第一部
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ホグワーツにおける五年目の日々は、これまでにない速さで過ぎ去っていくようだった。OWLを控えた学年は毎日濃密な課題に追われ、ハロウィンの豪勢な飾りもぼんやりと視界に入るのみ、気付けば窓の向こうに雪がちらつく季節になっていた。厚手のローブを卸した日の朝、大広間へ向かう階段で同じ五年生のクィディッチ選手に追い抜かれた名前は、彼らの有り余る体力に思わず感心してしまった。数多の課題に深夜まで取り組み、寮の誰よりも早く起きて朝食前の練習に向かう。疲労を取り除く魔法薬を毎日飲んでいたとしても、そんな生活、自分には真似できそうにない。
ミランダのふくろうが運んでくる日刊預言者新聞の不穏な見出しとは裏腹に、ホグワーツの朝の大広間は明るく賑やかだ。新学期が始まったばかりの頃は城内にも時勢への緊張が漂っていたが、生徒の大半はホグワーツという安全な学び舎で日常を過ごすうちに平安を取り戻したらしい。昨日習ったばかりの呪文を無邪気に練習する一年生の隣で、今朝までの課題を終えていない五年生がテーブルに突っ伏し、フォークを頭に突き刺している。「何もかもダンブルドアのおかげ」とミランダはよく言っている。ダンブルドアがホグワーツに居る限り、生徒たちは安全なのだと、彼女は無表情に話していた。
五年生の大変さは何よりもその課題の多さにあると、冬に差し掛かった今、名前は日々痛感していた。去年まではOWL試験へのプレッシャーや、難易度の高い授業が五年目の生徒を追い詰めるのかと思っていたが、いざ自分がこの学年になってみるとよく分かる。教授陣は明らかに課題を出しすぎだ。与えられる課題に都度真面目に取り組めば、特別な事をしなくともOWLは問題なくパスできる。そんな仕組みなのかもしれないが、学力と引き換えに心の余裕がどんどん失われている気がしてならない。談話室の寝室は例年以上に殺伐としているし、授業前の教室でバカ騒ぎをする男子たちを見ると、何故か無性にイライラしてしまう。"五年生の試練"を乗り越えたミランダに名前はすぐさま相談したが、返ってきた答えは「目を閉じて、深く呼吸して、手や足の感覚に意識を向ける」という非常にシンプルな方法で、魔法の石を期待していた身には正直物足りないものだった。
苦手な魔法薬学のレポート提出が明後日に迫るなか、今夜は天文学の課題のために、天文台へ行って星図を作成しなければならない。少なく見積もっても二時間はかかるだろう。朝食の段階で、名前は既に気疲れを感じていた。OWL試験のそもそもの目的は、来年以降、NEWTレベルの授業を受ける資格を得ることにある。言ってしまえば、自分が不要と思う授業なら切り捨ててしまっても構わないのだ。五年目のイースター休暇明けには進路相談がある。希望する職業について、今後どの科目が必要か、そしてNEWT試験をどのレベルでパスしなければならないか等々、寮監と話すらしい。まだ少し先の話だが、今の時点で進路をある程度決めておけば-少なくともNEWTレベルの魔法薬学が不要だと分かれば、多少の手抜きは許されるかもしれない。名前は寮監であるスラグホーンと向かい合って座っている状況をぼんやりと想像した。先生の手前、魔法薬学をぜひやめたいとは言い出しづらいが、自分の普段の成績を見れば概ね察してくれるだろう。そういえば、最近スラグ・クラブの集まりにはすっかり顔を出していない。リリーは毎回行っているのだろうか。クリスマスパーティーはさすがに出席しようかな。そもそも、自分は卒業後、何になりたいのだろうー。
始業のベルまであと数分というところで、名前はミランダに引っ張られるように大広間を後にし、思考が散らかった状態のまま殆ど無意識に変身術の教室へと向かった。扉が閉まるギリギリのタイミングで到着した名前は、お喋りに夢中になっている同級生たちを追い越して、最前列の席に腰掛けた。
