短編・中編
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ドラマチック・プライズ
-3- ※夢主視点
梅雨が明け、いよいよ本格的な夏がやって来ようとしていた。
衣替えで久々に夏服に袖を通せば、心なしか気分が明るくなる。
箱根学園の女子制服は、やはり可愛い。他校からの評判もいいと聞いたことがある。
一ヶ月前、思い切って長かった髪を切りすっかり首周りが涼しくなった。上半分、髪に隠れたうなじに触れて鏡の前で自分の夏服姿を見れば何だか複雑な気分だ。制服が可愛いだけあって、短い髪には似合わないような気がしてきた。『制服』は、可愛いんだけどなぁ…って、別に誰も私なんて気に留めないんだろうけど。
内心で自嘲気味に笑えば、ふと、“彼”に言われた一言が頭を過ぎった。恐らくきっと、あれはお世辞なのに。
――『うむ。ちゃんと似合っているぞ』
思い返す度に照れくさくて仕方ない。ファンクラブが存在するほど女子に人気の自転車競技部所属の美形クライマー東堂くんに言われたのだ。
マネージャーの仲間内でも東堂くんはわりと人気があった。彼はフェミニストだから、髪を切ったばかりの女子を目の前にしたら誰にでも同じ事を言うのだろう。そんな事はわかっているのにお世辞を真に受けて嬉しくなってしまうのは、私が東堂くんのことを好きだからだ。私だけじゃない。たいていの女子なら東堂くんのことを好きなはずだと思う。
私が二年の夏休み明けにマネージャーとして入部してから彼の走りを間近で見たとき、目を奪われた。音もなく加速し、無駄のないペダリングで軽々と急勾配を物ともせず登っていく姿はまさに山神だった。その丁寧な走りはロードに対して紳士的かつ誠実である姿勢が滲み出ていた。そして、山道の話やクライマーの話や登り練習の話をしている時の東堂くんは、まるで子供のように目を輝かせて話すものだから、私もつられて楽しくなってしまう。
部活中はお互いに忙しいので挨拶だけ終わる日もあれば、タイミングが合えばよく話す日もある。部活外ではファンクラブの子の目もあるし、同じクラスじゃないので広い校内ではほとんど会うこともなく過ごす。たまに廊下ですれ違う程度。
だからこそ、時々話せる時間が貴重に感じられた。ひとつひとつの話を思い返しても、東堂くんはクライマーになるべくしてなったんだなと確信する。『天は俺に三物を与えた』と自負しているだけのことはあるのだ。東堂くんは努力を積み重ねたり逆境を克服してクライマーになった…などというエピソードは聞いたことがなかったし、事実、一切なかった。
いつも堂々としていて自信満々で己の美学を掲げる姿は私の目に眩しく映る。
私にはないものばかりだから羨んでしまう。憧れてしまう。彼のレースを見たことがある女子ならばその魅力を目の当たりにしてファンが続々と増えるのも無理はない。
――だが、ここ最近は、私から東堂くんを故意に避け続けている。先日、彼に失礼な事をしてしまったからだ。
真波くんが提案した意地悪な賭けにのったことを叱咤され、何故か成り行きで東堂くんに膝枕をすることになり、その現場をファンクラブの子達に見つかりそうになって私は自分のスカートで彼の顔を覆って隠したのだ。咄嗟に思いついた策とは言えとんでもないことをしてしまって恥ずかしい。
とりあえずファンに見つからずに済んだが、代償としてもう東堂くんに顔を合わせられない。せめて…、必要最低限の挨拶だけはしているのだが。
「おはよう東堂くん」
「あぁ、おはよう。――…汐見 、昨日のことなんだが、」
「ごめん、朝練準備があるからすぐ行かなきゃ」
自然に挨拶をしたつもりだが目は合わせられず、東堂くんが昨日の件を切り出しかけた途端、私はその場から走り去っていた。耳も顔も熱くなっていく。不自然極まりなかった。
