ノイズな僕は生きてはいけない

 あのとき、怒声の飛び交うリビングから手を引っ張ってくれたのは、逃げてもいいと教えてくれたのは、いつも駆だった。あのぐちゃぐちゃの家の中で、駆の存在だけが救いだった。寒空の下、歌を褒めてくれた彼の笑う顔を、いまだに覚えている。
 駆は手のかからない子供だね、とよく褒められていた。珍しく機嫌のよいときには、両親は必ずそう言って彼の頭を撫でた。当の本人の表情を、なぜか覚えていない。僕に対しては、そんな言葉をかけられたことはなかった。褒められた経験も記憶している限りではない。自然と、目をそむけていたのだろうか。
 今はあの家から逃げ出し、駆と二人小さなアパートの一部屋で暮らしている。僕も手伝いはするものの、家事や諸々の手続きなんかを任せきっている現実に、負担をかけてしまっている事実に、本当に申し訳なさを感じている。
 僕がいなければ、駆はもっとのびのびと過ごせていたのだろうか。僕がいなければ、駆は大学に行けたのだろうか。僕がいなければ、駆は今頃。
 僕が、生まれてこなかったら。
「お前なんか――」
 思い出すな。
 思い出すな。思い出すな! その先の言葉を思い出すな!
 過去のことだ! 終わったことだ! それにかける時間は無駄だ! 僕はただ、僕が幸せになることを考えていればいい! そう何度も言われただろう!!!
 ぎ、と歯を噛んであふれそうになる涙をこらえる。体が熱くて、苦しい。
 頭でいくら考えても、周りの人たちから温かい言葉をもらっても、記憶は消えてくれない。引っ越し先の住所は教えていないし、インタビューを見たと連絡を寄越したときにはブロックしたし着拒もしたのに、それでも、まだ。
 アパートの階段を音を立てながら駆け上がり、二階にたどり着く。上がった息のまま奥まで走り抜け、ドアの鍵をものすごい勢いで回し、中に入る。急ぎつつも大きな音は立てないように、ドアを引き寄せ、素早い手つきで鍵をかける。
 どくどくと狂ったように早い心臓が、部屋の静寂になだめられて落ち着いていく。ドアに背中を預けて、いくらか深呼吸をする。背中に伝わる冷たさが、もう安心できる家にたどり着いていることを教えてくれる。
「ふーっ……ふー…」
 吐く息がうるさい。熱を持った肺が、徐々にぬるくなっていく。火照った体が冷めていく。
 呼吸を整え、重心を足に置く。スニーカーを脱いで、家に上がる。空気はひんやりとしていて、よどみない。誰もいないのに足音を殺すのは癖だ。染みついてしまっている。
 ダイニングキッチンの窓から、レースのカーテン越しに昼の光が注がれている。整理の行き届いている、僕と弟の、安全な空間。帰ってこれたと僕はようやく実感した。
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