短編・中編
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センチメンタルピリオド
-2- ※新開視点
強い日差しが照りつける7月中旬――
目前に迫ったインターハイに向けてハードな練習は毎日のように行われた。
今週末からはいよいよ夏休みがはじまり、最初の一週間でインハイ前の合宿を行い、そこで最終調整をする。これは箱学のレギュラー陣がメインの伝統的な特別メニューだ。同行するのも監督と少人数の部員のみ。二年生で既に来年の箱学レギュラーを背負う可能性が高い部員も、サポート役を兼ねて連れて行くのがお決まりだ。
早い話、通常の合宿とは違いマネージャーは来ないってことになる。合宿不参加の部員とマネージャーたちは学校や周辺コースでいつものトレーニングや練習をこなす予定だ。
…しかし、あちィ。立ってるだけで汗が滲んでくる。
俺は寒い方が苦手だから夏のが好きだけど暑いもんは暑い。
斜めがけの鞄の中にいくつか入れてあるパワーバーを取り出して、食べながらある場所を目指して歩き出した。
土曜日の午前授業が終わり、部活がはじまるまでの間にウサ吉にごはんをやろうと校舎裏の小屋まで見に来るとそこには先客がいた。
しゃがんだその姿はこじんまりとして、ウサ吉をジッと見つめながらキャベツの葉を与えていた。
愛おしそうな視線の先にいるのはふわふわとしたウサ吉。美味そうにキャベツをかじっていた。
「よぉ。来てたのかい」
横から声をかけると視線を俺の方に向けて琴音は首を傾けながら見上げてきた。ホームルームが早く終わったからと、彼女は嬉しそうにそう言った。そういや三年になってクラスが離れてしまった時、『今度の担任、話が長くない先生だからよかった!』とか言って喜んでたっけ。二年の時の俺らの担任は悪い奴じゃなかったが話が無駄に長かったからなぁ。ホームルームが終わる頃の号令は欠伸混じりになっちまったコトを思い出した。
もぐもぐと口を忙しなく動かすウサ吉の頭をそっと撫でながら、琴音は嬉しそうに笑った。一部の奴らにしか話したことがなかったトラウマも、遡ること三ヶ月前の春、ここで俺は彼女にも話した。
入部して間もなく、俺がウサ吉を飼ってることを知ってよく世話も手伝いに来てくれてたから。ウサ吉の小屋の近くには大きな桜の木が一本生えていて、春になると桜が満開になる。春風に乗って花びらが散るその景色の中で、なびく髪を手で押さえている琴音を見て俺は唐突に過去のトラウマを切り出したんだ。話すつもりじゃなかったのに、聞いて欲しい衝動が込み上げてきたから。
すっかり好きになっていた、お前には知っといてもらいたくて。
俺が話してる間相槌を打つことなく真剣に聞き入って、話し終えると静かに琴音は一度だけ頷いた。そして俺の手を優しく取って『大丈夫だよ』と、まじないをかけるようにゆっくりと呟いた。
……大丈夫なことはわかってさ。俺には信頼できるチームメイトもいる。トラウマを乗り越えるための練習にも付き合ってくれた奴らがいる。次のインハイで俺は走る。走るんだ。やれることはやってきたさ、仲間の信頼に応えるためにも。大丈夫だ、やってやるさ。――だた、お前がそう言うなら、本気で“大丈夫”な気がしてきたんだ。そして目の奥が熱くなった。あの時、桜の下で俺は。
季節は過ぎてもう桜の花びらなど残っていない。緑の葉に生え変わりその下には木陰を作っている。俺はウサ吉の頭を撫でてから木陰に入り、琴音を手招いた。ここなら幾分か涼しい。彼女が並んで木陰に立つと、俺はすぐ近くの自販機でジュースを買ってきて再び木陰に戻り手渡した。
「えっ、ジュース、いいの?」
「よくウサ吉の世話を手伝ってくれてる礼だよ」
「好きで見てるだけだから気にしなくていいのに」
ごちそうさまと、律儀に礼を言ってから琴音は冷えたオレンジジュースをごくごくと飲んだ。
