短編・中編
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-8- ※荒北視点
そろそろ今日の部活時間も終わろうとしている夕暮れ時、不思議ちゃんこと真波と汐見が部室内で雑談していた。妙に距離が近けェと思いながら観察してると、話の内容がツボったのか、あいつは肩を震わせて笑いながら指で涙を拭っていた。
マジで楽しそうに笑うなァ…と、その光景を胸中であたたかさを感じながら見つめていた――はずだった。
俺の足は無意識に動き出し、真波と汐見の間に割って接近していた。そして、あいつの涙を拭っていたのは“俺の指”…だった。触れた頬の柔らかさと指先の水滴にハッとするより早く、穏やかな声色の真波のツッコミで我に返る。汐見の紅潮した頬の体温が伝わって来て、爪まで熱くなった。
「オレ琴音さんに近づき過ぎてました?やきもち焼きなんですねぇ荒北さんって」
「……真波ィ!わかっててやってんじゃネェ!」
「あはは、すんませーん」
苦し紛れの言い訳に周囲がザワつく。ニコニコしてる真波に見守られながら、汐見の困ったような笑みが俺に向けられていた。本能で動いて触ってたって、俺はとんだ変態か?しかしマジでビビった。
梅雨の時期だから仕方ないとは言え、連日の雨が降る様子を窓越しに見ながら鬱陶しく感じる。頬付えをつきながら授業中にノートをとるも、どうも集中できねェ。
ロードはオールウェザースポーツだから、当たり前だが雨でも練習はある。むしろ、雨にしか出来ない練習もあるから貴重な機会と言えばそうだが、やはり晴天の中で走りたいもんだ。本日も悪天候……心の中の空模様と同じだ。
柔らかく微笑めば愛らしく、上目遣いで見つめられれば心がこそばゆい。優しくされると照れくさく、頼りにされると嬉しい。トゲトゲした心がすっかり丸く穏やかになっていくのはすぐだった。オレにたいした恋愛経験がないっつっても、これがどーゆー状況か理解できない程、バカじゃねェ。汐見のニセ彼氏を務めて三ヶ月目にして、か弱そうに見えて芯が強いあいつに惚れているとすっかり自覚していた。
オフの日に一緒に出掛けたり、定期的に一緒に帰ったりしてりゃそうなるだろ、と内心で独り言ちてふと気づいた事がある。
ニセ彼氏役を引き受けてからは三ヶ月だが、汐見が途中入部してきたのは去年の九月。福ちゃんの幼馴染ってことでわりと話をしていた方だし、マネージャーとしての頑張りも相当なものだった。
その頃、俺と汐見はただの部員とマネージャーの関係だった。
だが見ていた。俺はその頃からお前を見ていたんだと思う。それが助走になって飛び込んだ“ニセ彼氏”という関係を辿って来たなら、当然のように好きになるわけだ。妙に腑に落ちてる。
俺は一見、当たって砕けろタイプだがどうにも慎重になっちまう。もし当たって砕けろでホントに砕けたら、ニセ彼氏なんて続けられねェし。
しかし最近、汐見が同じ空間にいれば自然と目で追っちまうし、感情の蓋がバカになってきてやがる。嫉妬して他の男に触れさせないようにと無意識に先に体が動いてた事だって、俺も自分で引いた。気持ち悪がられてんじゃネェかとハラハラしてる。
長い髪をひとつに結んでポニーテールををふわふわと揺らしながら、汐見はテキパキと他のマネージャーと連携して仕事をこなしていた。ローラー台でひとしきり汗を流して長椅子に腰かけて、タオルで汗を拭いながらその様子を横目で追う。勝手に視線が動いちまう。
どちらかと言えば目立たたないタイプなのに、俺の目には一際輝いて映る。人混みに紛れても一瞬で見つけられる自信がある。こんな風になったのも、好きの自覚が芽生えてからだ。これ以上、気持ちを抑え込み続けることは不器用な俺にゃ無理だとわかってんだ。
「おい。見すぎだぞ」
「ハァ?」
「気づかないとでも思ったか」
ドリンクを片手に東堂が隣に座ってきた。こいつに話しかけられると反射的に顔をしかめちまうしかも溜息をつかれて気分が悪ィ。チームメイトしても信頼はしているが、東堂と俺は根本的に性格が合わねぇ。
