短編・中編
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ドラマチック・プライズ
-2- ※東堂視点
蒸し暑くなってきた梅雨後半の、珍しい晴れ間。
初夏のような天気に恵まれた一週間の始まりは気分がいい。
天候が関係ないオールウェザースポーツと言われているロードレス…故に部活の練習は雨でも行われるし、雨の道に慣れておくことは必要不可欠。だが、やはり晴れの方がスピードも出るし走っていて気持ちが上がるのは事実だ。
走りを気分で左右されるものじゃないと分かりつつも、心地よい風に太陽の光を受けた木々――晴れた山道は、最高だ。部活の時間が待ち遠しかった。
午前授業もあっと言う間に終わり、昼休みになると俺は決まって食堂でバランスを考慮した食事を摂る。
クラスの奴らと一緒だったり、フク達と一緒だったりとまぁその日によるのだが、巻ちゃんに電話をかける日は一人で食べていた。 ちなみに女子と二人きりで食べるなどは…絶対に禁じている。
ファンクラブの女子達にどこで見られているかも分からないし、そんな現場を見られ俺を巡って紛争が勃発しても困るからな。それに食堂では目立ちすぎる。最近、ランチに誘いたい女子が一人いるのだが、そこは我慢だ。彼女にも迷惑がかかってしまうからな。
毎日来る食堂で座る場所はたいてい決まっていた。空いていれば、窓際の日当たりのいい席だ。今日のメニューは鰻の小丼ぶり、ミートスパゲティ、サラダ、グレープフルーツ。
放課後の部活に備えて主に炭水化物をメインに摂るのがお決まりである。ちなみに箸だとパスタも食べやすいので便利だ。マンモス校である箱学の食堂は広く清潔感もある。メニューも充実している上に味もいいのが嬉しい。
実家が旅館で、美味い料理を食べ慣れてる俺が言うのだから間違いない。昼食を半分ぐらいまで食べたところで、お茶を飲みつつ、巻ちゃんに電話をかけた。3コールで出てくれたので今日はかなり早い方だ。
「元気か巻ちゃん!ちゃんとバランスよく食べてるか!?」
意気揚々と近況を話す俺のテンションとは真逆に巻ちゃんの返事はかったるそうで、相槌は「おー」とか「ショ」とか適当過ぎるが、うむ、これもいつも通りだ。常に競い合ったライバルに対してインハイまでの間コンディションや体調を確認するのは、それだけ俺が巻ちゃんとの対決を楽しみにしているってことだ。しかし何故だか巻ちゃんのテンションは変わらない。寝起きなのか?午前授業、居眠りしてたのか巻ちゃん?
食べ終わる頃にだいたい巻ちゃんの方から「もう切るッショ」と電話を切られることが多いのだが、今日は違った。俺から電話を切らざるを得ない状況を目の当たりにしたからだ。
「……………」
『東堂?』
信じられない光景を偶然にも目の当たりにしてしまった。絶句している俺を不思議に思い、怪訝そうな声が電話の向こうから聞こえた。
「巻ちゃんスマン急用だ、またかけ直す」
『いや別にかけ直さなくていい――』
最後の“ショ”という語尾を聞かずに俺は電話を切って、残ったランチをかっこみ気味に食べ終え、食堂を後にした。食べてすぐ走るなんて腹が痛くなるぞと、頭で分かりつつも俺は走り出していた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
俺が窓際の席から見た“何か”とは、中庭で起きている。天気がいいので広い中庭で昼食を摂っている生徒もチラホラいる中、大きな木の木陰に隠れた二人の姿を俺は見逃さなかった。
なんだ、汐見と真波か。
いっしょに昼食を摂っているのか、珍しい。
その時点嫌な予感はしていたが、俺の想像を上回った行動を二人は起こした。汐見は人気を気にしてか周囲をキョロキョロしつつ真波の手を引いて木の裏側へ移動すると、その場にペタンと座り込んだ。
そして、その汐見の太股の上に寝っ転がった真波の頭が乗っかった。
ひ…、……ひ…、ひざまくら――ッッッ!
