短編集
夏の夜。チャッカマンを点け、その細くて軽い花火に火を点ける。
ぱちりぱちりと音がすると、その子は現れる。
「よっ」
「よう」
「今年も呼んでくれて、ありがとな」
男の子らしい口調で話すのは、全身が線香花火のように橙に輝く女の子だ。
小さい頃から僕にだけ見えていたその子は、十歳のとき線香花火の精霊なのだと教えてくれた。
今は大人になって一人暮らしの身だが、それでも夏の夜だけ、線香花火を点ければ出てきてくれる。
「最近どうだ?」
「毎日へとへとだよ。そっちは?」
「お前以外にも、線香花火をする人の前に現れてみたりもするんだが、誰も気づかないな」
「そうなんだ」
「お前は特別なのかもな」
「そんなことないよ。普通の二十六歳児だよ」
「二十六歳児ってなんだよ」
「おもしろいでしょ?」
「まぁな」
精霊と会話をしていると、時間はあっという間に過ぎる。
線香花火が燃えるのは、四十秒だけなのだそうだ。
「じゃ、この辺で。またな」
「あ、ちょっ、待って!」
じゅうと音がして、線香花火は消えた。煙の香りが辺りを包む。
「もう一本、やるか」
線香花火はまだある。五本入りだからあと四回、できる。同じように火を点ける。
「なんだなんだ、今年は話したいことでもあるのかよ」
精霊はやれやれといった風にして現れた。
少し間を置いてから、僕は話したかった言葉を口にした。
「もう、会えないからさ」
「会えない? 線香花火代が負担になっているのか? それはすまな」
「そうじゃない」
「……」
精霊の言葉を遮ると、彼女は黙ってしまった。
「もう、生きるの、つらくてさ。やめようかなって思ってるんだ」
伝えると、精霊はうーんと考えていた。考えながら、じうじうと線香花火は燃え続ける。
「あ、俺もう消えちまう! また呼んでくれよ! それまでに返事、考えておくから!」
言い終わると同時に、線香花火は消えた。
あと三本。
チャッカマンを点ける前に、僕は現実に引き戻されていた。
今日は日曜日。今日が終わってしまえば、月曜日がやってくる。
明日なんて、来てほしくない。
「なんで、泣いてんだろ」
Tシャツの袖で涙を拭う。水色の生地に青くシミが付いた。
火を点ける。
「よう。考えたんだが、休むのはどうだ? ゆーきゅー、とか使ってさ。休めば治るだろ?」
「治らないよ」
「そうか……。じゃあ、実家に帰るのは?」
「休めないよ」
「ダメかぁ」
あー、と残念そうな顔をする精霊。
「あ」
お互い黙っていたらまた消えた。あと二本。
つけるか迷う。これ以上押し問答していてもいい結果は出ないだろう。
でも。
僕はほんのちょっとの望みをかけて、火を点ける。
「医者に診てもらったらどうだ?」
開口一番、精霊は医者というワードを口にした。少し、体が重くなる。
「ちょっと調べたんだ。診断書が出れば帰れるんだろう?」
「まぁ、そうだけど。精神科とか、かかったことないし」
「だろうな。でも俺は、来年も君に会いたいんだ」
「そう」
「そうだ。だから、面倒かもしれないが受診してみてほしい」
「ん」
曖昧に返事をすると、精霊は線香花火のパッケージに目を向けた。
「残り一本か」
「うん」
「その一本、取っておいてさ、実家に帰ったとき点けてみてくれよ」
「え」
「な、俺との約束だ」
精霊はにこりと笑う。
「大変だろうが、俺は応援してるぜ。二十六歳児さんよ」
ぱちぱちという音が小さくなっていく。
「また来年、会おうぜ」
アスファルトに火の玉が落ちる。消えてしまった。
「あーあ」
僕は残念そうに声を上げる。
残った一本の線香花火。これを、実家で燃やすのだ。
庭から部屋に戻り、花火の後始末をする。部屋はクーラーが効いていて涼しい。
精霊との約束を果たすために、僕は近所の医者を検索する。意外と近くにあった。徒歩でいける距離だ。予約フォームを見てみると、明日が空いていた。午後一番に予約を入れる。暑いかな。
よし、明日はせっかくだから会社休んじゃおう。あのいつも元気な精霊が心配するくらいだもん。それほど疲れが目に見えるほどだったのだろう。