細い首と白い喉が目前に飛び込んできて、じんわりと体が熱くなった。隣にいると木陰で涼む意味があまりなくなってしまうんじゃないかと思った。箱学の女子の夏制服は、女子の間でもかわいいと評判だが確かにかわいい。好きな子が着ればそりゃもう、特別に見える。しかし目に毒だ。俺が内心の焦りも知らず、琴音はこちらを見上げてふと思い出したように話を切り出した。
「もうすぐレギュラーの合宿だよね。新開くんがいない間も、ウサ吉くん見に来るから安心してね」
「あぁ、ありがとよ。琴音に面倒見て貰えりゃ安心だ。……っと、そうそう、夏休みに入ったらウサ吉はうちに連れてく予定なんだ」
「そっかぁ、そうなると二学期まで会えないね。寂しいなぁ」
「いつでも家に会いにおいで。歓迎するよ」
「ホント?ありがとう!ウサ吉くんね、はじめは警戒されてたんだけどだいぶ仲良くなってきたんだ」
「そうかい。そりゃよかった」
目を細めて笑うから俺もつられて口角が上がってしまう。セミの声、ジリジリと照りつける太陽、その空間でこの木陰だけがオアシスみたいに空気が澄んでいる。隣で好きな子が笑ってて俺はずっとここに居たくなっちまう。暑さのせいでおかしくなったフリして、手を繋いでみたい…なんて、出来るはずもなく。
琴音は寿一が好きなんだろう。本人に確認したことがない。もし聞いて顔を赤くして肯定されてしまえば、わかっていたこととはいえ俺はショックで立っていられる自信がなかった。情けないことに。今やそれぐらい好きになっちまってたんだ。
ふわっとぬるい風が吹いた時、緑の葉が一枚、彼女の前髪にくっついた。それに気づかず俺の方に体ごと向けて『そういえばこの前の部活帰りにね…』と話しはじめる。思わず笑いが漏れたら不思議そうに小首をかしげていた。そのまま教えてやらないのも意地悪だろうと、髪に手を伸ばした。
「葉っぱついてる」
サラリとした感触が指先に伝わった瞬間、心臓がドッと鳴った。ただ葉っぱだけ取ってすぐ手をどければよかった。指で葉を摘んで俺はそのまま額を撫でるようにして琴音の前髪を横に流した。前髪を分けると普段は隠れている眉毛がハッキリと見える。目が合うと、「取ってくれた?」と言って瞬きをする。こんなに近くで視線を交わすのは初めてだった。長い睫に、夏の暑さで上気した柔らかそうな頬。
全てが想像以上に鼓動を速める。これ以上見てたらおかしくなる。
「なァ、仲良くなったのはウサ吉とだけか?」
――やめろ。
言い聞かせても簡単には止まるはずもない。
たったひとつの理性が崩れて、俺は琴音の額に唇を落としていた。シャンプーの香りが鼻を掠める。すぐに唇を離して呆然としている彼女の表情が目に映った。一瞬固まって顔はみるみる赤くなり、眉間に皺を寄せた。その顔がまた堪らなく可愛くて、悪戯したくなっちまう。
バカだ、反省しろよ俺は。今、何をした?
今、何をしたんだ、この子に。
後ずさって木陰ギリギリのラインまで後退して、琴音は俺と距離をとった。これが現在の心の距離だと容易に察知できた。赤くなった顔のまま、黙ったままで指先で前髪を梳かして彼女は額を隠した。
唇を一文字に結んでいるが何か言いたそうだ。
「……新開くん!そーゆーのはふざけてやっちゃダメだよ」
琴音は珍しく強い口調で怒り、木陰から出て駆け足で去っていった。しまった。咄嗟に謝ればよかったのに、言葉が出てこなかった。謝ったところで許してくれるかは分からないが、俺には追いかける責任がある。彼女の後ろ姿がちょうど曲がり角で見えなくなる頃、俺の足は地面を蹴った。本気で走ればすぐに追いつく。案の定、曲がり角ですぐに姿が見えて俺は少し強引に手を掴んだ。
「待ってくれ!…その、悪かった」
まだ顔を赤らめている琴音は、逃げることもせず俺の言葉を聞いてくれた。ドクンドクン、と心臓が鳴る。
「ごめん」
もう一度言うと彼女は首を振って、もういいよと優しく告げると俺を許した。自分も恥ずかしくなって逃げてしまっただけなのだと言う。許して貰えてよかった。面と向かって『許さない』なんて言われたら、しばらく立ち直れそうになかっただろう。
けど――本当にそれでよかったのか?
