第一部
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談話室に掲示されたイースター休暇の知らせに、名前は思わず目を瞬かせた。新年を迎えてから、もう三ヶ月近くが経ったとは。雪の降るホグズミードで慌ただしくクリスマスショッピングを済ませ、冬の休暇でようやく一息ついたのも束の間。あっという間にホグワーツへ引き戻され、気が付けば雪解けの季節だった。名前は両手いっぱいに抱えた教科書を見つめ、他の五年生と同じように、深く溜め息をついた。後ろの方で同級生が、今年のイースター休暇はどうするか話している。「どうせ課題だらけなんだ、家に帰るだけムダさ...」自由を諦めたようなその声に、名前は心の中で頷きながら同意した。五年生のイースター休暇は宿題が多すぎてもはや休暇ではないと、ミランダが去年ぼやいていたのを思い出す。家に帰ればどうしても気が抜けてしまうし、イースターのお祝いムードの中、自分だけが一日中机に向かっているなんて悲しすぎる。名前の背後で話していた男子生徒たちは、今年のイースターは全員帰らないという結論に達したようだった。五年生の大半は、ホグワーツ特急に乗っている時間すら惜しいと思っているはずだ。
休暇のスケジュールと共に、五年生には進路指導の案内もやって来た。談話室のテーブルには職業紹介の冊子が置かれ始め、ある朝、掲示板に進路面談のスケジュールが貼り出されていた。名前はしかめっ面でそれを読みながら、自分の順番を確認した。面談日時は4月の第2木曜日、夕方だ。全体的に予想よりも早い日付だった。
秋の終わりから自分なりに色々考えてきたつもりだが、結局何も決めれずじまいだ。あえて希望を言うならば、危ない仕事には就きたくないという事くらいかー。朝食の大広間で、ミランダが受け取った新聞に目をやりながら、名前は思った。闇の勢力に対抗する魔法使いがまた多数行方不明になり、魔法省の対策本部が総出で捜索しているという。取材陣に囲まれた魔法大臣は、狼狽えた表情をしている。『魔法省内にスパイがいると多くの職員が気付いているのに、大臣はそれを野放しにするのか』そんなショッキングな批判も現場の声として挙げられていた。
イギリスの魔法界はもうめちゃめちゃだ。世界一安全と言われるホグワーツで日々を過ごす名前ですら、そう肌で感じざるを得ない状況だった。近頃は高名な魔法使いたちが遺体で発見されるニュースも増えている。皆、反マグル思想に頑として立ち向かっていた人物だ。社会を覆う恐怖はホグワーツ校内にも確実に漂っており、純血主義の多いスリザリンは他寮、とりわけ低学年の生徒たちに露骨なまでに避けられている。つい先日も、階段ですれ違った小柄なハッフルパフ生から怯えた目を向けられ、名前は深く傷付いていた。『スリザリンの親は皆死喰い人だ、マグル生まれだなんて絶対に知られてはならない』廊下で誰かがそう囁くのを聞いたことがある。本当にいい迷惑だ。そしてそれを否定し切れないスリザリンの現状に、名前は絶望的な気持ちになるのだった。
一方で、同学年の間では良い変化もあった。魔法薬学の授業をリリーが共に過ごしてくれるおかげで、彼女の友人たちも気兼ねなく話し掛けてくれるようになったのだ。リリーがいない所でメアリーから「おはよう」と声を掛けられた時、名前は心が弾むほど嬉しかった。後日その事をおずおずと告げると、彼女たちは『そんな当たり前のこと』と驚きつつも、これからは校庭でランチをしたり、ホグズミードにも一緒に行こうと誘ってくれた。寂しい奴だと哀れまれたかもしれない。しかしどう思われたかなど気にならない程、同い年の女友達が増えた事は名前にとって本当に幸いだった。
「今年のイースターはちょっと遅めよね」
魔法薬学の授業前、名前の隣に座るリリーは大鍋を用意しながら悩ましそうに言った。
「どうしようかなあ。休暇が終わったら、OWLまで2ヶ月しかないんだ…」
「私は帰らない事にしたよ」
名前がそう答えると、後ろに座るメアリーとクリスが「私も、私も」と話に乗ってきた。
「みんな帰らないの?」
リリーは意外そうに全員を見てから、うーんと唸った。
「まあそうよね、結局宿題だらけなんだろうし…でもせっかくのイースターだし…家族でお祝いはしたいなあ…」
「リリーは帰ったって大丈夫よ、成績抜群なんだから」
メアリーの言葉に、名前もうんうんと頷いた。リリーは課題が課題がと言いつつも、日頃しっかり余裕をもって終わらせているのだ。
「そんな事はないんだけど…悩むなあ」
道具一式を綺麗に並べながら、リリーは首を傾げている。一足先に準備を終えたメアリーが、「そういえばさ」と進路面談の案内を鞄から取り出した。
「これ、いつだった?私再来週なの。なんだか緊張するなー」
「あ、私も再来週だった」
名前は後ろの二人に体を向けて、グリフィンドール生に配られた案内紙を覗き込んだ。様式は全寮とも同じで、実施場所だけが異なっていた。メアリーの紙には、マクゴナガル教授のオフィスと書かれている。
「イースター休暇の後だと思ってたけど、今年はその前なんだね」
「今年は休暇が4月に入ってからだから、その後だと遅いんじゃない?」
「確かに、この面談を元にOWL対策するわけだしねー…」
ガヤガヤと話し込んでいる内に、スラグホーンが教室に入ってきて授業が始まった。リリーたちはどんな進路を考えているのか、とても気になるところだ。ジェームズたちの進路希望は全く参考にならなかったが、グリフィンドールの女子たちの考えは、自分にとって新たな発見がある気がする。リリーは得意の魔法薬学を活かしたいと思っているだろうか。メアリーは自分と同じくらいの成績だから、不安を分かち合えるかもしれない。ぼんやりとあれこれ考えている内に、名前はスラグホーンの指示を聞きそびれた事に気付き、「先生、何て言ってた?」と隣のリリーに耳打ちした。
授業を終えるとちょうど昼食の時間だったので、四人は大広間へサンドイッチを取りに行き、それを持って中庭の向かい合うベンチに腰掛けた。噴水のそばで
逆さ吊りにされている男子生徒を見て、クリスが「またやってるよ」と呆れ声を出した。
「なんか流行ってるよねえ、あれ」
サンドイッチをモグモグと口にしながら、メアリーが言った。
「レビコーパスだっけ?」
「仲間内で楽しむ分には止めないけれど…いたずらとして使うのは感心しないわね」
リリーはいまいち面白さが理解できないという顔で、騒ぐ男子たちを眺めている。
「ね。誰が始めたんだろう、あんな呪文」
名前は彼女たちに同意しながら、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。視線の先では、レビコーパスを不意に解除された生徒が地面に倒れ込み、「いてえ!」と声を上げている。
「危ない!」
一連の流れを見ていたリリーが、当人たちにも聞こえる大きさの声で咎めた。
「弾みで頭を打ったらどうするの?骨が折れでもしたらー…」
「マダム・ポンフリーがまた怒るだろうねえ」
エッグサンドを頬に詰め込み、冷ややかな目を向けながらクリスが言った。
「まあ、骨折程度なら自分たちで何とかなるでしょ。エピスキーはそんなに難しくないよ」
「それよ、皆のそういうとこ!」
