短編・中編
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優しくしたいのは、
練習終わりに集まってミーティングする内容は、もうじき当日を迎える箱根学園恒例・三年生の追い出しファンライドの作戦についてだ。
距離が長いのとゴールが設置されている事から必ずレースになるという伝統あるイベントなワケだが、誰が言ったか“親睦壮行会”なんて。ンな生易しいもんじゃないことは重々承知なだけに、プランの練り直しを何度か重ねた。今日でもう何回目か。
広い部室から奥に続くミーティングルームの中央に机と椅子を並べ、目の前の二人――塔一郎と拓斗と、作戦ノートを広げた。
粗方固まって来たプランに塔一郎は頷き、拓斗も納得したようだった。三年に本気で勝ちに行くつもりなら、隙があっちゃいけない。福富さんも東堂さんも新開さんも……俺と一騎打ちになるであろう荒北さんも、格別に強いからだ。
最近本調子じゃない真波にはもともと当日伝える予定なので、ミーティング自体は不参加で問題なかった。
インハイ後から随分自分を追いつめた過度な練習を重ねている姿を見ては、声を掛けようかと迷ったが、東堂さんに止められた。
“ひとつの真実に自ら気づくしかない”って、何となく察しはつく。はたから見れば“答え”は簡単なのに、当人にしてみりゃそうはいかないようだ。インハイを選手として経験していない俺からでは、どのみちどんな言葉をかけても届かなそうで、静かに見守ってやるしか出来ない。それでもファンライドの計画には勿論、真波も組み込んだ。
「よし、後は当日だな!」
「あぁ、二人ともお疲れ様。次期キャプテンとしてちょっとした企画を用意しておくよ」
「なになに、教えてよ塔ちゃん」
「当日のお楽しみだよ」
「ユキちゃん知ってる?」
「いーや、知らねェ」
黙ったまま塔一郎の口角は上がっている。
まぁテンション上がるサプライズなら、今無理に聞く必要もねェ。知りたがりの拓斗は塔一郎に詰め寄っていたが、俺は立ち上がって制止しておいた。
練習の合間を縫ってのファンライドミーティングも今日でラストだ。後は当日、先輩方に全力をぶつけるだけだ。
不意に、話し合いが終わったタイミングを見計らったようにドアがノックされた。どうぞ、と塔一郎が告げるとドアの隙間からコンビニのビニール袋……に、飲み物が入ってる。
後輩からの差し入れか?という予想は外れ、顔を覗かせたのは琴音さんだった。俺たち三人と順番に視線を交わし、最後に俺と目が合えば彼女は緊張の糸が解けたように微笑んだ。さっきまで何ともなかった心臓が途端に高鳴り出す。
――三年のマネージャー、汐見琴音さん。俺の、片思いの相手だ。
今年の春先から、彼女は荒北さんと付き合ってると噂されていた。以前から琴音さんに想いを寄せていたというのに、ライバルが荒北さんだと知り勝てそうになく、俺の淡い恋心は散った――ハズだった。
先輩方が部活を引退し、主将は塔一郎に、副主将は俺に任命された秋頃に、“二人は別れた”ってのをまたしても噂で知った。
あの荒北さんが一度惚れた相手を手放すはずがないと疑った俺は、教えてくれそうな新開さんにどうしてもと頭を下げて懇願したところ、事情があって二人は付き合ってるフリをしていたんだという真実を聞き出した。……その際、新開さんにはどうしてそこまで二人の仲が気になったのかという理由も、顔を赤くして説明しておいた。
ひとかけらも望みがないと諦めていた片思いは、結局自分の中で燻ぶったまま、ずっと生きていた。今この瞬間でさえ。
「三人ともお疲れ様。ファンライドのミーティング、だよね?これ、よかったら差し入れ」
「ありがとうございます!」
「今日の話し合いは終わったのかな?私も一緒していい?」
「勿論です!」
テンションが上がって食い気味に元気よく返事しちまったのは我ながら恥ずかしいが、もう反射みたいなもんだ。
あたたかい飲み物を受け取り机に置くと、折りたたんで部屋の隅に置いてある椅子を設置して琴音さんを迎え入れた。
塔一郎も拓斗も彼女に礼を言いつつ飲み物を受け取ると、四人でテーブルを囲んだ。ちょうど、俺の向かいに琴音さんが座ったので愛らしい表情がよく見えた。先輩なのに、相変わらずどこか年下のようにあどけない。
三年のほとんどは部活の引退後は受験勉強に集中する為、部室には来なくなる。時々様子を見に来てくれる先輩もいるが、受験の時期が近づくにつれてその頻度は低くなっていく。
