短編・中編
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付き合ってると言いたいが!?
ローラー台の音が忙しなく響く部室内、部員達は各々のメニューに順じ、今日もハードな練習をこなしていた。
七月下旬――本来なら夏休みを満喫するところだが、全国一の部員数を誇りインターハイでは必ず常勝する箱根学園自転車競技部には、そのような悠長な休みなどは存在しない。
インハイを目前ということもあって、いつも以上に集中した練習風景が目の前に映っていた。しかし、さすがに夏は暑い。
学校周辺コースから戻ると後輩マネージャーからスポーツドリンクとタオルを渡され、喉を潤してしばしの休憩だ。必ず練習から戻ると誰かしら女子マネが俺に駆け寄って来るのは、気のせいではないようだ。礼を言って受け取れば後輩は頬が赤らめて去って行った。
…美形過ぎるというのも、罪なものだ。すまんな、女子マネ達。熱い視線を送られようともそちらに見向きは出来んのだ。何せ、俺の心は既に別の女にあるからな。
タオルで顔の汗を拭い、盗み見るように忙しなく働く彼女の背中に視線を向けた。いかん、目で追うのが癖になってる。
汐見琴音と想いが通じ合あってから、三週間が経とうとしていた。
彼女が髪をバッサリと切り、俺好みなショートカットしたことがキッカケで自身の気持ちを自覚し、紆余曲折を経て告白をして結ばれた。好きな人が自分の事を好いてくれているという現実を、改めて奇跡的に感じている。部活中も時々、明るく微笑む琴音と目が合えば視界が鮮やかさを増す。こんなにも変わるのか、見える景色が。
…初恋は小学生の頃、よく旅館に遊びに来ていた仲居さんの娘だった。淡い恋心を思い出すも、年を重ねていくにつれてオシャレという趣味に没頭してしまい、初心な気持ちは自然に消えていった。幼い頃なんてそんなものだ。途端、興味がコロコロと変わる。さすがに高校生ともなると初恋のそれとは違う。男女の仲を意識して、手を繋げば心臓が跳ねてしまうような――汐見琴音は俺にとって初めての恋人だった。
天井から吊るされたアイアンバーにかけてある洗濯物を取ろうと彼女が脚立を床に置こうとした時、部内で最も高身長な葦木場が近づいた。二人の会話はここから聞こえないが、『手伝いましょうか?』と尋ねているようだ。琴音が軽く会釈して頷いた後、信じられない光景が飛び込んできた。
葦木場は彼女の後ろに回りこむと、脇の下に手を通し、ひょいと高く持ち上げた。
……ん?
ンなァァァーーーーッ!?
危うく立ち上がって美形が崩壊するぐらいの大声が出てしまうところだった。瞬間的に自制心が働き留まったが、危なかった。
周囲からもどよめきが起こり、黒田がすかさずツッコミを入れたおかげで琴音はゆっくりと降ろされる。何で持ち上げてんだ!と、目撃した誰もが同じ事を思っただろう。
「お前が取ればいいだろ!どこ手伝ってんだ、このド天然!」
「え、あ…そうだった。す、すいません、汐見先輩…!ユキちゃん早く言ってよ」
「持ち上げるなんて誰も想像してねーだろ!琴音さん、ダイジョブすか!?」
「あ、う、うん、びっくりしたけど…」
正論に対してちゃんと謝るものの、どこか的外れな返答をしている葦木場に、琴音は両手の平を向けて苦笑していた。心なしか顔が紅潮しているのは驚いたせいだろう。
自分の恋人が他の男に際どい箇所を触れられ、面白くない場面を冷静なフリをしてやりすごすのはなかなかの苦行だ。
周囲からは笑い声が漏れ聞こえ、その中にとある部員…同学年の藤原が不要な一言を放った。
「ハハッ!おいおい、お前ら付き合ってんのかァ?」
慌てて二人共否定していたが、部員達はからかうように笑っていた。や、全然笑えん。余計な事を言ってくれるな、藤原よ。
付き合ってるのは、俺だ!――と、言いたい!言いたいに決まっている!だがそれは叶わない。ぐっと喉から出そうになる声を抑え、なるべく並ぶ二人を見ないように俯いた。
堪えねばならない。何故ならば、同学年で部活も同じ、現状、部員とマネージャーという関係で恋仲になった俺と琴音の“約束”があるからだ。
