琴音に告げられた途端に、己で交わした紳士協定などはどこぞへと吹っ飛んでいった。
三ヵ月ぶりに触れる彼女の肌に、悶々と過ごしていた日々が頭を過る。だが、再会してすぐ貪欲にならないように自身をコントールし、レース前の調整の如く内面のコンディションも万全にした。だが、魅力的なたった一言によって容易に覆される。どれほど決意しても、積もり積もった恋しさには敵わない。
寄せては返す波のように、果てる都度訪れる小休止も束の間、昂ぶりが蘇る。薄い皮膚を撫で回し、再び善がる姿を恍惚としながら細部まで凝視した。理性などとうに手放したと自覚して尚、熱が上る。彼女の嬌声はじきに掠れ、時々涙混じりに変わった。もっと声が聴きたくて、俺は再びヘッドボードに手を伸ばす。今日開封したわけではないにしても、手にしたスキンの箱の軽さに苦笑する。頭の中でいくら自制しようが尽きるまで止められないなど、ただの獣か。
唇を食むように深く口付けたなら、甘い声ごと飲み込めてしまえばいいのに。数度目の絶頂を目指し、俺は繋がりを求めて琴音の膝裏に手を伸ばした。全てを暴きたい。暴かせて欲しい。二人、汗ばんだ肌の匂いが混ざって、シーツに染み込んでいった。
□ □ □
シングルベッドで身を寄せ合い、一枚の羽毛布団の中で互いの体温を感じながら昼過ぎまで深く眠った後、すっかり南中高度まで上った太陽はカーテン越しに部屋まで光を届けていた。眩しさに自然と目を開き、静かに寝息を立てて眠っている恋人を眺めた。その幸福感たるや、まるで夢の中にいるようだ。二度寝したい気持ちを堪えて身を起こすと、俺の動きに反応した琴音も薄く目を開いた。
「…おはよう。起こしてしまったな」
眠たげな表情も愛らしい。焦点の定まっていない視点は、瞬きを数度繰り返すうちにしっかりと俺を捉えた。かろうじて身に着けた薄手のキャミソール、鎖骨周りに朱色の跡が点々と散っている。
何か言いたそうにして口をはくはくとさせた後、小首を傾げて琴音はもう一度唇を開いた。
「おはよ、う」
喉に何本もの棘が突き刺さったような濁音混じりの掠れ声が部屋に小さく響き、目を見開いた。一瞬で明け方まで情事を回想したのか、琴音は顔を真っ赤にして枕を抱え込んだ。逆に、あまりのガラガラ声に俺は青ざめる。元凶は自分だと瞬時に悟ったからだ。
俺が加減せず、傷つけた。
「喉、大丈夫…じゃないな?痛むか!?」
「ひどい声だけど、だいじょうぶ」
「体は?何ともないか?」
「ちょっと筋肉痛?ぐらいかな」
「また、俺が……」
「……ううん」
眉間に皺を寄せて首を横に振る仕草で、“違う”と否定しているよう。琴音はヘッドボードに置いてあるスマホを掴み、素早く文字を打ち始め、筆談の代わりメモ帳らしき画面を見せて来た。
《尽八くんのせいじゃないよ》
《昨日から部屋が乾燥してたのかも》
《最近、加湿器の効きも悪かったし、新しいのちゃんと買うね》
一文打つごとに画面を向けて、琴音は照れくさそうに微笑んだ。俺自身が律しなければならないのに、いつも許されてはそれに甘えてしまう。こんなだらしのない男じゃなかったはずだ。会えない時間がそうさせるのか、若さゆえなのか。庇ってくれるのはありがたいが、事実、昨夜は琴音が声を枯らすほどの夜だった。…というか、終わったのは夜が明けて日が昇った頃。こうなると俺以外が原因だと言う方が不自然だ。男女の関係になって、あれほど激情に身を焦がした夜は、琴音との記憶を辿っても初めてだ。
「とにかく、今日はあまり声を出さない方がいいな」
どの口がそれを言うか、と問われたら反論の余地もない。琴音の髪を撫でながら、次の行動を頭の中に巡らせた。一緒にシャワーを浴びたいところだが、お互いの為に辞めた方がいいだろう。俺が昼食を用意してる間に交代で――と、順を追って考えていたら、今夜の予定を思い出した。フク達と久々に夕飯を共にするという約束を。寝起きから自責の念に駆られていたのもあり、忘れたつもりはなかったが、すっかり頭から抜けていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
トーストにスクランブルエッグ、ツナとトマトのサラダ。空腹に対して昼食がだいぶ簡単なものになってしまった。しかし今夜は夕方6時に店内で待ち合わせだ。昼は軽めがいいだろうと小腹を満たす程度にしておいた。
筑士波大自転車競技部の創設と初レースでの表彰台の成果を祝して集まった、茨城でも有名な人気の店『とんかつの家』。この店が都内に二号店を出店したと知り、“食べてみたい!”と琴音にリクエストされたのが今回のキッカケとなった。俺が都内に来る際、タイミングが合えばフクや新開も一緒にどうかと彼女が声を掛けたらしい。久々にレース以外の場所で集まれたらいね!と、電話した時に弾んだ声で話していた。
横浜に帰省していた荒北にも連絡を取ったらしく、奴からは『行く』とだけ返信がきたようだ。ということは、インハイを一緒に走ったメンバーの四人と、マネージャー……この五人になるわけだ。ここに女子が一人混ざってるのが不思議に思えるが、それは“琴音以外”だったらの話だ。俺の恋人であり、フクにとっては幼馴染なのだから、何ら問題はない。