謝らない方が自分の気持ちを示せてよかったんじゃないか。男として意識してもらえたかもしれない。額とは言えふざけてキスしたわけじゃない。ふざけてやっちゃダメなら、本気だったら許してくれるのか?
問いたいことがぐるぐると頭の中で回り、掴んだ手はそのまま離せずにいた。俺より一回り小さな手の平。細い腕。男と女じゃ体の作りが違いすぎる。好きな子なら尚更、見てるだけで守ってやりたくなっちまうんだ。
この流れで、勢いに任せてずっと心の奥に閉じこめていた告白をしようか。お前が誰が好きでも、俺はお前が好きなんだ。
己の中で緊張が張りつめる。すう、と息を吸い込んだ時、遠くから寿一がこちらに近づいてくる姿が目に飛び込んできた。
そうだ、あいつも…時々ウサ吉を見に来てくれてるうちの一人だ。いい奴なんだ。真面目で努力家で、自分にも他人にも厳しいが、思いやりがある。最高のチームメイトであり、中学時代からの同級生。
寿一の姿を視界に捉えた途端に告白しようとしていた勢いのブレーキがかかり、気持ちが消沈した。
琴音が誰を好きでも関係ない――それは、『寿一以外だったら』の話だろ。目の前が突然暗くなり、俺は反射的に掴んでいた手を離しクッと喉を鳴らして笑った。
「おめさんが可愛いから、からかいたくなっちまうんだ。ホント悪かったな。もうしないよ」
琴音は『お詫びにアイスも奢ってもらうからね』と唇を尖らせて怒ったフリをしていたが、その後すぐに苦笑していた。あっさりと許してもらえて安心したやら、これでよかったのかとわだかまりが心の中に残る。
――好きなんだ。
喉の奥につかえていた大事にしていた言葉が空を切る。心がズキズキと痛み出して苦しい。こんなに苦しい思いしたくないのに、逃げてしまいたいのに、諦めきれない。
それ程に琴音に捕らわれている俺が、そこにいる俺が全て現実だった。二人とも俺の大事な人なんだ。二人の間に割って入って邪魔者になる必要がどこにある。
仮面をかぶってでもいい、俺はキューピッドになるべきだ。
それが出来ないならせめて、自分の気持ちは伝えるべきじゃない。
心の奥に秘め続けよう。この先もずっと。
-2- ※新開視点
強い日差しが照りつける7月中旬――
目前に迫ったインターハイに向けてハードな練習は毎日のように行われた。
今週末からはいよいよ夏休みがはじまり、最初の一週間でインハイ前の合宿を行い、そこで最終調整をする。これは箱学のレギュラー陣がメインの伝統的な特別メニューだ。同行するのも監督と少人数の部員のみ。二年生で既に来年の箱学レギュラーを背負う可能性が高い部員も、サポート役を兼ねて連れて行くのがお決まりだ。
早い話、通常の合宿とは違いマネージャーは来ないってことになる。合宿不参加の部員とマネージャーたちは学校や周辺コースでいつものトレーニングや練習をこなす予定だ。
…しかし、あちィ。立ってるだけで汗が滲んでくる。
俺は寒い方が苦手だから夏のが好きだけど暑いもんは暑い。
斜めがけの鞄の中にいくつか入れてあるパワーバーを取り出して、食べながらある場所を目指して歩き出した。
土曜日の午前授業が終わり、部活がはじまるまでの間にウサ吉にごはんをやろうと校舎裏の小屋まで見に来るとそこには先客がいた。
しゃがんだその姿はこじんまりとして、ウサ吉をジッと見つめながらキャベツの葉を与えていた。
愛おしそうな視線の先にいるのはふわふわとしたウサ吉。美味そうにキャベツをかじっていた。
「よぉ。来てたのかい」
横から声をかけると視線を俺の方に向けて琴音は首を傾けながら見上げてきた。ホームルームが早く終わったからと、彼女は嬉しそうにそう言った。そういや三年になってクラスが離れてしまった時、『今度の担任、話が長くない先生だからよかった!』とか言って喜んでたっけ。二年の時の俺らの担任は悪い奴じゃなかったが話が無駄に長かったからなぁ。ホームルームが終わる頃の号令は欠伸混じりになっちまったコトを思い出した。
もぐもぐと口を忙しなく動かすウサ吉の頭をそっと撫でながら、琴音は嬉しそうに笑った。一部の奴らにしか話したことがなかったトラウマも、遡ること三ヶ月前の春、ここで俺は彼女にも話した。
