第一部
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5年目の新学期、ホグワーツの空は真っ暗だった。大広間に入ってすぐ、名前はその只ならぬ雰囲気に本能的な恐怖を感じた。天井には星の欠片もなく、ただ暗闇だけが広がっている。数百と浮かぶ蝋燭たちが変わらずに輝く一方で、天辺だけが巨大な暗幕に覆われたその空間は、不気味の一言に尽きた。
「ウーーッ」
スリザリンのテーブルに着くや否や、ミランダが呻きながら鼻をつまんだ。
「やっぱりこれ外そうかしら...鼻がひん曲がりそう」
名前の向かいに腰を下ろし、ミランダは今日から付け始めたという石のピアスを指でクルクルといじった。底の見えない闇の中に、時間が経った血のような暗い赤が混ざった、何とも不穏な色の石だ。ミランダはそれを付けては外し、外しては付け、を繰り返している。彼女が耳に手をかける度、首からさげた無数の石がジャラジャラと音を立てた。
死喰い人と繋がりのある人物が近くにいる時、自分にだけ悪臭を感じさせる石- 汽車の中で彼女はそう話していた。大広間の後方席に座った名前たちの背後を、銀と緑の寮章を胸につけた生徒らが次々と通り過ぎていく。
混乱した世界に在りながら、こうして毎年の通り、学び舎に数百の少年少女たちが集まったことは一種奇跡のようだった。この数ヶ月は行方不明者が以前にも増して頻発しており、"普通の暮らし"を送る善良な人々は皆、経験したことの無いストレスに晒されている。新学期を控えたダイアゴン横丁での買い物すら、子どもには行かせず親だけで済ませた家庭も少なくないという。
明日からまたふくろう便が朝の大広間を駆け抜ける。新聞の恒例見出しとなった不吉な事件を、いやでも目にする事になるのだろう。夏休みの間、名前は自宅に届く新聞が視界に入ることをなるべく避けていた。自分にはどうしようもできない状況の中、不安を増長させるだけの情報など目にしたくなかったのだ。
長テーブルの半分超が生徒で埋まりかけた頃、名前の向かいでピアスをいじり続けるミランダの後ろを、セブルスがマルシベールらと共に通り過ぎた。名前は息を飲み、恐る恐るミランダを見た。しかし彼女は名前の視線には全く気付いていないかのように、耳たぶに下げた石を撫で続けている。
ミランダは何も言わなかった。実に不穏な沈黙だった。
その晩不気味だったのは、真っ暗な天井や、ミランダの新しい石だけではなかった。組分け帽子が今までにない歌を大声で繰り広げたのである。緊張した面持ちの一年生を前に繰り広げられる四寮の紹介は、毎年の軽やかな昔話とは異なり、創始者間の確執をほのめかすような内容だった。その不穏な歌詞は7年生ですら初めて聴いたようで、大広間全体が静かにざわついた。警告のような台詞を最後に、帽子は口をぱたりと閉じた。
「何だったの?さっきの...」
組分けの儀式も終わり、現れた宴のご馳走を前にして名前はミランダに問いかけた。どうやら周りも同じ話をしているようだ。
「新作が聴けることもあるのね」
マーマレードのかかった骨付きチキンに手を伸ばしながら、ミランダが冷静な口調で言った。
「さっきの歌が、ホグワーツの良い子ちゃんたちにどれだけ響くか見ものだわね。今年の私たちは、例年よりさらに厳しい立場に置かれるでしょうから」
そう聞いて、名前は心がどんより沈んだ気分になった。年々悪化しているスリザリンと他寮の関係が、今年はより顕著になるに違いない。ホグワーツ特急での座席選びの段階で、既にそれは起きていた。面識のないグリフィンドール生から露骨な警戒心を向けられ、席を封じるような素振りをされたのは、名前にとってショックな出来事だった。
「まあ安心して、そんな事よりもっと厳しい試練が名前には待ってるから」
「えっ...」
ミランダの言葉に、名前はさっと血の気が引く思いがした。フォークを握る手に緊張が走る。
「私に?それって...なにか、"視えてる"の...?」
ミランダは唇の横にはみ出たマーマレードを指で拭きながら、ふっと笑った。
「OWLに決まってるでしょう」
食事を終え、ミランダと共にスリザリン寮へ向かう道中、名前の頭の中は考え事でいっぱいだった。平時とは言えない世界、帽子の警告、セブルス、OWL。大広間にギリギリまで残っていたおかげで、地下へ降りる道は空いていた。ミランダは新しい石がどうにも落ち着かないようで、名前には感じられない独自の悪臭を感知しては、キョロキョロとその匂いの主を探したり、鼻をつまみながら呻いたりしている。その動作はスリザリン寮に近付けば近付くほど頻繁になり、自分たちの置かれた状況を憂慮するには十分すぎる効果だと名前は思った。
