第一部
名前変換
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横たわる体がずしりと重い。起き上がりたくない。このままずっと、闇の中で目を瞑ったまま閉じこもっていたい。いつまでも続くように思えた沈黙は次第に破られ、てのひらで覆った瞼には薄ら明かりが差し込んでくる。朝が来たのだ。
朝の喧騒は否応なしに名前の意識を闇の底から引き上げていく。指に滴った生温かいものが自分の涙であることに気付くまで、名前の頭はそれまでの何もかもを忘れようとしていた。うっすらと目を開けて、見慣れた天井が視界に飛び込んできた瞬間、昨夜起きた事は夢では無かったのだと記憶が揺さぶり起こしてくる。鉛を飲み込んだような感覚とともに、頬にまた涙がつたった。名前は"太陽の石"に手を伸ばすことも無く、天蓋のカーテンを閉めたまま、周囲の話し声が次第に遠のいていくのをひたすら待ち続けた。
数十時間もの時が経ったように感じた。自分を包む空間は静まり返り、昼か夜かも分からない妙な薄暗さが再び訪れる。かつては恐ろしさすら抱いていたこの闇に、よもや救われる気持ちになるとは。名前は横たわったまま身動きひとつせず、ただ目の前にある柄のないカーテン生地を見つめていた。眼には一切の力が入らず、頭は締め付けられるように痛む。涙も最早枯れ果ててしまった。しかし干からびた心をよそに、指の先にはまだしっかりと血が流れている。
静寂が耳をつんざく感覚に耐えきれなくなった頃、名前はとうとう身を起こした。ベッドに腰掛けた状態でぼんやりと足元を見る。目に入る光景すべてがぐにゃりと曲がっているようで、思わず吐き気がした。今が何時なのかー…知りたいようで、知りたくない。名前は力なく立ち上がり、カーテンから顔の半分だけを覗かせた。壁にかかった時計は今が2限目の授業中である事を知らせている。遠い世界の出来事かのように感じられるその時間は、名前の願いとは裏腹に現実が進み続けていることを意味していた。
頭に酸素が行き渡るにつれ、次第に名前の思考や不安は形を帯びて具体的なものとなっていった。リーマスが人狼である事を、セブルスはマルシベールたちに話しただろうか。彼らだけではない。すべてのスリザリン生が朝のうちに知ってしまった可能性だってある。もしかするともう学校中に噂は広まっているのかもしれない。逃れようのない嫌な予感に、名前の心臓は忙しなく脈打ち始めた。これまで人狼である事を知られながら、太陽の下を堂々と歩けた魔法使いがいただろうか。秘密を隠しながら生きる事ですら、あんなにも不便で窮屈だというのに。
名前は髪も整えぬまま、ローブだけを羽織って寝室を出た。身につけている服は上から下まで全て昨日と同じものだが、今はそんな些細な事など気にしていられない。たとえ拗れきった現状に希望が見えないとしても、泣いているだけでは何も変わらないのだ。この現実で何が起ころうとも、自分にはそれを受け止める義務がある。
名前は足早に地下を後にし、日が差し込む上階の医務室へと向かった。それぞれの教室から呪文を唱える声が聞こえる。壁の先の騒ぎ声を耳にしながら歩くがらんどうの廊下は何とも不思議な空間だった。壁越しには沢山の生徒が存在しているはずなのに、まるで世界には自分一人しかいないような気持ちになる。夜中にこっそり抜け出す廊下とは全く違う光景だ。ゴースト一体通らないその広い廊下は、名前が今まで感じたことの無い孤独をひっそりと語りかけてくるかのようだった。
その扉が大きく開放されていなければ気付かず通り過ぎてしまったであろう程、昼間の医務室は静かだった。扉越しに恐る恐る顔を覗かせると、薬棚の前で道具を整理していたマダム・ポンフリーがすぐにこちらを振り返る。名前が口を開く前にポンフリーは扉前にやって来て、少し怪訝そうな顔で言った。
「元気爆発薬ですか?」
授業中に抜け出して来たにしては、目立つ外傷もなく不自然に思われたのだろう。名前は「すみません、違うんです」と咄嗟に断り、不審そうに自分の顔を覗き込むポンフリーにおずおずとたずねた。
「あの…リーマス・ルーピンはいませんか?私、彼の友人なんです」
