短編・中編
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センチメンタルピリオド
-4- ※新開視点
ジリジリと照りつける太陽。乾く喉。顔から伝う汗を拭いながら俺はロードを走らせある場所に向かっていた。
比較的涼しいと言われているこの箱根も、地球温暖化やら何やらで最高気温は30度を越える日が近年続いている。
今朝、インハイ前の最後の合宿から帰ってきて今日は一日オフだ。
合宿では各々の課題のクリア、コンディションの確認、それからもちろんレースも行われた。やっぱりレースはいい。本番さながらとまではいかないにせよ、競う相手がいてこそ踏み込む足に力が入るってもんだ。
トラウマのせいで自分の前に走っている相手を左側から抜けなくなった俺に、寿一は“全力で右を抜け”と言ってくれた。不得意な左側を克服する必要はないと。合宿でも左側から抜くことを何度か試したが、やはりダメだった。
それでも、俺は平坦では誰よりも速く、昨年の合宿よりいいコースタイムを更新した。もはや、左側から抜けない事を誰も責めたりはしなかったし、ゼッケン4番は俺しかいないと託してくれた仲間達のおかげで俺は自信を取り戻す事が出来た。
インハイ前の最終調整ってだけあって、有意義な合宿だったと思う。今日は体を休めるためにもらったオフだけど、きっとロードに乗っているのは俺だけじゃないだろう。それを分かっていてか、監督も『疲労を残さないように』とだけ注意をしていた。
今日は土曜日で合宿所からのバスは学園着、その後は各々解散となった。部室に用事があったので鍵を借りて寄ってみるも、部活もオフ日だったので部員達は一人もいなかった。
ロッカーから忘れ物を取って、自宅に戻りジャージからラフな私服に着替える。リビングにあるウサ吉のゲージをのぞいてみると元気そうにキャベツを食べている姿を見て安心した。
琴音は、『夏休みの間も見に来るね』と言ってくれたのだが、本格的に暑くなる前に夏の間はしばらくウサ吉は自宅に連れて帰ることにしたのだ。そういえば、去年もそうだったか。
ウサ吉とも出会ってから一年以上になる。うちに連れて帰るということは小屋よりもさらに狭いゲージの中になるから、きっと窮屈だろうな。もとは野うさぎだから、本当は広い草原で自由に走り回らせてやりたい。インハイが終わったら広い草原に遊びに行こう。――出来れば琴音も隣に居てさ、お弁当なんか作って来てくれたら最高に嬉しいんだけど。
ふと、そこまで考えて俺は頭を振った。寿一と琴音が付き合って上手くいけばいいし、俺はそのためのキューピッドになると決めたはずなのに、その決心は日々脆く揺らいでいる。
一週間顔を見てないだけでこんなにも会いたくなってしまっている。合宿所は民宿のような宿泊施設に泊まったのだが、そこの売店で売っていたちょっとした土産だって、会いたいための口実に買ったんだ。
オフなのだから好きなことをして気分転換をしてもいいし、自宅でゆっくり体を休めてもいいのに、俺は走り出していた。
売店で土産を買う時、寿一も隣にいたので、横目で盗み見てなるべく同じ菓子を選ばないように気を付けた。アイツも琴音に買っていたらと思うと、俺は別のものを選んだほうがいい。
琴音は電車通学で学園の最寄り駅から数駅先に住んでいるから、ロードで行けば俺にとっては余裕の距離。
携帯の番号もアドレスも知ってる。ただ事前に連絡はしなかった。彼女の実家は鍼灸整骨院をやっていて、父親はプロチームの専属マッサーの経験がある人だ。店の手伝いをしていることも多いと聞いたので、もしかしたら今日行けば会えるかもしれない。会えても会えなくても筋肉の調子は診て貰おうと思っているし、せっかくなので土産も置いてこうと思ってはいるけど…、顔見たいなァ。
願えば願うほど届かない気がして、ジリジリと背中を照らしてくる太陽にバカにされてる気分になった。
想いが断ち切れない。
卒業して離ればなれになってしまえば諦めもつくのか?誰かに恋をする自分が、こんなにも女々しくてウジウジしている気味の悪い野郎だと、去年の俺ならば想像もつかなかった事だ。溜息が腹の底に沈んで口から出てくることもしない。
なのに――
「あっ、新開くんだ!おかえりなさい!」
姿を見れば一瞬で、暗い感情や心の靄を一瞬で払ってくれる力があるお前は魔法使いみたいだ。
店の外にロードを止めて店の扉を開ける前に、受付に座っていた琴音は俺に気づいて外に出てきて来て、俺を見るなり笑顔を向けた。パステルカラーのTシャツにショートパンツという夏らしいラフな私服姿に胸が高鳴った。白い足が眩しい。数える程しか見たことないもんな、私服なんて。ふわふわしているスカートやワンピースとか女の子っぽい格好はわりと好みだが、結局のところ好きな子が着てれば何でも可愛いと思えてしまうのは不思議だ。
二年の文化祭の時、チシャ猫の着ぐるみを着ていた琴音でさえ可愛いと思ってしまった。あの時は顔も見えてなかったのに。
「今日帰ってきたんだよね?合宿お疲れさま。どうだった?」
「あぁ、だいぶ有意義な合宿だったよ。これでインハイに向けて万全だ」
「さすが新開くんだね。ところで今日はどうしたの?足、調子悪い?」
「いや、今日来たのは土産を渡すため…ってのは口実。ホントの理由は琴音に会いたくなったからさ」