だって、気まずいものは気まずい。私は昨日とんでもないことをした去り際に『忘れて!私も忘れるから!』と告げたけれど、一晩寝たぐらいじゃ忘れられるはずもなかった。
それはきっと東堂くんも同じだろう。
挨拶だけをして私はそれ以上に何か話しかけようとせずその場を去り、東堂くんが何か挨拶以上のことを話しかけてこようとすれば誤魔化してすぐ踵を返して避け続ける――という日々が続いて今日が5日目。気まずさなんてさておいて、いっそ普通に話してしまえばよかったのかも知れない。
挨拶だけをして終わることなんてよくあることじゃないか。でも、“話さない”のと“話せない”のは全く違う。たった数日なのに、目を輝かせながら山道での登り練習の話をする東堂くんが遠い記憶の中だ。
身から出た錆ってやつだ。キッカケなんて些細だろうとそうでなかろうと、気まずさというのは時間が経っても消えて無くなりはしないんだ。時間が経てば経つほど普通に話しかけるタイミングを失っていく。じわじわと心の中で苦い味が広がっていってからやっと、わかった事がある。
私にとって東堂くんは憧れであり、いちファンのような気持ちの“好き”かと思っていたのに、違った。
私の短い髪を見て東堂くんが誉めてくれたあの日、彼は私の長い髪の事も細かく覚えてくれた。合宿の時とか、三年の送迎会とか、随分前のことまで…細かいところにまで気が付くあたり、さすが東堂くんだと思った。
そして私の心が妙な期待で満たされてしまうのは容易かった。好きになる魔法をかけられた。その魔法はきっと、気が利く東堂くんに何人もの女の子がかけられた魔法だろう。
「琴音。どうかしたか?」
備品をチェックする手が止まっていた私を不思議に思って、寿一くんが声をかけてくれたけれど、私は出来るだけいつもの笑顔を向けて何でもないと首を振った。
放課後の部活の数時間もあっと言う間に過ぎていく。
備品の発注や洗濯、マッサージ指導をしていたらもう夜の7時を回っていた。マネージャーの中でも帰るのは一番最後なので、暗くなってから仕事を終えるのはいつものことだ。今日はまだだいぶ早い方だ。
インハイが終わればマネージャーもひとまず引退の予定だ。任意で残ってもいいのだが、ほとんどは大学受験に集中するために部活を引退していく。これからは二年が中心になっていくのだから、引継資料もそろそろ整えておかないと…やることは山積みだった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
避けていても同じ部活では無理がある事は頭ではわかっていた。そして、タイミングは唐突としてやって来た。
部室のゴミを焼却炉まで運んで戻る途中、校舎裏にひとつの影。初夏の夜はまだ明るい。
こちらを見つめている彼の顔を夕陽が照らし、前髪をまとめ上げている白いカチューシャも夕陽の橙色に反射していた。
目前に避け続けていた東堂くんがいた。――おそらく、私を待ち伏せていたのだ。練習が終わってそのまま来たのか、箱学ユニフォームを着たままだ。思わず驚いて両手で持っていたゴミ箱を落として、呆然としてしまう。
「汐見。少し話がしたいんだが、いいか」
「あ、あの」
「少しでいい。頼む、逃げないでくれ」
目の前にやって来た東堂くんは一歩踏み出して近寄り、私が逃げ出さないようにしっかりと右手を握って捕らえた。これではもう逃げることは出来ない。断る余地を与えないといった雰囲気だ。ややいつもとは違う強引な一面に心臓が早鐘を打ちつつ、私は静かに頷いた。俯きながら目を泳がせ、東堂くんを一瞬だけ見たら、彼は少しも目を逸らさず私を見つめていた。
コンマ数秒、交わされた視線にあの日の事を思い出して私の顔が朱に染まる。きっと夕陽のおかげでまだ気づかれてはなさそうだが。