その中でも、琴音さんは『進路が専門学校で受験がないから』と、わりと頻繁に部活を手伝いに来てくれるのだ。後輩マネへのレクチャーもありがたいし、純粋に会える機会があって嬉しい。
「ちょうど今日でプランも決まったところだったんです」
「そうだったんだ……。泉田くん、キャプテンの仕事もあるのにお疲れ様。これからは三人が部の中心になるね。頼もしい限り!」
ふふ、と柔らかい笑い声を立てつつ、期待が込められた言葉がこそばゆい。
琴音さんは去年の秋からマネージャーとして途中入部して来てから、後輩達に対しても優しくいつも穏やかだ。先輩風なんて吹かせた事は一度もなかった。
だから、おかしな後輩に付け入られないように荒北さんと付き合うフリをしてたのを知った時は、俺がもっと注意深く見ていればよかったと後悔したものだ。その“彼氏のフリ”さえ自分が願い出て彼女を守りたかったと、今更でも願わずにいられない。
「ええ、期待に応えますよ。何せ参謀を担う男が居ますから。な、ユキ」
「そうそう、頭いいからねぇユキちゃんは。絵は下手だけど」
「一言余計なんだよ、拓斗!」
「確かにユキの画力は飛び抜けているね、下に」
「誉めてねェ!」
隣に座る塔一郎に肩を叩かれ、拓斗からも一応褒められた直後に何故かディスられ、俺はすかさずツッコミを入れた。その様子を楽しそうに眺める琴音さんに、やはり胸中が騒めき始める。
ちなみに、塔一郎には彼女への片思いがバレてる。拓斗は知らないはずだが意外と気づいてる気がしなくもない。だからって、無理に俺を持ち上げようとしなくていいっての。でもって、誉めてから落とすな。
……ひとつ、覚悟を決めていた事がある。
ファンライドが終わった翌日に、俺は琴音さんに告白するつもりだ。
例えば片思いの期間が長いほど報われる可能性が高くなるなら、待って気持ちを温め続ける事も出来るが、現実はそうじゃない。世界は二人で回っているわけじゃないからだ。知らぬ間に他の男と結ばれるかも知れない。
“恋人が居るから”を理由にフラれるぐらいなら当たって砕けたほうがマシだと、俺は腹を括った。もう、告白前に失恋するなんて経験はしたくはねェ。フラれたらもう気軽に話すことも叶わないだろうが、リスクのない選択なんて無い。どんな結果になるにしろ、当日が待ち遠しかった。
「泉田くんと葦木場くんは黒田くんのことを名前で呼んでるよね。仲良くていいなぁ」
ぽつりと漏らした台詞に、俺が返答するより早く『じゃあ呼んだらいいじゃないですか!ねぇユキちゃん!』と拓斗が意気揚々と返していた。いや、それで合ってるんだが。わかってやってんのか、この天然は。
うんうんと首を縦に振る塔一郎と、小さく遠慮がちに頷く俺に目配せをしてから、琴音さんはスゥと息を吸った。
「ユキくん」
静かになった部屋に俺の名前を呼ぶ声が甘く響き、喉がゴクリと鳴る。
途端、琴音さんの顔がみるみる赤くなっていき、何かを察した塔一郎は椅子から立ち上がって葦木場を連れて部屋を出ようとした。名を呼ばれたことにしみじみと感動していた俺は、まるで気づいていなかった。
呼ばれた名前の後に、彼女が震えた唇で発する 『好きです』 という四文字が待っているということに。
・・・・・・
“心臓が口から飛び出そう”という比喩は、その場面に直面しているからこそ大袈裟じゃないと感じている。この展開に驚かずにいられるか。
七月頃、脚立から落ちた彼女を抱きとめたあの日から、どうやら俺を男として意識するようになったらしい。
思い返せば、『琴音さんに怪我されると俺が大丈夫じゃないんです!』なんて、ほとんど好きだと言っちまってるようなもんだった。
だが、それをキッカケに俺を見る目が変わったとなると、咄嗟に叫んだ言葉とはいえ好転だ。
「ここで伝えるつもりはなかったんだけど、つい言っちゃった。泉田くんと葦木場くんも居たのに、ごめんね」
「……いえ!そ、そんな」
照れくさそうに笑顔を向ける琴音さんから伝播するみたいに、緊張で握りしめた手から体温を上げていく。塔一郎が空気を読むのが早かったおかげで、今はこのミーティングルームに二人きりだ。
後日、自分から告ろうと決めていたハズがまさかの逆告白に、伝えたかった言葉がまとまらない。いつから好きだったとか、どこに惹かれてたとか、俺の方が前から意識してましたよとか――、何で喉からすんなり出て来ないんだ。そもそも、虚を突かれて、覚悟はできてたが台詞の準備が出来てなかったってのもある。