ウィンクを決めて見せるも、真顔になって琴音は固まっていた。そして間もなくバシッ!と俺の背中を強く叩いて、“お世辞はいいから!”って声を立てて笑っていた。本気で言っても冗談で流されるのは辛いんだか有り難いんだか。
結構今の言葉、間といいトーンといいマジっぽかったと思うんだけど。いや、そもそもマジで言ったんだがまるで通じてなかった。
折角だから足の調子を診て貰おうかと思って、と告げると店の扉を開けて俺を中に案内してくれた。土曜日は午前診療だけのようで、まだ早い時間だったから待合い室には俺を含めて三人いるだけだった。
「初診だから、この用紙の太枠部分を書いてね」
琴音は受付に戻るとテキパキと用紙やボールペンを俺に渡して説明をはじめた。プロチームの元専属マッサーに施術してもらえると思うと自然と期待が高まる。奥の部屋にいる親父さんに聞こえないように、俺はカウンター越しに小声で話しかけた。
「なぁ、今日時間あるか?終わったら一緒に昼飯でもどうかな」
「うーん…多分、正午過ぎには終わると思うから大丈夫だよ。もしかしたらちょっと待たせちゃう事になるかもだけど、それでよければ」
「あぁ、別に俺が待つ分には大丈夫。時間潰すのに本も持って来たしいくらでも待てるさ」
「いいの?じゃあ、行きたい!私も合宿の話聞きたかったんだ。今回はマネージャーは連れてってもらえなかったからさ…」
あからさまにガッカリした様子を見せつつ溜息をついて、本当は合宿に行きたかったと言わんばかりだ。
今回の参加メンバーは監督とレギュラー陣と少人数の部員のみと限定されていたからなぁ。インハイ前の最終調整を行う合宿は、箱学自転車競技部の伝統メニューだし、同行メンバーが限られてるのは仕方のない事だ。少しでもみんなの役に立ちたかったという思いから、行きたがっていたんだろう。それは、日々琴音と過ごしていれば心の内は読める。いつだって自分の事より、部員達のサポートしたいと努力していた子だったから。
それから待合室で二十分程経過した頃、順番が回ってきた。足の調子はまぁまぁだったのだが、やはりプロのマッサーにかかるとどの部分の筋肉が酷使されているのかすぐ分かるようで、そこを重点的にマッサージしてもらった。体の血の巡りがよくなり、合宿で蓄積された疲労がみるみる超回復していくようだ。すごい人なんだな、琴音の親父さんは。
眠気が襲ってくる直前で施術が終わった後で、親父さんに「ずいぶんイケメンだね?もしかして娘の彼氏か?」と、笑いながら話しかけられた。そうだったらいいんですけどねぇ、なんて冗談めかして返してたら、受付にいた琴音に聞こえていたらしく親父さんは怒られていた。
さっきの俺の返しは彼女にも聞こえていただろうが、きっと社交辞令だと思われて終わりだろう。額にキスされても謝れば笑って許してくれるような子だから期待できない。むしろ、寿一っていう本命がいるのだから、何を言っても意識してもらえないのかも知れない。
待合い室で読書しつつ正午近くなるのを待っていると、しばらく奥の部屋で親父さんと会話をしてから彼女は戻ってきた。
「あとは後片づけだけだから行ってきていいよって、お父さんが。だいぶ待たせちゃってごめんね」
「俺が好きで待ってたんだから気にしなくていいよ。じゃあ、行こうか」
帰りもここまで送れたらいいなという下心を隠して、俺は歩きたい気分だからとロードを店に置かせてもらうことにした。通りに面した場所だと盗られたら大変だからと、わざわざ店の中に入れてくれた。今、これを盗まれたら大変だもの!と。確かに、インハイを前にして愛車が盗まれたらかなりダメージでかい。インハイという大舞台じゃ自分の体に一番馴染んだロードバイクが最適だからな。
・・・
・・・・・
・・・・・・
駅前の繁華街に行けば飲食店やカフェは一通り揃ってる。とりあえず最寄り駅を目指そうと俺たちは並んで歩いた。もちろん恋人でも彼氏でもないから、隣で歩くたびに揺れる小さな手は握れないままだ。
歩いてるだけでじんわりと汗が滲むが、駅前広場は整備されつつも緑が多い。空気は澄んでいるし、時々吹く風が涼しかったりして心地いいな。本格的な夏到来前の、まだ夏が好きでいられる程度の暑さだ。
合宿の話をしはじめたらそればかりになってしまうだろう。琴音もその話を聞きたいとお待ちかねなのだ。
だから俺は、その前にひとつお願いをしておくことがある。
好きになった時からいつかこんなチャンスがやってくるんじゃないかと心待ちにしていて、それが今日、叶いそうだから。別に、暑さに頭がやられているわけじゃあない。前から思っていた事だ。
「なぁ、今日は他に予定あるか?」
「ううん。特にないよ」
俺は片思いでいい。伝えたい気持ちも我慢する。だからその代わり、我が儘を聞いて欲しかった。
「じゃあさ、昼飯だけじゃなくてデートもしよう。デートがしたいんだ」
“最初で最後のデート”って、心の中で付け足した。
俺が告げるなり、こちらを見上げて目を丸くして驚いている琴音の顔を見て、思わずプッと吹き出した。その小動物みたいな顔が可愛らしくて、面白い。ずっと見ていても飽きないだろうな。
「誰と?」
「琴音以外に誰がいるんだ?」
「えぇっ!」
「ダメか?」
「だ、だってランチだけだからと思ってこのまま来たけど、で、デートならもっと服とか髪型とかちゃんとしてきたのに。このままデートだなんて恥ずかしいよ……」
「そのままでいいよ。そのままが一番いい。俺はそーゆーラフな姿も好きだぜ」
