第一部
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拒絶とともに訪れた冬はあまりに長く寒々しく、永遠に続く灰色の世界が、名前を城ごと飲み込んでしまったかのようだった。遠い果てからやってくる北風は温もりや心地よさを全て吹き飛ばし、視界には空でなく、常に地が広がっている。先の見えない氷の道だ。寒さに縮こまった身体の奥で、魂までもがぎゅっと押しつぶされるのを感じる。鮮やかな色を捉える感覚は段々と鈍り始め、僅かに残された明と暗を区別する本能だけが、失意の中ではたらいていた。
ホグワーツで過ごす4年目の日々は、それまでとは明らかに、何かが決定的に違ってしまっていた。ハロウィンやクリスマス、ホグズミード。心躍る出来事はいくつも用意されていたはずなのに、そのどれもが透明な霧となって体を通り抜けてしまったかのようだ。この3年間、毎日を喜びや興奮と共に過ごしてきた。悲しむことや、悩みに苦しむことがあっても、それらはどれも一時的なものだったはずだ。落とし穴にはまりかけたとしても、そこから地底に突き落とされるような事は一度として無かった。
ホグワーツに入学してからの輝くような日々は、その根底に揺るぎない希望と励ましがあったからこそ、享受できていた日常なのだ。
たった一人の気持ちを失うことで、こんなにも世界が変わってしまうとは。
6月の金曜日。城を覆い尽くしていた雪はいつの間にか綺麗に溶け、暖かな陽光の下、草木がぐんと伸びをする季節になった。柱に囲まれた回廊から校庭へ抜けて歩みを進めると、踏みしめる雑草の柔らかさに足裏が驚くのを感じる。数ヶ月前まで枯葉と雪に覆われていた地面が緑の息を吹き返し、解放された喜びを叫んでいるかのようだ。しかし多くの生き物にとって希望となるその生命力も、今の名前には歩く者の生気を吸い取る姑息なクリーチャーのようにすら感じられた。
肩から下げていた薄い鞄が太ももでパンと跳ね返り、名前はハッとして沈みかけていた顔を上げた。また谷底に自ら入り込んでいくところだった。今は一人で寝に就く夜ではない。友人と過ごす約束をした明るい放課後には、それにふさわしい気持ちであらねばならない。
遠くに広がる湖のほとりは、多くの生徒で賑わっているようだ。湖面に反射する太陽が眩しい。溢れすぎとも思える光に目を細めながら、名前は十数メートル先に佇む友人にピントを合わせた。
「名前」
湖を背にして、丸太のベンチに腰掛けたリリーが手を振って居場所を示す。背景の緑と赤毛のコントラストが、さながら絵本のように美しく映えている。
「お疲れさま」
鞄を肩から外しながら、名前はリリーの隣に腰を下ろした。名前が小さな鞄の底から、その5倍はある大きな書物を取り出すと、リリーは「わあ」と驚いて声を上げた。
「ずいぶん器用な収納術ねえ」
リリーは名前の薄い鞄を手にして、中をまじまじと覗いた。その翠緑の瞳には鞄の裏地だけが映っていることだろう。
「ミランダが細工してくれたの」
苦手な教科の重みを両手にずっしりと感じながら、存在を忘れるほど軽いその鞄に名前は改めて感謝した。
「その時必要なものが取り出せるんだって。実際に所有してる必要があるけど…すごい便利だよ」
「鞄自体がアクシオになってるってことね」
リリーは興味深そうに鞄を持ち上げたり裏返したりして、ふんふんと頷いてから、遠慮がちに口を開いた。
「いいなあ…その魔法、私も教えてもらえるかしら」
「もちろん、聞けばいつでも教えてくれると思う」
「本当?あっ…でも…」
キラキラと顔を輝かせてから、リリーは何か深刻な事に気付いたというように口に手を当てた。
「ミランダって今OWL試験で大変な時じゃない?グリフィンドールの5年生、昨日も気絶した人がいたって」
「あーうん、全然、大丈夫そうだよ」
そう答えながら、名前は夕食の場でミランダが口にしたジョークを思い出した。
「今つけてる石を一つでも外したら発狂するかもって言ってたけど」
いつも以上にジャラジャラと石を身につけている最近のミランダを目に浮かべて、二人はケタケタと笑った。
「ああ、やっぱり増やしてたのね…見間違いじゃなかった」
リリーは余程面白おかしく合点がいったようで、ふふっと笑いを引きずっていた。
「彼女でもテストで不安になる事なんてあるんだ…なんか、安心するわ」
「ね、正直意外だけど。一回でいいから石を全部外してみたいよね」
リリーにつられてニヤニヤした表情を浮かべたまま、名前は言った。しかし実際のところ、面白半分、真面目半分である。ホグワーツで最も時間を共にしている親友の真の素顔を、自分はまだ知らない気がするのだ。
名前とリリーは共通の友人に対する下らない予想を出し合い、一通り笑い合ってから、「さて…」と目の前の課題に手を付け始めた。ローブの色や眠る場所が違っても、学期末試験だけは全員に等しく訪れる。気が滅入るようなこの期間、せめて太陽の下で過ごしたいという事で、リリーが今日この場を選んだのだ。
ノートにさらさらと書き込まれるリリーの文字を目で追いながら、名前はふと、自分は何かを彼女に返せているのだろうかと疑問を抱いた。自分に分かる事の中で、リリーが理解できていないものは何一つ無いような気がした。特別だ、才能だともてはやされた動物もどきさえ、リリーならあっという間に会得してしまうかもしれない。その出自への偏見がいかに理に適わない事であるか、今や学年屈指の優秀な魔女となった彼女自身が証明している。
太陽が山々の間まで傾き、周囲がオレンジ色の光に包まれ始めた頃、リリーが「ねえ、名前…」と躊躇いがちに口を開いた。
「セブルスの事、まだ好き?」
突然の予期せぬ問いかけに、名前はドクッと心臓が波打つのを感じた。答えはすぐに口をついては出なかった。唇は開いたものの、喉の奥で声が詰まるような感覚に襲われる。薄い空気を吸い込み、唇を縛り直してから、名前は心を絞り切るような思いで答えた。
「…わからない……」
美しい髪を膝元になびかせながら、リリーは名前の表情を覗き込むように首を傾けていた。その返答が本心である事をすぐに悟ったのだろう。リリーは地面に視線を落とし、「そう……そうよね…」と呟いた。その声には、悲しみでも失望でも無い、ただ安堵のみが込められているように名前は感じた。
「私と出会った頃のセブとも…私たち3人が仲良くなった頃とも、全く違う人になってしまった気がする…」
リリーは重たい表情を浮かべながら、足元の土をザッと横に引きならした。何かを塗りつぶすようなその所作を見つめながら、名前はセブルスの事を思い返していた。彼はあえて自分を視線から外し続けているのだろう、この半年は目が合う瞬間さえ無かった。最後に話したのは、もう随分と前のことだー。
