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「……えっ?」

 僕は手に持っていた紙袋を落とした。くしゃ、ごとん、ごとん、という音が聞こえた。

 ラブはどこに行ってしまったんだ? 逃げた? 誰かにさらわれた?

 目の前の事実を信じられずに僕は風呂場へ足を入れる。タイルに人工海水は垂れていない。ということは、動いてから時間が経っている。昼間にさらわれたのかもしれない。

 浴槽を隅々まで見ても、ラブはいない。黒く長い髪の毛の一本も、灰色のつるっとしたうろこの一枚も浮いていなかった。ただ静けさを内包した人工海水だけが、そこに存在していた。水面は微塵も揺れてなどいなかった。彼女の面影は、どこにもなかった。

 もしかしてラブは逃げたかったのか?

 驚きと不安でいっぱいで思うように回らない僕の脳は、勝手にそんな仮説を思いつく。

 こんな小さい浴槽じゃ物足りないよね。水族館の方がずっとずっと広いよね。僕があのとき、あんなこと言わなければよかったんだ。そうすれば、こんなことは起こらなかった。ラブは水族館に行って、僕は一人で上京すればよかったんだ。

「僕が、ラブと、出会っていなければ」

 震えてかすれた男の声が風呂場に静かに響く。思考のコントロール権を失った僕は、ただ呆然と風呂場に立ち尽くすしかなかった。

 そんなとき、ふと頭に浮かんできたのは彼女の顔だった。

 ビデオ通話の画面に映る満足そうな顔のラブ。僕が買ってきたお刺身をとてもおいしそうに食べてくれたラブ。おかえり、とねぎらってくれたラブ。

 海が恋しいと、寂しそうな顔で呟いたラブ。不安な感情を少し宿した水色の瞳が、確かに僕を見つめていた。

 僕は立っていられなくなって座り込んだ。こわばった両手で頭を抱える。後悔のままに引き抜かれた髪の毛が、タイルの上に数本落ちた。

「あ、ああ、あ……」

 彼女と暮らした確かな一年間。その間に紡いできたあたたかな思い出は、僕ののどから絶望を絞り出す。
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