「なんだか...例年以上にここにいる時間が少なくなりそう」
談話室に続く扉の前で、顔をしかめながらミランダが放った言葉に名前は心から同意した。しかし今夜ばかりは荷解きをしなければならない。二人は重苦しい口調で合言葉を唱え、薄暗い談話室を抜け、各々の部屋へ渋々と向かった。
部屋に着くや否や、名前はベッドの天蓋から垂れるカーテンをぴしゃりと閉め、完全に一人になった。聞きたくもない周囲のおしゃべりがくぐもった音で響く。拡張魔法がかけられた引き出しに教科書や雑貨をしまいながら、名前は今夜の出来事を思い返していた。
宴がお開きとなり、大勢の生徒たちが立ち上がり始めた頃、グリフィンドールのテーブルで胸に真新しいバッジをつけたリーマスを見かけた。横でふざけ合うジェームズたちをあしらい、彼は少し緊張した面持ちで一年生たちを呼び集めていた。あのリーマスが監督生になったのだ。新入生は皆幼い顔立ちで、背丈はリーマスの2/3程しかない。そんな彼らを頼もしく先導していく友人の姿に、名前は心に温もりがじんわりと広がるような、何とも言えない感慨深さを覚えた。
自分たちも、数年前はあんなに幼く見えたのだろうか。思い返せば入学初日の夜、談話室へと案内してくれた監督生は背も高く、自分とはうんと年が離れているように感じた。大広間のテーブルに座る上級生たちは皆大人で、彼らから受ける印象は若い教授陣と大して変わり無かった。
あの頃の5年生と、今の自分が同い年だとは到底信じられない。いざその学年になってみると、自分も周囲も驚くほど変わらず、幼いのだ。
それでも確実に時は進んでいる。「上級呪文」と題された教科書を棚にしまいながら、名前はふと考えた。ミランダに卒業してほしくない。一つ歳上の彼女がホグワーツを去り、自分独りになってしまったら、最後の学年はどう過ごせばいいのだろう。
様々な不安が積み重なって、その夜はなかなか寝付けなかった。目の下が重い感覚のまま朝を迎えた名前は、太陽の石がついた指輪を左手に嵌め、魔法の力でなんとか脳を起こして支度を済ませた。
談話室の出口で名前と落ち合ってすぐ、ミランダが「ちょっと待って」と耳に手をかけた。例のピアスを外すことにしたようだ。
「もういいわ、これ。まともな生活できそうにないから」
お世辞にも清々しいとは言えない冷たい地下の空気だが、禍々しい石を手放した直後では爽やかに感じられるのだろう。ミランダは解放感たっぷりに両腕を広げ、晴れやかな顔で深呼吸を繰り返していた。朝食が並ぶ大広間では、ホグワーツの食事はやっぱり美味しいと言いながら、彼女は昨夜の3倍近い量をたいらげた。
新学期最初の授業は、よりにもよって魔法薬学、それもグリフィンドールとの合同だった。授業の雰囲気はあまり良いものではないだろうと予想しながら、名前は先ほどミランダと来たばかりの道を独り戻る形で教室へと向かった。薬品のツンとした匂いが一ヶ月ぶりに鼻をつく。席は決められていないにも関わらず、グリフィンドールとスリザリンは露骨にお互いを避け、きっぱり二手に分かれて着席していた。名前は小さくため息をついて、スリザリン側の一番後ろの席に腰を下ろした。ふと前方に目をやると、遠く離れた場所からリリーが遠慮がちに手を振っていた。
5年生の初回授業として与えられた課題は「安らぎの水薬」だった。不安を鎮め、心を落ち着かせる作用があるという。毎年OWLを控えた生徒たちに大人気だとスラグホーンは笑ったが、「ただし誤った調合のもとでは、二度と目が覚めなくなる可能性もある」と深刻な表情も見せ、メモをとる生徒たちの手が一瞬固まった。座学を終えた後の調合では、全員がいつになく慎重に取り組んでいたが、爆発音や悲鳴はお決まりのようにあちらこちらから聞こえてくる。銀色の湯気が立ち昇れば完成のはずだが、名前の鍋は深エメラルドの液体をぐつぐつ煮立たせるばかりで、自分が作ったのは一体何なのか分からないまま授業が終わった。
どの教科も、今年度最初の授業は必ずOWLの説明から始まった。OWL試験の重要さ、そしてそれがどれほど難しく、どれほど準備せねばならないかを各先生は熱心に語った。そしてその熱意とともに、大量の宿題が出されるのだった。生徒たちは新学期一週目からプレッシャーと過剰タスクに押しつぶされそうになり、出来の良い安らぎの水薬が早速出回るようになった。少ない小遣いのもと安価な薬を求めた結果か、とあるハッフルパフ生が丸三日起きてこないという、ちょっとした騒ぎもあった。翌週の魔法薬学の授業を待たずして、『スラグホーン教授のチェック無しに、安らぎの水薬を他者に受け渡すのを禁ずる』旨の貼り紙が各寮になされ、6・7年生たちはそれを懐かしそうに眺めていた。
