1.
「用事ってなんですか、佐原さん」
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「よかったら今度、僕と食事行かない?」
聞こえた誘いに俺は耳を疑った。佐原さんを見る。彼の顔は笑っているように見える。
「別に断ってもらってもいいんだけどね」
明るい声で譲歩し、佐原さんは笑う。でもどこか、いつもの笑顔とは違う、断るなんていう選択肢はないだろう、という大人の威圧感が感じられた。
「えっと……私は」
「全部おごるからさ」
相手の口から否定の意思を紡がせないように、佐原さんは上からかぶせて話す。綾部さんは慌てた顔で彼を見たのち、目を伏せた。
社員という立場だからこそできるその卑怯な行為に、俺は一瞬彼をどう見ればいいのかわからなくなった。
笑顔の佐原さん。俺のタイピングを褒めてくれた佐原さん。みんなに慕われている佐原さん。そんな佐原さんが、俺の好きな人を食事に誘おうとしている。
一年半かけてコツコツと築いてきた尊敬できる大人像が、バラバラと崩れ去っていく音が聞こえた。
「ごめんなさい」
小さな、しかし確かな否定の声が聞こえて俺ははっと顔を上げる。綾部さんが佐原さんに謝っていた。その倒した背中の角度はレジでのクレーマーに対するそれと同じで、本当にその誘いを嫌がっていることが見てとれた。
どこかほっとしている自分がいた。
はーっと息を吐く声が聞こえる。佐原さんのものだった。異様に長く感じられたそのため息に、離れて見ていた第三者の俺までびくびくしてしまった。
「……残念だなぁ」
そう言って佐原さんは綾部さんを見つめる。ここからじゃ見えないが、その瞳は密かに未練に燃えていることだろう。綾部さんは姿勢を直し、気まずそうに微笑んでいる。笑う唇がふるふると震えていた。
あんな上司、見たくなかった。
呆然としていると、一言二言交わして綾部さんと別れた佐原さんが、なぜかこちらに歩いてくる。その口は余裕を含み、弧を描いている。俺はこっそりだったはずの観察がバレたことに気づき、急いでスマホを取り出して見ていないふりをする。パスコードをミスって嫌な汗が出た。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「よかったら今度、僕と食事行かない?」
聞こえた誘いに俺は耳を疑った。佐原さんを見る。彼の顔は笑っているように見える。
「別に断ってもらってもいいんだけどね」
明るい声で譲歩し、佐原さんは笑う。でもどこか、いつもの笑顔とは違う、断るなんていう選択肢はないだろう、という大人の威圧感が感じられた。
「えっと……私は」
「全部おごるからさ」
相手の口から否定の意思を紡がせないように、佐原さんは上からかぶせて話す。綾部さんは慌てた顔で彼を見たのち、目を伏せた。
社員という立場だからこそできるその卑怯な行為に、俺は一瞬彼をどう見ればいいのかわからなくなった。
笑顔の佐原さん。俺のタイピングを褒めてくれた佐原さん。みんなに慕われている佐原さん。そんな佐原さんが、俺の好きな人を食事に誘おうとしている。
一年半かけてコツコツと築いてきた尊敬できる大人像が、バラバラと崩れ去っていく音が聞こえた。
「ごめんなさい」
小さな、しかし確かな否定の声が聞こえて俺ははっと顔を上げる。綾部さんが佐原さんに謝っていた。その倒した背中の角度はレジでのクレーマーに対するそれと同じで、本当にその誘いを嫌がっていることが見てとれた。
どこかほっとしている自分がいた。
はーっと息を吐く声が聞こえる。佐原さんのものだった。異様に長く感じられたそのため息に、離れて見ていた第三者の俺までびくびくしてしまった。
「……残念だなぁ」
そう言って佐原さんは綾部さんを見つめる。ここからじゃ見えないが、その瞳は密かに未練に燃えていることだろう。綾部さんは姿勢を直し、気まずそうに微笑んでいる。笑う唇がふるふると震えていた。
あんな上司、見たくなかった。
呆然としていると、一言二言交わして綾部さんと別れた佐原さんが、なぜかこちらに歩いてくる。その口は余裕を含み、弧を描いている。俺はこっそりだったはずの観察がバレたことに気づき、急いでスマホを取り出して見ていないふりをする。パスコードをミスって嫌な汗が出た。