「私は来年もう卒業しちゃうし、会えるうちに伝えたかっただけで、伝えて自己完結するつもりで……、でも、急に迷惑だったよね」
「そんなことないです。……う、嬉しいス」
「嬉しい?」
「本当です」
「……やっぱり相変わらず、優しいね」
完全に社交辞令として返しているように受け取られ、心の奥底で沸々と衝動が湧き上がる。好きでもない相手からの告白を嬉しいと、お世辞でも言える気遣いなど俺は持ち合わせていない。
「俺は……ッ!」
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れ、ガタンッ!と大きな音が部屋に響き渡った。
その音にビクリと肩を震わせていた琴音さんに近づくと、座ったままの彼女を抱きしめた。腕を回せば小柄な身体はすっぽりと収まり、髪からはいい香りがする。想像ではもっとスマートにこなすはずだったのに、勢いだ、完全に。
「俺は好きな人にしか優しくできない。ずっと前からそうです」
耳元に口を寄せて確実に聞こえるように、言葉を発した。あの日、口にすることが出来なかった心の奥にある本音をやっと、やっと言えた。
バクバクとうるさく鳴る心臓の音も、彼女に聞こえてるはずだ。抱きしめた意味、加速する心音も体温の高さも、琴音さんが理解出来ないハズがない。
卒業するから何だ。会える時間が少なくなるから何だ。おそらく、箱根と都内のちょっとした遠距離恋愛になるだろうが、それが何だってんだ。伝えたからハイ終わりなんて、そうはいくか。
恋人同士になることを彼女が望んでないとしても、俺は違う。彼氏になりたい、……なりたくて仕方がネェ。
抱きしめた腕を解いたら屈んで、瞳を見つめて手を取ろう。そんで、これからひとつひとつ、紐解いていくように大事に伝えよう。
ドリンクボトルを渡されれば心がこそばゆくなった感覚を。マッサージをされると緊張のせいで心臓が鼓動した思い出を。この気持ちの正体は何なのかと突き止める前に失恋したと思い込み、それでも諦めきれなかった恋心を。
たった一人、大好きな彼女に優しくしたいという俺の願いは、これからも叶い続ける。
練習終わりに集まってミーティングする内容は、もうじき当日を迎える箱根学園恒例・三年生の追い出しファンライドの作戦についてだ。
距離が長いのとゴールが設置されている事から必ずレースになるという伝統あるイベントなワケだが、誰が言ったか“親睦壮行会”なんて。ンな生易しいもんじゃないことは重々承知なだけに、プランの練り直しを何度か重ねた。今日でもう何回目か。
広い部室から奥に続くミーティングルームの中央に机と椅子を並べ、目の前の二人――塔一郎と拓斗と、作戦ノートを広げた。
粗方固まって来たプランに塔一郎は頷き、拓斗も納得したようだった。三年に本気で勝ちに行くつもりなら、隙があっちゃいけない。福富さんも東堂さんも新開さんも……俺と一騎打ちになるであろう荒北さんも、格別に強いからだ。
最近本調子じゃない真波にはもともと当日伝える予定なので、ミーティング自体は不参加で問題なかった。
インハイ後から随分自分を追いつめた過度な練習を重ねている姿を見ては、声を掛けようかと迷ったが、東堂さんに止められた。
“ひとつの真実に自ら気づくしかない”って、何となく察しはつく。はたから見れば“答え”は簡単なのに、当人にしてみりゃそうはいかないようだ。インハイを選手として経験していない俺からでは、どのみちどんな言葉をかけても届かなそうで、静かに見守ってやるしか出来ない。それでもファンライドの計画には勿論、真波も組み込んだ。
「よし、後は当日だな!」
「あぁ、二人ともお疲れ様。次期キャプテンとしてちょっとした企画を用意しておくよ」
「なになに、教えてよ塔ちゃん」
「当日のお楽しみだよ」
「ユキちゃん知ってる?」
「いーや、知らねェ」
黙ったまま塔一郎の口角は上がっている。
まぁテンション上がるサプライズなら、今無理に聞く必要もねェ。知りたがりの拓斗は塔一郎に詰め寄っていたが、俺は立ち上がって制止しておいた。
練習の合間を縫ってのファンライドミーティングも今日でラストだ。後は当日、先輩方に全力をぶつけるだけだ。
