短編・中編
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
不滅のロマンス
年に一度の大好きな人の誕生日。
デートをしてケーキを食べてプレゼントを渡して――自分に彼氏が出来たら、ありきたりだけどもそんな風にお祝いしたいと夢見ていた。
繁華街でショッピングでもいい、定番だけど遊園地でも、相手が喜んでくれて楽しい時間を過ごせるだけで幸せだろうなと思った。
だが、今年に限って“それ”は叶わない。
私の彼氏、尽八くんの誕生日は明日に迫っていた。
私が二年の秋に自転車競技部にマネージャーとして途中入部する前から、『東堂尽八ファンクラブ』の存在は友人から聞いてた。
だいたい全クラスに数人ずつおり、彼が進級する度その数は増えていく。ファンクラブと名がつくのだから、ある程度の規約があり、会員名簿も存在してるはずだけれど、その実態は入会した者のみが知ることが出来、謎に包まれている。
登れる上にトークも切れて、さらにあの美形。凛とした声に、上品な仕草も魅力的なので、ファンがつくのも納得だった。
――だから、まさか、こんな素敵な人が自分の彼氏になるなんて予想だにしてなかった事。尽八くんに惹かれるモブ女子の一人のはずだった私に、彼が告白してくれたのだ。この先の人生、これ以上に想定外な事は起きないだろうと思う。
インターハイが終わり、熱いレースの名残りを心に留めつつも、三年は受験へとシフトチェンジする。ここからは部活の参加も任意となり、夏休み明けには新キャプテンが発表され、現キャプテンの寿一くんは引退となった。
受験対策に学力別にクラスが分けられ、学校では夏期講習が行われていたが、私は専門学校志望なので受験はない。時間がある代わりに、夏休みは後輩の練習の為に時々部活に出たり、変わらず実家の整体院の手伝いをして過ごしていた。
尽八くんの実家は老舗旅館なので、夏休みは特に客足が多く家の手伝いで駆り出されることもしばしばのようだ。この前は町内会のお祭りを手伝った話を電話で聞いた。
週に数回の電話だけで、最近はしばらく会えてないなァと寂しい気持ちになる。しかし、電話越しに透き通った声で『琴音』と呼ばれると心臓がドキドキと高鳴る。学校や部活ではなかなか二人きりで話す事も出来ず、二人きりの時以外は互いに苗字呼びを徹底してファンクラブの女子にバレないようにと交際を続けた。なので、名前を呼ばれる事がいまだに新鮮だ。
ベランダに出て夜空を見上げながら尽八くんに電話をかけた、彼の誕生日前夜。
3コール目で『琴音か!』と名前を呼ぶ声が聞こえた。声色が少し弾んでいるのが分かって、私も嬉しくなる。
夏期講習に行ったとか、海外からのお客さんがたくさん来たとか、尽八くんは数日の出来事を話してくれた。心地いい声に耳を傾けながらも会いたい気持ちが募り、私は胸の中で痞えてる事をぽつりと吐き出した。
「明日…、一緒に過ごせなくてごめんね」
『それはもう気にしなくていいと言っただろう』
「うん…。後日ちゃんとお祝いしようね」
『ああ、楽しみしている。だから、従姉妹の結婚式には明るい気持ちで行くといい』
尽八くんは変わらず優しい口調で、私を窘めた。物分かりがよすぎる。自分だったらちょっと不貞腐れちゃうかもって事も、彼はサラリと流して大人のような対応だ。それがちょっと、寂しい時もあるのだけれど。
「……ちょっとは残念がってくれてる?」
『当たり前だ。一緒に過ごせないことは残念だが、誕生日を祝う機会は毎年ある。結婚式はそうそうないからな』
「まぁ、そうなんだけど…」
『親戚の輝かしい門出、笑顔で祝福せねばならんよ』
「うん…」
煮え切れない返事しか出来ない子供っぽい自分が嫌になる。尽八くんが優しければ優しい程、どうして日程が重なっちゃったんだろうなァと悶々としてしまう。これ以上心配かけてはいけないと、溜息を飲み込んだ。
明日の予定を聞けば、尽八くんも一日忙しくなるらしい。後輩指導のために部活に少し顔を出せないかと以前から頼まれていたり、学校へ行くついでに夏期講習も一部受け、夕方からは実家のお手伝いだそうだ。
あらかじめ私と一日デートする約束でもあれば、最初からその日は確保してくれていただろう。
電話を切った後、我慢していた長い溜息が漏れた。
明日は早起きだからなるべく早く寝て、起きたらちゃんと気持ちを切り替えようと心に誓った。
□ □ □
8月8日当日――早朝に起き簡単に朝食を済ませ、父の運転で軽井沢の式場まで向かった。
今日は従姉妹の結婚式だ。ヘアセットは現地の式場で予約しているし、ドレスもホテルのゲスト用の更衣室で着替えればいい。車移動とは言え、往路から着慣れないものを着なくて済むのは助かる。
