短編集
最終予選はくじ引きだと発表されて、私はものすごく驚いていた。
この三年間努力してきた結果が最終的には運で左右されるなんて。まぁ確かに、最終予選の内容は記事にすらなってなくって、結果しか載ってなかったけど。知らなかったけど。さぁ。
「小川さん。最終予選の時間です」
スタッフが控え室に来て言う。
「あ、はーい」
これまで頑張ってきたんだから。第二次予選まで勝ち抜いてきたんだから。きっと私ならいける。
ステージに向かう。
私の他に、二人の女の子。二人ともすらっとしていている。私に負けないくらい。
たくさんのカメラが静かに私たちを捉えている。
司会が声を張り上げる。
「さぁ最終予選のくじ引きでございます! 残った三人のうち、誰が栄光を手に入れるのでしょうか!」
ほぼ同時にくじを手にする。
モデルになるために、そう、カノン・セリザワのモデルになるためだけに、頑張ってきたんだ。
「準備はよろしいですか?」
私なら。そう、私なら。絶対なれる!
「では、せーのでいきましょう。せーのっ!」
怖くてぎゅっと目を瞑ってくじを引く。恐る恐る目を開けると、私の手には先端が深紅色に染まったくじが握られていた。
「小川真弓さん! あなたが次期カノン・セリザワのモデルです!」
それまで静かだったカメラがパシャパシャと音を立てる。眩しかったけど、私の目は不思議とくじの真紅を見つめていた。
「……うそ」
他の二人を見ると、笑顔で私に拍手を送っている。口を引きつらせている。司会はにこにこと笑っている。
スタッフから花束を渡される。こんな大きい花束、初めて見た。重い。
落選した二人がはける。
「それでは、小川さんにインタビューです! 今のお気持ちは?」
「え、えっと……すごく、ものすごく嬉しいです。嘘なんじゃないかって思っちゃうくらい」
「良かったですね! それでは、最終予選はここまでにさせていただきます! ご来場の皆様、ありがとうございました!」
あっけな。こんな短かったっけ。
司会と共に私はステージ横に歩く。カメラが最後まで私を捕らえて離さなかった。
***
二週間後。私はアパートの荷物を全てまとめて、セリザワのいるビルへ向かった。
「でっか……」
何階建てのビルなんだっけ。カノン・セリザワの一ファンとは言え、ビルの高さまでは把握していなかった。最上階に行け、ということくらいしか知らない。
自動ドアを抜けると、綺麗な受付嬢が綺麗にお辞儀をした。私も会釈で返す。シャンデリアがきらきらと光を弾き返している。
一階を歩き、エレベーターに乗る。最上階は三十階だった。30のボタンを押す。ドアが閉まる。
カノン・セリザワは日本の服飾ブランドだ。展開している商品は女性向けのワンピースやイヤリング、カチューシャなどだ。いわゆる地雷服と相性がいいかもしれない。
地雷と言われようと、私はカノン・セリザワの服が好きだ。今日も同ブランドの服を着てきた。セリザワに変に思われないように、全身コーデでキメてきた。もちろんメイクも。
特徴としては、ロゴの真紅が全てのアイテムに使われていることだろうか。メインカラーだったり、添えるようにちょこっとあったり。裏地が真紅なんてこともある。なんだか高級感があって、私は好きだ。
エレベーターの音が止まる。最上階に着く。
ドアが開くと、真紅が私を迎えた。
天井も壁も床も真紅。床はカーペットだった。私の靴音を吸収する。
少し歩くと、ドアがあった。ノックをする。
「はーい」
美しい女性が現れた。髪は長く、黒く、腰まであってさらっとしている。手入れが行き渡っている。白いニットに真紅のタイトスカート。もちろんカノン・セリザワのものだ。メイクは薄めで、本来の彼女が現れているように見える。美人の範疇に余裕で入る。
雑誌や記事でしかみたことがない、そう、この人は。
「せ、セリザワさん……」