□ □ □
其の一、交際していることは他言無用。
疑われても否定すること。これは言わずもがな、東堂尽八ファンクラブに波風を立てないようにして、琴音を厄介事から守る為だ。ファンクラブ以外にも俺に気がある女子は多いし、嫉妬に囚われた奴は何をするかわからない。いざとなれば俺が守ればいいだろうと公言することも考えたが、四六時中一緒に居れるわけじゃない。女の嫉妬は怖いというのは身内に姉が居るのでよく理解しているつもりだ。
其の二、二人きり以外の時は“苗字”で呼ぶこと。
これも、特別な関係を悟られない為だ。クラスメイトでも部活のマネージャーでも、俺は女子を苗字で呼んでいる。琴音のことも付き合う前は「汐見」と呼んでいた。女子に対しては“さん付け”をして呼ぶことがほとんどだが、フクの幼馴染だからか不思議と親近感が沸き、徐々に…いつの間にか呼び捨てにしていた。今考えたら、あの時から自分の中で他の女子と差別化でもしたかったのか、無意識に。
――以上の約束により、とにかく卒業するまでは秘密裏に交際すると、二人で決めた。
初めての恋人なのに、手を繋いで駅まで送ることも、一緒に学食を食べることも叶わず、教科書の貸し借りも出来ず、清く正しい交換日記でさえ…!同じ学校で一緒に過ごせるのも来年の卒業までだと言うのに、惜しいことだ。俺が美形である故に、彼女に迷惑をかけてしまっているなんて。
電話で約束を決めた後、俺が申し訳なさそうな口調になると、琴音はクスクスと小さく笑っていた。
でもって、『こっそりでも、尽八くんの彼女でいられることが幸せだから』と、告げるのだ。
……何と健気な!電波を伝って会いに行ってすぐに抱きしめたかった、マジで。好きな子にそんな風に言ってもらえて、顔が熱くなっていく俺自身、年相応の男子なのだと気づかされる。
「極秘任務だね」
「そう…、ミッション名は“コード山神”だ!」
「ふふっ、尽八くんらしい」
「なかなかいいだろう?……しかし、寂しくはないか?ホントはもっと堂々と――」
「大丈夫だよ?今、こうして電話してるのだって夢みたいなんだから」
声色から察するに、嘘をついているようではないようだ。逆に、それが強がりでなく本音なのだから参った。覚悟が出来てるというか、妙な逞しさに心臓が早鐘を打つ。
携帯のスピーカーから聞こえる少し眠たげなやわらかな声、パジャマの衣擦れの音、笑うと漏れる吐息、全部甘く聴こえて毎度電話を切るタイミングを躊躇ってしまう。眠る前の、夜の通話。どちらから切ろうかと迷い、名残惜しく二人して沈黙する時間さえ愛おしい。全てが新鮮でこそばゆく、ふわふわと浮いてるみたいで落ち着かない気分が続いた。
□ □ □
それからというもの、約束事を守り続け、本当に誰からも交際を疑われないまま日々が過ぎて行った。ならばコード山神の計画通りではないか!と喜んでいいところだが、現実は違う。
俺とは疑われないのに、琴音は事あるごとに他の奴とは交際を疑われるのだ。つい最近、葦木場に体を持ち上げられ部員達からからかわれたのは記憶に新しい。
父親が営む整骨院の客が野菜をたくさん贈ってきたらしく、食べきれないからとキャベツを新開に持って来ていた。『ウサ吉くんにどうぞ!』と渡せば、新開はウサ吉の小屋まで琴音を誘い連れ立って行く……のを見て、周囲の部員がザワつきはじめる。
オーバーワーク気味の荒北のマッサージをした後、その礼にとベプシを持って奴は琴音に渡していた。荒北が特定の女子に何かを奢るなんて様子はこれまで見たことがない。そもそも女子マネに怖がられてるせいで近づかれてないしな……っていうのを見て、やはり周囲の部員がザワザワしていた。
幼馴染のフクと琴音は、部活終わりに英語の課題を互いに確認し合っていた。それはいいのだが、肩を並べて座る二人の距離があまりにも近い為、周囲から注目が集まる。幼い頃からの知り合いだからかパーソナルスペースの感覚にバグが生じてる。『やっぱ福富さんが本命か…!』と、これまた周囲の部員が――以下略。
まるで、他の奴らと琴音のフラグがバンバン立っているようではないか!