不意に、話し合いが終わったタイミングを見計らったようにドアがノックされた。どうぞ、と塔一郎が告げるとドアの隙間からコンビニのビニール袋……に、飲み物が入ってる。
後輩からの差し入れか?という予想は外れ、顔を覗かせたのは琴音さんだった。俺たち三人と順番に視線を交わし、最後に俺と目が合えば彼女は緊張の糸が解けたように微笑んだ。さっきまで何ともなかった心臓が途端に高鳴り出す。
――三年のマネージャー、汐見琴音さん。俺の、片思いの相手だ。
今年の春先から、彼女は荒北さんと付き合ってると噂されていた。以前から琴音さんに想いを寄せていたというのに、ライバルが荒北さんだと知り勝てそうになく、俺の淡い恋心は散った――ハズだった。
先輩方が部活を引退し、主将は塔一郎に、副主将は俺に任命された秋頃に、“二人は別れた”ってのをまたしても噂で知った。
あの荒北さんが一度惚れた相手を手放すはずがないと疑った俺は、教えてくれそうな新開さんにどうしてもと頭を下げて懇願したところ、事情があって二人は付き合ってるフリをしていたんだという真実を聞き出した。……その際、新開さんにはどうしてそこまで二人の仲が気になったのかという理由も、顔を赤くして説明しておいた。
ひとかけらも望みがないと諦めていた片思いは、結局自分の中で燻ぶったまま、ずっと生きていた。今この瞬間でさえ。
「三人ともお疲れ様。ファンライドのミーティング、だよね?これ、よかったら差し入れ」
「ありがとうございます!」
「今日の話し合いは終わったのかな?私も一緒していい?」
「勿論です!」
テンションが上がって食い気味に元気よく返事しちまったのは我ながら恥ずかしいが、もう反射みたいなもんだ。
あたたかい飲み物を受け取り机に置くと、折りたたんで部屋の隅に置いてある椅子を設置して琴音さんを迎え入れた。
塔一郎も拓斗も彼女に礼を言いつつ飲み物を受け取ると、四人でテーブルを囲んだ。ちょうど、俺の向かいに琴音さんが座ったので愛らしい表情がよく見えた。先輩なのに、相変わらずどこか年下のようにあどけない。
三年のほとんどは部活の引退後は受験勉強に集中する為、部室には来なくなる。時々様子を見に来てくれる先輩もいるが、受験の時期が近づくにつれてその頻度は低くなっていく。
その中でも、琴音さんは『進路が専門学校で受験がないから』と、わりと頻繁に部活を手伝いに来てくれるのだ。後輩マネへのレクチャーもありがたいし、純粋に会える機会があって嬉しい。
「ちょうど今日でプランも決まったところだったんです」
「そうだったんだ……。泉田くん、キャプテンの仕事もあるのにお疲れ様。これからは三人が部の中心になるね。頼もしい限り!」
ふふ、と柔らかい笑い声を立てつつ、期待が込められた言葉がこそばゆい。
琴音さんは去年の秋からマネージャーとして途中入部して来てから、後輩達に対しても優しくいつも穏やかだ。先輩風なんて吹かせた事は一度もなかった。
だから、おかしな後輩に付け入られないように荒北さんと付き合うフリをしてたのを知った時は、俺がもっと注意深く見ていればよかったと後悔したものだ。その“彼氏のフリ”さえ自分が願い出て彼女を守りたかったと、今更でも願わずにいられない。
「ええ、期待に応えますよ。何せ参謀を担う男が居ますから。な、ユキ」
「そうそう、頭いいからねぇユキちゃんは。絵は下手だけど」
「一言余計なんだよ、拓斗!」
「確かにユキの画力は飛び抜けているね、下に」
「誉めてねェ!」
隣に座る塔一郎に肩を叩かれ、拓斗からも一応褒められた直後に何故かディスられ、俺はすかさずツッコミを入れた。その様子を楽しそうに眺める琴音さんに、やはり胸中が騒めき始める。
ちなみに、塔一郎には彼女への片思いがバレてる。拓斗は知らないはずだが意外と気づいてる気がしなくもない。だからって、無理に俺を持ち上げようとしなくていいっての。でもって、誉めてから落とすな。
……ひとつ、覚悟を決めていた事がある。
ファンライドが終わった翌日に、俺は琴音さんに告白するつもりだ。
例えば片思いの期間が長いほど報われる可能性が高くなるなら、待って気持ちを温め続ける事も出来るが、現実はそうじゃない。世界は二人で回っているわけじゃないからだ。知らぬ間に他の男と結ばれるかも知れない。
“恋人が居るから”を理由にフラれるぐらいなら当たって砕けたほうがマシだと、俺は腹を括った。もう、告白前に失恋するなんて経験はしたくはねェ。フラれたらもう気軽に話すことも叶わないだろうが、リスクのない選択なんて無い。どんな結果になるにしろ、当日が待ち遠しかった。
