短編・中編
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運命のステラ
夏休み明け、新キャプテンの入れ替え式という最後の仕事を終えてからは受験勉強にシフトチェンジする。後ろ髪引かれる思いで勉強に励む三年は俺だけではないだろう。悲願のインターハイ二連覇を成し遂げ、夢が叶った。もう思い残すことはないはずなのに、授業が終わると部室でなく図書室へ向かう日々に寂しさを感じていた。俺たち三年は引退し、第三世代総北のキャプテンを小野田に指名した。あいつはどんな成長を遂げるのだろう。来年は見届ける側…か。長いようであっという間だったな。
気持ちのいい秋晴れ、購買で買ったパンを片手に中庭のベンチで参考書を読んでいると、近づいてくる足音に俺は視線を向けた。
「手嶋さーん!」
「おお、小野田」
手に財布と飲み物を持っているところを見ると、外の自販機にジュースでも買いに来たのだろう。そこで俺を見かけて話しかけにきたと。相変わらず律儀な奴だ。制服越しでも細身だとわかるこの小柄な男に、熱い闘志とハイケイデンスクライムのパワーが秘めているなんて、改めて感心しちまう。
お元気ですか?とか受験勉強どうですか?とか、小野田は変わらず屈託ない笑顔で話しかけてくるもんだから、そっちこそ新キャプテンどうよ?と聞き返せば、目の前で手を扇ぐように振り慌てていた。
「ぜ、全然です…!ちゃんと手嶋さんのように出来てるか…僕には…」
「同じ風にやる必要なんてねぇよ。俺はあがいてもがいて成長しながら一年かかった。いい手本じゃない」
「そんなことは…!」
「小野田は小野田らしくやればいいさ。これからどんなチームになるのか、期待してるよ」
猫背気味に弱々しく返事をしながら、自信がない様子を目にしたところで、心配はひとつもない。一年後、小野田を中心に、今泉、鳴子――インハイ経験者達がまとめるチームが、どんな形になるのか、今から楽しみだ。
箱根学園は、あの真波が新キャプテンになったと聞いた。小野田とインハイ三日目のゴール前を二年連続で競った天才クライマー。俺も一日目のいろは坂では死ぬほど削られた。小野田と真波はキャプテンに任命されたことを互いに“運命”だと受け入れた。来年の夏、二人は三度目の運命の中、ペダルを回して道の上で競い合うのだろう。
「…そ、そういえば、ですね」
「ん?」
「汐見琴音さんってご存じですか?」
「……知ってるけど、どこでその名前――」
「その方、今日からうちのクラスに来た教育実習生なんですが、二年前の卒業生で、自転部のマネージャ―をやっていたとのことで…、突然インハイ二連覇のお礼を言われて…って、ああ、やはりご存じでしたか」
後輩と他愛のない会話をして勉強漬けの頭をしてリフレッシュさせようという機会は、小野田の切り出した話で中断された。あいつからしたら雑談の流れだったのだろうが、その名前を出され不意に心臓が一際大きく鼓動した。今になって、誰かからその名前を耳にすることになるとは予想していなかったからだ。
汐見琴音さん。俺が一年の当時、彼女は三年で自転競技部のマネージャ―だった。
そして、俺の元カノ。
――これは運命?
□ □ □
琴音さんは女子マネの中でも背が高い方で、スタイルも良い。当時一年の俺から見たら随分大人っぽく見えた。部活中、青色のシュシュで束ねた黒髪は艶があり、伏し目がちになると長い睫毛が色っぽい。凛としてる雰囲気とは逆に、話しかければ優しい対応に柔らかい微笑み。このギャップにやられた部員は俺以外にも居たはずだ。比べて俺はどこにでも居そうな平凡な部員の一人だった。
一年にして周囲から期待されていた古賀と違って、俺は凡人。総北のハードな練習にさえついて行くのがやっとだった程度の俺が、何故、琴音さんと付き合えることになったのか。
二年前の広島大会で、総北は20校中18位という散々な結果だった。チームの結束力も実力も充分に準備してきたのに、トラブルが襲ったのだ。相手チームに転倒させられ怪我した金城さん、崖の下へ落車した古賀。俺がもっと強く制止していれば、古賀は無茶をせず怪我をしなかったはずだと自分を責めても、後の祭りだった。
大会を表彰式まで見届けるも、あの15cmの表彰台が恨めしかった。金城さんを落車させた箱学が、総合優勝を決めたからだ。
怪我をした選手と監督以外は今日中に飛行機で千葉まで戻らなければならない。空港へ向かうバスの中も息が詰まりそうなほど重い空気だったのを覚えてる。
学校へ戻る頃には既に夜になっており、キャプテンからの挨拶に後輩達は一礼して解散となった。三年生は「来年は頼むぞ」と後輩達の肩を叩き、涙ぐんでいた。その中に、泣くのを堪えて唇を噛み締めている琴音さんの姿も。
部室にはインハイメンバーだけが残り、何か話してる中にとても入って行けそうにない。解散となったし帰るしかないと周囲を一度見渡した際、琴音さんがそそくさと中庭へ移動して行ったことに気が付いた。こっそり後を追えば、やはり両手で顔を覆って泣いていた。誰にも見られないところで静かに、しくしくと。
「あの、タオル。これ使ってないキレイなやつなんで、よかったら……」