苛々を振り払うように山道を登ったが、コンディションがよくない。そもそもイラつきながら山を登るなんてどうかしている。雑念に負けぬよう、学校までの下りと平坦道は冷静を取り戻すように気を引き締めてペダルを回す。――しかし、予期せぬ事態は起こるものだ。
部室に戻ると、長椅子に座って部誌を書いている琴音に真波が少しずつ近づく姿が目に飛び込んできた。付き合う以前、こいつが彼女に膝枕を強要した悪夢が過りクールダウンの意味もなく頭に血が上る。口が出るより早く、咄嗟に真波を後ろから羽交い絞めにしていた。
「真波ッ!一度ならず二度までも!お前だけはフラグを立てるんじゃない!」
「いててっ!東堂さん!?何の話ですかぁ?」
「知らん振りをするな!」
揉めてる様子に慌てて立ち上がり、琴音は俺たちの間に割って入った。危ないぞ。こいつを野放しにしたら、お前がまたどんな目に合うか解らない。
「け、ケンカ…っ!?ダメだよケンカは!」
「琴音さーん、助けてくださぁい。なんか東堂さんが誤解してるみたいで……」
「汐見、近づくな。後輩指導中だ!」
「オレ何もしてないですよね?」
「これからする気だろう!?」
「二人共!インハイ前に怪我したら危な――」
両腕をバタバタさせながら、俺からすり抜けようと振り上げた真波の手が、目前のぽよんとしたものをTシャツ越しに掴んでいた。それは俺の恋人の、胸だった。
おっ――、
俺もまだ!触ったことねーぞバカヤロウッ!!!!
唖然の事態に三者とも動きが止まり、真波の指先がピクリと動いたところで琴音の短い悲鳴が鼓膜を震わせた。反射的にすぐ手を離し、謝る真波。顔を真っ赤にしてしゃがむ彼女に、胸中が痛みだす。
そんな顔をするのは俺に対してだけにして欲しい。そして事故とは言え…っていうか俺のせいで、自分より先に恋人の胸を触られてしまいショックが隠せない。追い打ちに、目撃していた部員からは『今度は“真波”とか!?』と、フラグを立てるひそひそ声がする。何故こうなるんだ……ッ!!
気恥ずかしさに耐えかねた彼女は部室の外へ出て行ってしまい、取り残された俺はとりあえず真波を睨んでおいた。
付き合ってるって言いたい。言っちまいたい。
汐見琴音は東堂尽八の恋人なのだと、知らしめたい。
独占欲が勝って公言してしまうのは容易い。しかし、それでは二人で決めた約束事を破り、彼女の優しさを無下にしたことになる。
部内から噂がファンクラブにも伝わってしまっては、残りの学園生活、琴音が穏やかに過ごせるとも限らない。
交際宣言がじわじわと鉛のように重く喉につかえている。
正直、俺が女子にモテすぎてお前をやきもきさせるとばかり考えていたが、これでは俺ばかりが――
考えがまとまらないうちに、俺は琴音が向かったと思われる場所へ歩き出した。走れば後を追ったと勘付かれる……こんな時でさえ、外野の目を気にしなければならないなんて、コード山神はこうも難易度が高いものかと辟易した。
・・・
・・・・・
・・・・・・
古びたパーツやホイールが保管されている旧備品倉庫。ほとんど物置になっているその場所には、用事がない限り誰も近づかないしひと気もない。
おそらく其処に居るだろうと、辺りを見渡し誰にも見られてない事を確認して扉を開けると、予想通りだった。後ろ手で扉を閉めると琴音が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「お、追ってきて大丈夫…?」
「ああ、誰にも見られていない」
「そっか…」
彼女は安堵の息をついて、胸を撫でおろした。保管しているというより雑に置かれただけの備品たちと、埃っぽいこの空間。
久々に二人きりになれるシチュエーションとしてはロマンが欠けるが、ここならば誰も来ないだろう。
「さっきは、すまない。俺のせいだ。…以前、真波に付け入られて膝枕をしてやったことがあっただろう?それを思い出して、また奴がお前に迷惑をかけるのかと疑ってしまったんだ。いかんな、疑心暗鬼になっては…」
ハァと溜息をついてドアに寄り掛かると、俺はここ数日で目の当たりにした数々の交際フラグの話をし始めた。その都度、独占欲で胸が締め付けられそうになるという事も、正直に伝えた。
琴音は『大袈裟だよ。からかわれてるだけ』と謙遜するが、決してそうじゃない。ヒソヒソと勝手に噂を立てようとする部員達は、お前をただのマネージャーでなく“交際の対象”として見てるってことだ。
琴音は自分の魅力を理解していない。仕事を真面目にこなし、皆を賢明にサポートする姿に胸を打たれる。屈託なく笑えば可愛らしく、時々のドジは愛嬌となる。誰がお前をほっとくと言うのだ。
逆に、俺はモテる割には本気の女子の告白は数える程度しか受けたことがない。琴音と付き合うまでは『ロードが恋人』だと、高校のうちはそれでいい思っていた。どこか一線を引いていたのが、勘付かれていたからだろう。
「付き合ってると言いたいが…、言いたい…、言いてェ…、言えねェ…、言いてェ…」
だんだんと小声になって項垂れ、ドアにもたれ掛かる両肩がズルズルと下がりしゃがみ込んだ。薄いレーシングパンツ越しに、ひんやりした床の温度が伝わる。倉庫横の大きな木の木陰の下に位置するこの場所は、夏の夕方でも割と涼しい。
「じ、尽八くん。卒業までのミッションだよ!」
「あぁ、そうか。そうだった…」
床に膝をついて屈み、俺の手を握って励ます琴音は変わらず優しい。誰にでも別け隔てなく与える。“それ”は俺だけのものには出来ないか?他の奴にはわざと冷たくしてもらえないか?