――今問題なのは、枯れさせてしまった声のことだ。
身支度をして早々にアパートを出て向かった先は、『とんかつの家・二号店』の最寄り駅にある家電量販店。待ち合わせまでまだ時間もあるし、早速、新しい加湿器を見繕うためにやって来た。
“最近、加湿器の効きも悪かったし”…という一文、俺が罪悪感に苛まれない為の優しい嘘かと思ったが、琴音がシャワーを浴びてる隙に室内に置いてある加湿器を確認したら、ミストの出が悪くなっていた。とっくに保証期間も切れてるようで、買い替え時なのは違いないらしい。
「尽八くん、こっち!」
名を呼ぶ掠れ声が耳に響き、指差す方向に視線を移せば、ズラリと並ぶ加湿器コーナー。縦長のものから丸い球体のような形のものまで様々だ。
ちなみに昼食の後、はちみつ紅茶やのど飴を試してみたが効果はなかった。治るまでなるべく喉を休める他ない。取り急ぎ咽喉痛に効く鎮痛剤だけ飲んでもらった。
色事の声は通常の発声とは違う。ちょっとやそっと喋り過ぎたぐらいじゃこうはならない。俺が動く度、脳に響く艶かしく甲高い声は、発してるというよりはコントロールを失っているし、時折、喉が引きつるように鳴っていた。感度が極限まで高まっていたから、息が漏れるような喘ぎで多量の空気を喉に通し、余計に乾燥してしまったのだろう。喉に負荷を――
「……俺は何を分析してるんだ!!」
突然、独り言を張り上げてしまい、その拍子に琴音の肩がビクリと震える。驚いた後、《どうかした?》とスマホに文字を打ち俺の目前に掲げた。分析してる場合じゃなかったな。
「いや、気にするな。それより、目ぼしいものはあったか?選んだら教えてくれ」
《いいけど、家電チェック?》
「チェックではない。俺が購入する為だ」
《おそろいで欲しいの?》
「いや、お前の部屋に置く用にだ。買い替えるつもりで来たのだろう?」
《うん。自分で買うつもりで…》
「待て、俺から贈ってはダメか?」
《どうして?》
「長い休みの度に泊まらせてもらってる、恋人の部屋に置く必要な物だからだよ」
《ホントにそれが理由?》
真っ直ぐな眼差しで見つめられ、溜息が漏れた。本音を隠してるんじゃないかって見透かされてるよう。会話とは、言語が扱える人間に許された最たるコミュニケーション。それがスムーズに取れないとなると、やり取りもテンポ悪くもどかしい。登れる上にトークも切れる、さらにこの美形――天は俺に三物を与えたが、今日ばかりはトークが鈍る。
「……せめてもの詫びだ」
《やっぱり。お詫びとか大袈裟だから》
「傷つけたんだぞ」
《傷って、ただの炎症だよ。痛みはないしすぐ治るから》
「だとしても、」
俺が一方的に喋ってる違和感はあるだろうが、加湿器のコーナーで男女が向かい合っている様は、他人から見れば真剣にどれを買うか悩んでる客に見えるだろう。
数は多いが、部屋に設置できるぐらいの大きさに限定すれば悩むほどではない。テレビを探す方がよっぽど時間がかかる。
引き下がらない俺の言葉に、琴音は指先を唇に当てて抗議の如くじっと見つめてくる。こんな事態を招いた俺が思うのも忍びないが、見慣れない仕草が新鮮で可愛らしい。
「今日、フク達と会う予定は予め分かっていた事だ。お前だって久々に皆と話がしたかっただろうに……、配慮が足りなかった。だから――」
言いかけた刹那、顔に影がかかる。最後まで聞かずに、琴音は軽く俺の額に人差し指を向け、軽く弾いた。全然痛くないデコピンを食らい、ちょっとしたお仕置きに目を丸くしていると、彼女は再びスマホで文字を打ち始めた。
《そんなことで謝って欲しくないよ。悪いと思って欲しくない》
《予定がわかってたのは私も同じだし、結果、喉をちょっと傷めたってだけで。労わってくれるのは有難いけど、心配し過ぎだよ》
《何だかいつもの尽八くんじゃないみたい》
頬を膨らませてムスッとした顔を前に、声には“感情”があるのだと改めて知る。怒っているのか?どの程度?話せたのならどんな風に伝えていた?文字だけだと心情まで読み取れない。
「余計な心配だったか。お前にとっては煩わしいだけなのかも知れんな」
自嘲気味に告げたら、琴音は首を横に振って否定していたが、スマホに文を打ち込むことはなかった。明確に返答したくないのだろうか。ひそめた眉、少し尖らせた唇――珍しい表情だ。意志疎通が出来ないというよりは、謝りたい俺と謝ってほしくない琴音で心が食い違う。
結局、加湿器をテキパキと選んで彼女は自分で購入していた。以前より少し大きめのものを、配送で届くように手配してもらっていたようだ。レジで俺が無理に支払だけしようものなら、余計に怒らせてしまうだろうから、それはやめておいた。
――“いつもの尽八くんじゃないみたい”…と、琴音が打ち込んだ一文。そこに悪気はない。
自信に満ちたいつもの俺だとしても、お前に嫌われるのは怖いと思うよ。それは恋人として当然の感情だろう?