どうしてもほっとけなくて、近づいて白いタオルを差し出すと、声に驚いて顔を上げた彼女の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出して頬を濡らしていた。ああ、泣いても可愛いんだな…なんて、口には出せない台詞を頭に過る。ありがとうと、小さく震えた声でお礼を告げられ、タオルで涙を拭いながら、今度は嗚咽を漏らして泣きじゃくりはじめた。俺は、タオルを渡すこと以外何も出来なかったが、しばらく琴音さんが落ち着くまで傍で立って見守っていたのだった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
後日、丁寧に洗ったタオルを返しに来てくれた日をキッカケに、二人の距離が縮まった。CDを貸し借りしたり、時々部活帰りに寄り道したりと…、憧れの先輩と二人きりの時間を過ごせるなんて奇跡だと思った。人生、何が起こるかわからない。
オフの日に何度か遊びに出かけて親密度が増した頃、秋の夕暮れ時、琴音さんからバス停で唐突に告げられた。
「手嶋くんが好き。私と、付き合って下さい」
「え」
「…年上は嫌?」
驚きのあまり間の抜けた返事が出てしまった。もちろん、魅力的な質問には頭を振って否定する。嫌なはずがない。
真っ直ぐこちらを見つめて、長い睫毛に縁取られた瞳に映るのは夕焼けのオレンジ色。映画のワンシーンを切り取ったみたいに綺麗だった。
勇気を出して伝えてくれた告白は、尻込みして俺から伝えられなかった一言一句、そのものだった。彼女は高嶺の花だったはずだ。二人で遊びに出かけてる時も、心のどこかで“俺でいいのか”と自信がなかった。
彼女の小さな手を握りながら「俺も同じ気持ちです」と返事をして、気持ちが高ぶったまま二人の顔が近づいた時、待っていたバスの音が近づき恥ずかしくなって思わず離れた。立ちすくんだまま乗らずにバスを見送った後、改めて、ひと気のないバス停でふたつの影が重なった。緊張のあまり、唇の柔らかさに触れても現実味がなかった。
鼻先がくっついて離れた途端、橙の空の下でもわかるぐらい頬を赤らめた琴音さんがあどけなく見えて、しばらく心臓のドキドキが鳴りやまなかったのを覚えてる。
・・・
・・・・・
・・・・・・
成績優秀な琴音さんは推薦で短大の進学を決め、秋も冬も一般受験する三年よりも穏やかな時間を過ごしていたと思う。だからこそ、俺と交際する時間的余裕もあったのだろう。クリスマスにはお互いプレゼントを交換し、カフェで食事をしてカラオケに行って楽しい時間を過ごした。付き合って以降、唇の柔らかさ以上の事を知るチャンスも何度かあったのだが、関係の進展はやめておいた。自分の中に一つの懸念があったからだ。
日々、部活にのめり込み、僅かなオフの時間を彼女と過ごす。憧れのマネージャ―が恋人になり幸せの絶頂の際、頭にあったのは『年が明けてしばらくしたら、別れを切り出そう』ってことだった。
片思いしていた先輩と両想いになって全力で浮かれたかったが、無理だった。部活とプライベートを両立しちゃいけない…なんてことはない。決してない。なのに、自身の“夢”が制約を課していた。
春に青八木と出会い、チーム二人を結成してから出場したレースで五回ほどあいつを表彰台へ上げることに成功した。
策略は得意だが自転車の才能が今一つの俺と、実力はあるのにマネジメントが下手な青八木。二人が組めば、来年のインターハイ出場も夢じゃないと確信した。“出れたらいいな”じゃなく、“絶対に出たい”――強い想いに変わった時、今以上に努力が必要だった。
全ての時間を自転車にかけるぐらいの覚悟じゃないとダメなんだ。それでも足りないかも知れない。高校の間に、俺が青八木とインハイに行ける夢を現実にする為に、恋人と別れる事は必要な選択だった。交際がおざなりになる前に、優先順位をつけなくちゃならない。
だから、バレンタイン前に琴音さんに理由を伝えて、別れを告げた。
「…じゃあ、なんでOKしたの?」
本当にその通りだ。怒りが含まれた声色に、握った手の中に汗が滲む。片思いの相手だったので嬉しくてOKしちゃいました…とか火に油を注ぐ言い訳に過ぎない。我ながら身勝手だ。ド正論に黙った俺に、俯いていた琴音さんは『…なんてね!』とおどけた口調でパッと顔を上げた。
「こうなるかもって少しだけ予感してたから…」
「ごめん!…ごめん、琴音さん。琴音さんを好きな気持ちは本当です。嘘じゃない」
「大丈夫、ちゃんと伝わってたよ」
「……気の済むまで責めてくれて、構いません」
「えぇ…、そんなに私を嫌な女にさせたい?」
「いっ、いや、そんなこと――」
「冗談だよ」
明るく振舞いながらも目尻にたまった涙を人差し指で掬い、眉をハの字にしたまま琴音さんは笑った。
「短い間だったけど楽しかったよ。ありがとう、純太くん」
手放したくないのに手放さないと、届かない“夢”がある。両方を得ることは出来ないと頭では理解してるのに、胸が軋む。
傷つけた相手に優しくされるの、こんなキツイのか。ひどい男だと、罵声を浴びせられた方がまだ楽だ。
そして、少しも引き止められなかった事に僅かに切なさを感じていた。止められたって応えることなんて出来やしないのに、我儘な自分に嫌気が差した。
□ □ □
教員免許を取得する為には、教育実習は避けて通れない。
