短編集
海が好きだ。
だから、最後に行くならここがいい、と決めていた。
潮風。
海の香り。
寄せては返す、波の音。
ここは沖縄ではないから、コバルトブルーの海ではないけれど、僕は海ならどこでも好きだ。沖縄は、貝殻が砕かれてそれが砂となっているから、透き通るような綺麗な海なんだと、高校のときの修学旅行のガイドさんが言っていた。
下を見ると、そこにはどす黒い海が広がっている。この崖から少しでも足を踏み外せば飲み込んでやろうと言わんばかりに、波は激しく音を立てている。
上を見上げると、曇り空が広がっていた。五月にしては風も冷たく、僕は身震いをしそうになる。
涙は出なかった。僕はすでに、絶望してしまっていたのだろう。
どう頑張っても、報われない。
何も楽しいと思えない。
生きるのに、疲れた。
意識がほんの少し僕の制御を外れた瞬間、僕は海へと落ちていた。あっという間だった。
ざぶん。
水に沈めたじゃがいもってこんな気分なんだろうな。そんなことを考えた。
目を開けると、見慣れた青が広がっている。どこまでも続く、鈍い海の色。
痛みを感じて、思わずぎゅうと目を瞑る。海水は塩が含まれているから、目に入ると本当に痛い。そんなことは、前から分かっていたのに。
目の力を抜いて、全身の力を抜く。そうすると、幾分か痛みは引いた。
ふと唇に何かが触れたのを感じた。
それはぞっとするほど冷たかったけれど、ほんのちょっぴり温かかった。
あぁ、僕は魚とキスをしているんだな。
しばらくすると、その感触は消えた。
「おにーさん。生きてるー?」
少女の声だった。
驚いて目を開ける。
そこには、少女がいた。白くて長い髪、陶器のような真っ白い肌、柔らかそうな白い生地のワンピースは、海の中でゆらゆらと動いている。頭には、白くて丸い何か──おそらくミズクラゲだろう──がくっついている。
どこまでも白いその容姿はまるで白化した珊瑚のようで、彼女がこの世のものではないことを暗示しているようだった。
「あ、目開けたね、おにーさん」
少女が目を開く。桃色の瞳に、頭のクラゲと同じ、四つ葉の模様が水色で入っている。人ではありえないその両眼に、僕は声をあげてしまった。
「ごめんごめん、怖かったよね」
少女は目を閉じた。白くて長い睫毛を僕はつい見てしまう。
「ね、おにーさん。もし良かったらさ、お散歩しない?」
「……え?」
「お散歩だよ、お散歩。おにーさんも、海、大好きなんでしょ」
「うん……」
返事をして、僕は海中で声が出せることに驚いた。
「あ、がっ、あっ」
「大丈夫?」
「なんで、声、出せてるのかなって」
「ふふ、それは私の力なのです」
少女はにこ、と微笑む。その笑みは落ち着いた大人のものに似ていて、少女のはずなのにどうして、ここまで僕は落ち着いていられるのだろう、と不思議に思った。
「ほら、行こうよ」
少女は僕の手を取る。体が勝手に少女の泳ぐ方向へと動いていく。力を入れていないのに、動いていく。
ふわり、ふわり。
少女の泳ぎを表すなら、そんな響きが似合っていた。
海の中は想像していたより心地良くて、僕はうとうとしてしまう。そんな様子の僕を少女は責めることもなく、ただにこにこと笑って泳いでいく。
しばらく泳いだ後、僕は驚いた。上から見た時とは想像もつかないほど、海の中は綺麗だった。
まるで図鑑に載っているかのような珊瑚礁、それに群がる小さくてカラフルな魚たち。ここは本当に沖縄なのではないのかと疑うほど、南国の温かい海の雰囲気を醸し出していた。
「ね、どう? 温かい海は好き?」
「うん、好きだ。なんだか明るい気分になれる」
「そうだよね。わかる、その気持ち」
少女はにこりと笑う。小さい魚の群れが目の前を通り過ぎていった。
