短編集
見てしまった。
少女が空を跳んでいるのを。
視力5.0の僕が言うんだから間違いない。
繁華街を歩く僕の他には、空を見上げる者はいない。みんなスマホに夢中だ。
少女は虚空を蹴り、跳び、そして胡坐をかいた。空中で。あくびをしている。
「……!」
「おい、邪魔だ」
「ヒッ! す、すみません!」
驚いていると金髪のヤンキーに怒られた。気が小さい僕はぺこぺこと頭を下げる。顔を上げると誰もいなかった。何もない空間に謝っていた。
空を見上げると、少女はいなくなっていた。
きっと疲れてるんだ。疲れてるから幻覚なんて見ちゃったんだ。人間が空を跳べるはずない。当たり前だ。
僕は駅へ向かった。
***
翌日。
帰り道、その少女はいた。
今度はポテチ片手に漫画を読んでいる。体育座りをしている。ビルの更に上の高さで。昨日より高度を上げている。
思いついた。
写真を撮れば、もしかしたらテレビ番組に採用されるのでは? そうしたらお金がもらえちゃったり……?
そんな下衆な考えをした僕はスマホのカメラを少女に向ける。
「いない……?」
スマホをどかすと、確かに少女はそこにいる。漫画を読んでいる。
スマホのカメラ越しでは、そこには何もいない。ビルの明かりが煌々と灯っているだけだ。
カメラに映らない? いや、確かにそこにいるのに。
僕は不思議に思いつつ、しばらく少女を見つめていた。
少女はパーカーにホットパンツ、それにスニーカーという服装で、僕に見向きもせず、漫画に夢中になっている。
一体誰なのだろう。気づくと少女はぴょんぴょんと跳ね、どこかへ行ってしまった。
***
さらに次の日も、そのまた次の日も、僕は少女を見かけた。
ただ跳んでいるときもあれば、寝転がっているときも、座っているときもあったし、漫画を読んでいるときもあった。
ただ、服装はいつも同じ。パーカーにホットパンツ、スニーカー。でも服が汚れたような形跡はない。まるで新品のようだ。だからいつもすぐに分かった。
へとへとになった仕事帰りに、いつしか彼女を見つけるのが習慣になっていた。
そして、気づいてしまった。
少女は、毎日同じ方向から来て同じ方向に帰っていくのだ!
もしかして、その方向に行けば跳ぶ前の少女に出会えるのでは?
三十路の僕が行くのも警察行きになりそうで不安だが、僕以外見ている人はいないのだ。カメラにも映らないし。だからきっと大丈夫だ。謎の自信がある。
***
決行日。
僕は少女の来た方向に向かう。その先には赤い塔があった。東京タワーだ。
その手前に、特徴の似ている子を見つけた。
白いパーカー、ホットパンツ。青いスニーカー。
「あの!」
少女が振り返る。黒いおさげがふわりと揺れる。
「もしかして、跳べる……?」
少女はきょとんとしている。間違えたか!
「ごめんなさい、間違えました! じゃっ!」
「跳べるよ」
静かな声だった。それは雑踏の中でもよく聞こえるまっすぐな声だった。
「おじさんも跳ぶ?」
「おじっ……って、え? 跳ぶ?」
「うん。跳ぶの」
少女は予想以上に表情が変わらなかった。まるで感情がないようだった。
「僕は跳べないよ。人間だから」
「そうだろうね。さ、跳ぼう」
「え?」
そう言うと少女は僕の手を取って走り始める!
「ちょ、え、待って」
「待たない」
僕は転びそうになりながらも一緒に走る。目の前には赤い赤い東京タワー。
「チケット買わないと入れないよ!」
「そんなものいらない。百段跳べばいいでしょ」
何を言っているんだ? 僕は思考回路がショートして考えられなくなる。
「ほらっ」
少女が地面を踏みしめてジャンプする!
「うわああああ!」
そのまま夜空へ跳んでいく! 跳ぶ! 跳ぶ!