東堂くんの、いつもは自信に溢れて笑う表情が今日は心なしか強張って、口も一文字。握られた指先が熱くなっていくが、どちらの熱のせいなのかわからなかった。しばらくの沈黙の後、東堂くんは切り出した。
「……この間は本当にすまなかった。俺のせいで汐見をファンクラブの目の敵にしてしまうところだった。その、お前の咄嗟の、めっ、名案で…回避できたわけだが、その事に関してもずっと礼を言いたかったのだ」
出来るだけ落ち着いた声言おうと努めている様子で、東堂くんは私の手を握ったまま告げた。誠心誠意の気持が込められている言葉に、避け続けていたこの数日間に罪悪感を覚えた。逃げていた自分が恥ずかしくなってきて顔をあげることができなかった。すると、東堂くんはアッ!と声をあげると同時に手に力を込めた。
「今の礼は変な意味での礼じゃないからな!決して!確かにあの後、鼻血は出したが!」
「鼻血?」
「いや、些細なことだ今のは忘れてくれ…!」
慌てて弁解しているのが気になってしまうけども、もしかして私がスカートを東堂くんの顔をかぶせた時に顔を圧迫していたのかもしれない?咄嗟のことだったのでどんな感じでかぶせたのかもう覚えてないのだけど、そうだとしたら本当に申し訳なさ過ぎる。思い返してもこの点を深く追求しても気まずさが増すだけなので、とりあえず深く考えないでおくことにした。
「私こそごめん。何だか気恥ずかしくて避けたりして…」
「気恥ずかしかったのは俺とて同じだ。どんな顔でお前に会えばいいか分からなかった」
私の視線は足元のまま、東堂くんの練習で使いこまれたビンディングシューズと引き締まった足が映る。今日もこの足でペダルを回して箱根の山を登ってきたんだろう。明日も明後日も、東堂くんは山を登る。地元・箱根の山はこれまで数え切れないほど登ってきたと話してた日のことを思い出した。
天候に、温度・湿度、風によって山は何百通りの顔を見せるのだと言っていた。何百回と登っているものならば一度として全く同じ山のコンディションはないのだと教えてもらったことがある。目を輝かせて語るものだから、わくわくが私の心にも伝播するんだ。
「女子に助けてもらっておいて礼を言わないなど、男としてあるまじき無礼だろう。しかし避け続けられては伝えるのも難しかったがな。まさか、この美形クライマー・東堂が女子に避けられる日が来ようとは夢にも思わなかったからな」
別に嫌味を言っているわけじゃないというのはすぐに分かる。怒っている様子もなくワッハッハと声高らかに笑う東堂くんの声に私は安堵していた。女子に避けられたことがはじめてだというのは事実だろうし、何より私を咎めるような口調ではない。いつもの調子で話してくれる東堂くんに、私もいつまでも下ばかり向いていてはいけないと顔を上げて見据えたら、思った以上に近い距離に互いの顔があったことに心臓が跳ねた。
自分で美形と豪語するその顔は、正面から捉えても美しく、それは夕陽の中なら尚の事だった。美形だから好きになったわけじゃないとは言え、こんなにも絵に描いたような整った顔立ちにときめかないはずがない。
私が東堂くんの顔立ちに見とれてしまい遅れた相槌を打とうとした時、予想だにしない一言が待っていた。
「特に、す…、好きな女子に避けられるのはなかなかに傷つく」
告げられた言葉の意味が理解できず、何か自分の都合のいいように聞き間違えてしまったと錯覚した私が沈黙をして東堂くんをジッと見つめていると、彼の顔は夕陽に照らされた状態でもわかるほどみるみると赤面していった。もともと肌が白いから朱に染まるとよくわかるなぁと、どこか冷静に観察してみたりして。
聞き間違いでないとしても冗談だよねって、私も笑い出してしまえばよかったのに、目前の東堂くんの真剣な眼差しがそれをさせなかった。