子供じみた我儘を口に出来るはずもなく、飲み込んだ。両想いになりさえすれば、不安や苦しさなど縁遠いものだと思っていたのに。
恋をすると、知れば知る程、自分の醜い感情と相見えることになるとは。
「私がぼんやりしてるせいで、尽八くんを傷つけちゃった……」
「いや、そうではない!琴音は悪くないよ。悪いのは俺だ」
「……誰にでも優しくしてるように見えるよね。そうだとしたら、多分合ってる。その方が、人によって態度に差をつけて接するよりも楽だから、無意識にそうしちゃうんだ。本当にそれ以上の意味なんてないの。だから――」
不意に、俺の手を取った琴音は自分の左胸へと導く。今度は俺が、目前のぽよんとしたものを掴んでいた。否、掴まされていた。一瞬、何が起きてるかわからなくなり、瞬きを忘れる。彼女の顔が夕日のように赤く染まっている事に気づくのに、5秒要した。
「二人きりになって心臓がドキドキするのは、尽八くんだけだよ」
か細い声を絞り出し告げられた一言の意味。
指先に力を込めれば簡単に形を変えてしまいそうな柔らかさ。その先に、鼓動する心音が手の平に伝播する。
5秒前まで、やらけぇーーとIQ3みたいな感想が頭でいっぱいになっていたが、事の重大さに全身から汗が吹き出し、彼女と同じぐらい赤面せざるを得ない。頭の片隅では、布の固さがないな?部活の時はスポーツブラなのか?と冷静に感触を分析してしまう。
交際を始めてからクリアしたのは手を繋ぐことだけ。キスも抱擁もまだの状態で、段階を飛びすぎではないか!?
「お、おい!待て、さすがにマズイ」
「いいの…す、少しだけ!」
ギリギリの理性で手を引こうとするも、琴音は俺の手を取ってグイッと再び押し付けた。
ダメだ、血が沸騰しそうだ。
「だって『真波は触ったのに』って思ってるでしょ?」
「……そ、それは否定できん」
「ほら…、さっきのは事故で、今は私が自分の意志で触らせてて…、その…、誰と噂されても、私には尽八くんだけだから」
小窓から夕陽が差し込み薄暗くなる中でも、照れくさそうに笑みを向けているのがわかる。視界は可愛い恋人でいっぱいになり、手の平はマシュマロのような柔らかさに満たされる。一生この感触を忘れないと誓おう。時間よ、しばらくの間止まってくれ――願わずにいられなかった。感動の最中、本能で指を動かしかけた瞬間、彼女の方から手が離された。
「はい!も、もうおしまいっ!」
永遠に感じた刻も、実際は30秒程度だったようだ。押し戻された手を見つめれば、あたたかさと余韻が残っていた。指先が震える。
弱音も情けなさも全て包み込み、不安や怒りも払拭してくれようとは、いったいどんな魔法を使った?