基本の消失呪文をほぼ全ての生徒が習得し、授業内容はその発展と応用に進んでいた。ネズミから始まった今期の変身術だが、今では各々の進み具合に応じて、複数種の生き物が机に並んでいる。しかし全員がスムーズに課題をこなせるわけもなく、張り切りすぎた生徒がマンドレイクのように叫ぶ鳥を十羽以上出現させてしまった時など、教室が一時カオス状態となる事も珍しくない。
クラスの中で一人だけ、消失呪文と出現呪文を手元でこっそり繰り返しながら、名前は進路についてぼんやり考え続けていた。今この瞬間まで教壇に立っていたマクゴナガル先生は、教室の後方で大イグアナに襲われかけている生徒を救いに行った。あれは大変な仕事だ。同級生たちは将来について、どのくらい考えているのだろうか。ミランダのように家業を継ぐ者もいれば、官僚を目指したり、物作りをしたい生徒もいるだろう。今朝出会ったクィディッチの選手なんかは、プロスポーツの道を志しているかもしれない。様々な生き方が名前の頭に浮かんだが、そのどれも自分とは無縁な気がした。唯一確かなのは、闇祓いのような危険な職種には、この時代就きたくないということだ。
外の状況に関しては、近頃努めて考えないようにしている。これ以上心のストレスを増やしたくないからだ。そう心掛けていても、深刻なニュースは否応なく耳に入ってくるし、スリザリンの談話室では不穏な時勢を後押しする声すら聞こえる。こんな状況下で闇祓いを志すなど、名前には到底考えられなかった。毎日のように行方不明者、時にはそれ以上のケースが出ているというのに、その渦中に自ら身を投じるなんて、勇敢を超えて恐れ知らずだ。きっと多くはグリフィンドールの出身なのだろう。名前の頭の中に、常々無茶な行動を繰り返しているジェームズたちの姿が浮かんだ。彼らとセブルスの喧嘩に巻き込まれそうになった時、矢継ぎ早に繰り広げられる様々な呪文に息を呑んだものだ。あれだけの身体能力と呪文の才能があれば、闇の魔法使いを一掃することもわけないのだろうか。
セブルスは- ふと、名前は机の上に出現させたボウトラックルから手を離し、じっと考え込んだ。セブルスは将来をどう考えているのだろう。闇の魔術の為の進路があるなど、どうか言わないで欲しい。ルシウス・マルフォイに関する嫌な噂を聞いた。そうなってしまったら、もう本当に取り返しがつかない。薄ら暗い憧れだけで踏み込むべき道では無い。リリーが面と向かってあれだけ言っていたんだ、セブルスだってそんな事は理解しているはずー。
ボウトラックルに杖を引っ張られ、名前はハッと我に返った。セブルスを視界に入れないために最前列の席に座っているのに、これではまるで意味がない。彼の姿を見ると、理性とは関係なしに様々な感情が湧き上がってしまう。それを避けるため、あえて物理的な距離を取っているというのに。せめて今振り向くのはやめておこうと、名前はボウトラックルの手をぎゅっと握って自分を制した。魔法で出現したボウトラックルは不思議そうな顔で、俯く名前をじっと見つめていた。
その夜は星図製作にぴったりの、雲ひとつない星空だった。名前はうまくいけば当初の想定よりも早く終わらせられるかもしれないと、天文台へと続く気の遠くなるような階段を逸る気持ちで昇り、同じく課題に取り組むため集まった同級生たちに混ざって作業を始めた。天上はまさしく"満天の星"と呼べる澄み切った夜空で、望遠鏡から覗く星座たちも心なしか機嫌良く輝いているように見える。風がないのも幸いだ。ふう、と吐いた息が夜の空気に白く漂う。この課題はきちんと集中すれば、ミスなく終えられる作業のはずだ。さっさと終わらせようー そう決意して、名前は羊皮紙とペンを取り出し星図に取り掛かった。何よりも、魔法薬学のレポートが明後日締切だ。苦手意識から一向に進まない筆を、今夜こそは自分に鞭打つ気持ちで執らなければならない。