ソファーに横になる。緑のアイコンを見ながら、そういえば親にも連絡しておいた方がいいかなと考える。
最後の連絡は数ヶ月前。連絡するのには少し勇気がいるが、しておいた方が後々スムーズに事が運ぶだろう。
電話をかける。少しのコール音の後で、母が出た。
「もしもし?」
「母さん、久しぶり」
「もうねぇ、連絡なくて心配してたのよ? 関東暑いでしょう? 大丈夫?」
「実はね……」
僕は会社がしんどいこと、明日医者に診てもらうこと、もしかしたら実家に帰るかもしれないことについて伝えた。
「まぁ、そうだったのね」
「うん……」
「よく頑張ったわね」
その言葉で、僕はもう大人なのにぼろぼろと泣いてしまった。しゃくり上げながら電話をする。
「ごめんなさい、母さん」
「なんで謝るのよ。大丈夫よ、しんどかったらお母さんも一緒に書類やるから」
「うん。ありがとう」
「いいのよ」
母はけらけらと笑う。
「じゃ、明日お医者さんね。後で結果聞かせてちょうだい」
「わかった」
「またね」
「うん、また明日」
電話を切る。久しぶりの電話で少し緊張したが、母はいつも通りで安心した。
スマホをいじっていると、なんと父から電話が来た。あの寡黙な父から。すごく驚いて、僕は震える指で応答ボタンを押す。
「もしもし」
「健か」
「健です」
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。父となんと喋ればいいかわからなかった。
「また、花火やろうな」
父が低い声でそう言ったとき、僕の頭には小さい頃の風景が蘇っていた。
ねぇお父さん、精霊さんがそこにいるんだよ?
何も見えないぞ。
そこにいるんだって!
そうなのか?
あの寡黙な父が、花火の時になると少し饒舌になるのが嬉しかった。
「わかった。またやろうね」
「あぁ」
短い電話だった。だが、嬉しかった。久々に話せたことも、精霊との約束を果たせそうなことも。
時計を見る。もう日付を越えようとしていた。
「寝るか」
明日に備えよう。僕は洗面台へ歯磨きをしに向かった。
ぱちりぱちりと音がすると、その子は現れる。
「よっ」
「よう」
「今年も呼んでくれて、ありがとな」
男の子らしい口調で話すのは、全身が線香花火のように橙に輝く女の子だ。
小さい頃から僕にだけ見えていたその子は、十歳のとき線香花火の精霊なのだと教えてくれた。
今は大人になって一人暮らしの身だが、それでも夏の夜だけ、線香花火を点ければ出てきてくれる。
「最近どうだ?」
「毎日へとへとだよ。そっちは?」
「お前以外にも、線香花火をする人の前に現れてみたりもするんだが、誰も気づかないな」
「そうなんだ」
「お前は特別なのかもな」
「そんなことないよ。普通の二十六歳児だよ」
「二十六歳児ってなんだよ」
「おもしろいでしょ?」
「まぁな」
精霊と会話をしていると、時間はあっという間に過ぎる。
線香花火が燃えるのは、四十秒だけなのだそうだ。
「じゃ、この辺で。またな」
「あ、ちょっ、待って!」
じゅうと音がして、線香花火は消えた。煙の香りが辺りを包む。
「もう一本、やるか」
線香花火はまだある。五本入りだからあと四回、できる。同じように火を点ける。
「なんだなんだ、今年は話したいことでもあるのかよ」
精霊はやれやれといった風にして現れた。
少し間を置いてから、僕は話したかった言葉を口にした。
「もう、会えないからさ」
「会えない? 線香花火代が負担になっているのか? それはすまな」
「そうじゃない」
「……」
精霊の言葉を遮ると、彼女は黙ってしまった。
「もう、生きるの、つらくてさ。やめようかなって思ってるんだ」
伝えると、精霊はうーんと考えていた。考えながら、じうじうと線香花火は燃え続ける。
「あ、俺もう消えちまう! また呼んでくれよ! それまでに返事、考えておくから!」
言い終わると同時に、線香花火は消えた。
あと三本。
チャッカマンを点ける前に、僕は現実に引き戻されていた。
今日は日曜日。今日が終わってしまえば、月曜日がやってくる。
明日なんて、来てほしくない。
「なんで、泣いてんだろ」
Tシャツの袖で涙を拭う。水色の生地に青くシミが付いた。