持ってる箸を落っことしそうになった数分前の事を思い出し、俺の足は中庭へ急ぐ。
――な、何を、何をしてるんだ二人で。隠れて、そんなトコで。
走っている途中で何人かファンクラブの女子に挨拶されたので俺は手だけ挙げてその瞬間は優雅に笑ってみせた。内心、焦りで心臓もバクバクしているというのに。二人が何をしているのかあの状況を確かめなければならない。
つい最近、俺は汐見への恋心を自覚したばかりなのだから。一番最悪な結末を想定し、それがもし当たっているとしたら、俺は想いを告げる前に玉砕することになる。頼む、嫌な予感よ当たらないでくれと、神に…山の神に祈りながら……って、山神は俺なんだけども。
ゼェゼェと肩で息をしながら俺はようやく中庭に辿り着いた。
「っ何を…して、いる……」
走ってきた俺が突然現れたので、汐見は驚いて目を見開いていた。大きな木の裏側。確かに人目が着かない場所だから、まず誰かに見つかったことに驚き、そしてそれが俺だということにさらに驚いている様子だった。俺の声でピクリとも起きず、真波は汐見の柔らかそうな太股に頭を乗せて仰向けになって気持ちよさそうに眠っていた。
俺に見つかったことで慌て出す汐見の頬はほんのり赤く染まっていた。何故照れているのか、もはや聞きたくもなかったがここまで来たからには洗い浚い聞かなければならない。
本当は、聞くのが正直怖い。俺が想定した最悪な結末が現実ならば、聞くに堪えない。都合のいい事だけ聞こえる耳ならばよかったのに、俺の聴力はバッチリだ。
「付き合っているのか?真波と」
走ってきたせいもあるが妙な焦りで汗が一向に引かないまま、俺が出来るだけ冷静を装って質問すると、汐見は首を横に振った。“違うよ”と、寝ている真波に気遣ってか小さな声で否定した。俺が説明を促す前に汐見は空気を読んでかその小さな声のまま説明をしはじめた。
「あのね、真波くんと“賭け”をしたの……」
本人も何故今、こんな状況になってしまったのかと慌てている感じが伝わってきた。どうやら、“付き合っている”という言葉は嘘じゃなさそうだ。
彼女が話した内容を要約すると――
先週は部のインハイメンバーに取材が数件来ていた。これまで真波は遅刻して取材に間に合ったことはなかったが、正式にインハイメンバーに決定した今、マネージャーの汐見としてはちゃんと遅刻せずに部活に来て、取材も受けて欲しかったそうだ。いつも遅刻してばかりの真波を見兼ねて、せめて一週間だけでも遅刻せずに来て欲しいと言ったのだが、本人から「それは保証できないなぁ」と軽く流されてしまったらしい。それでも汐見は引き下がらず、彼女からある“賭け”を提案し、それに対して真波から出された要望というのが『膝枕』だったそうだ。
確かに先週は真波は珍しく一日も遅刻せずに部活開始時間にやって来て取材にもバッチリ間に合っていた。一週間続けて遅刻しない真波は入部以来初めてだったから、雪でも降るんじゃないかと部員達は口々に好き勝手言い、驚いていた。俺もその内の一人だ。
『一週間、遅刻せず来れたら真波の要望に可能な限り応える。一回でも遅刻したら要望は飲まない』――という賭け。
おとなしそうな汐見からまさかそんな賭けの提案がされようとは、その物珍しさに真波が乗ったのも無理はない。そして真波からの要望は、ギリギリ応えられる程度のもの。汐見が断って別の要望をと言えばそうしたのかもしれないが、俺が予想するに真波に絆されたのだ。『オレ、すごーく頑張ったんだけどなァ』…なんて、無駄に甘えたような声で軽くほざく真波が容易に目に浮かぶ。
ギリ、と奥歯を噛み締め、俺は溜息をつく汐見を見下ろした。まさか背景にこんな経緯があったとは。二人が付き合っていない事実には安堵したが、目の前の状況は決して許せるものではない。それは、俺が汐見 に好意を寄せているから…というだけではない。じょ、 女子が、好きでもない男に膝枕をするなど……!羨ましいから、腹の底から怒りの感情が煮えてるわけじゃあない。断じて違う、羨ましいとかじゃない。
羨ましくない、羨ましくない、羨ましくない!羨ましくなくなくない!
言い訳がましくも何度も心の中で繰り返してから俺は咳払いをひとつして、眠っている真波に近づいた。
「あっ、東堂くん、起こしちゃ――」
ダメ――、と慌てて声を立てた彼女を無視して俺は真波の頬をつねった。このぐらいじゃ起きないことは承知なので、次に鼻をギュムッと摘んだ。それでも起きなかったので額に強めのデコピンを3発食らわせたところで真波はようやく寝ぼけ声をあげて目を覚ました。
「…あれぇ?どうして東堂さんが?」
案の定、悪びれもなくふにゃりと気の抜けた笑い顔を見せたので俺はもう一発デコピンを食らわせてやった。アイタッ!と、額を抑えて真波は上半身を起こした。しばらく沈黙のまま俺と見つめ合って、そしてまたゆっくりと汐見の太股に頭を乗せようとしたので、俺は真波の腕を引っ張って今度こそ起こした。いつまでそうやって膝枕してもらうつもりだ。
