短編集

「ぱんちゃん、ただいま!」
 ぱんちゃんは返事をしない。

「今日ね、つらいことがあったの。しんどくってね」
 何も声は聞こえない。

「でもね、今日は夕飯買ってきたんだ。いいでしょ」
 ぱんちゃんはただそこにいるだけだ。

 しばらくその黒い瞳と見つめあっていると、頭上から退屈そうな声が聞こえた。

「早く食おうぜ」
「わかったよ」
 旦那は眠そうな顔をしている。

 今日の夕飯は牛丼。旦那はチーズをかけている。
「いただきます」と私が言うより前に、旦那はもう食べ始めていた。せっかちな人。いつも彼はいただきますを言わない。

 私がゆっくりと食べた後には、旦那はゲームを始めていた。テレビに向かって一人話し続ける旦那。会話がないのはいつものことだ。私は「ごちそうさま」と言い、容器を片付ける。

「ぱーんちゃん」
 パンダのぱんちゃん。大好きなぬいぐるみだ。所々汚れてしまっているが、二十年以上一緒の大切なお友達だ。

「牛丼おいしかったよ! ぱんちゃんは牛丼食べるの? あ、パンダだから食べないかな」

「ぱんちゃーん。今日も私頑張ったよね? 超えらいよね?」

「ぱんちゃんぱんちゃん。私ニュース見たいんだけど、あの人どいてくれると思う?」

「わーったわーった! この試合で終わりにするから!」
「わーい! やったねぱんちゃん! 一緒にテレビ見よ?」

 私たちは一緒にテレビを見つめる。無言の圧力に旦那は焦っているようだ。

 これがいつもの風景。私たち夫婦の、マンションの一室での暮らし。

***

 ぱんちゃんがいない!

 土曜日、のんびりと寝ていたらいつの間にか部屋からぱんちゃんがいなくなっていた。確かに昨日はいたのに。どうして? どこに行ったの?

「ねぇ」
 旦那は寝転がりながらゲームをしている。

「ぱんちゃん知らない?」
 旦那は起き上がって、「ふっ」と笑った。

「どこにやったと思う?」
「は?」
 旦那は笑い続けている。

「供養に出したんだよ。人形供養」
 頭が真っ白になった。

 ぱんちゃんが? 燃やされてしまう? いなくなっちゃう……?

「どこ!? ぱんちゃんをどこにやったの!?」
「さて?」
「さて、じゃないよ! あんたも大切なゲーム勝手に売られたらどう思うわけ!?」
 旦那ははっとなった。メガネの奥の小さい両眼が驚いている。

「……H神社」
 私は大急ぎで家を出た。

***

 H神社についた。家から近くの神社だから、走ってどうにかなった。

「すみません!」
 社務所のインターホンを鳴らす。
 神主さんが出てきた。優しそうな初老の男性だ。

「おや、何か用ですか」
「ぱんちゃ……パンダのぬいぐるみを、持ってきたメガネの男が、いると思うんですけど」
「いましたね。今朝早くに」
「ぬいぐるみは……無事ですか?」

 心臓がどくどくしている。ぱんちゃんが、早くしないとぱんちゃんが!

「大丈夫ですよ。依頼主さんが心底嫌そうな顔をしていたので、もしかしてと思って。持ってきましょうか?」
「お、お願いします」
 そこまで言うと、私はかくんと膝から崩れ落ちた。

「おっと、大丈夫ですか」
 神主さんが私に手を差し伸べる。その手をとって、私は立ち上がる。

「す、すみません」
「いえ、いいんですよ。持ってきますね。お代金もお返しします」
 そう言うと神主さんは奥へ消えていった。

「はい、どうぞ」
 しばらくして帰ってきた神主さんの両手には、あの大好きな、ちょっと汚れているぱんちゃんがいた。

「ぱんちゃあああああん」
 私はぼろぼろと泣く。大人なのに。もうすぐ三十なのに。

「大切なぬいぐるみさんだったんですね」
 神主さんは和やかに微笑んでいる。

「うう……ごめんなさい」
「大丈夫ですよ、おつらかったですね」
 袖でぐしぐしと涙を拭く。神主さんの優しさに、どこまでも包まれてしまいそうだった。

***

 私が寝てる間に、ぱんちゃんを部屋から出したんだ。
 だから、その対策で、私は自室に内側から鍵をかけることにした。ちょっと大変だったけど、頑張った。

「これで大丈夫だね、ぱんちゃん」
 ぱんちゃんも笑ってくれてる、気がする。



 旦那と私は同じ会社に勤めている。職場結婚っていうやつだ。まぁ、蓋を開けたらこんなもんか、って感じだけど。別にいい。一人でいるより安心だと思う。

 今はその飲み会だ。ぱんちゃんに会えなくて寂しいけど、スマホのぱんちゃんフォルダを見て安堵する。今日も適当に自分を演じて。大丈夫だよね、ぱんちゃん。

「で、こいつ、いい歳してぬいぐるみ持ってるんすよ」
 ……ぬいぐるみ?