出発前に誕生日祝いのメッセージをメールで送ると、すぐに尽八くんからお礼の返信が届いた。それを確認してから、私は到着まで後部座席で眠りに落ちた。
ひと眠りしてるうちにホテルに到着し、ヘアセットと身支度を済ませてから受付に移動した。しばらくすると、次々とに華やかな服装の招待客が披露宴会場へやって来る。久々に会う親族にも挨拶を済ませ、席次表の通りに着席する。親族の結婚式はかなり久々だ。5歳の時に出席し、新婦さんに花束を渡す役を任されたらしい。ハッキリとは覚えてないのだけれど、母から聞いた昔話だ。さすがに18歳ともなるとその役は回って来ない。今日は出来るだけ落ち着いて、心から祝福する事に専念しなければ。
フッと会場全体を照らすライトが薄暗くなり、少し前に流行ったウェディングソングがスピーカーから流れ始めた。
――新郎新婦の入場だ。
いつか私も、大勢に祝福されながら純白のドレスを身に纏い、ヴェールに包まれて新郎と入場する日が来るのかな。尽八くんは真っ白なタキシードが似合いそうだとか、薔薇も霞む美しさに卒倒してしまうかもとか、まだ見ぬ未来の妄想が頭の中を過ったのだった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
結婚式は滞りなく終わり、再び親族に簡単な挨拶を済ませてから私たち家族は会場を後にした。帰りはヘアセットもドレスもそのままで車に乗り、いい式だったねと父と母と話して盛り上がった。花嫁さんの両親への手紙のところで必ず感動してしまう。『お前の番が来たら俺は耐えられるのか…』と父は嘆いていたので、母と笑ってしまった。いったい何年先の話をしているのやら。年をとると涙もろくなるんだなぁ。
途中まで順調だった帰路も、高速道路の事故渋滞に嵌ってしまった。もう夕方…、恐らく到着するのはまだかかるだろうということで、途中のSAに寄って簡単に夕食を済ませてから、再び車はノロノロと進むレーンに合流した。
橙色の夏の夕空を車の窓越しに眺めて、気持ちが急くのを感じる。
8月8日が終わっちゃう――尽八くんに一目でも会えないかな。
当日、もし会えるチャンスがあったらと思って鞄の中にプレゼントだけ持ち歩いていた。神奈川の箱根エリアに到着したら、最寄りのバス停近くで下してもらうように頼もう。尽八くんのお家はバス停から歩いてすぐの『おもてなしのお宿・東堂庵』を通り過ぎた先にある一軒家だ。もし彼がいなかったら、プレゼントだけご家族に預けてすぐ帰ればいい。
到着時間が読めないから時間の約束も出来ないし、事前にメールで知らせたら気にして待たせてしまう事になるだろう。それに、あまりにも到着が遅くなるようなら無理して今日は行かないかもしれないし……色々と思考を巡らせた結果、連絡はしないでおこうと決めた。
プレゼントなんて次会えた時に渡せればいい。頭では分かっていた。本当はただ、私が会いたいだけなんだ。会う口実が欲しいだけ。
もともと秘めておくはずの恋心だった。いざ付き合えたなら夢のようで毎日贅沢な気持ちだったのに、同時に貪欲さも芽生えてしまう。いつか、この感情が彼の重荷になってしまったら――それでも、今日会いたいという衝動は抑えられなかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
親には事情を話し、ちゃんとバスがある時間帯に帰って来ることを約束してから私は車から降りた。パンプスのヒール音がコツコツと地面に響く。転ばないように気を付けながら足早に歩いた。
既に日は暮れ、辺りは真っ暗で空には月が昇っていた。極端に街頭が少ないから、星もよく見える。
大きな一軒家の玄関先に、“東堂”の表札を確認してからインターホンのボタンを押した。家の場所だけ前に教えてもらっていたが、来たのは初めてなので緊張で喉が鳴った。ドアの向こう側で足音が聞こえ、間もなくガチャリと重い扉が開けられた。
「琴音!どうしたんだ、突然…」
目を見開いて驚いた様子で声を出したのは、尽八くんだった。会えた、本人に…会えた。ラフなストライプのシャツにクロップド丈のパンツを着こなし、休日も相変わらずオシャレだ。夏休み前は毎日のように顔を合わせていたのに、たった数日会ってないだけですごく久々に感じる。
「ごめんなさい。いきなり訪ねて……お夕飯時だったよね」
「いや、少し前に食べ終えたところだ。デザートのケーキもな」
「そっか…ならよかった。…あのね、時間は取らせないしホントすぐ済む用事だから!3分で終わるから!」