図々しいにも程があるし、俺に見つかった時点でマズイ!とか思わないのか。
「真波、事情は汐見から聞いたぞ。何の褒美で膝枕なんてしてもらってるんだ?そもそも時間通りに部活に来るのは部員として当たり前の事だろう!」
「はは、ですよね。スンマセーン」
「汐見もくだらない提案をするな。真波を甘やかすんじゃない。取材に出て欲しかったとは言え、結局こいつの遅刻癖はこんな付け焼き刃じゃ意味がないだろう!」
「ごめんなさい…」
両成敗ということで同じトーンで怒鳴っているのに二人の謝り方にギャップがあったので、俺は真波の背中をバチンと強めに叩いておいた。
罰が悪そうに――そのわりにはヘラヘラと笑って――真波は再び軽く謝ってから、さっさとその場を立ち去ってしまった。授業ちゃんと出てない代わりにプリントで免除してもらっているので、それをやらなくちゃ~、…なんて、どうせやらないだろうに逃げの口上に使いやがって。
本当にお調子者の一年が入ってきたもんだ。ああ見えて、俺ほどではないがクライマーとしての素質はピカイチなので、性格の緩さと実力とのギャップには参る。
心地の良い風が頬を掠める。晴れ晴れした天気とは逆に俺の心は曇り模様だ。真波が立ち去った後、木陰の中で二人きりになり重い沈黙が流れた。反省して肩を落とし、何も言えず座ったまま俺の方に顔を向けられない汐見。少し、キツく怒鳴りすぎたか。だが俺は間違ったことは言ってないんだ、決して。
ビシッと忠告もしたことだし、このまま立ち去ってもよかった。
――ただ、眉をハの字にしてしょんぼりしているコイツを見ていると……ほっとくのが勿体ないような、ちょっかいを出したくなってしまう。最近、短く切ってすっかり俺好みになった汐見の髪がふわふわと風に揺れ、俺の心臓がドキドキと高鳴り始める。
俺の、こんな音など俺はつい最近知ったのだぞ。お前は知らないだろう、汐見 。クライムとはまったく違うが確かな高揚。お前の傍にいれば、俺は一挙一動、日に日に目が離せくなってるんだ。お調子者の後輩に嫉妬だってするぐらいに。
「俺は――、」
俺の声に反応して汐見はこちらを見上げた。自然と上目遣いになるその瞳に、吸い込まれそうだ。純粋無垢な視線。お前はきっといつか誰かに騙されるぞ。良心的な俺にさえ、狡い事をされようとしている。
「入部してから、遅刻など一度もしたことないぞ。真波には与えたのに、俺には褒美はないのか?」
ビシッと人差し指で差すと、汐見はポカンと口を開けた。
しまった、意図が伝わらなかったのかと俺は背中にドッと嫌な汗をかいた。ここで質問を返されて俺は正直、その要望を口に出す勇気まではない。『甘やかすんじゃない!』と叱っておいてこのチグハグな言動を怪訝に思われてドン引きされたら――告白をする前に、山神・終了のお知らせ…となる可能性も大。
10秒ぐらい経って――汐見の頬は徐々に上気しはじめ、朱に染まり出した。俺の言葉の意味に気づいたという合図。
そして視線をキョロキョロとさせて、ぽん、と自分の太股を軽く叩いた。
「よ、よかったらどうぞ」
意図が伝わったようだ。頭の中で、キタ!コレだ!ついに!と、心の中でガッツポーズし、万歳三唱する俺。
汐見の膝枕を、真波が体験して俺が経験しないのは不平等であるという言い分を罷り通させてもらう。どう考えたって俺の方が汐見を大切にしているし汐見の事を好いている。いわゆる、俺理論での結論だが。
傍に近づいて座り、俺は頭を彼女の太股に預けた。
や、やわらかい。予想以上の心地よさにリラックス…できるわけもなく、心臓がバクバクとうるさく今にも爆発しそうだ。木漏れ日から差し込む柔らかな日差しも、初夏の緑のにおいも、全部全部、感覚ねェ。ただただ、全神経が後頭部に集中しちまうし、目を開けると恥ずかしそうに伏し目がちに地面を見つめる 汐見と、ゆっくりと呼吸して上下する彼女の…胸。下から見上げるとなかなかのボリュームが…いや、ならん、ならんよ、これ以上まじまじと見たら邪なオーラが漏れちまう。
真波、あいつこんな状況でよくスヤスヤ眠れたものだ。奴の強靱な精神力にこの東堂尽八も恐れ入った。
本当に、汐見との賭けにのったのは興味本位だったのだろう。俺では眠るのは無理だ。緊張と興奮で安眠どころじゃあない。
「これも反省ついでの罰だと思って我慢してくれ」
どう考えても私欲だろ、と内心で自分にツッコミを入れた。
仰向けで自分の心臓の音がバレないからって余裕がかませるのだが、本当は口から心臓まるごと飛び出しそうだ。
反省ついでの罰…という逃げ道なんて嘘。俺が汐見に膝枕をしてもらいたいがための口実だ。
「さっきは怒鳴って悪かった。だが、お前は優しすぎるのだ、誰にでもな。つけ込まれないようもう少し自覚しておけ」