黙ってしまった琴音を見て、また笑い出すのかと思えば今度は頬を赤らめて俯いてしまった。予想外の反応に、胸の奥が疼く。
「もう、すぐ褒める。だからモテるんだよ新開くんは」
誰にでも言うわけじゃないさって追撃したら、きっともっと顔が赤くなっちまうんだろうなぁ。
―― できるだけ未練を残さないように『思い出作り』。最初で最後のデートのつもりで誘ったものの、きっと楽しくて仕方ない事も、思わず顔が緩んでしまうのも目に見えていた。
何とも片思いの自虐行為だ。今日が楽しければ楽しいほど辛くなるのは自分なのに。でも、自分の傷を自分で抉りたがるクセみたいな、人間ってそういうとこってあるだろ。俺も例外じゃないんだなと妙に納得している。
女子とデートするのは初めてじゃないはずなのに、まるで今日が人生初めてのデートみたいに胸がドキドキ高鳴って、心が躍ってしまう。二度とこんな機会がないのかと思うと、握りたい手も躊躇いなく握れるだうか。
繋いだら二度と離したくなくなってしまうだろう。そうわかっていながら触れるのは怖いけども、
最初で最後ならば――
俺が彼女の方に近づくと肩先が触れて指先が掠めたので、意を決して小さな手を包んだ。俺たち部員を支える頼もしい手であり、俺が守りたい可愛らしい手。
「はぐれるとマズイからな」
ふざけた事を言いながらであれば、拒まれた時も冗談だと言い逃れができるから。
急なことで琴音は驚いていたけども、俺の手を振り解こうとはしなかった。心のどこかで許してくれるって事を分かっていたような気がする。
「迷子の新開くんは仕方ないねぇ」
「はは、迷子は俺か」
照れ隠しなのか、冗談を言う心遣いに嬉しくなる。拒絶されなくてよかった。最初で最後ならば色々調子に乗ってしまいそうになるから、気を付けないと。
夏の暑さがもっと熱くなる。他愛のない話をして、手を繋いで並んで歩いて、笑い合う。このままずっと、駅になんて着かなければいいのにと心の中で子供じみた事を願った。
・・・
・・・・・
・・・・・・
毎日のように学校や部活で顔を合わせていても、一緒に出かけるのは初めてだったからそりゃもう楽しくて。
好きな子と一緒に過ごせるってのは何があろうとなかろうと、本当は、こんな賑やかな繁華街でなくたって楽しいに決まっていた。
ファーストフードで昼食を済ませたら目的もなくウィンドウショッピング。
特に雑貨屋に行った時の彼女は、気に入ったものを見つけてテンションが高かった。手に取る色も物も、どれも琴音らしいものばかりだと、何ひとつ意外な事はなかったと気づいた。それ、お前好きそうだ。あれも、あと、これも。何となくわかるよ…って、声には出さなかったけど内心で独り言ちる。
どれだけ俺は琴音を見ていたんだろう。デートするのは初めてなのに、ほぼ勘で、好きな物が手に取るようにわかっちまう。
「これ買ってくるね」
「気に入ったの見つかってよかったな」
「うん!」
嬉しそうにレジに並ぶ彼女の後ろ姿を見つめて、隣に並ぶ寿一を想像した。妬けちまうぐらいお似合いの二人と、ピタリとくっついて並んだ肩先。二人がいよいよ付き合いはじめたら俺の入る余地などないのだとわかる。隙間など1ミリもない。
並ぶのは自分じゃないのだと、とてつもなく寂しい気持ちが押し寄せて、瞳の中が揺らいだ。
夕方になって小腹が空いて、ちょっと遅いおやつにと話題のパンケーキを並んで食べた。
女子だけに存在するという『別腹』が俺にも存在するんだと、ここだけの話とばかりに小声で告げると琴音は笑っていた。その後は、本屋で好きな作家の推理小説を薦めてみた。きっと単純だからまったく先読みできず、全部の展開に驚くだろうからって言ったら、『失礼だよ!』と頬を膨らませて拗ねてしまった。子供みたいだ。
――どれもこれも些細な出来事。日常の一部を切り取っただけの時間。きっと、そんなたいしたことをして過ごしてはいないのに何もかも全てを、特別に感じてしまう。
橙色がビルの合間から差し込んで街を照らす。夏になって日が随分伸びたが、夕暮れも夜も、来るな来るなと懇願しようが確実に訪れてしまうのだ。
来た道を戻って並んで歩くも、今度は手は繋がない。“次のデート”はもうないのだから、繋いじゃいけないと心に決めていた。
「あのパンケーキ、結構ボリュームあったね」
「でも全部食べてたよな」
「だ、だって美味しかったから…!」
ぽつりぽつりと今日の事を思い返して話しつつも足は進むので、もうすぐ整骨院の前まで到着してしまう。あからさまに出来るだけスローペースで歩くと、琴音も俺の歩調に合わせてくれた。
さり気ない気遣いに意図せず、心臓がギュッとなる。店に置かせてもらっているロードを取って、乗って帰って、また明日からいつも通りの一日が始まって――間もなくインハイだ。
インハイが終われば三年には受験が待っていて、熱い夏がまだ心に残ったまま勉強に没頭する日々になるだろう。部活も引退になってしまえば、クラスも違う琴音と、もう毎日のように顔を合わせることもなくなる。
例え今この気持ちが諦めきれなくても、いつか諦めざるを得ない日が来るんだ。会えないし視線も交わらない。お互い、別の未来に向かって歩いていく。すぐじゃなくてもきっと慣れるさ。傍で笑った顔を見れなくたって。
小さく深呼吸をして、俺は切り出した。
まるで二度と会えないみたいな、最後の別れの挨拶を覚悟した気持ちになっていた。
「今日はありがとよ。楽しかった。…でも悪かったなぁ」