納得いかないという表情でリリーがクリスに向き直った。
「魔法ですぐ治せるからって、みんな危ない事をしすぎなのよ…マグル出身の私からすれば、骨折だって大怪我なんだから」
「骨折が大怪我かあ〜」メアリーが興味深そうに身を乗り出し、クリスが「そうなの?」と目を丸くした。
「そうよ!それをみんな、少し捻ったくらいの感覚で片付けちゃうんだもの」
リリーはため息をつきながら、いつの間にか食べ終わっていたサンドイッチの包みを片付け始めた。
「だからああいう光景も、未だにヒヤヒヤしちゃうのよね。何より、痛い事に変わりはないじゃない?」
魔法と怪我についてああだこうだと語り合っていたら、あっという間に昼休みが過ぎてしまった。午後の授業に向かうべく、四人は中庭を後にし、高架橋へと続く道を進んだ。名前とリリーの前を並んで歩きながら、メアリーとクリスはまだ怪我の話をしている。
「クリスは昔からよく怪我を治してくれるし、癒者にでもなれるんじゃない?」
「何言ってんの、癒者の仕事は重すぎるんだから…学校生活での怪我とは比べ物にならないケースで溢れてるんだよ」
「えーっ、でも見てみたいなあ、聖マンゴの服着たクリス!」
メアリーの無邪気さにふふっと笑いながら、名前は彼女たちの会話を後ろで聞いていた。「あのねえ」とクリスが呆れた口調で反論する。
「そもそも癒者って、幅広い教科で良い成績取れてないとなれないし…NEWT試験での判定がかなり厳しくて…」
「クリスは頭いいんだから問題ないって。えっ、待ってよ、実際進路として調べてるんじゃない!」
二人のやり取りがヒートアップする中、ふとリリーが名前にだけ聞こえる声で呟いた。
「セブは、イースター休暇に帰るのかな」
リリーの真剣な表情を見て、名前は自分の聞き間違いでない事を確認した。名前の反応を待たずして、リリーは半ば自身に語りかけるように続けた。
「もし家に帰るんだとしたら…話す時間があるかもしれないって思うの」
揺れるリリーの赤い髪を見つめながら、名前は静かに「そうだね」と相槌を打った。リリーですら、近頃はセブルスとまともに話せていないという。彼が人目を気にして自分を避けているのだと、少し前にリリーは言っていた。マルシベールやエイブリーと一緒にいる時のセブルスは、自分と目を合わせようともしない、そう憤るリリーの横で、名前は複雑な心境だった。グリフィンドールとの合同授業や、大広間での食事の席で、セブルスが今でもリリーを目で追っている事を自分は知っていたからだ。
「もうホグワーツで、彼と落ち着いて話すなんて出来ない気がして」
目の前で楽しげに騒ぐメアリーたちと対照的に、リリーは悲しそうな目で足元を見つめている。すれ違ったスリザリンの上級生が、並んで歩く紅と翠にあからさまな嫌悪を示した事に、幸いにも彼女は気付かなかった。
「でもホグワーツじゃない、二人きりの場所だったら...昔のセブに会えるかもしれないって、そう思うの」
聞いていて胸が切なくなる言い方だった。ホグワーツに入る前の二人がどんな時間を過ごしていたのか。その頃のセブルスはどんな表情をして、どんな話をする子だったのか。それら全てを自分は知らない。知りたいけれど、知りたくない。興味と羨望の間でいつも揺れ動いては、何も訊ねる事が出来ないのだ。
「名前、もし分かったら教えてくれない?セブが家に帰るかどうか」
リリーの問いかけに、名前は「えっ」と戸惑いを口にした。名前の心の内を読み解いたかのように、リリーは言葉を付け足した。
「もし、談話室で彼が誰かと話をしていたら、聞き耳を立ててちょうだい。もちろん自分で聞けばいいって、分かってはいるんだけど。でも私も最近避けられてるし...」
少し早口で言い訳を並べた後、はあとため息をついて、リリーは本音をこぼした。
「それに、出来れば私が彼に帰ってほしがってるって、知られたくないの。...何にも身構えてない、素の状態のセブルスに、不意に会いたいのよ」
名前の願いも、リリーと全く同じだった。かれこれ一年以上、そう思い続けながら毎日を過ごしている。リリーと違って、もう自分にチャンスがない事は分かっているのに。
「うん、分かったら知らせる」
リリーと目を合わせぬまま、名前は小さく答えた。
「全然お役に立てないかもしれないけど...」
「ありがとう、名前」
そう言って、リリーは歩きながら名前の手をぎゅっと握った。お互い他の誰とも共有できない、強い気持ちだった。もしかすると、メアリーとクリスは自分たちの為にわざと騒がしくしていたのかもしれない。そう思いながら、名前は廊下の突き当たりで三人と別れ、変身術の教室へと向かった。
OWLがいよいよ近付く中、変身術の授業は名前にとっていつも以上に"自習"に近い状態となっていた。今年度の変身術はとにかく実技で、魔法の練習対象が複雑化してきた近頃、マクゴナガルは毎度慌ただしそうに各生徒の"失敗作"を片付けている。とは言え、授業中にこっそり他教科の宿題に取りかかれるほど、自分は大胆ではない。名前は任意の課題を設定して、変身術の授業を楽しめるよう努めていた。今週はいかに綺麗な蝶を生み出せるか試している。羽の模様が幾何学的で美しかったり、現実では見たことの無い虹色の蝶が出現したりと、結果が名前自身の予想を超えてくる事もあった。まるで寝ている時にみる夢のようだ。自分でも気付いていない潜在意識が、魔法を通じて目の前に現れる。この日、手のひらに新しく生まれた蝶を見て、名前はその事を痛感した。薄い花びらのような羽を持った、白い蝶。それは四年生の学期末、森で憩うセブルスのもとへ、自分が送った魔法の蝶によく似た姿だった。
今も同じ教室にいるはずなのに、とても遠くへ行ってしまったように感じる。ふと名前は、自分がリリーだったら、と考えた。自分が彼女の立場だったら、現状に臆せず立ち向かえるのだろうか。セブルスを付け回して、悪友たちから引き離し、闇の魔術が記された書物を全部取り上げる。周りの目を一切気にせずに、スリザリン生からの酷い罵声にも屈さずに、そんな事が出来るだろうか。
無理に決まってるな、そう名前は心の中でふっと笑った。セブルスに避けられていなかった昔、まだ良き友人であった低学年の頃、彼が持つ黒い本を見て見ぬふりしたのは誰だったか。彼に嫌われたくない一心で、その闇に立ち向かわず迎合してしまった。そんな臆病な自分が、リリーの立場だったらなんて、考える事自体おこがましい。名前は指先に止まる白い蝶をぼんやり眺めていた。自省が巡る頭の中で、はっきりとした声が響いてくる。『だけどリリーはセブルスに愛されているじゃないか』。
先の魔法薬学だってそうだ。周りの目を盗んではセブルスが自分を見つめている事に、リリーは本当に気付いていないのだろうか?ホグワーツでは二人きりになれないとリリーは言っていたが、ふくろうでも何でも使って、人気のない場所に呼び出せばいい。リリーからの手紙を受け取って、それを大事そうに読むセブルスが目に浮かぶようだった。
自分なら、二人きりで静かに話せる場所をたくさん知っているのに。リリーは森にある満月草の広場すら知らないのだろう。もしあの日、セブルスが一人本を呼んでいたあの場所に、足を踏み入れたのがリリーだったら。彼はすぐさま本を閉じて、顔を赤らめてリリーを見つめるだろう。自分の好きな場所に、好きな人が不意に現れた幸せを、星空の下で噛み締めたのだろう。