「うん。ありがとう東堂くん。これからは気をつけるね。もう心配されるような賭けはしないよ」
「そうか、わかればヨシ」
わかればヨシじゃねぇと、再び内心で自分にツッコミを入れた。今まさにつけ込んでんのは俺だろ。ひどい男だと思われてやしないか心配になるが――あと数分だけ、こうしていたい。
うとうと…なーんて、わざとらしく眠たくなるフリをしている俺の視界に、きょろきょろと辺りを見回す汐見の姿が写る。
落ち着きがない様子に俺が体勢はそのままで「どうした?」と尋ねると、汐見は目を泳がせて俺を見下ろした。
長い睫が顔に影を作っているのと、その困った表情に、ドキリとしてしまった。困った顔が可愛いだなんて、新しい癖に目覚めたらお前は責任とってくれるのか、などと意味の分からない感情がナゼマゼになる。
「も、もし今の状況を東堂ファンクラブの子たちに見られたらと思うと怖くて――」
「東堂様はこっちに来なかった?!」
「おかしいなぁ~中庭で見かけたと思ったんだけど…」
「いや、こっちで見たから間違いないわ!」
汐見の震えた声と重なって、すぐ後ろで複数のざわめく女子達の声が聞こえた。その瞬間、ビクッと彼女の肩が揺れた。
そしてその声はどんどんこちらに近づいてくるのが分かる。一歩、二歩……あと数歩のところまで来ている。
ここは大きな木の裏側――といっても、中庭からだと簡単に見つかってしまうような場所だった。ちょうど中庭からだと汐見が後ろ姿になり、俺は足しか見えてない図だ。カップルが昼下がりに膝枕してイチャイチャしてるだけに見えると思われるが、ファンクラブの女子達はわざわざこちらまで俺を捜しに来てしまった。 回り込んで覗き込まれればすぐにバレちまう位置だ。
「こっちの木の裏側ってまだ見てないわよね?こっちじゃない?」
ファンクラブの女子の一人が確信めいた事を言ってさらに近づいてくるのが、声の大きさで分かった。
こんな状況を見られて一番矢面に立たされ被害を被るのは汐見だ。
俺のファンに見つかっても穏便に済ませて欲しいと願うが、女子同士の場合、現実的にそうはいかないことを、姉がいる俺はよく分かっている。男でさえ嫉妬する生き物ならば、女はさらに上を行く嫉妬深い生き物だということ。
――仮に、俺が起きあがって膝枕だけでも回避できたとしても、人目がつかない場所で昼休みを一緒に過ごしているように見えるのは変わりない。結局、汐見に迷惑をかけてしまう。
俺の馬鹿野郎。くだらない私欲のためにコイツを巻き込んだ事、今更悔いてどうにかなるか。さっさと俺も真波と一緒に立ち去っていればこんな事にはならなかったはずだ。
どうする、どうする尽八。彼女に迷惑をかけないためには―――
――ふと、視線を彼女に移せば、青ざめた顔で「ごめん!」と謝った。直後、起こした行動は全く予想外なもので。
バサッという音と共に視界が暗転する。顔にかぶせられた、何か。空気が遮断されたみたいに。そしてくぐもった音。
『なんだ、ただのカップルだったわ。東堂様はいないみたい』
『しかしすごいイチャつき方ね。学校ってこと忘れてない…?』
ファンクラブの女子達の声が一瞬、近づいて遠のいていった。足音から、この場から立ち去ってくれたのだと解る。
そしてもう充分、足音が聞こえなくなった頃に、俺は顔にかぶせられていた“何か”から解放され、先程と同じ景色が目に飛び込んできた。先程より何倍も顔を紅潮させた汐見。目が潤んでいるのに気づいて、俺は上半身を起こした。汐見はすぐに俺から体を離し、三つ指ついてすかさず土下座をした。
「咄嗟の事とはいえごめんなさい!ごめんなさい東堂くん!忘れて!すぐ忘れて!私も忘れるから!」
そしてバッと顔を上げると、耳まで真っ赤にして、そりゃもうゆでダコみたいに真っ赤になって、汐見は立ち上がってそのまま走ってどこかへ行ってしまった。俺はその場で座ったまま追いかけることはできず、少し乱れた前髪を冷静に直す。
そんでもって、思考を巡らせた。今、何が起きたんだと。
チクタクチクタクと、時計の秒針が一周するまでには答えは出た。
ファンクラブの女子達に見つからないために、汐見は自分のスカートを上からかぶせて俺の顔を隠し、ピンチを回避したのだ。
たったほんの数秒だった出来事を思い返して、気が付けばこの美形から鼻血が出ていた。学校で鼻血を出すなど、後にも先にもこの日だけである。スリーピンもビューティーも、この日に限っては崩壊しちまった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
「――かくかくしかじかで、気が付いたら俺は好きな子のスカートの中に顔を突っ込んでいた。いや、突っ込んでいたというには語弊があるな。スカートをかぶせられていたんだ、顔に。彼女には『忘れて!』、と言われたが忘れられない日になってしまった。男なら絶対忘れるなんて無理だよな。そう思うだろ巻ちゃん!?」