僕はものすごい重力を感じながら、手を離さないようにするのに精一杯だった。
「何情けない声出してんの、おじさん」
少女がはぁ、とため息をつく。
気づけば僕らは、夜空を漂っていた。
下を見れば黒いビルとオレンジの明かりと、たくさんの人がうごめいているのがわかる。東京タワーは赤く光っている。繁華街の方はネオンで色とりどりに輝いている。
「わぁ……」
僕は感動する。こんな眺め、なかなか見られない。
「どう? 上からの眺めは」
「とてもきれいだ。おもしろいよ」
振り返ると、ポケットに片方の手を突っ込んで、少し口がニヤついている少女がいた。無表情以外の表情を見たのは初めてだった。
「あ、笑ってる」
「別に、笑わないわけじゃないし」
少女はいつもの無表情に戻った。むすっとしている。
夜景があまりにもきれいなものだから、僕はスマホを取り出そうとして、少女に声をかけられる。
「スマホは映らないよ」
「あ……」
確かにカメラには何も映らない。真っ黒だ。少女を撮ろうとしたときと同じだ。
「そういえば、どうして跳べるの?」
「それ聞く? ちょっと前に空を飛ぶ夢を見てね。それで跳べるようになったんだ」
「へぇ。おもしろいね」
少女はおさげをくるくると指に巻きつける。
「それで。いつから見てたの?」
「えー……二週間とか……」
「そう」
少女は空中に座る。僕も座る。神妙な顔をして、少女は口を開く。
「見つけてくれて、ありがとう」
「え? どうも……」
どういう意味だろう。考察できるほど僕は頭が回らなかった。仕事帰りだからだ。
「満足した?」
「うん」
「じゃ、帰ろう」
「どうやって……」
少女はまた僕の手をとって、見えない階段を飛び降りていく。
ただ、その一段一段がなかなか大きい。僕は再び重力を感じながら、なんとか少女についていった。
東京タワーの目の前に降り立つ。
「今日はありがとう、おじさん」
「こちらこそありがとう」
「ううん、いいの。ね、座ってくれる?」
「うん」
座った僕の頬に少女は手を添える。
「月の祝福のあらんことを」
手のひらはとても冷たかった。頬に氷をあてられたみたいだ。
「じゃあね、おじさん」
少女はぼーっとしている僕を置いて、ぴょんぴょんと跳んでいってしまった。
それから、少女を見ることはなかった。
***
東京タワーの近くへ、僕は歩いていく。少女の痕跡を探すために。
本当になにも見つからない。彼女は一体誰だったのだろう。
気のせいだと思い込もうとした。あんなの幻覚だったのだと。
でもあの不思議な体験は、嘘だと思えない。
ふらふらと彷徨っていると、薄暗い路地に看板があるのが見えた。
──三週間前、この付近で起きた誘拐事件の目撃者を探しています──
「ん?」
近づいて小さい字を読む。
──被害者の特徴:白パーカー ホットパンツ 青スニーカー──
「──あの子だ」
僕は看板から、この付近で車によって連れ去られたことと、容疑者が金髪のヤンキーじみた格好をしていることがわかった。ナンバーは割れていたが、車は盗難車だった。ネットニュースにもなっていて、容疑者が少女を無理やり連れていくところが動画になっていた。
「あれ……」
容疑者に見覚えがあった。あのとき、そう、あの最初に少女を見つけたとき。僕にぶつかってきたヤンキーだ……!
ということは。近いうちにあいつは現れるはず。
よし、警察に伝えよう。僕は看板にあった番号に電話をかけ、そのことを説明した。
「……わかりました。その周辺の警備を強化します。情報提供ありがとうございます!」
電話を切り、家へと急ぐ。こんな薄暗い路地に長くいたら僕だって事件に巻き込まれる。
それから三日後。
「誘拐犯 ついに逮捕」というニュースが速報でテレビに流れた。
「誘拐犯が逮捕されました。容疑者は警察に出頭し、容疑を認めているということです。逮捕されたのは……」
***
僕は今日も東京タワーへ寄る。寄るといっても外から赤いタワーを見るだけだけど。
あの子は、無事うちに帰れたみたいだ。本当に良かった。
でも、もしもう一度だけあの不思議な体験ができたらいいなって思うのだ。今度はお菓子でも持って行って。
そんなこと、叶うわけないって、わかってる。
ほんの少しの希望を持って、いつもここに寄るのだ。
「おじさん」
聞いたことのある声で話しかけられる。
少女がいた。
「おじさん中入らないの? なに? もしかして思い出にふけっているわけ?」
「えっ……と」
驚きと少しの喜びで僕がどう答えたらいいか迷っていると。後ろから母親が駆けてきた。
「この子ったらまた勝手に走り出して……すみません!」
「えー、でも知り合いだよ?」
「ねおん! ダメなものはダメ! また誘拐されたらどうするの!」
「知り合いだよ? 知り合いのおじさんだよ?」
「もう……」
母親は諦めた様子で少女を引きずる。
「わかったわかった、歩くから! じゃね、おじさん」
ひらひらと手を振る少女。その口元がほんの少し笑っていた。
僕も帰ろう。
踵を返したとき、あのときジャンプした軽やかな足音が聞こえた気がした。
少女が空を跳んでいるのを。
視力5.0の僕が言うんだから間違いない。
繁華街を歩く僕の他には、空を見上げる者はいない。みんなスマホに夢中だ。
少女は虚空を蹴り、跳び、そして胡坐をかいた。空中で。あくびをしている。
「……!」
「おい、邪魔だ」
「ヒッ! す、すみません!」
驚いていると金髪のヤンキーに怒られた。気が小さい僕はぺこぺこと頭を下げる。顔を上げると誰もいなかった。何もない空間に謝っていた。
空を見上げると、少女はいなくなっていた。
きっと疲れてるんだ。疲れてるから幻覚なんて見ちゃったんだ。人間が空を跳べるはずない。当たり前だ。
僕は駅へ向かった。
***
翌日。
帰り道、その少女はいた。
今度はポテチ片手に漫画を読んでいる。体育座りをしている。ビルの更に上の高さで。昨日より高度を上げている。
思いついた。
写真を撮れば、もしかしたらテレビ番組に採用されるのでは? そうしたらお金がもらえちゃったり……?