「わざわざ家まで来て3分で帰るはないだろう?巻ちゃんみたいな事を言うな」
「巻ちゃん?総北の……」
「ああ、ライバルだった奴だよ。そして来年はチームメイトになって――」
…いや、巻ちゃんの話はいいんだ、と、咳払いをしてから、尽八くんの視線は私の足元に移った後、下から上へと移動して視線が交わった。初めてご実家に訪問する緊張で忘れていたが、今日の私は結婚式帰りのドレス姿だった。ライトブルーのドレスと、白いレースのボレロ。こんなにかしこまった服装を見られるのは初めてで、身体が強張ってしまう。
「すごく綺麗だ。青も似合うな。軽やかなウェーブショートのヘアアレンジに、小花で装飾されたカチューシャも可愛らしい」
「……もう、褒め方が大袈裟」
「大袈裟なものか。琴音のドレス姿を見れただけでも誕生日の役得だな」
褒めてもらえて嬉しいのに、照れくさくて目が泳いでしまう。ストレートな言葉で浮かれてしまうのは、尽八くんの言葉にはいつも裏表がなく本音だと分かるからだ。細い指で優しく髪に触れられながら、真っ直ぐな瞳で見つめられた途端、頬が火照ってぼうっとなる。ダメだ、肝心なことを忘れる前に動かなくちゃ。
「どうしても今日渡したくて…。改めてお誕生日おめでとう!」
鞄から早速プレゼントを取り出しラッピングされた小さな箱を渡す、と尽八くんは目を丸くしていた。
「なんだか高級そうな物だが…、いいのか?」
「うん、そんな高いものではないけど。開けてみて」
彼は丁寧に包装を解いて、箱を開いた。予算の範囲内で何が買えるのか、迷いに迷ってこれにした。既に完成された美形の尽八くんに、これ以上飾る“物”など不要だと思ったりはしたが、それでも渡したかったのは、今日ここに会いに来たのと同様に私のエゴだ。身に着けられる物なら、離れていても身近に感じる事ができる、と。
赤く光る――2つで1セットのアクセサリー。レッドジルコニアのシンプルなピアス。
「大学生になったらピアスを付けたいって前に話してたから。使ってもらえるのはまだ先になるかもだけど……」
箱を傾ければ、角度を変える度キラキラ輝く赤色。尽八くんはマジマジと見つめていた。彼のアメジストの瞳に赤が反射して幻想的だ。白い肌にも映える赤色。耳元にその色を飾ったらより華やかになるだろう。何となくイメージカラーは青だったり紫だったりと寒色系だった。実際に私服もそれに近い色が多い。それならばとあえて暖色のものを選んだが、正解だ。…というか、彼に似合わない色なんてほとんどないだろう。
「赤いピアス、美しい色だな!ありがとう、大事するよ」
「気に入ってくれてよかった」
「お前が俺を想って選んでくれたプレゼントだろう。気に入らないなど有り得ない。今日、渡しに来てくれたことも含めて感謝せねばならんな」
尽八くんが笑顔で喜んでくれている――私は、この表情が見たかったんだ。つられて私も口角を上げるも、緊張からの解放感と無事に渡せた安心感で、ふにゃっとした笑い顔になってしまった。さっきまで平気だったのに、パンプスを履いた足がジンジンとしてきた。早起きと長時間の車移動、慣れない服で疲れも出たのかな。
和やかな空気の中しばらく尽八くんと過ごしていたいのは山々だけど――、そもそも突然訪ねてしまったし、ご家族とお祝いの途中だろうし、私にも帰りのバスの時間がある。名残惜しいけれども、また日を改めて会えばいい。じゃあまた…、と一礼して踵を返すと、すぐに右手を後ろから引かれた。
「おいっ待て待て、すぐ帰るな!せっかく来てくれた恋人をこの場で見送るなんてあってはならん!せめてバス停まで送らせてくれ」
・・・・・・
尽八くんは玄関から出てくると、先に外で待っていた私の手を引いいて早歩きで進み出した。“ひとまず通りまで出ないと姉が追いかけて見に来そうだから”と、急いでる理由を聞く前に教えてくれた。きっと『彼女を送って来る』とご家族に告げた事を想像して、思わずはにかんでしまう。尽八くんにときめく度に心拍数が上がるから、私の心臓は度々忙しい。サッと手を繋いでくるところもスマートなんだよなァと感心してしまう。
その反面、来年は心配事が多くなる。
同じ学校には通えないし今より会える頻度も減るだろう。大学には女子もたくさんいるから――…
「来年、ピアスをつけれる頃にはますますモテちゃうだろうなぁ。大学生の尽八くん……」
「心配には及ばんよ。万人に好かれようとも、俺の心は常にお前にあるのだから」
「っ!……わっ、わたしだって尽八くんが大好きだよ!でも、モテ過ぎるのは彼女としては心配だよ」
繋いでいる手に力が籠められ違和感を覚えたと同時に、尽八くんは立止まった。バス停はすぐそこなのに、どうしたんだろう?