「しばらくここにいる? それとも深海まで行っちゃう?」
「深海、行けるの?」
「そりゃもちろん。私はすごいパワーの持ち主なのです」
人差し指を立ててくるんと回す少女。悪戯っ子のように彼女は笑ってみせた。
「じゃ、行こっか」
少女に手を握られ、また泳いでゆく。今度は下の方向へ、深く深く、どこまでも深く。
深く沈む中、すれ違う魚たちが僕たちを見つめていた。すぐ興味を失って、別の方向へ泳いでいく。僕たちのことは歓迎もしていないけれど、嫌ってもいないように感じられた。
気づいたら太陽光が届かない深海へ到着していた。さっきの温かい海とは違い、真っ暗だ。
「今、明るくするね」
少女の頭上のクラゲが発光する。優しい白色の照明だ。周りにいる深海魚たちが僕たちのスペースを確保しようとどいてくれた。
「ここなら、誰にも聞かれないから」
海底に座りながら、少女はつぶやく。僕も隣に座る。
「なにか、悩んでるんでしょ?」
「どうして、わかったの」
「海にダイブする人なんてなかなかいないからね。すぐわかったよ」
少女は寂しそうに笑う。
「もう、生きてる意味、ないんじゃないかって」
僕は小さく口にする。
浅い海の光景を見ていた興奮はどこかにいってしまい、どこまでも黒い深海は僕の暗い気持ちを、優しく闇に沈めてくれるような気がした。
「うん」
少女は否定も肯定もせず、ただ頷いてくれる。
「どうせ僕が頑張ったって何も変わらないし、なんかもう、疲れちゃったんだ」
「うん」
目から温かいものが溢れる。僕は泣いていた。涙がすぐ海にとけていくから、すぐにはわからなかった。でも、泣いていた。僕は泣いていた。
「……ごめん」
「いいよ」
申し訳なくて謝ると、少女は僕の背中をさすってくれた。その優しさに、僕はまた泣いてしまう。
十分ほどそうしていただろうか。僕の気持ちは少し晴れて、少女に「大丈夫」と伝えることができた。
「本当にいいの?」
「うん。ありがとう。たくさん泣いて、少しすっきりしたよ」
「そっか。よかった!」
少女は満面の笑みを浮かべる。僕もつられて口角が上がってしまう。
「……そろそろ時間かな」
少女はぼそりとつぶやく。
「何が?」
「人があんまりここにいすぎると、私みたいに戻れなくなっちゃうから」
「でも、僕は」
まだ、ここにいたい。ずっとここに、海藻みたいに漂っていたい。
「だめなの。決まりなの。私のマイルール。寂しいけど、お別れだよ」
そう言うと少女は目を開いて、ピンク色の四葉を僕に見せる。
「君はまだ、やることがあるはずだよ。それでもつらかったら、また来てよ」
くるくると、少女は白く細い人差し指を僕の目の前で回す。
「いつでもここで、待っているから」
最後に見たのは、少女の微笑みだった。
***
波の音で目を覚ました。僕は浜辺で倒れていた。口の中の砂利を吐き出す。起き上がって服についた砂つぶを払う。
空を見上げるともう真っ暗で、田舎特有の間隔の空いた電灯だけが光っていた。月は見えなかった。新月だろうか。
「へぶっし!」
くしゃみを一つする。寒い。鼻水をすする。海風って夜はこんなに寒いのか。
帰らないと。
でも、帰ることを考えていなかったんだった。このまま、死ぬつもりだったから。
近くに打ち上げられていた財布を開けてみると多めにお金が入っていた。これなら、タクシーで駅までいけるはず。それか時間が許すなら、バスもありだな。
ポケットを探るとスマートフォンが入っていた。電源も普通に入って、僕はこの幸運に感謝した。本当によかった。帰り道を検索すると、ぎりぎり帰れそうだった。野宿しないで済む。これで、帰れる。
さっきまで命を絶とうとしていたのに、帰れるってことだけでこんなに喜べるとは。テンションの違いに僕は一人笑う。