『どうしたら告白前にそんな状況になるショ?』
「いや俺にも分からん」
淡々と告げると、少しの沈黙の後、一方的に電話を切られた。
今日も今日とて律儀に最後まで話を聞いてくれた巻ちゃんは相変わらずいい奴だ。しかも途中までわりと興味津々に聞いてたあたり、巻ちゃんも健全な男子高校生なのだなと思った。
予測不可能なハプニングというのは恋愛においてはいいスパイスとなり意中の相手との距離がぐっと縮まる…なんて聞くが、距離が縮まり過ぎた。スカートの中なんて距離がゼロに等しいじゃないか。
そして心の距離は逆に開いてしまった気がするが、気のせいか。気のせいだと思いたい。いくら何でも、この山神、ちゃんとした手順を踏んで近づいていきたかったのだが、起こってしまったことは仕方ない。
忘れろと言われたところで、忘れるなんて無理だ。きっと汐見だって忘れられないに違いない。
気まずさ故、今日は部活の時間もうまく顔を合わさず過ごす事が出来たが、明日からどんな顔して会えばいいのか、それが目前の問題だった。
-2- ※東堂視点
蒸し暑くなってきた梅雨後半の、珍しい晴れ間。
初夏のような天気に恵まれた一週間の始まりは気分がいい。
天候が関係ないオールウェザースポーツと言われているロードレス…故に部活の練習は雨でも行われるし、雨の道に慣れておくことは必要不可欠。だが、やはり晴れの方がスピードも出るし走っていて気持ちが上がるのは事実だ。
走りを気分で左右されるものじゃないと分かりつつも、心地よい風に太陽の光を受けた木々――晴れた山道は、最高だ。部活の時間が待ち遠しかった。
午前授業もあっと言う間に終わり、昼休みになると俺は決まって食堂でバランスを考慮した食事を摂る。
クラスの奴らと一緒だったり、フク達と一緒だったりとまぁその日によるのだが、巻ちゃんに電話をかける日は一人で食べていた。 ちなみに女子と二人きりで食べるなどは…絶対に禁じている。
ファンクラブの女子達にどこで見られているかも分からないし、そんな現場を見られ俺を巡って紛争が勃発しても困るからな。それに食堂では目立ちすぎる。最近、ランチに誘いたい女子が一人いるのだが、そこは我慢だ。彼女にも迷惑がかかってしまうからな。
毎日来る食堂で座る場所はたいてい決まっていた。空いていれば、窓際の日当たりのいい席だ。今日のメニューは鰻の小丼ぶり、ミートスパゲティ、サラダ、グレープフルーツ。
放課後の部活に備えて主に炭水化物をメインに摂るのがお決まりである。ちなみに箸だとパスタも食べやすいので便利だ。マンモス校である箱学の食堂は広く清潔感もある。メニューも充実している上に味もいいのが嬉しい。
実家が旅館で、美味い料理を食べ慣れてる俺が言うのだから間違いない。昼食を半分ぐらいまで食べたところで、お茶を飲みつつ、巻ちゃんに電話をかけた。3コールで出てくれたので今日はかなり早い方だ。
「元気か巻ちゃん!ちゃんとバランスよく食べてるか!?」
意気揚々と近況を話す俺のテンションとは真逆に巻ちゃんの返事はかったるそうで、相槌は「おー」とか「ショ」とか適当過ぎるが、うむ、これもいつも通りだ。常に競い合ったライバルに対してインハイまでの間コンディションや体調を確認するのは、それだけ俺が巻ちゃんとの対決を楽しみにしているってことだ。しかし何故だか巻ちゃんのテンションは変わらない。寝起きなのか?午前授業、居眠りしてたのか巻ちゃん?
食べ終わる頃にだいたい巻ちゃんの方から「もう切るッショ」と電話を切られることが多いのだが、今日は違った。俺から電話を切らざるを得ない状況を目の当たりにしたからだ。
「……………」
『東堂?』
信じられない光景を偶然にも目の当たりにしてしまった。絶句している俺を不思議に思い、怪訝そうな声が電話の向こうから聞こえた。
「巻ちゃんスマン急用だ、またかけ直す」
『いや別にかけ直さなくていい――』
最後の“ショ”という語尾を聞かずに俺は電話を切って、残ったランチをかっこみ気味に食べ終え、食堂を後にした。食べてすぐ走るなんて腹が痛くなるぞと、頭で分かりつつも俺は走り出していた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
俺が窓際の席から見た“何か”とは、中庭で起きている。天気がいいので広い中庭で昼食を摂っている生徒もチラホラいる中、大きな木の木陰に隠れた二人の姿を俺は見逃さなかった。
なんだ、汐見と真波か。
いっしょに昼食を摂っているのか、珍しい。
その時点嫌な予感はしていたが、俺の想像を上回った行動を二人は起こした。汐見は人気を気にしてか周囲をキョロキョロしつつ真波の手を引いて木の裏側へ移動すると、その場にペタンと座り込んだ。
そして、その汐見の太股の上に寝っ転がった真波の頭が乗っかった。
ひ…、……ひ…、ひざまくら――ッッッ!