「まずは挨拶でしょ。こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「真弓ちゃんね?」
私が首を縦に振ると、セリザワは満足そうに微笑んだ。
「さ、暑いでしょうから。早く中にいらっしゃい」
八月のことだった。
***
中は普通のマンションの一室だった。
少し不思議な香りがするくらい。セリザワの香水だろうか。
「今、紅茶を淹れるわ。それともコーヒーがいい?」
「紅茶でお願いします」
「わかったわ」
部屋は冷房が心地よく効いている。私はメイクが落ちないようにそっと汗を拭きながら、席についた。白いテーブルに白い椅子。なんだか自分が場違いな場にいるように感じられた。
セリザワは慣れた手つきで紅茶を淹れる。苺の甘い香りがする。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あの、これよかったらお土産なんですけど」
私は地元限定で売られているクッキーの箱を取り出す。中身はアイスボックスクッキーだ。すごくおいしい。
「あら! どうもありがとう。紅茶と一緒に食べましょうか」
セリザワはニコニコと笑う。私もつられて笑う。
暑い日に熱い紅茶だというのに、クッキーと紅茶を交互に食べるととても幸せになれる。
しばらくしたところで、セリザワが話し出した。
「私ね。モデルになってもらう子には、初日に生い立ちを聞くことにしているの。もし嫌だったら別にいいけど、聞いてもいいかしら?」
「はい」
「ありがとう。まず、名前と簡単な自己紹介を」
「小川真弓です。去年高校を卒業しました。カノン・セリザワというブランドが好きです。よろしくお願いします」
「あら? それだけなの?」
「えっと……地雷服も好きです。メイクも好きで、お菓子食べることも」
私があたふたすると、「そんなに慌てなくていいのよ」とセリザワが言う。
「自己紹介なんて、誰だって難しいものだから。自分を言葉にするのは大変なことなの。私もうまくできないもの」
セリザワは紅茶を一口飲む。
「私も自己紹介をしましょう。芹沢花音、三十八歳。ブランドを立ち上げているわ。好きなことはデザインと料理とゲーム」
「ゲーム……!?」
「そうよ。意外?」
「ええ……」
「スプラが好きよ」
「うそ……私も好きです」
「じゃあ今度対戦しましょうよ! Switchは持ってきた?」
「はい」
「今日にでも、ぜひ……!」
セリザワが目を輝かせるものだから私は気圧された。
「親御さんは心配していないの?」
「……」
「何かあるのね」
「えっと……こんなこと……話してもいいのか……」
「なんでもいいわよ、これからはビジネスパートナーなんだから。私はフェアな関係を望むわ。どんなに暗くても、聞く覚悟はできてる」
セリザワは私を静かに見つめる。口元は微笑んでいる。
私は両親のことを話す。
***
両親はいわゆる毒親だ。いい子という理想を子供にぶつけて、思い通りにいかないとすぐにキレる。毎日怒鳴られて育ってきた。共働きで、早く家に帰れるときが唯一安心できる時間だった。
だから、親には何も言わずに応募したし、何も言わずにここに来た。
それに、親のせいで兄は……自ら死を選んだ。
そんな兄が最後に遺した言葉が、
「真弓は美人なんだから、モデルになりなよ。きっとたくさん稼げるし、親からも逃げられるよ」
だから、逃げてきたんだ。親から。家から。地元から。
兄の言葉を叶えるために。
***
「そんな感じで、私は、私は……」
気づけば泣いていた。カバンからポケットティッシュを取り出し、涙を押さえる。
「……そんなことがあったのね」
香水の匂いが少し強くなる。目の前に誰もいなくて、振り返ると、セリザワがそこにいた。
「大丈夫よ、真弓ちゃん。ここではそんなこと起こらないから」
セリザワが私の頭を撫でる。優しいセリザワ。私はさらに泣いてしまう。