不思議そうに眺めていると、数秒の沈黙の後、彼は声を絞り出した。
「……やっと言ったな、今」
「えっ?」
「『大好き』という言葉をだ!」
繋いでいた手をほどき、尽八くんは私の両肩を掴んで詰め寄った。道の往来で声を張り上げ、私の背には石垣が当たりひんやりとした温度が肌に伝わる。ビックリして反射的に胸の前で祈るように両手を組むと、彼は「…すまない」と切羽詰まった声色で謝った。そして、ハァァァ…と細く長い息をついた後、俯いたまま話し始めた。
「お前の“それ”をどれだけ待ちわびたことか…!告白したあの日から今の今まで、琴音の口からなかなかその言葉が出て来ず気がかりだった、俺らしくもなく……。滅多に心が揺らぐことはないのに、お前の事となるとどうにも、感情のコントロールが難しい時が、ある。恋は盲目と言うが……や、何だか女々しいな。……笑ってくれて構わんよ」
徐々に小さくなっていき、最後の方は微かな声量だった。尽八くんの珍しい挙動に目が離せない。僅かな街頭の明かりしかないせいでハッキリとは見えないが、彼の耳が赤くなってる気がする。しっかりと顔を見せてくれないのは、情けないからって事なのだろうか。どんな尽八くんでも私は全部見たいのに。一見、余裕そうに見えるのに、そんなことで心が揺らいだりするんだ――胸が熱くなってしまう。目の前の等身大の男の子に、ドキドキしてしまう。こんなに想われて、自分は果報者だと改めて思った。
心の中では何度も“大好き”と想っていたのに、声に出して伝える事が出来なかったのは、わざとでなく完全に無意識だった。恥ずかしさが勝ってしまっていたから。周囲に気を使ってセーブしていたから。でもこれからは、もっと勇気を出したい。今日みたいに、もっと行動的になりたい。
「わ、笑わないよ…!これからは恥ずかしがらずに、いっぱい伝えるから!」
車の走行音にかき消えないように、出来るだけ大きな声で伝えるとと、尽八くんは顔を上げてくれた。その瞬間、私が乗るはずだった伊豆箱根バスが真横を通り過ぎた事に気づき、どちらともなく小声で笑い出した。
次のバスが来るまでしばらく時間がある。
夜になると人通りはほとんどなく、車も時々走るだけの整備された山の中の道路は、とても静かだ。バスの停留所には標識柱がポツンと置かれているだけでベンチもないので、二人横並びで立ったままバスを待ち惚けだ。
夏の緑のにおい、微かに頬を撫ぜる夜風と聞こえてくる虫の声。何ひとつ新鮮な経験ではないはずなのに、彼が隣に居るだけで心地よく、新しい世界に感じる。
「今夜は星空が綺麗なんだが、不思議と目に入らないな。いや、不思議ではないか……」
不意に呟く台詞に予兆を感じて、繋いでいる手が汗ばむ。腕がピタリとくっつくぐらいの距離に居ては、どれほど心臓が鼓動しているか聞こえてしまうけど、この心音が落ち着くタイミングなどありはしない。指を絡めて手を繋ぎ直したのが合図だと気づき、目を伏せた。
尽八くんが私の顔を覗き込んでそのまま二人の鼻先が触れ合った。瞼を閉じたら、形のいい薄い唇が優しく重なり、離れて、また重なる。ゆっくりした動きで何度か繰り返された後、目が合った彼の微笑みにはあどけなさが残っていた。二人して、頬が朱色に染まってる。
「いい誕生日になった」
柔らかい口調で告げられ、望んでいた展開に嬉しくて泣いてしまいそうだ。彼の誕生日なのに、私が幸せに満たされていいのか。どうか、尽八くんも同じくらいの幸せを感じていて欲しい。
次のバスも乗らずに見送って、まだ一緒にいたいなぁと熱に浮かされながらそう願った。
年に一度の大好きな人の誕生日。
デートをしてケーキを食べてプレゼントを渡して――自分に彼氏が出来たら、ありきたりだけどもそんな風にお祝いしたいと夢見ていた。
繁華街でショッピングでもいい、定番だけど遊園地でも、相手が喜んでくれて楽しい時間を過ごせるだけで幸せだろうなと思った。
だが、今年に限って“それ”は叶わない。
私の彼氏、尽八くんの誕生日は明日に迫っていた。
私が二年の秋に自転車競技部にマネージャーとして途中入部する前から、『東堂尽八ファンクラブ』の存在は友人から聞いてた。
だいたい全クラスに数人ずつおり、彼が進級する度その数は増えていく。ファンクラブと名がつくのだから、ある程度の規約があり、会員名簿も存在してるはずだけれど、その実態は入会した者のみが知ることが出来、謎に包まれている。