医務室に見舞いに来ている時点で友人であることは明らかだ。しかし自分が纏うローブの裏地色を見て、名前は無意識のうちに、自分でも虚しくなるような弁明をしてしまっていた。
マダム・ポンフリーの顔つきが険しくなった瞬間を名前は見逃さなかった。ポンフリーはしばし沈黙を置いた後、「お名前は?」と名前にたずねた。
「名前・苗字です」
ふむ、と数秒考え込んでから、ポンフリーは部屋の後方に視線を向け、名前に少し待つよう言い残して奥へと歩いて行った。
それから一分も経たずうちに彼女は扉前に戻り、いくぶん不安そうな顔で名前を見た後、「一番奥のベッドですよ」とひっそり囁いた。
クィディッチの本格シーズンはまだ始まっていない。そのため医務室のベッドはほとんど空いていた。何より今は授業中だ、自分以外見舞いに来る者もいない。やっかいな呪いを受けてしまったと思われる数人の前を通り過ぎ、名前はカーテンで仕切られた最奥のベッドの前で立ち止まった。
「……リーマス?」
自分でも情けなくなるほど震えた声に、名前は思わず拳を握りしめた。しかしカーテンの奥から返ってきた声は名前の想像よりもずっと明るく、予期せぬ調子に面食らっている1秒の間に、目の前のカーテンがシャッと開いた。
「名前!どうしたの?まだ授業中だろう?」
ベッドから身を起こしたリーマスの姿に、名前は戸惑いながらもほっと安堵した。傷の処置は大方終わったのだろう、いつもの彼とほとんど変わりないようだ。顔には疲れがにじむものの、リーマスの瞳はいくらか輝いて見えた。自分が身構えていた最悪の事態は起きていないのか、それともまだ本人の耳に届いていないだけなのかー。
「大丈夫?僕より顔色が悪いみたいだけど」
その問いかけに名前はハッとして、「大丈夫!」と目を擦った。一睡もできずに泣き明かしていたなど、誰にも悟られたくない。名前は目周りを抑えながら、「ちょっと寝不足で…」と必死に笑顔を取り繕った。リーマスはそんな名前を気遣ってか、特に詮索することもなく、ただ「はい」と手元にあった蛙チョコレートを差し出した。
「えっ、いいの?」
すっと差し出された未開封のチョコは、嬉しくも気軽に受け取ってはいけない物のような気がして、名前は手を伸ばすのを躊躇った。
「もちろん、寝不足にはチョコだからね」
リーマスはふっと笑いながら、名前の手をとり蛙チョコレートをぎゅっと握らせた。
「僕の分なら気にしないで。どうせこの後シリウスたちが山ほど持ってくるだろうから…」
"シリウス"。その名前を聞いた途端、名前は眉が引き攣るのを感じた。名前は彼の事について口を開きかけたが、「開けてみて!」と急かすリーマスへの返事と共に、声は喉の奥へ消えていった。
上蓋を開けると、手のひらサイズの茶色い蛙が「ゲコッ」と鳴いた。ここが医務室である事を分かっているのか、中の蛙は飛び出す様子もなく大人しい。名前は蛙を取り出して口にくわえ、その四肢の下に敷かれていたカードをリーマスが見える位置でめくってみせた。
「ダンブルドアか」
リーマスがふふっと笑った。小さな窓枠の中から、見慣れた白髭の魔法使いがこちらを見つめている。
「一年生の頃は、みんなカードを必死に集めてたなあ」
「懐かしいね」
いまや完全なるチョコレートと化した蛙をかじりながら、名前は呟いた。ホグワーツ特急で初めて過ごした時の事を今でもよく覚えている。車内販売の魔女がたくさんのお菓子をカートに載せてやって来るあの瞬間は、誰もが目を輝かせるものだ。向かい合わせの席に座っていたリーマスと共に、蛙チョコレートやパンプキンパイ、風船ガムなんかを買い集めたっけ…。
「それにしても、よく僕が今日ここにいるって分かったね?」
リーマスのその一言が、名前を追憶の彼方から現実へと呼び戻した。口の中に広がる甘さはあの頃と同じに感じられる一方で、目の前に佇む少年は随分と大人になってしまったようだ。穏やかな視線の下で名前は事を誤魔化す気にもなれず、正直に打ち明けることにした。
「実は…昨日の薬草学の授業中に、あなたたちの会話が聞こえちゃって」
「ああ、なるほど」
リーマスはさほど意外でもないという口ぶりで、傷の残る頬を掻きながら言った。
「それじゃ、その他の余計な話についても聞かれちゃったかもしれないね」