「そんなに嫌なら、スマホを新しく契約しましょうか? 新しい電話番号にしたいわよね?」
「もちろんです」
「すぐ申し込んでおくわ」
私が啜り泣きになったのを見計らって、セリザワは電話をかけた。
涙を拭きながら、私はセリザワの元に来てよかった、としみじみ思った。
だって、ただのモデルにこんなに親身になってくれるんだもん。優しい人だ。こんな素敵な人の立ち上げたブランドのモデルになれて嬉しい。
「色は何がいい? 赤と黒と白があるけど」
「赤でお願いします」
「わかったわ」
せっかくなら、スマホも真紅に染めたい。
私はこれから、セリザワの真紅に染まるのだから。
***
それから私は、忙しい毎日を過ごした。
朝から撮影、昼はインタビュー、夜はメイクと服の研究。
目まぐるしく変わるスケジュールに、私は手帳を買った。一時間単位で管理ができるちょっとお高いやつだ。今ではボールペンの筆跡でびっしりだ。
セリザワの家にいるけど、セリザワ本人は忙しいみたいであまり姿を現さない。たまに帰ってきた時に、お茶をするのが楽しみだった。もちろん最後にはゲームをする。
真紅に染まっていく私。その感覚は決して気持ち悪いものではなくて、心地よかった。
季節は過ぎ去り、緑の葉は秋色に色づき、そしてはらりと落ちて、一月になった。
***
それは、寒くて凍えそうな冬の日の出来事だった。
私はセリザワと珍しく一緒に朝食を食べていた。セリザワが口を開く。
「真弓ちゃん」
「なんでしょうか」
「契約終了よ」
「……え?」
何気ない感じで発されたその言葉に、私はひどく驚いた。
「荷物をまとめて、出て行って頂戴」
セリザワの声は冷たかった。
「え、なんですかいきなり。そんな、困りますよ」
「契約にそう書いてあるの。見なかった?」
そんなこと、書いてあったっけ。私は思考を巡らせるも、そんな記述はなかったような気がする、という結論に落ち着いてしまった。
「そんなこと、ないですよ。……多分」
「でも書いてあるわ」
「そう……なんですか?」
「そうよ。そういう大事な書類はよく読みこんでおいた方がいいわよ」
「すみません……」
私はジャムバタートーストをかじる。味がしない。どろどろしたジャムが邪魔だ。バターも気持ち悪い。驚きすぎているのか。
悲しいけど、仕方ない。契約書をしっかり読まなかった私が悪いのだから。
「それにね。あなたに飽きたの」
「……え」
信じられない言葉が私の耳を襲う。飽きた? 飽きただって?
「私ね、飽き性なの。だからモデルを定期的に変えないと仕事に手がつかなくなるのよ」
「そんな、勝手に言わないでください! 私だって、オーディションにやっと受かってここまで来たんですよ!」
少し語気を強めて言う。でも、セリザワの表情は変わらなかった。
「知らないわ。それはあなたの事情でしょう。ブランドの新作が出ないことの方が重要だと思わない?」
数秒考えたのち、そうだと思った。この人は仕事仲間の心境など考えていないのだ。最初から考えていなかったのだ。
「じゃあ、急いでね」
急いで朝食を食べ終え、自室へ戻る。押入れからキャリーケースを取り出し、開ける。服や日用品を詰め込む。
服類はすっかり真紅に染まっていて、真紅の入っていない服はない。もう自分はカノン・セリザワというブランドに、芹沢花音という人に染まりきっているのだなぁと呑気に思う。
荷物はキャリーケース一つでは足りなくて、ビニール袋にシャンプーやリンスを入れた。大きめの紙袋に私が載った雑誌を詰めた。
なんとか全部入れられた。大きい荷物を持って、部屋を出る。
「早いわね」
セリザワは笑っていなかった。
「はい」
私は笑顔を作る。
「今までありがとう、真弓ちゃん」
私は一人部屋を出る。見慣れた真紅の廊下だ。エレベーターで一階に降り、外に出る。
「……寒い」
私は体を震わせる。そして、気づいてしまった。
この先、どこへ行けばいいのだろう?