自分がリリーだったら、もっと彼に近付けるのに。もっと話そうと努力するのに。そう思いながら、名前は頭の骨が熱くなるのを感じた。自分がリリーだったら...セブルスの想い人が、自分だったならー...。
「ミス・苗字」
ふと右側から発せられた呼びかけに、名前はハッとして顔を上げた。見るとそこには戸惑いとも取れる、どこか深刻な表情のマクゴナガルが立っていた。
「大丈夫ですか?」
突然名前を呼ばれた事に驚いたせいか、名前の創った蝶は白い花びらと化し、ヒラヒラと机に舞い落ちた。マクゴナガルは依然心配そうな顔で自分を見つめている。考えに浸っている間に、授業の合図を聞き逃してしまったのかもしれない。
「あ、すみません...!大丈夫です...」
名前は慌てて返事をしながら、周りの生徒たちをちらと見た。教室の風景は特に変わりなく、各々が実技を練習している状況だ。終業のベルはまだ鳴っていない。
「それなら良いのですが...」
マクゴナガルが何か言いかけたその時、教室の後ろの方で派手な爆発音がして、皆がそれに釘付けになった。天井から大量の羽毛がバサバサと止めどなく降ってきている。マクゴナガルは名前にもう一度視線を向けてから、その後始末へと向かっていった。
何か、まずい行いをしてしまっただろうか。その授業が終わるまで、名前は一層大人しく過ごすことにした。終業時刻を迎えるや否や、グリフィンドールのクィディッチキャプテンがマクゴナガルを捕まえに来た。名前はこれ幸いと思いながら、また呼び止められる事がないようにと、急いで教室を後にした。
進路面談までの日々は、いつもの如くあっという間に過ぎ去った。4月の第2木曜日、いよいよ目前となったイースター休暇に浮かれる下級生たちを羨ましく思いながら、名前はスラグホーンの元へと向かった。寮監の部屋へ差し掛かると、自分の前のスリザリン生が「ありがとうございました」とちょうど出てきたところだった。面談を終えた彼は名前の存在を気にも留めず、悩ましげな表情で下り階段へと去って行く。その様子を見て、名前は少し重たい気持ちになった。
扉の前に立ち、ノックをすると、すぐさま「名前かな?どうぞ!」と元気のよい声が返ってきた。名前は「失礼します」と扉を開け、クリスマスパーティーぶりにスラグホーンの部屋へと足を踏み入れた。
「さあ、座って座って!」
名前は促されるまま、目の前にあるベロアの椅子に腰掛けた。机の上にはいくつかの案内書と、高級そうなティーカップが生徒の側にも置かれている。宙を舞うティーポッドが名前の傍へやって来て、手元のカップにダージリンをなみなみと注いだ。スラグホーンはにっこりと微笑み、両手を合わせ組んで話を始めた。
「さて、この面談は君の進路について話し合い、来年度以降どの科目を継続するか決めるものだが...」
前の生徒に見せたと思われる書類を脇にどけて、スラグホーンが言った。
「名前、君にはさほど必要のない話かもしれないね!ただ念のため、確認といこうか」
「えっ?」
寮監の思いがけない言葉に、名前は目を丸くした。一体どういう事だろう。大いに戸惑いながら、名前は遠慮がちに口を開いた。
「先生、私...何も決められていないんですが......」
次に目を丸くしたのはスラグホーンの方だった。全く予期せぬ発言だったのか、彼はぽかんと口を開け、そのまま数秒黙ってしまった。
「なんと、いや、私はてっきり...」
スラグホーンは困惑した表情で、名前を見つめて言った。
「君は魔法省から内定が出ている状況だとばかり」
「魔法省、ですか...?」
寝耳に水とはまさにこの事だ。スラグホーンは誰かと勘違いしているのではないか。全く身に覚えのない情報に当惑する名前へ向けて、スラグホーンは訳を語った。
「ダグラスから、そうはっきりと聞いたのだが...いやはや、肝心の本人に伝わっていないとは」
「ダグラス...?」
名前はその名を持つ知り合いを瞬時に頭の中で探したが、誰も見つからなかった。名前の問いを受け、スラグホーンが付け足した。
「ダグラス・クインビー、私の友人だ。魔法省の職員で、君も会っているはずなんだが...動物もどきの登録をした時、彼に会わなかったかね?顔つきのがっしりした男だ」
それを聞いて、数年前のぼんやりとした記憶が脳に蘇ってきた。動物もどきの登録をするために、校長室に呼ばれた夜。部屋に入ると魔法省からやって来た役人が二人立っていた。一人は初老の小柄な魔法使い、そしてもう一人は四角い頭が印象的な、40代くらいのー...。
「ああ…」
名前はクインビーと呼ばれていた男のことを思い出し、納得して口を開いた。
「はい、確かにお会いしました」
「そうだろう!」
スラグホーンはほっとした顔で、再び両手をがっしり合わせた。
「五年後に魔法省は素晴らしい人材を迎えるだろうと、彼が言っていたものでね。いやあ懐かしい。忘れもせんよ、日曜のあの朝、大広間の砂時計を見たら一晩で50点もスリザリンに得点が入ってるじゃないか。クィディッチの試合もなかったというのに。何事かとミネルバに訊ねてみれば、なんと...」
長話が始まってしまった。名前は愛想笑いを浮かべながら、あの夜の様子を出来るだけ思い出そうと努めていた。皆の前で変身をして、それを確認した魔法省の二人が、ダンブルドアと書類をチェックして...確かクインビー氏とやらに、握手をされた気がする。彼の握力が予想以上に強かったので、少しびっくりしたのだった。思い返してみれば、その際に『将来は魔法省へ』だとか、何とか言っていたかもしれない。
「ちなみに...魔法省の、どの部署の方たちだったんでしょうか?」
スラグホーンが一通り話し終えたタイミングで、名前は切り込んだ。寮監はよくぞ聞いてくれたという風に、はっきりと答えた。
「魔法法執行部だよ。魔法省最大の部署、いわゆるエリートだ」
それを聞いて、名前の心臓がドクンと跳ねた。魔法法執行部といえば、預言者新聞の見出しでよく登場する、『行方不明者を総出で捜索している』部署だ。『魔法法執行部が応戦』そんな文章も今や頻繁に見かける。鼓動が早くなるのを感じながら、名前はおずおずとスラグホーンに言った。
「先生、私...その...危険な仕事はしたくないんです」
そう口にしてから、名前はもっとマシな言い方をするべきだったと少し後悔した。臆病なスリザリン生丸出しだ。このご時世にこんな弱腰の発言、グリフィンドールであれば軽蔑されてしまうだろう。
「いやいや!勿論私たち教員だって、生徒を危険な職業に就かせたいとは思わんよ」
慌てた様子でスラグホーンが補足した。
「一言に魔法法執行部と言っても、色々な仕事がある。何せ最大の部署だからね。良い機会だ、今日はそれを学んでいくかね?」
スラグホーンは杖を振って、机の脇からバサバサと書類を取り出した。結構な枚数だ。魔法省の各部署に関して詳しく書かれたものらしい。
「いや、私はてっきり...君はミネルバと同じ道を行くものだと」
手元で書類を順番に並び替えながら、スラグホーンが言った。
「マクゴナガル先生、ですか?」
それはホグワーツの教授という意味だろうか。名前は興味を引かれて聞き返した。