持ってる箸を落っことしそうになった数分前の事を思い出し、俺の足は中庭へ急ぐ。
――な、何を、何をしてるんだ二人で。隠れて、そんなトコで。
走っている途中で何人かファンクラブの女子に挨拶されたので俺は手だけ挙げてその瞬間は優雅に笑ってみせた。内心、焦りで心臓もバクバクしているというのに。二人が何をしているのかあの状況を確かめなければならない。
つい最近、俺は汐見への恋心を自覚したばかりなのだから。一番最悪な結末を想定し、それがもし当たっているとしたら、俺は想いを告げる前に玉砕することになる。頼む、嫌な予感よ当たらないでくれと、神に…山の神に祈りながら……って、山神は俺なんだけども。
ゼェゼェと肩で息をしながら俺はようやく中庭に辿り着いた。
「っ何を…して、いる……」
走ってきた俺が突然現れたので、汐見は驚いて目を見開いていた。大きな木の裏側。確かに人目が着かない場所だから、まず誰かに見つかったことに驚き、そしてそれが俺だということにさらに驚いている様子だった。俺の声でピクリとも起きず、真波は汐見の柔らかそうな太股に頭を乗せて仰向けになって気持ちよさそうに眠っていた。
俺に見つかったことで慌て出す汐見の頬はほんのり赤く染まっていた。何故照れているのか、もはや聞きたくもなかったがここまで来たからには洗い浚い聞かなければならない。
本当は、聞くのが正直怖い。俺が想定した最悪な結末が現実ならば、聞くに堪えない。都合のいい事だけ聞こえる耳ならばよかったのに、俺の聴力はバッチリだ。
「付き合っているのか?真波と」
走ってきたせいもあるが妙な焦りで汗が一向に引かないまま、俺が出来るだけ冷静を装って質問すると、汐見は首を横に振った。“違うよ”と、寝ている真波に気遣ってか小さな声で否定した。俺が説明を促す前に汐見は空気を読んでかその小さな声のまま説明をしはじめた。
「あのね、真波くんと“賭け”をしたの……」
本人も何故今、こんな状況になってしまったのかと慌てている感じが伝わってきた。どうやら、“付き合っている”という言葉は嘘じゃなさそうだ。
彼女が話した内容を要約すると――
先週は部のインハイメンバーに取材が数件来ていた。これまで真波は遅刻して取材に間に合ったことはなかったが、正式にインハイメンバーに決定した今、マネージャーの汐見としてはちゃんと遅刻せずに部活に来て、取材も受けて欲しかったそうだ。いつも遅刻してばかりの真波を見兼ねて、せめて一週間だけでも遅刻せずに来て欲しいと言ったのだが、本人から「それは保証できないなぁ」と軽く流されてしまったらしい。それでも汐見は引き下がらず、彼女からある“賭け”を提案し、それに対して真波から出された要望というのが『膝枕』だったそうだ。
確かに先週は真波は珍しく一日も遅刻せずに部活開始時間にやって来て取材にもバッチリ間に合っていた。一週間続けて遅刻しない真波は入部以来初めてだったから、雪でも降るんじゃないかと部員達は口々に好き勝手言い、驚いていた。俺もその内の一人だ。
『一週間、遅刻せず来れたら真波の要望に可能な限り応える。一回でも遅刻したら要望は飲まない』――という賭け。
おとなしそうな汐見からまさかそんな賭けの提案がされようとは、その物珍しさに真波が乗ったのも無理はない。そして真波からの要望は、ギリギリ応えられる程度のもの。汐見が断って別の要望をと言えばそうしたのかもしれないが、俺が予想するに真波に絆されたのだ。『オレ、すごーく頑張ったんだけどなァ』…なんて、無駄に甘えたような声で軽くほざく真波が容易に目に浮かぶ。
ギリ、と奥歯を噛み締め、俺は溜息をつく汐見を見下ろした。まさか背景にこんな経緯があったとは。二人が付き合っていない事実には安堵したが、目の前の状況は決して許せるものではない。それは、俺が汐見 に好意を寄せているから…というだけではない。じょ、 女子が、好きでもない男に膝枕をするなど……!羨ましいから、腹の底から怒りの感情が煮えてるわけじゃあない。断じて違う、羨ましいとかじゃない。
羨ましくない、羨ましくない、羨ましくない!羨ましくなくなくない!
言い訳がましくも何度も心の中で繰り返してから俺は咳払いをひとつして、眠っている真波に近づいた。
「あっ、東堂くん、起こしちゃ――」
ダメ――、と慌てて声を立てた彼女を無視して俺は真波の頬をつねった。このぐらいじゃ起きないことは承知なので、次に鼻をギュムッと摘んだ。それでも起きなかったので額に強めのデコピンを3発食らわせたところで真波はようやく寝ぼけ声をあげて目を覚ました。
「…あれぇ?どうして東堂さんが?」
案の定、悪びれもなくふにゃりと気の抜けた笑い顔を見せたので俺はもう一発デコピンを食らわせてやった。アイタッ!と、額を抑えて真波は上半身を起こした。しばらく沈黙のまま俺と見つめ合って、そしてまたゆっくりと汐見の太股に頭を乗せようとしたので、俺は真波の腕を引っ張って今度こそ起こした。いつまでそうやって膝枕してもらうつもりだ。
図々しいにも程があるし、俺に見つかった時点でマズイ!とか思わないのか。
「真波、事情は汐見から聞いたぞ。何の褒美で膝枕なんてしてもらってるんだ?そもそも時間通りに部活に来るのは部員として当たり前の事だろう!」