「俺は、意を決して言ったぞ」
「…えっ!あ、あの…本当に?冗談でなく!?」
「冗談のつもりでこんな事、万が一にも言うものか」
嘘がない、心の底からの本心だと握られた手の熱から伝わってくる。
夕陽の色がそのまま映る東堂くんの瞳の中に吸い込まれそうだ。
「お前が髪を短く切った時は誰かに失恋したのかと勘繰り、真波に膝枕してるのを目撃した時は交際しているのかと疑い、この上なく焦った。何故、こんなにも心が掻き乱されるのか、考えなくてもすぐに分かったよ」
心臓の音に合わせて全身が脈打つみたいにバクバクと体内中を響いていた。視線が逸らせない。射竦められてるみたいに動けない。こんなにも真剣な彼を見たのは初めてだった。
「“好きな女子”とは、お前のことだ、汐見。お前以外にいない」
鼓膜へと吸い込まれた言葉が、振動する。私には贅沢過ぎるその言葉を受け止めてしまっていいんだろうか。いつもキラキラしてて、自信に溢れてて、カッコイイ東堂くんが羨ましかった。憧れていた。
楽しく話せるだけで充分だった関係なのに、いつの間にか好きになっていた。そんな人から告白を受けてるのが、奇跡みたいで、夢みたいだ。
「突然で困らせているかも知れないが――、俺は自分の中で既に出ている答えを温存など出来ない。日に日に大きくなっていく気持ちを告げずにはおれんのだよ。もし嫌ならばこの手を今すぐ振りほどいてくれていい」
振りほどけるはずもない。言葉が出ない代わりに目の中に涙が少しずつ溜まっていくのがわかる。感動で胸が苦しい。
東堂くんがそんな風に想っていてくれたなんて。どこにでもいそうな平凡な私に彼が興味を持ったキッカケはわからない。どこが、どうして、どうなって、このルートになるのかひとつも思い当たる節がない。私から東堂くんに告白するならまだしも、東堂くんの方からだなんて。夢ならば醒めるなと強く願った。
たくさん聞きたいことがある。気になることだらけだ。それはきっと追々、聞かせてもらえるだろうか。何も隔たりも気まずさもなく、また二人で話ができると思うと堪らなく嬉しいのだ。
「私も東堂くんと同じ――」
言葉が詰まり喉から出てこない代わりに、私の手を握る一回り大きいあたたかいその手を、返事代わりに震える指先でキュッと握り返した。一度だけ頷くと、東堂くんは気持ちを汲み取ってくれたようだ。
「そうか!よかった…、よかった…!」
そう何度も繰り返して東堂くんは私の手をより強く握り返してきた。
「…東堂くん、本当に私なんかでいいの?」
「汐見…、汐見琴音」
「は、はい!」
「“私なんか”だなんて言うな!もっと堂々としろ、自信を持て!俺が好きなのは他でもないお前なのだから。そして、今すぐじゃなくてもいいから俺にも自信を持たせてくれ。…つまりは、その、お前からもだな、俺に、気持ちを……」
口籠る東堂くんに私が肯定の意味で控えめに頷くと、彼は照れくさそうにはにかんだ。気取っているあのいつもの感じではなく、その顔は年相応の青年らしいはにかんだ表情。心が揺さぶられて仕方ない。
東堂くんはおもむろに自分のカチューシャを片手ではずすと、私の頭に器用に付けてくれた。
前髪がさらりと片目にかかった彼は、大人っぽさが増す。これから東堂くんの今まで見たことない表情や一面をたくさん間近で見ることができると思うと、楽しみだったりドキドキだったりで心臓がもたなそうだ。
「思った通りだ。短い髪にカチューシャがよく似合う」
夕焼けが二人を包み込んだこの空間。時間が止まればいいのにと願うほど心が満ち足りていく。忘れられない日になるであろう今日の事、この先の未来で何度も思い出すだろう。橙に染まるカチューシャは、今、私が世界で一番幸せ者だって証だ。
end.