なにしてたんだろうな。僕。
通りかかったタクシーを呼び、駅まで行ってもらうようにお願いする。運転手は初老の男性だった。
車が走りだす。
「お客さん、ちょっと聞いてもいいですか」
「はい」
「もしかしてお客さん、命を絶とうとしていませんでしたか?」
図星だ。僕は驚いてぎゅっと喉を鳴らしてしまう。
「そうです」
「やっぱり? いや、こんな田舎でろくに荷物も持ってなかったから、観光客じゃないなぁと思ってたんですよ」
運転手は、はははと笑う。
「どうです、田舎は。何もないところですけど、海はとってもいいでしょう?」
「ええ、本当に。僕、海好きなので。最後に行くならここがいいなって思ってました」
「ははぁ、なるほど。いいですね。好きなところで終わりにする。素晴らしいじゃありませんか」
「それに」
僕は海中での不思議な出来事を話した。あの真っ白な少女のことも。
「ほう……まだ、美波ちゃんはいるんですね」
「美波ちゃん?」
「その少女のことですよ。たまに会う人がいらっしゃるんですよね。お客さんも見ましたか。僕の同級生でね。随分前に亡くなっているんですよ。海に飛び込んでね」
「海が好きな、優しい子だったなぁ」と運転手は言う。そうか、あの子は幽霊だったんだ。
「僕が、美波さんにしてあげられることってありますか」
「そうですね……」
運転手は少し間を置いて、僕に提案した。
***
「うみだー!」
「ちょっとこうちゃん、日焼け止め塗らなきゃ!」
「わかったよ、ママ。早く塗って!」
「はいはい……。大樹も見てないで手伝って!」
「わかったよ、美月」
数年後。僕らは海に来ていた。あのとき死のうと決意していた、あの海だ。
あのときは五月だったからガラガラだったけど、夏真っ盛りの今は人が多い。迷子になってしまいそうだ。
あの後。僕は勤めていた会社を辞めた。そして、良い転職先を見つけ、仕事に必要以上のストレスを感じなくなった。社内結婚もし、子供も生まれた。つらいことはあるけれど、順調に楽しい未来を歩んでいるように思う。
あのときの僕に言いたい。生きていれば必ずいいことがあると。しんどいときは視野が狭くなっている可能性が高いと。大抵のことはなんとかなると。
自分の分まで日焼け止めを塗ったら、波打ち際まで歩く。妻と子供もついてくる。サンダルに海水が入ってきてつめたい。波の寄せては返す音が心地いい。
手を合わせる。もちろん、あの子に向けてだ。
「ねぇ大樹、いつも海行くと祈ってるけどさ、何を祈ってるの?」
「きになるー」
「内緒」
「えぇー」と二人は残念そうな声を上げる。
あのとき、助けてくれたあなたへ。
僕は、まだやることがあったみたいです。あなたの仰る通りでした。
今ではこうして、笑顔で海に来ることができるようになりました。
ありがとうございます。
「……美波さん」
ぼそりと呟くと、海面に半球のようなふわふわしたものが現れた。
「美波さん!?」
僕が声を上げると、ふわふわは一回転したのち海へ沈んでいってしまった。
もしかしたら、ただのビニール袋だったのかもしれない。他のクラゲだったのかもしれない。
でも、きっとあのふわふわはあの白い少女の頭のミズクラゲだ。僕はそう、確信していた。
「美波さんって誰?」
声がして振り返ると、ものすごい形相の美月が僕のことを睨んでいた。
「うーわーき、うーわーき」
浩太朗も美月側についているようだ。どこでそんな言葉覚えたんだ。
「えーっと、これには深いわけが……」
「浮気してるのね!?」「違う!」「嘘つかないで!」「嘘ついてない!」「うわき! パパうわき!」
説明がややこしくなりそうだなと思いつつ、僕はこの瞬間を楽しんでいた。
だから、最後に行くならここがいい、と決めていた。
