X高校文芸部リレー小説「扉」
2 柊 サトル(三年)
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
「は……」
扉を開けたその先にいたのは、見覚えのない少女だった。年は十六、七くらい。焦げ茶色の長い髪をさらさらと揺らして、黒い瞳でこちらをじいと見つめている。
「誰……」
「えー? 誰って、お兄ちゃん疲れてるのー?」
(えぇ……)
にこにこと笑う少女。本当に見覚えがないから、反応に困ってしまう。
「わたしはあなたの妹だよ、お兄ちゃん!」
「えっと、人違いでは」
「違うもん! あなたはわたしのお兄ちゃん!」
「で、でも」
「わたしがそう言ったらそれがルールなの! 分かったー?」
(話が通じない、困ったもんだなぁ)
きっとかまって欲しいお年頃なのだろう。いや、あれ、よく考えたら女子高生の妹なら兄に反抗しそうな気もするが、うぅん。
「分かりましたか?」
「えっ、あー、うん、はいはい」
「わーい! お兄ちゃんだー! あははー!」
しぶしぶ兄であることを認めると、少女、いや、妹は僕に抱きついて笑い出した。
(そんなに嬉しいのか、僕が兄であることが)
今まで妹にばかり目が向いていたから気づかなかったが、ここは誰かの家の玄関みたいだ。いや、うちの玄関かもしれないが、なぜか確信が持てない。
「あら、誰か帰ってきたの?」
大人の、女性の声。
「お兄ちゃんだよ、ママ!」
(母親か)
「お兄ちゃん、ママが呼んでるよ。いこ?」
「うん……」
なんとなく憂鬱な気分になるのには、理由がある。僕には、悲しいことに母親の記憶がない。ドア越しにいるあの人影は一体誰なのだろうか。かなり不安である。
妹がドアを開ける。
「ママー」
妹がママ、と読んだ女性。きっとあれは、僕のママなのだろう。
女性がこちらに振り向く。
「おかえり。今日も疲れたでしょう。よく頑張ったわね」
「……」
(誰だ)
まったく知らない、綺麗な女性。髪の色は妹と同じ焦げ茶色だが、顔はまったく似ていない。僕にも似ていない。本当に知らない人だ。
知らない女性が。
勝手にうちのキッチンに立って。
僕のことを撫ででくる。
「ふ、不法侵入だ! 警察!」
女性は僕の頭から手を離す。
「おお兄ちゃん!? どうしたの! 頭おかしくなっちゃったの!?」
「そうよどうしたのよ! 私はあなたのママで……」
「嘘をつくな! お前は、お前はっ!」
声が荒くなる。頭があつい。視界がぐるぐるする。
(なぜ僕は、こんなにも怒っているんだ?)
「僕の母親は! アンタみたいな! アンタみたいなっ! 人、じゃ、ない!」
「どういうことかしら?」
「だから! 僕の母親は……こんな、こと……しない」
「じゃあ、何をしてくれたの?」
「それは……」
「もし言ってくれたら、私もできるだけそういう風にするわ。怒らせるようなことして、ごめんなさいね」
女性は気まずそうに笑った。
(とはいっても)
僕は、母親の振る舞いを知らない。物心ついた頃には、すでに彼女はいなかったから。
それに、分からないことがもうひとつ。
(僕はなぜあんなにキレたんだ?)
僕はすぐ起こるようなタイプじゃない。むしろ怒りや悲しみは押し殺して、貯めに貯める派だ。昔からそうだ。
僕がキレ散らかすほど、介入してほしくなかったところだったのだろうか。
「……すいませんでした、いきなり、怒っちゃったりして」
「いいの、いいのよ。たとえ家族でも、家族じゃなくても、こういうことはあるわ」
「そうだよお兄ちゃん! 前向いて行こうよ!」
(なんなんだコイツは)
フォローしてくれたつもりなのだろうが、妹の発言は僕を少しイラつかせた。
(まだ怒ってるのか、僕は。年上なんだから、しっかりしなくちゃいけないのに)
「あーあー! この話はもうなし! 僕は怒ってないし、もういいですよね?」
「お兄ちゃんの言う通り! 仲直りだね、ママ?」
「そうね。うん、仲直り!」
女性は柔らかく微笑む。正直知らない人が家にいるのは気持ち悪いけど、コイツはどうにも動きそうもないし、仕方ない。
「っていうか二人とも。これからピアノのお稽古でしょう?」
「あ、そうだった!」
(そんなのあったっけか)
「お兄ちゃん! いこいこ!」
「あっ、ちょっと、待てって!」
妹はダッシュでキッチンを出る。僕もそれについていかなきゃいけないような気がして、走ってついていく。
「転ばないようにねー!」
「はーい!」
「……」
母親面をする女性の声に、僕は返事ができない。
「お兄ちゃん、早く靴はいて!」
「ま、待って」
いつの間にか靴を脱いでいたことに驚く。よくみると、僕の前に置いてあるのは……子供用の運動靴だ。
(僕は大人じゃなかったのか?)