「ああ、そうだ。ミネルバも学生時代にアルバスから動物もどきを教わって、卒業後は魔法法執行部に就職したのだよ。知らなかったかね?」
教授陣の前職など、名前は想像すらした事がなかった。特にマクゴナガルは中でもベテランと言える存在だ。それ以前の事は聞いたこともない。しかし思えば、動物もどきの登録をしたあの日、マクゴナガルは魔法省の職員をよく知っているようでもあった。不意に興味深い過去を知り、名前はマクゴナガルに色々と話を聞きたい気持ちになってきた。
「君の進路については、ミネルバにも相談してみるのがいいだろう。動物もどきが魔法省でどのような仕事をするか、具体的に教えてくれるだろうからね」
名前の心の内を見透かしたようにスラグホーンは微笑み、「私からは前提知識として、魔法省の構造について説明しよう」と机の上に書類を広げた。
魔法省の部署は、よく耳にするものもあれば、初めて知る仕事もあり、千差万別だった。一連の解説を終えた後、スラグホーンが「さて、肝心の試験に関してだが...」と話を切り出した。
「先程言った通り、君は内定が出ているのも同然だ。多少成績が及ばずとも、特例扱いになると私は思うが...」
そう言って、寮監は名前の成績表をフムと眺めた。スラグホーンの中で、自分は魔法省への就職が決定しているらしい。他の進路を模索したいところだが、少なくともこの場では出来なさそうだ。名前は半ば諦めの心境で、教授からのアドバイスを黙って聞くことにした。
「魔法省、特に魔法法執行部となれば、相応の成績を取る必要がある」
スラグホーンは少し渋い顔で、OWLにおける各教科の目標スコアを名前に示した。
「恐らく、ダグラスは魔法法執行部隊の事を指していたと思うがね...その場合、呪文学、闇の魔術に対する防衛術、そして特に魔法薬学についてもう少し頑張る必要があるようだ」
そう説明しながら、スラグホーンは『E・期待以上』の欄に丸をつけた。
「魔法法執行部隊では、毒や解毒剤について知識が求められる事もあるのでね。まあここだけの話、君は特別だ。OWLが『A・可』であっても私の授業には参加できる」
スラグホーンから出された助け舟に、名前は有難いやら情けないやら、複雑な気持ちになった。ここで甘えられるほど厚顔無恥な自分では無い。将来必要になるかはさておき、OWLの魔法薬学は絶対に合格しなければならないようだ。プレッシャーが名前の胃をチクッと刺した。
OWLで目指す成績と、NEWTに繋がる来年度以降の教科を一通り確認して、面談は終了の雰囲気を迎えた。渡された書類一式を鞄にしまいながら、結局スラグホーンには本音を打ち明けられぬままだったなと、名前は心の中でため息をついた。魔法省を志す確率は、正直なところ低いだろう。名前は2年後の自分など全く想像できなかったが、白鷺に変身して闇の魔法使いと闘う状況だけは、何がどうなっても有り得ないと思った。
名前が「ありがとうございました」と椅子から立ち上がったその時、終わるのを待っていたと言わんばかりに、一羽のフクロウがカンカンと嘴で窓を叩いた。スラグホーンは窓辺に赴き、フクロウから白い手紙を受け取ると、差出人を確認して名前に言った。
「すまんが次の生徒に、私が声を掛けるまで部屋の前で待つよう伝えてくれるかね」
「分かりました」
スラグホーンの言付けに頷いて、名前は扉に手をかけた。どうやら急ぎのフクロウ便らしい。
「ああ、OWLとNEWTが終わった週末には、スラグ・クラブで慰労会を開こうと思っとるよ!」
去り際の名前に向けて、パーティーの主催者がお楽しみ大発表をした。
「ぜひ参加してくれたまえ」
「わあ、そうなんですね。嬉しいです」
OWLの魔法薬学が上手くいかなかった場合、どんな顔をしてその場にいれば良いのだろう。不安な心と裏腹に、名前は笑顔で社交辞令を返した。
「では、失礼します…」
部屋の扉を閉め、名前はふうと息を吐いた。予想以上に疲れる内容だった。話が真っ先に魔法省へいくとは思ってもみなかった故、聞きたいことも聞けなかったような気がする。近いうちにマクゴナガルと話す機会を作ろうと、名前は頭の中にメモした。取り急ぎ、次の生徒に少し待つよう伝えねば。マルシベールやエイブリー、パーキンソンでないといいな。そんな軽い気持ちで振り返った名前は、セブルスの姿を見て思わず息を詰まらせた。
セブルスは片手に本を持ち、壁にもたれかかった姿勢でそれを読んでいた。部屋から出てきた名前を一瞥すると、すぐに本へと視線を戻した。名前は自分が明らかに動揺しているのを感じたが、それを悟られまいと、近付きすぎない距離で彼に声を掛けた。
「あ…先生が、呼ぶまで少し待ってくれって」
上ずった声になっていないか、名前は心配だった。ただの連絡とはいえ、セブルスに話しかけるなど、いつぶりだろう。
「分かった」
セブルスは本から顔を上げぬまま、そう短く答えた。ぶっきらぼうな返事だったが、無視されてもおかしくないと思っていた名前には、期待以上の反応だった。
名前は下り階段へ向かおうとして、ふと足を止めた。リリーの気にしていた事を、今なら聞けるかもしれない。スラグホーンの部屋の前には、他に誰もいなかった。名前は思い切って振り返り、セブルスに訊ねた。
「セブルスは...イースター休暇、家に帰るの?」
「…なぜだ?」
相変わらず顔は本に向かったままだが、セブルスが怪訝そうに眉をひそめるのを名前は確かに見た。イエスでもノーでもない、会話が続けられそうな返答だ。なぜって、リリーが帰ることを期待しているから… そう言いかけて、名前は咄嗟に口をつぐんだ。
あの日、リリーは『出来ればセブルスに知られたくない』と言っていた。ホグワーツではない、二人の故郷で、不意に出会したいのだと。その方が素のセブルスと話す事が出来る、彼女はそう考えていたが、名前にはいまいちピンと来なかった。リリーがたった一言、一緒に帰って欲しいと伝えれば、セブルスは積み上がった宿題全てを投げ出してでもそれに従うだろうに。彼にとって、それはこの上なく嬉しい申し出のはずだ。そしてそれこそが素の状態のセブルスではないかと、名前は思わずにいられなかった。
今ここで自分が伝書鳩となれば、二人は幼少からの思い出あふれる場所で、しっかりと話し合うことが出来るかもしれない。リリーは人目に邪魔されることなく、セブルスに自分の考えを伝えられる。一生懸命、必死に彼を諭そうとしてくれるだろう。
その時、セブルスは何を思うだろうか。リリーの意見に反発するだろうか、それとも渋々受け入れるだろうか。目の前に立つ黒髪の少年を見つめながら、名前は思った。恐らく、そのどちらでもない。リリーへの想い、ただそれだけが、彼の中でより一層膨れ上がるだけだろう。
そうだ、結局なにも変わりはしない。それならばリリーの願い通り、理由は話さないでおくべきだ。そう囁く声は、天使か悪魔か分からなかった。しかし名前はそれに従い、喉から出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「ううん、何でもない…それじゃ」
そう言って、名前は逃げるようにその場から去った。さぞ怪しまれたに違いない。また何か良からぬ事を企んでいると思われただろう。しかしもうそれでいい。自分は今、確かに良からぬ事を考えたのだから。