私は呆然とした。
わからない。親は頼れないし兄はいない。支援してもらえそうなところも知らない。
セリザワなしじゃ、もう私は生きていけないんだ。
人々は歩くだけで、私を見ようともしない。振り返ると、呑気な顔をした私がポスターに貼られている。
そこで気づいた。モデルが半年ごとに変わっていることを。そうか、こんなカラクリがあったのか。
行き先がない。スマホで調べよう。
スリープを解除してホーム画面を開くも、電波が入っていなかった。契約が切れていた。
「あ……」
もう一個、家から持ってきたスマホがある。電源をつけると「充電してください」の文字が表示された。モバイルバッテリーを繋げる。
固く冷たいアスファルトに腰を下ろしながら、私はこのまま飢え死にするのではないかと考えた。
いやいや、そんなことないでしょ。大丈夫でしょ。
でも、家には帰れないよ? どこに行くっていうの?
北風に真紅のコートがはためく。
充電がちょっとできたようで、スマホは起動を始めた。
通知がエグいことになっていた。
真弓! 今どこにいるの!?
どこにいるの! 教えて!
まさか家出じゃないでしょうね!?
その数、数百件。母親だけでだ。あまりにも多い。私は通知を全部消す。
「はぁ……」
こっちのスマホはまだ大丈夫だった。検索ボックスに「家がない」と打ち込む。すぐにサイトがヒットした。
ここなら行けるかな。NPOだし。電車を乗り継ぎしなきゃいけないけど。県境もまたぐけど。警察は行きたくない。親に連絡を取らされるからだ。多分。
お金はある。きっと大丈夫。
そんな小さな希望を持って、私は立ち上がる。駅へ向かって歩き出した。
あまりにも真紅すぎるコーデに、すれ違う皆が私を見つめる。以前は心地よかった視線が、今では気持ち悪い。
真紅に染まった私。もうセリザワなしでは生きていけないとも思っていたけど、そんなことはない。私は生きるんだ。あなたなしでも生きていけるって証明してみせる。
見てろよ、芹沢花音。
この三年間努力してきた結果が最終的には運で左右されるなんて。まぁ確かに、最終予選の内容は記事にすらなってなくって、結果しか載ってなかったけど。知らなかったけど。さぁ。
「小川さん。最終予選の時間です」
スタッフが控え室に来て言う。
「あ、はーい」
これまで頑張ってきたんだから。第二次予選まで勝ち抜いてきたんだから。きっと私ならいける。
ステージに向かう。
私の他に、二人の女の子。二人ともすらっとしていている。私に負けないくらい。
たくさんのカメラが静かに私たちを捉えている。
司会が声を張り上げる。
「さぁ最終予選のくじ引きでございます! 残った三人のうち、誰が栄光を手に入れるのでしょうか!」
ほぼ同時にくじを手にする。
モデルになるために、そう、カノン・セリザワのモデルになるためだけに、頑張ってきたんだ。
「準備はよろしいですか?」
私なら。そう、私なら。絶対なれる!