入部して間もなく、俺がウサ吉を飼ってることを知ってよく世話も手伝いに来てくれてたから。ウサ吉の小屋の近くには大きな桜の木が一本生えていて、春になると桜が満開になる。春風に乗って花びらが散るその景色の中で、なびく髪を手で押さえている琴音を見て俺は唐突に過去のトラウマを切り出したんだ。話すつもりじゃなかったのに、聞いて欲しい衝動が込み上げてきたから。
すっかり好きになっていた、お前には知っといてもらいたくて。
俺が話してる間相槌を打つことなく真剣に聞き入って、話し終えると静かに琴音は一度だけ頷いた。そして俺の手を優しく取って『大丈夫だよ』と、まじないをかけるようにゆっくりと呟いた。
……大丈夫なことはわかってさ。俺には信頼できるチームメイトもいる。トラウマを乗り越えるための練習にも付き合ってくれた奴らがいる。次のインハイで俺は走る。走るんだ。やれることはやってきたさ、仲間の信頼に応えるためにも。大丈夫だ、やってやるさ。――だた、お前がそう言うなら、本気で“大丈夫”な気がしてきたんだ。そして目の奥が熱くなった。あの時、桜の下で俺は。
季節は過ぎてもう桜の花びらなど残っていない。緑の葉に生え変わりその下には木陰を作っている。俺はウサ吉の頭を撫でてから木陰に入り、琴音を手招いた。ここなら幾分か涼しい。彼女が並んで木陰に立つと、俺はすぐ近くの自販機でジュースを買ってきて再び木陰に戻り手渡した。
「えっ、ジュース、いいの?」
「よくウサ吉の世話を手伝ってくれてる礼だよ」
「好きで見てるだけだから気にしなくていいのに」
ごちそうさまと、律儀に礼を言ってから琴音は冷えたオレンジジュースをごくごくと飲んだ。
細い首と白い喉が目前に飛び込んできて、じんわりと体が熱くなった。隣にいると木陰で涼む意味があまりなくなってしまうんじゃないかと思った。箱学の女子の夏制服は、女子の間でもかわいいと評判だが確かにかわいい。好きな子が着ればそりゃもう、特別に見える。しかし目に毒だ。俺が内心の焦りも知らず、琴音はこちらを見上げてふと思い出したように話を切り出した。
「もうすぐレギュラーの合宿だよね。新開くんがいない間も、ウサ吉くん見に来るから安心してね」
「あぁ、ありがとよ。琴音に面倒見て貰えりゃ安心だ。……っと、そうそう、夏休みに入ったらウサ吉はうちに連れてく予定なんだ」
「そっかぁ、そうなると二学期まで会えないね。寂しいなぁ」
「いつでも家に会いにおいで。歓迎するよ」
「ホント?ありがとう!ウサ吉くんね、はじめは警戒されてたんだけどだいぶ仲良くなってきたんだ」
「そうかい。そりゃよかった」
目を細めて笑うから俺もつられて口角が上がってしまう。セミの声、ジリジリと照りつける太陽、その空間でこの木陰だけがオアシスみたいに空気が澄んでいる。隣で好きな子が笑ってて俺はずっとここに居たくなっちまう。暑さのせいでおかしくなったフリして、手を繋いでみたい…なんて、出来るはずもなく。
琴音は寿一が好きなんだろう。本人に確認したことがない。もし聞いて顔を赤くして肯定されてしまえば、わかっていたこととはいえ俺はショックで立っていられる自信がなかった。情けないことに。今やそれぐらい好きになっちまってたんだ。
ふわっとぬるい風が吹いた時、緑の葉が一枚、彼女の前髪にくっついた。それに気づかず俺の方に体ごと向けて『そういえばこの前の部活帰りにね…』と話しはじめる。思わず笑いが漏れたら不思議そうに小首をかしげていた。そのまま教えてやらないのも意地悪だろうと、髪に手を伸ばした。
「葉っぱついてる」
サラリとした感触が指先に伝わった瞬間、心臓がドッと鳴った。ただ葉っぱだけ取ってすぐ手をどければよかった。指で葉を摘んで俺はそのまま額を撫でるようにして琴音の前髪を横に流した。前髪を分けると普段は隠れている眉毛がハッキリと見える。目が合うと、「取ってくれた?」と言って瞬きをする。こんなに近くで視線を交わすのは初めてだった。長い睫に、夏の暑さで上気した柔らかそうな頬。
全てが想像以上に鼓動を速める。これ以上見てたらおかしくなる。
「なァ、仲良くなったのはウサ吉とだけか?」
――やめろ。
言い聞かせても簡単には止まるはずもない。
たったひとつの理性が崩れて、俺は琴音の額に唇を落としていた。シャンプーの香りが鼻を掠める。すぐに唇を離して呆然としている彼女の表情が目に映った。一瞬固まって顔はみるみる赤くなり、眉間に皺を寄せた。その顔がまた堪らなく可愛くて、悪戯したくなっちまう。
バカだ、反省しろよ俺は。今、何をした?