「それでも、リリーはまだセブルスと話が出来るでしょ」
沈んでいるリリーを励まそうとしたつもりが、いざ言葉を発した途端、名前はそれが自分の心に渦巻く僻みから来るものだと気付いてしまった。
「リリーは私と違って…無視されないし…」
醜い感情に押し潰されそうになりながら、名前は消え入るように呟いた。別にここまで言う必要は無かっただろうに。恥じらいと後悔がもたらす居心地の悪さに、名前は足の指をぎゅっと縮こまらせた。
「それが違うのよ!」
顔を上げ、キッとした表情を向けてきたリリーに、名前は思わず面食らった。予想と全く違う反応だったのだ。リリーは地面に視線を落としたまま、「それはそうだけど…」とでも返すのだろうと思っていた。
「私だって最近セブに避けられてるの。一昨日だって、私が前から歩いて来てるの分かってたくせに…逃げるように去っていったわ」
憤りを抑えられないような声色で、リリーは突き放すように言った。
「その時は彼、マルシベールと一緒にいたわ」
「そうなんだ…」
そう呟きながら、名前は驚きながらも、少しほっとする自分がいる事に気付いた。この安堵感こそが、"まだ好きかどうか"に対する本当の答えなのではないかー…ざわつく胸の内を否定したい一心で、名前は「リリーはその時どうしたの?」と目の前の話し相手に注意を傾けた。
「どうもしなかったわ。もう腹が立っちゃって」
リリーはため息をつきながら、頭を抱えるように額に手をあてた。
「あからさまに避けてる態度だったのよ。私も最後にまともに話したのっていつかしら…思い出せなくなってきた…」
意外な事実に、名前はかける言葉が見つからなかった。突如訪れた沈黙にリリーも耐えかねたのか、彼女は大きく息を吐いてから、すくっと立ち上がって荷物をまとめ始めた。
「ごめんね、もうセブの話はやめましょ。そろそろ日が暮れてきそうね」
夕食までまだ少し時間がある。校庭から城へ入ったところでリリーと別れ、名前はひとり図書館へと向かっていた。寮の談話室、大広間、教室や廊下にいたる全ての場所で、未だにセブルスの姿を無意識に探してしまう。自分に心底呆れる程だ。リリーに吐露した思いが、予感とは逆方向に振り切れてくれれば良いのに。いっそはっきり嫌いになる事が出来たら…この窮屈な胸の内も、さぞすっきりするに違いない。今の自分を救う術は、理論的には単純な事だと前から分かっているのだ。頭では理解しているはずなのに、心がいつまで経ってもついていかない。
リリーの話は意外であったと同時に、共感、安堵など様々な感情を名前から引き出した。腹が立ったと憤るリリーの気持ち、それが痛いほどよく分かる。セブルスと仲違いした当初は、悲しみが大きな塊となって心の中を塞いでいた。しかし近頃はそれが悲しみと怒りの半々であるかのようだ。マルシベールたちと話している所を見る度、苛立ちが抑えられない。セブルスが笑みを浮かべようものなら、拳を握りしめてしまう程だ。
ふと、別の記憶が脳裏をよぎった。グリフィンドールの4人と、叫びの屋敷でバタービールを飲んだあの日の事だ。 あの時、ポッターと一緒にいたかもしれないと疑惑を抱かれた時ー…セブルスも同じ気持ちだったのだろうか。自分が今抱いている気持ちに比べれば弱いものかもしれないが、それでも少なからずは…。
「おわ、わ」
目の前で発せられた素っ頓狂な声に、名前はハッと廊下へ意識を戻した。行き交う生徒たちのなか、奇しくもピーター・ぺティグリューが自分とぶつかりかけていたのだ。
「わ、ごめん」
名前は慌てて身を横にかわし、小太りの少年に道をあけた。ピーターは戸惑いがちに口をパクパクさせ、無言のまま名前の横を通り過ぎていったかのように見えた。
その少し不自然な態度が気になり、名前は無意識の内に彼を目で追った。ピーターは少し進んだところで止まり、振り返ってなぜか名前を見つめている。口を開いたかと思えば、躊躇いがちにすぐ閉じるを繰り返す彼に、名前は「どうしたの?」と問いかけた。
「あっ、えっ」
ピーターは周りをキョロキョロと見回した後、名前におずおずと近付いて小声で言った。
「僕って…君と話してもいいんだっけ?」
校内で大っぴらに話さない、という約束を気にしていたのだろう。もう過去の事だ。名前はため息まじりに、「うん、もういいよ…別に」と答えた。話したところで、今さら新たに生じる問題もないはずだ。ましてや相手はピーターである。彼相手には、自分は何の恨みも持っていない。
「よかった…実はかなり困ってるんだ、その、例のことで…」
ピーターは落ち着かない様子で両手の指を擦り合わせながら、伏し目がちに呟いた。廊下の真ん中で立ち止まっているせいで、後ろからやって来た別の生徒にぶつかりそうになる。名前は「ここじゃなんだから…」と、近くのベンチに移動しようとピーターに目配せした。
「はあ……」
ベンチに腰掛けるや否や、ピーターは憂鬱そうに深いため息をついた。彼が何に思い悩んでいるかは聞かずともすぐに分かった。とびきり優秀な友人についていけず、足を引っ張るような状況になっているのだろう。"例のこと"について。
「実は…ジェームズたちはもう、ほぼ出来かけてるんだ」
明確に何とは言わないまま、ピーターは話を進め始めた。
「ジェームズもシリウスも、自分が何になるか分かったんだよ。実際、変身できたんだ。今はその維持に苦戦してるけど…夏休み明けにはもう完璧にマスターしてるんだろうな」
ピーターは傍目から見ても明らかな程憔悴し切っていた。両手の親指を小刻みに揺らしては、ソワソワと落ち着きなく座っている。
「どうすればいいと思う?」
すがるような目を向けられ、名前は「えっと…」と言葉を詰まらせた。基本に関して言えば、1年前に教えた事が全てだ。応用に於いては自己理解が求められる。基本の段階で躓いているとすれば、動物もどきになる事はかなり難しいだろう。
「私が教えた理論とか、基礎の部分はクリアしてるの?」
「…一応、僕なりに初級の術は出来るようになったつもりなんだけど…」
そう言いながらピーターが鼻をすすったので、名前は彼が泣いているのではと驚いて顔を覗きこんだ。涙こそ流していないものの、ピーターは苦渋の表情を浮かべている。
「うーん…」
名前は悩みながら、失敗を招く原因をあれこれと頭の中に並べた。しかし正直困った相談だ。理論を理解した先で役立つものといえば、つまるところ直感しかない。魔法史やルーン文字のように、分かりやすく正解がある分野ではないのだ。そして過去の練習におけるピーターを思い出すに、彼がその直感を得るには相当な努力と時間を要するだろう。
「そうね…イメージできる動物が見つからないっていうのが、一番の原因なのかな…?」
「それが見つかりさえすれば、僕にも出来るかな?」