登れる上にトークも切れて、さらにあの美形。凛とした声に、上品な仕草も魅力的なので、ファンがつくのも納得だった。
――だから、まさか、こんな素敵な人が自分の彼氏になるなんて予想だにしてなかった事。尽八くんに惹かれるモブ女子の一人のはずだった私に、彼が告白してくれたのだ。この先の人生、これ以上に想定外な事は起きないだろうと思う。
インターハイが終わり、熱いレースの名残りを心に留めつつも、三年は受験へとシフトチェンジする。ここからは部活の参加も任意となり、夏休み明けには新キャプテンが発表され、現キャプテンの寿一くんは引退となった。
受験対策に学力別にクラスが分けられ、学校では夏期講習が行われていたが、私は専門学校志望なので受験はない。時間がある代わりに、夏休みは後輩の練習の為に時々部活に出たり、変わらず実家の整体院の手伝いをして過ごしていた。
尽八くんの実家は老舗旅館なので、夏休みは特に客足が多く家の手伝いで駆り出されることもしばしばのようだ。この前は町内会のお祭りを手伝った話を電話で聞いた。
週に数回の電話だけで、最近はしばらく会えてないなァと寂しい気持ちになる。しかし、電話越しに透き通った声で『琴音』と呼ばれると心臓がドキドキと高鳴る。学校や部活ではなかなか二人きりで話す事も出来ず、二人きりの時以外は互いに苗字呼びを徹底してファンクラブの女子にバレないようにと交際を続けた。なので、名前を呼ばれる事がいまだに新鮮だ。
ベランダに出て夜空を見上げながら尽八くんに電話をかけた、彼の誕生日前夜。
3コール目で『琴音か!』と名前を呼ぶ声が聞こえた。声色が少し弾んでいるのが分かって、私も嬉しくなる。
夏期講習に行ったとか、海外からのお客さんがたくさん来たとか、尽八くんは数日の出来事を話してくれた。心地いい声に耳を傾けながらも会いたい気持ちが募り、私は胸の中で痞えてる事をぽつりと吐き出した。
「明日…、一緒に過ごせなくてごめんね」
『それはもう気にしなくていいと言っただろう』
「うん…。後日ちゃんとお祝いしようね」
『ああ、楽しみしている。だから、従姉妹の結婚式には明るい気持ちで行くといい』
尽八くんは変わらず優しい口調で、私を窘めた。物分かりがよすぎる。自分だったらちょっと不貞腐れちゃうかもって事も、彼はサラリと流して大人のような対応だ。それがちょっと、寂しい時もあるのだけれど。
「……ちょっとは残念がってくれてる?」
『当たり前だ。一緒に過ごせないことは残念だが、誕生日を祝う機会は毎年ある。結婚式はそうそうないからな』
「まぁ、そうなんだけど…」
『親戚の輝かしい門出、笑顔で祝福せねばならんよ』
「うん…」
煮え切れない返事しか出来ない子供っぽい自分が嫌になる。尽八くんが優しければ優しい程、どうして日程が重なっちゃったんだろうなァと悶々としてしまう。これ以上心配かけてはいけないと、溜息を飲み込んだ。
明日の予定を聞けば、尽八くんも一日忙しくなるらしい。後輩指導のために部活に少し顔を出せないかと以前から頼まれていたり、学校へ行くついでに夏期講習も一部受け、夕方からは実家のお手伝いだそうだ。
あらかじめ私と一日デートする約束でもあれば、最初からその日は確保してくれていただろう。
電話を切った後、我慢していた長い溜息が漏れた。
明日は早起きだからなるべく早く寝て、起きたらちゃんと気持ちを切り替えようと心に誓った。
□ □ □
8月8日当日――早朝に起き簡単に朝食を済ませ、父の運転で軽井沢の式場まで向かった。
今日は従姉妹の結婚式だ。ヘアセットは現地の式場で予約しているし、ドレスもホテルのゲスト用の更衣室で着替えればいい。車移動とは言え、往路から着慣れないものを着なくて済むのは助かる。
出発前に誕生日祝いのメッセージをメールで送ると、すぐに尽八くんからお礼の返信が届いた。それを確認してから、私は到着まで後部座席で眠りに落ちた。
ひと眠りしてるうちにホテルに到着し、ヘアセットと身支度を済ませてから受付に移動した。しばらくすると、次々とに華やかな服装の招待客が披露宴会場へやって来る。久々に会う親族にも挨拶を済ませ、席次表の通りに着席する。親族の結婚式はかなり久々だ。5歳の時に出席し、新婦さんに花束を渡す役を任されたらしい。ハッキリとは覚えてないのだけれど、母から聞いた昔話だ。さすがに18歳ともなるとその役は回って来ない。今日は出来るだけ落ち着いて、心から祝福する事に専念しなければ。