原則、母校へ受け入れをお願いし実習に行くというのを聞いたことがある。じゃあ、別に俺に会いに来たワケじゃなさそうだ――……いや、何考えてんだ。付き合って数ヶ月で振った男に会いに来る為に教育実習に来るなんて、あり得ない。それに、中途半端な気持ちで琴音さんは臨んでないはずだ。将来自分が就く職業の選択肢の一つとして、教師を見据えているからだろう。
偶然会ったりでもしたら気まずい。もし用事があってもしばらく二年の教室には近づかない方がいい。振った側の俺からは会いに行くなんてこと、しない方がいいに決まってる。
少しだけ会話を続けて小野田が去った後、俺は中庭のベンチからすっかり紅く色づいた木々の葉を見上げた。広島大会の後、泣いている琴音さんにタオルを渡したのも、この場所だった。考え事したい時や一人で昼飯を食べてリラックスしたい時になんとなくここを選んじまってるのは、思い入れのある場所だからか?俺、そんな女々しい奴だったっけ?確かにそーゆーとこあるなぁと妙に納得してしまい、自嘲気味な笑いが漏れた。
徐々に肌寒くなり、今年は季節のイベント事などそっちのけで勉強してるであろう冬休みが待っている。ロードに乗りてぇな、気晴らししてぇなという誘惑を振り切って、頭にはたくさんの英単語や文法を詰め込まなければならない。
放課後になり図書室へ向かったら、ほぼ三年が占領して混みあっていた。座席は早いもの勝ちだから仕方ないと諦め、部活にやって来たら室内から賑やかな話し声が聞こえる。マネージャ―の寒咲が残ってんのか?とドアを開けると、青八木と古賀が並んで立っていた。
この時間、部員達は周回コースを走っている為、部室はガランとしている。後輩たちの邪魔をしたくはないが、空いてる時間、たまに借りるくらいならいいだろう。三人とも勉強するために同じ場所に来るなんて気が合うな?――って、冗談を口にしようとするも、驚きのあまり言葉を飲み込むことになる。
青八木と古賀が話していたのは寒咲ではなく、琴音さんだった。
「あ、手嶋くん。久しぶり!」
声を弾ませながら、琴音さんは手をひらひらと振りながら部室のドアの方に体を向けた。長く伸びた髪はハーフアップにしてバレッタでまとめられ、白シャツにセットアップのスーツを着こなし、ヒールを履いるせいか背筋がピンと伸びている。新社会人を思わせる服装が新鮮だ。
今日から教育実習に来てるって話は既に小野田から耳にして知っていたけども、初めて聞いたフリをしてその場をやり過ごした。
「初日の今日は早めに終わったから、懐かしくなって部室を訪ねてみたの。そしたら偶然、だね」
ニコッと嬉しそうに微笑めば、花が咲いたように明るくなる。少し大人びても、思い出の中の印象と変わっていない。古賀、青八木、俺と、順番に視線を移しながら、“三人とも大きくなったね”と言われ、誉められた気分になった。身長や容姿だけでなく、精神的な成長の意味も含まれてる感じの言い方だったから。
「優勝おめでとう!二連覇、すごいことだよ。私達の代では成し遂げられなかった。実は去年もOBのみんなで観に行ってたんだよ」
「来てたんですか…!それならテントにも寄ってもらえたら…。今年、俺はサポートだったんで――」
「いいのいいの。当日ってバタバタしてるし、古賀くんはメカ周りの事も見てくれてるから特に忙しかったでしょ?邪魔にならないように、沿道から少し離れた場所で応援することにしたの。みんな、去年も今年も、ありがとうって言ってたよ。後輩達が夢を叶えてくれて誇らしいって……私からも、ありがとう」
深々とお辞儀しながら心のこもった労いの言葉は、きっと直接伝えたかったのだろう。琴音さんの分に加えて、遠くから応援してくれた先輩達の分の気持ち乗っかっていると思うと、目頭が熱くなる。しみじみと感謝に浸りながら、一年の頃に味わった、マネージャーに励まされると浮足立ってしまうこの空気が懐かしい。あの古賀でさえ照れている。
既に勉強道具を机に並べた後に彼女がやって来たのだろう。ここで勉強をしようとしていたのを察して、琴音さんは来て間もないというのに、鞄を肩にかけ直してゆっくりと踵を返した。
「受験勉強するために集まってたんだよね。邪魔してごめんね。三人共、頑張って!じゃあ――」
かつて俺と付き合っていた事などなかったみたいな、普通の接し方だ。明日から本格的に始まる教育実習も、二週間もすれば終わる。おそらく琴音さんが自転車競技部の部室にやって来る事はもうない。
これで、関わるのはホントに最後、か。
「待っ……!」
刹那、気付いたら細い手首を掴んで部室から出で行こうとする琴音さんを止めていた。完全に反射だった。もう簡単に触れていい関係じゃないのに。
俺が制止する声が部室に響き、勘のいい古賀と青八木は揃って彼女を止めた。
「せっかく来たんです。もう少しゆっくり…そうだ、じきに練習から戻ってきますんで、インハイの立役者達にも会ってやって下さい」
「え…、いいの?なんかOBハラスメントになってない?」
「なってませんよ」
古賀の返答に同調するように青八木も頷き、おもむろにパイプ椅子を用意すると、そこに彼女を座らせた。『飲み物を買ってきます』と二人して部室を出て行ったけど、飲み物を買いに行くのに二人もいらねぇだろ。青八木は一瞬、何か言いたげに俺を一瞥していた。琴音さんとのことは唯一、青八木だけには話していたから、改めて“ちゃんと話して来い”ってコトなのか?考えなしに彼女を止めたのは俺だが……、話せって何を?
