短編集

「兎には気をつけるのですよ」
 執事にそう言われた。私はこう返事する。

「な、なんのことですの?」
「いえ、ただ兎には気をつけてくださいね、という話です。薫子お嬢様」
 執事は私が座って紅茶を飲む横に立っている。表情は動かない。

 私はお嬢様だ。桜小路家の後継である。でも、普通に社会人として働いている。
 そう、ここは日本。桜小路家は代々お酒の会社だけど、私はお酒が飲めなくて家の人たちからは良い目では見られていない。ひとりぼっちだった。

「新しい紅茶を淹れてきましょうか」
「ハーブティーが飲みたいわ。リラックスしたいの」
「では、カモミールやラベンダーなどはいかがでしょうか」
「カモミールでお願いするわ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 執事はすっと部屋を出る。

 嫌われ者の私にも味方がいる。この執事、英一郎だ。
 彼は数年前、私の世話係として就職してきた。なんでも転職してきたから、とのこと。前職が何だったかは知らない。聞いても「秘密です」としか返ってこなかった。

「英一郎」
「はい、お嬢様」
 キッチンに行ったはずなのに、呼べばいつもそばに来てくれる。不思議なやつだ。じっと顔を見る。なかなか良い顔をしているけど、私の好みではない。所詮は執事、仕事なのだから仕方ない。クビにするようなこともしていないし。

「……薫子お嬢様? 何かご用ですか」
 首を傾けて英一郎は私に問う。

「なんでもないわ」
「……左様ですか。おっと、カモミールティーができた頃合いですね。お持ちしますね」
 にこりともせずにキッチンへ向かう背中を見る。少し笑えばいいのに。今までの執事は愛想が良かった。そう、愛想だけ。結局、みんな家と合わない私を嫌って離れていく。みんなお父様の味方につくの。

 でも、英一郎だけは違う。私のそばについてきてくれている。

「お待たせしました」
 英一郎が部屋に戻ってきた。手慣れた手つきでカモミールティーをカップに注いでいく。私の私物で、イギリスのものだ。カモミールの特徴的な香りと共に、白い器から湯気が立ち上る。

「どうぞ」
「ありがとう」
「いえ、仕事ですから」
「英一郎も座っていいのよ」
「では、失礼して」
 英一郎は向かいに座る。背筋がすっと伸びていて、なんかもう、背筋のなさに負けていて泣きそうになる。

「英一郎も飲む?」
「いえ、私は……」
「おいしいから飲みなさいよ」
 渋々、と言った様子で眉間に皺を寄せながら、英一郎は空いているカップにお茶を入れる。入れたはいいものの、飲もうとしない。

「……飲まないの?」
「猫舌ですので、冷ましているのです」
「そう」
 一口、カモミールティーを飲む。ふわ、とリラックスできる香りが体に広がる。とてもおいしい。

 英一郎はじっとティーカップの中の黄緑の液体を見つめている。「あ」と声を上げる。
「唐突ですが兎について学びませんか、お嬢様。本を持ってきますね」
「えぇ? ちょっと」
 執事は燕尾服をなびかせてどこかへ行ってしまう。おそらく書庫だろう。

「もう、お茶はどうするのよ……」
 はぁ、とため息をつく。英一郎はどこか行動が読めないところがある。それが彼の不思議さを加速させているようなのだけれど。

 寂しくお茶を飲んでいると、飲み終わる頃に英一郎が戻ってきた。
「こちらになります。『兎の生態』」
「……ねぇ、なんでこんなの読まなきゃいけないの?」
「だめ、ですか」
 あからさまにがっくりとした様子を見せるから、私は仕方なく「いいわよ」と言ってあげた。

 英一郎は本の全てではなく、要点をかいつまんで話してくれた。草食動物で、足が速く、そしてストレスに弱いこと。
 中でも、私はある箇所が気になった。

「兎の骨は軽く、鳥と同じくらいの重さしかありません。骨がとても折れやすいのです」
「へぇ……」
 知らない情報だった。英一郎は骨格標本の図の載ったページを開く。うーん、なかなかグロテスク。