潮風。
海の香り。
寄せては返す、波の音。
ここは沖縄ではないから、コバルトブルーの海ではないけれど、僕は海ならどこでも好きだ。沖縄は、貝殻が砕かれてそれが砂となっているから、透き通るような綺麗な海なんだと、高校のときの修学旅行のガイドさんが言っていた。
下を見ると、そこにはどす黒い海が広がっている。この崖から少しでも足を踏み外せば飲み込んでやろうと言わんばかりに、波は激しく音を立てている。
上を見上げると、曇り空が広がっていた。五月にしては風も冷たく、僕は身震いをしそうになる。
涙は出なかった。僕はすでに、絶望してしまっていたのだろう。
どう頑張っても、報われない。
何も楽しいと思えない。
生きるのに、疲れた。
意識がほんの少し僕の制御を外れた瞬間、僕は海へと落ちていた。あっという間だった。
ざぶん。
水に沈めたじゃがいもってこんな気分なんだろうな。そんなことを考えた。
目を開けると、見慣れた青が広がっている。どこまでも続く、鈍い海の色。
痛みを感じて、思わずぎゅうと目を瞑る。海水は塩が含まれているから、目に入ると本当に痛い。そんなことは、前から分かっていたのに。
目の力を抜いて、全身の力を抜く。そうすると、幾分か痛みは引いた。
ふと唇に何かが触れたのを感じた。
それはぞっとするほど冷たかったけれど、ほんのちょっぴり温かかった。
あぁ、僕は魚とキスをしているんだな。
しばらくすると、その感触は消えた。
「おにーさん。生きてるー?」
少女の声だった。
驚いて目を開ける。
そこには、少女がいた。白くて長い髪、陶器のような真っ白い肌、柔らかそうな白い生地のワンピースは、海の中でゆらゆらと動いている。頭には、白くて丸い何か──おそらくミズクラゲだろう──がくっついている。
どこまでも白いその容姿はまるで白化した珊瑚のようで、彼女がこの世のものではないことを暗示しているようだった。
「あ、目開けたね、おにーさん」
少女が目を開く。桃色の瞳に、頭のクラゲと同じ、四つ葉の模様が水色で入っている。人ではありえないその両眼に、僕は声をあげてしまった。
「ごめんごめん、怖かったよね」
少女は目を閉じた。白くて長い睫毛を僕はつい見てしまう。
「ね、おにーさん。もし良かったらさ、お散歩しない?」
「……え?」
「お散歩だよ、お散歩。おにーさんも、海、大好きなんでしょ」
「うん……」
返事をして、僕は海中で声が出せることに驚いた。
「あ、がっ、あっ」
「大丈夫?」
「なんで、声、出せてるのかなって」
「ふふ、それは私の力なのです」
少女はにこ、と微笑む。その笑みは落ち着いた大人のものに似ていて、少女のはずなのにどうして、ここまで僕は落ち着いていられるのだろう、と不思議に思った。
「ほら、行こうよ」
少女は僕の手を取る。体が勝手に少女の泳ぐ方向へと動いていく。力を入れていないのに、動いていく。
ふわり、ふわり。
少女の泳ぎを表すなら、そんな響きが似合っていた。
海の中は想像していたより心地良くて、僕はうとうとしてしまう。そんな様子の僕を少女は責めることもなく、ただにこにこと笑って泳いでいく。
しばらく泳いだ後、僕は驚いた。上から見た時とは想像もつかないほど、海の中は綺麗だった。
まるで図鑑に載っているかのような珊瑚礁、それに群がる小さくてカラフルな魚たち。ここは本当に沖縄なのではないのかと疑うほど、南国の温かい海の雰囲気を醸し出していた。
「ね、どう? 温かい海は好き?」
「うん、好きだ。なんだか明るい気分になれる」
「そうだよね。わかる、その気持ち」
少女はにこりと笑う。小さい魚の群れが目の前を通り過ぎていった。
「しばらくここにいる? それとも深海まで行っちゃう?」
「深海、行けるの?」