「…まあね」
そう答えながら、名前は好奇心から彼らの話を盗み聞きしてしまった事を心底悔やんだ。あの時大人しくリリーと共に教室へ戻っていればよかったものの。もう一切関わらないと決めたはずなのに、心の底では彼らの事がずっと気になって仕方なかった。動物もどきという重大な秘密を分かち合い、共に切磋琢磨したあの日々は、地下の寮で過ごす身にとっては眩しすぎる程に刺激的な時間だったのだ。様々な壁を乗り越えた先に友情が芽生える瞬間があるとしたら、あの時こそまさにそうだったのだろう。
ただその壁を壊す前に自分はもっとよく考えるべきだった。崩れた瓦礫は誰かを傷付ける事もある。しかし当時の自分はその可能性について考える間もなく、ヒビが入った瞬間に壁を蹴り飛ばしてしまった。
名前の言葉がそれ以上続かない事に、リーマスは何かを察したようだった。彼は努めて上げていた口角をすっと戻し、真剣な表情で名前を見上げた。
「君がそんな面持ちで来たという事は、昨晩僕の知らない何かがあったんだね?」
リーマスの核心をつく言葉に、名前の心臓はドクンと重く脈打った。やはり彼は何も知らないのだ。まっすぐ注がれるその眼差しを見て、名前は思わず息を止めた。はぐらかすことが出来ない一方で、自分が話して良い事だとも到底思えない。昨晩だけの話ではない。もし今日、自分が枕で頭を塞いでいたあの間に、最悪の事態が起きていたとしたら……
名前が覚悟を決めてぎゅっと目を瞑ったその瞬間、その場の緊張が予期せずふっと揺らいだ。リーマスの視線が別の方向へと向いたのだ。その視線につられて名前が振り返った先には、リーマスの予想通り、両腕いっぱいにチョコレートを抱えたジェームズとシリウスが立っていた。
二人は名前の姿を見て目を丸くしたのも束の間、察しの良さを働かせたのか、すぐにシリウスが頭を抱えながら「あ〜〜」と呻いた。
次この二人に会ったならば、間髪入れずに声を上げて非難しようと、名前は昨夜から心に決めていた。実の所それだけでは飽きたりない。自分たちがした事がどんなに非情で恐ろしいか、それを認めさせ後悔させるまでその場を離れず、徹底的に問い詰め叱責しようと思っていた。しかしいざ当人を目の前にすると、心臓が重い早鳴りをするばかりで、言葉は一言も出てこなかった。もはやこの高ぶる感情が何なのかさえ分からない。体全体を震わせんばかりの衝動は、怒りや憤りといった陳腐な感情を通り越しているようにさえ感じられた。
名前のただらなぬ様子にいち早く気付いたのはジェームズだった。彼は抱えていた菓子類をベッドの上にどさっと落とすと、無言のまま名前に手招きをして医務室の出口へと向かった。シリウスがジェームズに引っ張られるような形でその後に続いていく。リーマスをチョコレートの山と共にベッドに残し、三人は重たい沈黙の内に医務室前の廊下へと出た。
「君が何を知ったかはもう分かった」
壁際の柱に隠れるように寄りながらジェームズが言った。
「騒ぎにはなっていない。だから安心してくれ」
悪戯の常習犯から発せられたその言葉は、名前の期待とは程遠く、それどころか神経を逆撫でするような台詞だった。騒ぎにはなっていない?安心しろ?自分が何にショックを受けてここへ来たのか、この少年は全く分かっていないのだ。その現実を理解した途端、唇を縛っていた紐がするりと解けたが如く、気付けば名前は考える間もなく彼らに向かって叫んでいた。
「あなたたち、自分が何をしたか分かってるの!?」
それまで我慢していた感情を急に爆発させたことで、名前は言葉と涙が同時に溢れ出るのを感じた。
「人を…人を殺すところだったのよ…それも、自分たちの友人を人殺しにするところだった!!」
「分かってる」
そう小さく呟きながら、ジェームズはクシャクシャと髪を丸めて下を向いた。その意外にも弱気な態度に名前は一瞬しり込みしたが、隣で柱にもたれかかっていたシリウスがそうはさせまいと言わんばかりに食ってかかった。
「なんだってそんなにも奴を庇うんだ?」
どんなに眉根を寄せても崩れない美しい顔のまま、シリウスははっきりと言い放った。
「スネイプなんて、殺されて当然の人間だ」