「見ていたくないわ」
 私が嫌そうな顔をすると、英一郎は本を見てうーんと唸ったのち、本を閉じた。

「では、今日はここまでといたしましょうか」
「え、明日もやるの? もう嫌よ、骨なんて見たくないわ」
「左様ですか。あ、お茶いただきますね」

 すっかり冷め切ったカモミールティー。執事はそれをぐいと一気に飲み干すと「本を片付けてきますね」と部屋を後にした。

「なんなの、いきなり」
 私は一人ぼやいた。呟きが部屋に寂しく響いた。

***

「兎には気をつけるのですよ」
「……わかったわ」

 翌日。
 謎の忠告を受けながら、私は黒いパンプスを履く。振り返っても英一郎はいつもの無表情のままだ。

 鏡に映る自分を見る。スーツ姿はあまりキマっていない。私はやっぱりゴージャスなワンピースが似合う。でも、仕事だからそんなこと言ってられないけど。

「いってらっしゃいませ」
 英一郎はぺこ、と私に頭を下げる。綺麗な三十度のお辞儀だ。

「行ってくるわ」
 家を後にする。今日の空は曇っていて、少し気分が落ちる。

 何か、嫌なことでも起きるのかしら。いや、きっと気のせいね。嫌なことなんてあった日には、この私が笑い飛ばしてやるもの!

***

「退学届をもらいたいんですが」
「親御さんには相談されましたか?」
「いえ……反対されると思ってしてません」
「どちらにしろ、退学するにはご両親の同意が必要です。一度話し合ってきてからまた来てください」
「……分かりました」

 男子生徒はしょんぼりしながら帰っていく。学校がしんどいのだろう。私もお嬢様だからといじめられていたから、気持ちは分かる。でも仕方ない。これが私の仕事なのだから。

 私の仕事は中学校の事務だ。窓口に近い席だから、よく受付の業務をしている。仕事中のときの私は、お嬢様口調ではない。お嬢様の部分は封印している。一般人モードに切り替えている。

 自分の席に戻り、パソコンを再び開く。教科書の発注を任されているのだ。
 しばらく作業をし、時計を見る。もうすぐお昼だ。あの子が来る。

「桜小路さん、お昼行きませんか」
 可愛らしい声が聞こえた。声のした方を向くと、そこにはセミロングの髪をした女性がいた。

「佐倉さん! 今行きます」
 財布を持って事務室を出る。佐倉さんの待っている窓口へ向かう。
 佐倉さんはいつも通り可愛らしく、その可愛さに女の私でも嫉妬してしまうほどだ。

「今日の日替わりは……」
「オムハヤシですわ」
「さすが桜小路さん、よく知ってますね!」
「いえ、そんなことありませんわ」
 佐倉さんの前ではお嬢様言葉の封印を解くことができる。彼女は、私のお嬢様の部分を受け入れてくれている数少ない友人の一人だ。

「今日の授業はいかがでして?」
「それが……みんな駄弁っているんですよね。注意すると逆に嫌われるし、なかなか難しいです」
「あー……おつらいですわね」
 佐倉さんは英語の先生だ。新人で、とても優しいと評判の先生だ。

 学校の廊下を歩く。お昼の時間だから生徒たちが騒がしい。週に一度だけ、佐倉さんと時間が合うから学食を利用している。普段はコンビニのおにぎりだ。

 なぜ佐倉桜さんと|私《わたくし》桜小路薫子が一緒にいるのかというと、佐倉さんがこちらに来たすぐの頃事務室に来ていただいて、なんだか意気投合してしまったからだ。お互い特殊な同居人(佐倉さんの場合はお隣さん)がいること、同じ職場だということなどが合致して気が合ってしまったのだ。

「オムハヤシにしますか?」
「えぇ、私はそうしましてよ。佐倉さんは?」
「そうですね……私も同じものを頼もうかな」
「お、いいですわね!売り切れにならないうちに行きましょう」
 オムハヤシは人気メニューなのだ。食券が売り切れる前に行かなくては。

***

「おいしいですわ〜!」
「すごい勢い……お好きなんですね」
「そうですわね! 私、食堂のメニューではオムハヤシが一番好きなんですわ! んー、おいしい〜!」

 食堂は学生で満杯で、私たちは隅の席でひっそり食べることになった。
 いつも生徒たちに混じって日替わりメニューを見にいく。オムハヤシの日は脳内で狂喜乱舞する。あぁ、おいしい。