・・・・・・
早めに店に到着し、琴音の代わりに予約の名前を伝えると奥の座席に案内された。茨城にある一号店と同じく、古民家の柱やハリを移築して建造された店内は木のあたたかみがある。天井から吊るされたランプは暖炉の炎を連想させる橙色で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
初めて訪れた琴音は、店内を見渡しながら目を輝かせている。美味しそうなとんかつの香りが鼻をくすぐった。
「言い出しっぺが一番最後に到着かヨ!」
店員に案内され辿り着いた座敷の予約席に、俺たち以外の三人がローテーブルを囲んで座っていた。ニヤけながらわざと悪態づいた荒北に、琴音は両手を合わせて謝るジェスチャーをして笑顔を向けた。
フク、新開、荒北――大学生レースでは度々顔を合わせていたが、レース以外となると集まるのは久々だ。
「みんな、ひさしぶり!」
俺よりも三人に会うのが久しかった彼女は、テンション高く喜びの声を上げた。ガラガラでカスカスの声に驚愕し、三人とも表情が固まっている。見た目は“汐見琴音”なのに、自分達の記憶とは違う音が出ているからだ。
「汐見、声どしたァ!?」
「風邪かい?…あ、そろそろ花粉もか」
「体調は問題ないのか?琴音」
質問攻めに合い頷きながらも、右手の親指と人差し指で“丸”を作って『OK』を示し、琴音は座布団の上に腰を下ろした。
《タイミング悪く喉風邪引いちゃって。熱も痛みもないんだけど、声だけ出しずらいの。ごめんね。今日はジェスチャーとスマホを使ってお話するね》
俺とフクが並び、ローテーブルを挟んで向かいに荒北と新開、真ん中の誕生日席な場所に彼女が座っている。スマホに打ち込んだ画面を向けると、全員が確認することが出来る位だから丁度いいだろう。風邪ネェ、と、素っ気ない返事をした荒北はさておき、他の二人は納得したようだ。
とりあえずメニューを選ぶのが先決だ。春休み中だからか、店内も徐々に込み合ってきており、揚げたてのカツが提供されるまで時間がかかる。俺は前回と同じロースカツ『家』御膳を頼み、琴音も同じものを手を挙げていた。茨城で食べた時は、明早・洋南のメンバーと偶然鉢合わせ、荒北に横から茶々を入れられたせいでだいぶ落ち着かなかった。今日こそしっかり味わえるチャンスだったのだが、今度は琴音の様子が気になって仕方ない。彼女を目で追えば、俺の左隣に座るフクの表情も自然と視界に入る。幼馴染との再会に、かつて荒北に“鉄仮面”と呼ばれていたフクの固い表情も、微かに緩んでいた。
「東堂ォ、ちょっと来い」
全員がメニューを頼み終えてすぐ、荒北に呼び出され店の外にやって来た。後から新開もついて来て、入口から離れた外看板の前で男三人が向かい合う。
「どう考えても汐見のアレは風邪じゃねェ。涼しい顔してやることやってんなァ」
外に連れ出してまで何を言うかと思えば、琴音の風邪が嘘だとアッサリ当てられた。
「お、…おい!下世話な想像をするな!」
「……お前ウソ隠すの下手すぎ。声裏返ってんぞ」
夕陽が落ちてあたりは暗くなっても、都内の夜は明るい。立ち並ぶビルの明かりが街を照らしていた。結果、紅潮する顔色と沈黙によって、荒北の発言を認める羽目になってしまった。熱を冷ますように、春の夜風が頬を撫ぜていく。普段なら荒北のくだらんからかいなどかわせるのに。今回の原因が自分なだけに、言い返す気になれなかった。
「まぁまぁ、喉風邪の件は深くは聞かないよ。でも、おめさん達の雰囲気が妙だなぁって思ってさ。ケンカでもした?」
「ケンカという程ではないのだが、まぁ……」
「ハッ、らしくねーの。ウジウジしてんなよ、ダッセ!どーせたいした話じゃねぇんだろ」
「ダサくはないな!?まったく、適当か」
「適当じゃねーよ。汐見はフクちゃんの幼馴染だし、おめーが選んだ女だろ」
「ゆえに大丈夫だと?……ほう、荒北にしては的を射た事を言う」
「テメ、さっきの件を死ぬほどからかってやろーか」
こいつの細長い三白眼、人相と口の悪さは大学生になって磨きがかかっているようだ。負けじと眉を吊り上げ睨み返すも、数秒後、新開が俺たちの肩に手を置いて仲裁に入り、不毛な小競り合いは中断された。
「そこまで深刻じゃなきゃ、たまには小さなケンカもいいんじゃない?余計な世話焼いて悪かったな、尽八」
「いいんだ。気にかけてくれて感謝してるよ。荒北、お前にも一応、小指の爪ほどの礼を言っておこう」
「るっせ!そんなんいらねーわ」
安堵したように息を吐いた新開は、相変わらず感心するほどに気が利く。高校の頃、俺と荒北が揉め始めるといつも止めに入ってくれていたな。荒北も呼び出した理由は同じだろう。態度も口も悪いが根はいい奴だ。
琴音と付き合って三年半以上経つが、ケンカらしいケンカなんてしたことがなかった。常にお互いの意見を尊重し合い、優しさを与え合える関係。会える頻度の割に、少しのすれ違いもなく過ごしていた。だからこそ、時々の僅かなズレが綻びに感じてしまう。大事にしたいのに壊れるほど抱いてしまう、二律背反。根底に信頼と愛情があるからこそ許され、心を預け合っている。琴音は俺を嫌いになったりはしない。情が深い彼女に普段から接していれば、分かることだ。