氷柱が全身を突き刺したようだった。名前はシリウスにまっすぐ顔を向け、たじろぐ様子もないその瞳を抉るように見つめた。
「シリウス…あなた正気なの?」
「至って正気、真面目な意見さ」
そう言いながら、シリウスはふっと笑う余裕さえ見せてみた。氷柱に手足を貫かれたままの名前は、彼に突っかかる事も出来ぬまま、その整った顔が残酷な言葉を吐き出す様をただ眺めるしか無かった。
「あー…つまりな」
柱により深くもたれかかった状態で口を開きながら、シリウスは天井を仰ぎ、一呼吸置いて続けた。
「君があいつをどう評価してるか、俺は知らないが、このまま野放しにすれば奴は将来絶対に殺人者になるぞ」
シリウスの放ったその一言は、今まで耳にしたどんな言葉よりも名前の心を揺さぶるものだった。面と向かって叫んで非難しようとあんなに強く心に決めていたのに。自分の唇がただ震えるだけで、ろくに声も出せない状況になるとは予想もしていなかった。
「どうして…」
やっとの思いで絞り出した抗議の言葉は、あまりに小さく弱々しく、シリウスの耳に入る前に床に落ちて消えてしまいそうだった。
「どうして、そんなひどいことが言えるの…?」
視界がぼんやりと揺らぎ始める。様々な感情が波のように押し寄せ、涙すら出てこない。焦点の定まらない目で立ち尽くす名前をよそに、シリウスは理路整然と話し始めた。
「どうしても何も無い。奴が向かう先を考えればそう思うのは当然だろう。マルシベールとエイブリーは既に両親ともに死喰い人だと聞いたぞ。それもただの死喰い人じゃない、ヴォルデモートと古くから親しい間柄だそうじゃないか」
シリウスの口から聞いたことも無い情報が立て続けに発され、名前は思わず顔を上げた。彼の表情はいつになく真剣で、その声のトーンからも、ふざけたり嘘をついている様子は一切見受けられない。
「スネイプは奴らと同じ道を目指して行動してるとしか思えない」
何も言い返せない名前に対し、ジェームズがたたみかけるように持論を述べた。
「でなきゃ何だって善良なスリザリンである君を棄てて、マルシベールたちとつるむ必要がある?」
汽車の中で偶然聞いてしまったあの三人の会話が、耳の奥にこだまして響く。グリフィンドールの少年たちの悪ふざけとは比較にならないほど不穏な雰囲気に溢れていたあの光景は、背後に強大な闇の力があったせいだろうか。
「とは言え」
ジェームズが話を制するように手を前に出した。
「スニベルスごときのためにリーマスの手を汚すわけにはいかない。だから昨日僕は奴を救ってやったんだ」
その言葉に、名前の意識は再び昨夜へと呼び戻された。擦り傷をつくり、土まみれになって帰寮したセブルスの姿が思い出され、名前は目を細めてジェームズを見た。
「どういうこと…?」
「ジェームズは暴れ柳に飛び込んでって、スニベルスを救ったんだ」
悪びれる様子を一切見せぬまま、シリウスがジェームズの肩を掴んで言った。
「まさかあいつが一人でのそのそ帰ってこれたとでも思ったか?」
「救った…?」
誇らしさすら垣間見れる笑みを浮かべた少年を前に、名前は彼らの話すことが全く理解出来なくなった。
「あなたたち、一体何を言ってるの?」
「まあなんだ、今回の件を仕組んだのはいわば俺一人なんだ」
シリウスはそうして当然だったと言わんばかりに、肩をすくめてため息をついた。
「ところがジェームズにそれを話した瞬間、こいつは顔色を変えて奴を助けに行っちまった。なんと驚いたことに、ジェームズ・ポッターは宿敵の命を救ったんだ。グリフィンドールの騎士道精神ここにあり、だな」
シリウスのその言葉に、頭の中で何かがプツンと切れる音がした。無意識の内に抑えつけていた強い衝動は、うち落とされた火薬のように爆発し、名前はこれ以上ないほどに声を荒らげて反論した。
「なにが騎士道よ!聞いて呆れる!!」
予期しない剣幕に一瞬怯んだシリウスとジェームズを、名前は見逃さなかった。
「自分たちの企みがどれだけ卑劣だったか分かってないの?友達の苦しみを想像することも出来なかったの?姿を見られたリーマスが、どんなに辛い思いをするか…!」
「俺はスネイプとの違いを言ってるんだ!」
名前に負けぬ勢いで、シリウスが声を張り上げた。