「そうだ、佐倉さん」
 思い出した。そうだ、聞きたいことがあるんだった。

「なんでしょう」
 佐倉さんのスプーンを持つ手が止まる。

「兎の話……知ってます?」
「う、兎?」
 佐倉さんは兎のことを全く知らないようだった。

 私は執事から毎日のように兎に気をつけるよう言われていること、自分で調べてみたけどそんな記事はひとつもないことなどを話した。

「へぇ……兎ですか」
「そうなんですわ! もしよかったら、あの彼のご両親に聞いてくださらない?」
 佐倉さんの彼氏の両親は研究者なのだ。遠い異国で日々平和のために尽力しているとか。よく知らないけど。

「わかりました。今度聞いてみますね」
「いや、今日でもいいかしら」
 早く知りたいのだ。あの執事のせいだ。佐倉さんがほんの少しだけ迷惑そうな顔をする。

「急ですね。今日……まぁ、いいですけど」
「本当!? 優しいのね佐倉さん!」
 こうやって相手を褒めておく。

「いえ……このくらい構いませんよ。いつも桜小路さんにはお世話になっていますから」
 佐倉さんは苦笑いする。よし、うまくいったかな。お嬢様流交流、必殺技「相手をとにかく褒める!」これで大抵はうまくいく。と思う。

 談笑しながらオムハヤシを食べ終えた私たちは、昼休みが終わる少し前に解散したのだった。

***

「兎には気をつけるのですよ」
 もう、なんなのよ!
 スマホを見ながら私はうんざりする。朝から会議だったから急いで出てきたと思えばこれである。仕事が終わってスマホを開けばこれである。執事の隙はない。あいつ……。

 帰りのホームはうちの学生でごった返している。歩いたから足も疲れた。なかなか立っているのがしんどいけど、この駅に椅子はない。

「兎についてはすみません! ちょっと忙しいみたいで、また明日でも良いですか?」
 佐倉さんからはこんなメッセージが届いていた。

「大丈夫ですよ!」
 ささっとタイプして送る。そこまで急な用事でもないから、いつでも構わない。

 部活帰りの学生で混んでいる電車に乗る。終点まで乗らなくてはならない。終点からバスに乗った先に、桜小路家の屋敷がある。

 いつも通り、そう、いつも通りの帰り道。佐倉さんに兎について尋ねているだけの帰り道。そのはずだった。

 季節は春のはず。春のはずだ。妙な寒気に私は震えている。おかしいな、朝天気予報を見た時はここまで寒くなる予定じゃなかったのに。ジャケットを着ているのに冷える。薄いセーターを下に着てくるほうが良かったかな。まぁ、今更考えても遅いのだけど。

 バス停から家まで二十分ほどかかる。都会の中では田舎だから街灯の間隔が広く、ぽつぽつと光ってはいるけれどここはいつも暗い。商店街はもう閉まっていて、二十四時間営業のコンビニだけが光を放っている。

 乗り捨てられた自転車が道路脇に止められている。チェーンが街灯の光を反射している。

 パンプスの足先が冷たい。早く帰ってハーブティーを飲みたい。リラックスタイムにちょうどいいものを。そして、暖かい部屋で温かい夕食をいただいて。ゆっくりしたい。

 周りには誰もいない。ひとりぼっちだ。でも、それもいつものこと。最初の方こそ怖くて英一郎に迎えに来てもらっていたけど、今は一人で帰宅している。なんとも思わなくなっていた。

 車が一台横を通過する。夜遅いからか交通量は少ない。
 大きい道路を右に曲がり、小さな道に入る。車一台分通れるほどの狭さだ。住宅街である。相変わらず暗い。街灯を何気なくみるとちかちかと点滅している。