火を点ける。
「よう。考えたんだが、休むのはどうだ? ゆーきゅー、とか使ってさ。休めば治るだろ?」
「治らないよ」
「そうか……。じゃあ、実家に帰るのは?」
「休めないよ」
「ダメかぁ」
あー、と残念そうな顔をする精霊。
「あ」
お互い黙っていたらまた消えた。あと二本。
つけるか迷う。これ以上押し問答していてもいい結果は出ないだろう。
でも。
僕はほんのちょっとの望みをかけて、火を点ける。
「医者に診てもらったらどうだ?」
開口一番、精霊は医者というワードを口にした。少し、体が重くなる。
「ちょっと調べたんだ。診断書が出れば帰れるんだろう?」
「まぁ、そうだけど。精神科とか、かかったことないし」
「だろうな。でも俺は、来年も君に会いたいんだ」
「そう」
「そうだ。だから、面倒かもしれないが受診してみてほしい」
「ん」
曖昧に返事をすると、精霊は線香花火のパッケージに目を向けた。
「残り一本か」
「うん」
「その一本、取っておいてさ、実家に帰ったとき点けてみてくれよ」
「え」
「な、俺との約束だ」
精霊はにこりと笑う。
「大変だろうが、俺は応援してるぜ。二十六歳児さんよ」
ぱちぱちという音が小さくなっていく。
「また来年、会おうぜ」
アスファルトに火の玉が落ちる。消えてしまった。
「あーあ」
僕は残念そうに声を上げる。
残った一本の線香花火。これを、実家で燃やすのだ。
庭から部屋に戻り、花火の後始末をする。部屋はクーラーが効いていて涼しい。
精霊との約束を果たすために、僕は近所の医者を検索する。意外と近くにあった。徒歩でいける距離だ。予約フォームを見てみると、明日が空いていた。午後一番に予約を入れる。暑いかな。
よし、明日はせっかくだから会社休んじゃおう。あのいつも元気な精霊が心配するくらいだもん。それほど疲れが目に見えるほどだったのだろう。
ソファーに横になる。緑のアイコンを見ながら、そういえば親にも連絡しておいた方がいいかなと考える。
最後の連絡は数ヶ月前。連絡するのには少し勇気がいるが、しておいた方が後々スムーズに事が運ぶだろう。
電話をかける。少しのコール音の後で、母が出た。
「もしもし?」
「母さん、久しぶり」
「もうねぇ、連絡なくて心配してたのよ? 関東暑いでしょう? 大丈夫?」
「実はね……」
僕は会社がしんどいこと、明日医者に診てもらうこと、もしかしたら実家に帰るかもしれないことについて伝えた。
「まぁ、そうだったのね」
「うん……」
「よく頑張ったわね」
その言葉で、僕はもう大人なのにぼろぼろと泣いてしまった。しゃくり上げながら電話をする。
「ごめんなさい、母さん」
「なんで謝るのよ。大丈夫よ、しんどかったらお母さんも一緒に書類やるから」
「うん。ありがとう」
「いいのよ」
母はけらけらと笑う。
「じゃ、明日お医者さんね。後で結果聞かせてちょうだい」
「わかった」
「またね」
「うん、また明日」
電話を切る。久しぶりの電話で少し緊張したが、母はいつも通りで安心した。
スマホをいじっていると、なんと父から電話が来た。あの寡黙な父から。すごく驚いて、僕は震える指で応答ボタンを押す。
「もしもし」
「健か」
「健です」
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。父となんと喋ればいいかわからなかった。
「また、花火やろうな」
父が低い声でそう言ったとき、僕の頭には小さい頃の風景が蘇っていた。
ねぇお父さん、精霊さんがそこにいるんだよ?
何も見えないぞ。
そこにいるんだって!
そうなのか?
あの寡黙な父が、花火の時になると少し饒舌になるのが嬉しかった。
「わかった。またやろうね」
「あぁ」
短い電話だった。だが、嬉しかった。久々に話せたことも、精霊との約束を果たせそうなことも。
時計を見る。もう日付を越えようとしていた。
「寝るか」
明日に備えよう。僕は洗面台へ歯磨きをしに向かった。
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