フッと会場全体を照らすライトが薄暗くなり、少し前に流行ったウェディングソングがスピーカーから流れ始めた。
――新郎新婦の入場だ。
いつか私も、大勢に祝福されながら純白のドレスを身に纏い、ヴェールに包まれて新郎と入場する日が来るのかな。尽八くんは真っ白なタキシードが似合いそうだとか、薔薇も霞む美しさに卒倒してしまうかもとか、まだ見ぬ未来の妄想が頭の中を過ったのだった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
結婚式は滞りなく終わり、再び親族に簡単な挨拶を済ませてから私たち家族は会場を後にした。帰りはヘアセットもドレスもそのままで車に乗り、いい式だったねと父と母と話して盛り上がった。花嫁さんの両親への手紙のところで必ず感動してしまう。『お前の番が来たら俺は耐えられるのか…』と父は嘆いていたので、母と笑ってしまった。いったい何年先の話をしているのやら。年をとると涙もろくなるんだなぁ。
途中まで順調だった帰路も、高速道路の事故渋滞に嵌ってしまった。もう夕方…、恐らく到着するのはまだかかるだろうということで、途中のSAに寄って簡単に夕食を済ませてから、再び車はノロノロと進むレーンに合流した。
橙色の夏の夕空を車の窓越しに眺めて、気持ちが急くのを感じる。
8月8日が終わっちゃう――尽八くんに一目でも会えないかな。
当日、もし会えるチャンスがあったらと思って鞄の中にプレゼントだけ持ち歩いていた。神奈川の箱根エリアに到着したら、最寄りのバス停近くで下してもらうように頼もう。尽八くんのお家はバス停から歩いてすぐの『おもてなしのお宿・東堂庵』を通り過ぎた先にある一軒家だ。もし彼がいなかったら、プレゼントだけご家族に預けてすぐ帰ればいい。
到着時間が読めないから時間の約束も出来ないし、事前にメールで知らせたら気にして待たせてしまう事になるだろう。それに、あまりにも到着が遅くなるようなら無理して今日は行かないかもしれないし……色々と思考を巡らせた結果、連絡はしないでおこうと決めた。
プレゼントなんて次会えた時に渡せればいい。頭では分かっていた。本当はただ、私が会いたいだけなんだ。会う口実が欲しいだけ。
もともと秘めておくはずの恋心だった。いざ付き合えたなら夢のようで毎日贅沢な気持ちだったのに、同時に貪欲さも芽生えてしまう。いつか、この感情が彼の重荷になってしまったら――それでも、今日会いたいという衝動は抑えられなかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
親には事情を話し、ちゃんとバスがある時間帯に帰って来ることを約束してから私は車から降りた。パンプスのヒール音がコツコツと地面に響く。転ばないように気を付けながら足早に歩いた。
既に日は暮れ、辺りは真っ暗で空には月が昇っていた。極端に街頭が少ないから、星もよく見える。
大きな一軒家の玄関先に、“東堂”の表札を確認してからインターホンのボタンを押した。家の場所だけ前に教えてもらっていたが、来たのは初めてなので緊張で喉が鳴った。ドアの向こう側で足音が聞こえ、間もなくガチャリと重い扉が開けられた。
「琴音!どうしたんだ、突然…」
目を見開いて驚いた様子で声を出したのは、尽八くんだった。会えた、本人に…会えた。ラフなストライプのシャツにクロップド丈のパンツを着こなし、休日も相変わらずオシャレだ。夏休み前は毎日のように顔を合わせていたのに、たった数日会ってないだけですごく久々に感じる。
「ごめんなさい。いきなり訪ねて……お夕飯時だったよね」
「いや、少し前に食べ終えたところだ。デザートのケーキもな」
「そっか…ならよかった。…あのね、時間は取らせないしホントすぐ済む用事だから!3分で終わるから!」
「わざわざ家まで来て3分で帰るはないだろう?巻ちゃんみたいな事を言うな」
「巻ちゃん?総北の……」
「ああ、ライバルだった奴だよ。そして来年はチームメイトになって――」