一日の終わりを締めくくる挨拶のような、出来るだけいつも通りの声色で自然に告げられただろうか。最後の言葉に引っかかったのか、琴音は足を止めて俺を見上げた。不安そうに眉間に皺が寄っている。
“何で謝るの?”って、そんな顔。
「デートは本来は好きな奴とするもんだろ?今日は相手が俺で…、寿一じゃなくて悪かった。俺のワガママに付き合ってくれて感謝してるよ」
繋いでいない手が退屈になって、俺は右手で自分の後頭部に触れながら自嘲気味に告げた。今日は一緒にいても、どうしたってここにはいない寿一の姿が頭の中にチラついちまったんだ。中学時代からの俺の大事な親友がさ。
「琴音は…、インハイが終わったら告白するんだろ?いや、寿一の方からかもな。アイツはこの一年、去年のインハイでの後ろ暗さから恋愛事は避けてた感じだったけど、今年のインハイが終わればきっとアイツもお前に――」
ふと、視線が泳いで地面に目を向ければ、足元に点々とした小さな染みが琴音の足元に。ぽつりぽつりと小さな。
驚いてすぐに彼女を見れば、顔を俯かせ瞳から涙が零れてちていた。
……琴音が泣いてる。
傷つけるような事を言ったのかもわからず、ただ混乱して一歩近づいて顔を覗き込んで視線を合わせた。眉をしかめ口はへの字になり、柔らかそうな頬は赤らんで涙で濡れている。いつも笑ってる琴音のこんな表情、悲しそうな顔に、俺はどうしたらいいの分からず血の気が引いていく感覚になる。
とにかく謝らないとって、俺が口を開くより先に彼女は唇を震わせて声を絞り出した。
「いつもそんな事言って、そんなに私を自分から遠ざけたい?」
刹那、琴音の口から出る言葉に、俺は息を止めた。
「私が好きなのは新開くんなのに」
たった一言、風に乗って消えてしまうような、聞き逃したらもう二度と確かめられないんじゃないかってか細い声が、信じられないような言葉が俺の耳に入ってきた。
瞬きもせず目を見開く。心臓の音が加速して体中に響き、現実なのか夢の中なのか曖昧になって。
静か琴音に手を伸ばして、指で涙を拭ってやった。指先に触るその涙の冷たさで俺は紛れもなく現実なんだと我に返り、そして自分の指先が震えている事に気づいた。
「伝えて、き、気まずくなって話せなくなったりするの嫌だったし、インハイ前に告白したら負担になるかなって思って、色々考えて、つた、伝えないで胸にしまっておこう思ってたの。新開くん、が、私と寿一くんをくっつけたがってたのも私のことを、恋愛対象として見てないって事も分かってた。でも、わたしは…、誰に好かれたってわたしが好きなのは――」
震えているのは俺の指先だけじゃない。声も今まで聞いたことないような弱々しいい声で、大粒の涙をぽろぽろと零し、震え声で途切れ途切れに俺に告げて言葉が尻切れになった後、琴音はついに声をあげて泣き出してしまった。
わぁん!と、我慢の糸が切れた子供ように大きな声で泣いている。悲しませてるのは俺なのに、図々しくも守ってやりたいと思っちまう。
――何度も諦めようとしても気持ち断ち切りたくても、全然、無理だったんだ。本当は諦めたくなんてなかったからなのだと、自分自身わかっていたんだ。
彼女の声が、耳の奥でリフレインする。その言葉に嘘じゃないのなら俺はもう我慢なんかしない。我慢なんか出来ない。
誰に好かれてたって俺のことが好きだと、勇気を出してくれた。こんなに幸せな事言ってもらえて夢じゃないかと目眩がする。
いつから同じ気持ちだったんだろう。どうしてこんなに遠回りしてしまったのか。琴音も俺にずっと片思いをしていて、俺もずっと琴音に片思いをしていてお互いが苦しい思いを抱えて傍にいたんだ。
俺が勇気を出して伝えることが出来ていたのなら、今日まで苦しませずに済んだのにとか、過ぎた日を思い返して悔いることは多々あるし、聞きたいことも話したいことも沢山ある――でもそれは、後でいい。
今、俺がすべき事もしたい事もただひとつ。
目の前の大好きな子を抱き締めたいんだ。
「ありがとな」
腕をゆっくりと琴音の背中に回して抱き締めると、驚いたのか泣き声が止まった。俺の左胸に鼻先がくっつくように、ギュッと腕に力を込める。これなら俺の早鐘を打つ心臓の音が聴こえるはずだ。
抵抗もせず慌てることもなく、琴音は大人しくなったまま耳を真っ赤にさせていた。この心臓の音全部、琴音のせいだと分かってもらいたかった。俺の心臓はお前じゃなきゃ高鳴ったりしない。好きになった時からずっと、お前以外には反応しないようになってんだ。
もし、琴音が泣き出さずに笑って誤魔化していたのなら、ずっと俺はお前の気持ちに気づかないまま、自分の気持ちも伝えられないままだったかも知れない。だから、泣いてくれてありがとうって言うのもおかしいけど、ありがとう。
今まで気持ちが交わせなかった分、『ありがとう』も『ごめん』も、これからたくさん伝えていきたいんだ。
「お前の方から先に聞いちまったせいで、心臓がぶっ壊れそうだ」
目頭が熱くなって、俺の方こそ声が震えそうになったが何とか堪えた。やばい、泣きそうだ。
これから、あたため続けた大事な言葉を伝えなくちゃならない。ずっと喉の奥でつかえて、言ってはいけないと飲み込んできた言葉達がたくさんあるんだ。
湿気を含んだ風が吹き抜ける道の上で、触れ合う体温のせいで体中が熱い。
誰に見られてもいい。気にならない。
俺は言うよ。ずっと好きだったんだと、抱き締めながら何度でも言う。
たとえ途中で涙声になっても、有りっ丈の心を込めて何度でも。
end.