「先日のアレは何だ?フリとは言えさすがに部内の風紀が乱れるぞ。彼氏役とやらが難航してるのなら代わってやっても構わんよ」
「はぁ?誰が代わるか!つか何で上からなんだよ!?」
舌打ちして睨みつけるも東堂は相変わらず涼し気な表情だ。
「フクが同じ事を言っても断れるか?」
「なんで福ちゃんが出てくんだよ」
「可能性はゼロではないだろう。それと、肝に銘じた方がいい」
「……んだよ」
「荒北、お前から男気と根性を取ったらほとんど何も残らん。いつまでもアシストに回るな」
「るっせ!テメェにゃ関係ねェだろが!」
真顔で告げられ、察しのいいこいつに俺の腹の内を読まれてる気がして、頭に血が上った。怒鳴って掴みかかろうとした時、両肩を掴まれて反射的に振り返った。
俺の声が聞こえて飛んできた汐見の小さな手に、ぐいっと力をこめられ強制的に東堂との距離が開いた。
そうだ、こいつはマッサーでもあるから手の力が強いんだったと冷静に考えている場合ではない。
「荒北くん、大声出したらまた後輩たち怖がるから!」
「わぁってるよ」
「東堂くんもレギュラー同士で揉めないようにね!」
「安心しろ。喧嘩にもならんよ」
会話を聞かれていたのではとギクリとしたが、その心配はなかったようだった。皮肉っぽく返して東堂は声高らかに笑って颯爽と去っていった。つくづく腹の立つ野郎だ。
口元に人差し指をあてて小声を促す目の前にいる汐見が可愛らしく、揺れる理性を隠して俺は「はいはい」と気だるげに相槌を打ってから立ち上がった。
例えニセ彼氏を頼んだのがただの偶然だっただとしても、加速する気持ちが抑えられねェ。色々理由をつけて伝えられないと足踏みすんのはもうやめだ。別に東堂に煽られたからじゃない。
ただ、『フクが同じ事を言っても断れるか?』って問いが頭の中でリフレインする。無意識に遠慮していたワケじゃねェけど、福ちゃんと汐見の幼馴染以上の関係を想像した時、諦める覚悟も必要だと思った。だが現実は違う。偽物だとしても、あいつを誰かに譲ろうなんて女々しい感情は一ミリも沸かなかった。例えそれが幼馴染の福ちゃんだとしても。
この雨が上がったら――高ぶる気持ちを、拳を握って抑え込んだ。
□ □ □
貴重な梅雨の晴れ間――雲間から覗いた太陽の温かさが、雨で濡れていた地面を乾かす。湿った空気を含んだ風も心地いい。水を含まない車輪が滑らかで、ペダルを踏みこむ感覚が軽い。寮を出てロードバイクで真っすぐ学校最寄りの駅まで向かった。
早朝から部室で勉強を教えて欲しいという要望を嫌な顔せずOKしてくれた汐見が、駅で待っているはずだ。実際、練習漬けで勉強に手が回らない俺に、何度か教えてもらったことがあるから、今日待ち合わせした理由も違和感はない。
駅付近でロードバイクから降りて改札周辺を見渡すと、俺に気づいて手を振って近づいてくる。
「荒北くん、おはよう!」
「おう、朝から元気だネェ汐見ちゃんは」
「だって久々に晴れて気持ちいいから」
水色のシャツに緑のリボン、濃紺のスカート…箱学の女子の夏制服は目に毒なぐらい眩しい。実際女子の間でも評判のセンスらしい。好きな女が着てると可愛らしさが倍増してる気がする。
挨拶を交わし、他愛のない話をする時間に胸が躍る。どんな話題だって汐見とだから意味を持ってんだと、改めて分かっちまう。
部室の鍵を職員室まで取りに行き一番乗りで扉を開けた。いつもはどこを見ても部員達が視界に映る場所も誰もいなくて広く感じる。
奥にあるミーティングルームには、机と椅子がいくつか雑多に並んでる。そこなら勉強しやすいだろう。教科書やノートを取り出して、椅子に腰かけた汐見はペンを指先でくるりと器用に回した。
「前は 数Ⅲだったよね。今回もそれかな?」
「じゃなくてェ」
「じゃあ古文?」
「それも違ェな」
「……えーと、」
「約束をリセットする方法、教えてくんない?」
「ふふっ、何それ。何に使うの?なぞなぞ?」