「終わった…!」
作業開始から一時間半、完成した作品を手に、名前は達成感と安堵の声を漏らした。思っていたよりもかなり早く仕上げられた。我ながら悪くない出来だ。名前は羊皮紙を素早く丸めて、収納魔法のかかった鞄に羽根ペンと共に押し込んだ。すぐ談話室に帰って、レポートに取り掛かろう。本当は図書館で作業したいが、この時間では仕方がない。せめて自室の机で取り組もうか。限界が来たら、そのままベッドになだれこめばいい。そんな事を考えながら、名前は天文台を後にし、果てしなく長い螺旋階段を早足で降り始めた。この道も帰りは楽だ。望遠鏡の傍にはまだ結構な数の生徒が残っており、課題に苦戦を強いられている者もいるようだった。疲れきった表情で、この時間に階段を昇って来るハッフルパフの五年生とすれ違った際には、さすがに驚きと心配を隠せなかった。
天文台から城の中へ戻ると、ほっとするような温かさが全身を巡った。厚着をしてきたとはいえ、半屋外での作業で体は冷え切っていたらしい。名前は両手を擦り合わせながら、暗くなった廊下を急いだ。課題の進み具合は今のところ予定通り、順調だ。魔法薬学のレポートには時間をとられるだろうが、今日は実力で出来る範囲を仕上げて、分からない所は明日リリーに教えてもらえばいい。明後日の締切までには間に合うだろう。
歩みを進めるごとに、周囲の人影は減っていった。もう殆どの生徒は寮へ戻った頃だろう。消灯時間を控え、見回りの監督生が準備を始める頃合だ。防衛術の教室前を通り過ぎ、大理石の廊下に出ると、もうそこには誰もいなかった。静寂が辺りを包む。ステンドグラスの窓から差し込む月の光は神秘的で、名前は大きく息を吸った。古のホグワーツの香りが鼻へ抜ける。ゴースト一人浮かんでいない、なんとも孤独で贅沢な風景だ。しかし高架橋への入口に差し掛かった時、名前は背後から何者かに急に腕をつかまれ、反射的に叫んでしまった。
「名前!僕だ!」
引きつった顔で名前が振り向くと、そこには息を荒げたジェームズ・ポッターが立っていた。左手首から下が見えなくなっているあたり、また透明マントを手にしているのだろう。冬にも関わらず額に汗をかいているその少年の顔を見て、名前の魔女の勘が「面倒事に巻き込まれるぞ」と囁いている。自分の生活をまたしても邪魔されそうな、何とも言えない嫌な予感だ。
「な、何?こんな時間にどうしたの?」
ジェームズと言葉を交わすのは今年度に入って初めてだった。去年、セブルスを巡って喧嘩別れのようになってから、自然とお互い避けるように過ごしていたのに。
「ピーターが...いや、説明は後だ。とにかく一緒に来てくれ」
前方から歩いてきたレイブンクローの監督生にギロリと睨まれたジェームズは、名前の腕をつかんだまま歩き出した。
「ちょっとちょっと」
名前は慌てて手を振りほどこうとしたが、ジェームズは頑として譲らない。
「待ってよ、行くってどこにー...そもそも門限の時間だし...」
「五年生にもなってまだそんな事言ってるのか?」
小馬鹿にするようにジェームズが笑ったので、名前はむっと顔をしかめた。それを見たジェームズはまずいと思ったのか、コホンと咳払いをしてから、声をひそめて言った。
「君に来て欲しい場所と言ったらひとつしかない...僕たちの練習場だ」
「やだよ!」
周囲を憚るジェームズと対照的に、名前は声を張り上げた。今から叫びの屋敷に行くなんて、たまったもんじゃない。
「私、もうほんとに帰らなきゃいけないの。明後日までの魔法薬学のレポート、全然終わってなくて...」
「そんなの僕が代わりにやってやるよ!」
ジェームズは歩みを止めずに、名前と同じ声の大きさで言い放った。
「強化薬のレポートだろ?あんなもん余裕だ。明日までに仕上げてやるから、今は一緒に来てくれよ、お願いだ」
「...本当?」