-3- ※夢主視点
梅雨が明け、いよいよ本格的な夏がやって来ようとしていた。
衣替えで久々に夏服に袖を通せば、心なしか気分が明るくなる。
箱根学園の女子制服は、やはり可愛い。他校からの評判もいいと聞いたことがある。
一ヶ月前、思い切って長かった髪を切りすっかり首周りが涼しくなった。上半分、髪に隠れたうなじに触れて鏡の前で自分の夏服姿を見れば何だか複雑な気分だ。制服が可愛いだけあって、短い髪には似合わないような気がしてきた。『制服』は、可愛いんだけどなぁ…って、別に誰も私なんて気に留めないんだろうけど。
内心で自嘲気味に笑えば、ふと、“彼”に言われた一言が頭を過ぎった。恐らくきっと、あれはお世辞なのに。
――『うむ。ちゃんと似合っているぞ』
思い返す度に照れくさくて仕方ない。ファンクラブが存在するほど女子に人気の自転車競技部所属の美形クライマー東堂くんに言われたのだ。
マネージャーの仲間内でも東堂くんはわりと人気があった。彼はフェミニストだから、髪を切ったばかりの女子を目の前にしたら誰にでも同じ事を言うのだろう。そんな事はわかっているのにお世辞を真に受けて嬉しくなってしまうのは、私が東堂くんのことを好きだからだ。私だけじゃない。たいていの女子なら東堂くんのことを好きなはずだと思う。
私が二年の夏休み明けにマネージャーとして入部してから彼の走りを間近で見たとき、目を奪われた。音もなく加速し、無駄のないペダリングで軽々と急勾配を物ともせず登っていく姿はまさに山神だった。その丁寧な走りはロードに対して紳士的かつ誠実である姿勢が滲み出ていた。そして、山道の話やクライマーの話や登り練習の話をしている時の東堂くんは、まるで子供のように目を輝かせて話すものだから、私もつられて楽しくなってしまう。
部活中はお互いに忙しいので挨拶だけ終わる日もあれば、タイミングが合えばよく話す日もある。部活外ではファンクラブの子の目もあるし、同じクラスじゃないので広い校内ではほとんど会うこともなく過ごす。たまに廊下ですれ違う程度。
だからこそ、時々話せる時間が貴重に感じられた。ひとつひとつの話を思い返しても、東堂くんはクライマーになるべくしてなったんだなと確信する。『天は俺に三物を与えた』と自負しているだけのことはあるのだ。東堂くんは努力を積み重ねたり逆境を克服してクライマーになった…などというエピソードは聞いたことがなかったし、事実、一切なかった。
いつも堂々としていて自信満々で己の美学を掲げる姿は私の目に眩しく映る。
私にはないものばかりだから羨んでしまう。憧れてしまう。彼のレースを見たことがある女子ならばその魅力を目の当たりにしてファンが続々と増えるのも無理はない。
――だが、ここ最近は、私から東堂くんを故意に避け続けている。先日、彼に失礼な事をしてしまったからだ。
真波くんが提案した意地悪な賭けにのったことを叱咤され、何故か成り行きで東堂くんに膝枕をすることになり、その現場をファンクラブの子達に見つかりそうになって私は自分のスカートで彼の顔を覆って隠したのだ。咄嗟に思いついた策とは言えとんでもないことをしてしまって恥ずかしい。
とりあえずファンに見つからずに済んだが、代償としてもう東堂くんに顔を合わせられない。せめて…、必要最低限の挨拶だけはしているのだが。
「おはよう東堂くん」
「あぁ、おはよう。――…汐見 、昨日のことなんだが、」
「ごめん、朝練準備があるからすぐ行かなきゃ」
自然に挨拶をしたつもりだが目は合わせられず、東堂くんが昨日の件を切り出しかけた途端、私はその場から走り去っていた。耳も顔も熱くなっていく。不自然極まりなかった。