「卑劣さで言えば奴の方がずっと上だろう。それにもし、昨夜の立場が逆だったら奴はどうすると思う?人狼の穴に落ちた俺を、奴は助けに来ると思うか?」
「それは…」
予想だにしていなかったシリウスの問いかけに、名前はぐっと言葉を詰まらせた。
「分からない…けど、今話してるのはそういう事じゃー」
「そらな!」
シリウスは勝ち誇ったように、フンと挑発的な笑みを浮かべた。
「奴は絶対に敵を助けたりしないぜ。君も分かっているくせに。そういう所にスリザリンらしさがあらわれるんだ」
"スリザリンらしさ"ー。廊下で、教室で、見ず知らずの他寮の生徒から浴びせられる冷たい視線が、まるでこの場に集まったかのように思い起こされる。自分を見下げる偏見の眼差しに、名前は全身がカッと熱くなった。
「あなただって、その残酷な行いにブラック家の血がよくあらわれてるじゃない!!」
瞬間的に口をついた言葉は、その場を静まり返させるには十分すぎるほどの威力を持っていた。シリウスの瞳からは一瞬にして戦意が消え失せ、息をあげる名前の前で、グリフィンドールの二人は無機物に変えられた動物のごとく静かになった。名前ははっと口をつぐんだが、重く流れる沈黙が自分たちの愚かさを代弁していた。
こんな形を望んでいたわけでは無いのに。名前は二人に背を向け、たまらずその場を後にした。
終業の鐘が鳴り、教室から廊下へと生徒たちが流れてくる。四色のローブは各所で混ざり合いつつも、群れをなすように大きな単色の塊となって移動していく。紅と緑は混ざり合えば最後、互いが醜い色に化してしまうと言わんばかりに反発し合い、避け合いながら弧を描いていく。偏見の応酬としてもたらされるものは、同じく悪意に満ちた偏見なのだ。名前は己の口から出た言葉に苦味を感じながら、自分を正当化しようとするあまり濁ってしまった心を憂いた。
リーマスが狼人間である事を仄めかすような噂は、それから数日経っても一向に流れはしなかった。リーマスに対するグリフィンドール生の態度は誰一人変わらず、スリザリンの生徒は彼の事を気にも留めない。一見平和に思えるその状況が、名前にとっては不穏以外の何物でもなかった。何らかの力であの夜の出来事が無かったことになっているならばそれで良い。しかし現実は予想を遥かに超えた、複雑怪奇な状況となっていた。『ポッターがスネイプを救った』という武勇伝だけが、グリフィンドール寮内で一人歩きしたらしい。そしてその噂は時間とともに扉をすり抜け、廊下を走り、ゴシップを欲する生徒たちに満遍なく届き渡った。『暴れ柳』という衝撃的な場所、そして一方が宿敵への慈悲を見せたというその内容は、全容が明らかでないからこそ、多くの者の興味を惹きつけた。グリフィンドール塔を抜け出したその噂話は、ものの数時間で当事者たちの耳に入るほど城中に染み渡ったのである。
あの日以来絶えず不安な気持ちを抱えたまま、名前はひとり夕方の廊下を歩いていた。日が暮れる時刻がすっかり早くなり、その日最後の授業が終わる頃には、暗い空が支配者として頭上を覆うようになった。肌を包む冷気と厚ぼったくなった生徒たちの服装が、季節が秋から冬に移り変わりつつある事を知らせている。
北へ向かう者、南へ行く者、廊下を行き交う足取りはまばらだ。名前は数冊の本を脇に抱え、柱の隙間から見える風景を時折覗きながら、これから取り組もうとしているレポートの冒頭について考えていた。魔法史の課題はいつも書き始めるまでに時間がかかる。一度筆がのればさして苦ではないものの、そこに至るまでが常に気力との戦いだった。名前は小さくため息をついて、廊下の突き当たりを右に曲がり、柱を挟んだ先に広がる中庭に再び目をやった。芝生の上で解放感に浸る生徒たちが羨ましい。名前は前に向き直り、少し進んだところでまた習慣的に中庭に視線を移した。ゴブストーンにはしゃぐ声が廊下まで響き渡っている。今の時期の一、二年生には課題らしい課題もないのだろう。かつては自分もそうだった。懐かしさに思いを馳せながら、遊びに勤しむ下級生たちに顔を背けようとした矢先、数メートル先によく知る姿かたちを見つけ、名前は思わず息を飲んだ。中庭の淵に、セブルスとリリーが立っている。