そんな下衆な考えをした僕はスマホのカメラを少女に向ける。
「いない……?」
スマホをどかすと、確かに少女はそこにいる。漫画を読んでいる。
スマホのカメラ越しでは、そこには何もいない。ビルの明かりが煌々と灯っているだけだ。
カメラに映らない? いや、確かにそこにいるのに。
僕は不思議に思いつつ、しばらく少女を見つめていた。
少女はパーカーにホットパンツ、それにスニーカーという服装で、僕に見向きもせず、漫画に夢中になっている。
一体誰なのだろう。気づくと少女はぴょんぴょんと跳ね、どこかへ行ってしまった。
***
さらに次の日も、そのまた次の日も、僕は少女を見かけた。
ただ跳んでいるときもあれば、寝転がっているときも、座っているときもあったし、漫画を読んでいるときもあった。
ただ、服装はいつも同じ。パーカーにホットパンツ、スニーカー。でも服が汚れたような形跡はない。まるで新品のようだ。だからいつもすぐに分かった。
へとへとになった仕事帰りに、いつしか彼女を見つけるのが習慣になっていた。
そして、気づいてしまった。
少女は、毎日同じ方向から来て同じ方向に帰っていくのだ!
もしかして、その方向に行けば跳ぶ前の少女に出会えるのでは?
三十路の僕が行くのも警察行きになりそうで不安だが、僕以外見ている人はいないのだ。カメラにも映らないし。だからきっと大丈夫だ。謎の自信がある。
***
決行日。
僕は少女の来た方向に向かう。その先には赤い塔があった。東京タワーだ。
その手前に、特徴の似ている子を見つけた。
白いパーカー、ホットパンツ。青いスニーカー。
「あの!」
少女が振り返る。黒いおさげがふわりと揺れる。
「もしかして、跳べる……?」
少女はきょとんとしている。間違えたか!
「ごめんなさい、間違えました! じゃっ!」
「跳べるよ」
静かな声だった。それは雑踏の中でもよく聞こえるまっすぐな声だった。
「おじさんも跳ぶ?」
「おじっ……って、え? 跳ぶ?」
「うん。跳ぶの」
少女は予想以上に表情が変わらなかった。まるで感情がないようだった。
「僕は跳べないよ。人間だから」
「そうだろうね。さ、跳ぼう」
「え?」
そう言うと少女は僕の手を取って走り始める!
「ちょ、え、待って」
「待たない」
僕は転びそうになりながらも一緒に走る。目の前には赤い赤い東京タワー。
「チケット買わないと入れないよ!」
「そんなものいらない。百段跳べばいいでしょ」
何を言っているんだ? 僕は思考回路がショートして考えられなくなる。
「ほらっ」
少女が地面を踏みしめてジャンプする!
「うわああああ!」
そのまま夜空へ跳んでいく! 跳ぶ! 跳ぶ!