だって、気まずいものは気まずい。私は昨日とんでもないことをした去り際に『忘れて!私も忘れるから!』と告げたけれど、一晩寝たぐらいじゃ忘れられるはずもなかった。
それはきっと東堂くんも同じだろう。
挨拶だけをして私はそれ以上に何か話しかけようとせずその場を去り、東堂くんが何か挨拶以上のことを話しかけてこようとすれば誤魔化してすぐ踵を返して避け続ける――という日々が続いて今日が5日目。気まずさなんてさておいて、いっそ普通に話してしまえばよかったのかも知れない。
挨拶だけをして終わることなんてよくあることじゃないか。でも、“話さない”のと“話せない”のは全く違う。たった数日なのに、目を輝かせながら山道での登り練習の話をする東堂くんが遠い記憶の中だ。
身から出た錆ってやつだ。キッカケなんて些細だろうとそうでなかろうと、気まずさというのは時間が経っても消えて無くなりはしないんだ。時間が経てば経つほど普通に話しかけるタイミングを失っていく。じわじわと心の中で苦い味が広がっていってからやっと、わかった事がある。
私にとって東堂くんは憧れであり、いちファンのような気持ちの“好き”かと思っていたのに、違った。
私の短い髪を見て東堂くんが誉めてくれたあの日、彼は私の長い髪の事も細かく覚えてくれた。合宿の時とか、三年の送迎会とか、随分前のことまで…細かいところにまで気が付くあたり、さすが東堂くんだと思った。
そして私の心が妙な期待で満たされてしまうのは容易かった。好きになる魔法をかけられた。その魔法はきっと、気が利く東堂くんに何人もの女の子がかけられた魔法だろう。
「琴音。どうかしたか?」
備品をチェックする手が止まっていた私を不思議に思って、寿一くんが声をかけてくれたけれど、私は出来るだけいつもの笑顔を向けて何でもないと首を振った。
放課後の部活の数時間もあっと言う間に過ぎていく。
備品の発注や洗濯、マッサージ指導をしていたらもう夜の7時を回っていた。マネージャーの中でも帰るのは一番最後なので、暗くなってから仕事を終えるのはいつものことだ。今日はまだだいぶ早い方だ。
インハイが終わればマネージャーもひとまず引退の予定だ。任意で残ってもいいのだが、ほとんどは大学受験に集中するために部活を引退していく。これからは二年が中心になっていくのだから、引継資料もそろそろ整えておかないと…やることは山積みだった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
避けていても同じ部活では無理がある事は頭ではわかっていた。そして、タイミングは唐突としてやって来た。
部室のゴミを焼却炉まで運んで戻る途中、校舎裏にひとつの影。初夏の夜はまだ明るい。
こちらを見つめている彼の顔を夕陽が照らし、前髪をまとめ上げている白いカチューシャも夕陽の橙色に反射していた。
目前に避け続けていた東堂くんがいた。――おそらく、私を待ち伏せていたのだ。練習が終わってそのまま来たのか、箱学ユニフォームを着たままだ。思わず驚いて両手で持っていたゴミ箱を落として、呆然としてしまう。
「汐見。少し話がしたいんだが、いいか」
「あ、あの」
「少しでいい。頼む、逃げないでくれ」
目の前にやって来た東堂くんは一歩踏み出して近寄り、私が逃げ出さないようにしっかりと右手を握って捕らえた。これではもう逃げることは出来ない。断る余地を与えないといった雰囲気だ。ややいつもとは違う強引な一面に心臓が早鐘を打ちつつ、私は静かに頷いた。俯きながら目を泳がせ、東堂くんを一瞬だけ見たら、彼は少しも目を逸らさず私を見つめていた。
コンマ数秒、交わされた視線にあの日の事を思い出して私の顔が朱に染まる。きっと夕陽のおかげでまだ気づかれてはなさそうだが。