魔法薬学での変化は翌週起きた。教室の左右にはっきり分かれた寮の派閥を無視して、リリーが名前の隣に座ったのだ。その大胆な行動に、名前は驚いて声をあげてしまった。
「リリー、何考えてるの」
グリフィンドール生たちの不満そうな視線を痛く感じながら、名前は小声でリリーにたずねた。
「寮に分かれて座れなんて、スラグホーン先生は言ってないわ」
リリーは涼しげに髪をかき上げ、淡々と授業の準備をしながら言った。
「先週の名前の水薬を見たら、少しお手伝いが必要かと思って...ウソウソ、この険悪な空気耐えられないのよ。私たちなら...なんて言うか、良いきっかけになれるかもしれないでしょ」
「お手伝いは是非とも必要だけど...」
飲めば昏睡状態に陥っていたかもしれない自作の薬を思い出しながら、名前は呟いた。
「本当にいいの?リリーの友達、明らかに気にしてるみたいだけど」
「私の本当の友達なら理解してくれるわ」
そう答えるリリーの顔は勇気に溢れ、キラキラ光って見えた。
「それに、お忘れのようだけど、私たちって随分前から親友よね。違う?」
リリーの言葉に名前は顔を赤らめ、もじもじと頷いた。自分にとっては勿論そうだ。しかし誰からも愛される人気者のリリーが、自分をそこまで想ってくれるなんて。名前は素直に嬉しかった。長い間スリザリンで除け者扱いされてきたせいか、気付かぬうちに自分の価値を低く見積もっていたのかもしれない。
授業が始まってしまえば、生徒たちの抗議の念も消え失せ、リリーのおかげで調合が面白いほど捗るようになった。ただ一つだけ心を乱すものがあるとすれば、遠くからこちらへ向けられるセブルスの視線だ。調合の合間合間に自分たち、厳密に言えばリリーの一挙一動を見ているのが、意識せずとも伝わってくる。授業の終盤では、美しいトルコ色の薬を完璧に仕上げたリリーをスラグホーンが大声で褒めたので、クラス全員の目がリリーに向けられた。リリーは注目を浴びる事に慣れっこで、その中に特別な視線があったとしても気付かないのかもしれない。結局その授業中、彼女がセブルスの視線に応えることは無かった。リリーのサポートのおかげで調合は順調に進み、終業のベルが鳴る頃には、名前は珍しく安堵のうちに課題の薬瓶を提出することができた。
授業で楽しい思いをしたのは久々だった。変身術は消失呪文の実技に入り、周囲の生徒は机の上の生き物をどうにか消し去ろうと悪戦苦闘していた。
対象物の造りが複雑であるほど難しくなる呪文だ。無脊椎動物のカタツムリを消すことが出来た生徒は、次なる課題である哺乳類のネズミに取り掛かるよう先生が呼びかけている。しかしネズミだろうとフクロウだろうと、名前にとってはもはや退屈極まりなかった。消失呪文はかなり昔に習得したものの一つだ。授業で課題となる生き物に複雑さを見出すことは正直難しい。かと言って大型の魔法動物のような派手な対象を選んでしまっては、他の生徒からひんしゅくを買うだろう。
名前は目立たないように気をつけながら、色々な模様の蝶や、手のひらサイズのドラゴンを出現させてはそれを消す作業を淡々と繰り返していた。隣の席では、カタツムリの殻だけを異常に増やしてしまった生徒が頭を抱えている。誰もが自分の事に精一杯だ。マクゴナガルはお気に入りの生徒を皆の前で褒めたりしないし、セブルスは変身術に秀でた生徒に興味があるわけじゃない。心の底に寂しさがぽとりと落ちる感覚があった。何を今更、と名前はかぶりを振ったが、控えめな炎を吐くミニチュアドラゴンを消し去ると、この時間の全てが虚しく思えた。
名前は気持ちを落ち着けようと、額に手をあて数秒だけ目を閉じた。しかし暗闇は心の中を映し出す事に長けているようで、まぶたの裏に妬みや羨望が湧き上がってくる。
闇にのまれてはダメだ。直感にそう囁かれ、名前は目を開いた。その瞬間、視界に入った自分の髪が赤く光ったように見え、名前は思わずぎょっとした。しかし瞬きするかしないかのうちに、その現象は幻のように消え失せた。見慣れた自分の毛先が微かに揺れ動いている。隣に座る生徒の机から、増えすぎたカタツムリの殻がバラバラとこぼれ落ちた。
その日の夜、名前が夕食をもとめ大広間へ向かうと、扉の前でピーターがキョロキョロと辺りを見回しながら立っていた。彼は人混みの中に名前を見つけると、背を縮こませながらいそいそと近付いてきた。
「名前、久しぶりだね...あの、これ」