谷底で光を見出したかのように、ピーターの顔は一瞬だけ輝きを取り戻した。しかし名前が「私の場合はそうだったけど…」と自信なさげに答えるや否や、彼の眉と口元は再びガクンと下がってしまった。
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。ピーターのやる気を挫く事なく、なんとか上手いアドバイスをしてやれないだろうか。そう考えながら、名前はひたすら知恵を絞った。しかしなかなか良い対策が出てこない。どうしても、練習時に感じたピーターの見込みの薄さが脳裏を掠めてしまう。名前が罪悪感すら覚えたその時、「僕…」とピーターが弱々しく沈黙を破った。
「全然うまくいかないんだ…ああ、やっぱり僕なんかに出来っこないよ…練習だって、本当は今にも辞めたいんだ」
ピーターは込み上げる不安を抑え切れなくなったのか、早口で本音を吐露し始めた。
「学年トップのジェームズとシリウスが、この僕に同じ事を求めるなんて…そもそも間違ってると思うだろ」
シャツの裾で乱雑に目を擦りながら、ピーターは苦しそうに続けた。
「僕みたいな、出来ない奴の気持ちなんか…あの二人には一生分からないんだ……僕、別に動物もどきなんか、ならなくていい……叫びの屋敷で狼と一緒に遊ぶなんて、初めから僕は望んでないんだ」
膝に置いた拳をギュッと握り締め、ピーターは声を絞り出すようにして呟いた。
「怖いんだよ…でも断れない…友達だと思われなくなるのも、怖いんだ……」
目の前で落ち込むピーターは不憫そのものだった。この少年は"ポッターの腰巾着"と揶揄される一方で、毎日をプレッシャーと共に過ごしているのではないだろうか。ここで彼が言った事を否定すれば、それもまた彼を傷つけることになってしまう。名前は慎重に言葉を選びながら、肩を落として塞ぎ込むピーターに語りかけた。
「ピーターは…きっと自分が考えてる以上に、ジェームズたちに大事にされてるんだと思う」
嘘偽りない本心だった。彼らが直面し、乗り越えようとしている困難。それがどんなに複雑でも、四人のうち一人でも孤独になる事がないようにと、工夫を凝らし、努力し続けてきた。彼らをここまで成長させたのは、その絆の強さに他ならない。
「あの二人が遊びとか、自分の手柄にしたい思いで動物もどきを目指すって言うなら、私は絶対に手伝ったりしなかった」
叫びの屋敷での懐かしい日々が思い出される。名前は改めて胸を打たれるような気持ちになった。
「でも、彼らの目的は単に友達のためだった。大事な友達を独りにしたくないからって…」
縮こまって座るピーターを見つめながら、名前は正直な想いを口にした。
「私からすれば羨ましいくらい、ピーター、あなたもその"大事な友達"なのよ。彼らはあなたが大事だから、置いていくなんて端から頭にないだけ。練習が苦しいって伝えれば、きっと彼らも分かってくれると思う」
ピーターは言葉なく、小さく頷いた。二人の間に、彼が鼻をすする音だけが静かに響いた。
「まあ、伝え方が不器用っていうか、かなり強引でバカだからね」
そう付け足しながら、名前は腕を組んで視線を天井に移した。
「こっちの事情を分かってない感じ、ムカつく時もあるよね…。私は当たり前に、ムカつく時の方が多いけど…今も許せてない事がいっぱいあるし……ほんと、思い出すと腹立ってくる……」
私怨に呑まれかけた名前の横で、プッとピーターが可笑しそうに笑った。
「名前、ジェームズたちにほんとに怒ってる事があるんだね。すごい顔してる」
「ま、まあね」
ハッとして頬に手をあてながら、名前はピーターに向き直った。目尻にうっすら涙の跡は残っているものの、彼を覆い尽くしていた負の感情はどこかへ去ったようだ。ピーターの笑う顔を久しぶりに見て、名前は心の内で安堵した。
「あっそうだ」
名前はふと思い出して、内側が拡張された薄い鞄に手を伸ばした。ピーターの助けとなるものが、まだ手元にあったはずだ。名前は鞄の中に手を突っ込み、探し物を念じながら空間をかき分けた。直後、手のひらに吸い付くようにしてそれは現れた。考え得る全ての動物を記録した、いわばお手製の動物図鑑だ。
「これ!」
使い込まれたノートをピーターに手渡して、名前は簡単にその内容を説明した。
「私が変身に詰まった時、一通り動物を書き出してみたノートなの。この中の一つ一つをイメージしながら試して、ダメなら別の…って繰り返し挑戦してみるといいかも」
「わ、すごいな」
ノートをパラパラとめくりながら、ピーターが興奮気味に言った。
「動物ごとの特徴も詳しく書いてあるんだね。…キリン!?そんなの考えた事無かったな、でかすぎない?」
ピーターにつられて笑った後、名前はチクリと胸が痛むのを感じた。そのノートに記されたキリンは、夏休みに向かう汽車の中、セブルスがおふざけ半分で言い放ったアイデアだ。その後に続く象やらアルマジロやら、変わり種は大抵彼の発案だ。自分が変身した鷺さえも、最初に口にしたのはセブルスだったっけー。
「まあ、そういうことだから!」
目頭にじんわりと熱い波が押し寄せてくるのを感じ、名前は慌ててベンチから立ち上がった。
「それ貸してあげる。頑張ってね!ピーターならきっと出来るよ」
「あ、ありがとう」
突然忙しなくなった名前に戸惑いながらも、ピーターはノートを大事そうに抱えて感謝を述べた。
「思い切って君に話し掛けて良かったよ…本当にありがとう」
「うん、じゃあね」
名前は精一杯の笑顔を作りながら、逃げるようにしてその場を去った。こんな事で泣きそうになるなんて、どうかしている。名前は廊下を足早に進み、一刻も早く心が落ち着きますようにと、祈りながら図書館へと向かった。
「名前、大丈夫?」
夕食時の大広間、フォークに刺したままのポテトを黙って見つめ続ける名前を案じ、ミランダが静かに声をかけた。
「あ、う、うん」
彩りのない皿から顔を上げて、名前はミランダに向き直った。
「ごめん、ちょっと考え事してた…」
「あまり無理しないことよ」
ミランダは涼しい顔で紅茶をすすってから、上質そうなハンカチで口元を拭った。優雅な振る舞いとは裏腹に、その横にはOWL試験のための本がどっさりと積まれており、珍しく彼女に余裕が無い事を示している。
「大丈夫、OWLに追われてる人を更に心配させるような事はないから」
名前は空元気とともにポテトを頬張り、斜め前にある大皿へと手を伸ばした。しかし実際のところ、もうこれ以上食べたくはない腹加減だ。我ながら不器用な誤魔化し方をしてしまった、そう思いながら名前は申し訳程度の量を自分の皿によそった。
「はあ、本当に早く終わって欲しいものよ」
ため息まじりにこぼした後、ミランダが天井を見上げて言った。