――琴音が嫌だったのは、俺が悔やむように謝ったこと。勿論、悔いなど一切無く行いを払拭したいわけでもなかったのに、上手く伝わらなかった。自分の落ち度だ。罪悪感など、二人の思い出に水を差すだけなのに。
店内に戻り自分たちのテーブルを遠目に見ると、そこには人数分の水とおしぼりだけが置いてあった。頼んだ定食はまだ運ばれていないようだ。座敷の入口まで進み、何となく琴音とフクの死角になってる場所で靴を脱いで板の間に上がると、ふと、二人の会話が聞こえてきた。立ち止まる俺のすぐ背後で、荒北と新開も足を止めて聞き耳を立てる。
「東堂との交際は順調か?」
フクは昔と変わらず、抑揚のないトーンで切り出した。質問の内容がまるで彼氏を持つ父親のようだ。……ってオイ!何を聞いてるんだフクよ!?ツッコみたい気持ちを抑え、固唾を呑んで見守っていると彼女はすぐに頷いた。
「大事にされているか?」
続く質問に、口元を綻ばせて再び琴音はさっきよりも深く頷き、両手でハートマークを作りながら目を細めて笑った。
「……そうか」
それを確認したかったとばかりに、フクは満足そうに腕を組んだ。奴もまた、俺と琴音の間に流れていた微妙な空気を察知していたのだろうか。友に気にかけてもらえると言うのは、心がこそばゆくなるものだ。
声が出せない代わりに、両手で形作ったハートマーク。“とても大事にしてもらってるよ”――と、言葉はなくとも気持ちが真っ直ぐ胸に届いてきて、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動が込みあげた。迷いも屈託もなく肯定する姿に、心に火が灯るようにあたたかくなる。
「尽八、おめさん……」
「どんだけ惚れてんだ……」
無意識に、目から涙がドッと溢れていた。どうりで頬が冷たいわけだ。顎を伝って流れ落ち、シャツにしみ作っていく。荒北と新開の声でこちらに気づいた琴音は、体勢を傾けながらテーブルに身を乗り出した。刹那、滲む視界の中で視線が交わる。彼女は慌てて座布団から立ち上がり小走りで近づいてくると、俺の手を包むように握り締めた。体温が伝播して、冷えていた手が簡単にほぐれていく。後ろに居た二人は互いに目配せをすると、琴音と入れ違いに席へと戻って行った。
「どうしたの尽八くん、泣いて……何かあったの?……大丈夫?」
「ああ、問題ないよ」
感情が高ぶってこんな泣き方をしたのは、かつて山岳ゼッケン争いでライバルが俺を追って登場して来た時以来だ。
未だ不安気に八の字に眉を寄せたまま、片方の手を俺から離すと、琴音はおもむろにポケットからスマホ取り出し、画面が見えるようにこちらに向けた。
《そんな風に思ったこと一度もないよ》
《いつも大切にしてくれてありがとう》
あらかじめ打たれた文字は、彼女からの答え。“お前にとっては煩わしいだけなのかも知れんな”――という、俺の言葉に対してのものだった。あの後、考えて文を打ってくれていたのか。この上なく嬉しい回答に自然と口角が上がり、画面にまたポタリと雫が落ちた。どんな場所だろうと、感極まれば自然と涙が零れてくるものだ。生理現象だ。何ら恥ずかしくはない。
「これからも、惜しみなく愛を与えて大切にせねばな」
「私も、尽八くんのこと大切にします」
「はは、まるでプロポーズだ」
目尻に浮かぶ涙を手の甲で拭ってから、右手の人差し指と親指を合わせ簡単なハートを作って琴音に見せると、お返しとばかりに彼女も再び両手でハート型を作り、頬を桃色に染めて満面の笑みを浮かべていた。
“好き”が言葉以上に伝わる魔法の手話みたいだ。そのハートはずっと俺だけのものであって欲しい。そうでないと困る。俺のハート――忙しなく動くこの鼓動ごと、既に全部お前のものなのだから。
琴音の可愛い声が戻ったら、改めてゆっくり会える日を決めよう。鼻歌でも口ずさみながら、少し先の“もしもの未来”について話してみようか。愛情を与えて、貰って、幸せの交換を繰り返しをしながら、俺はその時を待ち侘びている。
※大学編
会えない時間が愛を育てる――遠距離恋愛ではよくある事例だが、俺たちの場合は“遠距離”とは呼ばない。茨城と東京、同じ関東圏。日帰りでも会いに行ける距離だ。卒業に向け徐々に忙しくなる学生生活の中でも、頻繁に連絡を取り合い、月に一度は必ずデートをした。会える時間が充分でない日も、どうにか都合を合わせて予定を作った。顔を合わせて直接話をしたり、互いを確かめるように触れ合ったりと、当然のように愛が育ってゆく。
年明けからのデート、女子特有の月のもので体を重ねる事が出来ず――迎えた春休みに、再び二泊三日で俺は琴音のアパートに泊まっていた。夜になれど、眠らない。眠れない。カーテンの隙間から月明りが照らしていたこの部屋に、間もなくぼんやりとした暁の光が差し込んでくるだろう。
去年の夏、酒が入っていたとは言え半ば強引に抱いてしまった件を反省し、紳士的な振舞いを心がけようと誓ったはずなのだが。