階段を駆け下りる中で、段々と頭が冷静さを取り戻す。正義を選ばず、嫉妬という醜い感情に支配されてしまったことに気付き、名前は自分を心から恥じた。彼と言葉を交わせる唯一の機会だったかもしれないのに。それどころか、セブルスが休暇に帰る可能性を完全に潰したのではと不安になった。また同時に、どこか安心している自分がいる事に、再び嫌悪感を覚えた。
名前は様々な思いを振り払うように、早足で教員棟を後にした。そして心の内に芽生えたこの罪悪感が、どうか永遠のものになりませんようにと、ただ願うばかりだった。
休暇のスケジュールと共に、五年生には進路指導の案内もやって来た。談話室のテーブルには職業紹介の冊子が置かれ始め、ある朝、掲示板に進路面談のスケジュールが貼り出されていた。名前はしかめっ面でそれを読みながら、自分の順番を確認した。面談日時は4月の第2木曜日、夕方だ。全体的に予想よりも早い日付だった。
秋の終わりから自分なりに色々考えてきたつもりだが、結局何も決めれずじまいだ。あえて希望を言うならば、危ない仕事には就きたくないという事くらいかー。朝食の大広間で、ミランダが受け取った新聞に目をやりながら、名前は思った。闇の勢力に対抗する魔法使いがまた多数行方不明になり、魔法省の対策本部が総出で捜索しているという。取材陣に囲まれた魔法大臣は、狼狽えた表情をしている。『魔法省内にスパイがいると多くの職員が気付いているのに、大臣はそれを野放しにするのか』そんなショッキングな批判も現場の声として挙げられていた。
イギリスの魔法界はもうめちゃめちゃだ。世界一安全と言われるホグワーツで日々を過ごす名前ですら、そう肌で感じざるを得ない状況だった。近頃は高名な魔法使いたちが遺体で発見されるニュースも増えている。皆、反マグル思想に頑として立ち向かっていた人物だ。社会を覆う恐怖はホグワーツ校内にも確実に漂っており、純血主義の多いスリザリンは他寮、とりわけ低学年の生徒たちに露骨なまでに避けられている。つい先日も、階段ですれ違った小柄なハッフルパフ生から怯えた目を向けられ、名前は深く傷付いていた。『スリザリンの親は皆死喰い人だ、マグル生まれだなんて絶対に知られてはならない』廊下で誰かがそう囁くのを聞いたことがある。本当にいい迷惑だ。そしてそれを否定し切れないスリザリンの現状に、名前は絶望的な気持ちになるのだった。
一方で、同学年の間では良い変化もあった。魔法薬学の授業をリリーが共に過ごしてくれるおかげで、彼女の友人たちも気兼ねなく話し掛けてくれるようになったのだ。リリーがいない所でメアリーから「おはよう」と声を掛けられた時、名前は心が弾むほど嬉しかった。後日その事をおずおずと告げると、彼女たちは『そんな当たり前のこと』と驚きつつも、これからは校庭でランチをしたり、ホグズミードにも一緒に行こうと誘ってくれた。寂しい奴だと哀れまれたかもしれない。しかしどう思われたかなど気にならない程、同い年の女友達が増えた事は名前にとって本当に幸いだった。
「今年のイースターはちょっと遅めよね」
魔法薬学の授業前、名前の隣に座るリリーは大鍋を用意しながら悩ましそうに言った。
「どうしようかなあ。休暇が終わったら、OWLまで2ヶ月しかないんだ…」
「私は帰らない事にしたよ」
名前がそう答えると、後ろに座るメアリーとクリスが「私も、私も」と話に乗ってきた。
「みんな帰らないの?」
リリーは意外そうに全員を見てから、うーんと唸った。
「まあそうよね、結局宿題だらけなんだろうし…でもせっかくのイースターだし…家族でお祝いはしたいなあ…」
「リリーは帰ったって大丈夫よ、成績抜群なんだから」
メアリーの言葉に、名前もうんうんと頷いた。リリーは課題が課題がと言いつつも、日頃しっかり余裕をもって終わらせているのだ。
「そんな事はないんだけど…悩むなあ」
道具一式を綺麗に並べながら、リリーは首を傾げている。一足先に準備を終えたメアリーが、「そういえばさ」と進路面談の案内を鞄から取り出した。
「これ、いつだった?私再来週なの。なんだか緊張するなー」
「あ、私も再来週だった」
名前は後ろの二人に体を向けて、グリフィンドール生に配られた案内紙を覗き込んだ。様式は全寮とも同じで、実施場所だけが異なっていた。メアリーの紙には、マクゴナガル教授のオフィスと書かれている。
「イースター休暇の後だと思ってたけど、今年はその前なんだね」
「今年は休暇が4月に入ってからだから、その後だと遅いんじゃない?」
「確かに、この面談を元にOWL対策するわけだしねー…」
ガヤガヤと話し込んでいる内に、スラグホーンが教室に入ってきて授業が始まった。リリーたちはどんな進路を考えているのか、とても気になるところだ。ジェームズたちの進路希望は全く参考にならなかったが、グリフィンドールの女子たちの考えは、自分にとって新たな発見がある気がする。リリーは得意の魔法薬学を活かしたいと思っているだろうか。メアリーは自分と同じくらいの成績だから、不安を分かち合えるかもしれない。ぼんやりとあれこれ考えている内に、名前はスラグホーンの指示を聞きそびれた事に気付き、「先生、何て言ってた?」と隣のリリーに耳打ちした。
授業を終えるとちょうど昼食の時間だったので、四人は大広間へサンドイッチを取りに行き、それを持って中庭の向かい合うベンチに腰掛けた。噴水のそばで
逆さ吊りにされている男子生徒を見て、クリスが「またやってるよ」と呆れ声を出した。
「なんか流行ってるよねえ、あれ」
サンドイッチをモグモグと口にしながら、メアリーが言った。
「レビコーパスだっけ?」
「仲間内で楽しむ分には止めないけれど…いたずらとして使うのは感心しないわね」
リリーはいまいち面白さが理解できないという顔で、騒ぐ男子たちを眺めている。
「ね。誰が始めたんだろう、あんな呪文」
名前は彼女たちに同意しながら、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。視線の先では、レビコーパスを不意に解除された生徒が地面に倒れ込み、「いてえ!」と声を上げている。
「危ない!」
一連の流れを見ていたリリーが、当人たちにも聞こえる大きさの声で咎めた。
「弾みで頭を打ったらどうするの?骨が折れでもしたらー…」
「マダム・ポンフリーがまた怒るだろうねえ」
エッグサンドを頬に詰め込み、冷ややかな目を向けながらクリスが言った。
「まあ、骨折程度なら自分たちで何とかなるでしょ。エピスキーはそんなに難しくないよ」
「それよ、皆のそういうとこ!」
納得いかないという表情でリリーがクリスに向き直った。
「魔法ですぐ治せるからって、みんな危ない事をしすぎなのよ…マグル出身の私からすれば、骨折だって大怪我なんだから」
「骨折が大怪我かあ〜」メアリーが興味深そうに身を乗り出し、クリスが「そうなの?」と目を丸くした。
「そうよ!それをみんな、少し捻ったくらいの感覚で片付けちゃうんだもの」
リリーはため息をつきながら、いつの間にか食べ終わっていたサンドイッチの包みを片付け始めた。
「だからああいう光景も、未だにヒヤヒヤしちゃうのよね。何より、痛い事に変わりはないじゃない?」
