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まだ宵ながら

翌日の昼下がり、若い男が山城屋の|暖簾《のれん》をくぐった。
山城屋は明日の水原とのことで頭がいっぱいだったので、また面倒な申し出をしにきた男がやってきたのだと思い、尊大な態度を取った。
が、続いて現れた男を見て驚き、その態度を改めた。

「これはこれは|掛川《かけがわ》の大旦那様ではありませんか。
このようなところまでわざわざいらっしゃらなくても、おっしゃってくださいましたらわたくしから参りますのに」

山城屋は自分よりかは年下だが、近年めきめきと力をつけ、この町の経済を動かしている実力者の掛川に揉み手ですり寄った。

「すまないね。
今日は愚息の伴なんだよ。
こんな私でも役に立つかもしれない、と連れてこられたんだ。
お忙しいのは重々承知の上だが、息子の話を聞いてくれないか」

掛川はにっこりと余裕の笑みでそう言った。
山城屋はすぐに部屋を整え、二人の客を通した。
「上座へ」と言う山城屋を断り、掛川は息子の後ろに控えて座った。
山城屋は仕方なく、主が座る上座に座り、息子と対峙した。

「このたびは不躾な訪問を快く受けてくださりありがとうございます」

「若旦那さんも顔を上げてください」

手をつきひれ伏す息子に山城屋は声をかけた。

「申し遅れました、わたくしは掛川の次男、|慶左《けいざ》と申します」

それを聞いて、山城屋の態度が少し変わった。
後を継いだ若旦那ではないのなら利用価値はない、と思ったからである。

「それで、このたびはどのようなご用件で」

「端的に申し上げます。
お嬢様をわたくしにください」

「ま、まあ、なんということを。
あれはもうご存知でしょうが、夫に先立たれております。
坊ちゃんにはもっと若くて美しい女人がお似合いかと。
御冗談はやめてお引き取りください」

「必ず幸せにいたしますゆえ、ぜひともお許しください」

顔を畳にすりつけたまま、慶左は言い続ける。

「いやいや、あれにはもったいないお話だ。
笑い|種《ぐさ》にもなっているし、あなたさんにも|障《さわ》る。
このままそっとしておいてやってください」

「ご事情があるのは承知の上でございます。
なにとぞなにとぞ、わたくしにお嬢様をお任せください」

「くどいですよ、坊ちゃん。
何を知っているのかわかりませんが、あれにもう恥をかかせないでやってくれないか。
お帰りください」

「いいえ、帰れません。
このままでは明日、お嬢様は水原様のところへ行ってしまわれる。
その前にどうしてもわたくしが手に入れたいのでございます」

慶左の言葉に山城屋はぎくりとした。
水原とは内密に話をしたはずなのに、なぜこの若者がそれを知っている?
後ろに控えている父親は呑気ににこにこしながら、眺めている。
どういうことだ。

「坊ちゃんは何か勘違いされていませんか。
私にはなんのことだかわかりませんな。
さあ、お客様がお帰り……」

「山城屋さん」

山城屋の言葉を遮るように後ろの掛川が声をかけた。

「息子同様、事情は知っているんですよ、私も。
だからね、|惣吉《そうきち》との新しい証文を携えて参りました。
慶左、早くご覧に入れなさい。
申し訳ありませんね、まだまだ至らないところが多くて」

愚かな息子を演じている慶左が懐から書を取り出し、山城屋の前に置いた。
惣吉と言えば、花街を統べる男であれに逆らってしまえばどんな目に遭うかしれないとも言われている。
恐る恐る手に取り、中を|検《あらた》める山城屋に掛川が言った。

「水原さんとどんな約束をされたのかわかりませんが、惣吉との約束をたがえると山城屋さんにどんな災難がふりかかってくるかわかりませんからね。
そんなこと、私は見たくないです。
心痛のお嬢さんが承諾すれば、うちの|倅《せがれ》のところへやってもいい、と書いてあるでしょう。
それに」

