短編集

 クーラーって、つけっぱなしだと後から冷えてくるよね。そんなことを、月子は思う。
 でも、リモコンで消すために体を動かす元気はない。起きたばかりだからだ。

 時刻は昼の十一時。月子は夜型の生活を送っている。ベッドの中でうだうだするのをやめ、どうにかベッドから這い出て、クーラーのリモコンの電源ボタンを押す。起き上がって、ふわあとあくびを一つ。

 もう昼か、と月子は思う。まだ学校まで時間はあるけれど、この時間になにか食べないと元気が出ない。面倒臭いけど仕方がない。

 マンションの一室、月子は母と二人で暮らしている。兄弟はいない。父もいない。離婚したのだそうだ。でも月子はあまり気にしていない。そんなことより気にしていることが他にあるからだ。

 キッチンに向かうと、月子はメモを発見した。いつもの丸文字で、「月ちゃん、おはよう。ご飯冷蔵庫にあるから、適当に食べてね」と書いてある。母の字だ。母は朝から夕方まで働いているから、こうして月子のためにメモと食事を置いておいてくれる。

「うーん……」
 月子はあまりお腹が減っていなかった。薬のせいだから仕方ない。冷蔵庫を開けて、チキンライスを見つける。取り出してラップを外し、別の皿に食べられそうな分だけよそう。ラップをし、レンジに入れて、温かくなるのを待つ。レンジの低い音がキッチンに響く。

 月子はスマホをジャージのポケットから取り出す。見るのはいつものSNS。青い鳥のSNSだ。通知が来ていた。それも十数件。月子はにんまりと口角を上げる。嬉しいのだ。
 そして、一覧から「ソル」という名のアカウントを目にする。この人は、ちょっと前からいつもいいねをくれるようになったのだ。固定ファンが一人増えたと、月子は考える。嬉しいことだ。

 レンジが鳴る。スマホをテーブルに置く。チキンライスを取り出して、食べる。後から「いただきます」と小声で言う。一人で食べていると独り言みたいになって恥ずかしい。

 なんとか食べ終えて、薬を飲み、皿を流しに置き、ラップをゴミ箱に入れる。最近食事が苦しくなった。でも薬のせいだから仕方ないのだ。月子は前はこんな感じじゃなかったのに、と思う。血中濃度が安定するまで二週間かかるそうだから、まだ戦いは続く。

 食事を終えた月子は、自室に戻る。まだクーラーの冷気が残っていて、月子は「寒い」と口にする。ベッドに戻り、やることといえば絵を描くことだ。月子は家を出る五時まで、毎日絵を描いている。タブレットを引っ張り出し、お絵描きアプリを開く。新しいキャンバスを開き、追加で買ったペンで描いていく。

 何を描こうかな。そうだ、最近ファンになってくれたソルさんのために、太陽をモチーフにしてはどうだろう。ソル、というのはローマ神話の太陽神の名前なのだ。いいアイデアだと月子は自画自賛する。

「やば、行かなきゃ」
 月子はタブレットの時計を見て焦る。もう五時だ。急いで支度をする。

 今日は数学と社会だから教科書とノートを入れて、と。タブレットも入れる。キッチンで水筒を作り、棚からゼリー飲料を取り出し、これもリュックサックに入れる。薬も忘れずに。

 髪を適当にとかし、服装はジャージのままで月子は出かける。鍵を閉めて、取手を引いて開かないことを確認して、エレベーターを待つ。早く来ないだろうかとボタンをカチカチと押す。月子の家は八階にあるのだ。階段で降りると運動にはなるが息が上がってしまう。

 少し早足で駅へ向かう。この早足に意味があるかわからないが、早足で歩く。数分のうちに駅に着いた。
 すぐやってきた急行に乗る。夕方だから上りは人が少ない。月子は椅子に座って安堵のため息をつく。列車はすぐに動き出した。

 目的の駅で降りる。他にも降りる人がいて、制服を着ている生徒もちらほら。月子の高校は定時制で、服装は自由なのだ。月子の場合、制服は買ったはいいが着ておらず、押し入れにしまったまんまになっている。

 改札を抜け、夕方の商店街を歩く。ひぐらしの声が聞こえる。まだ日は沈んでいない。夏だなぁ、と月子は思う。食事をまともに食べていないので、元気が出ない。少しふらついた足取りで、月子は学校に向かう。

 てくてく歩き続けると、商店街から住宅街になってきた。その中に、高校がある。月子はスマホで時刻を確認し、急いだ。

 上がった息のまま校門を通る。まず食堂に行く。月子の学校では、好きなところで食事をとっていい。でも、月子は頑なに食堂を利用する。なんだか食べるべき場所で食べることが大事だと思うのだ。