僕はものすごい重力を感じながら、手を離さないようにするのに精一杯だった。
「何情けない声出してんの、おじさん」
少女がはぁ、とため息をつく。
気づけば僕らは、夜空を漂っていた。
下を見れば黒いビルとオレンジの明かりと、たくさんの人がうごめいているのがわかる。東京タワーは赤く光っている。繁華街の方はネオンで色とりどりに輝いている。
「わぁ……」
僕は感動する。こんな眺め、なかなか見られない。
「どう? 上からの眺めは」
「とてもきれいだ。おもしろいよ」
振り返ると、ポケットに片方の手を突っ込んで、少し口がニヤついている少女がいた。無表情以外の表情を見たのは初めてだった。
「あ、笑ってる」
「別に、笑わないわけじゃないし」
少女はいつもの無表情に戻った。むすっとしている。
夜景があまりにもきれいなものだから、僕はスマホを取り出そうとして、少女に声をかけられる。
「スマホは映らないよ」
「あ……」
確かにカメラには何も映らない。真っ黒だ。少女を撮ろうとしたときと同じだ。
「そういえば、どうして跳べるの?」
「それ聞く? ちょっと前に空を飛ぶ夢を見てね。それで跳べるようになったんだ」
「へぇ。おもしろいね」
少女はおさげをくるくると指に巻きつける。
「それで。いつから見てたの?」
「えー……二週間とか……」
「そう」
少女は空中に座る。僕も座る。神妙な顔をして、少女は口を開く。
「見つけてくれて、ありがとう」
「え? どうも……」
どういう意味だろう。考察できるほど僕は頭が回らなかった。仕事帰りだからだ。
「満足した?」
「うん」
「じゃ、帰ろう」
「どうやって……」
少女はまた僕の手をとって、見えない階段を飛び降りていく。
ただ、その一段一段がなかなか大きい。僕は再び重力を感じながら、なんとか少女についていった。
東京タワーの目の前に降り立つ。
「今日はありがとう、おじさん」
「こちらこそありがとう」
「ううん、いいの。ね、座ってくれる?」
「うん」
座った僕の頬に少女は手を添える。
「月の祝福のあらんことを」
手のひらはとても冷たかった。頬に氷をあてられたみたいだ。
「じゃあね、おじさん」
少女はぼーっとしている僕を置いて、ぴょんぴょんと跳んでいってしまった。
それから、少女を見ることはなかった。
***
東京タワーの近くへ、僕は歩いていく。少女の痕跡を探すために。
本当になにも見つからない。彼女は一体誰だったのだろう。
気のせいだと思い込もうとした。あんなの幻覚だったのだと。
でもあの不思議な体験は、嘘だと思えない。
ふらふらと彷徨っていると、薄暗い路地に看板があるのが見えた。
──三週間前、この付近で起きた誘拐事件の目撃者を探しています──
「ん?」
近づいて小さい字を読む。
──被害者の特徴:白パーカー ホットパンツ 青スニーカー──
「──あの子だ」
僕は看板から、この付近で車によって連れ去られたことと、容疑者が金髪のヤンキーじみた格好をしていることがわかった。ナンバーは割れていたが、車は盗難車だった。ネットニュースにもなっていて、容疑者が少女を無理やり連れていくところが動画になっていた。
「あれ……」
容疑者に見覚えがあった。あのとき、そう、あの最初に少女を見つけたとき。僕にぶつかってきたヤンキーだ……!
ということは。近いうちにあいつは現れるはず。
よし、警察に伝えよう。僕は看板にあった番号に電話をかけ、そのことを説明した。
「……わかりました。その周辺の警備を強化します。情報提供ありがとうございます!」
電話を切り、家へと急ぐ。こんな薄暗い路地に長くいたら僕だって事件に巻き込まれる。
それから三日後。
「誘拐犯 ついに逮捕」というニュースが速報でテレビに流れた。
「誘拐犯が逮捕されました。容疑者は警察に出頭し、容疑を認めているということです。逮捕されたのは……」
***
僕は今日も東京タワーへ寄る。寄るといっても外から赤いタワーを見るだけだけど。
あの子は、無事うちに帰れたみたいだ。本当に良かった。
でも、もしもう一度だけあの不思議な体験ができたらいいなって思うのだ。今度はお菓子でも持って行って。
そんなこと、叶うわけないって、わかってる。
ほんの少しの希望を持って、いつもここに寄るのだ。
「おじさん」
聞いたことのある声で話しかけられる。
少女がいた。
「おじさん中入らないの? なに? もしかして思い出にふけっているわけ?」
「えっ……と」
驚きと少しの喜びで僕がどう答えたらいいか迷っていると。後ろから母親が駆けてきた。
「この子ったらまた勝手に走り出して……すみません!」
「えー、でも知り合いだよ?」
「ねおん! ダメなものはダメ! また誘拐されたらどうするの!」
「知り合いだよ? 知り合いのおじさんだよ?」
「もう……」
母親は諦めた様子で少女を引きずる。
「わかったわかった、歩くから! じゃね、おじさん」
ひらひらと手を振る少女。その口元がほんの少し笑っていた。
僕も帰ろう。
踵を返したとき、あのときジャンプした軽やかな足音が聞こえた気がした。
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