リリーの表情は柱の影に隠れてこちらからは見えないものの、セブルスは何とも言えない険しい顔をしている。名前は足を止め、廊下の壁際に寄って彼らを隙間から伺うように見た。セブルスが次第に憤りに満ちた表情を浮かべ始めた事に、名前は目を見張った。リリーと平和な会話を交わしているわけでは無いらしい。名前は反射的にポケットの中へ手をしのばせた。あの二人が何を話しているのか、どうしても聞きたい。指に触れた"気配消しの石"にすがって、名前はゆっくりと彼らに近付いた。
「……のは、わかっているわ」
二人の声が届く位置で名前は足を止め、リリーが寄りかかる柱を反対側で盾にしながら、ポケットの石を強く握った。リリーの口調は本当に幼馴染に向けられたものなのか疑わしいほどに、冷たく感じられる。
「どうして、あの人たちにそんなにこだわるの?あの人たちが夜何をしているかが、なぜ気になるの?」
「僕はただ、あの連中は、みんなが思っているほどすばらしいわけじゃないって、きみに教えようとしているだけだ」
二人が誰をめぐって口論しているのか、名前はすぐに分かった。ジェームズたちの話をしている。セブルスはリリーを説き伏せようとしているのか、その言葉には並々ならぬ激しさが感じられた。
「でも、あの人たちは闇の魔術を使わないわ」
石に触れる指がぴくっと動いた。まさかリリーはセブルスに面と向かって闇の魔術から手を引くよう諭しているのではあるまいか。ともすれば、先程からのセブルスの頭に血が上ったような顔色も理由が伺い知れる。しかし二人の会話は、名前の予期せぬ方向へと舵を切っていった。
「それに、あなたはとても恩知らずよ」
リリーは周囲を憚ってか、声を低くして言った。
「このあいだの晩に何があったか、聞いたわ。あなたは『暴れ柳』のそばのトンネルをこっそり下っていって、そこで何があったかは知らないけど、ジェームズ・ポッターがあなたを救ったとー」
「救った?救った!?」
声を潜めるリリーと対照的に、セブルスは声を張り上げ、吐き棄てるように言った。
「きみはあいつが英雄だと思っているのか?あいつは自分自身と自分の仲間を救っただけだ!きみは絶対にあいつに…僕がきみに許さないー」
「わたしに何を許さないの?」
憤るセブルスに負けぬ勢いで、リリーが噛み付くように言葉を繰り返した。
「何を許さないの?」
「そういうつもりじゃー」
リリーの剣幕に尻込みしたのか、先ほどまでの威勢が嘘だったかのように、セブルスはすぐに言い直した。
「ただ僕は、きみが騙されるのを見たくない…」
その優しい言葉に、名前は胸がちくりと痛むのを感じた。セブルスはただの友人である自分に対しても、多少なり同じ気持ちを抱いていてくれたかもしれないのに。リリーを背に挟んで、目頭がじんと熱くなる。しかし涙を浮かべるよりも先に、セブルスの口から飛び出た発言が名前の身を再び強ばらせた。
「あいつは、きみに気がある。ジェームズ・ポッターは、きみのことが好きなんだ!」
セブルスの放ったその言葉は、本人の意に反して無理やり出てきたかのようだった。ジェームズがリリーに気があることなど、彼を知る者であれば皆知っている。しかし問題はそこでは無い。リリーに対して、セブルスの口からそれが告げられるなど、名前は予想だにしていなかった。てっきり彼は、あの晩ジェームズとシリウスが自身に何を仕掛けたのかを、リリーに暴露するものだと思っていたのにー。
「だけどあいつは、違うんだ…」
セブルス自身も自分の発言に戸惑い、苦しんでいるのか、その話す内容はもはや支離滅裂だった。
「みんながそう思っているみたいな…クィディッチの大物ヒーローだとかー」
「ジェームズ・ポッターが、傲慢でいやなやつなのはわかっているわ」
リリーはセブルスの言葉を遮り、きっぱりと言った。
「あなたに言われるまでもないわ。でも、マルシベールとかエイブリーが冗談のつもりでしていることは、邪悪そのものだわ」
名前はその場に凍りついたかのように身動きが出来なくなった。今、リリーははっきりと、闇の魔術への嫌悪をセブルスの前で述べている。
「セブ、邪悪なことなのよ。あなたが、どうしてあんな人たちと友達になれるのか、わたしにはわからない」