「今日は満月なのね…ホグワーツで見る5年生最後の満月だわ」
今日がその日だとは知らず、名前はハッと天井に目を向けた。しかし魔法で描かれた空には無数の星たちこそあれ、満月は映っていない。ダンブルドアは敢えてここに月を置いていないのだろうか。
「今夜もきっと満月草が綺麗よ」
ピーターとの会話を思い出していた名前に向けて、ミランダがぼやいた。
「自然の中で過ごせば、少しはリラックス出来るかもね…まあ、今宵の私には無縁な話だけれど」
「ああ、これから天文学の試験だものね」
名前はミランダの横に置かれた本たちを改めてちらと見た。闇の魔術や変身術等の大型科目を土台にして、天文学の教科書が一番上に置かれている。
「湖のそばの満月草があるとこ…最近行ってないな」
「名前はお気楽に満月草に囲まれて夜空でも見上げてればいいわ」
やれやれという素振りで、ミランダは再び天井を仰いだ。
「私はその頃、壮大な宇宙を恨めしく思ってるかもしれないけど…」
来年の今頃に恐怖を覚えつつも、名前はミランダの言葉にふっと笑い、肘をついて天井の星を眺めた。
「うーん…気分転換に行ってみようかなあ」
「明日は私を待たずに朝食へ行ってね」
次第に席を立っていく周りの生徒にならい、ミランダが荷物をまとめ始めた。
「試験の内容によっては、昼まで寝てるかもしれないから」
この時期この時間に、校庭へと赴く者は稀なようで、名前は大衆の流れに逆らいながら夜風が吹く方へと進んで行った。空にはまだ僅かに明るさが残っている。宝石よりも美しい星々を散りばめた濃紺のキャンバスは、魔法の天井よりも更に幻想的な輝きを放っていた。
一人になった瞬間、数時間前の記憶が波のように押し寄せてくる。リリーの事、ピーターの事。そして自分自身の気持ち…。単純化できない複雑な感情を抱えながら、名前はそれらを振り切るようにひたすら歩みを進めた。満月がどこまでもついてくる。闇の中の道を照らしてくれる眩い光。しかしその一方で、自分を常に見張っている鋭い眼光のようにも感じられる。
湖の水面は静かだった。けたたましく鳴く鳥も、跳ねる魚も、悪戯に顔を出すマーピープルの子供もいない。夏の夜風は肌に心地よく、深呼吸すれば新鮮な酸素が肺いっぱいに拡がる。目的地の目印は、湖のほとりに茂る大きなシダの葉だ。ちょうどその辺りをフェアリーが光を散らしながら飛んでいる。名前は周囲を確認しながら奥へと進み、葉を静かにかき分け、その聖地のような場所へ足を踏み入れた。
「えっ…」
幻覚を見たのだと思った。名前は思わず漏れ出た声にハッとして口を塞ぎ、慌ててポケットから気配消しの石を取り出した。名前の視界に飛び込んできたのは、見渡す限りいっぱいの満月草と、あろう事か木の幹を背もたれにして座っているセブルスだった。
名前の足音に勘づいたのか、セブルスは手元の本から顔を上げ、シダの葉の方へ視線を向けた。名前は息を潜めながら石を力いっぱい握りしめ、これ以上物音を立てないようにと地面を足の指で掴む勢いで静止した。自分の意思に反して、心音はますます大きくなっていく。プレッシャーに足が震え出した頃、少し離れた所をフクロウが鳴きながら飛んでいった。フクロウの羽ばたきが生み出した風を受け、木々の葉が音を立てて揺れる。セブルスはそちらに注意を向けた後、再び読書へと姿勢を戻した。
まさかこんな場所で出くわすなんて。名前は前進も後退も出来ぬまま、ただひたすら石を包む手のひらに力を込め続けた。幸い目の前には背丈ほどの葉がまだ残されており、それを盾にして隠れることが出来ているはずだ。今ここで姿を見られれば、後をつけてきたのかと誤解されてしまう。名前は音を立てないよう細心の注意を払いながら、身を低くして草木の中に紛れた。葉の間から、少し遠くに腰掛けるセブルスの姿が見える。
ここは決して広く知られた休憩所ではない。ミランダが秘密裏に教えてくれた場所だ。しかしながらこの場所の存在をセブルスに教えたのは他でもない自分で、ここで偶然出くわす事も、思い返せば初めてではない。
過去に思いを馳せながら、名前は胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。どうしてあの頃のままでいられなかったのだろう。良き友人だったはずが、どうして今、こんな状況で隠れなければいけないのだろう。草むらから飛び出て彼を驚かせ、笑いながらその隣に座ることが、どうして今の自分には許されていないのだろうー。不意に滲み出した視界に、名前は慌てて目を擦った。うっかり声を立ててしまってはいけない。
すぐに立ち去るべきなのだろう。怪しまれる事なく、平穏な内に城へと帰ることだ。頭の中で理性が必死に囁く。名前は腰を落としたまま、ゆっくりと半歩後ろへ下がった。体の大部分は元来た道を引き返す準備が出来ている。しかし目だけが、その情景を一時も逃すまいと従わずに和を乱している。セブルスが何の本を読んでいるかは分からないし、知りたくもない。だが本へとまっすぐに向けられた彼の顔は、この場所が成せる技なのか、この一年名前が見ることの無かった穏やかな表情を浮かべていた 。
緊張の取れたその柔らかな顔つきが、自分が隣に腰掛けた時に浮かべてくれるものならばどれ程幸せだっただろう。今この場にこうして居合わせた事は、ただの偶然なのか、それとも意味があるものなのか。草木のざわめきと共に、初夏の夜風が強く吹き、春の名残りの花びらが何処からか名前の足元にやって来た。名前はそれを拾い上げ、呪文を唱える代わりにそっと息を吹きかけた。花びらは白い蝶となって、月光の中をふわふわと飛んでいく。
自分の存在を示したい訳では無い。今となっては会話を望めない身だとも分かっている。ただ、少しでも傍に近付く事が出来たら。たった一瞬でも、今この場で寄り添う事が出来るのなら。
蝶は羽を煌めかせ、満月草の上を踊るように寄り道しながら進んでいった。自由なひとときを楽しんだ後、美しい光は夜風と戯れるのをやめ、セブルスが読む本の先にふわりと止まった。
魔法使いの手がそれを拒絶すれば、魔法はたちまち溶けてしまうだろう。しかし彼はその小さな蝶を払わなかった。気にも留めない様子で、ひたすら本に書かれた文字を目で追っている。名前は感情を意識する間もないまま、その様子をただ見つめていた。やがてその文字の羅列は終わりを迎え、ページをめくる瞬間がやって来る。
セブルスは本に止まる蝶に指を差し出し、細い脚を爪の先に乗せた。蝶が本から彼の指へと止まり木を移す。セブルスは指をそっと持ち上げ、もう片方の手で器用にページをめくった。紙の擦れる音の後、周囲は再び静寂に包まれた。
彼は蝶に見とれたわけでも、親しげな表情を向けたわけでもない。しかし明らかな優しさと共に、その存在を認め、その場に共に居る事を許した。