「では、せーのでいきましょう。せーのっ!」
怖くてぎゅっと目を瞑ってくじを引く。恐る恐る目を開けると、私の手には先端が深紅色に染まったくじが握られていた。
「小川真弓さん! あなたが次期カノン・セリザワのモデルです!」
それまで静かだったカメラがパシャパシャと音を立てる。眩しかったけど、私の目は不思議とくじの真紅を見つめていた。
「……うそ」
他の二人を見ると、笑顔で私に拍手を送っている。口を引きつらせている。司会はにこにこと笑っている。
スタッフから花束を渡される。こんな大きい花束、初めて見た。重い。
落選した二人がはける。
「それでは、小川さんにインタビューです! 今のお気持ちは?」
「え、えっと……すごく、ものすごく嬉しいです。嘘なんじゃないかって思っちゃうくらい」
「良かったですね! それでは、最終予選はここまでにさせていただきます! ご来場の皆様、ありがとうございました!」
あっけな。こんな短かったっけ。
司会と共に私はステージ横に歩く。カメラが最後まで私を捕らえて離さなかった。
***
二週間後。私はアパートの荷物を全てまとめて、セリザワのいるビルへ向かった。
「でっか……」
何階建てのビルなんだっけ。カノン・セリザワの一ファンとは言え、ビルの高さまでは把握していなかった。最上階に行け、ということくらいしか知らない。
自動ドアを抜けると、綺麗な受付嬢が綺麗にお辞儀をした。私も会釈で返す。シャンデリアがきらきらと光を弾き返している。
一階を歩き、エレベーターに乗る。最上階は三十階だった。30のボタンを押す。ドアが閉まる。
カノン・セリザワは日本の服飾ブランドだ。展開している商品は女性向けのワンピースやイヤリング、カチューシャなどだ。いわゆる地雷服と相性がいいかもしれない。
地雷と言われようと、私はカノン・セリザワの服が好きだ。今日も同ブランドの服を着てきた。セリザワに変に思われないように、全身コーデでキメてきた。もちろんメイクも。
特徴としては、ロゴの真紅が全てのアイテムに使われていることだろうか。メインカラーだったり、添えるようにちょこっとあったり。裏地が真紅なんてこともある。なんだか高級感があって、私は好きだ。
エレベーターの音が止まる。最上階に着く。
ドアが開くと、真紅が私を迎えた。
天井も壁も床も真紅。床はカーペットだった。私の靴音を吸収する。
少し歩くと、ドアがあった。ノックをする。
「はーい」
美しい女性が現れた。髪は長く、黒く、腰まであってさらっとしている。手入れが行き渡っている。白いニットに真紅のタイトスカート。もちろんカノン・セリザワのものだ。メイクは薄めで、本来の彼女が現れているように見える。美人の範疇に余裕で入る。
雑誌や記事でしかみたことがない、そう、この人は。
「せ、セリザワさん……」
「まずは挨拶でしょ。こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「真弓ちゃんね?」
私が首を縦に振ると、セリザワは満足そうに微笑んだ。
「さ、暑いでしょうから。早く中にいらっしゃい」
八月のことだった。
***
中は普通のマンションの一室だった。
少し不思議な香りがするくらい。セリザワの香水だろうか。
「今、紅茶を淹れるわ。それともコーヒーがいい?」
「紅茶でお願いします」
「わかったわ」
部屋は冷房が心地よく効いている。私はメイクが落ちないようにそっと汗を拭きながら、席についた。白いテーブルに白い椅子。なんだか自分が場違いな場にいるように感じられた。
セリザワは慣れた手つきで紅茶を淹れる。苺の甘い香りがする。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あの、これよかったらお土産なんですけど」
私は地元限定で売られているクッキーの箱を取り出す。中身はアイスボックスクッキーだ。すごくおいしい。
「あら! どうもありがとう。紅茶と一緒に食べましょうか」
セリザワはニコニコと笑う。私もつられて笑う。
暑い日に熱い紅茶だというのに、クッキーと紅茶を交互に食べるととても幸せになれる。
しばらくしたところで、セリザワが話し出した。
「私ね。モデルになってもらう子には、初日に生い立ちを聞くことにしているの。もし嫌だったら別にいいけど、聞いてもいいかしら?」
「はい」
「ありがとう。まず、名前と簡単な自己紹介を」
「小川真弓です。去年高校を卒業しました。カノン・セリザワというブランドが好きです。よろしくお願いします」
「あら? それだけなの?」