リリーとセブルスの会話はそこで途切れ、名前は二人がその場を去ったのだという事にしばらく気付かぬまま柱にもたれかかっていた。リリーはあんなにも明確に言ってのけた。しかしセブルスは怒るわけでも、機嫌を損ねるでもなかった。名前は柱から体を離し、彼らの去った先を振り向いた。リリーと並んで歩く彼の足取りは、どこか弾んでいるようにさえ見える。
廊下の突き当たりで、リリーとセブルスは左右反対方向に別れていった。名前は反射的に走り出し、より暗い北の通路へと消えていくセブルスを追いかけた。
久々に目の前に迫ったその背中は、以前より大きく威圧的に感じられた。それが彼自身の成長なのか、自分の中にある恐怖感からなのかは分からない。名前は息を切らせつつ、勇気を振り絞ってセブルスの肩に手をかけた。
リリーだと思ったのだろうか。振り返ったセブルスの表情は思いがけず柔らかだった。しかし手の主が名前だと分かるや否や、彼はあからさまな嫌悪感に顔を歪ませた。
「どうして……」
上がった息を抑えつけながら、名前はやっとの思いで言葉を口にした。
「どうして、あの日ジェームズたちがあなたに何を企てたのか、リリーに言わなかったの…?」
「また盗み聞きか」
セブルスは心底軽蔑した表情を浮かべながら、名前を見下ろして言った。
「君に話すことじゃない」
「でもそんなの…!」
頭で考えるよりも先に、感情が口をついて出てしまう。想い人を前にして、名前は自身に歯止めが効かなくなっている事を自覚していた。
「そんなの…あなたらしくない…」
「悪役のような回答をしてほしいんだな」
名前の言葉に、セブルスは自嘲気味に笑った。
「お友達の保身がそんなに心配か?」
「あの人たちとは、もう友達なんかじゃない!」
今にも去って行ってしまいそうなその少年に対して、名前は必死に声を上げた。
「ジェームズ・ポッターたちとはもう関わらないって決めたの……本当よ、信じて……」
そう言いながら、名前は先ほどから押し留めていた涙がとうとう頬をつたうのを感じた。中庭で耳にした、リリーの冷たい口調が脳裏をよぎる。手の甲で濡れた目まわりを拭いながら、名前は小さく呟いた。
「私が一番大切に想っているのは、セブルスなの……」
重たい沈黙が両者の間に流れた。リリーが去っていった先はあんなにも賑やかだったのに。暗く寒々しい北の通路に佇む生者は、今や名前とセブルスの二人だけだ。
「じゃあ君は……」
沈黙を破ったのはセブルスだった。今の彼は明らかな嫌悪も、侮蔑に満ちた表情も浮かべていない。険しさの中にどこか期待を浮かべたような複雑な面持ちで、セブルスは言葉を続けた。
「君は、僕が何を目指しても応援してくれるのか?僕が偉大な闇の魔法使いを目指すと言ったら、力を貸してくれるか?」
あまりに残酷なその問いかけに、名前は滲む視界の中でセブルスを見た。黒い瞳は返事を待ちわびているのか、それともただ試しているだけなのか、ぶれる事無くこちらを真っ直ぐに見つめている。その眼差しは心を押し潰し、今にも息の根を止めてしまいそうだ。名前は堪らず口を開きかけたが、数秒の葛藤の末、何も言わずにそのまま口を閉じた。
答えられない。答えられるはずがない。セブルスはため息をついて、俯く名前に背を向けて歩き出した。また大きな絶望が、頭上に重くのしかかってくる。名前は涙ながらに顔を上げ、今にも暗闇と同化してしまいそうな背中に向かって力なく叫んだ。
「リリーだって反対したじゃない!」
セブルスが足を止めるであろう事を予期して、名前はあえてリリーの名を出した。
「闇の魔術は邪悪なものなのよ…私は、リリーと同じ事を言っているのに……」
リリーがセブルスを想うよりずっと、自分は彼を大切にしてきたつもりなのに。数歩先から自分を振り返るセブルスに対して、名前は己を制する余力もないまま思いの丈をぶつけた。
「私とリリーの、何が違うの…?」
窓から差し込む光は消え失せ、柱に灯るはずの炎ですらこの廊下には存在しない。暗闇の中で、セブルスは名前に対し小さく、しかしはっきりとその答えを告げた。
「彼女は僕を裏切ったりしない」
遠く、リリーが去った方角から、生徒たちの笑い声が響きこだまする。セブルスは名前を一瞥した後、 悲しそうに視線を落とし、孤独に身を包むようにして闇の先へと消えていった。