口元を緩ませて微笑んだままノートを捲った汐見の左手を、俺は上から重ねてギュッと握った。刹那、小さな手がピクリを動いて一瞬の動揺。俺の手汗がじんわりとして緊張がバレちまう。
「『ニセ彼氏』ってのを嘘にしたくなった」
ポトリとペンがノートの上に落ち、転がった。お互い机ひとつ分の距離で視線を交わし合う。頬が上気して潤んだ瞳、ああ、好きな顔だなと再認識する。告白するのはこんなにも心臓の音を加速させるんだなって生まれて初めて知った。
「汐見のことが本気で好きになっちまったってコトだよ」
「あ、荒北くんが……私を?」
「今ァそう言った」
「なんでそんな……も、もしかして今日って……」
「伝えるために呼んだ。騙して悪かったなァ」
慌てふためく様子を目の当たりにしても、俺はこれ以上言葉を止めたくなかった。こんなに素直に気持ちを声に出せる事があんだなって自分でも驚いてる。
「引退までって約束だけどよ、これ以上気持ち抑えんの無理だった。ニセ彼氏じゃなく、本当の彼氏として傍で守りてェんだ」
腹を括ってからの本番の強さに自分でも驚いてる。伝える言葉を細かく考えて今朝を迎えたわけじゃなかった。二人で会える時間と場所さえあれば、告白のセリフは自然と出てくるって思ってたらホントにそうなった。考えてみりゃ当たり前だ。ずっと喉に停滞してムズムズしてたんだからな。
潤んだ瞳からポロっと大きな粒が零れ、次々と溢れ出してノートや教科書に染みを作っていく。汐見が眉をハの字にし口を歪ませ泣いていた。正直、断られっかもという不安はあった。フラれてカッコ悪くこの場を去る自分を想像したりもした。
――だが、大丈夫だと瞬間的に悟る。これは嬉し泣きだって分かっちまう。日頃から汐見を、目で追いすぎてたせいだ。
「わっ、私も、荒北くんが好き、大好き……っ……本物の彼女に、なりたい…っ」
途切れ途切れに精一杯に言葉を紡ぐ汐見の気持ちが伝わってくる。好きが通じ合うって、心の奥底から感動するもんなんだなと目の奥が熱くなった。もう、思い切り自惚れてもいいか。
「最高のお返事あんがとよ。つーか泣きすぎだろ」
「だって嬉しくて……っ」
“『オイ、人の女口説いてんなよ』”
――あの日、この一言が出てこなければ、二人の行く末は変わっていただろう。共有する時間も交わす言葉も相手を想う気持ちも、何もかも違っていたはずだ。
嬉し涙が止まらない様子の可愛い“カノジョ”の髪を優しく撫でて、俺は椅子から立ち上がり机に身を乗り出した。
誰の邪魔もなく、今度こそ涙を指ですくって指をペロリと舐めた。甘い気がすんなって呟くと、汐見は顔だけでなく耳までみるみる真っ赤になった。
「ちょっ、やだぁ!」
「いーだろ別に」
「汚いからペッしなさい!ペッ!」
「急に母ちゃん口調かァ?」
髪を撫でていた手を後頭部に移し、支えるように添えた。涙を間接的に舐められ恥ずかしがっている汐見に顔を近づけ、互いの唇をそっと重ねる。予想してなかったからか汐見は完全に動きが固まってた。
想像以上に柔らかい感触に、貪りたくなる衝動が込み上げるもグッと堪える。角度を変えてもう一度、ゆっくりと触れてから唇を離した。心の準備をさせてやれなかったのは悪ィと思ったが、もう待てなかった。
すると、突然のキスに驚きのあまり汐見は泣き止んでいた。心臓が早鐘を打ちつつも、その呆け顔が可笑しくて思わず吹き出しちまった。
「ハッ!ほんと可愛い奴」
「………ずるいよ、もう」
絞り出したか細い声で抗議をされても可愛いだけなんだが。ずりィのはどっちだか。
朝日が窓から差し込んで、本物の彼氏・彼女になった俺たちを照らしている。まだ誰も部室に来ないでくれよ。この祝福の光の中、もう少し甘ったるい空気を味わっていたい。
嘘つきもニセ彼氏も卒業したエンドロールの最中なのだから、これくらいの贅沢味わっても罰は当たらネェはずだ。
嘘から始まった俺たちの関係の終焉。嘘の終わりを告げ、新しい二人のスタートラインを切る。
琴音は俺のもんだって、もう我慢しなくていいんだよな?
end.