彼を嫌いになる事など、本当に出来るのだろうか。
名前は思い出を閉じ込めるように目を瞑り、そのまま後ろを向いて静かに歩き始めた。月に照らされた満月草の眩い光が遠ざかっていく。蝶が指先から旅立った時、初めてセブルスは顔を上げ、その去り姿を目で追った。
ホグワーツで過ごす4年目の日々は、それまでとは明らかに、何かが決定的に違ってしまっていた。ハロウィンやクリスマス、ホグズミード。心躍る出来事はいくつも用意されていたはずなのに、そのどれもが透明な霧となって体を通り抜けてしまったかのようだ。この3年間、毎日を喜びや興奮と共に過ごしてきた。悲しむことや、悩みに苦しむことがあっても、それらはどれも一時的なものだったはずだ。落とし穴にはまりかけたとしても、そこから地底に突き落とされるような事は一度として無かった。
ホグワーツに入学してからの輝くような日々は、その根底に揺るぎない希望と励ましがあったからこそ、享受できていた日常なのだ。
たった一人の気持ちを失うことで、こんなにも世界が変わってしまうとは。
6月の金曜日。城を覆い尽くしていた雪はいつの間にか綺麗に溶け、暖かな陽光の下、草木がぐんと伸びをする季節になった。柱に囲まれた回廊から校庭へ抜けて歩みを進めると、踏みしめる雑草の柔らかさに足裏が驚くのを感じる。数ヶ月前まで枯葉と雪に覆われていた地面が緑の息を吹き返し、解放された喜びを叫んでいるかのようだ。しかし多くの生き物にとって希望となるその生命力も、今の名前には歩く者の生気を吸い取る姑息なクリーチャーのようにすら感じられた。
肩から下げていた薄い鞄が太ももでパンと跳ね返り、名前はハッとして沈みかけていた顔を上げた。また谷底に自ら入り込んでいくところだった。今は一人で寝に就く夜ではない。友人と過ごす約束をした明るい放課後には、それにふさわしい気持ちであらねばならない。
遠くに広がる湖のほとりは、多くの生徒で賑わっているようだ。湖面に反射する太陽が眩しい。溢れすぎとも思える光に目を細めながら、名前は十数メートル先に佇む友人にピントを合わせた。
「名前」
湖を背にして、丸太のベンチに腰掛けたリリーが手を振って居場所を示す。背景の緑と赤毛のコントラストが、さながら絵本のように美しく映えている。
「お疲れさま」
鞄を肩から外しながら、名前はリリーの隣に腰を下ろした。名前が小さな鞄の底から、その5倍はある大きな書物を取り出すと、リリーは「わあ」と驚いて声を上げた。
「ずいぶん器用な収納術ねえ」
リリーは名前の薄い鞄を手にして、中をまじまじと覗いた。その翠緑の瞳には鞄の裏地だけが映っていることだろう。
「ミランダが細工してくれたの」
苦手な教科の重みを両手にずっしりと感じながら、存在を忘れるほど軽いその鞄に名前は改めて感謝した。
「その時必要なものが取り出せるんだって。実際に所有してる必要があるけど…すごい便利だよ」
「鞄自体がアクシオになってるってことね」
リリーは興味深そうに鞄を持ち上げたり裏返したりして、ふんふんと頷いてから、遠慮がちに口を開いた。
「いいなあ…その魔法、私も教えてもらえるかしら」
「もちろん、聞けばいつでも教えてくれると思う」
「本当?あっ…でも…」
キラキラと顔を輝かせてから、リリーは何か深刻な事に気付いたというように口に手を当てた。
「ミランダって今OWL試験で大変な時じゃない?グリフィンドールの5年生、昨日も気絶した人がいたって」
「あーうん、全然、大丈夫そうだよ」
そう答えながら、名前は夕食の場でミランダが口にしたジョークを思い出した。
「今つけてる石を一つでも外したら発狂するかもって言ってたけど」
いつも以上にジャラジャラと石を身につけている最近のミランダを目に浮かべて、二人はケタケタと笑った。
「ああ、やっぱり増やしてたのね…見間違いじゃなかった」
リリーは余程面白おかしく合点がいったようで、ふふっと笑いを引きずっていた。
「彼女でもテストで不安になる事なんてあるんだ…なんか、安心するわ」
「ね、正直意外だけど。一回でいいから石を全部外してみたいよね」
リリーにつられてニヤニヤした表情を浮かべたまま、名前は言った。しかし実際のところ、面白半分、真面目半分である。ホグワーツで最も時間を共にしている親友の真の素顔を、自分はまだ知らない気がするのだ。
名前とリリーは共通の友人に対する下らない予想を出し合い、一通り笑い合ってから、「さて…」と目の前の課題に手を付け始めた。ローブの色や眠る場所が違っても、学期末試験だけは全員に等しく訪れる。気が滅入るようなこの期間、せめて太陽の下で過ごしたいという事で、リリーが今日この場を選んだのだ。
ノートにさらさらと書き込まれるリリーの文字を目で追いながら、名前はふと、自分は何かを彼女に返せているのだろうかと疑問を抱いた。自分に分かる事の中で、リリーが理解できていないものは何一つ無いような気がした。特別だ、才能だともてはやされた動物もどきさえ、リリーならあっという間に会得してしまうかもしれない。その出自への偏見がいかに理に適わない事であるか、今や学年屈指の優秀な魔女となった彼女自身が証明している。
太陽が山々の間まで傾き、周囲がオレンジ色の光に包まれ始めた頃、リリーが「ねえ、名前…」と躊躇いがちに口を開いた。
「セブルスの事、まだ好き?」
突然の予期せぬ問いかけに、名前はドクッと心臓が波打つのを感じた。答えはすぐに口をついては出なかった。唇は開いたものの、喉の奥で声が詰まるような感覚に襲われる。薄い空気を吸い込み、唇を縛り直してから、名前は心を絞り切るような思いで答えた。
「…わからない……」
美しい髪を膝元になびかせながら、リリーは名前の表情を覗き込むように首を傾けていた。その返答が本心である事をすぐに悟ったのだろう。リリーは地面に視線を落とし、「そう……そうよね…」と呟いた。その声には、悲しみでも失望でも無い、ただ安堵のみが込められているように名前は感じた。
「私と出会った頃のセブとも…私たち3人が仲良くなった頃とも、全く違う人になってしまった気がする…」
リリーは重たい表情を浮かべながら、足元の土をザッと横に引きならした。何かを塗りつぶすようなその所作を見つめながら、名前はセブルスの事を思い返していた。彼はあえて自分を視線から外し続けているのだろう、この半年は目が合う瞬間さえ無かった。最後に話したのは、もう随分と前のことだー。
「それでも、リリーはまだセブルスと話が出来るでしょ」
沈んでいるリリーを励まそうとしたつもりが、いざ言葉を発した途端、名前はそれが自分の心に渦巻く僻みから来るものだと気付いてしまった。
「リリーは私と違って…無視されないし…」