 旦那の声が聞こえた。私はがやがやした居酒屋の中で耳をすます。
「いつもいつも一緒で、うるさいんですよね〜。もう三十になるのに」
 確かに旦那の声だ。

「だから俺がいてあげるっていうか? 可哀想だから一緒にいてあげるっていうか? まぁそんな感じですよ」
 (笑)と文字がついてきそうな声色だった。旦那の近くの男性社員が私をニヤついた目で見つめる。

「ごめん。体調悪いからこれ払っててもらえる?」
 近くの女性の同僚に声をかける。

「わかった。……大丈夫?」
「……うん」
「いつでも話乗るから、相談してよ」
 私は笑顔を繕って頷く。

 ああ、どうせこいつも私のこと馬鹿にしてんだろうな。相談なんてできるわけないでしょ。

 居酒屋を後にする。暗くなった道を歩いて駅に向かう。
 スマホの写真フォルダを漁る。

 ぱんちゃん、ぱんちゃん。助けて。
 私、どうすればいいの?

 早く帰りたかった。

***

 仕事に行けなくなった。
「そりゃあんなことがあっちゃ、行けなくなっちゃうよね。ぱんちゃん」
 ぱんちゃんの両手を持つ。柔らかい。

 ネットで調べたけど、大人でぬいぐるみを持っていることは別におかしなことじゃないんだって。ってことは、馬鹿にしたあいつらがおかしいんだ。私は悪くない。

 ノックの音がする。
「買ってきたぞ」
「……」

 私は起き上がる。パジャマのままで。一日中パジャマのままで。着替えもしていない。
 鍵を開ける。チーズの匂いがする。旦那が立っている。

 今日はピザだ。食欲がないけど。
「……いただきます」
 旦那は何も言わない。

 静かな食事が続いた。

「なぁ、もう一度あいつを人形供養に出さないか?」
「え?」
 私はピザを落とす。

「もういい年齢だろ? あいつもお前の手を離れた方が幸せな……」
「何言ってるの? そんなわけないでしょ?」
 私は旦那を睨みつける。

「ぱんちゃんは私のお友達なの。捨てるとか言わないで」
「でもお前、そのせいで友達いないんじゃないのか? 会社でも話題になってるぞ」
「それはあんたが馬鹿にしたからでしょ」
「そもそも持ってなければいい話だろ」
「じゃああんたもゲームやめなさいよ。子供っぽいじゃない」
「ゲームは関係ないだろ」
「あるでしょ」
「ない」
「ある」
 ピザがまずい。

「あんただって小さい頃ぬいぐるみ持ってたでしょ」
「そうだけど。でも俺は卒業したんだ」
「でもゲームからは?」
「う、うるさい」
 旦那はじっと私を見つめる。

「お前のためを思って俺は言ってるんだ!」
「は……?」
 なにを言っているのだろう。私を虐めるためではないのか?

「お前がいつまでたってもぼっちだから、いつまでたってもぬいぐるみに依存してるから、だから俺はお前のためを思って言ってるんだ。いい加減目を覚ませ」
「どういうこと?」
「目を覚ましてくれ。このままじゃ、お前は堕ちるだけだ」
「わけわかんないよ」
「とにかくお前がおかしいって話」
 旦那はピザを食べ終え、テレビの前に向かった。

***

 決めたもん。私、決めたもん。

 ぱんちゃんと一緒に市役所に行った。つらかったけど、着替えてメイクした。写真も撮った。大切な日だから。

 もらってきた紙を旦那に渡す。私の分はもう書いた。
「これ、書いて欲しいんだけど」
「わかった」

「え」
「えってなんだよ」
「なんでもない」

 信じられないほどあっさりだった。
 信じられないくらいの速さで手続きは進んで。

 私たちは、離婚した。

***

「ぱんちゃん、おはよう」
 焦点が合わないままでぱんちゃんに挨拶をする。

「千尋! ご飯できてるわよ」
「はーい」
 母の声が聞こえる。
 私は頑張って起きる。ぱんちゃんを連れていく。
 食卓にぱんちゃんを置く。

「あ、ハムエッグ? やったー! やったねぱんちゃん!」
「あんた好きねぇ」
「いいでしょ、別に」
 漢方を開け、水で流す。

「いただきます」
 ソースをかけていただく。

 離婚した後、私は実家へ帰った。

 こんなことがあったんだよ、と説明したら、両親は受け入れてくれて。休みなさい、と言ってくれた。
 病院にも通っている。そこで漢方をもらっている。

 本当に実家に帰ってよかった。
 離婚してよかった。

 だって、ぱんちゃんがいるもん。

「ぱーんちゃん」

 ぱんちゃんは返事をしない。けど、

 千尋ちゃんは大丈夫だよ。

 そう、声が聞こえた気がした。

 大好きだよ、ぱんちゃん。
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