そろそろ今日の部活時間も終わろうとしている夕暮れ時、不思議ちゃんこと真波と汐見が部室内で雑談していた。妙に距離が近けェと思いながら観察してると、話の内容がツボったのか、あいつは肩を震わせて笑いながら指で涙を拭っていた。
マジで楽しそうに笑うなァ…と、その光景を胸中であたたかさを感じながら見つめていた――はずだった。
俺の足は無意識に動き出し、真波と汐見の間に割って接近していた。そして、あいつの涙を拭っていたのは“俺の指”…だった。触れた頬の柔らかさと指先の水滴にハッとするより早く、穏やかな声色の真波のツッコミで我に返る。汐見の紅潮した頬の体温が伝わって来て、爪まで熱くなった。
「オレ琴音さんに近づき過ぎてました?やきもち焼きなんですねぇ荒北さんって」
「……真波ィ!わかっててやってんじゃネェ!」
「あはは、すんませーん」
苦し紛れの言い訳に周囲がザワつく。ニコニコしてる真波に見守られながら、汐見の困ったような笑みが俺に向けられていた。本能で動いて触ってたって、俺はとんだ変態か?しかしマジでビビった。
梅雨の時期だから仕方ないとは言え、連日の雨が降る様子を窓越しに見ながら鬱陶しく感じる。頬付えをつきながら授業中にノートをとるも、どうも集中できねェ。
ロードはオールウェザースポーツだから、当たり前だが雨でも練習はある。むしろ、雨にしか出来ない練習もあるから貴重な機会と言えばそうだが、やはり晴天の中で走りたいもんだ。本日も悪天候……心の中の空模様と同じだ。
柔らかく微笑めば愛らしく、上目遣いで見つめられれば心がこそばゆい。優しくされると照れくさく、頼りにされると嬉しい。トゲトゲした心がすっかり丸く穏やかになっていくのはすぐだった。オレにたいした恋愛経験がないっつっても、これがどーゆー状況か理解できない程、バカじゃねェ。汐見のニセ彼氏を務めて三ヶ月目にして、か弱そうに見えて芯が強いあいつに惚れているとすっかり自覚していた。
オフの日に一緒に出掛けたり、定期的に一緒に帰ったりしてりゃそうなるだろ、と内心で独り言ちてふと気づいた事がある。
ニセ彼氏役を引き受けてからは三ヶ月だが、汐見が途中入部してきたのは去年の九月。福ちゃんの幼馴染ってことでわりと話をしていた方だし、マネージャーとしての頑張りも相当なものだった。
その頃、俺と汐見はただの部員とマネージャーの関係だった。
だが見ていた。俺はその頃からお前を見ていたんだと思う。それが助走になって飛び込んだ“ニセ彼氏”という関係を辿って来たなら、当然のように好きになるわけだ。妙に腑に落ちてる。
俺は一見、当たって砕けろタイプだがどうにも慎重になっちまう。もし当たって砕けろでホントに砕けたら、ニセ彼氏なんて続けられねェし。
しかし最近、汐見が同じ空間にいれば自然と目で追っちまうし、感情の蓋がバカになってきてやがる。嫉妬して他の男に触れさせないようにと無意識に先に体が動いてた事だって、俺も自分で引いた。気持ち悪がられてんじゃネェかとハラハラしてる。
長い髪をひとつに結んでポニーテールををふわふわと揺らしながら、汐見はテキパキと他のマネージャーと連携して仕事をこなしていた。ローラー台でひとしきり汗を流して長椅子に腰かけて、タオルで汗を拭いながらその様子を横目で追う。勝手に視線が動いちまう。
どちらかと言えば目立たたないタイプなのに、俺の目には一際輝いて映る。人混みに紛れても一瞬で見つけられる自信がある。こんな風になったのも、好きの自覚が芽生えてからだ。これ以上、気持ちを抑え込み続けることは不器用な俺にゃ無理だとわかってんだ。
「おい。見すぎだぞ」
「ハァ?」
「気づかないとでも思ったか」
ドリンクを片手に東堂が隣に座ってきた。こいつに話しかけられると反射的に顔をしかめちまうしかも溜息をつかれて気分が悪ィ。チームメイトしても信頼はしているが、東堂と俺は根本的に性格が合わねぇ。