耳が熱くなって心臓もバクバクして、恋人の胸の柔らかさに興奮して、身体が火照る。もうワケがわからねェこんな状態なのに、視界が滲み鼻の奥がツンとする。意図せず鼻をすすると、琴音は困ったような笑顔で俺の頭をそっと撫でた。心の平静を失う不甲斐ない俺を元気にする、白くてキレイな手だ。
ああ、人生史上最高潮にカッコ悪い。こんな姿を見せられるのはお前だけだ。唯一無二の、俺の恋人。
ローラー台の音が忙しなく響く部室内、部員達は各々のメニューに順じ、今日もハードな練習をこなしていた。
七月下旬――本来なら夏休みを満喫するところだが、全国一の部員数を誇りインターハイでは必ず常勝する箱根学園自転車競技部には、そのような悠長な休みなどは存在しない。
インハイを目前ということもあって、いつも以上に集中した練習風景が目の前に映っていた。しかし、さすがに夏は暑い。
学校周辺コースから戻ると後輩マネージャーからスポーツドリンクとタオルを渡され、喉を潤してしばしの休憩だ。必ず練習から戻ると誰かしら女子マネが俺に駆け寄って来るのは、気のせいではないようだ。礼を言って受け取れば後輩は頬が赤らめて去って行った。
…美形過ぎるというのも、罪なものだ。すまんな、女子マネ達。熱い視線を送られようともそちらに見向きは出来んのだ。何せ、俺の心は既に別の女にあるからな。
タオルで顔の汗を拭い、盗み見るように忙しなく働く彼女の背中に視線を向けた。いかん、目で追うのが癖になってる。
汐見琴音と想いが通じ合あってから、三週間が経とうとしていた。
彼女が髪をバッサリと切り、俺好みなショートカットしたことがキッカケで自身の気持ちを自覚し、紆余曲折を経て告白をして結ばれた。好きな人が自分の事を好いてくれているという現実を、改めて奇跡的に感じている。部活中も時々、明るく微笑む琴音と目が合えば視界が鮮やかさを増す。こんなにも変わるのか、見える景色が。
…初恋は小学生の頃、よく旅館に遊びに来ていた仲居さんの娘だった。淡い恋心を思い出すも、年を重ねていくにつれてオシャレという趣味に没頭してしまい、初心な気持ちは自然に消えていった。幼い頃なんてそんなものだ。途端、興味がコロコロと変わる。さすがに高校生ともなると初恋のそれとは違う。男女の仲を意識して、手を繋げば心臓が跳ねてしまうような――汐見琴音は俺にとって初めての恋人だった。
天井から吊るされたアイアンバーにかけてある洗濯物を取ろうと彼女が脚立を床に置こうとした時、部内で最も高身長な葦木場が近づいた。二人の会話はここから聞こえないが、『手伝いましょうか?』と尋ねているようだ。琴音が軽く会釈して頷いた後、信じられない光景が飛び込んできた。
葦木場は彼女の後ろに回りこむと、脇の下に手を通し、ひょいと高く持ち上げた。
……ん?
ンなァァァーーーーッ!?
危うく立ち上がって美形が崩壊するぐらいの大声が出てしまうところだった。瞬間的に自制心が働き留まったが、危なかった。
周囲からもどよめきが起こり、黒田がすかさずツッコミを入れたおかげで琴音はゆっくりと降ろされる。何で持ち上げてんだ!と、目撃した誰もが同じ事を思っただろう。
「お前が取ればいいだろ!どこ手伝ってんだ、このド天然!」
「え、あ…そうだった。す、すいません、汐見先輩…!ユキちゃん早く言ってよ」
「持ち上げるなんて誰も想像してねーだろ!琴音さん、ダイジョブすか!?」
「あ、う、うん、びっくりしたけど…」
正論に対してちゃんと謝るものの、どこか的外れな返答をしている葦木場に、琴音は両手の平を向けて苦笑していた。心なしか顔が紅潮しているのは驚いたせいだろう。
自分の恋人が他の男に際どい箇所を触れられ、面白くない場面を冷静なフリをしてやりすごすのはなかなかの苦行だ。
周囲からは笑い声が漏れ聞こえ、その中にとある部員…同学年の藤原が不要な一言を放った。
「ハハッ!おいおい、お前ら付き合ってんのかァ?」
慌てて二人共否定していたが、部員達はからかうように笑っていた。や、全然笑えん。余計な事を言ってくれるな、藤原よ。
付き合ってるのは、俺だ!――と、言いたい!言いたいに決まっている!だがそれは叶わない。ぐっと喉から出そうになる声を抑え、なるべく並ぶ二人を見ないように俯いた。