まぁいいか。この際そんなことはどうでもいい。僕の使命は多分、妹を守ることだ。
運動靴を履く。紐を縛る。なんだか久々の、やわらかい靴の感じ。
「二人とも、いってらっしゃい」
女性の声。いつの間にかさっきの女性が僕の背後に立っていたみたいだ。背筋がぞわりとする。
「うん、いってきます! ほら、お兄ちゃんも」
「……」
「別に、無理して言わなくても……」
「いって、きます」
背を向けたまま僕がぼそりと呟くと、女性は少し驚いた声を上げて、「いってらっしゃい」と返事した。
(母親がいるというのも、悪くないな)
妹が玄関のドアを開ける。僕はその後ろについていく。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
「は……」
扉を開けたその先にいたのは、見覚えのない少女だった。年は十六、七くらい。焦げ茶色の長い髪をさらさらと揺らして、黒い瞳でこちらをじいと見つめている。
「誰……」
「えー? 誰って、お兄ちゃん疲れてるのー?」
(えぇ……)
にこにこと笑う少女。本当に見覚えがないから、反応に困ってしまう。
「わたしはあなたの妹だよ、お兄ちゃん!」
「えっと、人違いでは」
「違うもん! あなたはわたしのお兄ちゃん!」
「で、でも」
「わたしがそう言ったらそれがルールなの! 分かったー?」
(話が通じない、困ったもんだなぁ)
きっとかまって欲しいお年頃なのだろう。いや、あれ、よく考えたら女子高生の妹なら兄に反抗しそうな気もするが、うぅん。
「分かりましたか?」
「えっ、あー、うん、はいはい」
「わーい! お兄ちゃんだー! あははー!」
しぶしぶ兄であることを認めると、少女、いや、妹は僕に抱きついて笑い出した。
(そんなに嬉しいのか、僕が兄であることが)
今まで妹にばかり目が向いていたから気づかなかったが、ここは誰かの家の玄関みたいだ。いや、うちの玄関かもしれないが、なぜか確信が持てない。
「あら、誰か帰ってきたの?」
大人の、女性の声。
「お兄ちゃんだよ、ママ!」
(母親か)
「お兄ちゃん、ママが呼んでるよ。いこ?」
「うん……」
なんとなく憂鬱な気分になるのには、理由がある。僕には、悲しいことに母親の記憶がない。ドア越しにいるあの人影は一体誰なのだろうか。かなり不安である。
妹がドアを開ける。
「ママー」
妹がママ、と読んだ女性。きっとあれは、僕のママなのだろう。
女性がこちらに振り向く。
「おかえり。今日も疲れたでしょう。よく頑張ったわね」
「……」
(誰だ)
まったく知らない、綺麗な女性。髪の色は妹と同じ焦げ茶色だが、顔はまったく似ていない。僕にも似ていない。本当に知らない人だ。
知らない女性が。
勝手にうちのキッチンに立って。
僕のことを撫ででくる。
「ふ、不法侵入だ! 警察!」
女性は僕の頭から手を離す。
「おお兄ちゃん!? どうしたの! 頭おかしくなっちゃったの!?」
「そうよどうしたのよ! 私はあなたのママで……」
「嘘をつくな! お前は、お前はっ!」
声が荒くなる。頭があつい。視界がぐるぐるする。
(なぜ僕は、こんなにも怒っているんだ?)
「僕の母親は! アンタみたいな! アンタみたいなっ! 人、じゃ、ない!」
「どういうことかしら?」
「だから! 僕の母親は……こんな、こと……しない」
「じゃあ、何をしてくれたの?」
「それは……」
「もし言ってくれたら、私もできるだけそういう風にするわ。怒らせるようなことして、ごめんなさいね」
女性は気まずそうに笑った。
(とはいっても)
僕は、母親の振る舞いを知らない。物心ついた頃には、すでに彼女はいなかったから。
それに、分からないことがもうひとつ。
(僕はなぜあんなにキレたんだ?)
僕はすぐ起こるようなタイプじゃない。むしろ怒りや悲しみは押し殺して、貯めに貯める派だ。昔からそうだ。
僕がキレ散らかすほど、介入してほしくなかったところだったのだろうか。
「……すいませんでした、いきなり、怒っちゃったりして」
「いいの、いいのよ。たとえ家族でも、家族じゃなくても、こういうことはあるわ」
「そうだよお兄ちゃん! 前向いて行こうよ!」
(なんなんだコイツは)
フォローしてくれたつもりなのだろうが、妹の発言は僕を少しイラつかせた。
(まだ怒ってるのか、僕は。年上なんだから、しっかりしなくちゃいけないのに)
「あーあー! この話はもうなし! 僕は怒ってないし、もういいですよね?」
「お兄ちゃんの言う通り! 仲直りだね、ママ?」
「そうね。うん、仲直り!」
女性は柔らかく微笑む。正直知らない人が家にいるのは気持ち悪いけど、コイツはどうにも動きそうもないし、仕方ない。
「っていうか二人とも。これからピアノのお稽古でしょう?」
「あ、そうだった!」
(そんなのあったっけか)
「お兄ちゃん! いこいこ!」
「あっ、ちょっと、待てって!」
妹はダッシュでキッチンを出る。僕もそれについていかなきゃいけないような気がして、走ってついていく。
「転ばないようにねー!」
「はーい!」
「……」
母親面をする女性の声に、僕は返事ができない。
「お兄ちゃん、早く靴はいて!」
「ま、待って」
いつの間にか靴を脱いでいたことに驚く。よくみると、僕の前に置いてあるのは……子供用の運動靴だ。
(僕は大人じゃなかったのか?)
まぁいいか。この際そんなことはどうでもいい。僕の使命は多分、妹を守ることだ。
運動靴を履く。紐を縛る。なんだか久々の、やわらかい靴の感じ。
「二人とも、いってらっしゃい」
女性の声。いつの間にかさっきの女性が僕の背後に立っていたみたいだ。背筋がぞわりとする。
「うん、いってきます! ほら、お兄ちゃんも」
「……」
「別に、無理して言わなくても……」
「いって、きます」
背を向けたまま僕がぼそりと呟くと、女性は少し驚いた声を上げて、「いってらっしゃい」と返事した。
(母親がいるというのも、悪くないな)
妹が玄関のドアを開ける。僕はその後ろについていく。