名前の心が少し揺れた。重荷とも呼べる魔法薬学の課題を、誰かに肩代わりしてもらえるなんて万々歳だ。それに、あの高慢ちきなジェームズ・ポッターが「お願いだ」と助けを求めてくるのは、何だか少し気持ちがいい。
「ああ、約束する。僕が代わりに書いたってバレないように仕上げてやるよ。僕はそういうの"も"得意なんだ」
ふうん、と名前は渋々承諾したような返事をし、ジェームズと同じ速さで歩き始めた。高架橋を並んで渡る二人に、先ほどまでは静かだった北風がびゅうっと吹き付けた。
「ピーターが、って言ってたけど...何があったの?」
「戻れなくなったんだよ」
玄関ホールへ続く扉の前でジェームズは一度立ち止まり、周りに視線が無い事を確かめてから名前を引き寄せ、透明マントを素早く羽織った。完璧に身を隠すためとはいえ、ジェームズと身を寄せ合うこの状況は、名前にとってお世辞にも好ましいとは言えない。
「ピーターも動物もどきに成功したんだ。でも、どうやら戻れないみたいで...」
「変身できたの!?ピーターが!?」
突然の知らせに、名前は小声で出し得る限りの大きさで驚きを示した。正直、ピーターに関しては習得が難しいかもしれないと思っていたのだ。
「ああ、なんとかね...本当になんとか、って感じだけど...」
ジェームズは何やら含みのある言い方をした後、ふふっと可笑しそうに笑った。
「あいつ、何に変身したと思う?ネズミだよ、そっくりじゃないか?」
言われてみれば確かにしっくりくる、と名前は感じた。彼のすばしっこさや、いつもどこか怯えているような身の振る舞いは、ネズミに通ずる所があるかもしれない。動物もどきは変身者の内面が反映される。ピーターが「そっくり」と言われるネズミになったというのは、周囲が彼に対して抱くイメージと、本人の性格にはさほど乖離が無いという事を表している。
校庭の外れにある暴れ柳に近付くにつれ、北風はますます強くなり、マントが幾度か翻りそうになった。天文台で作業をしていた時はあんなに無風だったのに。まるで行くなと言われているかのようだと、名前は思った。城内に差し込んでいた月の光は今や分厚い雲に覆われ、星たちもかき消されてしまっている。叫びの屋敷へ続く通路へ潜り込むや否や、二人は透明マントを脱ぎ、冷たい風にあてられた体をぶるっと震わせた。ジェームズがルーモスで明かりを灯す。地中に掘られたこの道は、ホグワーツの灯篭が照らす廊下と同じくらい暖かく感じられた。
「戻れなくなったってことは、ピーターはまだネズミのままなのね?」
ようやく堂々と話せる場所にたどり着き、名前はジェームズに問いかけた。
「戻り方が分からないみたいでね...レベリオなりアクシオなり、僕たちが呪文をかけようとしたんだけど、あいつ怖がって逃げ回るんだ」
ジェームズは答えながら頭をクシャクシャと掻いた。
「元々ネズミだったんじゃないか、って思うくらいのすばしっこさだよ」
天文台の長距離階段と、風荒ぶ暴れ柳までの道のりで既に疲れ果ててしまったが、そういう事ならば仕方がない。名前はジェームズと共に秘密の通路を急いだ。
「そういえばあなたは何に変身できたの?」
ピーターからジェームズとシリウスの成功を報告されたものの、動物の種類までは聞かされてなかったと思い、名前はたずねた。
「ああ、そうか!」
名前の質問に答える前に、ジェームズが声を上げた。
「僕がここで変身すれば、人の足で行くより早く着くかもしれない!いや、でも狭いか...角が壁にあたるかもな...」
「ツノ?」
「鹿だよ!僕は、牡鹿だったんだ」
ジェームズが目を輝かせて言った。
「変身して見せようか?我ながら立派な角なんだ。なんなら背中に乗せてやってもいいぞ」
「うーん」
名前は歩きながら頭上に視線を向けた。土の中をくり抜いただけの、脆そうなトンネルだ。
「遠慮しとく...」