-4- ※新開視点
ジリジリと照りつける太陽。乾く喉。顔から伝う汗を拭いながら俺はロードを走らせある場所に向かっていた。
比較的涼しいと言われているこの箱根も、地球温暖化やら何やらで最高気温は30度を越える日が近年続いている。
今朝、インハイ前の最後の合宿から帰ってきて今日は一日オフだ。
合宿では各々の課題のクリア、コンディションの確認、それからもちろんレースも行われた。やっぱりレースはいい。本番さながらとまではいかないにせよ、競う相手がいてこそ踏み込む足に力が入るってもんだ。
トラウマのせいで自分の前に走っている相手を左側から抜けなくなった俺に、寿一は“全力で右を抜け”と言ってくれた。不得意な左側を克服する必要はないと。合宿でも左側から抜くことを何度か試したが、やはりダメだった。
それでも、俺は平坦では誰よりも速く、昨年の合宿よりいいコースタイムを更新した。もはや、左側から抜けない事を誰も責めたりはしなかったし、ゼッケン4番は俺しかいないと託してくれた仲間達のおかげで俺は自信を取り戻す事が出来た。
インハイ前の最終調整ってだけあって、有意義な合宿だったと思う。今日は体を休めるためにもらったオフだけど、きっとロードに乗っているのは俺だけじゃないだろう。それを分かっていてか、監督も『疲労を残さないように』とだけ注意をしていた。
今日は土曜日で合宿所からのバスは学園着、その後は各々解散となった。部室に用事があったので鍵を借りて寄ってみるも、部活もオフ日だったので部員達は一人もいなかった。
ロッカーから忘れ物を取って、自宅に戻りジャージからラフな私服に着替える。リビングにあるウサ吉のゲージをのぞいてみると元気そうにキャベツを食べている姿を見て安心した。
琴音は、『夏休みの間も見に来るね』と言ってくれたのだが、本格的に暑くなる前に夏の間はしばらくウサ吉は自宅に連れて帰ることにしたのだ。そういえば、去年もそうだったか。
ウサ吉とも出会ってから一年以上になる。うちに連れて帰るということは小屋よりもさらに狭いゲージの中になるから、きっと窮屈だろうな。もとは野うさぎだから、本当は広い草原で自由に走り回らせてやりたい。インハイが終わったら広い草原に遊びに行こう。――出来れば琴音も隣に居てさ、お弁当なんか作って来てくれたら最高に嬉しいんだけど。
ふと、そこまで考えて俺は頭を振った。寿一と琴音が付き合って上手くいけばいいし、俺はそのためのキューピッドになると決めたはずなのに、その決心は日々脆く揺らいでいる。
一週間顔を見てないだけでこんなにも会いたくなってしまっている。合宿所は民宿のような宿泊施設に泊まったのだが、そこの売店で売っていたちょっとした土産だって、会いたいための口実に買ったんだ。
オフなのだから好きなことをして気分転換をしてもいいし、自宅でゆっくり体を休めてもいいのに、俺は走り出していた。
売店で土産を買う時、寿一も隣にいたので、横目で盗み見てなるべく同じ菓子を選ばないように気を付けた。アイツも琴音に買っていたらと思うと、俺は別のものを選んだほうがいい。
琴音は電車通学で学園の最寄り駅から数駅先に住んでいるから、ロードで行けば俺にとっては余裕の距離。
携帯の番号もアドレスも知ってる。ただ事前に連絡はしなかった。彼女の実家は鍼灸整骨院をやっていて、父親はプロチームの専属マッサーの経験がある人だ。店の手伝いをしていることも多いと聞いたので、もしかしたら今日行けば会えるかもしれない。会えても会えなくても筋肉の調子は診て貰おうと思っているし、せっかくなので土産も置いてこうと思ってはいるけど…、顔見たいなァ。
願えば願うほど届かない気がして、ジリジリと背中を照らしてくる太陽にバカにされてる気分になった。
想いが断ち切れない。
卒業して離ればなれになってしまえば諦めもつくのか?誰かに恋をする自分が、こんなにも女々しくてウジウジしている気味の悪い野郎だと、去年の俺ならば想像もつかなかった事だ。溜息が腹の底に沈んで口から出てくることもしない。
なのに――
「あっ、新開くんだ!おかえりなさい!」
姿を見れば一瞬で、暗い感情や心の靄を一瞬で払ってくれる力があるお前は魔法使いみたいだ。
店の外にロードを止めて店の扉を開ける前に、受付に座っていた琴音は俺に気づいて外に出てきて来て、俺を見るなり笑顔を向けた。パステルカラーのTシャツにショートパンツという夏らしいラフな私服姿に胸が高鳴った。白い足が眩しい。数える程しか見たことないもんな、私服なんて。ふわふわしているスカートやワンピースとか女の子っぽい格好はわりと好みだが、結局のところ好きな子が着てれば何でも可愛いと思えてしまうのは不思議だ。
二年の文化祭の時、チシャ猫の着ぐるみを着ていた琴音でさえ可愛いと思ってしまった。あの時は顔も見えてなかったのに。
「今日帰ってきたんだよね?合宿お疲れさま。どうだった?」
「あぁ、だいぶ有意義な合宿だったよ。これでインハイに向けて万全だ」
「さすが新開くんだね。ところで今日はどうしたの?足、調子悪い?」
「いや、今日来たのは土産を渡すため…ってのは口実。ホントの理由は琴音に会いたくなったからさ」
ウィンクを決めて見せるも、真顔になって琴音は固まっていた。そして間もなくバシッ!と俺の背中を強く叩いて、“お世辞はいいから!”って声を立てて笑っていた。本気で言っても冗談で流されるのは辛いんだか有り難いんだか。