四人から二人きりになったガランとした部室に、机を挟んで向かい合って座る俺と琴音さん。別れたのは一昨年の冬で、顔を合わせるのは卒業式後の送別会以来になる。
頬にはチークの桃色が白い肌に映え、薄ピンクの口紅は自然な血色感、落ち着いたブラウンのアイシャドウが上品だ。実習生らしい淡い化粧が似合っている。キレイだ。あの頃より、ずっと大人に見える。
空気を読んで切り上げようとした彼女を止めてでも話したかった事なんて、俺には思いつかない。本能的に体が動いちまっただけだ。沈黙は長続きすることなく、琴音さんは俺を見つめ感嘆の息をついてから話し出した。
「……手嶋くん、すごいね。本当に夢を叶えたんだね」
「俺の力だけじゃ到底、無理でした。チームのおかげです」
「手嶋くんがそのチームをまとめたんだよ?キャプテン大変だったよね。お疲れ様。三日目の山岳賞も、見てたよ。感動して泣いちゃった」
“見てたよ”…って、それだけでも嬉しいのに、泣いてくれたなんて。今年もその前も、総北を卒業してからも応援しに来てくれてたんだな。再び目の奥は熱を帯び、気の利いた返しがすぐに出て来ないうちに琴音さんはぽつりと呟いた。
「別れた甲斐があったかなぁ」
二人きりだからこそ声に出せた台詞に、息を飲んだ。数ヶ月だけ付き合った過去が過ぎり、一方的な別れだったにも関わらず、最後は『ありがとう』と言ってくれた優しさや気遣いを思い出す。
インハイに出場したくて、二連覇を目指したくて、自転車以外の事は極力セーブした二年間。青春を遠ざけ、淡々と練習やトレーニングに励んだ。
ふとした季節の合間に、今頃どうしてるかなと思いを馳せるのは琴音さんだった。俺から振っといて無責任だが、思い出す度に彼女の幸せを願っていた。もしかしたら新しい彼氏がいるかもと、隣に並ぶ他の男を想像して羨んだりもした。
「一方的に別れた事、怒ってないんですか?」
「怒ってないよ。嫌い合って別れたわけじゃないし、寂しかったけど納得してたから」
あの別れ話で、俺は嫌われたって不思議じゃないのに。琴音さんの心の広さに救われる。それにね、と、両手を合わせて口元に近づけ、伏し目がちに彼女は続けた。
「あの日の手嶋くんの走りを見てたら、すごく心が震えたの。積み重ねてきた努力が報われてよかったって思った。みんな勇気もらったって言ってたよ。もちろん、私も」
「……参ったな。今度は俺を泣かせにきてます?」
「ううん、全部本心だよ」
真っ直ぐな言葉が心に染みて、今度は鼻の奥がツンとする。泣きそうになるのを誤魔化すように発した声は掠れてしまった。
凛とした外見の良さも魅力的だけど、本来、この人の優しすぎる性格に俺は惹かれたんだった。人目に隠れて泣きじゃくる姿を見て守ってあげたいと思っていたのに、結局、もらってばかりで何ひとつ、優しさひとつ返してやれなかった。
「あのね、……また、純太くんって呼んでもいい?」
目が合わせられず俯いたまま、柔らかい声が鼓膜を揺らす。それを、彼女がどんな気持ちで告げたのかその意味がわからないほど野暮じゃない。別れてからも好きで居続けてくれていた事実に、目を見開く。今年も去年もインハイをわざわざ観に来てくれて、遠くから静かに俺の夢が叶うのを見守ってくれていた。こんなに想われて、俺は果報者だ。贅沢過ぎる。
「……呼んでもらう資格、俺にあるのかな」
「あるある。たっくさん、あるよ」
「いやぁ、そんなに?いっぱいですか?」
「うん、この両手いっぱい」
目を細めて笑いながら両手の平を差し出すように向けられ、俺は琴音さんに再び恋をしたのだと、早鐘を打つ心音が教えてくれる。
白い肌、細くてキレイな指。そこに上から自分の手を重ねたら、手の平から体温が伝わり合った。そのあたたかさに、かつて手に触れた場面が映画のように脳裏に浮かんだ。
部活の帰りに並んで歩いた帰り道で。クリスマスにイルミネーションを眺めながら歩いた街で。元旦から行った初詣で――触れて繋いだ。部活中にボトルを渡される時に、指先にわざと触れて照れくさそうにしていた甘い記憶――全部、覚えてる。
「琴音さんが好きです。俺と、付き合って下さい」
この偶然を運命と呼ばずにはいられない。
まだ手遅れでないのなら、チャンスがあるのなら――
「もう離れないって誓える?」
「再会した運命に誓って、もう二度と」
“離れません”――言葉の代わりに頷けば、堪えていた涙が目から零れ落ちた。あぁ、男が好きな女の前で泣くなんて情けねぇにも程があるが、好きな女の前以外では泣けないのだから仕方ない。琴音さんは片手だけ俺の両手に添えたまま、鞄から慌てて白いハンカチタオルを出した。ふわふわとした手触りのそれを俺に握らせて、涙を拭うように促した。
「ほら、これ。予備の使ってないやつだから」
「はは、カッコ悪ィ…」
「そんなことないよ。意外と泣き虫なとこも含めて、これからたくさん、純太くんのこともっと教えてね」
二年前の夏、泣いてる琴音さんに俺がタオルを差し出した時と同じだ。故意にあのシーンを再現したわけでないだろうに。今日、偶然にしては色々出来過ぎだ。運命は、俺をほっとくつもりはないらしい。
涙を拭いたら顔を見合わせて照れくさそうに笑って、カッコ悪くてもいいからここからリスタートしよう。今度こそ俺は、彼女の愛に報いたい。