ジェームズはその後、自分がいかに効率よく動物もどきの勉強を進めたかについて語り始めた。変身までに思い浮かべた"自分らしい"動物の数々や、最初に成功した時の情景、牡鹿になってからどこでどんな無茶をした等、彼の武勇伝は途切れることがなかった。ジェームズはもう、あの喧嘩を気にしていないのだろうか。以前なら彼の自慢話にはうんざりだったが、セブルスと隔絶した今、何事も無かったかのように自然と話しかけてくるジェームズの親しみやすさを、名前は正直有難く思った。
屋敷に通じる段に差し掛かると、階上からシリウスが「アクシオ!アクシオ!」と繰り返し叫ぶ声が聞こえた。呪文が外れる音と同時に、彼の悪態が響き渡る。屋敷の中に足を踏み入れた名前が目にした光景は、まさに惨状と言える有様だった。部屋の全ての物がひっくり返り、ボロボロの家具同士が危ういバランスでいくつも積み重なっている。
「ピーター!ほら、名前が来たぞ」
部屋の中をキョロキョロと見回しながらジェームズが呼びかけた。
「どこにいる?」
名前がジェームズの背後から身を乗り出すと、ちょうどこちらを向いたシリウスと目が合った。シリウスは気まずそうに目を逸らし、部屋の隅を指差して言った。
「あそこだ。おい、ピーター、もう動くなよ」
シリウスの指先に目を向けると、そこには小さな白いネズミが縮こまっていた。ミミズのような尻尾を体にぴったりと添わせ、両手をかじりながら、カタカタと小刻みに震えている。
「名前、来てくれてありがとう」
リーマスが名前の傍に歩み寄り、仲間の中で唯一感謝を述べた。その顔は普段よりも更に疲れ切っており、パニックになったピーターと、苛立ちを抑えられないシリウスとに板挟みにされていた事がうかがえる。
「シリウス、杖をしまって」
さらなる呪文を解き放とうと杖を構えたシリウスに、名前は言った。荒々しい呪文の標的にされるのは恐怖でしかないだろう。ピーターのパニックの一端は友人たちの言動にもあると、名前は感じた。シリウスは渋々杖を下ろし、それをポケットにしまってから、お手並み拝見というように両腕を組んだ。
とはいえ、変身が解けないという状況が名前には理解しがたかった。変身と解除は表裏一体だ。眠りから覚めた時、自然と体が起き上がるように、自分にとっては意識せずとも出来る事だった。恐らくジェームズとシリウスもそうなのだろう。二人には今のピーターの気持ちが分からない。だからこそ、こんな時間に自分を呼んだのだ。
「ピーター、大丈夫だから、落ち着いて」
部屋の隅で怯えて身をかがめるネズミに、名前はゆっくりと近付いた。
「必ず自分の力で戻れるから。大丈夫、呪文はいらない」
名前はピーターの前で手を広げ、杖を持っていないことを示した。ネズミのピーターは両手を口の前でカジカジとさせながら、相変わらず震えている。
「変身してからどのくらい経つの?」
名前は振り向いて、後ろに立つジェームズたちに尋ねた。
「もう二時間ばかり過ぎたんじゃないか」
シリウスたちと顔を見合わせながら、ジェームズが答えた。
「君を呼びに行く前に、一時間くらい僕たちで奮闘して...このザマだ」
そう言ってジェームズは部屋中を見回した。まるでドラゴンが暴れていった後のようだ。名前は呆れ気味に頷いて、ピーターに向き直った。ジェームズたちはピーターをとことん恐怖に陥れるという、"効果的なリラックス方法"を見事にやってのけたようだ。
レベリオをかけるのは、ピーターの心理的に逆効果だ。自分の力で元の姿に戻らなければ意味がない。ここで他者が呪文を使ってしまったら、ピーターはトラウマから二度と変身できなくなるだろう。どうしたものか、と名前は考えた。どんな魔法も、成功させるために最も大切なのは平常心である事だ。壊滅しかけた古い屋敷の隅っこで、四人の友人に躙り寄られている今のピーターを、何とかしてリラックス状態にもっていかなければならない。