東堂くんの、いつもは自信に溢れて笑う表情が今日は心なしか強張って、口も一文字。握られた指先が熱くなっていくが、どちらの熱のせいなのかわからなかった。しばらくの沈黙の後、東堂くんは切り出した。
「……この間は本当にすまなかった。俺のせいで汐見をファンクラブの目の敵にしてしまうところだった。その、お前の咄嗟の、めっ、名案で…回避できたわけだが、その事に関してもずっと礼を言いたかったのだ」
出来るだけ落ち着いた声言おうと努めている様子で、東堂くんは私の手を握ったまま告げた。誠心誠意の気持が込められている言葉に、避け続けていたこの数日間に罪悪感を覚えた。逃げていた自分が恥ずかしくなってきて顔をあげることができなかった。すると、東堂くんはアッ!と声をあげると同時に手に力を込めた。
「今の礼は変な意味での礼じゃないからな!決して!確かにあの後、鼻血は出したが!」
「鼻血?」
「いや、些細なことだ今のは忘れてくれ…!」
慌てて弁解しているのが気になってしまうけども、もしかして私がスカートを東堂くんの顔をかぶせた時に顔を圧迫していたのかもしれない?咄嗟のことだったのでどんな感じでかぶせたのかもう覚えてないのだけど、そうだとしたら本当に申し訳なさ過ぎる。思い返してもこの点を深く追求しても気まずさが増すだけなので、とりあえず深く考えないでおくことにした。
「私こそごめん。何だか気恥ずかしくて避けたりして…」
「気恥ずかしかったのは俺とて同じだ。どんな顔でお前に会えばいいか分からなかった」
私の視線は足元のまま、東堂くんの練習で使いこまれたビンディングシューズと引き締まった足が映る。今日もこの足でペダルを回して箱根の山を登ってきたんだろう。明日も明後日も、東堂くんは山を登る。地元・箱根の山はこれまで数え切れないほど登ってきたと話してた日のことを思い出した。
天候に、温度・湿度、風によって山は何百通りの顔を見せるのだと言っていた。何百回と登っているものならば一度として全く同じ山のコンディションはないのだと教えてもらったことがある。目を輝かせて語るものだから、わくわくが私の心にも伝播するんだ。
「女子に助けてもらっておいて礼を言わないなど、男としてあるまじき無礼だろう。しかし避け続けられては伝えるのも難しかったがな。まさか、この美形クライマー・東堂が女子に避けられる日が来ようとは夢にも思わなかったからな」
別に嫌味を言っているわけじゃないというのはすぐに分かる。怒っている様子もなくワッハッハと声高らかに笑う東堂くんの声に私は安堵していた。女子に避けられたことがはじめてだというのは事実だろうし、何より私を咎めるような口調ではない。いつもの調子で話してくれる東堂くんに、私もいつまでも下ばかり向いていてはいけないと顔を上げて見据えたら、思った以上に近い距離に互いの顔があったことに心臓が跳ねた。
自分で美形と豪語するその顔は、正面から捉えても美しく、それは夕陽の中なら尚の事だった。美形だから好きになったわけじゃないとは言え、こんなにも絵に描いたような整った顔立ちにときめかないはずがない。
私が東堂くんの顔立ちに見とれてしまい遅れた相槌を打とうとした時、予想だにしない一言が待っていた。
「特に、す…、好きな女子に避けられるのはなかなかに傷つく」
告げられた言葉の意味が理解できず、何か自分の都合のいいように聞き間違えてしまったと錯覚した私が沈黙をして東堂くんをジッと見つめていると、彼の顔は夕陽に照らされた状態でもわかるほどみるみると赤面していった。もともと肌が白いから朱に染まるとよくわかるなぁと、どこか冷静に観察してみたりして。
聞き間違いでないとしても冗談だよねって、私も笑い出してしまえばよかったのに、目前の東堂くんの真剣な眼差しがそれをさせなかった。