「泉田くんと葦木場くんは黒田くんのことを名前で呼んでるよね。仲良くていいなぁ」
ぽつりと漏らした台詞に、俺が返答するより早く『じゃあ呼んだらいいじゃないですか!ねぇユキちゃん!』と拓斗が意気揚々と返していた。いや、それで合ってるんだが。わかってやってんのか、この天然は。
うんうんと首を縦に振る塔一郎と、小さく遠慮がちに頷く俺に目配せをしてから、琴音さんはスゥと息を吸った。
「ユキくん」
静かになった部屋に俺の名前を呼ぶ声が甘く響き、喉がゴクリと鳴る。
途端、琴音さんの顔がみるみる赤くなっていき、何かを察した塔一郎は椅子から立ち上がって葦木場を連れて部屋を出ようとした。名を呼ばれたことにしみじみと感動していた俺は、まるで気づいていなかった。
呼ばれた名前の後に、彼女が震えた唇で発する 『好きです』 という四文字が待っているということに。
・・・・・・
“心臓が口から飛び出そう”という比喩は、その場面に直面しているからこそ大袈裟じゃないと感じている。この展開に驚かずにいられるか。
七月頃、脚立から落ちた彼女を抱きとめたあの日から、どうやら俺を男として意識するようになったらしい。
思い返せば、『琴音さんに怪我されると俺が大丈夫じゃないんです!』なんて、ほとんど好きだと言っちまってるようなもんだった。
だが、それをキッカケに俺を見る目が変わったとなると、咄嗟に叫んだ言葉とはいえ好転だ。
「ここで伝えるつもりはなかったんだけど、つい言っちゃった。泉田くんと葦木場くんも居たのに、ごめんね」
「……いえ!そ、そんな」
照れくさそうに笑顔を向ける琴音さんから伝播するみたいに、緊張で握りしめた手から体温を上げていく。塔一郎が空気を読むのが早かったおかげで、今はこのミーティングルームに二人きりだ。
後日、自分から告ろうと決めていたハズがまさかの逆告白に、伝えたかった言葉がまとまらない。いつから好きだったとか、どこに惹かれてたとか、俺の方が前から意識してましたよとか――、何で喉からすんなり出て来ないんだ。そもそも、虚を突かれて、覚悟はできてたが台詞の準備が出来てなかったってのもある。
「私は来年もう卒業しちゃうし、会えるうちに伝えたかっただけで、伝えて自己完結するつもりで……、でも、急に迷惑だったよね」
「そんなことないです。……う、嬉しいス」
「嬉しい?」
「本当です」
「……やっぱり相変わらず、優しいね」
完全に社交辞令として返しているように受け取られ、心の奥底で沸々と衝動が湧き上がる。好きでもない相手からの告白を嬉しいと、お世辞でも言える気遣いなど俺は持ち合わせていない。
「俺は……ッ!」
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れ、ガタンッ!と大きな音が部屋に響き渡った。
その音にビクリと肩を震わせていた琴音さんに近づくと、座ったままの彼女を抱きしめた。腕を回せば小柄な身体はすっぽりと収まり、髪からはいい香りがする。想像ではもっとスマートにこなすはずだったのに、勢いだ、完全に。
「俺は好きな人にしか優しくできない。ずっと前からそうです」
耳元に口を寄せて確実に聞こえるように、言葉を発した。あの日、口にすることが出来なかった心の奥にある本音をやっと、やっと言えた。
バクバクとうるさく鳴る心臓の音も、彼女に聞こえてるはずだ。抱きしめた意味、加速する心音も体温の高さも、琴音さんが理解出来ないハズがない。
卒業するから何だ。会える時間が少なくなるから何だ。おそらく、箱根と都内のちょっとした遠距離恋愛になるだろうが、それが何だってんだ。伝えたからハイ終わりなんて、そうはいくか。
恋人同士になることを彼女が望んでないとしても、俺は違う。彼氏になりたい、……なりたくて仕方がネェ。
抱きしめた腕を解いたら屈んで、瞳を見つめて手を取ろう。そんで、これからひとつひとつ、紐解いていくように大事に伝えよう。
ドリンクボトルを渡されれば心がこそばゆくなった感覚を。マッサージをされると緊張のせいで心臓が鼓動した思い出を。この気持ちの正体は何なのかと突き止める前に失恋したと思い込み、それでも諦めきれなかった恋心を。
たった一人、大好きな彼女に優しくしたいという俺の願いは、これからも叶い続ける。