堪えねばならない。何故ならば、同学年で部活も同じ、現状、部員とマネージャーという関係で恋仲になった俺と琴音の“約束”があるからだ。
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其の一、交際していることは他言無用。
疑われても否定すること。これは言わずもがな、東堂尽八ファンクラブに波風を立てないようにして、琴音を厄介事から守る為だ。ファンクラブ以外にも俺に気がある女子は多いし、嫉妬に囚われた奴は何をするかわからない。いざとなれば俺が守ればいいだろうと公言することも考えたが、四六時中一緒に居れるわけじゃない。女の嫉妬は怖いというのは身内に姉が居るのでよく理解しているつもりだ。
其の二、二人きり以外の時は“苗字”で呼ぶこと。
これも、特別な関係を悟られない為だ。クラスメイトでも部活のマネージャーでも、俺は女子を苗字で呼んでいる。琴音のことも付き合う前は「汐見」と呼んでいた。女子に対しては“さん付け”をして呼ぶことがほとんどだが、フクの幼馴染だからか不思議と親近感が沸き、徐々に…いつの間にか呼び捨てにしていた。今考えたら、あの時から自分の中で他の女子と差別化でもしたかったのか、無意識に。
――以上の約束により、とにかく卒業するまでは秘密裏に交際すると、二人で決めた。
初めての恋人なのに、手を繋いで駅まで送ることも、一緒に学食を食べることも叶わず、教科書の貸し借りも出来ず、清く正しい交換日記でさえ…!同じ学校で一緒に過ごせるのも来年の卒業までだと言うのに、惜しいことだ。俺が美形である故に、彼女に迷惑をかけてしまっているなんて。
電話で約束を決めた後、俺が申し訳なさそうな口調になると、琴音はクスクスと小さく笑っていた。
でもって、『こっそりでも、尽八くんの彼女でいられることが幸せだから』と、告げるのだ。
……何と健気な!電波を伝って会いに行ってすぐに抱きしめたかった、マジで。好きな子にそんな風に言ってもらえて、顔が熱くなっていく俺自身、年相応の男子なのだと気づかされる。
「極秘任務だね」
「そう…、ミッション名は“コード山神”だ!」
「ふふっ、尽八くんらしい」
「なかなかいいだろう?……しかし、寂しくはないか?ホントはもっと堂々と――」
「大丈夫だよ?今、こうして電話してるのだって夢みたいなんだから」
声色から察するに、嘘をついているようではないようだ。逆に、それが強がりでなく本音なのだから参った。覚悟が出来てるというか、妙な逞しさに心臓が早鐘を打つ。
携帯のスピーカーから聞こえる少し眠たげなやわらかな声、パジャマの衣擦れの音、笑うと漏れる吐息、全部甘く聴こえて毎度電話を切るタイミングを躊躇ってしまう。眠る前の、夜の通話。どちらから切ろうかと迷い、名残惜しく二人して沈黙する時間さえ愛おしい。全てが新鮮でこそばゆく、ふわふわと浮いてるみたいで落ち着かない気分が続いた。
□ □ □
それからというもの、約束事を守り続け、本当に誰からも交際を疑われないまま日々が過ぎて行った。ならばコード山神の計画通りではないか!と喜んでいいところだが、現実は違う。
俺とは疑われないのに、琴音は事あるごとに他の奴とは交際を疑われるのだ。つい最近、葦木場に体を持ち上げられ部員達からからかわれたのは記憶に新しい。
父親が営む整骨院の客が野菜をたくさん贈ってきたらしく、食べきれないからとキャベツを新開に持って来ていた。『ウサ吉くんにどうぞ!』と渡せば、新開はウサ吉の小屋まで琴音を誘い連れ立って行く……のを見て、周囲の部員がザワつきはじめる。
オーバーワーク気味の荒北のマッサージをした後、その礼にとベプシを持って奴は琴音に渡していた。荒北が特定の女子に何かを奢るなんて様子はこれまで見たことがない。そもそも女子マネに怖がられてるせいで近づかれてないしな……っていうのを見て、やはり周囲の部員がザワザワしていた。
幼馴染のフクと琴音は、部活終わりに英語の課題を互いに確認し合っていた。それはいいのだが、肩を並べて座る二人の距離があまりにも近い為、周囲から注目が集まる。幼い頃からの知り合いだからかパーソナルスペースの感覚にバグが生じてる。『やっぱ福富さんが本命か…!』と、これまた周囲の部員が――以下略。
まるで、他の奴らと琴音のフラグがバンバン立っているようではないか!