「先日のアレは何だ?フリとは言えさすがに部内の風紀が乱れるぞ。彼氏役とやらが難航してるのなら代わってやっても構わんよ」
「はぁ?誰が代わるか!つか何で上からなんだよ!?」
舌打ちして睨みつけるも東堂は相変わらず涼し気な表情だ。
「フクが同じ事を言っても断れるか?」
「なんで福ちゃんが出てくんだよ」
「可能性はゼロではないだろう。それと、肝に銘じた方がいい」
「……んだよ」
「荒北、お前から男気と根性を取ったらほとんど何も残らん。いつまでもアシストに回るな」
「るっせ!テメェにゃ関係ねェだろが!」
真顔で告げられ、察しのいいこいつに俺の腹の内を読まれてる気がして、頭に血が上った。怒鳴って掴みかかろうとした時、両肩を掴まれて反射的に振り返った。
俺の声が聞こえて飛んできた汐見の小さな手に、ぐいっと力をこめられ強制的に東堂との距離が開いた。
そうだ、こいつはマッサーでもあるから手の力が強いんだったと冷静に考えている場合ではない。
「荒北くん、大声出したらまた後輩たち怖がるから!」
「わぁってるよ」
「東堂くんもレギュラー同士で揉めないようにね!」
「安心しろ。喧嘩にもならんよ」
会話を聞かれていたのではとギクリとしたが、その心配はなかったようだった。皮肉っぽく返して東堂は声高らかに笑って颯爽と去っていった。つくづく腹の立つ野郎だ。
口元に人差し指をあてて小声を促す目の前にいる汐見が可愛らしく、揺れる理性を隠して俺は「はいはい」と気だるげに相槌を打ってから立ち上がった。
例えニセ彼氏を頼んだのがただの偶然だっただとしても、加速する気持ちが抑えられねェ。色々理由をつけて伝えられないと足踏みすんのはもうやめだ。別に東堂に煽られたからじゃない。
ただ、『フクが同じ事を言っても断れるか?』って問いが頭の中でリフレインする。無意識に遠慮していたワケじゃねェけど、福ちゃんと汐見の幼馴染以上の関係を想像した時、諦める覚悟も必要だと思った。だが現実は違う。偽物だとしても、あいつを誰かに譲ろうなんて女々しい感情は一ミリも沸かなかった。例えそれが幼馴染の福ちゃんだとしても。
この雨が上がったら――高ぶる気持ちを、拳を握って抑え込んだ。
□ □ □
貴重な梅雨の晴れ間――雲間から覗いた太陽の温かさが、雨で濡れていた地面を乾かす。湿った空気を含んだ風も心地いい。水を含まない車輪が滑らかで、ペダルを踏みこむ感覚が軽い。寮を出てロードバイクで真っすぐ学校最寄りの駅まで向かった。
早朝から部室で勉強を教えて欲しいという要望を嫌な顔せずOKしてくれた汐見が、駅で待っているはずだ。実際、練習漬けで勉強に手が回らない俺に、何度か教えてもらったことがあるから、今日待ち合わせした理由も違和感はない。
駅付近でロードバイクから降りて改札周辺を見渡すと、俺に気づいて手を振って近づいてくる。
「荒北くん、おはよう!」
「おう、朝から元気だネェ汐見ちゃんは」
「だって久々に晴れて気持ちいいから」
水色のシャツに緑のリボン、濃紺のスカート…箱学の女子の夏制服は目に毒なぐらい眩しい。実際女子の間でも評判のセンスらしい。好きな女が着てると可愛らしさが倍増してる気がする。
挨拶を交わし、他愛のない話をする時間に胸が躍る。どんな話題だって汐見とだから意味を持ってんだと、改めて分かっちまう。
部室の鍵を職員室まで取りに行き一番乗りで扉を開けた。いつもはどこを見ても部員達が視界に映る場所も誰もいなくて広く感じる。
奥にあるミーティングルームには、机と椅子がいくつか雑多に並んでる。そこなら勉強しやすいだろう。教科書やノートを取り出して、椅子に腰かけた汐見はペンを指先でくるりと器用に回した。
「前は 数Ⅲだったよね。今回もそれかな?」
「じゃなくてェ」
「じゃあ古文?」
「それも違ェな」
「……えーと、」
「約束をリセットする方法、教えてくんない?」
「ふふっ、何それ。何に使うの?なぞなぞ?」