二月、三月と、転勤や引っ越しのシーズンもあってか、隣と下の階の部屋が空室になっていると聞いた後、『私もしたかった』と、頬を赤らめながら琴音に告げられた途端に、己で交わした紳士協定などはどこぞへと吹っ飛んでいった。
三ヵ月ぶりに触れる彼女の肌に、悶々と過ごしていた日々が頭を過る。だが、再会してすぐ貪欲にならないように自身をコントールし、レース前の調整の如く内面のコンディションも万全にした。だが、魅力的なたった一言によって容易に覆される。どれほど決意しても、積もり積もった恋しさには敵わない。
寄せては返す波のように、果てる都度訪れる小休止も束の間、昂ぶりが蘇る。薄い皮膚を撫で回し、再び善がる姿を恍惚としながら細部まで凝視した。理性などとうに手放したと自覚して尚、熱が上る。彼女の嬌声はじきに掠れ、時々涙混じりに変わった。もっと声が聴きたくて、俺は再びヘッドボードに手を伸ばす。今日開封したわけではないにしても、手にしたスキンの箱の軽さに苦笑する。頭の中でいくら自制しようが尽きるまで止められないなど、ただの獣か。
唇を食むように深く口付けたなら、甘い声ごと飲み込めてしまえばいいのに。数度目の絶頂を目指し、俺は繋がりを求めて琴音の膝裏に手を伸ばした。全てを暴きたい。暴かせて欲しい。二人、汗ばんだ肌の匂いが混ざって、シーツに染み込んでいった。
□ □ □
シングルベッドで身を寄せ合い、一枚の羽毛布団の中で互いの体温を感じながら昼過ぎまで深く眠った後、すっかり南中高度まで上った太陽はカーテン越しに部屋まで光を届けていた。眩しさに自然と目を開き、静かに寝息を立てて眠っている恋人を眺めた。その幸福感たるや、まるで夢の中にいるようだ。二度寝したい気持ちを堪えて身を起こすと、俺の動きに反応した琴音も薄く目を開いた。
「…おはよう。起こしてしまったな」
眠たげな表情も愛らしい。焦点の定まっていない視点は、瞬きを数度繰り返すうちにしっかりと俺を捉えた。かろうじて身に着けた薄手のキャミソール、鎖骨周りに朱色の跡が点々と散っている。
何か言いたそうにして口をはくはくとさせた後、小首を傾げて琴音はもう一度唇を開いた。
「おはよ、う」
喉に何本もの棘が突き刺さったような濁音混じりの掠れ声が部屋に小さく響き、目を見開いた。一瞬で明け方まで情事を回想したのか、琴音は顔を真っ赤にして枕を抱え込んだ。逆に、あまりのガラガラ声に俺は青ざめる。元凶は自分だと瞬時に悟ったからだ。
俺が加減せず、傷つけた。
「喉、大丈夫…じゃないな?痛むか!?」
「ひどい声だけど、だいじょうぶ」
「体は?何ともないか?」
「ちょっと筋肉痛?ぐらいかな」
「また、俺が……」
「……ううん」
眉間に皺を寄せて首を横に振る仕草で、“違う”と否定しているよう。琴音はヘッドボードに置いてあるスマホを掴み、素早く文字を打ち始め、筆談の代わりメモ帳らしき画面を見せて来た。
《尽八くんのせいじゃないよ》
《昨日から部屋が乾燥してたのかも》
《最近、加湿器の効きも悪かったし、新しいのちゃんと買うね》
一文打つごとに画面を向けて、琴音は照れくさそうに微笑んだ。俺自身が律しなければならないのに、いつも許されてはそれに甘えてしまう。こんなだらしのない男じゃなかったはずだ。会えない時間がそうさせるのか、若さゆえなのか。庇ってくれるのはありがたいが、事実、昨夜は琴音が声を枯らすほどの夜だった。…というか、終わったのは夜が明けて日が昇った頃。こうなると俺以外が原因だと言う方が不自然だ。男女の関係になって、あれほど激情に身を焦がした夜は、琴音との記憶を辿っても初めてだ。
「とにかく、今日はあまり声を出さない方がいいな」
どの口がそれを言うか、と問われたら反論の余地もない。琴音の髪を撫でながら、次の行動を頭の中に巡らせた。一緒にシャワーを浴びたいところだが、お互いの為に辞めた方がいいだろう。俺が昼食を用意してる間に交代で――と、順を追って考えていたら、今夜の予定を思い出した。フク達と久々に夕飯を共にするという約束を。寝起きから自責の念に駆られていたのもあり、忘れたつもりはなかったが、すっかり頭から抜けていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
トーストにスクランブルエッグ、ツナとトマトのサラダ。空腹に対して昼食がだいぶ簡単なものになってしまった。しかし今夜は夕方6時に店内で待ち合わせだ。昼は軽めがいいだろうと小腹を満たす程度にしておいた。
筑士波大自転車競技部の創設と初レースでの表彰台の成果を祝して集まった、茨城でも有名な人気の店『とんかつの家』。この店が都内に二号店を出店したと知り、“食べてみたい!”と琴音にリクエストされたのが今回のキッカケとなった。俺が都内に来る際、タイミングが合えばフクや新開も一緒にどうかと彼女が声を掛けたらしい。久々にレース以外の場所で集まれたらいね!と、電話した時に弾んだ声で話していた。