醜い感情に押し潰されそうになりながら、名前は消え入るように呟いた。別にここまで言う必要は無かっただろうに。恥じらいと後悔がもたらす居心地の悪さに、名前は足の指をぎゅっと縮こまらせた。
「それが違うのよ!」
顔を上げ、キッとした表情を向けてきたリリーに、名前は思わず面食らった。予想と全く違う反応だったのだ。リリーは地面に視線を落としたまま、「それはそうだけど…」とでも返すのだろうと思っていた。
「私だって最近セブに避けられてるの。一昨日だって、私が前から歩いて来てるの分かってたくせに…逃げるように去っていったわ」
憤りを抑えられないような声色で、リリーは突き放すように言った。
「その時は彼、マルシベールと一緒にいたわ」
「そうなんだ…」
そう呟きながら、名前は驚きながらも、少しほっとする自分がいる事に気付いた。この安堵感こそが、"まだ好きかどうか"に対する本当の答えなのではないかー…ざわつく胸の内を否定したい一心で、名前は「リリーはその時どうしたの?」と目の前の話し相手に注意を傾けた。
「どうもしなかったわ。もう腹が立っちゃって」
リリーはため息をつきながら、頭を抱えるように額に手をあてた。
「あからさまに避けてる態度だったのよ。私も最後にまともに話したのっていつかしら…思い出せなくなってきた…」
意外な事実に、名前はかける言葉が見つからなかった。突如訪れた沈黙にリリーも耐えかねたのか、彼女は大きく息を吐いてから、すくっと立ち上がって荷物をまとめ始めた。
「ごめんね、もうセブの話はやめましょ。そろそろ日が暮れてきそうね」
夕食までまだ少し時間がある。校庭から城へ入ったところでリリーと別れ、名前はひとり図書館へと向かっていた。寮の談話室、大広間、教室や廊下にいたる全ての場所で、未だにセブルスの姿を無意識に探してしまう。自分に心底呆れる程だ。リリーに吐露した思いが、予感とは逆方向に振り切れてくれれば良いのに。いっそはっきり嫌いになる事が出来たら…この窮屈な胸の内も、さぞすっきりするに違いない。今の自分を救う術は、理論的には単純な事だと前から分かっているのだ。頭では理解しているはずなのに、心がいつまで経ってもついていかない。
リリーの話は意外であったと同時に、共感、安堵など様々な感情を名前から引き出した。腹が立ったと憤るリリーの気持ち、それが痛いほどよく分かる。セブルスと仲違いした当初は、悲しみが大きな塊となって心の中を塞いでいた。しかし近頃はそれが悲しみと怒りの半々であるかのようだ。マルシベールたちと話している所を見る度、苛立ちが抑えられない。セブルスが笑みを浮かべようものなら、拳を握りしめてしまう程だ。
ふと、別の記憶が脳裏をよぎった。グリフィンドールの4人と、叫びの屋敷でバタービールを飲んだあの日の事だ。 あの時、ポッターと一緒にいたかもしれないと疑惑を抱かれた時ー…セブルスも同じ気持ちだったのだろうか。自分が今抱いている気持ちに比べれば弱いものかもしれないが、それでも少なからずは…。
「おわ、わ」
目の前で発せられた素っ頓狂な声に、名前はハッと廊下へ意識を戻した。行き交う生徒たちのなか、奇しくもピーター・ぺティグリューが自分とぶつかりかけていたのだ。
「わ、ごめん」
名前は慌てて身を横にかわし、小太りの少年に道をあけた。ピーターは戸惑いがちに口をパクパクさせ、無言のまま名前の横を通り過ぎていったかのように見えた。
その少し不自然な態度が気になり、名前は無意識の内に彼を目で追った。ピーターは少し進んだところで止まり、振り返ってなぜか名前を見つめている。口を開いたかと思えば、躊躇いがちにすぐ閉じるを繰り返す彼に、名前は「どうしたの?」と問いかけた。
「あっ、えっ」
ピーターは周りをキョロキョロと見回した後、名前におずおずと近付いて小声で言った。
「僕って…君と話してもいいんだっけ?」
校内で大っぴらに話さない、という約束を気にしていたのだろう。もう過去の事だ。名前はため息まじりに、「うん、もういいよ…別に」と答えた。話したところで、今さら新たに生じる問題もないはずだ。ましてや相手はピーターである。彼相手には、自分は何の恨みも持っていない。
「よかった…実はかなり困ってるんだ、その、例のことで…」
ピーターは落ち着かない様子で両手の指を擦り合わせながら、伏し目がちに呟いた。廊下の真ん中で立ち止まっているせいで、後ろからやって来た別の生徒にぶつかりそうになる。名前は「ここじゃなんだから…」と、近くのベンチに移動しようとピーターに目配せした。
「はあ……」
ベンチに腰掛けるや否や、ピーターは憂鬱そうに深いため息をついた。彼が何に思い悩んでいるかは聞かずともすぐに分かった。とびきり優秀な友人についていけず、足を引っ張るような状況になっているのだろう。"例のこと"について。
「実は…ジェームズたちはもう、ほぼ出来かけてるんだ」
明確に何とは言わないまま、ピーターは話を進め始めた。
「ジェームズもシリウスも、自分が何になるか分かったんだよ。実際、変身できたんだ。今はその維持に苦戦してるけど…夏休み明けにはもう完璧にマスターしてるんだろうな」
ピーターは傍目から見ても明らかな程憔悴し切っていた。両手の親指を小刻みに揺らしては、ソワソワと落ち着きなく座っている。
「どうすればいいと思う?」
すがるような目を向けられ、名前は「えっと…」と言葉を詰まらせた。基本に関して言えば、1年前に教えた事が全てだ。応用に於いては自己理解が求められる。基本の段階で躓いているとすれば、動物もどきになる事はかなり難しいだろう。
「私が教えた理論とか、基礎の部分はクリアしてるの?」
「…一応、僕なりに初級の術は出来るようになったつもりなんだけど…」
そう言いながらピーターが鼻をすすったので、名前は彼が泣いているのではと驚いて顔を覗きこんだ。涙こそ流していないものの、ピーターは苦渋の表情を浮かべている。
「うーん…」
名前は悩みながら、失敗を招く原因をあれこれと頭の中に並べた。しかし正直困った相談だ。理論を理解した先で役立つものといえば、つまるところ直感しかない。魔法史やルーン文字のように、分かりやすく正解がある分野ではないのだ。そして過去の練習におけるピーターを思い出すに、彼がその直感を得るには相当な努力と時間を要するだろう。
「そうね…イメージできる動物が見つからないっていうのが、一番の原因なのかな…?」
「それが見つかりさえすれば、僕にも出来るかな?」
谷底で光を見出したかのように、ピーターの顔は一瞬だけ輝きを取り戻した。しかし名前が「私の場合はそうだったけど…」と自信なさげに答えるや否や、彼の眉と口元は再びガクンと下がってしまった。