魔法と怪我についてああだこうだと語り合っていたら、あっという間に昼休みが過ぎてしまった。午後の授業に向かうべく、四人は中庭を後にし、高架橋へと続く道を進んだ。名前とリリーの前を並んで歩きながら、メアリーとクリスはまだ怪我の話をしている。
「クリスは昔からよく怪我を治してくれるし、癒者にでもなれるんじゃない?」
「何言ってんの、癒者の仕事は重すぎるんだから…学校生活での怪我とは比べ物にならないケースで溢れてるんだよ」
「えーっ、でも見てみたいなあ、聖マンゴの服着たクリス!」
メアリーの無邪気さにふふっと笑いながら、名前は彼女たちの会話を後ろで聞いていた。「あのねえ」とクリスが呆れた口調で反論する。
「そもそも癒者って、幅広い教科で良い成績取れてないとなれないし…NEWT試験での判定がかなり厳しくて…」
「クリスは頭いいんだから問題ないって。えっ、待ってよ、実際進路として調べてるんじゃない!」
二人のやり取りがヒートアップする中、ふとリリーが名前にだけ聞こえる声で呟いた。
「セブは、イースター休暇に帰るのかな」
リリーの真剣な表情を見て、名前は自分の聞き間違いでない事を確認した。名前の反応を待たずして、リリーは半ば自身に語りかけるように続けた。
「もし家に帰るんだとしたら…話す時間があるかもしれないって思うの」
揺れるリリーの赤い髪を見つめながら、名前は静かに「そうだね」と相槌を打った。リリーですら、近頃はセブルスとまともに話せていないという。彼が人目を気にして自分を避けているのだと、少し前にリリーは言っていた。マルシベールやエイブリーと一緒にいる時のセブルスは、自分と目を合わせようともしない、そう憤るリリーの横で、名前は複雑な心境だった。グリフィンドールとの合同授業や、大広間での食事の席で、セブルスが今でもリリーを目で追っている事を自分は知っていたからだ。
「もうホグワーツで、彼と落ち着いて話すなんて出来ない気がして」
目の前で楽しげに騒ぐメアリーたちと対照的に、リリーは悲しそうな目で足元を見つめている。すれ違ったスリザリンの上級生が、並んで歩く紅と翠にあからさまな嫌悪を示した事に、幸いにも彼女は気付かなかった。
「でもホグワーツじゃない、二人きりの場所だったら...昔のセブに会えるかもしれないって、そう思うの」
聞いていて胸が切なくなる言い方だった。ホグワーツに入る前の二人がどんな時間を過ごしていたのか。その頃のセブルスはどんな表情をして、どんな話をする子だったのか。それら全てを自分は知らない。知りたいけれど、知りたくない。興味と羨望の間でいつも揺れ動いては、何も訊ねる事が出来ないのだ。
「名前、もし分かったら教えてくれない?セブが家に帰るかどうか」
リリーの問いかけに、名前は「えっ」と戸惑いを口にした。名前の心の内を読み解いたかのように、リリーは言葉を付け足した。
「もし、談話室で彼が誰かと話をしていたら、聞き耳を立ててちょうだい。もちろん自分で聞けばいいって、分かってはいるんだけど。でも私も最近避けられてるし...」
少し早口で言い訳を並べた後、はあとため息をついて、リリーは本音をこぼした。
「それに、出来れば私が彼に帰ってほしがってるって、知られたくないの。...何にも身構えてない、素の状態のセブルスに、不意に会いたいのよ」
名前の願いも、リリーと全く同じだった。かれこれ一年以上、そう思い続けながら毎日を過ごしている。リリーと違って、もう自分にチャンスがない事は分かっているのに。
「うん、分かったら知らせる」
リリーと目を合わせぬまま、名前は小さく答えた。
「全然お役に立てないかもしれないけど...」
「ありがとう、名前」
そう言って、リリーは歩きながら名前の手をぎゅっと握った。お互い他の誰とも共有できない、強い気持ちだった。もしかすると、メアリーとクリスは自分たちの為にわざと騒がしくしていたのかもしれない。そう思いながら、名前は廊下の突き当たりで三人と別れ、変身術の教室へと向かった。
OWLがいよいよ近付く中、変身術の授業は名前にとっていつも以上に"自習"に近い状態となっていた。今年度の変身術はとにかく実技で、魔法の練習対象が複雑化してきた近頃、マクゴナガルは毎度慌ただしそうに各生徒の"失敗作"を片付けている。とは言え、授業中にこっそり他教科の宿題に取りかかれるほど、自分は大胆ではない。名前は任意の課題を設定して、変身術の授業を楽しめるよう努めていた。今週はいかに綺麗な蝶を生み出せるか試している。羽の模様が幾何学的で美しかったり、現実では見たことの無い虹色の蝶が出現したりと、結果が名前自身の予想を超えてくる事もあった。まるで寝ている時にみる夢のようだ。自分でも気付いていない潜在意識が、魔法を通じて目の前に現れる。この日、手のひらに新しく生まれた蝶を見て、名前はその事を痛感した。薄い花びらのような羽を持った、白い蝶。それは四年生の学期末、森で憩うセブルスのもとへ、自分が送った魔法の蝶によく似た姿だった。
今も同じ教室にいるはずなのに、とても遠くへ行ってしまったように感じる。ふと名前は、自分がリリーだったら、と考えた。自分が彼女の立場だったら、現状に臆せず立ち向かえるのだろうか。セブルスを付け回して、悪友たちから引き離し、闇の魔術が記された書物を全部取り上げる。周りの目を一切気にせずに、スリザリン生からの酷い罵声にも屈さずに、そんな事が出来るだろうか。
無理に決まってるな、そう名前は心の中でふっと笑った。セブルスに避けられていなかった昔、まだ良き友人であった低学年の頃、彼が持つ黒い本を見て見ぬふりしたのは誰だったか。彼に嫌われたくない一心で、その闇に立ち向かわず迎合してしまった。そんな臆病な自分が、リリーの立場だったらなんて、考える事自体おこがましい。名前は指先に止まる白い蝶をぼんやり眺めていた。自省が巡る頭の中で、はっきりとした声が響いてくる。『だけどリリーはセブルスに愛されているじゃないか』。
先の魔法薬学だってそうだ。周りの目を盗んではセブルスが自分を見つめている事に、リリーは本当に気付いていないのだろうか?ホグワーツでは二人きりになれないとリリーは言っていたが、ふくろうでも何でも使って、人気のない場所に呼び出せばいい。リリーからの手紙を受け取って、それを大事そうに読むセブルスが目に浮かぶようだった。
自分なら、二人きりで静かに話せる場所をたくさん知っているのに。リリーは森にある満月草の広場すら知らないのだろう。もしあの日、セブルスが一人本を呼んでいたあの場所に、足を踏み入れたのがリリーだったら。彼はすぐさま本を閉じて、顔を赤らめてリリーを見つめるだろう。自分の好きな場所に、好きな人が不意に現れた幸せを、星空の下で噛み締めたのだろう。
自分がリリーだったら、もっと彼に近付けるのに。もっと話そうと努力するのに。そう思いながら、名前は頭の骨が熱くなるのを感じた。自分がリリーだったら...セブルスの想い人が、自分だったならー...。
「ミス・苗字」
ふと右側から発せられた呼びかけに、名前はハッとして顔を上げた。見るとそこには戸惑いとも取れる、どこか深刻な表情のマクゴナガルが立っていた。
「大丈夫ですか?」
突然名前を呼ばれた事に驚いたせいか、名前の創った蝶は白い花びらと化し、ヒラヒラと机に舞い落ちた。マクゴナガルは依然心配そうな顔で自分を見つめている。考えに浸っている間に、授業の合図を聞き逃してしまったのかもしれない。