掛川も懐から書を出し、慶左に渡し、それは山城屋の手に渡った。

「大切なお嬢さんを心配する親心は私にもわかっているつもりです。
まずは誠意をお見せしましょう」

それは山城屋が高利貸の三松屋から借りているのときっちり同じ額が書かれており、その金子を持参金とし二人の結婚を許可するという証文で、名前はまだ書かれていなかった。

「相手をよく見て付き合いを決めることですよ。
目の前の甘いことだけにとらわれると、自分を失う。
どうです?
お貸しするのではなく差し上げる。
今後のことは当方にお任せいただく。
私は息子の手助けができて嬉しく思うし、素晴らしいお嬢さんを迎え入れるのも喜ばしいことだ」

名前を書けば、山城屋が掛川に対して「娘を不幸にしないだけの誠意としての金子」を条件に結婚を認めるという証文になる。
持参金なので借金ではない。
あの恐ろしい利息も増えることはない。
手の中の証文を震えながら山城屋は見つめる。
掛川は不敵な笑みを浮かべる。

「いいんですよ、このままお断りになっても。
しかし、惣吉がどう出ますかね。
あの男、私も恐ろしいと思っていますよ。
敵には回したくない男ですし、余生は穏やかに過ごしたいじゃありませんか」

山城屋は脂汗をかき、目をぐるぐると回していた。
すかさず慶左が言った。

「お嬢様の意向をお聞きしてもよろしいでしょうか」



よろけながら山城屋は呆けたような顔をして、奥の物置に掛川親子を連れていった。
こんなところにあの人を幽閉していたのかと思うと、慶左は山城屋に殴りかかりそうになったが、必死で抑え、そして扉の前に立ち叩いた。

「山城屋のお嬢様はいらっしゃいますか。
わたくしは掛川の次男、慶左と申します」

中で大きな物音がした。
心配で慶左はすぐに山城屋に詰め寄り、鍵を出させて扉をぶち壊したい衝動を額に何本も筋をこさえながらなんとか、なんとか持ちこたえた。

「お嬢様がおつらい思いをなさっているのは重々承知でございます。
ですが世の中はまだまだ素晴らしいものがたくさんございます。
どうかわたくしと一緒にそれらを楽しんでください。
そのためにお迎えに上がりました。
よろしくお願いいたします」

丁寧にそう言い終わると、扉の前で礼をした。
しばらくして中からくぐもった声がした。

「あなた様は本当に慶左様でいらっしゃいますか。
わたくしと楽しみたいという素晴らしいものとはどのようなものですか」

慶左はにやりと笑った。

「そうですね。
例えば暑い夏、冷たくひやした西瓜が食べとうございますね。
きっと涼しくなりましょうぞ」

中から嗚咽が漏れ聞こえてきた。
そして「あなた様と参ります。不束者でございますがよろしくお願いいたします」と声がした。
慶左は顔を輝かせた。
山城屋は震える手で錠前に鍵を入れ、扉を開けた。
そこにはやつれたあの幻のような瓜実顔があった。
慶左はすぐに羽織をその者にすっぽりとかぶせると、横抱きに抱え上げた。

「愚息が世話をかけましたな、山城屋さん」

掛川がゆっくりと言い歩き出した。
そのあとを慶左が続いた。


店のそばには慶左の兄である若旦那が待っていた。
そして店の中に入り、金子の詰まった木箱を下男に命じて運び入れた。

「後の始末をして参ります」と掛川に言い、若旦那は山城屋を捕まえ話を始めた。

慶左は腕の中の大切な者を用意していた|駕籠《かご》に乗せてやった。
そして優しく「そばにいるから」と言うと駕籠の横を歩き出した。
後ろからは大旦那が付き添うように歩いてくる。
沿道では何事かとざわめいてこの奇妙な駕籠と掛川親子を見る野次馬がいたが、慶左は誇らしげに、大旦那は涼しい顔をしてそのまま掛川の屋敷へと向かった。





駕籠が止まり、羽織から不安げに顔を出している瓜実顔の男を案内したのはなんと掛川の大旦那だった。
どうしていいかわからず、男が黙ってついていくと客間に通された。
そこには懐かしい顔があった。
花街のすべてを統べる惣吉が座っていた。
男が顔を晴れやかにする間もなく、大旦那は男に上座に座るように勧めた。
できない、と強く拒むが大旦那に抗うことなど叶うはずもなく、おどおどしながら男は上座に座った。