結構今の言葉、間といいトーンといいマジっぽかったと思うんだけど。いや、そもそもマジで言ったんだがまるで通じてなかった。
折角だから足の調子を診て貰おうかと思って、と告げると店の扉を開けて俺を中に案内してくれた。土曜日は午前診療だけのようで、まだ早い時間だったから待合い室には俺を含めて三人いるだけだった。
「初診だから、この用紙の太枠部分を書いてね」
琴音は受付に戻るとテキパキと用紙やボールペンを俺に渡して説明をはじめた。プロチームの元専属マッサーに施術してもらえると思うと自然と期待が高まる。奥の部屋にいる親父さんに聞こえないように、俺はカウンター越しに小声で話しかけた。
「なぁ、今日時間あるか?終わったら一緒に昼飯でもどうかな」
「うーん…多分、正午過ぎには終わると思うから大丈夫だよ。もしかしたらちょっと待たせちゃう事になるかもだけど、それでよければ」
「あぁ、別に俺が待つ分には大丈夫。時間潰すのに本も持って来たしいくらでも待てるさ」
「いいの?じゃあ、行きたい!私も合宿の話聞きたかったんだ。今回はマネージャーは連れてってもらえなかったからさ…」
あからさまにガッカリした様子を見せつつ溜息をついて、本当は合宿に行きたかったと言わんばかりだ。
今回の参加メンバーは監督とレギュラー陣と少人数の部員のみと限定されていたからなぁ。インハイ前の最終調整を行う合宿は、箱学自転車競技部の伝統メニューだし、同行メンバーが限られてるのは仕方のない事だ。少しでもみんなの役に立ちたかったという思いから、行きたがっていたんだろう。それは、日々琴音と過ごしていれば心の内は読める。いつだって自分の事より、部員達のサポートしたいと努力していた子だったから。
それから待合室で二十分程経過した頃、順番が回ってきた。足の調子はまぁまぁだったのだが、やはりプロのマッサーにかかるとどの部分の筋肉が酷使されているのかすぐ分かるようで、そこを重点的にマッサージしてもらった。体の血の巡りがよくなり、合宿で蓄積された疲労がみるみる超回復していくようだ。すごい人なんだな、琴音の親父さんは。
眠気が襲ってくる直前で施術が終わった後で、親父さんに「ずいぶんイケメンだね?もしかして娘の彼氏か?」と、笑いながら話しかけられた。そうだったらいいんですけどねぇ、なんて冗談めかして返してたら、受付にいた琴音に聞こえていたらしく親父さんは怒られていた。
さっきの俺の返しは彼女にも聞こえていただろうが、きっと社交辞令だと思われて終わりだろう。額にキスされても謝れば笑って許してくれるような子だから期待できない。むしろ、寿一っていう本命がいるのだから、何を言っても意識してもらえないのかも知れない。
待合い室で読書しつつ正午近くなるのを待っていると、しばらく奥の部屋で親父さんと会話をしてから彼女は戻ってきた。
「あとは後片づけだけだから行ってきていいよって、お父さんが。だいぶ待たせちゃってごめんね」
「俺が好きで待ってたんだから気にしなくていいよ。じゃあ、行こうか」
帰りもここまで送れたらいいなという下心を隠して、俺は歩きたい気分だからとロードを店に置かせてもらうことにした。通りに面した場所だと盗られたら大変だからと、わざわざ店の中に入れてくれた。今、これを盗まれたら大変だもの!と。確かに、インハイを前にして愛車が盗まれたらかなりダメージでかい。インハイという大舞台じゃ自分の体に一番馴染んだロードバイクが最適だからな。
・・・
・・・・・
・・・・・・
駅前の繁華街に行けば飲食店やカフェは一通り揃ってる。とりあえず最寄り駅を目指そうと俺たちは並んで歩いた。もちろん恋人でも彼氏でもないから、隣で歩くたびに揺れる小さな手は握れないままだ。
歩いてるだけでじんわりと汗が滲むが、駅前広場は整備されつつも緑が多い。空気は澄んでいるし、時々吹く風が涼しかったりして心地いいな。本格的な夏到来前の、まだ夏が好きでいられる程度の暑さだ。
合宿の話をしはじめたらそればかりになってしまうだろう。琴音もその話を聞きたいとお待ちかねなのだ。
だから俺は、その前にひとつお願いをしておくことがある。
好きになった時からいつかこんなチャンスがやってくるんじゃないかと心待ちにしていて、それが今日、叶いそうだから。別に、暑さに頭がやられているわけじゃあない。前から思っていた事だ。
「なぁ、今日は他に予定あるか?」
「ううん。特にないよ」
俺は片思いでいい。伝えたい気持ちも我慢する。だからその代わり、我が儘を聞いて欲しかった。
「じゃあさ、昼飯だけじゃなくてデートもしよう。デートがしたいんだ」
“最初で最後のデート”って、心の中で付け足した。
俺が告げるなり、こちらを見上げて目を丸くして驚いている琴音の顔を見て、思わずプッと吹き出した。その小動物みたいな顔が可愛らしくて、面白い。ずっと見ていても飽きないだろうな。
「誰と?」
「琴音以外に誰がいるんだ?」
「えぇっ!」
「ダメか?」
「だ、だってランチだけだからと思ってこのまま来たけど、で、デートならもっと服とか髪型とかちゃんとしてきたのに。このままデートだなんて恥ずかしいよ……」
「そのままでいいよ。そのままが一番いい。俺はそーゆーラフな姿も好きだぜ」
黙ってしまった琴音を見て、また笑い出すのかと思えば今度は頬を赤らめて俯いてしまった。予想外の反応に、胸の奥が疼く。
「もう、すぐ褒める。だからモテるんだよ新開くんは」