ピーターの手から渡されたのは、夏休みに入る前、彼に貸した"動物図鑑"だった。
「貸してくれてありがとう。新学期の初日に渡そうと思ってたんだけど、タイミングが無くて...」
「ああ!これね。ありがとう」
目立った損傷もなく戻ってきたノートを見て、名前は安堵した。動物もどきに苦戦して涙するピーターがいたたまれなく、勢いで貸してしまったものの、夏の間気がかりだったのだ。ノートに書かれているのは全て自分の字だが、そのアイデアの多くにセブルスが関与している事を万一悟られては気恥ずかしい。それに何より、今となっては貴重な思い出の品だったからだ。
「どう?変身できそうな動物、見つけられた?」
「うーん」
名前の問いかけにピーターはポリポリと頬を書いた。自信家で挑発的なジェームズたちと対照的に、ピーターは視線を床に落としがちだ。
「これは絶対違うなとか、これは少し分かるかな、みたいな...傾向っぽいものは掴めた...と思う?」
「そっか」
質問に対して疑問形で答えたピーターに、名前はふふっと笑った。自分のアドバイスが彼の役に立ったかどうかはかなり怪しい。しかしピーターを再び落ち込ませまいと、名前は努めて明るく言った。
「だったら、次はその中から一つ一つ挑戦してみるだけだよ!」
「うん...でも、それが一番難しいんだよね?」
ピーターは肩を落としながらため息をついた。相変わらずネガティブな雰囲気の彼だったが、少なくとも今日はその目に涙は浮かんでいない。
「まあ、やるしかないよね...ほんと、期待しないでほしいけど。僕、まだカタツムリの課題も上手く出来ないんだよ」
「大丈夫よ、私のクラスだって出来てる人少ないもん」
これ以上ピーターを落ち込ませまいと、名前は優しい嘘をついた。
「今日だって私の隣の生徒、カタツムリの殻で机いっぱいにしちゃってさ。百個近い数の殻がバラバラーって、床までこぼれて大変だったよ」
「ハハ、僕と同じだ。スリザリンにもそんな人いるんだね」
ピーターがリラックスして笑う様を見て、名前は胸を撫で下ろした。少し大袈裟に話してしまったが、カタツムリの課題に苦労している生徒が一定数いるのは本当だ。
「ほんと、ありがとね...なんとか頑張ってみるよ」
じゃあまた、と言ってピーターはグリフィンドールのテーブルへと歩いて行った。名前はノートを受け取ったものの、手ぶらで来てしまっていたので、しまう場所がないことに気付いた。呪文で自分の部屋に戻せば良いとも思ったが、万が一失敗すれば大切なノートを失くしてしまう。
ミランダを夕食の席で待たせてしまう事になるが、スリザリン寮までは比較的すぐだ。名前は一度部屋に戻ってノートを置きに行こうと決めた。生徒の波に逆らうかたちで歩き出そうとした時、前からやって来るセブルスと目が合った。エイブリーたちと一緒だ。
ピーターと話している所を見られたかもしれない、と思ってから、だったら何だと言うのかと心の声が上書きされた。セブルスに隠れて彼らと関わっていた頃とは違う。今の自分は好きな時に、誰とでも自由に会話するのだ。
セブルスと目が合ったのはほんの一瞬だけだった。彼は伏せ目がちに、エイブリーの話を聞きながら薄笑いを浮かべていた。さして楽しくもないくせに。名前は腹のあたりに、怒りと嫉妬が入り交じった重たい波が広がるのを感じた。セブルスが楽しくて笑う時は、あんな笑い方しない。真顔は怖くて暗いけれど、本当に楽しい時は、彼だって目を細めて笑うんだと自分は知っているー。
セブルスたちとすれ違った瞬間、突然耳元で壊れたラジオのような、ザーッという雑音が流れ、名前は驚いて咄嗟に耳をおさえた。周りにいる生徒たちの声が、言葉が一切聞こえてこない。砂嵐のような不快な音だけが耳に響く。呪いをかけられた、名前は直感的にそう思った。経験したことのない感覚だ。低学年の生徒たちがふざけてかけ合う魔法とは違う。五感の一部を奪われ、世界と隔絶されたような状況に、名前は底知れぬ恐怖を覚えた。
幸いそれは一時的なもので、人波を抜けると聴覚は元に戻った。生徒たちの他愛もないお喋りが流れる。名前は急いで大広間の入り口を振り返った。テーブルへと向かうセブルスたちの後ろ姿だけが見えた。誰も杖を手にしていないし、名前の様子を気にしている素振りもない。ただ一瞬、目が合っただけのことだ。
片手に握りしめたノートを見て、名前は何だか全てがバカバカしく思えた。そして同時に、心が痛みと切なさでいっぱいになった。
友人だった人間を傷付ける事だって、もう彼は平気で出来るのだ。それほど彼は変わってしまったのだ。