ふと、名前の頭にミランダとのやり取りが浮かんだ。課題に追われて切羽詰まった心の状態を、何とか改善できないかと彼女に相談した時のことだ。気分を落ち着かせる石を期待したが、ミランダはそれを渡してはくれなかった。ただ目を閉じ、深く呼吸して、手や足の感覚に意識を向ける。それを心掛けろと言われたのみだったが...。
ミランダのアドバイスはその時の名前にとっては物足りないものだった故、真面目に取り組んではこなかった。しかし今、それが力を発揮してくれるかもしれない。名前はピーターの気持ちにより近付くために、床に腰を下ろし、目を閉じた。ピーターの心を埋め尽くす恐怖や不安、ネズミになった自分の体への違和感、それら全てを感じ取ろうと心がけた。
「ピーター、目を閉じて。今から私と同じことをしてみよう」
目を閉じると、そこには暗闇だけが広がる。荒れ果てた部屋は見えず、プレッシャーを与える友人たちと目が合う事も無い。
「そのまま、ゆっくり呼吸してみるの。五秒かけて息を吸って......五秒かけて、それを吐き出す......その繰り返し......」
日常では決してしないであろう深さで呼吸をすると、不思議と心の波が静まっていくのを感じる。名前はピーターが発していたネズミ特有のヒクつきが、徐々に小さくなっていくのを感じ取った。
「次は、手の感覚に意識を向けてみて...目を閉じたまま、ネズミの手を思い浮かべるの」
ピーターに語りかけながら、名前も同じように自分の手に意識を集中させた。手のひらの形、指の一本一本。それらを心の目でなぞるようにじっくり視ていく。
「そしたら、そのまま、人間の自分の手を思い浮かべて。手のひら、指...自分の手を思い出しながら、目を閉じた状態で、それを見ようとするの」
名前の背後で、ジェームズが「おおっ」と小さく声を上げた。ピーターの手が戻ってきているのかもしれない。名前は彼らの反応に気を取られないよう努めて続けた。
「手の感覚が戻ってきたら、次は足の感覚に意識を向けて。同じように、足首、足の裏、指先を見るようにしていって...」
温かいエネルギーのようなものが、自分の体を満たしていく感覚がある。手足に集中している間に、心のざわめきは自然と薄れていった。名前とピーターはそのまま、脚全体、腹部、胸、腕と一つ一つを丁寧に感じ、意識を身体の下部分から少しずつ上へと巡らせた。頭部全体を心の目でスキャンし終えたあと、二人はゆっくりと目を開けた。
「あ...」
ピーターの声が、しんと静まり返った部屋に響いた。じつに数時間ぶりに息を吸ったような声だった。
「ありがとう名前...!戻れた...戻れたよ......!」
涙ながらに声を震わせながら、ピーターは四つん這いの姿勢から立ち上がって、両手をじっと見つめたり足を踏み鳴らしてみせた。
「はあ、どうなるかと思ったぜ」
シリウスが大きくため息をつき、両手を広げて天を仰いだ。ジェームズは笑いながらピーターをどつき、彼の頭にグリグリと拳を押し付けた。
「いや本当に、さすが名前先生だ。助かったよ」
リーマスは心底安堵した表情で、ゆっくりと拍手した。監督生という立場からも、気が気でなかっただろう。門限破りに無断外出、おまけに生徒一人が行方不明ともなれば、彼の責任感も限界のはずだ。
「よかったね」
固まってやんやと騒ぐ少年四人を見つめながら、名前はふっと笑った。ピーターはシリウスの"攻撃"がいかに恐ろしかったかを話し、それに対してシリウスが「助けてやろうとしたのに!」と反論していた。ジェームズとシリウスは自分たちがこの数時間いかに苦労させられたかを大袈裟に語り、ふざけた笑い顔を浮かべながらピーターをなじった。さて、これからどうしよう。名前がそう思った矢先、リーマスが咳払いをし、ジェームズたちに向けて腕時計を指差した後、名前の方をちらと見た。
「あー」
ジェームズはピーターの肩から手を離し、クシャクシャと頭を掻いた。
「そうだった、お客さんを送り届けなきゃな...」