「はは、ですよね。スンマセーン」
「汐見もくだらない提案をするな。真波を甘やかすんじゃない。取材に出て欲しかったとは言え、結局こいつの遅刻癖はこんな付け焼き刃じゃ意味がないだろう!」
「ごめんなさい…」
両成敗ということで同じトーンで怒鳴っているのに二人の謝り方にギャップがあったので、俺は真波の背中をバチンと強めに叩いておいた。
罰が悪そうに――そのわりにはヘラヘラと笑って――真波は再び軽く謝ってから、さっさとその場を立ち去ってしまった。授業ちゃんと出てない代わりにプリントで免除してもらっているので、それをやらなくちゃ~、…なんて、どうせやらないだろうに逃げの口上に使いやがって。
本当にお調子者の一年が入ってきたもんだ。ああ見えて、俺ほどではないがクライマーとしての素質はピカイチなので、性格の緩さと実力とのギャップには参る。
心地の良い風が頬を掠める。晴れ晴れした天気とは逆に俺の心は曇り模様だ。真波が立ち去った後、木陰の中で二人きりになり重い沈黙が流れた。反省して肩を落とし、何も言えず座ったまま俺の方に顔を向けられない汐見。少し、キツく怒鳴りすぎたか。だが俺は間違ったことは言ってないんだ、決して。
ビシッと忠告もしたことだし、このまま立ち去ってもよかった。
――ただ、眉をハの字にしてしょんぼりしているコイツを見ていると……ほっとくのが勿体ないような、ちょっかいを出したくなってしまう。最近、短く切ってすっかり俺好みになった汐見の髪がふわふわと風に揺れ、俺の心臓がドキドキと高鳴り始める。
俺の、こんな音など俺はつい最近知ったのだぞ。お前は知らないだろう、汐見 。クライムとはまったく違うが確かな高揚。お前の傍にいれば、俺は一挙一動、日に日に目が離せくなってるんだ。お調子者の後輩に嫉妬だってするぐらいに。
「俺は――、」
俺の声に反応して汐見はこちらを見上げた。自然と上目遣いになるその瞳に、吸い込まれそうだ。純粋無垢な視線。お前はきっといつか誰かに騙されるぞ。良心的な俺にさえ、狡い事をされようとしている。
「入部してから、遅刻など一度もしたことないぞ。真波には与えたのに、俺には褒美はないのか?」
ビシッと人差し指で差すと、汐見はポカンと口を開けた。
しまった、意図が伝わらなかったのかと俺は背中にドッと嫌な汗をかいた。ここで質問を返されて俺は正直、その要望を口に出す勇気まではない。『甘やかすんじゃない!』と叱っておいてこのチグハグな言動を怪訝に思われてドン引きされたら――告白をする前に、山神・終了のお知らせ…となる可能性も大。
10秒ぐらい経って――汐見の頬は徐々に上気しはじめ、朱に染まり出した。俺の言葉の意味に気づいたという合図。
そして視線をキョロキョロとさせて、ぽん、と自分の太股を軽く叩いた。
「よ、よかったらどうぞ」
意図が伝わったようだ。頭の中で、キタ!コレだ!ついに!と、心の中でガッツポーズし、万歳三唱する俺。
汐見の膝枕を、真波が体験して俺が経験しないのは不平等であるという言い分を罷り通させてもらう。どう考えたって俺の方が汐見を大切にしているし汐見の事を好いている。いわゆる、俺理論での結論だが。
傍に近づいて座り、俺は頭を彼女の太股に預けた。
や、やわらかい。予想以上の心地よさにリラックス…できるわけもなく、心臓がバクバクとうるさく今にも爆発しそうだ。木漏れ日から差し込む柔らかな日差しも、初夏の緑のにおいも、全部全部、感覚ねェ。ただただ、全神経が後頭部に集中しちまうし、目を開けると恥ずかしそうに伏し目がちに地面を見つめる 汐見と、ゆっくりと呼吸して上下する彼女の…胸。下から見上げるとなかなかのボリュームが…いや、ならん、ならんよ、これ以上まじまじと見たら邪なオーラが漏れちまう。
真波、あいつこんな状況でよくスヤスヤ眠れたものだ。奴の強靱な精神力にこの東堂尽八も恐れ入った。
本当に、汐見との賭けにのったのは興味本位だったのだろう。俺では眠るのは無理だ。緊張と興奮で安眠どころじゃあない。
「これも反省ついでの罰だと思って我慢してくれ」
どう考えても私欲だろ、と内心で自分にツッコミを入れた。
仰向けで自分の心臓の音がバレないからって余裕がかませるのだが、本当は口から心臓まるごと飛び出しそうだ。
反省ついでの罰…という逃げ道なんて嘘。俺が汐見に膝枕をしてもらいたいがための口実だ。
「さっきは怒鳴って悪かった。だが、お前は優しすぎるのだ、誰にでもな。つけ込まれないようもう少し自覚しておけ」
「うん。ありがとう東堂くん。これからは気をつけるね。もう心配されるような賭けはしないよ」
「そうか、わかればヨシ」
わかればヨシじゃねぇと、再び内心で自分にツッコミを入れた。今まさにつけ込んでんのは俺だろ。ひどい男だと思われてやしないか心配になるが――あと数分だけ、こうしていたい。
うとうと…なーんて、わざとらしく眠たくなるフリをしている俺の視界に、きょろきょろと辺りを見回す汐見の姿が写る。
落ち着きがない様子に俺が体勢はそのままで「どうした?」と尋ねると、汐見は目を泳がせて俺を見下ろした。
長い睫が顔に影を作っているのと、その困った表情に、ドキリとしてしまった。困った顔が可愛いだなんて、新しい癖に目覚めたらお前は責任とってくれるのか、などと意味の分からない感情がナゼマゼになる。