誰にでも言うわけじゃないさって追撃したら、きっともっと顔が赤くなっちまうんだろうなぁ。
―― できるだけ未練を残さないように『思い出作り』。最初で最後のデートのつもりで誘ったものの、きっと楽しくて仕方ない事も、思わず顔が緩んでしまうのも目に見えていた。
何とも片思いの自虐行為だ。今日が楽しければ楽しいほど辛くなるのは自分なのに。でも、自分の傷を自分で抉りたがるクセみたいな、人間ってそういうとこってあるだろ。俺も例外じゃないんだなと妙に納得している。
女子とデートするのは初めてじゃないはずなのに、まるで今日が人生初めてのデートみたいに胸がドキドキ高鳴って、心が躍ってしまう。二度とこんな機会がないのかと思うと、握りたい手も躊躇いなく握れるだうか。
繋いだら二度と離したくなくなってしまうだろう。そうわかっていながら触れるのは怖いけども、
最初で最後ならば――
俺が彼女の方に近づくと肩先が触れて指先が掠めたので、意を決して小さな手を包んだ。俺たち部員を支える頼もしい手であり、俺が守りたい可愛らしい手。
「はぐれるとマズイからな」
ふざけた事を言いながらであれば、拒まれた時も冗談だと言い逃れができるから。
急なことで琴音は驚いていたけども、俺の手を振り解こうとはしなかった。心のどこかで許してくれるって事を分かっていたような気がする。
「迷子の新開くんは仕方ないねぇ」
「はは、迷子は俺か」
照れ隠しなのか、冗談を言う心遣いに嬉しくなる。拒絶されなくてよかった。最初で最後ならば色々調子に乗ってしまいそうになるから、気を付けないと。
夏の暑さがもっと熱くなる。他愛のない話をして、手を繋いで並んで歩いて、笑い合う。このままずっと、駅になんて着かなければいいのにと心の中で子供じみた事を願った。
・・・
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・・・・・・
毎日のように学校や部活で顔を合わせていても、一緒に出かけるのは初めてだったからそりゃもう楽しくて。
好きな子と一緒に過ごせるってのは何があろうとなかろうと、本当は、こんな賑やかな繁華街でなくたって楽しいに決まっていた。
ファーストフードで昼食を済ませたら目的もなくウィンドウショッピング。
特に雑貨屋に行った時の彼女は、気に入ったものを見つけてテンションが高かった。手に取る色も物も、どれも琴音らしいものばかりだと、何ひとつ意外な事はなかったと気づいた。それ、お前好きそうだ。あれも、あと、これも。何となくわかるよ…って、声には出さなかったけど内心で独り言ちる。
どれだけ俺は琴音を見ていたんだろう。デートするのは初めてなのに、ほぼ勘で、好きな物が手に取るようにわかっちまう。
「これ買ってくるね」
「気に入ったの見つかってよかったな」
「うん!」
嬉しそうにレジに並ぶ彼女の後ろ姿を見つめて、隣に並ぶ寿一を想像した。妬けちまうぐらいお似合いの二人と、ピタリとくっついて並んだ肩先。二人がいよいよ付き合いはじめたら俺の入る余地などないのだとわかる。隙間など1ミリもない。
並ぶのは自分じゃないのだと、とてつもなく寂しい気持ちが押し寄せて、瞳の中が揺らいだ。
夕方になって小腹が空いて、ちょっと遅いおやつにと話題のパンケーキを並んで食べた。
女子だけに存在するという『別腹』が俺にも存在するんだと、ここだけの話とばかりに小声で告げると琴音は笑っていた。その後は、本屋で好きな作家の推理小説を薦めてみた。きっと単純だからまったく先読みできず、全部の展開に驚くだろうからって言ったら、『失礼だよ!』と頬を膨らませて拗ねてしまった。子供みたいだ。
――どれもこれも些細な出来事。日常の一部を切り取っただけの時間。きっと、そんなたいしたことをして過ごしてはいないのに何もかも全てを、特別に感じてしまう。
橙色がビルの合間から差し込んで街を照らす。夏になって日が随分伸びたが、夕暮れも夜も、来るな来るなと懇願しようが確実に訪れてしまうのだ。
来た道を戻って並んで歩くも、今度は手は繋がない。“次のデート”はもうないのだから、繋いじゃいけないと心に決めていた。
「あのパンケーキ、結構ボリュームあったね」
「でも全部食べてたよな」
「だ、だって美味しかったから…!」
ぽつりぽつりと今日の事を思い返して話しつつも足は進むので、もうすぐ整骨院の前まで到着してしまう。あからさまに出来るだけスローペースで歩くと、琴音も俺の歩調に合わせてくれた。
さり気ない気遣いに意図せず、心臓がギュッとなる。店に置かせてもらっているロードを取って、乗って帰って、また明日からいつも通りの一日が始まって――間もなくインハイだ。
インハイが終われば三年には受験が待っていて、熱い夏がまだ心に残ったまま勉強に没頭する日々になるだろう。部活も引退になってしまえば、クラスも違う琴音と、もう毎日のように顔を合わせることもなくなる。
例え今この気持ちが諦めきれなくても、いつか諦めざるを得ない日が来るんだ。会えないし視線も交わらない。お互い、別の未来に向かって歩いていく。すぐじゃなくてもきっと慣れるさ。傍で笑った顔を見れなくたって。
小さく深呼吸をして、俺は切り出した。
まるで二度と会えないみたいな、最後の別れの挨拶を覚悟した気持ちになっていた。
「今日はありがとよ。楽しかった。…でも悪かったなぁ」