「そりゃもちろん。私はすごいパワーの持ち主なのです」
人差し指を立ててくるんと回す少女。悪戯っ子のように彼女は笑ってみせた。
「じゃ、行こっか」
少女に手を握られ、また泳いでゆく。今度は下の方向へ、深く深く、どこまでも深く。
深く沈む中、すれ違う魚たちが僕たちを見つめていた。すぐ興味を失って、別の方向へ泳いでいく。僕たちのことは歓迎もしていないけれど、嫌ってもいないように感じられた。
気づいたら太陽光が届かない深海へ到着していた。さっきの温かい海とは違い、真っ暗だ。
「今、明るくするね」
少女の頭上のクラゲが発光する。優しい白色の照明だ。周りにいる深海魚たちが僕たちのスペースを確保しようとどいてくれた。
「ここなら、誰にも聞かれないから」
海底に座りながら、少女はつぶやく。僕も隣に座る。
「なにか、悩んでるんでしょ?」
「どうして、わかったの」
「海にダイブする人なんてなかなかいないからね。すぐわかったよ」
少女は寂しそうに笑う。
「もう、生きてる意味、ないんじゃないかって」
僕は小さく口にする。
浅い海の光景を見ていた興奮はどこかにいってしまい、どこまでも黒い深海は僕の暗い気持ちを、優しく闇に沈めてくれるような気がした。
「うん」
少女は否定も肯定もせず、ただ頷いてくれる。
「どうせ僕が頑張ったって何も変わらないし、なんかもう、疲れちゃったんだ」
「うん」
目から温かいものが溢れる。僕は泣いていた。涙がすぐ海にとけていくから、すぐにはわからなかった。でも、泣いていた。僕は泣いていた。
「……ごめん」
「いいよ」
申し訳なくて謝ると、少女は僕の背中をさすってくれた。その優しさに、僕はまた泣いてしまう。
十分ほどそうしていただろうか。僕の気持ちは少し晴れて、少女に「大丈夫」と伝えることができた。
「本当にいいの?」
「うん。ありがとう。たくさん泣いて、少しすっきりしたよ」
「そっか。よかった!」
少女は満面の笑みを浮かべる。僕もつられて口角が上がってしまう。
「……そろそろ時間かな」
少女はぼそりとつぶやく。
「何が?」
「人があんまりここにいすぎると、私みたいに戻れなくなっちゃうから」
「でも、僕は」
まだ、ここにいたい。ずっとここに、海藻みたいに漂っていたい。
「だめなの。決まりなの。私のマイルール。寂しいけど、お別れだよ」
そう言うと少女は目を開いて、ピンク色の四葉を僕に見せる。
「君はまだ、やることがあるはずだよ。それでもつらかったら、また来てよ」
くるくると、少女は白く細い人差し指を僕の目の前で回す。
「いつでもここで、待っているから」
最後に見たのは、少女の微笑みだった。
***
波の音で目を覚ました。僕は浜辺で倒れていた。口の中の砂利を吐き出す。起き上がって服についた砂つぶを払う。
空を見上げるともう真っ暗で、田舎特有の間隔の空いた電灯だけが光っていた。月は見えなかった。新月だろうか。
「へぶっし!」
くしゃみを一つする。寒い。鼻水をすする。海風って夜はこんなに寒いのか。
帰らないと。
でも、帰ることを考えていなかったんだった。このまま、死ぬつもりだったから。
近くに打ち上げられていた財布を開けてみると多めにお金が入っていた。これなら、タクシーで駅までいけるはず。それか時間が許すなら、バスもありだな。
ポケットを探るとスマートフォンが入っていた。電源も普通に入って、僕はこの幸運に感謝した。本当によかった。帰り道を検索すると、ぎりぎり帰れそうだった。野宿しないで済む。これで、帰れる。
さっきまで命を絶とうとしていたのに、帰れるってことだけでこんなに喜べるとは。テンションの違いに僕は一人笑う。
なにしてたんだろうな。僕。