「あ、すみません...!大丈夫です...」
名前は慌てて返事をしながら、周りの生徒たちをちらと見た。教室の風景は特に変わりなく、各々が実技を練習している状況だ。終業のベルはまだ鳴っていない。
「それなら良いのですが...」
マクゴナガルが何か言いかけたその時、教室の後ろの方で派手な爆発音がして、皆がそれに釘付けになった。天井から大量の羽毛がバサバサと止めどなく降ってきている。マクゴナガルは名前にもう一度視線を向けてから、その後始末へと向かっていった。
何か、まずい行いをしてしまっただろうか。その授業が終わるまで、名前は一層大人しく過ごすことにした。終業時刻を迎えるや否や、グリフィンドールのクィディッチキャプテンがマクゴナガルを捕まえに来た。名前はこれ幸いと思いながら、また呼び止められる事がないようにと、急いで教室を後にした。
進路面談までの日々は、いつもの如くあっという間に過ぎ去った。4月の第2木曜日、いよいよ目前となったイースター休暇に浮かれる下級生たちを羨ましく思いながら、名前はスラグホーンの元へと向かった。寮監の部屋へ差し掛かると、自分の前のスリザリン生が「ありがとうございました」とちょうど出てきたところだった。面談を終えた彼は名前の存在を気にも留めず、悩ましげな表情で下り階段へと去って行く。その様子を見て、名前は少し重たい気持ちになった。
扉の前に立ち、ノックをすると、すぐさま「名前かな?どうぞ!」と元気のよい声が返ってきた。名前は「失礼します」と扉を開け、クリスマスパーティーぶりにスラグホーンの部屋へと足を踏み入れた。
「さあ、座って座って!」
名前は促されるまま、目の前にあるベロアの椅子に腰掛けた。机の上にはいくつかの案内書と、高級そうなティーカップが生徒の側にも置かれている。宙を舞うティーポッドが名前の傍へやって来て、手元のカップにダージリンをなみなみと注いだ。スラグホーンはにっこりと微笑み、両手を合わせ組んで話を始めた。
「さて、この面談は君の進路について話し合い、来年度以降どの科目を継続するか決めるものだが...」
前の生徒に見せたと思われる書類を脇にどけて、スラグホーンが言った。
「名前、君にはさほど必要のない話かもしれないね!ただ念のため、確認といこうか」
「えっ?」
寮監の思いがけない言葉に、名前は目を丸くした。一体どういう事だろう。大いに戸惑いながら、名前は遠慮がちに口を開いた。
「先生、私...何も決められていないんですが......」
次に目を丸くしたのはスラグホーンの方だった。全く予期せぬ発言だったのか、彼はぽかんと口を開け、そのまま数秒黙ってしまった。
「なんと、いや、私はてっきり...」
スラグホーンは困惑した表情で、名前を見つめて言った。
「君は魔法省から内定が出ている状況だとばかり」
「魔法省、ですか...?」
寝耳に水とはまさにこの事だ。スラグホーンは誰かと勘違いしているのではないか。全く身に覚えのない情報に当惑する名前へ向けて、スラグホーンは訳を語った。
「ダグラスから、そうはっきりと聞いたのだが...いやはや、肝心の本人に伝わっていないとは」
「ダグラス...?」
名前はその名を持つ知り合いを瞬時に頭の中で探したが、誰も見つからなかった。名前の問いを受け、スラグホーンが付け足した。
「ダグラス・クインビー、私の友人だ。魔法省の職員で、君も会っているはずなんだが...動物もどきの登録をした時、彼に会わなかったかね?顔つきのがっしりした男だ」
それを聞いて、数年前のぼんやりとした記憶が脳に蘇ってきた。動物もどきの登録をするために、校長室に呼ばれた夜。部屋に入ると魔法省からやって来た役人が二人立っていた。一人は初老の小柄な魔法使い、そしてもう一人は四角い頭が印象的な、40代くらいのー...。
「ああ…」
名前はクインビーと呼ばれていた男のことを思い出し、納得して口を開いた。
「はい、確かにお会いしました」
「そうだろう!」
スラグホーンはほっとした顔で、再び両手をがっしり合わせた。
「五年後に魔法省は素晴らしい人材を迎えるだろうと、彼が言っていたものでね。いやあ懐かしい。忘れもせんよ、日曜のあの朝、大広間の砂時計を見たら一晩で50点もスリザリンに得点が入ってるじゃないか。クィディッチの試合もなかったというのに。何事かとミネルバに訊ねてみれば、なんと...」
長話が始まってしまった。名前は愛想笑いを浮かべながら、あの夜の様子を出来るだけ思い出そうと努めていた。皆の前で変身をして、それを確認した魔法省の二人が、ダンブルドアと書類をチェックして...確かクインビー氏とやらに、握手をされた気がする。彼の握力が予想以上に強かったので、少しびっくりしたのだった。思い返してみれば、その際に『将来は魔法省へ』だとか、何とか言っていたかもしれない。
「ちなみに...魔法省の、どの部署の方たちだったんでしょうか?」
スラグホーンが一通り話し終えたタイミングで、名前は切り込んだ。寮監はよくぞ聞いてくれたという風に、はっきりと答えた。
「魔法法執行部だよ。魔法省最大の部署、いわゆるエリートだ」
それを聞いて、名前の心臓がドクンと跳ねた。魔法法執行部といえば、預言者新聞の見出しでよく登場する、『行方不明者を総出で捜索している』部署だ。『魔法法執行部が応戦』そんな文章も今や頻繁に見かける。鼓動が早くなるのを感じながら、名前はおずおずとスラグホーンに言った。
「先生、私...その...危険な仕事はしたくないんです」
そう口にしてから、名前はもっとマシな言い方をするべきだったと少し後悔した。臆病なスリザリン生丸出しだ。このご時世にこんな弱腰の発言、グリフィンドールであれば軽蔑されてしまうだろう。
「いやいや!勿論私たち教員だって、生徒を危険な職業に就かせたいとは思わんよ」
慌てた様子でスラグホーンが補足した。
「一言に魔法法執行部と言っても、色々な仕事がある。何せ最大の部署だからね。良い機会だ、今日はそれを学んでいくかね?」
スラグホーンは杖を振って、机の脇からバサバサと書類を取り出した。結構な枚数だ。魔法省の各部署に関して詳しく書かれたものらしい。
「いや、私はてっきり...君はミネルバと同じ道を行くものだと」
手元で書類を順番に並び替えながら、スラグホーンが言った。
「マクゴナガル先生、ですか?」
それはホグワーツの教授という意味だろうか。名前は興味を引かれて聞き返した。
「ああ、そうだ。ミネルバも学生時代にアルバスから動物もどきを教わって、卒業後は魔法法執行部に就職したのだよ。知らなかったかね?」
教授陣の前職など、名前は想像すらした事がなかった。特にマクゴナガルは中でもベテランと言える存在だ。それ以前の事は聞いたこともない。しかし思えば、動物もどきの登録をしたあの日、マクゴナガルは魔法省の職員をよく知っているようでもあった。不意に興味深い過去を知り、名前はマクゴナガルに色々と話を聞きたい気持ちになってきた。
「君の進路については、ミネルバにも相談してみるのがいいだろう。動物もどきが魔法省でどのような仕事をするか、具体的に教えてくれるだろうからね」