「まだ早い時間だけど、どうもありがとう」
名前は皮肉を述べると、サインを送ってくれたリーマスに感謝して出口へと向き直った。グリフィンドールの四人もぞろぞろと後に続き、再び薄暗いトンネルの旅が始まった。
「名前、本当にありがとう」
ギャーギャーと騒ぎ立てるジェームズたち三人を背に、リーマスが先頭を歩く名前に言った。
「君が来てくれなかったらどうなっていた事か...感謝しきれないよ。何かお礼をしないと...」
「ジェームズが魔法薬学のレポートを代わりにやってくれる事になったから、それで十分だよ」
名前はそう答えてから、「そうよね?ジェームズ」と後ろにいる眼鏡の少年に声をかけた。ジェームズは「え!?何?」と素っ頓狂な声を上げている。忘れたとは言わせない。
「それにしても君のとったアプローチは素晴らしかったよ」
名前の真後ろを歩きながら、リーマスがしみじみと言った。
「シリウスも僕も、ピーターに呪文をかけることしか頭になかった...名前のあれは、どういう魔法だい?変身術特有のものなのかな」
「全然、そんなんじゃないよ。友達から教えてもらったリラックス法っていうか...なんにせよ、魔法ではないと思う」
自身も初めて試した方法だとは言えまい。自分にとってもピーターにとっても、あれ程効果があるとは思ってもみなかった。やはりミランダは素晴らしい魔女だ。明日の朝一番にお礼を伝えなければ。
「そうなのかい?魔法としか思えなかったけどなあ」
リーマスは不思議そうだった。
「僕も今度試してみようと思ったよ。まあ僕の場合は制御できるものじゃないけど...それでも人間に戻った時にあれをやれば、少しは気分がマシになるかもしれない」
名前はリーマスの目を見て、「そうだね」と優しく頷いた。そして遂に、ああこれで四人が-四匹が揃ったのだなと実感した。彼らにとって、この道のりは長かっただろうか、それともあっという間だったろうか。少なくともピーターにとって、茨の道だった事は間違いないが。
「君は僕たちにとって、とても良い先生だった。人に物を教える才能があるよね」
リーマスのその言葉に、名前は少し驚いた。ピーターがなかなか上手くいかない辺り、どちらかといえば自分の教え方が未熟だったのではないかと思っていたからだ。
「そうかな...でも、みんな才能があったから」
ジェームズとシリウスに関しては、どの教科でも飲み込みが早い事で有名だ。教授陣が二人を"ただの悪童"で済ませられないのは、それが理由でもある。
「優秀な生徒は、先生がいなくても伸びるものでしょう」
「いやいや、僕だって君の授業を聞いてたから分かる。とても分かりやすくて的確だった。君は教師に向いてるよ」
「癒者にも向いてると思うなあ」
いつからか話を聞いていたピーターが、リーマスの背中越しに口を挟んできた。
「さっきは本当に...なんだか、聖マンゴのベテラン治療を受けたみたいだったよ。一生戻れないかもって本気で絶望してたからね、僕」
「そうかな...」
図らずも、悩んでいた進路の話題になっている。教師、癒者。どちらも考えた事すらない職業だった。自分は他者にそんなイメージを持たれているのかと、少し新鮮な気分だ。名前は四人が何を考えているか気になり、背後に声をかけた。
「みんなは、進路の事とか考えてるの?」
「僕は闇祓いだな」
トンネル中に響く声で、ジェームズが答えた。
「でもクィディッチのプロもいいし、ゾンコみたいな店をやるのも面白そうなんだよなあ」
ジェームズはうーんと唸ってから、小憎たらしい笑顔を浮かべて言った。
「僕なら何でもなれる気がするんだ」
「まあ実際、ジェームズはそうだろうね...」
ピーターは不満そうに口をとがらせた。
「進路の事なんて考えたくないよ。それによってOWLだかNEWTだかの目標が決まるんでしょ?やだなあ」