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。ピーターのやる気を挫く事なく、なんとか上手いアドバイスをしてやれないだろうか。そう考えながら、名前はひたすら知恵を絞った。しかしなかなか良い対策が出てこない。どうしても、練習時に感じたピーターの見込みの薄さが脳裏を掠めてしまう。名前が罪悪感すら覚えたその時、「僕…」とピーターが弱々しく沈黙を破った。
「全然うまくいかないんだ…ああ、やっぱり僕なんかに出来っこないよ…練習だって、本当は今にも辞めたいんだ」
ピーターは込み上げる不安を抑え切れなくなったのか、早口で本音を吐露し始めた。
「学年トップのジェームズとシリウスが、この僕に同じ事を求めるなんて…そもそも間違ってると思うだろ」
シャツの裾で乱雑に目を擦りながら、ピーターは苦しそうに続けた。
「僕みたいな、出来ない奴の気持ちなんか…あの二人には一生分からないんだ……僕、別に動物もどきなんか、ならなくていい……叫びの屋敷で狼と一緒に遊ぶなんて、初めから僕は望んでないんだ」
膝に置いた拳をギュッと握り締め、ピーターは声を絞り出すようにして呟いた。
「怖いんだよ…でも断れない…友達だと思われなくなるのも、怖いんだ……」
目の前で落ち込むピーターは不憫そのものだった。この少年は"ポッターの腰巾着"と揶揄される一方で、毎日をプレッシャーと共に過ごしているのではないだろうか。ここで彼が言った事を否定すれば、それもまた彼を傷つけることになってしまう。名前は慎重に言葉を選びながら、肩を落として塞ぎ込むピーターに語りかけた。
「ピーターは…きっと自分が考えてる以上に、ジェームズたちに大事にされてるんだと思う」
嘘偽りない本心だった。彼らが直面し、乗り越えようとしている困難。それがどんなに複雑でも、四人のうち一人でも孤独になる事がないようにと、工夫を凝らし、努力し続けてきた。彼らをここまで成長させたのは、その絆の強さに他ならない。
「あの二人が遊びとか、自分の手柄にしたい思いで動物もどきを目指すって言うなら、私は絶対に手伝ったりしなかった」
叫びの屋敷での懐かしい日々が思い出される。名前は改めて胸を打たれるような気持ちになった。
「でも、彼らの目的は単に友達のためだった。大事な友達を独りにしたくないからって…」
縮こまって座るピーターを見つめながら、名前は正直な想いを口にした。
「私からすれば羨ましいくらい、ピーター、あなたもその"大事な友達"なのよ。彼らはあなたが大事だから、置いていくなんて端から頭にないだけ。練習が苦しいって伝えれば、きっと彼らも分かってくれると思う」
ピーターは言葉なく、小さく頷いた。二人の間に、彼が鼻をすする音だけが静かに響いた。
「まあ、伝え方が不器用っていうか、かなり強引でバカだからね」
そう付け足しながら、名前は腕を組んで視線を天井に移した。
「こっちの事情を分かってない感じ、ムカつく時もあるよね…。私は当たり前に、ムカつく時の方が多いけど…今も許せてない事がいっぱいあるし……ほんと、思い出すと腹立ってくる……」
私怨に呑まれかけた名前の横で、プッとピーターが可笑しそうに笑った。
「名前、ジェームズたちにほんとに怒ってる事があるんだね。すごい顔してる」
「ま、まあね」
ハッとして頬に手をあてながら、名前はピーターに向き直った。目尻にうっすら涙の跡は残っているものの、彼を覆い尽くしていた負の感情はどこかへ去ったようだ。ピーターの笑う顔を久しぶりに見て、名前は心の内で安堵した。
「あっそうだ」
名前はふと思い出して、内側が拡張された薄い鞄に手を伸ばした。ピーターの助けとなるものが、まだ手元にあったはずだ。名前は鞄の中に手を突っ込み、探し物を念じながら空間をかき分けた。直後、手のひらに吸い付くようにしてそれは現れた。考え得る全ての動物を記録した、いわばお手製の動物図鑑だ。
「これ!」
使い込まれたノートをピーターに手渡して、名前は簡単にその内容を説明した。
「私が変身に詰まった時、一通り動物を書き出してみたノートなの。この中の一つ一つをイメージしながら試して、ダメなら別の…って繰り返し挑戦してみるといいかも」
「わ、すごいな」
ノートをパラパラとめくりながら、ピーターが興奮気味に言った。
「動物ごとの特徴も詳しく書いてあるんだね。…キリン!?そんなの考えた事無かったな、でかすぎない?」
ピーターにつられて笑った後、名前はチクリと胸が痛むのを感じた。そのノートに記されたキリンは、夏休みに向かう汽車の中、セブルスがおふざけ半分で言い放ったアイデアだ。その後に続く象やらアルマジロやら、変わり種は大抵彼の発案だ。自分が変身した鷺さえも、最初に口にしたのはセブルスだったっけー。
「まあ、そういうことだから!」
目頭にじんわりと熱い波が押し寄せてくるのを感じ、名前は慌ててベンチから立ち上がった。
「それ貸してあげる。頑張ってね!ピーターならきっと出来るよ」
「あ、ありがとう」
突然忙しなくなった名前に戸惑いながらも、ピーターはノートを大事そうに抱えて感謝を述べた。
「思い切って君に話し掛けて良かったよ…本当にありがとう」
「うん、じゃあね」
名前は精一杯の笑顔を作りながら、逃げるようにしてその場を去った。こんな事で泣きそうになるなんて、どうかしている。名前は廊下を足早に進み、一刻も早く心が落ち着きますようにと、祈りながら図書館へと向かった。
「名前、大丈夫?」
夕食時の大広間、フォークに刺したままのポテトを黙って見つめ続ける名前を案じ、ミランダが静かに声をかけた。
「あ、う、うん」
彩りのない皿から顔を上げて、名前はミランダに向き直った。
「ごめん、ちょっと考え事してた…」
「あまり無理しないことよ」
ミランダは涼しい顔で紅茶をすすってから、上質そうなハンカチで口元を拭った。優雅な振る舞いとは裏腹に、その横にはOWL試験のための本がどっさりと積まれており、珍しく彼女に余裕が無い事を示している。
「大丈夫、OWLに追われてる人を更に心配させるような事はないから」
名前は空元気とともにポテトを頬張り、斜め前にある大皿へと手を伸ばした。しかし実際のところ、もうこれ以上食べたくはない腹加減だ。我ながら不器用な誤魔化し方をしてしまった、そう思いながら名前は申し訳程度の量を自分の皿によそった。
「はあ、本当に早く終わって欲しいものよ」
ため息まじりにこぼした後、ミランダが天井を見上げて言った。
「今日は満月なのね…ホグワーツで見る5年生最後の満月だわ」
今日がその日だとは知らず、名前はハッと天井に目を向けた。しかし魔法で描かれた空には無数の星たちこそあれ、満月は映っていない。ダンブルドアは敢えてここに月を置いていないのだろうか。
「今夜もきっと満月草が綺麗よ」