「まあまあ、そんなに緊張することはない。
なぁに、私の愚息がね、おまえさんにちょいと話があるからどうか聞いてやってほしいだけだよ」

笑いながらそう言うと大旦那が言うと、慶左が部屋に入ってきた。
後ろからは若旦那とその妻も従ってきた。
そして慶左の後ろに三人が控えるように正座した。
慶左が手をついて頭を下げ、三人も同じようにした。
男は声も上げられないほど驚いた。

「私はおまえさんを自由にするために迎えにいくから待っていてほしいとあの夜、言った」

慶左が頭をつけたまま話し出した。

「その気持ちは変わることはない。
あの恐ろしい場所からおまえさんを救い出してやりたかった。
おまえさんが行きたいところへどこへでも行かせてやりたいと考えていた。
しかし」

顔を上げた慶左はまっすぐに男を見た。
男は初めてまともに慶左の顔を見た。
あのときは暗くてはっきりと見ることは叶わなかった。
父親譲りの凛々しい眉とすっと通った鼻梁、切れ長の目でこちらを熱く見つめている。

「おまえさんがよければこのまま、どこにも行かずに私のところに留まってほしい。
そのために新居も構えた。
この通りだ、よろしく頼む」

慶左は再び、額を畳につけた。

「お頼み申します」

後ろの三人も声を揃えて言った。

困りに困って男は惣吉を見た。
惣吉は変わらずゆるゆると笑っている。

「おまえさんがしたいようにすればいいんだよ」

「そんな」

「掛川の大旦那様から慶左様とおまえさんとのことでお話があったのは、驚いたがね。
慶左さんはそりゃあ努力されて、ここまで立派にやりなさった」

「それまでの態度が酷かったからね」

惣吉の言葉の後を継ぐように大旦那が話し出した。

「倅はいつもなにかに面白くないらしく、能力はあるのに仕事に身が入らず、遊びも付き合いもなにもかもだらしないままずっといたんだ。
それが去年の夏のある日、大慌てでそれまでいい加減だった態度を改め、仕事に励み、惣吉さんや私、若旦那にも相談をし、遊びを慎み身綺麗にしておまえさんを迎える準備をしたんだ」

「そのように」

男は切なそうにまだ顔を伏せている慶左を見た。

「仕方ないだろう、一目惚れだったんだ。
おまえさんを盗みだしてもよかったが、それじゃあいつまでもおまえさんがお天道様の下へ出られねぇ」

耳たぶや首の後ろまで真っ赤にし、やけになりながら慶左は大声で叫んだ。

「こんなに求められることはそうそうないことだ、どうだい」

惣吉がゆっくり言い。

「困ったことがあったら私に言うといい。
すぐにでも離縁さしてあげよう」

と、大旦那も物騒なことを言い出した。

「そんなことさせるわけないじゃないかっ!」

たまらず慶左は声を荒げた。

男は座布団から下りて正座をし、きっちりと手を揃えてつくと頭を下げた。

「このような上から申し訳ございません。
不束者でございますが、よろしくお頼み申し上げます」

慶左の顔が輝いた。

「よかったな」

大旦那は満足そうに男を見ながら言った。

「おまえさんに是非とも話を受けてもらわないと、この夏、うちは涙でしょっぱい西瓜を食べる羽目になるからな。
気の早い倅でね、去年のうちにうまい西瓜を作る者を探し出して、すでにそこの畑の西瓜を買い取る約束をしているんだ」

「まあ」

「そんなことまで話さなくてもいいだろっ!」

真っ赤になって怒鳴る慶左を見て、男は笑った。
明るく溢れるように笑ったのである。
それは慶左が見たくて見たくてたまらなかった笑い顔であった。
そしてその部屋は皆の幸せな笑いで満ちたのである。



こうして男は「|帆高《ほたか》」という名を慶左からもらい、新しい生を受けた。
夏の西瓜が楽しみでたまらなかった。




***
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿りらむ

                         清原深養父

夏の夜はまだ始まったばかりだと思っているうちに、明るくなってしまった。
今頃どの雲を宿にして眠っているのだろう、あの美しいお月様は。






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あとがき https://etocoria.blogspot.com/2018/06/atogaki-madayoi.html
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