…いや、巻ちゃんの話はいいんだ、と、咳払いをしてから、尽八くんの視線は私の足元に移った後、下から上へと移動して視線が交わった。初めてご実家に訪問する緊張で忘れていたが、今日の私は結婚式帰りのドレス姿だった。ライトブルーのドレスと、白いレースのボレロ。こんなにかしこまった服装を見られるのは初めてで、身体が強張ってしまう。
「すごく綺麗だ。青も似合うな。軽やかなウェーブショートのヘアアレンジに、小花で装飾されたカチューシャも可愛らしい」
「……もう、褒め方が大袈裟」
「大袈裟なものか。琴音のドレス姿を見れただけでも誕生日の役得だな」
褒めてもらえて嬉しいのに、照れくさくて目が泳いでしまう。ストレートな言葉で浮かれてしまうのは、尽八くんの言葉にはいつも裏表がなく本音だと分かるからだ。細い指で優しく髪に触れられながら、真っ直ぐな瞳で見つめられた途端、頬が火照ってぼうっとなる。ダメだ、肝心なことを忘れる前に動かなくちゃ。
「どうしても今日渡したくて…。改めてお誕生日おめでとう!」
鞄から早速プレゼントを取り出しラッピングされた小さな箱を渡す、と尽八くんは目を丸くしていた。
「なんだか高級そうな物だが…、いいのか?」
「うん、そんな高いものではないけど。開けてみて」
彼は丁寧に包装を解いて、箱を開いた。予算の範囲内で何が買えるのか、迷いに迷ってこれにした。既に完成された美形の尽八くんに、これ以上飾る“物”など不要だと思ったりはしたが、それでも渡したかったのは、今日ここに会いに来たのと同様に私のエゴだ。身に着けられる物なら、離れていても身近に感じる事ができる、と。
赤く光る――2つで1セットのアクセサリー。レッドジルコニアのシンプルなピアス。
「大学生になったらピアスを付けたいって前に話してたから。使ってもらえるのはまだ先になるかもだけど……」
箱を傾ければ、角度を変える度キラキラ輝く赤色。尽八くんはマジマジと見つめていた。彼のアメジストの瞳に赤が反射して幻想的だ。白い肌にも映える赤色。耳元にその色を飾ったらより華やかになるだろう。何となくイメージカラーは青だったり紫だったりと寒色系だった。実際に私服もそれに近い色が多い。それならばとあえて暖色のものを選んだが、正解だ。…というか、彼に似合わない色なんてほとんどないだろう。
「赤いピアス、美しい色だな!ありがとう、大事するよ」
「気に入ってくれてよかった」
「お前が俺を想って選んでくれたプレゼントだろう。気に入らないなど有り得ない。今日、渡しに来てくれたことも含めて感謝せねばならんな」
尽八くんが笑顔で喜んでくれている――私は、この表情が見たかったんだ。つられて私も口角を上げるも、緊張からの解放感と無事に渡せた安心感で、ふにゃっとした笑い顔になってしまった。さっきまで平気だったのに、パンプスを履いた足がジンジンとしてきた。早起きと長時間の車移動、慣れない服で疲れも出たのかな。
和やかな空気の中しばらく尽八くんと過ごしていたいのは山々だけど――、そもそも突然訪ねてしまったし、ご家族とお祝いの途中だろうし、私にも帰りのバスの時間がある。名残惜しいけれども、また日を改めて会えばいい。じゃあまた…、と一礼して踵を返すと、すぐに右手を後ろから引かれた。
「おいっ待て待て、すぐ帰るな!せっかく来てくれた恋人をこの場で見送るなんてあってはならん!せめてバス停まで送らせてくれ」
・・・・・・
尽八くんは玄関から出てくると、先に外で待っていた私の手を引いいて早歩きで進み出した。“ひとまず通りまで出ないと姉が追いかけて見に来そうだから”と、急いでる理由を聞く前に教えてくれた。きっと『彼女を送って来る』とご家族に告げた事を想像して、思わずはにかんでしまう。尽八くんにときめく度に心拍数が上がるから、私の心臓は度々忙しい。サッと手を繋いでくるところもスマートなんだよなァと感心してしまう。
その反面、来年は心配事が多くなる。
同じ学校には通えないし今より会える頻度も減るだろう。大学には女子もたくさんいるから――…
「来年、ピアスをつけれる頃にはますますモテちゃうだろうなぁ。大学生の尽八くん……」
「心配には及ばんよ。万人に好かれようとも、俺の心は常にお前にあるのだから」
「っ!……わっ、わたしだって尽八くんが大好きだよ!でも、モテ過ぎるのは彼女としては心配だよ」
繋いでいる手に力が籠められ違和感を覚えたと同時に、尽八くんは立止まった。バス停はすぐそこなのに、どうしたんだろう?