名前の心の内を見透かしたようにスラグホーンは微笑み、「私からは前提知識として、魔法省の構造について説明しよう」と机の上に書類を広げた。
魔法省の部署は、よく耳にするものもあれば、初めて知る仕事もあり、千差万別だった。一連の解説を終えた後、スラグホーンが「さて、肝心の試験に関してだが...」と話を切り出した。
「先程言った通り、君は内定が出ているのも同然だ。多少成績が及ばずとも、特例扱いになると私は思うが...」
そう言って、寮監は名前の成績表をフムと眺めた。スラグホーンの中で、自分は魔法省への就職が決定しているらしい。他の進路を模索したいところだが、少なくともこの場では出来なさそうだ。名前は半ば諦めの心境で、教授からのアドバイスを黙って聞くことにした。
「魔法省、特に魔法法執行部となれば、相応の成績を取る必要がある」
スラグホーンは少し渋い顔で、OWLにおける各教科の目標スコアを名前に示した。
「恐らく、ダグラスは魔法法執行部隊の事を指していたと思うがね...その場合、呪文学、闇の魔術に対する防衛術、そして特に魔法薬学についてもう少し頑張る必要があるようだ」
そう説明しながら、スラグホーンは『E・期待以上』の欄に丸をつけた。
「魔法法執行部隊では、毒や解毒剤について知識が求められる事もあるのでね。まあここだけの話、君は特別だ。OWLが『A・可』であっても私の授業には参加できる」
スラグホーンから出された助け舟に、名前は有難いやら情けないやら、複雑な気持ちになった。ここで甘えられるほど厚顔無恥な自分では無い。将来必要になるかはさておき、OWLの魔法薬学は絶対に合格しなければならないようだ。プレッシャーが名前の胃をチクッと刺した。
OWLで目指す成績と、NEWTに繋がる来年度以降の教科を一通り確認して、面談は終了の雰囲気を迎えた。渡された書類一式を鞄にしまいながら、結局スラグホーンには本音を打ち明けられぬままだったなと、名前は心の中でため息をついた。魔法省を志す確率は、正直なところ低いだろう。名前は2年後の自分など全く想像できなかったが、白鷺に変身して闇の魔法使いと闘う状況だけは、何がどうなっても有り得ないと思った。
名前が「ありがとうございました」と椅子から立ち上がったその時、終わるのを待っていたと言わんばかりに、一羽のフクロウがカンカンと嘴で窓を叩いた。スラグホーンは窓辺に赴き、フクロウから白い手紙を受け取ると、差出人を確認して名前に言った。
「すまんが次の生徒に、私が声を掛けるまで部屋の前で待つよう伝えてくれるかね」
「分かりました」
スラグホーンの言付けに頷いて、名前は扉に手をかけた。どうやら急ぎのフクロウ便らしい。
「ああ、OWLとNEWTが終わった週末には、スラグ・クラブで慰労会を開こうと思っとるよ!」
去り際の名前に向けて、パーティーの主催者がお楽しみ大発表をした。
「ぜひ参加してくれたまえ」
「わあ、そうなんですね。嬉しいです」
OWLの魔法薬学が上手くいかなかった場合、どんな顔をしてその場にいれば良いのだろう。不安な心と裏腹に、名前は笑顔で社交辞令を返した。
「では、失礼します…」
部屋の扉を閉め、名前はふうと息を吐いた。予想以上に疲れる内容だった。話が真っ先に魔法省へいくとは思ってもみなかった故、聞きたいことも聞けなかったような気がする。近いうちにマクゴナガルと話す機会を作ろうと、名前は頭の中にメモした。取り急ぎ、次の生徒に少し待つよう伝えねば。マルシベールやエイブリー、パーキンソンでないといいな。そんな軽い気持ちで振り返った名前は、セブルスの姿を見て思わず息を詰まらせた。
セブルスは片手に本を持ち、壁にもたれかかった姿勢でそれを読んでいた。部屋から出てきた名前を一瞥すると、すぐに本へと視線を戻した。名前は自分が明らかに動揺しているのを感じたが、それを悟られまいと、近付きすぎない距離で彼に声を掛けた。
「あ…先生が、呼ぶまで少し待ってくれって」
上ずった声になっていないか、名前は心配だった。ただの連絡とはいえ、セブルスに話しかけるなど、いつぶりだろう。
「分かった」
セブルスは本から顔を上げぬまま、そう短く答えた。ぶっきらぼうな返事だったが、無視されてもおかしくないと思っていた名前には、期待以上の反応だった。
名前は下り階段へ向かおうとして、ふと足を止めた。リリーの気にしていた事を、今なら聞けるかもしれない。スラグホーンの部屋の前には、他に誰もいなかった。名前は思い切って振り返り、セブルスに訊ねた。
「セブルスは...イースター休暇、家に帰るの?」
「…なぜだ?」
相変わらず顔は本に向かったままだが、セブルスが怪訝そうに眉をひそめるのを名前は確かに見た。イエスでもノーでもない、会話が続けられそうな返答だ。なぜって、リリーが帰ることを期待しているから… そう言いかけて、名前は咄嗟に口をつぐんだ。
あの日、リリーは『出来ればセブルスに知られたくない』と言っていた。ホグワーツではない、二人の故郷で、不意に出会したいのだと。その方が素のセブルスと話す事が出来る、彼女はそう考えていたが、名前にはいまいちピンと来なかった。リリーがたった一言、一緒に帰って欲しいと伝えれば、セブルスは積み上がった宿題全てを投げ出してでもそれに従うだろうに。彼にとって、それはこの上なく嬉しい申し出のはずだ。そしてそれこそが素の状態のセブルスではないかと、名前は思わずにいられなかった。
今ここで自分が伝書鳩となれば、二人は幼少からの思い出あふれる場所で、しっかりと話し合うことが出来るかもしれない。リリーは人目に邪魔されることなく、セブルスに自分の考えを伝えられる。一生懸命、必死に彼を諭そうとしてくれるだろう。
その時、セブルスは何を思うだろうか。リリーの意見に反発するだろうか、それとも渋々受け入れるだろうか。目の前に立つ黒髪の少年を見つめながら、名前は思った。恐らく、そのどちらでもない。リリーへの想い、ただそれだけが、彼の中でより一層膨れ上がるだけだろう。
そうだ、結局なにも変わりはしない。それならばリリーの願い通り、理由は話さないでおくべきだ。そう囁く声は、天使か悪魔か分からなかった。しかし名前はそれに従い、喉から出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「ううん、何でもない…それじゃ」
そう言って、名前は逃げるようにその場から去った。さぞ怪しまれたに違いない。また何か良からぬ事を企んでいると思われただろう。しかしもうそれでいい。自分は今、確かに良からぬ事を考えたのだから。
階段を駆け下りる中で、段々と頭が冷静さを取り戻す。正義を選ばず、嫉妬という醜い感情に支配されてしまったことに気付き、名前は自分を心から恥じた。彼と言葉を交わせる唯一の機会だったかもしれないのに。それどころか、セブルスが休暇に帰る可能性を完全に潰したのではと不安になった。また同時に、どこか安心している自分がいる事に、再び嫌悪感を覚えた。
名前は様々な思いを振り払うように、早足で教員棟を後にした。そして心の内に芽生えたこの罪悪感が、どうか永遠のものになりませんようにと、ただ願うばかりだった。
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