 リュックからゼリー飲料を取り出し、飲む。食欲がないから仕方なく口にれる、といった感じだ。他の生徒は給食を食べており、食欲があることを月子は羨ましく思う。

 飲み終わったゼリー飲料をゴミ箱に捨て、薬を飲んだら、月子は教室へ向かう。三階へ上がっただけでゼイゼイとしてしまう。早く食欲が回復してほしいと切実に思った。

 教室の、自分の席に座る。これからホームルームがあるのだ。時間まで暇なので、絵を描こうとさっきのタブレットを取り出す。電源を点けて、描いていく。

「わ、すごーい!」
 頭上から声が降ってきた。毎度お馴染みの声だ。
「月子ちゃん、すごいね。今は何を描いているの?」
「太陽モチーフのキャラ」
「すごいね」

 この執拗に話しかけてくる女子生徒はきららという。部活にも入らず、ずっとぼっちを貫いている月子を心配してくれているのか、毎日話しかけてくる。正直、月子はきららが苦手である。

「ふーん」
 きららは月子に苦手に思われていることを知らず、月子のタブレットの画面を見つめている。月子は視線を向けられるのが苦手だから、正直やめてほしい。でも、キラキラ系女子のきららが月子の悪い噂を流すのが怖くて、強く言えない。

 月子はきららをいなかったようにして、細部を仕上げていく。この調子なら、今日寝る前までに投稿できそうだ。少し嬉しくて、月子はにんまりする。

「ホームルーム始めっぞ〜」
 はっと顔を上げると、担任が来ていた。クラスメイトも十数人だが集まってきている。月子は描き途中のイラストをセーブして、タブレットをリュックにしまった。

***

 今日の授業が終わった。数学は好きだ。答えがあるから。公式さえやり方さえわかれば簡単だから。社会は嫌いだ。月子は暗記が苦手なのだ。興味もないし。

 すっかり日の沈んだ通学路を歩く。時刻は九時半。商店街もスーパー以外大体の店は閉店しており、静かだ。もう少しすれば、秋の虫の音が聞こえるようになるのだろう。

 電車に乗る。同じ高校の陽キャたちが騒いでいる。いつものことだから、月子も慣れた。最寄りで降りて、暗い住宅街を自分の家まで歩く。

鍵を開ける。
「ただいまー」
「おかえり、月ちゃん」
 母は隈のある疲れた顔で、月子を迎える。今日も仕事が大変だったのだろう。

「お母さんも、お疲れ様」
 そう言いながら、手を洗う。

「ありがとう」
 月子の母はにこ、と笑う。

「夕飯パスタなんだけど、いいかしら」
「いいよ。100グラム食べられるかな」
「残していいわよ。残ったら、私が食べるから」
「わかった」
 月子は食卓につく。月子の母はパスタを茹でようと立ち上がる。

 100グラムのパスタとパスタソースが茹でられていくのを横目で見ながら、月子はタブレットを取り出して絵を描く。さっきの続きだ。あとは細部を描き込んで、加工するだけ。

「月ちゃん、今日は何描いてるの?」
「あのね、いつもいいねしてくれる人にソルって人がいてね」
「うん」
「ソルってのはローマの太陽神の名前なの」
「うん」
「だから、太陽をテーマにした天使の絵、描いてる」
「いいわね。完成したら見せて?」
「いいよ」
 月子の母はパスタをザルに上げる。

 月子は自分の母のことを信頼しきっている。唯一の会話相手なのかもしれない。母親のことは口に出すのは恥ずかしいが、大好きだ。こんな朝起きれない自分のことを高校に行かせてくれて、定時制でもいいって言ってくれて、いつも感謝している。

「はい、できました」
 今日の夕飯。匂いでわかる。
「ミートソーススパゲッティだ!」
 月子の大好物だ。月子は急いでタブレットをしまう。
「いただきます!」
「はーい」
 月子ががつがつと食べるところを、月子の母は優しく見つめている。

「おいしい」
「そう? よかった」
 昼は食欲がなかったはずなのに、今出てきたのか。月子は食欲って不思議だなと考える。好きな食べ物だからという理由もあるかもしれないけれど。
 食欲はそんなになかったはずなのに、月子はぺろりとスパゲッティを平らげてしまった。久しぶりのお腹が膨らむ感じに、月子は嬉しくなる。夕飯後の薬を忘れずに飲む。