 不意にかちゃ、という音がした。金属の音ではない。何かが何かにぶつかるような。重くはない。軽いものの感じだ。

 なんとなくの好奇心で後ろを振り返る。

 可愛らしい白い兎がいた。

「まぁ、こんな夜中にどうしたの?」
 しゃがんで手を伸ばす。疲れた事務員に神様が癒しを恵んでくれたのかしら。

 触れる直前で指先がぴくんと止まる。

「あら……?」
 なにかがおかしい。

 耳がない。目があるはずのところには何もなく、暗闇が広がっている。

 ふわふわの毛はどこにもなくて、ただそこには冷たく硬い、そう、白骨があるだけだった。

「えっ」
 触れてはいけない。瞬時にそう判断した。

 立ち上がり、一歩、二歩後ずさる。

 兎は首を傾げてこちらを見ている。見られている。目なんてないのに。

 逃げなくては。

 早足で歩を進める。

 しばらく歩いただろうか、気配がなくなったのでスピードを落とした。

「なんなのよ……」
 一人ぼやく。あれはなんだ。なんなんだ。

 兎ではないのか? でも骨だったし。英一郎に見せられた骨格標本そのものだったし。

「兎には気をつけるのですよ」

 英一郎の言葉が蘇る。もしかして、あれって。

 私は首を縦に振る。それなら早く帰らなくては。
 少しだけ足を早める。

 かちゃかちゃと音がする。

「……っ!」
 背筋がぞっとする。また、いる。

 いや、気のせいだろう。そうだ、気のせいだ。二回目なんてあるはずがない。気のせいに決まっている。その証拠に後ろを見てやればいいんだ。

 いるわけないのよ。見間違いだったのよ。
 明らかに増えたその音を聞きながら、恐る恐る後ろを振り返る。

 骨兎が増えていた。それも、道路にびっちりと、たくさん。

 じろりと私を見つめている。見られている。

「う、うわあっ」
 私は後退し、家の方向へ走る。パンプスは走るのには適しておらず、転びそうになる。

 心臓がどくどくと鳴っている。このままではいけない。

 怖い、怖い、怖い……! 私はできるだけ急いで走った。

「も、もう嫌……! 早く、早く家へ帰らないと……!」
 周囲に誰もいないことを確認し、私はだんだんゆっくりとなるように歩く。あぁ、撒けたか。

 これは執事に助けを求めないといけないだろう。いつも恥ずかしくて迎えに来てもらったことなんて最初の数回しかないけど、これは例外だ。緊急事態だ。

 スマホを取り出して電話をかける。コール音がする。
 一回。
 二回。
 三回。
「出て……! どうか……!」

 コツ、と音がした。後ろからだ。

「え」
 怖くて振り返れない。私はその場で固まってしまう。

 コツ、コツ、と音は近づいてくる。
 ねぇ、これもまた兎なんじゃないの?

 にしてもさっきのかちゃ、とは違う音だと思う。これは革靴の音だ。
 そうか、兎じゃないのか。なら安心だ。
 物陰からひょっこり出てきた人だろう。

 電話は相変わらず繋がらない。夜の住宅街に虚しくコール音が響く。
「ねぇ、出てよ……! こっちは大変なのに」

 スマホを耳に当てたまま、周囲を見渡す。
 誰もいない。けれど、一人だけ男性が立っていた。

 背は高い。英一郎よりも高い気がする。スーツを着ており革靴も履いているので、さっきからの音の正体はこの人なのだとわかった。
 頭はスキンヘッドで、色白だ。もしかして外国人さんなのかしら。後ろを向いている。

「はぁ……なんなのよ、もう」
 帰ろうと体の向きを変えようとした、その時だった。

 男性の頭がぐるんと回転し、こちらを向いたのだ。

 見覚えのあるその白と黒の顔は。

 兎の骨だった。

「うわ……い、嫌……!」
 頭がぞわぞわする。逃げよう。逃げなくては。

 スマホを片手に持ったまま私は逃げる。とにかく家まで帰ればなんとかなるはず。

 革靴のコツ、コツという音が私の背後をぴったりとついてくる。
 相手は歩いているようだ。おかしい、全速力で走っているはずなのに。

 周りは暗くて誰もいない。家々がただ静かに並んでいるだけだ。

 急いでいたら私は躓いてしまった。頼みの綱のスマホは手から離れてしまった。カシャンと地面に当たる音が聞こえる。

 膝に痛みが走る。
「いってぇです……わ……」

 後ろを振り返る。あの怪物と、たくさんの骨兎がそこにいる。
「ひっ……!」

 かちゃ、かちゃという骨のぶつかる音がして、骨兎が転んだ私の周りに集まる。
 怪物はその様子を少し離れたところからじっと見ている。

 怖くて視線を左右に動かしていると、骨兎の首も左右に動く。

 立ちあがろうにも立ち上がれなかった。骨兎の数匹が私の上に乗っかってきたのだ。
 彼らは骨だから軽いはずだが、なにか不思議な力でも働いているのか私の体をぐっと硬直させてくる。動けない。