横浜に帰省していた荒北にも連絡を取ったらしく、奴からは『行く』とだけ返信がきたようだ。ということは、インハイを一緒に走ったメンバーの四人と、マネージャー……この五人になるわけだ。ここに女子が一人混ざってるのが不思議に思えるが、それは“琴音以外”だったらの話だ。俺の恋人であり、フクにとっては幼馴染なのだから、何ら問題はない。
――今問題なのは、枯れさせてしまった声のことだ。
身支度をして早々にアパートを出て向かった先は、『とんかつの家・二号店』の最寄り駅にある家電量販店。待ち合わせまでまだ時間もあるし、早速、新しい加湿器を見繕うためにやって来た。
“最近、加湿器の効きも悪かったし”…という一文、俺が罪悪感に苛まれない為の優しい嘘かと思ったが、琴音がシャワーを浴びてる隙に室内に置いてある加湿器を確認したら、ミストの出が悪くなっていた。とっくに保証期間も切れてるようで、買い替え時なのは違いないらしい。
「尽八くん、こっち!」
名を呼ぶ掠れ声が耳に響き、指差す方向に視線を移せば、ズラリと並ぶ加湿器コーナー。縦長のものから丸い球体のような形のものまで様々だ。
ちなみに昼食の後、はちみつ紅茶やのど飴を試してみたが効果はなかった。治るまでなるべく喉を休める他ない。取り急ぎ咽喉痛に効く鎮痛剤だけ飲んでもらった。
色事の声は通常の発声とは違う。ちょっとやそっと喋り過ぎたぐらいじゃこうはならない。俺が動く度、脳に響く艶かしく甲高い声は、発してるというよりはコントロールを失っているし、時折、喉が引きつるように鳴っていた。感度が極限まで高まっていたから、息が漏れるような喘ぎで多量の空気を喉に通し、余計に乾燥してしまったのだろう。喉に負荷を――
「……俺は何を分析してるんだ!!」
突然、独り言を張り上げてしまい、その拍子に琴音の肩がビクリと震える。驚いた後、《どうかした?》とスマホに文字を打ち俺の目前に掲げた。分析してる場合じゃなかったな。
「いや、気にするな。それより、目ぼしいものはあったか?選んだら教えてくれ」
《いいけど、家電チェック?》
「チェックではない。俺が購入する為だ」
《おそろいで欲しいの?》
「いや、お前の部屋に置く用にだ。買い替えるつもりで来たのだろう?」
《うん。自分で買うつもりで…》
「待て、俺から贈ってはダメか?」
《どうして?》
「長い休みの度に泊まらせてもらってる、恋人の部屋に置く必要な物だからだよ」
《ホントにそれが理由?》
真っ直ぐな眼差しで見つめられ、溜息が漏れた。本音を隠してるんじゃないかって見透かされてるよう。会話とは、言語が扱える人間に許された最たるコミュニケーション。それがスムーズに取れないとなると、やり取りもテンポ悪くもどかしい。登れる上にトークも切れる、さらにこの美形――天は俺に三物を与えたが、今日ばかりはトークが鈍る。
「……せめてもの詫びだ」
《やっぱり。お詫びとか大袈裟だから》
「傷つけたんだぞ」
《傷って、ただの炎症だよ。痛みはないしすぐ治るから》
「だとしても、」
俺が一方的に喋ってる違和感はあるだろうが、加湿器のコーナーで男女が向かい合っている様は、他人から見れば真剣にどれを買うか悩んでる客に見えるだろう。
数は多いが、部屋に設置できるぐらいの大きさに限定すれば悩むほどではない。テレビを探す方がよっぽど時間がかかる。
引き下がらない俺の言葉に、琴音は指先を唇に当てて抗議の如くじっと見つめてくる。こんな事態を招いた俺が思うのも忍びないが、見慣れない仕草が新鮮で可愛らしい。
「今日、フク達と会う予定は予め分かっていた事だ。お前だって久々に皆と話がしたかっただろうに……、配慮が足りなかった。だから――」
言いかけた刹那、顔に影がかかる。最後まで聞かずに、琴音は軽く俺の額に人差し指を向け、軽く弾いた。全然痛くないデコピンを食らい、ちょっとしたお仕置きに目を丸くしていると、彼女は再びスマホで文字を打ち始めた。
《そんなことで謝って欲しくないよ。悪いと思って欲しくない》
《予定がわかってたのは私も同じだし、結果、喉をちょっと傷めたってだけで。労わってくれるのは有難いけど、心配し過ぎだよ》
《何だかいつもの尽八くんじゃないみたい》
頬を膨らませてムスッとした顔を前に、声には“感情”があるのだと改めて知る。怒っているのか?どの程度?話せたのならどんな風に伝えていた?文字だけだと心情まで読み取れない。
「余計な心配だったか。お前にとっては煩わしいだけなのかも知れんな」
自嘲気味に告げたら、琴音は首を横に振って否定していたが、スマホに文を打ち込むことはなかった。明確に返答したくないのだろうか。ひそめた眉、少し尖らせた唇――珍しい表情だ。意志疎通が出来ないというよりは、謝りたい俺と謝ってほしくない琴音で心が食い違う。
結局、加湿器をテキパキと選んで彼女は自分で購入していた。以前より少し大きめのものを、配送で届くように手配してもらっていたようだ。レジで俺が無理に支払だけしようものなら、余計に怒らせてしまうだろうから、それはやめておいた。
――“いつもの尽八くんじゃないみたい”…と、琴音が打ち込んだ一文。そこに悪気はない。
自信に満ちたいつもの俺だとしても、お前に嫌われるのは怖いと思うよ。それは恋人として当然の感情だろう?