通りかかったタクシーを呼び、駅まで行ってもらうようにお願いする。運転手は初老の男性だった。
車が走りだす。
「お客さん、ちょっと聞いてもいいですか」
「はい」
「もしかしてお客さん、命を絶とうとしていませんでしたか?」
図星だ。僕は驚いてぎゅっと喉を鳴らしてしまう。
「そうです」
「やっぱり? いや、こんな田舎でろくに荷物も持ってなかったから、観光客じゃないなぁと思ってたんですよ」
運転手は、はははと笑う。
「どうです、田舎は。何もないところですけど、海はとってもいいでしょう?」
「ええ、本当に。僕、海好きなので。最後に行くならここがいいなって思ってました」
「ははぁ、なるほど。いいですね。好きなところで終わりにする。素晴らしいじゃありませんか」
「それに」
僕は海中での不思議な出来事を話した。あの真っ白な少女のことも。
「ほう……まだ、美波ちゃんはいるんですね」
「美波ちゃん?」
「その少女のことですよ。たまに会う人がいらっしゃるんですよね。お客さんも見ましたか。僕の同級生でね。随分前に亡くなっているんですよ。海に飛び込んでね」
「海が好きな、優しい子だったなぁ」と運転手は言う。そうか、あの子は幽霊だったんだ。
「僕が、美波さんにしてあげられることってありますか」
「そうですね……」
運転手は少し間を置いて、僕に提案した。
***
「うみだー!」
「ちょっとこうちゃん、日焼け止め塗らなきゃ!」
「わかったよ、ママ。早く塗って!」
「はいはい……。大樹も見てないで手伝って!」
「わかったよ、美月」
数年後。僕らは海に来ていた。あのとき死のうと決意していた、あの海だ。
あのときは五月だったからガラガラだったけど、夏真っ盛りの今は人が多い。迷子になってしまいそうだ。
あの後。僕は勤めていた会社を辞めた。そして、良い転職先を見つけ、仕事に必要以上のストレスを感じなくなった。社内結婚もし、子供も生まれた。つらいことはあるけれど、順調に楽しい未来を歩んでいるように思う。
あのときの僕に言いたい。生きていれば必ずいいことがあると。しんどいときは視野が狭くなっている可能性が高いと。大抵のことはなんとかなると。
自分の分まで日焼け止めを塗ったら、波打ち際まで歩く。妻と子供もついてくる。サンダルに海水が入ってきてつめたい。波の寄せては返す音が心地いい。
手を合わせる。もちろん、あの子に向けてだ。
「ねぇ大樹、いつも海行くと祈ってるけどさ、何を祈ってるの?」
「きになるー」
「内緒」
「えぇー」と二人は残念そうな声を上げる。
あのとき、助けてくれたあなたへ。
僕は、まだやることがあったみたいです。あなたの仰る通りでした。
今ではこうして、笑顔で海に来ることができるようになりました。
ありがとうございます。
「……美波さん」
ぼそりと呟くと、海面に半球のようなふわふわしたものが現れた。
「美波さん!?」
僕が声を上げると、ふわふわは一回転したのち海へ沈んでいってしまった。
もしかしたら、ただのビニール袋だったのかもしれない。他のクラゲだったのかもしれない。
でも、きっとあのふわふわはあの白い少女の頭のミズクラゲだ。僕はそう、確信していた。
「美波さんって誰?」
声がして振り返ると、ものすごい形相の美月が僕のことを睨んでいた。
「うーわーき、うーわーき」
浩太朗も美月側についているようだ。どこでそんな言葉覚えたんだ。
「えーっと、これには深いわけが……」
「浮気してるのね!?」「違う!」「嘘つかないで!」「嘘ついてない!」「うわき! パパうわき!」
説明がややこしくなりそうだなと思いつつ、僕はこの瞬間を楽しんでいた。
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