夏休み明け、新キャプテンの入れ替え式という最後の仕事を終えてからは受験勉強にシフトチェンジする。後ろ髪引かれる思いで勉強に励む三年は俺だけではないだろう。悲願のインターハイ二連覇を成し遂げ、夢が叶った。もう思い残すことはないはずなのに、授業が終わると部室でなく図書室へ向かう日々に寂しさを感じていた。俺たち三年は引退し、第三世代総北のキャプテンを小野田に指名した。あいつはどんな成長を遂げるのだろう。来年は見届ける側…か。長いようであっという間だったな。
気持ちのいい秋晴れ、購買で買ったパンを片手に中庭のベンチで参考書を読んでいると、近づいてくる足音に俺は視線を向けた。
「手嶋さーん!」
「おお、小野田」
手に財布と飲み物を持っているところを見ると、外の自販機にジュースでも買いに来たのだろう。そこで俺を見かけて話しかけにきたと。相変わらず律儀な奴だ。制服越しでも細身だとわかるこの小柄な男に、熱い闘志とハイケイデンスクライムのパワーが秘めているなんて、改めて感心しちまう。
お元気ですか?とか受験勉強どうですか?とか、小野田は変わらず屈託ない笑顔で話しかけてくるもんだから、そっちこそ新キャプテンどうよ?と聞き返せば、目の前で手を扇ぐように振り慌てていた。
「ぜ、全然です…!ちゃんと手嶋さんのように出来てるか…僕には…」
「同じ風にやる必要なんてねぇよ。俺はあがいてもがいて成長しながら一年かかった。いい手本じゃない」
「そんなことは…!」
「小野田は小野田らしくやればいいさ。これからどんなチームになるのか、期待してるよ」
猫背気味に弱々しく返事をしながら、自信がない様子を目にしたところで、心配はひとつもない。一年後、小野田を中心に、今泉、鳴子――インハイ経験者達がまとめるチームが、どんな形になるのか、今から楽しみだ。
箱根学園は、あの真波が新キャプテンになったと聞いた。小野田とインハイ三日目のゴール前を二年連続で競った天才クライマー。俺も一日目のいろは坂では死ぬほど削られた。小野田と真波はキャプテンに任命されたことを互いに“運命”だと受け入れた。来年の夏、二人は三度目の運命の中、ペダルを回して道の上で競い合うのだろう。
「…そ、そういえば、ですね」
「ん?」
「汐見琴音さんってご存じですか?」
「……知ってるけど、どこでその名前――」
「その方、今日からうちのクラスに来た教育実習生なんですが、二年前の卒業生で、自転部のマネージャ―をやっていたとのことで…、突然インハイ二連覇のお礼を言われて…って、ああ、やはりご存じでしたか」
後輩と他愛のない会話をして勉強漬けの頭をしてリフレッシュさせようという機会は、小野田の切り出した話で中断された。あいつからしたら雑談の流れだったのだろうが、その名前を出され不意に心臓が一際大きく鼓動した。今になって、誰かからその名前を耳にすることになるとは予想していなかったからだ。
汐見琴音さん。俺が一年の当時、彼女は三年で自転競技部のマネージャ―だった。
そして、俺の元カノ。
――これは運命?
□ □ □
琴音さんは女子マネの中でも背が高い方で、スタイルも良い。当時一年の俺から見たら随分大人っぽく見えた。部活中、青色のシュシュで束ねた黒髪は艶があり、伏し目がちになると長い睫毛が色っぽい。凛としてる雰囲気とは逆に、話しかければ優しい対応に柔らかい微笑み。このギャップにやられた部員は俺以外にも居たはずだ。比べて俺はどこにでも居そうな平凡な部員の一人だった。
一年にして周囲から期待されていた古賀と違って、俺は凡人。総北のハードな練習にさえついて行くのがやっとだった程度の俺が、何故、琴音さんと付き合えることになったのか。
二年前の広島大会で、総北は20校中18位という散々な結果だった。チームの結束力も実力も充分に準備してきたのに、トラブルが襲ったのだ。相手チームに転倒させられ怪我した金城さん、崖の下へ落車した古賀。俺がもっと強く制止していれば、古賀は無茶をせず怪我をしなかったはずだと自分を責めても、後の祭りだった。
大会を表彰式まで見届けるも、あの15cmの表彰台が恨めしかった。金城さんを落車させた箱学が、総合優勝を決めたからだ。
怪我をした選手と監督以外は今日中に飛行機で千葉まで戻らなければならない。空港へ向かうバスの中も息が詰まりそうなほど重い空気だったのを覚えてる。
学校へ戻る頃には既に夜になっており、キャプテンからの挨拶に後輩達は一礼して解散となった。三年生は「来年は頼むぞ」と後輩達の肩を叩き、涙ぐんでいた。その中に、泣くのを堪えて唇を噛み締めている琴音さんの姿も。
部室にはインハイメンバーだけが残り、何か話してる中にとても入って行けそうにない。解散となったし帰るしかないと周囲を一度見渡した際、琴音さんがそそくさと中庭へ移動して行ったことに気が付いた。こっそり後を追えば、やはり両手で顔を覆って泣いていた。誰にも見られないところで静かに、しくしくと。
「あの、タオル。これ使ってないキレイなやつなんで、よかったら……」
どうしてもほっとけなくて、近づいて白いタオルを差し出すと、声に驚いて顔を上げた彼女の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出して頬を濡らしていた。ああ、泣いても可愛いんだな…なんて、口には出せない台詞を頭に過る。ありがとうと、小さく震えた声でお礼を告げられ、タオルで涙を拭いながら、今度は嗚咽を漏らして泣きじゃくりはじめた。俺は、タオルを渡すこと以外何も出来なかったが、しばらく琴音さんが落ち着くまで傍で立って見守っていたのだった。