苛々を振り払うように山道を登ったが、コンディションがよくない。そもそもイラつきながら山を登るなんてどうかしている。雑念に負けぬよう、学校までの下りと平坦道は冷静を取り戻すように気を引き締めてペダルを回す。――しかし、予期せぬ事態は起こるものだ。
部室に戻ると、長椅子に座って部誌を書いている琴音に真波が少しずつ近づく姿が目に飛び込んできた。付き合う以前、こいつが彼女に膝枕を強要した悪夢が過りクールダウンの意味もなく頭に血が上る。口が出るより早く、咄嗟に真波を後ろから羽交い絞めにしていた。
「真波ッ!一度ならず二度までも!お前だけはフラグを立てるんじゃない!」
「いててっ!東堂さん!?何の話ですかぁ?」
「知らん振りをするな!」
揉めてる様子に慌てて立ち上がり、琴音は俺たちの間に割って入った。危ないぞ。こいつを野放しにしたら、お前がまたどんな目に合うか解らない。
「け、ケンカ…っ!?ダメだよケンカは!」
「琴音さーん、助けてくださぁい。なんか東堂さんが誤解してるみたいで……」
「汐見、近づくな。後輩指導中だ!」
「オレ何もしてないですよね?」
「これからする気だろう!?」
「二人共!インハイ前に怪我したら危な――」
両腕をバタバタさせながら、俺からすり抜けようと振り上げた真波の手が、目前のぽよんとしたものをTシャツ越しに掴んでいた。それは俺の恋人の、胸だった。
おっ――、
俺もまだ!触ったことねーぞバカヤロウッ!!!!
唖然の事態に三者とも動きが止まり、真波の指先がピクリと動いたところで琴音の短い悲鳴が鼓膜を震わせた。反射的にすぐ手を離し、謝る真波。顔を真っ赤にしてしゃがむ彼女に、胸中が痛みだす。
そんな顔をするのは俺に対してだけにして欲しい。そして事故とは言え…っていうか俺のせいで、自分より先に恋人の胸を触られてしまいショックが隠せない。追い打ちに、目撃していた部員からは『今度は“真波”とか!?』と、フラグを立てるひそひそ声がする。何故こうなるんだ……ッ!!
気恥ずかしさに耐えかねた彼女は部室の外へ出て行ってしまい、取り残された俺はとりあえず真波を睨んでおいた。
付き合ってるって言いたい。言っちまいたい。
汐見琴音は東堂尽八の恋人なのだと、知らしめたい。
独占欲が勝って公言してしまうのは容易い。しかし、それでは二人で決めた約束事を破り、彼女の優しさを無下にしたことになる。
部内から噂がファンクラブにも伝わってしまっては、残りの学園生活、琴音が穏やかに過ごせるとも限らない。
交際宣言がじわじわと鉛のように重く喉につかえている。
正直、俺が女子にモテすぎてお前をやきもきさせるとばかり考えていたが、これでは俺ばかりが――
考えがまとまらないうちに、俺は琴音が向かったと思われる場所へ歩き出した。走れば後を追ったと勘付かれる……こんな時でさえ、外野の目を気にしなければならないなんて、コード山神はこうも難易度が高いものかと辟易した。
・・・
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・・・・・・
古びたパーツやホイールが保管されている旧備品倉庫。ほとんど物置になっているその場所には、用事がない限り誰も近づかないしひと気もない。
おそらく其処に居るだろうと、辺りを見渡し誰にも見られてない事を確認して扉を開けると、予想通りだった。後ろ手で扉を閉めると琴音が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「お、追ってきて大丈夫…?」
「ああ、誰にも見られていない」
「そっか…」
彼女は安堵の息をついて、胸を撫でおろした。保管しているというより雑に置かれただけの備品たちと、埃っぽいこの空間。
久々に二人きりになれるシチュエーションとしてはロマンが欠けるが、ここならば誰も来ないだろう。
「さっきは、すまない。俺のせいだ。…以前、真波に付け入られて膝枕をしてやったことがあっただろう?それを思い出して、また奴がお前に迷惑をかけるのかと疑ってしまったんだ。いかんな、疑心暗鬼になっては…」
ハァと溜息をついてドアに寄り掛かると、俺はここ数日で目の当たりにした数々の交際フラグの話をし始めた。その都度、独占欲で胸が締め付けられそうになるという事も、正直に伝えた。
琴音は『大袈裟だよ。からかわれてるだけ』と謙遜するが、決してそうじゃない。ヒソヒソと勝手に噂を立てようとする部員達は、お前をただのマネージャーでなく“交際の対象”として見てるってことだ。
琴音は自分の魅力を理解していない。仕事を真面目にこなし、皆を賢明にサポートする姿に胸を打たれる。屈託なく笑えば可愛らしく、時々のドジは愛嬌となる。誰がお前をほっとくと言うのだ。
逆に、俺はモテる割には本気の女子の告白は数える程度しか受けたことがない。琴音と付き合うまでは『ロードが恋人』だと、高校のうちはそれでいい思っていた。どこか一線を引いていたのが、勘付かれていたからだろう。
「付き合ってると言いたいが…、言いたい…、言いてェ…、言えねェ…、言いてェ…」
だんだんと小声になって項垂れ、ドアにもたれ掛かる両肩がズルズルと下がりしゃがみ込んだ。薄いレーシングパンツ越しに、ひんやりした床の温度が伝わる。倉庫横の大きな木の木陰の下に位置するこの場所は、夏の夕方でも割と涼しい。
「じ、尽八くん。卒業までのミッションだよ!」
「あぁ、そうか。そうだった…」
床に膝をついて屈み、俺の手を握って励ます琴音は変わらず優しい。誰にでも別け隔てなく与える。“それ”は俺だけのものには出来ないか?他の奴にはわざと冷たくしてもらえないか?