「えっと……地雷服も好きです。メイクも好きで、お菓子食べることも」
私があたふたすると、「そんなに慌てなくていいのよ」とセリザワが言う。
「自己紹介なんて、誰だって難しいものだから。自分を言葉にするのは大変なことなの。私もうまくできないもの」
セリザワは紅茶を一口飲む。
「私も自己紹介をしましょう。芹沢花音、三十八歳。ブランドを立ち上げているわ。好きなことはデザインと料理とゲーム」
「ゲーム……!?」
「そうよ。意外?」
「ええ……」
「スプラが好きよ」
「うそ……私も好きです」
「じゃあ今度対戦しましょうよ! Switchは持ってきた?」
「はい」
「今日にでも、ぜひ……!」
セリザワが目を輝かせるものだから私は気圧された。
「親御さんは心配していないの?」
「……」
「何かあるのね」
「えっと……こんなこと……話してもいいのか……」
「なんでもいいわよ、これからはビジネスパートナーなんだから。私はフェアな関係を望むわ。どんなに暗くても、聞く覚悟はできてる」
セリザワは私を静かに見つめる。口元は微笑んでいる。
私は両親のことを話す。
***
両親はいわゆる毒親だ。いい子という理想を子供にぶつけて、思い通りにいかないとすぐにキレる。毎日怒鳴られて育ってきた。共働きで、早く家に帰れるときが唯一安心できる時間だった。
だから、親には何も言わずに応募したし、何も言わずにここに来た。
それに、親のせいで兄は……自ら死を選んだ。
そんな兄が最後に遺した言葉が、
「真弓は美人なんだから、モデルになりなよ。きっとたくさん稼げるし、親からも逃げられるよ」
だから、逃げてきたんだ。親から。家から。地元から。
兄の言葉を叶えるために。
***
「そんな感じで、私は、私は……」
気づけば泣いていた。カバンからポケットティッシュを取り出し、涙を押さえる。
「……そんなことがあったのね」
香水の匂いが少し強くなる。目の前に誰もいなくて、振り返ると、セリザワがそこにいた。
「大丈夫よ、真弓ちゃん。ここではそんなこと起こらないから」
セリザワが私の頭を撫でる。優しいセリザワ。私はさらに泣いてしまう。
「そんなに嫌なら、スマホを新しく契約しましょうか? 新しい電話番号にしたいわよね?」
「もちろんです」
「すぐ申し込んでおくわ」
私が啜り泣きになったのを見計らって、セリザワは電話をかけた。
涙を拭きながら、私はセリザワの元に来てよかった、としみじみ思った。
だって、ただのモデルにこんなに親身になってくれるんだもん。優しい人だ。こんな素敵な人の立ち上げたブランドのモデルになれて嬉しい。
「色は何がいい? 赤と黒と白があるけど」
「赤でお願いします」
「わかったわ」
せっかくなら、スマホも真紅に染めたい。
私はこれから、セリザワの真紅に染まるのだから。
***
それから私は、忙しい毎日を過ごした。
朝から撮影、昼はインタビュー、夜はメイクと服の研究。
目まぐるしく変わるスケジュールに、私は手帳を買った。一時間単位で管理ができるちょっとお高いやつだ。今ではボールペンの筆跡でびっしりだ。
セリザワの家にいるけど、セリザワ本人は忙しいみたいであまり姿を現さない。たまに帰ってきた時に、お茶をするのが楽しみだった。もちろん最後にはゲームをする。
真紅に染まっていく私。その感覚は決して気持ち悪いものではなくて、心地よかった。
季節は過ぎ去り、緑の葉は秋色に色づき、そしてはらりと落ちて、一月になった。
***
それは、寒くて凍えそうな冬の日の出来事だった。
私はセリザワと珍しく一緒に朝食を食べていた。セリザワが口を開く。
「真弓ちゃん」
「なんでしょうか」
「契約終了よ」
「……え?」
何気ない感じで発されたその言葉に、私はひどく驚いた。
「荷物をまとめて、出て行って頂戴」
セリザワの声は冷たかった。
「え、なんですかいきなり。そんな、困りますよ」
「契約にそう書いてあるの。見なかった?」
そんなこと、書いてあったっけ。私は思考を巡らせるも、そんな記述はなかったような気がする、という結論に落ち着いてしまった。
「そんなこと、ないですよ。……多分」
「でも書いてあるわ」
「そう……なんですか?」
「そうよ。そういう大事な書類はよく読みこんでおいた方がいいわよ」
「すみません……」
私はジャムバタートーストをかじる。味がしない。どろどろしたジャムが邪魔だ。バターも気持ち悪い。驚きすぎているのか。
悲しいけど、仕方ない。契約書をしっかり読まなかった私が悪いのだから。
「それにね。あなたに飽きたの」
「……え」
信じられない言葉が私の耳を襲う。飽きた? 飽きただって?