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後日、丁寧に洗ったタオルを返しに来てくれた日をキッカケに、二人の距離が縮まった。CDを貸し借りしたり、時々部活帰りに寄り道したりと…、憧れの先輩と二人きりの時間を過ごせるなんて奇跡だと思った。人生、何が起こるかわからない。
オフの日に何度か遊びに出かけて親密度が増した頃、秋の夕暮れ時、琴音さんからバス停で唐突に告げられた。
「手嶋くんが好き。私と、付き合って下さい」
「え」
「…年上は嫌?」
驚きのあまり間の抜けた返事が出てしまった。もちろん、魅力的な質問には頭を振って否定する。嫌なはずがない。
真っ直ぐこちらを見つめて、長い睫毛に縁取られた瞳に映るのは夕焼けのオレンジ色。映画のワンシーンを切り取ったみたいに綺麗だった。
勇気を出して伝えてくれた告白は、尻込みして俺から伝えられなかった一言一句、そのものだった。彼女は高嶺の花だったはずだ。二人で遊びに出かけてる時も、心のどこかで“俺でいいのか”と自信がなかった。
彼女の小さな手を握りながら「俺も同じ気持ちです」と返事をして、気持ちが高ぶったまま二人の顔が近づいた時、待っていたバスの音が近づき恥ずかしくなって思わず離れた。立ちすくんだまま乗らずにバスを見送った後、改めて、ひと気のないバス停でふたつの影が重なった。緊張のあまり、唇の柔らかさに触れても現実味がなかった。
鼻先がくっついて離れた途端、橙の空の下でもわかるぐらい頬を赤らめた琴音さんがあどけなく見えて、しばらく心臓のドキドキが鳴りやまなかったのを覚えてる。
・・・
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成績優秀な琴音さんは推薦で短大の進学を決め、秋も冬も一般受験する三年よりも穏やかな時間を過ごしていたと思う。だからこそ、俺と交際する時間的余裕もあったのだろう。クリスマスにはお互いプレゼントを交換し、カフェで食事をしてカラオケに行って楽しい時間を過ごした。付き合って以降、唇の柔らかさ以上の事を知るチャンスも何度かあったのだが、関係の進展はやめておいた。自分の中に一つの懸念があったからだ。
日々、部活にのめり込み、僅かなオフの時間を彼女と過ごす。憧れのマネージャ―が恋人になり幸せの絶頂の際、頭にあったのは『年が明けてしばらくしたら、別れを切り出そう』ってことだった。
片思いしていた先輩と両想いになって全力で浮かれたかったが、無理だった。部活とプライベートを両立しちゃいけない…なんてことはない。決してない。なのに、自身の“夢”が制約を課していた。
春に青八木と出会い、チーム二人を結成してから出場したレースで五回ほどあいつを表彰台へ上げることに成功した。
策略は得意だが自転車の才能が今一つの俺と、実力はあるのにマネジメントが下手な青八木。二人が組めば、来年のインターハイ出場も夢じゃないと確信した。“出れたらいいな”じゃなく、“絶対に出たい”――強い想いに変わった時、今以上に努力が必要だった。
全ての時間を自転車にかけるぐらいの覚悟じゃないとダメなんだ。それでも足りないかも知れない。高校の間に、俺が青八木とインハイに行ける夢を現実にする為に、恋人と別れる事は必要な選択だった。交際がおざなりになる前に、優先順位をつけなくちゃならない。
だから、バレンタイン前に琴音さんに理由を伝えて、別れを告げた。
「…じゃあ、なんでOKしたの?」
本当にその通りだ。怒りが含まれた声色に、握った手の中に汗が滲む。片思いの相手だったので嬉しくてOKしちゃいました…とか火に油を注ぐ言い訳に過ぎない。我ながら身勝手だ。ド正論に黙った俺に、俯いていた琴音さんは『…なんてね!』とおどけた口調でパッと顔を上げた。
「こうなるかもって少しだけ予感してたから…」
「ごめん!…ごめん、琴音さん。琴音さんを好きな気持ちは本当です。嘘じゃない」
「大丈夫、ちゃんと伝わってたよ」
「……気の済むまで責めてくれて、構いません」
「えぇ…、そんなに私を嫌な女にさせたい?」
「いっ、いや、そんなこと――」
「冗談だよ」
明るく振舞いながらも目尻にたまった涙を人差し指で掬い、眉をハの字にしたまま琴音さんは笑った。
「短い間だったけど楽しかったよ。ありがとう、純太くん」
手放したくないのに手放さないと、届かない“夢”がある。両方を得ることは出来ないと頭では理解してるのに、胸が軋む。
傷つけた相手に優しくされるの、こんなキツイのか。ひどい男だと、罵声を浴びせられた方がまだ楽だ。
そして、少しも引き止められなかった事に僅かに切なさを感じていた。止められたって応えることなんて出来やしないのに、我儘な自分に嫌気が差した。
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教員免許を取得する為には、教育実習は避けて通れない。