子供じみた我儘を口に出来るはずもなく、飲み込んだ。両想いになりさえすれば、不安や苦しさなど縁遠いものだと思っていたのに。
恋をすると、知れば知る程、自分の醜い感情と相見えることになるとは。
「私がぼんやりしてるせいで、尽八くんを傷つけちゃった……」
「いや、そうではない!琴音は悪くないよ。悪いのは俺だ」
「……誰にでも優しくしてるように見えるよね。そうだとしたら、多分合ってる。その方が、人によって態度に差をつけて接するよりも楽だから、無意識にそうしちゃうんだ。本当にそれ以上の意味なんてないの。だから――」
不意に、俺の手を取った琴音は自分の左胸へと導く。今度は俺が、目前のぽよんとしたものを掴んでいた。否、掴まされていた。一瞬、何が起きてるかわからなくなり、瞬きを忘れる。彼女の顔が夕日のように赤く染まっている事に気づくのに、5秒要した。
「二人きりになって心臓がドキドキするのは、尽八くんだけだよ」
か細い声を絞り出し告げられた一言の意味。
指先に力を込めれば簡単に形を変えてしまいそうな柔らかさ。その先に、鼓動する心音が手の平に伝播する。
5秒前まで、やらけぇーーとIQ3みたいな感想が頭でいっぱいになっていたが、事の重大さに全身から汗が吹き出し、彼女と同じぐらい赤面せざるを得ない。頭の片隅では、布の固さがないな?部活の時はスポーツブラなのか?と冷静に感触を分析してしまう。
交際を始めてからクリアしたのは手を繋ぐことだけ。キスも抱擁もまだの状態で、段階を飛びすぎではないか!?
「お、おい!待て、さすがにマズイ」
「いいの…す、少しだけ!」
ギリギリの理性で手を引こうとするも、琴音は俺の手を取ってグイッと再び押し付けた。
ダメだ、血が沸騰しそうだ。
「だって『真波は触ったのに』って思ってるでしょ?」
「……そ、それは否定できん」
「ほら…、さっきのは事故で、今は私が自分の意志で触らせてて…、その…、誰と噂されても、私には尽八くんだけだから」
小窓から夕陽が差し込み薄暗くなる中でも、照れくさそうに笑みを向けているのがわかる。視界は可愛い恋人でいっぱいになり、手の平はマシュマロのような柔らかさに満たされる。一生この感触を忘れないと誓おう。時間よ、しばらくの間止まってくれ――願わずにいられなかった。感動の最中、本能で指を動かしかけた瞬間、彼女の方から手が離された。
「はい!も、もうおしまいっ!」
永遠に感じた刻も、実際は30秒程度だったようだ。押し戻された手を見つめれば、あたたかさと余韻が残っていた。指先が震える。
弱音も情けなさも全て包み込み、不安や怒りも払拭してくれようとは、いったいどんな魔法を使った?
耳が熱くなって心臓もバクバクして、恋人の胸の柔らかさに興奮して、身体が火照る。もうワケがわからねェこんな状態なのに、視界が滲み鼻の奥がツンとする。意図せず鼻をすすると、琴音は困ったような笑顔で俺の頭をそっと撫でた。心の平静を失う不甲斐ない俺を元気にする、白くてキレイな手だ。
ああ、人生史上最高潮にカッコ悪い。こんな姿を見せられるのはお前だけだ。唯一無二の、俺の恋人。