「俺は、意を決して言ったぞ」
「…えっ!あ、あの…本当に?冗談でなく!?」
「冗談のつもりでこんな事、万が一にも言うものか」
嘘がない、心の底からの本心だと握られた手の熱から伝わってくる。
夕陽の色がそのまま映る東堂くんの瞳の中に吸い込まれそうだ。
「お前が髪を短く切った時は誰かに失恋したのかと勘繰り、真波に膝枕してるのを目撃した時は交際しているのかと疑い、この上なく焦った。何故、こんなにも心が掻き乱されるのか、考えなくてもすぐに分かったよ」
心臓の音に合わせて全身が脈打つみたいにバクバクと体内中を響いていた。視線が逸らせない。射竦められてるみたいに動けない。こんなにも真剣な彼を見たのは初めてだった。
「“好きな女子”とは、お前のことだ、汐見。お前以外にいない」
鼓膜へと吸い込まれた言葉が、振動する。私には贅沢過ぎるその言葉を受け止めてしまっていいんだろうか。いつもキラキラしてて、自信に溢れてて、カッコイイ東堂くんが羨ましかった。憧れていた。
楽しく話せるだけで充分だった関係なのに、いつの間にか好きになっていた。そんな人から告白を受けてるのが、奇跡みたいで、夢みたいだ。
「突然で困らせているかも知れないが――、俺は自分の中で既に出ている答えを温存など出来ない。日に日に大きくなっていく気持ちを告げずにはおれんのだよ。もし嫌ならばこの手を今すぐ振りほどいてくれていい」
振りほどけるはずもない。言葉が出ない代わりに目の中に涙が少しずつ溜まっていくのがわかる。感動で胸が苦しい。
東堂くんがそんな風に想っていてくれたなんて。どこにでもいそうな平凡な私に彼が興味を持ったキッカケはわからない。どこが、どうして、どうなって、このルートになるのかひとつも思い当たる節がない。私から東堂くんに告白するならまだしも、東堂くんの方からだなんて。夢ならば醒めるなと強く願った。
たくさん聞きたいことがある。気になることだらけだ。それはきっと追々、聞かせてもらえるだろうか。何も隔たりも気まずさもなく、また二人で話ができると思うと堪らなく嬉しいのだ。
「私も東堂くんと同じ――」
言葉が詰まり喉から出てこない代わりに、私の手を握る一回り大きいあたたかいその手を、返事代わりに震える指先でキュッと握り返した。一度だけ頷くと、東堂くんは気持ちを汲み取ってくれたようだ。
「そうか!よかった…、よかった…!」
そう何度も繰り返して東堂くんは私の手をより強く握り返してきた。
「…東堂くん、本当に私なんかでいいの?」
「汐見…、汐見琴音」
「は、はい!」
「“私なんか”だなんて言うな!もっと堂々としろ、自信を持て!俺が好きなのは他でもないお前なのだから。そして、今すぐじゃなくてもいいから俺にも自信を持たせてくれ。…つまりは、その、お前からもだな、俺に、気持ちを……」
口籠る東堂くんに私が肯定の意味で控えめに頷くと、彼は照れくさそうにはにかんだ。気取っているあのいつもの感じではなく、その顔は年相応の青年らしいはにかんだ表情。心が揺さぶられて仕方ない。
東堂くんはおもむろに自分のカチューシャを片手ではずすと、私の頭に器用に付けてくれた。
前髪がさらりと片目にかかった彼は、大人っぽさが増す。これから東堂くんの今まで見たことない表情や一面をたくさん間近で見ることができると思うと、楽しみだったりドキドキだったりで心臓がもたなそうだ。
「思った通りだ。短い髪にカチューシャがよく似合う」
夕焼けが二人を包み込んだこの空間。時間が止まればいいのにと願うほど心が満ち足りていく。忘れられない日になるであろう今日の事、この先の未来で何度も思い出すだろう。橙に染まるカチューシャは、今、私が世界で一番幸せ者だって証だ。
end.