1.

 担任の引率により初めて入ったパソコン室。部屋の白い明かりが教室よりまぶしく、俺はぎゅっと目をつむった。みんなの頭に視界を塞がれながら周りを観察する。
 靴を脱いで上がるグレーの絨毯、たくさん並んだモニター、初めて嗅いだ不思議な匂い。椅子もくるくると回る椅子だ。施設とも、教室とも違う空間に俺は身じろぎする。
 出席番号順に指定された席に座ると、目の前には黒くつるつるした四角いものがはめ込まれたなにか、そして四角い小さなスイッチがたくさん並んだ板があった。その隣には、楕円の丸っこいなにかがある。
 これ、知ってる。施設の職員さんが使ってるやつ。パソコンだ。
 使っていいんだ。
 俺は目を輝かせた。教室では俺のものは奪われ、壊され、ぼろぼろになって返ってくるだけだったから。パソコンが一人一個等しく与えられた席で、俺は初めて一生徒としての権利を認めてもらえたような気がした。
 椅子を回し、わーわーと話し声で騒がしいパソコン室に、知らない大人が入ってくる。どうやら講師の先生らしい。笑っていながら助けてくれない担任とは打って変わって、常にだるそうな雰囲気があった。疲れ気味なのだろうか、施設長に近い顔をしていた。担任も、笑顔を剥ぎ取ったらあんな顔をしているのだろうかと想像した。
 ホワイトボードに黒のマーカーで、英語と数字の文字列がさらさらと記されていく。講師は、パソコンの電源を点けた上でロックというものを解除するように告げた。できない生徒が「せんせー」と声を上げる。
「パスワードってなんですかー?」
「とにかく入れてくださーい」
 新しい大人にも敬意のない態度の質問に、講師は気だるげな声で答える。
「えー?」
 生徒の声。呆れた顔をした講師はできた生徒に教えてもらうように、という指令を下した。できた生徒が席から立ち、困っているクラスメイトの元へ駆け寄る。
 キーボードを見てみる。ひらがなとアルファベットが俺の脳みそを襲う。わけのわからない並びに、俺は一瞬混乱した。
 それでも、やってみなくちゃわからない。俺も、と指をキーボードに伸ばす。
「大神、どうせパソコンもできないんだろ?」
 クラスメイトの放った言葉がさっとよみがえって、俺は手を机の下に下ろした。
 どうせ俺にはできない。やったところで失敗する未来は見えている。「大神くん、こうすればいいんだよ」と教えに来てくれる優しいクラスメイトもいない。ひとりぼっちの俺は、なにもできないんだ。
「どう?」
 下を向いていると、抑揚のない男性の声。いつの間にかあの講師がそばに来ていた。
「おれ、できません」
「やってみ?」
「でも」
「君ならできるよ」
 講師は「でも……」と繰り返す俺を前にして、それでも動かなかった。急に現れた他人の視線におどおどしながら、ホワイトボードに書かれたパスワードを覚え、震える指で一文字一文字キーボードを打つ。
「最後、エンターね」
 講師の指が右側の大きなキーを指す。ごつごつした骨の見える、俺より大きな大人の指だった。
 そのキーを押すと、「ようこそ」と表示され、少しののち画面が切り替わった。
「すごいじゃん」
 顔色を伺うと、口の端だけを上げて笑っていた。ログインが成功したことを確認すると、講師は前の席へ戻っていった。
 初めて褒められた……!
 たった一言の誉め言葉は、小さな俺をどぶ色の感情の海から救い出すには十分すぎた。俺は舞い上がってしまって、今までの鬱々とした気分はどこへやら、この授業を前向きに受けようという思考になっていた。
 ああ、ここにいていいんだ。
 淡々とした説明が続く。集中が切れて姿勢が悪くなったり、椅子を回したりする生徒も見える中、俺はぴんと背筋を伸ばして聞いていた。
 名前をタイプしようという課題で、言われた通りにカラフルな子供用のサイトで文字を打つ。キーに恐る恐る触れると、画面に結果が現れた。タイピング表を見ながら、間違えぬよう慎重に一つずつ入力する。
 教室では「やめて!」と叫んでも、他の生徒は俺をいじめることをやめない。俺がどう動こうと無駄に終わる。いつしか助けを求めることさえ、やめてしまった。しかし、これはどうだ。パソコンは、しっかりと俺のしたことに応えてくれる。俺は輝いた瞳で、モニターにデカデカと表示された「おおがみつきおみ」の文字を見つめていた。
 パソコンっておもしろい。俺のことを受け入れてくれるんだ。
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