「ごちそうさま」
「はーい」
 月子の母は月子の皿を片付ける。さらっとお湯で流したら、食洗機に入れる。洗剤を入れて、スイッチを押す。ごうんごうんと食洗機が音を上げ始めた。

「じゃ、またね」
「お風呂できてるからね」
「はーい」
 月子は自室へ向かう。ベッドに寝転がり、やることといえば、そう、お絵かきだ。タブレットを開き、続きを描いていく。

***

 絵が完成した! 納得の出来だ。月子はにこにこと笑っている。SNSに太陽の絵文字と一緒に投稿して、と。こんな深夜だし、いいねがつくのは当分先だろう。気づけばもう一時だ。

「お風呂入らなきゃ」
 月子は着替えを用意して、風呂場へ向かう。追い焚きのスイッチを押してから、服を脱いでいく。

 ふと鏡に映った自分の髪が気になった。もうずっと美容院にいっていない月子の髪は、腰の辺りまで伸びきっている。まだ伸びるのだろうか。
 月子の髪はストレートで、クセがないからからまることがない。美容師が見たら彼女の髪を誉めるだろう。そんな髪質なのだ。
 でも月子は自分の髪をなんとも思っていない。乾かす時邪魔だから切ってしまおうか、でも昼間外出するのはつらいしな、と自分を許して美容院への足が遠くなっている。

 月子は顔を洗い、体を洗い、髪を洗ってタオルでまとめる。湯船に浸かる。追い焚きを先にしておいたおかげで、寒くない。月子はふぅとため息をつく。

 髪を乾かし、全身を拭く。風呂の水を抜き、着替える。ジェルを顔に塗ったら風呂掃除をする。風呂掃除は月子の役目なのだ。

 部屋に戻ってSNSを開く。いいねは一。まぁ夜中だから仕方ない。でもいいねって思ってくれたのは嬉しい。たった一人だとしても。

 月子は気になっていたソルのことを思い出す。どんな人なんだろう。投稿の内容を見てみようかな。

「新作アイス! うま!」
「新しい友達できた! 小説書くんだって! ダブルピース!」
「サッカー部入りました! いえーい!」

「陽キャじゃん……」

 月子は呆れ、少し悲しくなった。自分みたいに同じく絵を描く人だといいなと思っていたからだ。

 でも、たとえ陽キャだとしても、自分の絵を良いと思ってくれるんだ。きっと悪い人ではないのだろう。

 明日になれば、きっとソルさんからいいねが来てるんだ。そんな未来が来るなら、生きているのも悪くない。

 月子は歯磨きをしにキッチンへ向かう。さっと済ませて、就寝前の薬を飲み、自室へ戻る。

 明日もいいことありますように。病気でつらいけど、保健室に行ったっていいんだから。なんとかなるはず。

 月子はそんなことを思いながら、目を閉じる。

***

「おはよっ!」
 駅の階段を登っていたら背中からタックルされた。日向はよろめいて倒れそうになるところをぐっと堪え、サッカー部で鍛えている途中の体幹で起き上がる。

「すまん! そこまで強くやったつもりはなくって」
「大丈夫。おはよう、翔太」
「おう! おはよう、日向」
 日向と翔太は笑い合う。彼らは同じ電車に乗って毎朝登校しているのだ。二人は全日制の高校に通っている。ちょっとした進学校だ。

「な、ルナさんの絵、見た?」
「あー。お前が気になってる絵師な?」
「そうそう! 同じ高一なんだってよ! すごすぎない?」
 日向は翔太にスマホを画面を見せる。

「おー……」
 翔太は絵がわからなかった。

 改札を通る。階段を降りながら、二人は会話する。
「な? すごいだろ。俺、ルナさんにいいねしか送っていないんだけど、今度リプで感想言ってみようかなって思っててさ」
「いいんじゃない?」
 はは、と翔太は笑う。翔太から見ても日向は陽キャ中の陽キャなのに、絵に関して興味があるのが珍しいなと翔太は思っているのだった。

「あー。でもやめとこっかな」
「どうして?」
「いやーだってさー。書き方わかんないんだよ。傷つけないか心配」
「いや、日向ならできるっしょ。いつもチーム盛り上げてくれるし、その感じでやればいいんじゃない?」
「そっか。そうか。なるほど。……翔太、ありがとう」
「俺は別に」
 日向から100パーセントの笑みを向けられて、翔太は困惑する。まぁ、友人が笑ってくれたならそれでいいけれど。

 駅を出て、高校までの坂を上がっていく。
「今日も頑張ろうな、翔太」
「ああ。日向もな」
 二人で拳をコツンとさせる。
 今日も一日楽しく過ごせますようにと、日向は思う。
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