原則、母校へ受け入れをお願いし実習に行くというのを聞いたことがある。じゃあ、別に俺に会いに来たワケじゃなさそうだ――……いや、何考えてんだ。付き合って数ヶ月で振った男に会いに来る為に教育実習に来るなんて、あり得ない。それに、中途半端な気持ちで琴音さんは臨んでないはずだ。将来自分が就く職業の選択肢の一つとして、教師を見据えているからだろう。
偶然会ったりでもしたら気まずい。もし用事があってもしばらく二年の教室には近づかない方がいい。振った側の俺からは会いに行くなんてこと、しない方がいいに決まってる。
少しだけ会話を続けて小野田が去った後、俺は中庭のベンチからすっかり紅く色づいた木々の葉を見上げた。広島大会の後、泣いている琴音さんにタオルを渡したのも、この場所だった。考え事したい時や一人で昼飯を食べてリラックスしたい時になんとなくここを選んじまってるのは、思い入れのある場所だからか?俺、そんな女々しい奴だったっけ?確かにそーゆーとこあるなぁと妙に納得してしまい、自嘲気味な笑いが漏れた。
徐々に肌寒くなり、今年は季節のイベント事などそっちのけで勉強してるであろう冬休みが待っている。ロードに乗りてぇな、気晴らししてぇなという誘惑を振り切って、頭にはたくさんの英単語や文法を詰め込まなければならない。
放課後になり図書室へ向かったら、ほぼ三年が占領して混みあっていた。座席は早いもの勝ちだから仕方ないと諦め、部活にやって来たら室内から賑やかな話し声が聞こえる。マネージャ―の寒咲が残ってんのか?とドアを開けると、青八木と古賀が並んで立っていた。
この時間、部員達は周回コースを走っている為、部室はガランとしている。後輩たちの邪魔をしたくはないが、空いてる時間、たまに借りるくらいならいいだろう。三人とも勉強するために同じ場所に来るなんて気が合うな?――って、冗談を口にしようとするも、驚きのあまり言葉を飲み込むことになる。
青八木と古賀が話していたのは寒咲ではなく、琴音さんだった。
「あ、手嶋くん。久しぶり!」
声を弾ませながら、琴音さんは手をひらひらと振りながら部室のドアの方に体を向けた。長く伸びた髪はハーフアップにしてバレッタでまとめられ、白シャツにセットアップのスーツを着こなし、ヒールを履いるせいか背筋がピンと伸びている。新社会人を思わせる服装が新鮮だ。
今日から教育実習に来てるって話は既に小野田から耳にして知っていたけども、初めて聞いたフリをしてその場をやり過ごした。
「初日の今日は早めに終わったから、懐かしくなって部室を訪ねてみたの。そしたら偶然、だね」
ニコッと嬉しそうに微笑めば、花が咲いたように明るくなる。少し大人びても、思い出の中の印象と変わっていない。古賀、青八木、俺と、順番に視線を移しながら、“三人とも大きくなったね”と言われ、誉められた気分になった。身長や容姿だけでなく、精神的な成長の意味も含まれてる感じの言い方だったから。
「優勝おめでとう!二連覇、すごいことだよ。私達の代では成し遂げられなかった。実は去年もOBのみんなで観に行ってたんだよ」
「来てたんですか…!それならテントにも寄ってもらえたら…。今年、俺はサポートだったんで――」
「いいのいいの。当日ってバタバタしてるし、古賀くんはメカ周りの事も見てくれてるから特に忙しかったでしょ?邪魔にならないように、沿道から少し離れた場所で応援することにしたの。みんな、去年も今年も、ありがとうって言ってたよ。後輩達が夢を叶えてくれて誇らしいって……私からも、ありがとう」
深々とお辞儀しながら心のこもった労いの言葉は、きっと直接伝えたかったのだろう。琴音さんの分に加えて、遠くから応援してくれた先輩達の分の気持ち乗っかっていると思うと、目頭が熱くなる。しみじみと感謝に浸りながら、一年の頃に味わった、マネージャーに励まされると浮足立ってしまうこの空気が懐かしい。あの古賀でさえ照れている。
既に勉強道具を机に並べた後に彼女がやって来たのだろう。ここで勉強をしようとしていたのを察して、琴音さんは来て間もないというのに、鞄を肩にかけ直してゆっくりと踵を返した。
「受験勉強するために集まってたんだよね。邪魔してごめんね。三人共、頑張って!じゃあ――」
かつて俺と付き合っていた事などなかったみたいな、普通の接し方だ。明日から本格的に始まる教育実習も、二週間もすれば終わる。おそらく琴音さんが自転車競技部の部室にやって来る事はもうない。
これで、関わるのはホントに最後、か。
「待っ……!」
刹那、気付いたら細い手首を掴んで部室から出で行こうとする琴音さんを止めていた。完全に反射だった。もう簡単に触れていい関係じゃないのに。
俺が制止する声が部室に響き、勘のいい古賀と青八木は揃って彼女を止めた。
「せっかく来たんです。もう少しゆっくり…そうだ、じきに練習から戻ってきますんで、インハイの立役者達にも会ってやって下さい」
「え…、いいの?なんかOBハラスメントになってない?」
「なってませんよ」
古賀の返答に同調するように青八木も頷き、おもむろにパイプ椅子を用意すると、そこに彼女を座らせた。『飲み物を買ってきます』と二人して部室を出て行ったけど、飲み物を買いに行くのに二人もいらねぇだろ。青八木は一瞬、何か言いたげに俺を一瞥していた。琴音さんとのことは唯一、青八木だけには話していたから、改めて“ちゃんと話して来い”ってコトなのか?考えなしに彼女を止めたのは俺だが……、話せって何を?