二人の思い出を失くすまいと必死だった数分前までの自分が、ひどく哀れに思えた。
名前は杖を取り出す事もせず、適当な無言呪文でノートをどこかに消し去った。声を絞り出す気力すら、今の自分には無いように思えた。
「ウーーッ」
スリザリンのテーブルに着くや否や、ミランダが呻きながら鼻をつまんだ。
「やっぱりこれ外そうかしら...鼻がひん曲がりそう」
名前の向かいに腰を下ろし、ミランダは今日から付け始めたという石のピアスを指でクルクルといじった。底の見えない闇の中に、時間が経った血のような暗い赤が混ざった、何とも不穏な色の石だ。ミランダはそれを付けては外し、外しては付け、を繰り返している。彼女が耳に手をかける度、首からさげた無数の石がジャラジャラと音を立てた。
死喰い人と繋がりのある人物が近くにいる時、自分にだけ悪臭を感じさせる石- 汽車の中で彼女はそう話していた。大広間の後方席に座った名前たちの背後を、銀と緑の寮章を胸につけた生徒らが次々と通り過ぎていく。
混乱した世界に在りながら、こうして毎年の通り、学び舎に数百の少年少女たちが集まったことは一種奇跡のようだった。この数ヶ月は行方不明者が以前にも増して頻発しており、"普通の暮らし"を送る善良な人々は皆、経験したことの無いストレスに晒されている。新学期を控えたダイアゴン横丁での買い物すら、子どもには行かせず親だけで済ませた家庭も少なくないという。
明日からまたふくろう便が朝の大広間を駆け抜ける。新聞の恒例見出しとなった不吉な事件を、いやでも目にする事になるのだろう。夏休みの間、名前は自宅に届く新聞が視界に入ることをなるべく避けていた。自分にはどうしようもできない状況の中、不安を増長させるだけの情報など目にしたくなかったのだ。
長テーブルの半分超が生徒で埋まりかけた頃、名前の向かいでピアスをいじり続けるミランダの後ろを、セブルスがマルシベールらと共に通り過ぎた。名前は息を飲み、恐る恐るミランダを見た。しかし彼女は名前の視線には全く気付いていないかのように、耳たぶに下げた石を撫で続けている。
ミランダは何も言わなかった。実に不穏な沈黙だった。
その晩不気味だったのは、真っ暗な天井や、ミランダの新しい石だけではなかった。組分け帽子が今までにない歌を大声で繰り広げたのである。緊張した面持ちの一年生を前に繰り広げられる四寮の紹介は、毎年の軽やかな昔話とは異なり、創始者間の確執をほのめかすような内容だった。その不穏な歌詞は7年生ですら初めて聴いたようで、大広間全体が静かにざわついた。警告のような台詞を最後に、帽子は口をぱたりと閉じた。
「何だったの?さっきの...」
組分けの儀式も終わり、現れた宴のご馳走を前にして名前はミランダに問いかけた。どうやら周りも同じ話をしているようだ。
「新作が聴けることもあるのね」
マーマレードのかかった骨付きチキンに手を伸ばしながら、ミランダが冷静な口調で言った。
「さっきの歌が、ホグワーツの良い子ちゃんたちにどれだけ響くか見ものだわね。今年の私たちは、例年よりさらに厳しい立場に置かれるでしょうから」
そう聞いて、名前は心がどんより沈んだ気分になった。年々悪化しているスリザリンと他寮の関係が、今年はより顕著になるに違いない。ホグワーツ特急での座席選びの段階で、既にそれは起きていた。面識のないグリフィンドール生から露骨な警戒心を向けられ、席を封じるような素振りをされたのは、名前にとってショックな出来事だった。
「まあ安心して、そんな事よりもっと厳しい試練が名前には待ってるから」
「えっ...」
ミランダの言葉に、名前はさっと血の気が引く思いがした。フォークを握る手に緊張が走る。
「私に?それって...なにか、"視えてる"の...?」
ミランダは唇の横にはみ出たマーマレードを指で拭きながら、ふっと笑った。
「OWLに決まってるでしょう」
食事を終え、ミランダと共にスリザリン寮へ向かう道中、名前の頭の中は考え事でいっぱいだった。平時とは言えない世界、帽子の警告、セブルス、OWL。大広間にギリギリまで残っていたおかげで、地下へ降りる道は空いていた。ミランダは新しい石がどうにも落ち着かないようで、名前には感じられない独自の悪臭を感知しては、キョロキョロとその匂いの主を探したり、鼻をつまみながら呻いたりしている。その動作はスリザリン寮に近付けば近付くほど頻繁になり、自分たちの置かれた状況を憂慮するには十分すぎる効果だと名前は思った。
「なんだか...例年以上にここにいる時間が少なくなりそう」