・・・・・・
早めに店に到着し、琴音の代わりに予約の名前を伝えると奥の座席に案内された。茨城にある一号店と同じく、古民家の柱やハリを移築して建造された店内は木のあたたかみがある。天井から吊るされたランプは暖炉の炎を連想させる橙色で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
初めて訪れた琴音は、店内を見渡しながら目を輝かせている。美味しそうなとんかつの香りが鼻をくすぐった。
「言い出しっぺが一番最後に到着かヨ!」
店員に案内され辿り着いた座敷の予約席に、俺たち以外の三人がローテーブルを囲んで座っていた。ニヤけながらわざと悪態づいた荒北に、琴音は両手を合わせて謝るジェスチャーをして笑顔を向けた。
フク、新開、荒北――大学生レースでは度々顔を合わせていたが、レース以外となると集まるのは久々だ。
「みんな、ひさしぶり!」
俺よりも三人に会うのが久しかった彼女は、テンション高く喜びの声を上げた。ガラガラでカスカスの声に驚愕し、三人とも表情が固まっている。見た目は“汐見琴音”なのに、自分達の記憶とは違う音が出ているからだ。
「汐見、声どしたァ!?」
「風邪かい?…あ、そろそろ花粉もか」
「体調は問題ないのか?琴音」
質問攻めに合い頷きながらも、右手の親指と人差し指で“丸”を作って『OK』を示し、琴音は座布団の上に腰を下ろした。
《タイミング悪く喉風邪引いちゃって。熱も痛みもないんだけど、声だけ出しずらいの。ごめんね。今日はジェスチャーとスマホを使ってお話するね》
俺とフクが並び、ローテーブルを挟んで向かいに荒北と新開、真ん中の誕生日席な場所に彼女が座っている。スマホに打ち込んだ画面を向けると、全員が確認することが出来る位だから丁度いいだろう。風邪ネェ、と、素っ気ない返事をした荒北はさておき、他の二人は納得したようだ。
とりあえずメニューを選ぶのが先決だ。春休み中だからか、店内も徐々に込み合ってきており、揚げたてのカツが提供されるまで時間がかかる。俺は前回と同じロースカツ『家』御膳を頼み、琴音も同じものを手を挙げていた。茨城で食べた時は、明早・洋南のメンバーと偶然鉢合わせ、荒北に横から茶々を入れられたせいでだいぶ落ち着かなかった。今日こそしっかり味わえるチャンスだったのだが、今度は琴音の様子が気になって仕方ない。彼女を目で追えば、俺の左隣に座るフクの表情も自然と視界に入る。幼馴染との再会に、かつて荒北に“鉄仮面”と呼ばれていたフクの固い表情も、微かに緩んでいた。
「東堂ォ、ちょっと来い」
全員がメニューを頼み終えてすぐ、荒北に呼び出され店の外にやって来た。後から新開もついて来て、入口から離れた外看板の前で男三人が向かい合う。
「どう考えても汐見のアレは風邪じゃねェ。涼しい顔してやることやってんなァ」
外に連れ出してまで何を言うかと思えば、琴音の風邪が嘘だとアッサリ当てられた。
「お、…おい!下世話な想像をするな!」
「……お前ウソ隠すの下手すぎ。声裏返ってんぞ」
夕陽が落ちてあたりは暗くなっても、都内の夜は明るい。立ち並ぶビルの明かりが街を照らしていた。結果、紅潮する顔色と沈黙によって、荒北の発言を認める羽目になってしまった。熱を冷ますように、春の夜風が頬を撫ぜていく。普段なら荒北のくだらんからかいなどかわせるのに。今回の原因が自分なだけに、言い返す気になれなかった。
「まぁまぁ、喉風邪の件は深くは聞かないよ。でも、おめさん達の雰囲気が妙だなぁって思ってさ。ケンカでもした?」
「ケンカという程ではないのだが、まぁ……」
「ハッ、らしくねーの。ウジウジしてんなよ、ダッセ!どーせたいした話じゃねぇんだろ」
「ダサくはないな!?まったく、適当か」
「適当じゃねーよ。汐見はフクちゃんの幼馴染だし、おめーが選んだ女だろ」
「ゆえに大丈夫だと?……ほう、荒北にしては的を射た事を言う」
「テメ、さっきの件を死ぬほどからかってやろーか」
こいつの細長い三白眼、人相と口の悪さは大学生になって磨きがかかっているようだ。負けじと眉を吊り上げ睨み返すも、数秒後、新開が俺たちの肩に手を置いて仲裁に入り、不毛な小競り合いは中断された。
「そこまで深刻じゃなきゃ、たまには小さなケンカもいいんじゃない?余計な世話焼いて悪かったな、尽八」
「いいんだ。気にかけてくれて感謝してるよ。荒北、お前にも一応、小指の爪ほどの礼を言っておこう」
「るっせ!そんなんいらねーわ」
安堵したように息を吐いた新開は、相変わらず感心するほどに気が利く。高校の頃、俺と荒北が揉め始めるといつも止めに入ってくれていたな。荒北も呼び出した理由は同じだろう。態度も口も悪いが根はいい奴だ。