口元を緩ませて微笑んだままノートを捲った汐見の左手を、俺は上から重ねてギュッと握った。刹那、小さな手がピクリを動いて一瞬の動揺。俺の手汗がじんわりとして緊張がバレちまう。
「『ニセ彼氏』ってのを嘘にしたくなった」
ポトリとペンがノートの上に落ち、転がった。お互い机ひとつ分の距離で視線を交わし合う。頬が上気して潤んだ瞳、ああ、好きな顔だなと再認識する。告白するのはこんなにも心臓の音を加速させるんだなって生まれて初めて知った。
「汐見のことが本気で好きになっちまったってコトだよ」
「あ、荒北くんが……私を?」
「今ァそう言った」
「なんでそんな……も、もしかして今日って……」
「伝えるために呼んだ。騙して悪かったなァ」
慌てふためく様子を目の当たりにしても、俺はこれ以上言葉を止めたくなかった。こんなに素直に気持ちを声に出せる事があんだなって自分でも驚いてる。
「引退までって約束だけどよ、これ以上気持ち抑えんの無理だった。ニセ彼氏じゃなく、本当の彼氏として傍で守りてェんだ」
腹を括ってからの本番の強さに自分でも驚いてる。伝える言葉を細かく考えて今朝を迎えたわけじゃなかった。二人で会える時間と場所さえあれば、告白のセリフは自然と出てくるって思ってたらホントにそうなった。考えてみりゃ当たり前だ。ずっと喉に停滞してムズムズしてたんだからな。
潤んだ瞳からポロっと大きな粒が零れ、次々と溢れ出してノートや教科書に染みを作っていく。汐見が眉をハの字にし口を歪ませ泣いていた。正直、断られっかもという不安はあった。フラれてカッコ悪くこの場を去る自分を想像したりもした。
――だが、大丈夫だと瞬間的に悟る。これは嬉し泣きだって分かっちまう。日頃から汐見を、目で追いすぎてたせいだ。
「わっ、私も、荒北くんが好き、大好き……っ……本物の彼女に、なりたい…っ」
途切れ途切れに精一杯に言葉を紡ぐ汐見の気持ちが伝わってくる。好きが通じ合うって、心の奥底から感動するもんなんだなと目の奥が熱くなった。もう、思い切り自惚れてもいいか。
「最高のお返事あんがとよ。つーか泣きすぎだろ」
「だって嬉しくて……っ」
“『オイ、人の女口説いてんなよ』”
――あの日、この一言が出てこなければ、二人の行く末は変わっていただろう。共有する時間も交わす言葉も相手を想う気持ちも、何もかも違っていたはずだ。
嬉し涙が止まらない様子の可愛い“カノジョ”の髪を優しく撫でて、俺は椅子から立ち上がり机に身を乗り出した。
誰の邪魔もなく、今度こそ涙を指ですくって指をペロリと舐めた。甘い気がすんなって呟くと、汐見は顔だけでなく耳までみるみる真っ赤になった。
「ちょっ、やだぁ!」
「いーだろ別に」
「汚いからペッしなさい!ペッ!」
「急に母ちゃん口調かァ?」
髪を撫でていた手を後頭部に移し、支えるように添えた。涙を間接的に舐められ恥ずかしがっている汐見に顔を近づけ、互いの唇をそっと重ねる。予想してなかったからか汐見は完全に動きが固まってた。
想像以上に柔らかい感触に、貪りたくなる衝動が込み上げるもグッと堪える。角度を変えてもう一度、ゆっくりと触れてから唇を離した。心の準備をさせてやれなかったのは悪ィと思ったが、もう待てなかった。
すると、突然のキスに驚きのあまり汐見は泣き止んでいた。心臓が早鐘を打ちつつも、その呆け顔が可笑しくて思わず吹き出しちまった。
「ハッ!ほんと可愛い奴」
「………ずるいよ、もう」
絞り出したか細い声で抗議をされても可愛いだけなんだが。ずりィのはどっちだか。
朝日が窓から差し込んで、本物の彼氏・彼女になった俺たちを照らしている。まだ誰も部室に来ないでくれよ。この祝福の光の中、もう少し甘ったるい空気を味わっていたい。
嘘つきもニセ彼氏も卒業したエンドロールの最中なのだから、これくらいの贅沢味わっても罰は当たらネェはずだ。
嘘から始まった俺たちの関係の終焉。嘘の終わりを告げ、新しい二人のスタートラインを切る。
琴音は俺のもんだって、もう我慢しなくていいんだよな?
end.