四人から二人きりになったガランとした部室に、机を挟んで向かい合って座る俺と琴音さん。別れたのは一昨年の冬で、顔を合わせるのは卒業式後の送別会以来になる。
頬にはチークの桃色が白い肌に映え、薄ピンクの口紅は自然な血色感、落ち着いたブラウンのアイシャドウが上品だ。実習生らしい淡い化粧が似合っている。キレイだ。あの頃より、ずっと大人に見える。
空気を読んで切り上げようとした彼女を止めてでも話したかった事なんて、俺には思いつかない。本能的に体が動いちまっただけだ。沈黙は長続きすることなく、琴音さんは俺を見つめ感嘆の息をついてから話し出した。
「……手嶋くん、すごいね。本当に夢を叶えたんだね」
「俺の力だけじゃ到底、無理でした。チームのおかげです」
「手嶋くんがそのチームをまとめたんだよ?キャプテン大変だったよね。お疲れ様。三日目の山岳賞も、見てたよ。感動して泣いちゃった」
“見てたよ”…って、それだけでも嬉しいのに、泣いてくれたなんて。今年もその前も、総北を卒業してからも応援しに来てくれてたんだな。再び目の奥は熱を帯び、気の利いた返しがすぐに出て来ないうちに琴音さんはぽつりと呟いた。
「別れた甲斐があったかなぁ」
二人きりだからこそ声に出せた台詞に、息を飲んだ。数ヶ月だけ付き合った過去が過ぎり、一方的な別れだったにも関わらず、最後は『ありがとう』と言ってくれた優しさや気遣いを思い出す。
インハイに出場したくて、二連覇を目指したくて、自転車以外の事は極力セーブした二年間。青春を遠ざけ、淡々と練習やトレーニングに励んだ。
ふとした季節の合間に、今頃どうしてるかなと思いを馳せるのは琴音さんだった。俺から振っといて無責任だが、思い出す度に彼女の幸せを願っていた。もしかしたら新しい彼氏がいるかもと、隣に並ぶ他の男を想像して羨んだりもした。
「一方的に別れた事、怒ってないんですか?」
「怒ってないよ。嫌い合って別れたわけじゃないし、寂しかったけど納得してたから」
あの別れ話で、俺は嫌われたって不思議じゃないのに。琴音さんの心の広さに救われる。それにね、と、両手を合わせて口元に近づけ、伏し目がちに彼女は続けた。
「あの日の手嶋くんの走りを見てたら、すごく心が震えたの。積み重ねてきた努力が報われてよかったって思った。みんな勇気もらったって言ってたよ。もちろん、私も」
「……参ったな。今度は俺を泣かせにきてます?」
「ううん、全部本心だよ」
真っ直ぐな言葉が心に染みて、今度は鼻の奥がツンとする。泣きそうになるのを誤魔化すように発した声は掠れてしまった。
凛とした外見の良さも魅力的だけど、本来、この人の優しすぎる性格に俺は惹かれたんだった。人目に隠れて泣きじゃくる姿を見て守ってあげたいと思っていたのに、結局、もらってばかりで何ひとつ、優しさひとつ返してやれなかった。
「あのね、……また、純太くんって呼んでもいい?」
目が合わせられず俯いたまま、柔らかい声が鼓膜を揺らす。それを、彼女がどんな気持ちで告げたのかその意味がわからないほど野暮じゃない。別れてからも好きで居続けてくれていた事実に、目を見開く。今年も去年もインハイをわざわざ観に来てくれて、遠くから静かに俺の夢が叶うのを見守ってくれていた。こんなに想われて、俺は果報者だ。贅沢過ぎる。
「……呼んでもらう資格、俺にあるのかな」
「あるある。たっくさん、あるよ」
「いやぁ、そんなに?いっぱいですか?」
「うん、この両手いっぱい」
目を細めて笑いながら両手の平を差し出すように向けられ、俺は琴音さんに再び恋をしたのだと、早鐘を打つ心音が教えてくれる。
白い肌、細くてキレイな指。そこに上から自分の手を重ねたら、手の平から体温が伝わり合った。そのあたたかさに、かつて手に触れた場面が映画のように脳裏に浮かんだ。
部活の帰りに並んで歩いた帰り道で。クリスマスにイルミネーションを眺めながら歩いた街で。元旦から行った初詣で――触れて繋いだ。部活中にボトルを渡される時に、指先にわざと触れて照れくさそうにしていた甘い記憶――全部、覚えてる。
「琴音さんが好きです。俺と、付き合って下さい」
この偶然を運命と呼ばずにはいられない。
まだ手遅れでないのなら、チャンスがあるのなら――
「もう離れないって誓える?」
「再会した運命に誓って、もう二度と」
“離れません”――言葉の代わりに頷けば、堪えていた涙が目から零れ落ちた。あぁ、男が好きな女の前で泣くなんて情けねぇにも程があるが、好きな女の前以外では泣けないのだから仕方ない。琴音さんは片手だけ俺の両手に添えたまま、鞄から慌てて白いハンカチタオルを出した。ふわふわとした手触りのそれを俺に握らせて、涙を拭うように促した。
「ほら、これ。予備の使ってないやつだから」
「はは、カッコ悪ィ…」
「そんなことないよ。意外と泣き虫なとこも含めて、これからたくさん、純太くんのこともっと教えてね」
二年前の夏、泣いてる琴音さんに俺がタオルを差し出した時と同じだ。故意にあのシーンを再現したわけでないだろうに。今日、偶然にしては色々出来過ぎだ。運命は、俺をほっとくつもりはないらしい。
涙を拭いたら顔を見合わせて照れくさそうに笑って、カッコ悪くてもいいからここからリスタートしよう。今度こそ俺は、彼女の愛に報いたい。
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