琴音と付き合って三年半以上経つが、ケンカらしいケンカなんてしたことがなかった。常にお互いの意見を尊重し合い、優しさを与え合える関係。会える頻度の割に、少しのすれ違いもなく過ごしていた。だからこそ、時々の僅かなズレが綻びに感じてしまう。大事にしたいのに壊れるほど抱いてしまう、二律背反。根底に信頼と愛情があるからこそ許され、心を預け合っている。琴音は俺を嫌いになったりはしない。情が深い彼女に普段から接していれば、分かることだ。
――琴音が嫌だったのは、俺が悔やむように謝ったこと。勿論、悔いなど一切無く行いを払拭したいわけでもなかったのに、上手く伝わらなかった。自分の落ち度だ。罪悪感など、二人の思い出に水を差すだけなのに。
店内に戻り自分たちのテーブルを遠目に見ると、そこには人数分の水とおしぼりだけが置いてあった。頼んだ定食はまだ運ばれていないようだ。座敷の入口まで進み、何となく琴音とフクの死角になってる場所で靴を脱いで板の間に上がると、ふと、二人の会話が聞こえてきた。立ち止まる俺のすぐ背後で、荒北と新開も足を止めて聞き耳を立てる。
「東堂との交際は順調か?」
フクは昔と変わらず、抑揚のないトーンで切り出した。質問の内容がまるで彼氏を持つ父親のようだ。……ってオイ!何を聞いてるんだフクよ!?ツッコみたい気持ちを抑え、固唾を呑んで見守っていると彼女はすぐに頷いた。
「大事にされているか?」
続く質問に、口元を綻ばせて再び琴音はさっきよりも深く頷き、両手でハートマークを作りながら目を細めて笑った。
「……そうか」
それを確認したかったとばかりに、フクは満足そうに腕を組んだ。奴もまた、俺と琴音の間に流れていた微妙な空気を察知していたのだろうか。友に気にかけてもらえると言うのは、心がこそばゆくなるものだ。
声が出せない代わりに、両手で形作ったハートマーク。“とても大事にしてもらってるよ”――と、言葉はなくとも気持ちが真っ直ぐ胸に届いてきて、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動が込みあげた。迷いも屈託もなく肯定する姿に、心に火が灯るようにあたたかくなる。
「尽八、おめさん……」
「どんだけ惚れてんだ……」
無意識に、目から涙がドッと溢れていた。どうりで頬が冷たいわけだ。顎を伝って流れ落ち、シャツにしみ作っていく。荒北と新開の声でこちらに気づいた琴音は、体勢を傾けながらテーブルに身を乗り出した。刹那、滲む視界の中で視線が交わる。彼女は慌てて座布団から立ち上がり小走りで近づいてくると、俺の手を包むように握り締めた。体温が伝播して、冷えていた手が簡単にほぐれていく。後ろに居た二人は互いに目配せをすると、琴音と入れ違いに席へと戻って行った。
「どうしたの尽八くん、泣いて……何かあったの?……大丈夫?」
「ああ、問題ないよ」
感情が高ぶってこんな泣き方をしたのは、かつて山岳ゼッケン争いでライバルが俺を追って登場して来た時以来だ。
未だ不安気に八の字に眉を寄せたまま、片方の手を俺から離すと、琴音はおもむろにポケットからスマホ取り出し、画面が見えるようにこちらに向けた。
《そんな風に思ったこと一度もないよ》
《いつも大切にしてくれてありがとう》
あらかじめ打たれた文字は、彼女からの答え。“お前にとっては煩わしいだけなのかも知れんな”――という、俺の言葉に対してのものだった。あの後、考えて文を打ってくれていたのか。この上なく嬉しい回答に自然と口角が上がり、画面にまたポタリと雫が落ちた。どんな場所だろうと、感極まれば自然と涙が零れてくるものだ。生理現象だ。何ら恥ずかしくはない。
「これからも、惜しみなく愛を与えて大切にせねばな」
「私も、尽八くんのこと大切にします」
「はは、まるでプロポーズだ」
目尻に浮かぶ涙を手の甲で拭ってから、右手の人差し指と親指を合わせ簡単なハートを作って琴音に見せると、お返しとばかりに彼女も再び両手でハート型を作り、頬を桃色に染めて満面の笑みを浮かべていた。
“好き”が言葉以上に伝わる魔法の手話みたいだ。そのハートはずっと俺だけのものであって欲しい。そうでないと困る。俺のハート――忙しなく動くこの鼓動ごと、既に全部お前のものなのだから。
琴音の可愛い声が戻ったら、改めてゆっくり会える日を決めよう。鼻歌でも口ずさみながら、少し先の“もしもの未来”について話してみようか。愛情を与えて、貰って、幸せの交換を繰り返しをしながら、俺はその時を待ち侘びている。