 視界には、兎、兎、兎。どこもかしこも骨、骨、骨。

 怪物がこちらに歩いてくる。コツ、コツと音がする。

「こ……来ない、で……」
 声をかけても、怪物は歩みを止めようとしない。骨兎のせいでうまく口が動かせない。

 地面に落ちているスマホを見る。まだ相手は電話に出ていない。

 怪物は私の前に止まり、しゃがみ込む。

 あぁ、あんなに忠告されていたのに。

 怪物が私を見つめる。

 一人じゃ私は何もできないんだ。

 骨の手が迫ってくる。

 ぎゅうと目をつむる。
 ぞくりとした冷たさが頬に走る。

 その瞬間だった。耳に、何かが折れる音が聞こえたのは。

 目を開く。目の前には怪物と、そして見慣れた燕尾服を着た彼がいた。
 執事は怪物に蹴りを入れている。的確に急所を狙っているから、ひと蹴りごとに怪物がよろめいているのがわかる。

 その後も何発か蹴りを入れ続け、ついに怪物はついにその場に崩れ落ちた。あんなにたくさんいた骨兎たちも消えてしまう。

 兎の怪物はぴくぴくとうつ伏せで震えている。よほど蹴りが痛かったのだろう。顔の骨が折れたり、ヒビが入ったりしてている。
 肘を後ろで交差させ、その上に英一郎が乗っかり、動かないようにと押さえている。

 どこからか取り出したのか、トランシーバーを使っている。
「怪物取締り課に告ぐ! 脱走していた兎の怪物を確保! 至急応援を要請する!」
 いつもの無表情、無感情なあの執事とは思えない張り上げた声だった。

「了解!」
 知らない男の人の声が聞こえた後、通信は途切れた。

「え、英一郎……」
 名前を呼ぶと彼はこちらを振り向き、「すみません」と私に謝った。

「どうしてあなたが謝るのよ……」
「私がすぐに駆けつけられなかったのがよくなかったのです。でなければ、このようなことには……」
 英一郎は「不覚……」と呟いた。

「なんで私が困ってることがわかったの?」
「執事なら主人の緊急事態に駆けつけるのは当然です。薫子お嬢様、どこかお怪我はありませんか」
 心配そうな顔をして、執事は私を見つめる。

「えぇ、大丈夫よ」
 そんなことを話していると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

「お嬢様。申し訳ないのですが、第一発見者としてなにか尋ねられると思います。怖いでしょうが、少しの間外にいていただいてもよろしいですか」
「構わないわ」
 英一郎が来たからなのか妙な寒気もどこかにいってしまって、いつも通りの春の夜の暖かさだと感じる。

 赤いランプが私たちを照らす。

***

「……」
 英一郎は忠告しない。

「英一郎? 紅茶はいかが?」
「いただいてよいのですか?」
「えぇ」
 英一郎はまた、私の前に座る。紅茶を注ぎ、カップの中身を見つめている。

 今日は休日。私は午後のティータイムを楽しんでいた。苺のミルフィーユも一緒に。

 あの事件はニュースで報じられなかった。なんでも「人じゃないもの」なので、秘密にするべきものなのだそうだ。だから特別に組まれた特殊部隊で捜査をしていたらしい。

 佐倉さんからは研究者の知り合いに聞いてもわからなかった、という返事が返ってきた。そりゃそうか。国内のことだし。

「英一郎は何かスポーツでも習っていたのかしら? あの日の蹴り、とてもよかったわ」
「お褒めに預かり光栄です。テコンドーを習っておりました。足のボクシングとも言われます。まぁ、実戦で使ったのは警官だったときだけだったんですが」
「警官だったの?」
 英一郎は顔を上げる。ハッとした表情をしている。

「……そうです。お恥ずかしいのですが、桜小路家の作る日本酒が好きで……このまま警官で一生を終えるより、好きなところに就職するのがよいかもしれないなと考えまして、転職したのです」
「そうだったの」
 私は紅茶を一口飲む。熱い。まだ猫舌の執事が飲むには早そうだ。

「すみません、いきなり兎の本なんか読ませたりして」
「いいの。あれは英一郎なりの忠告だったのね」
「そう……です」
 不器用なヒトだなぁと思う。普通に「兎の骨の頭の怪物がいる」と言えばいいのに。

「捜査本部から伝えるなと言われておりまして……ふんわりとしか言えませんでした」
 英一郎は「申し訳ないです」と言う。私は首を横に振る。そういうわけだったのか。

「もう冷めたんじゃない?」
 私はこっそり執事をからかう。

「では、いただきます。……あちっ」
 執事は眉間に皺を寄せながら私を見る。

「まぁ、いいじゃないの」
「やめてください、薫子お嬢様……」
「あはは!」
 屋敷に二人のやりとりが響く。楽しい午後の時間が過ぎていこうとしていた。
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