一日の終わりを締めくくる挨拶のような、出来るだけいつも通りの声色で自然に告げられただろうか。最後の言葉に引っかかったのか、琴音は足を止めて俺を見上げた。不安そうに眉間に皺が寄っている。
“何で謝るの?”って、そんな顔。
「デートは本来は好きな奴とするもんだろ?今日は相手が俺で…、寿一じゃなくて悪かった。俺のワガママに付き合ってくれて感謝してるよ」
繋いでいない手が退屈になって、俺は右手で自分の後頭部に触れながら自嘲気味に告げた。今日は一緒にいても、どうしたってここにはいない寿一の姿が頭の中にチラついちまったんだ。中学時代からの俺の大事な親友がさ。
「琴音は…、インハイが終わったら告白するんだろ?いや、寿一の方からかもな。アイツはこの一年、去年のインハイでの後ろ暗さから恋愛事は避けてた感じだったけど、今年のインハイが終わればきっとアイツもお前に――」
ふと、視線が泳いで地面に目を向ければ、足元に点々とした小さな染みが琴音の足元に。ぽつりぽつりと小さな。
驚いてすぐに彼女を見れば、顔を俯かせ瞳から涙が零れてちていた。
……琴音が泣いてる。
傷つけるような事を言ったのかもわからず、ただ混乱して一歩近づいて顔を覗き込んで視線を合わせた。眉をしかめ口はへの字になり、柔らかそうな頬は赤らんで涙で濡れている。いつも笑ってる琴音のこんな表情、悲しそうな顔に、俺はどうしたらいいの分からず血の気が引いていく感覚になる。
とにかく謝らないとって、俺が口を開くより先に彼女は唇を震わせて声を絞り出した。
「いつもそんな事言って、そんなに私を自分から遠ざけたい?」
刹那、琴音の口から出る言葉に、俺は息を止めた。
「私が好きなのは新開くんなのに」
たった一言、風に乗って消えてしまうような、聞き逃したらもう二度と確かめられないんじゃないかってか細い声が、信じられないような言葉が俺の耳に入ってきた。
瞬きもせず目を見開く。心臓の音が加速して体中に響き、現実なのか夢の中なのか曖昧になって。
静か琴音に手を伸ばして、指で涙を拭ってやった。指先に触るその涙の冷たさで俺は紛れもなく現実なんだと我に返り、そして自分の指先が震えている事に気づいた。
「伝えて、き、気まずくなって話せなくなったりするの嫌だったし、インハイ前に告白したら負担になるかなって思って、色々考えて、つた、伝えないで胸にしまっておこう思ってたの。新開くん、が、私と寿一くんをくっつけたがってたのも私のことを、恋愛対象として見てないって事も分かってた。でも、わたしは…、誰に好かれたってわたしが好きなのは――」
震えているのは俺の指先だけじゃない。声も今まで聞いたことないような弱々しいい声で、大粒の涙をぽろぽろと零し、震え声で途切れ途切れに俺に告げて言葉が尻切れになった後、琴音はついに声をあげて泣き出してしまった。
わぁん!と、我慢の糸が切れた子供ように大きな声で泣いている。悲しませてるのは俺なのに、図々しくも守ってやりたいと思っちまう。
――何度も諦めようとしても気持ち断ち切りたくても、全然、無理だったんだ。本当は諦めたくなんてなかったからなのだと、自分自身わかっていたんだ。
彼女の声が、耳の奥でリフレインする。その言葉に嘘じゃないのなら俺はもう我慢なんかしない。我慢なんか出来ない。
誰に好かれてたって俺のことが好きだと、勇気を出してくれた。こんなに幸せな事言ってもらえて夢じゃないかと目眩がする。
いつから同じ気持ちだったんだろう。どうしてこんなに遠回りしてしまったのか。琴音も俺にずっと片思いをしていて、俺もずっと琴音に片思いをしていてお互いが苦しい思いを抱えて傍にいたんだ。
俺が勇気を出して伝えることが出来ていたのなら、今日まで苦しませずに済んだのにとか、過ぎた日を思い返して悔いることは多々あるし、聞きたいことも話したいことも沢山ある――でもそれは、後でいい。
今、俺がすべき事もしたい事もただひとつ。
目の前の大好きな子を抱き締めたいんだ。
「ありがとな」
腕をゆっくりと琴音の背中に回して抱き締めると、驚いたのか泣き声が止まった。俺の左胸に鼻先がくっつくように、ギュッと腕に力を込める。これなら俺の早鐘を打つ心臓の音が聴こえるはずだ。
抵抗もせず慌てることもなく、琴音は大人しくなったまま耳を真っ赤にさせていた。この心臓の音全部、琴音のせいだと分かってもらいたかった。俺の心臓はお前じゃなきゃ高鳴ったりしない。好きになった時からずっと、お前以外には反応しないようになってんだ。
もし、琴音が泣き出さずに笑って誤魔化していたのなら、ずっと俺はお前の気持ちに気づかないまま、自分の気持ちも伝えられないままだったかも知れない。だから、泣いてくれてありがとうって言うのもおかしいけど、ありがとう。
今まで気持ちが交わせなかった分、『ありがとう』も『ごめん』も、これからたくさん伝えていきたいんだ。
「お前の方から先に聞いちまったせいで、心臓がぶっ壊れそうだ」
目頭が熱くなって、俺の方こそ声が震えそうになったが何とか堪えた。やばい、泣きそうだ。
これから、あたため続けた大事な言葉を伝えなくちゃならない。ずっと喉の奥でつかえて、言ってはいけないと飲み込んできた言葉達がたくさんあるんだ。
湿気を含んだ風が吹き抜ける道の上で、触れ合う体温のせいで体中が熱い。
誰に見られてもいい。気にならない。
俺は言うよ。ずっと好きだったんだと、抱き締めながら何度でも言う。
たとえ途中で涙声になっても、有りっ丈の心を込めて何度でも。
end.