今、何をしたんだ、この子に。
後ずさって木陰ギリギリのラインまで後退して、琴音は俺と距離をとった。これが現在の心の距離だと容易に察知できた。赤くなった顔のまま、黙ったままで指先で前髪を梳かして彼女は額を隠した。
唇を一文字に結んでいるが何か言いたそうだ。
「……新開くん!そーゆーのはふざけてやっちゃダメだよ」
琴音は珍しく強い口調で怒り、木陰から出て駆け足で去っていった。しまった。咄嗟に謝ればよかったのに、言葉が出てこなかった。謝ったところで許してくれるかは分からないが、俺には追いかける責任がある。彼女の後ろ姿がちょうど曲がり角で見えなくなる頃、俺の足は地面を蹴った。本気で走ればすぐに追いつく。案の定、曲がり角ですぐに姿が見えて俺は少し強引に手を掴んだ。
「待ってくれ!…その、悪かった」
まだ顔を赤らめている琴音は、逃げることもせず俺の言葉を聞いてくれた。ドクンドクン、と心臓が鳴る。
「ごめん」
もう一度言うと彼女は首を振って、もういいよと優しく告げると俺を許した。自分も恥ずかしくなって逃げてしまっただけなのだと言う。許して貰えてよかった。面と向かって『許さない』なんて言われたら、しばらく立ち直れそうになかっただろう。
けど――本当にそれでよかったのか?
謝らない方が自分の気持ちを示せてよかったんじゃないか。男として意識してもらえたかもしれない。額とは言えふざけてキスしたわけじゃない。ふざけてやっちゃダメなら、本気だったら許してくれるのか?
問いたいことがぐるぐると頭の中で回り、掴んだ手はそのまま離せずにいた。俺より一回り小さな手の平。細い腕。男と女じゃ体の作りが違いすぎる。好きな子なら尚更、見てるだけで守ってやりたくなっちまうんだ。
この流れで、勢いに任せてずっと心の奥に閉じこめていた告白をしようか。お前が誰が好きでも、俺はお前が好きなんだ。
己の中で緊張が張りつめる。すう、と息を吸い込んだ時、遠くから寿一がこちらに近づいてくる姿が目に飛び込んできた。
そうだ、あいつも…時々ウサ吉を見に来てくれてるうちの一人だ。いい奴なんだ。真面目で努力家で、自分にも他人にも厳しいが、思いやりがある。最高のチームメイトであり、中学時代からの同級生。
寿一の姿を視界に捉えた途端に告白しようとしていた勢いのブレーキがかかり、気持ちが消沈した。
琴音が誰を好きでも関係ない――それは、『寿一以外だったら』の話だろ。目の前が突然暗くなり、俺は反射的に掴んでいた手を離しクッと喉を鳴らして笑った。
「おめさんが可愛いから、からかいたくなっちまうんだ。ホント悪かったな。もうしないよ」
琴音は『お詫びにアイスも奢ってもらうからね』と唇を尖らせて怒ったフリをしていたが、その後すぐに苦笑していた。あっさりと許してもらえて安心したやら、これでよかったのかとわだかまりが心の中に残る。
――好きなんだ。
喉の奥につかえていた大事にしていた言葉が空を切る。心がズキズキと痛み出して苦しい。こんなに苦しい思いしたくないのに、逃げてしまいたいのに、諦めきれない。
それ程に琴音に捕らわれている俺が、そこにいる俺が全て現実だった。二人とも俺の大事な人なんだ。二人の間に割って入って邪魔者になる必要がどこにある。
仮面をかぶってでもいい、俺はキューピッドになるべきだ。
それが出来ないならせめて、自分の気持ちは伝えるべきじゃない。
心の奥に秘め続けよう。この先もずっと。