「も、もし今の状況を東堂ファンクラブの子たちに見られたらと思うと怖くて――」
「東堂様はこっちに来なかった?!」
「おかしいなぁ~中庭で見かけたと思ったんだけど…」
「いや、こっちで見たから間違いないわ!」
汐見の震えた声と重なって、すぐ後ろで複数のざわめく女子達の声が聞こえた。その瞬間、ビクッと彼女の肩が揺れた。
そしてその声はどんどんこちらに近づいてくるのが分かる。一歩、二歩……あと数歩のところまで来ている。
ここは大きな木の裏側――といっても、中庭からだと簡単に見つかってしまうような場所だった。ちょうど中庭からだと汐見が後ろ姿になり、俺は足しか見えてない図だ。カップルが昼下がりに膝枕してイチャイチャしてるだけに見えると思われるが、ファンクラブの女子達はわざわざこちらまで俺を捜しに来てしまった。 回り込んで覗き込まれればすぐにバレちまう位置だ。
「こっちの木の裏側ってまだ見てないわよね?こっちじゃない?」
ファンクラブの女子の一人が確信めいた事を言ってさらに近づいてくるのが、声の大きさで分かった。
こんな状況を見られて一番矢面に立たされ被害を被るのは汐見だ。
俺のファンに見つかっても穏便に済ませて欲しいと願うが、女子同士の場合、現実的にそうはいかないことを、姉がいる俺はよく分かっている。男でさえ嫉妬する生き物ならば、女はさらに上を行く嫉妬深い生き物だということ。
――仮に、俺が起きあがって膝枕だけでも回避できたとしても、人目がつかない場所で昼休みを一緒に過ごしているように見えるのは変わりない。結局、汐見に迷惑をかけてしまう。
俺の馬鹿野郎。くだらない私欲のためにコイツを巻き込んだ事、今更悔いてどうにかなるか。さっさと俺も真波と一緒に立ち去っていればこんな事にはならなかったはずだ。
どうする、どうする尽八。彼女に迷惑をかけないためには―――
――ふと、視線を彼女に移せば、青ざめた顔で「ごめん!」と謝った。直後、起こした行動は全く予想外なもので。
バサッという音と共に視界が暗転する。顔にかぶせられた、何か。空気が遮断されたみたいに。そしてくぐもった音。
『なんだ、ただのカップルだったわ。東堂様はいないみたい』
『しかしすごいイチャつき方ね。学校ってこと忘れてない…?』
ファンクラブの女子達の声が一瞬、近づいて遠のいていった。足音から、この場から立ち去ってくれたのだと解る。
そしてもう充分、足音が聞こえなくなった頃に、俺は顔にかぶせられていた“何か”から解放され、先程と同じ景色が目に飛び込んできた。先程より何倍も顔を紅潮させた汐見。目が潤んでいるのに気づいて、俺は上半身を起こした。汐見はすぐに俺から体を離し、三つ指ついてすかさず土下座をした。
「咄嗟の事とはいえごめんなさい!ごめんなさい東堂くん!忘れて!すぐ忘れて!私も忘れるから!」
そしてバッと顔を上げると、耳まで真っ赤にして、そりゃもうゆでダコみたいに真っ赤になって、汐見は立ち上がってそのまま走ってどこかへ行ってしまった。俺はその場で座ったまま追いかけることはできず、少し乱れた前髪を冷静に直す。
そんでもって、思考を巡らせた。今、何が起きたんだと。
チクタクチクタクと、時計の秒針が一周するまでには答えは出た。
ファンクラブの女子達に見つからないために、汐見は自分のスカートを上からかぶせて俺の顔を隠し、ピンチを回避したのだ。
たったほんの数秒だった出来事を思い返して、気が付けばこの美形から鼻血が出ていた。学校で鼻血を出すなど、後にも先にもこの日だけである。スリーピンもビューティーも、この日に限っては崩壊しちまった。
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・・・・・・
「――かくかくしかじかで、気が付いたら俺は好きな子のスカートの中に顔を突っ込んでいた。いや、突っ込んでいたというには語弊があるな。スカートをかぶせられていたんだ、顔に。彼女には『忘れて!』、と言われたが忘れられない日になってしまった。男なら絶対忘れるなんて無理だよな。そう思うだろ巻ちゃん!?」
『どうしたら告白前にそんな状況になるショ?』
「いや俺にも分からん」
淡々と告げると、少しの沈黙の後、一方的に電話を切られた。
今日も今日とて律儀に最後まで話を聞いてくれた巻ちゃんは相変わらずいい奴だ。しかも途中までわりと興味津々に聞いてたあたり、巻ちゃんも健全な男子高校生なのだなと思った。
予測不可能なハプニングというのは恋愛においてはいいスパイスとなり意中の相手との距離がぐっと縮まる…なんて聞くが、距離が縮まり過ぎた。スカートの中なんて距離がゼロに等しいじゃないか。
そして心の距離は逆に開いてしまった気がするが、気のせいか。気のせいだと思いたい。いくら何でも、この山神、ちゃんとした手順を踏んで近づいていきたかったのだが、起こってしまったことは仕方ない。
忘れろと言われたところで、忘れるなんて無理だ。きっと汐見だって忘れられないに違いない。
気まずさ故、今日は部活の時間もうまく顔を合わさず過ごす事が出来たが、明日からどんな顔して会えばいいのか、それが目前の問題だった。