不思議そうに眺めていると、数秒の沈黙の後、彼は声を絞り出した。
「……やっと言ったな、今」
「えっ?」
「『大好き』という言葉をだ!」
繋いでいた手をほどき、尽八くんは私の両肩を掴んで詰め寄った。道の往来で声を張り上げ、私の背には石垣が当たりひんやりとした温度が肌に伝わる。ビックリして反射的に胸の前で祈るように両手を組むと、彼は「…すまない」と切羽詰まった声色で謝った。そして、ハァァァ…と細く長い息をついた後、俯いたまま話し始めた。
「お前の“それ”をどれだけ待ちわびたことか…!告白したあの日から今の今まで、琴音の口からなかなかその言葉が出て来ず気がかりだった、俺らしくもなく……。滅多に心が揺らぐことはないのに、お前の事となるとどうにも、感情のコントロールが難しい時が、ある。恋は盲目と言うが……や、何だか女々しいな。……笑ってくれて構わんよ」
徐々に小さくなっていき、最後の方は微かな声量だった。尽八くんの珍しい挙動に目が離せない。僅かな街頭の明かりしかないせいでハッキリとは見えないが、彼の耳が赤くなってる気がする。しっかりと顔を見せてくれないのは、情けないからって事なのだろうか。どんな尽八くんでも私は全部見たいのに。一見、余裕そうに見えるのに、そんなことで心が揺らいだりするんだ――胸が熱くなってしまう。目の前の等身大の男の子に、ドキドキしてしまう。こんなに想われて、自分は果報者だと改めて思った。
心の中では何度も“大好き”と想っていたのに、声に出して伝える事が出来なかったのは、わざとでなく完全に無意識だった。恥ずかしさが勝ってしまっていたから。周囲に気を使ってセーブしていたから。でもこれからは、もっと勇気を出したい。今日みたいに、もっと行動的になりたい。
「わ、笑わないよ…!これからは恥ずかしがらずに、いっぱい伝えるから!」
車の走行音にかき消えないように、出来るだけ大きな声で伝えるとと、尽八くんは顔を上げてくれた。その瞬間、私が乗るはずだった伊豆箱根バスが真横を通り過ぎた事に気づき、どちらともなく小声で笑い出した。
次のバスが来るまでしばらく時間がある。
夜になると人通りはほとんどなく、車も時々走るだけの整備された山の中の道路は、とても静かだ。バスの停留所には標識柱がポツンと置かれているだけでベンチもないので、二人横並びで立ったままバスを待ち惚けだ。
夏の緑のにおい、微かに頬を撫ぜる夜風と聞こえてくる虫の声。何ひとつ新鮮な経験ではないはずなのに、彼が隣に居るだけで心地よく、新しい世界に感じる。
「今夜は星空が綺麗なんだが、不思議と目に入らないな。いや、不思議ではないか……」
不意に呟く台詞に予兆を感じて、繋いでいる手が汗ばむ。腕がピタリとくっつくぐらいの距離に居ては、どれほど心臓が鼓動しているか聞こえてしまうけど、この心音が落ち着くタイミングなどありはしない。指を絡めて手を繋ぎ直したのが合図だと気づき、目を伏せた。
尽八くんが私の顔を覗き込んでそのまま二人の鼻先が触れ合った。瞼を閉じたら、形のいい薄い唇が優しく重なり、離れて、また重なる。ゆっくりした動きで何度か繰り返された後、目が合った彼の微笑みにはあどけなさが残っていた。二人して、頬が朱色に染まってる。
「いい誕生日になった」
柔らかい口調で告げられ、望んでいた展開に嬉しくて泣いてしまいそうだ。彼の誕生日なのに、私が幸せに満たされていいのか。どうか、尽八くんも同じくらいの幸せを感じていて欲しい。
次のバスも乗らずに見送って、まだ一緒にいたいなぁと熱に浮かされながらそう願った。