ピーターとの会話を思い出していた名前に向けて、ミランダがぼやいた。
「自然の中で過ごせば、少しはリラックス出来るかもね…まあ、今宵の私には無縁な話だけれど」
「ああ、これから天文学の試験だものね」
名前はミランダの横に置かれた本たちを改めてちらと見た。闇の魔術や変身術等の大型科目を土台にして、天文学の教科書が一番上に置かれている。
「湖のそばの満月草があるとこ…最近行ってないな」
「名前はお気楽に満月草に囲まれて夜空でも見上げてればいいわ」
やれやれという素振りで、ミランダは再び天井を仰いだ。
「私はその頃、壮大な宇宙を恨めしく思ってるかもしれないけど…」
来年の今頃に恐怖を覚えつつも、名前はミランダの言葉にふっと笑い、肘をついて天井の星を眺めた。
「うーん…気分転換に行ってみようかなあ」
「明日は私を待たずに朝食へ行ってね」
次第に席を立っていく周りの生徒にならい、ミランダが荷物をまとめ始めた。
「試験の内容によっては、昼まで寝てるかもしれないから」
この時期この時間に、校庭へと赴く者は稀なようで、名前は大衆の流れに逆らいながら夜風が吹く方へと進んで行った。空にはまだ僅かに明るさが残っている。宝石よりも美しい星々を散りばめた濃紺のキャンバスは、魔法の天井よりも更に幻想的な輝きを放っていた。
一人になった瞬間、数時間前の記憶が波のように押し寄せてくる。リリーの事、ピーターの事。そして自分自身の気持ち…。単純化できない複雑な感情を抱えながら、名前はそれらを振り切るようにひたすら歩みを進めた。満月がどこまでもついてくる。闇の中の道を照らしてくれる眩い光。しかしその一方で、自分を常に見張っている鋭い眼光のようにも感じられる。
湖の水面は静かだった。けたたましく鳴く鳥も、跳ねる魚も、悪戯に顔を出すマーピープルの子供もいない。夏の夜風は肌に心地よく、深呼吸すれば新鮮な酸素が肺いっぱいに拡がる。目的地の目印は、湖のほとりに茂る大きなシダの葉だ。ちょうどその辺りをフェアリーが光を散らしながら飛んでいる。名前は周囲を確認しながら奥へと進み、葉を静かにかき分け、その聖地のような場所へ足を踏み入れた。
「えっ…」
幻覚を見たのだと思った。名前は思わず漏れ出た声にハッとして口を塞ぎ、慌ててポケットから気配消しの石を取り出した。名前の視界に飛び込んできたのは、見渡す限りいっぱいの満月草と、あろう事か木の幹を背もたれにして座っているセブルスだった。
名前の足音に勘づいたのか、セブルスは手元の本から顔を上げ、シダの葉の方へ視線を向けた。名前は息を潜めながら石を力いっぱい握りしめ、これ以上物音を立てないようにと地面を足の指で掴む勢いで静止した。自分の意思に反して、心音はますます大きくなっていく。プレッシャーに足が震え出した頃、少し離れた所をフクロウが鳴きながら飛んでいった。フクロウの羽ばたきが生み出した風を受け、木々の葉が音を立てて揺れる。セブルスはそちらに注意を向けた後、再び読書へと姿勢を戻した。
まさかこんな場所で出くわすなんて。名前は前進も後退も出来ぬまま、ただひたすら石を包む手のひらに力を込め続けた。幸い目の前には背丈ほどの葉がまだ残されており、それを盾にして隠れることが出来ているはずだ。今ここで姿を見られれば、後をつけてきたのかと誤解されてしまう。名前は音を立てないよう細心の注意を払いながら、身を低くして草木の中に紛れた。葉の間から、少し遠くに腰掛けるセブルスの姿が見える。
ここは決して広く知られた休憩所ではない。ミランダが秘密裏に教えてくれた場所だ。しかしながらこの場所の存在をセブルスに教えたのは他でもない自分で、ここで偶然出くわす事も、思い返せば初めてではない。
過去に思いを馳せながら、名前は胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。どうしてあの頃のままでいられなかったのだろう。良き友人だったはずが、どうして今、こんな状況で隠れなければいけないのだろう。草むらから飛び出て彼を驚かせ、笑いながらその隣に座ることが、どうして今の自分には許されていないのだろうー。不意に滲み出した視界に、名前は慌てて目を擦った。うっかり声を立ててしまってはいけない。
すぐに立ち去るべきなのだろう。怪しまれる事なく、平穏な内に城へと帰ることだ。頭の中で理性が必死に囁く。名前は腰を落としたまま、ゆっくりと半歩後ろへ下がった。体の大部分は元来た道を引き返す準備が出来ている。しかし目だけが、その情景を一時も逃すまいと従わずに和を乱している。セブルスが何の本を読んでいるかは分からないし、知りたくもない。だが本へとまっすぐに向けられた彼の顔は、この場所が成せる技なのか、この一年名前が見ることの無かった穏やかな表情を浮かべていた 。
緊張の取れたその柔らかな顔つきが、自分が隣に腰掛けた時に浮かべてくれるものならばどれ程幸せだっただろう。今この場にこうして居合わせた事は、ただの偶然なのか、それとも意味があるものなのか。草木のざわめきと共に、初夏の夜風が強く吹き、春の名残りの花びらが何処からか名前の足元にやって来た。名前はそれを拾い上げ、呪文を唱える代わりにそっと息を吹きかけた。花びらは白い蝶となって、月光の中をふわふわと飛んでいく。
自分の存在を示したい訳では無い。今となっては会話を望めない身だとも分かっている。ただ、少しでも傍に近付く事が出来たら。たった一瞬でも、今この場で寄り添う事が出来るのなら。
蝶は羽を煌めかせ、満月草の上を踊るように寄り道しながら進んでいった。自由なひとときを楽しんだ後、美しい光は夜風と戯れるのをやめ、セブルスが読む本の先にふわりと止まった。
魔法使いの手がそれを拒絶すれば、魔法はたちまち溶けてしまうだろう。しかし彼はその小さな蝶を払わなかった。気にも留めない様子で、ひたすら本に書かれた文字を目で追っている。名前は感情を意識する間もないまま、その様子をただ見つめていた。やがてその文字の羅列は終わりを迎え、ページをめくる瞬間がやって来る。
セブルスは本に止まる蝶に指を差し出し、細い脚を爪の先に乗せた。蝶が本から彼の指へと止まり木を移す。セブルスは指をそっと持ち上げ、もう片方の手で器用にページをめくった。紙の擦れる音の後、周囲は再び静寂に包まれた。
彼は蝶に見とれたわけでも、親しげな表情を向けたわけでもない。しかし明らかな優しさと共に、その存在を認め、その場に共に居る事を許した。
彼を嫌いになる事など、本当に出来るのだろうか。
名前は思い出を閉じ込めるように目を瞑り、そのまま後ろを向いて静かに歩き始めた。月に照らされた満月草の眩い光が遠ざかっていく。蝶が指先から旅立った時、初めてセブルスは顔を上げ、その去り姿を目で追った。