はあーとため息をつくピーターに、名前は心から同意した。明確に"なりたい職業"がある生徒は、OWLにも目的意識をもって臨めるのだろう。しかし目標が定まっていない生徒にとっては、ただ闇雲に課題を詰め込まれる一年だ。OWLやNEWTでどの成績を納めれば、どの職業を選べる、そんな風に目的と手段が逆になってしまう状況だけは避けたいと名前は思った。
名前との気まずさからか、シリウスはこの会話に乗ってこなかった。ジェームズと違って、彼はまだあの日の喧嘩を忘れてはいないらしい。リーマスが「僕は就職先があるのかどうかすら...」と重く呟いたので、進路の話はやめにしようと、名前は最近のクィディッチについて話題を振った。正直興味はなかったが、名前の思惑通りジェームズが顔を輝かせ、まくし立てるように話をしだしたので、トンネル内の雰囲気はなんとか明るさを取り戻した。去年、医務室の前で口論になった際、ジェームズたちのことは二度と許せないと思っていた。あの強烈な気持ちは今でも忘れられない。にも関わらず、その怒りが今夜の一件で溶けてしまったように名前は感じた。この帰り道はまるで、五人で動物もどきの勉強を始めたばかりの、期待と興奮が入り混じったあの無邪気な時代がそのまま返ってきたようだ。
城に帰ってからはマントの持ち主であるジェームズが、名前をスリザリン寮まで送り届ける事になった。「こっちには監督生様がついてるから」と指差されたリーマスは、心底迷惑そうな顔をしていた。"気配消しの石"を使えば一人でも寮に戻れるが、石について知られるとまた面倒な事になると思い、名前は言わなかった。見回りのいない回廊で、名前はジェームズに「遅くとも明日の夜までにはレポートを届けるよう」再三釘を指した。
「心配するなって、君が思うよりもずっと早い時間にふくろうで届けてやるよ」
ジェームズは余裕綽々といった感じで条件に応じた。
「僕にかかればあんなの朝飯前だ」
「天下のポッター様ですもんね」
ジェームズの絶対的な自信発言には辟易するものの、実績が裏付けられているあたり、何も言えない。
「進路に関しても迷いがなくて、羨ましいよ」
それを聞いたジェームズは、よく分からないという表情で名前を見た。
「君は変身術の天才だろ?君こそ、何を迷うことがあるんだ?」
寮に戻り、自室のベッドに腰掛けると、疲れが一気に襲いかかった。久しぶりにあのトンネルを往復したので、脚がへとへとだ。朝の時点では、今日がこんな一日になるとは想像もしなかった。
「でも、行ってよかったな...」
正直な気持ちが口をついて出た。シリウスとは気まずいままだったが、ジェームズたちと再び笑って会話する日が来ようとは。
楽しかった。そんな素直な思いを胸に、名前はベッドに横たわった。
別れ際のジェームズの言葉が頭にこだまする。変身術の天才。彼はそう言ったが、果たして自分はそんな大層な存在なのだろうか。
三年生で動物もどきになった時は、自分には類稀な才能があるのかもしれないと思った。校長室に魔法省の役人がやってきて、動物もどきの登録をしたあの時、選ばれた感覚が確かにあった。しかしそれ以上の事を自分は成し遂げただろうか。あれから二年、自分の変身術の技術がさほど進歩したとは思えない。ましてや今、同い年で動物もどきになれる者が他に三人もいるのだ。こうなってしまえば、自分が変身術の天才と呼ばれる筋合いはもうどこにもない。
結局、組分け帽子は何が言いたかったんだろうー。名前は長年の疑問を再び心に浮かび上がらせた。スリザリンに入ることで開花する才能とは、本当に変身術を指していたのだろうか。グリフィンドールのジェームズたちでも習得出来た動物もどきを?とはいえ、変身術以外に自分が秀でている事柄は、他に一つも思いつかない。
分からないな。そう名前は心の中で呟いた。分からない。才能も進路も、これから何が待っているのかも。
そんな事を考えながら、名前は次第に深い眠りへと落ちていった。