談話室に続く扉の前で、顔をしかめながらミランダが放った言葉に名前は心から同意した。しかし今夜ばかりは荷解きをしなければならない。二人は重苦しい口調で合言葉を唱え、薄暗い談話室を抜け、各々の部屋へ渋々と向かった。
部屋に着くや否や、名前はベッドの天蓋から垂れるカーテンをぴしゃりと閉め、完全に一人になった。聞きたくもない周囲のおしゃべりがくぐもった音で響く。拡張魔法がかけられた引き出しに教科書や雑貨をしまいながら、名前は今夜の出来事を思い返していた。
宴がお開きとなり、大勢の生徒たちが立ち上がり始めた頃、グリフィンドールのテーブルで胸に真新しいバッジをつけたリーマスを見かけた。横でふざけ合うジェームズたちをあしらい、彼は少し緊張した面持ちで一年生たちを呼び集めていた。あのリーマスが監督生になったのだ。新入生は皆幼い顔立ちで、背丈はリーマスの2/3程しかない。そんな彼らを頼もしく先導していく友人の姿に、名前は心に温もりがじんわりと広がるような、何とも言えない感慨深さを覚えた。
自分たちも、数年前はあんなに幼く見えたのだろうか。思い返せば入学初日の夜、談話室へと案内してくれた監督生は背も高く、自分とはうんと年が離れているように感じた。大広間のテーブルに座る上級生たちは皆大人で、彼らから受ける印象は若い教授陣と大して変わり無かった。
あの頃の5年生と、今の自分が同い年だとは到底信じられない。いざその学年になってみると、自分も周囲も驚くほど変わらず、幼いのだ。
それでも確実に時は進んでいる。「上級呪文」と題された教科書を棚にしまいながら、名前はふと考えた。ミランダに卒業してほしくない。一つ歳上の彼女がホグワーツを去り、自分独りになってしまったら、最後の学年はどう過ごせばいいのだろう。
様々な不安が積み重なって、その夜はなかなか寝付けなかった。目の下が重い感覚のまま朝を迎えた名前は、太陽の石がついた指輪を左手に嵌め、魔法の力でなんとか脳を起こして支度を済ませた。
談話室の出口で名前と落ち合ってすぐ、ミランダが「ちょっと待って」と耳に手をかけた。例のピアスを外すことにしたようだ。
「もういいわ、これ。まともな生活できそうにないから」
お世辞にも清々しいとは言えない冷たい地下の空気だが、禍々しい石を手放した直後では爽やかに感じられるのだろう。ミランダは解放感たっぷりに両腕を広げ、晴れやかな顔で深呼吸を繰り返していた。朝食が並ぶ大広間では、ホグワーツの食事はやっぱり美味しいと言いながら、彼女は昨夜の3倍近い量をたいらげた。
新学期最初の授業は、よりにもよって魔法薬学、それもグリフィンドールとの合同だった。授業の雰囲気はあまり良いものではないだろうと予想しながら、名前は先ほどミランダと来たばかりの道を独り戻る形で教室へと向かった。薬品のツンとした匂いが一ヶ月ぶりに鼻をつく。席は決められていないにも関わらず、グリフィンドールとスリザリンは露骨にお互いを避け、きっぱり二手に分かれて着席していた。名前は小さくため息をついて、スリザリン側の一番後ろの席に腰を下ろした。ふと前方に目をやると、遠く離れた場所からリリーが遠慮がちに手を振っていた。
5年生の初回授業として与えられた課題は「安らぎの水薬」だった。不安を鎮め、心を落ち着かせる作用があるという。毎年OWLを控えた生徒たちに大人気だとスラグホーンは笑ったが、「ただし誤った調合のもとでは、二度と目が覚めなくなる可能性もある」と深刻な表情も見せ、メモをとる生徒たちの手が一瞬固まった。座学を終えた後の調合では、全員がいつになく慎重に取り組んでいたが、爆発音や悲鳴はお決まりのようにあちらこちらから聞こえてくる。銀色の湯気が立ち昇れば完成のはずだが、名前の鍋は深エメラルドの液体をぐつぐつ煮立たせるばかりで、自分が作ったのは一体何なのか分からないまま授業が終わった。
どの教科も、今年度最初の授業は必ずOWLの説明から始まった。OWL試験の重要さ、そしてそれがどれほど難しく、どれほど準備せねばならないかを各先生は熱心に語った。そしてその熱意とともに、大量の宿題が出されるのだった。生徒たちは新学期一週目からプレッシャーと過剰タスクに押しつぶされそうになり、出来の良い安らぎの水薬が早速出回るようになった。少ない小遣いのもと安価な薬を求めた結果か、とあるハッフルパフ生が丸三日起きてこないという、ちょっとした騒ぎもあった。翌週の魔法薬学の授業を待たずして、『スラグホーン教授のチェック無しに、安らぎの水薬を他者に受け渡すのを禁ずる』旨の貼り紙が各寮になされ、6・7年生たちはそれを懐かしそうに眺めていた。
