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消える灯火




入道雲が、まるですべての建造物を呑み込むように、夏の空に佇んでいた。所々黒く滲む地面を、太陽光が静かに、しかしジリジリと焦がしている。
佐藤優香は、出来るだけ流行のファッションに追いつかんとばかりに気張った服を着て、恋人達のデートスポットへ一人で訪れていた。優香は薬指にはめ込まれた結婚指輪を眺め、そして近くのベンチに腰掛けて辺りを見渡し、そして溜め息を吐いた。
ーあたしにだって、恋人は居たんだから。唇を噛み、そして溜め息をついた。
優香には恋人が居た。しかも結婚を前提とした付き合いだった。相手は敏朗という名のごく普通のサラリーマンで、バーで一人飲んでいた時に偶々出会い、それから三年間もの間、波風立てずに将来の事を共に考え、互いに助け合い、愛しあっていた。ーはずだったのだが、敏朗には浮気相手が居たのだ。それも自分に渡した指輪より高価な指輪をはめた、あの女…。
浮気の現場を目撃し、三年間で築きあげた情景を思い出す度に優香は怒り、そして落ち込み、このデートスポットへと赴いていた。
ーこれで何度目だろう。いつまでも引きずりつづける自分が嫌になる。
煙草を一服、薄眼で恋人達を眺めていた時だった。
「ねえ君、そこ、良いかな。」
低く、落ち着いた声が聞こえて視界を広げた。眼前には男性が居た。どこか儚げで、整った顔つきの美しい青年だと思った。身長は優香より少し高めか、長く、そして透き通るような柔らかな長い髪が印象的だ。優香は声をひっくり返して小声にどうぞ、と返事をし、ベンチの左へ少し寄った。
ーなんて美しい男性なのだろう、敏朗と比べると月とスッポン、といえる差だった。男性はありがとう、と微笑み軽く頭を下げ、優香の隣に腰掛けた。佇まいの一つ一つが優美で、その動作は失恋の事を一瞬忘れかけさせるような不思議な魅力が有った。
「どうしてこんな場所へ、一人で?」
勇気を振り絞り、声をかけてみる。変な女と思われないだろうか。心臓が破裂しそうだった。男性は少し優香に視線を移し、そして優香と同じように恋人達に視線を戻した。
「…初めて逢うひとに話すのはどうかと自分でも思うけどね。…好きな人にフラれたんだ。」
寂しげにそう答えた。こんなに優しそうで、誠実そうで、綺麗な人が失恋なんて…。同時に優香は、自分と似た境遇のその男性に自身を重ね、憐れだと思った。それ以上は互いに何も語らず、ただ時間を浪費した。久しぶりの感覚だ、何も語らず、ただ近くに居るだけで安心するこの感覚……。少し顔が紅くなったのを実感した。
「貴女と居ると、彼女と付き合っていた頃を思い出すよ。…とても安心する」
優香は激しく動揺し、隣に座っている男性を凝視した。(なんて大胆な…)心でそう思いつつ、次第にその男性の存在が気になって仕方がなくなってきた。せめて名前だけでも聞きたい。では、と照れるように立ち上がろうとするその男性に、思い切って声をかけた。
「あ、あの…」
言葉を遮るように、その男性は優香に声をかけた。
「君は、何て名前なの?」
顔から火が吹き出そうだ。
「優香…、佐藤優香です……。」
「優香、か。良い名前だね。…優香さん、今日はありがとう。じゃあ、またね。」
また、なんて機会はあるのだろうか?優香は名前も知らないその男性に、恋心を抱いていた。失恋した同士、優しげな眼差し…。ここで別れて、それでお終いなんて嫌だ。
「あの、良ければお名前を…」
歯が震えている、鼓動が速い。男性は嬉しそうな表情を見せ、そして答えた。
「クララ・クラレ。」
クララ?不思議な名前だ。偽名かと思い、からかわれた気分が一瞬した。だが真っ直ぐな眼差しで真面目に答えたのだ、という事を理解し、心の中で名前を復唱する。クララ・クラレ…。
では、と別れた後、其々が違う方向へ向かって前進する。ーまた、逢える。そう確信し、優香は顔を上げて歩いていった。夕空が一段と輝いて見える。


「…どうしたら、あんなに醜い顔を持って生まれてくるのだろうね。」
ドス黒く濁った眼で、冷たい声でクララは独り呟いた。顔は笑っているが、その笑みは嘲笑の笑みであった。
「いるんだろ、そこに」すっかり昏くなった周囲の景色の、一番暗い場所に向かって声を上げた。
暗闇の中から少女が現れた。どこか荒んだ風貌で、黒い髪に黒い瞳、死人のような白い肌を包む黒一色の扮装。彼女はくすり、と笑いクララに返事をする。
「御名答、屑野郎」
くすくすと嘲るように笑い続ける。
「今回も良い芝居だったのだが、お前にも見せてやりたかったな。あのカモの様子を」
「興味無いな、それが国家転覆に何か繋がるワケ?」
「無関係、至って健全な女遊び。」
「そんな事にアタシを巻き込むな、暇人めが」
悪い悪い、と心にも無い謝罪をし、二人は夜の街を歩んで行った。続く
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