「私ね、飽き性なの。だからモデルを定期的に変えないと仕事に手がつかなくなるのよ」
「そんな、勝手に言わないでください! 私だって、オーディションにやっと受かってここまで来たんですよ!」
少し語気を強めて言う。でも、セリザワの表情は変わらなかった。
「知らないわ。それはあなたの事情でしょう。ブランドの新作が出ないことの方が重要だと思わない?」
数秒考えたのち、そうだと思った。この人は仕事仲間の心境など考えていないのだ。最初から考えていなかったのだ。
「じゃあ、急いでね」
急いで朝食を食べ終え、自室へ戻る。押入れからキャリーケースを取り出し、開ける。服や日用品を詰め込む。
服類はすっかり真紅に染まっていて、真紅の入っていない服はない。もう自分はカノン・セリザワというブランドに、芹沢花音という人に染まりきっているのだなぁと呑気に思う。
荷物はキャリーケース一つでは足りなくて、ビニール袋にシャンプーやリンスを入れた。大きめの紙袋に私が載った雑誌を詰めた。
なんとか全部入れられた。大きい荷物を持って、部屋を出る。
「早いわね」
セリザワは笑っていなかった。
「はい」
私は笑顔を作る。
「今までありがとう、真弓ちゃん」
私は一人部屋を出る。見慣れた真紅の廊下だ。エレベーターで一階に降り、外に出る。
「……寒い」
私は体を震わせる。そして、気づいてしまった。
この先、どこへ行けばいいのだろう?
私は呆然とした。
わからない。親は頼れないし兄はいない。支援してもらえそうなところも知らない。
セリザワなしじゃ、もう私は生きていけないんだ。
人々は歩くだけで、私を見ようともしない。振り返ると、呑気な顔をした私がポスターに貼られている。
そこで気づいた。モデルが半年ごとに変わっていることを。そうか、こんなカラクリがあったのか。
行き先がない。スマホで調べよう。
スリープを解除してホーム画面を開くも、電波が入っていなかった。契約が切れていた。
「あ……」
もう一個、家から持ってきたスマホがある。電源をつけると「充電してください」の文字が表示された。モバイルバッテリーを繋げる。
固く冷たいアスファルトに腰を下ろしながら、私はこのまま飢え死にするのではないかと考えた。
いやいや、そんなことないでしょ。大丈夫でしょ。
でも、家には帰れないよ? どこに行くっていうの?
北風に真紅のコートがはためく。
充電がちょっとできたようで、スマホは起動を始めた。
通知がエグいことになっていた。
真弓! 今どこにいるの!?
どこにいるの! 教えて!
まさか家出じゃないでしょうね!?
その数、数百件。母親だけでだ。あまりにも多い。私は通知を全部消す。
「はぁ……」
こっちのスマホはまだ大丈夫だった。検索ボックスに「家がない」と打ち込む。すぐにサイトがヒットした。
ここなら行けるかな。NPOだし。電車を乗り継ぎしなきゃいけないけど。県境もまたぐけど。警察は行きたくない。親に連絡を取らされるからだ。多分。
お金はある。きっと大丈夫。
そんな小さな希望を持って、私は立ち上がる。駅へ向かって歩き出した。
あまりにも真紅すぎるコーデに、すれ違う皆が私を見つめる。以前は心地よかった視線が、今では気持ち悪い。
真紅に染まった私。もうセリザワなしでは生きていけないとも思っていたけど、そんなことはない。私は生きるんだ。あなたなしでも生きていけるって証明してみせる。
見てろよ、芹沢花音。
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