魔法薬学での変化は翌週起きた。教室の左右にはっきり分かれた寮の派閥を無視して、リリーが名前の隣に座ったのだ。その大胆な行動に、名前は驚いて声をあげてしまった。
「リリー、何考えてるの」
グリフィンドール生たちの不満そうな視線を痛く感じながら、名前は小声でリリーにたずねた。
「寮に分かれて座れなんて、スラグホーン先生は言ってないわ」
リリーは涼しげに髪をかき上げ、淡々と授業の準備をしながら言った。
「先週の名前の水薬を見たら、少しお手伝いが必要かと思って...ウソウソ、この険悪な空気耐えられないのよ。私たちなら...なんて言うか、良いきっかけになれるかもしれないでしょ」
「お手伝いは是非とも必要だけど...」
飲めば昏睡状態に陥っていたかもしれない自作の薬を思い出しながら、名前は呟いた。
「本当にいいの?リリーの友達、明らかに気にしてるみたいだけど」
「私の本当の友達なら理解してくれるわ」
そう答えるリリーの顔は勇気に溢れ、キラキラ光って見えた。
「それに、お忘れのようだけど、私たちって随分前から親友よね。違う?」
リリーの言葉に名前は顔を赤らめ、もじもじと頷いた。自分にとっては勿論そうだ。しかし誰からも愛される人気者のリリーが、自分をそこまで想ってくれるなんて。名前は素直に嬉しかった。長い間スリザリンで除け者扱いされてきたせいか、気付かぬうちに自分の価値を低く見積もっていたのかもしれない。
授業が始まってしまえば、生徒たちの抗議の念も消え失せ、リリーのおかげで調合が面白いほど捗るようになった。ただ一つだけ心を乱すものがあるとすれば、遠くからこちらへ向けられるセブルスの視線だ。調合の合間合間に自分たち、厳密に言えばリリーの一挙一動を見ているのが、意識せずとも伝わってくる。授業の終盤では、美しいトルコ色の薬を完璧に仕上げたリリーをスラグホーンが大声で褒めたので、クラス全員の目がリリーに向けられた。リリーは注目を浴びる事に慣れっこで、その中に特別な視線があったとしても気付かないのかもしれない。結局その授業中、彼女がセブルスの視線に応えることは無かった。リリーのサポートのおかげで調合は順調に進み、終業のベルが鳴る頃には、名前は珍しく安堵のうちに課題の薬瓶を提出することができた。
授業で楽しい思いをしたのは久々だった。変身術は消失呪文の実技に入り、周囲の生徒は机の上の生き物をどうにか消し去ろうと悪戦苦闘していた。
対象物の造りが複雑であるほど難しくなる呪文だ。無脊椎動物のカタツムリを消すことが出来た生徒は、次なる課題である哺乳類のネズミに取り掛かるよう先生が呼びかけている。しかしネズミだろうとフクロウだろうと、名前にとってはもはや退屈極まりなかった。消失呪文はかなり昔に習得したものの一つだ。授業で課題となる生き物に複雑さを見出すことは正直難しい。かと言って大型の魔法動物のような派手な対象を選んでしまっては、他の生徒からひんしゅくを買うだろう。
名前は目立たないように気をつけながら、色々な模様の蝶や、手のひらサイズのドラゴンを出現させてはそれを消す作業を淡々と繰り返していた。隣の席では、カタツムリの殻だけを異常に増やしてしまった生徒が頭を抱えている。誰もが自分の事に精一杯だ。マクゴナガルはお気に入りの生徒を皆の前で褒めたりしないし、セブルスは変身術に秀でた生徒に興味があるわけじゃない。心の底に寂しさがぽとりと落ちる感覚があった。何を今更、と名前はかぶりを振ったが、控えめな炎を吐くミニチュアドラゴンを消し去ると、この時間の全てが虚しく思えた。
名前は気持ちを落ち着けようと、額に手をあて数秒だけ目を閉じた。しかし暗闇は心の中を映し出す事に長けているようで、まぶたの裏に妬みや羨望が湧き上がってくる。
闇にのまれてはダメだ。直感にそう囁かれ、名前は目を開いた。その瞬間、視界に入った自分の髪が赤く光ったように見え、名前は思わずぎょっとした。しかし瞬きするかしないかのうちに、その現象は幻のように消え失せた。見慣れた自分の毛先が微かに揺れ動いている。隣に座る生徒の机から、増えすぎたカタツムリの殻がバラバラとこぼれ落ちた。
その日の夜、名前が夕食をもとめ大広間へ向かうと、扉の前でピーターがキョロキョロと辺りを見回しながら立っていた。彼は人混みの中に名前を見つけると、背を縮こませながらいそいそと近付いてきた。
「名前、久しぶりだね...あの、これ」
ピーターの手から渡されたのは、夏休みに入る前、彼に貸した"動物図鑑"だった。
「貸してくれてありがとう。新学期の初日に渡そうと思ってたんだけど、タイミングが無くて...」
「ああ!これね。ありがとう」
目立った損傷もなく戻ってきたノートを見て、名前は安堵した。動物もどきに苦戦して涙するピーターがいたたまれなく、勢いで貸してしまったものの、夏の間気がかりだったのだ。ノートに書かれているのは全て自分の字だが、そのアイデアの多くにセブルスが関与している事を万一悟られては気恥ずかしい。それに何より、今となっては貴重な思い出の品だったからだ。
「どう?変身できそうな動物、見つけられた?」
「うーん」
名前の問いかけにピーターはポリポリと頬を書いた。自信家で挑発的なジェームズたちと対照的に、ピーターは視線を床に落としがちだ。
「これは絶対違うなとか、これは少し分かるかな、みたいな...傾向っぽいものは掴めた...と思う?」
「そっか」
質問に対して疑問形で答えたピーターに、名前はふふっと笑った。自分のアドバイスが彼の役に立ったかどうかはかなり怪しい。しかしピーターを再び落ち込ませまいと、名前は努めて明るく言った。
「だったら、次はその中から一つ一つ挑戦してみるだけだよ!」
「うん...でも、それが一番難しいんだよね?」
ピーターは肩を落としながらため息をついた。相変わらずネガティブな雰囲気の彼だったが、少なくとも今日はその目に涙は浮かんでいない。
「まあ、やるしかないよね...ほんと、期待しないでほしいけど。僕、まだカタツムリの課題も上手く出来ないんだよ」
「大丈夫よ、私のクラスだって出来てる人少ないもん」
これ以上ピーターを落ち込ませまいと、名前は優しい嘘をついた。
「今日だって私の隣の生徒、カタツムリの殻で机いっぱいにしちゃってさ。百個近い数の殻がバラバラーって、床までこぼれて大変だったよ」
「ハハ、僕と同じだ。スリザリンにもそんな人いるんだね」
ピーターがリラックスして笑う様を見て、名前は胸を撫で下ろした。少し大袈裟に話してしまったが、カタツムリの課題に苦労している生徒が一定数いるのは本当だ。
「ほんと、ありがとね...なんとか頑張ってみるよ」
じゃあまた、と言ってピーターはグリフィンドールのテーブルへと歩いて行った。名前はノートを受け取ったものの、手ぶらで来てしまっていたので、しまう場所がないことに気付いた。呪文で自分の部屋に戻せば良いとも思ったが、万が一失敗すれば大切なノートを失くしてしまう。
ミランダを夕食の席で待たせてしまう事になるが、スリザリン寮までは比較的すぐだ。名前は一度部屋に戻ってノートを置きに行こうと決めた。生徒の波に逆らうかたちで歩き出そうとした時、前からやって来るセブルスと目が合った。エイブリーたちと一緒だ。
ピーターと話している所を見られたかもしれない、と思ってから、だったら何だと言うのかと心の声が上書きされた。セブルスに隠れて彼らと関わっていた頃とは違う。今の自分は好きな時に、誰とでも自由に会話するのだ。
セブルスと目が合ったのはほんの一瞬だけだった。彼は伏せ目がちに、エイブリーの話を聞きながら薄笑いを浮かべていた。さして楽しくもないくせに。名前は腹のあたりに、怒りと嫉妬が入り交じった重たい波が広がるのを感じた。セブルスが楽しくて笑う時は、あんな笑い方しない。真顔は怖くて暗いけれど、本当に楽しい時は、彼だって目を細めて笑うんだと自分は知っているー。
セブルスたちとすれ違った瞬間、突然耳元で壊れたラジオのような、ザーッという雑音が流れ、名前は驚いて咄嗟に耳をおさえた。周りにいる生徒たちの声が、言葉が一切聞こえてこない。砂嵐のような不快な音だけが耳に響く。呪いをかけられた、名前は直感的にそう思った。経験したことのない感覚だ。低学年の生徒たちがふざけてかけ合う魔法とは違う。五感の一部を奪われ、世界と隔絶されたような状況に、名前は底知れぬ恐怖を覚えた。
幸いそれは一時的なもので、人波を抜けると聴覚は元に戻った。生徒たちの他愛もないお喋りが流れる。名前は急いで大広間の入り口を振り返った。テーブルへと向かうセブルスたちの後ろ姿だけが見えた。誰も杖を手にしていないし、名前の様子を気にしている素振りもない。ただ一瞬、目が合っただけのことだ。
片手に握りしめたノートを見て、名前は何だか全てがバカバカしく思えた。そして同時に、心が痛みと切なさでいっぱいになった。
友人だった人間を傷付ける事だって、もう彼は平気で出来るのだ。それほど彼は変わってしまったのだ。
二人の思い出を失くすまいと必死だった数分前までの自分が、ひどく哀れに思えた。
名前は杖を取り出す事もせず、適当な無言呪文でノートをどこかに消し去った。声を絞り出す気力すら、今の自分には無いように思えた。