朝の喧騒は否応なしに名前の意識を闇の底から引き上げていく。指に滴った生温かいものが自分の涙であることに気付くまで、名前の頭はそれまでの何もかもを忘れようとしていた。うっすらと目を開けて、見慣れた天井が視界に飛び込んできた瞬間、昨夜起きた事は夢では無かったのだと記憶が揺さぶり起こしてくる。鉛を飲み込んだような感覚とともに、頬にまた涙がつたった。名前は"太陽の石"に手を伸ばすことも無く、天蓋のカーテンを閉めたまま、周囲の話し声が次第に遠のいていくのをひたすら待ち続けた。
数十時間もの時が経ったように感じた。自分を包む空間は静まり返り、昼か夜かも分からない妙な薄暗さが再び訪れる。かつては恐ろしさすら抱いていたこの闇に、よもや救われる気持ちになるとは。名前は横たわったまま身動きひとつせず、ただ目の前にある柄のないカーテン生地を見つめていた。眼には一切の力が入らず、頭は締め付けられるように痛む。涙も最早枯れ果ててしまった。しかし干からびた心をよそに、指の先にはまだしっかりと血が流れている。
静寂が耳をつんざく感覚に耐えきれなくなった頃、名前はとうとう身を起こした。ベッドに腰掛けた状態でぼんやりと足元を見る。目に入る光景すべてがぐにゃりと曲がっているようで、思わず吐き気がした。今が何時なのかー…知りたいようで、知りたくない。名前は力なく立ち上がり、カーテンから顔の半分だけを覗かせた。壁にかかった時計は今が2限目の授業中である事を知らせている。遠い世界の出来事かのように感じられるその時間は、名前の願いとは裏腹に現実が進み続けていることを意味していた。
頭に酸素が行き渡るにつれ、次第に名前の思考や不安は形を帯びて具体的なものとなっていった。リーマスが人狼である事を、セブルスはマルシベールたちに話しただろうか。彼らだけではない。すべてのスリザリン生が朝のうちに知ってしまった可能性だってある。もしかするともう学校中に噂は広まっているのかもしれない。逃れようのない嫌な予感に、名前の心臓は忙しなく脈打ち始めた。これまで人狼である事を知られながら、太陽の下を堂々と歩けた魔法使いがいただろうか。秘密を隠しながら生きる事ですら、あんなにも不便で窮屈だというのに。
名前は髪も整えぬまま、ローブだけを羽織って寝室を出た。身につけている服は上から下まで全て昨日と同じものだが、今はそんな些細な事など気にしていられない。たとえ拗れきった現状に希望が見えないとしても、泣いているだけでは何も変わらないのだ。この現実で何が起ころうとも、自分にはそれを受け止める義務がある。
名前は足早に地下を後にし、日が差し込む上階の医務室へと向かった。それぞれの教室から呪文を唱える声が聞こえる。壁の先の騒ぎ声を耳にしながら歩くがらんどうの廊下は何とも不思議な空間だった。壁越しには沢山の生徒が存在しているはずなのに、まるで世界には自分一人しかいないような気持ちになる。夜中にこっそり抜け出す廊下とは全く違う光景だ。ゴースト一体通らないその広い廊下は、名前が今まで感じたことの無い孤独をひっそりと語りかけてくるかのようだった。
その扉が大きく開放されていなければ気付かず通り過ぎてしまったであろう程、昼間の医務室は静かだった。扉越しに恐る恐る顔を覗かせると、薬棚の前で道具を整理していたマダム・ポンフリーがすぐにこちらを振り返る。名前が口を開く前にポンフリーは扉前にやって来て、少し怪訝そうな顔で言った。
「元気爆発薬ですか?」
授業中に抜け出して来たにしては、目立つ外傷もなく不自然に思われたのだろう。名前は「すみません、違うんです」と咄嗟に断り、不審そうに自分の顔を覗き込むポンフリーにおずおずとたずねた。
「あの…リーマス・ルーピンはいませんか?私、彼の友人なんです」
医務室に見舞いに来ている時点で友人であることは明らかだ。しかし自分が纏うローブの裏地色を見て、名前は無意識のうちに、自分でも虚しくなるような弁明をしてしまっていた。
マダム・ポンフリーの顔つきが険しくなった瞬間を名前は見逃さなかった。ポンフリーはしばし沈黙を置いた後、「お名前は?」と名前にたずねた。
「名前・苗字です」
ふむ、と数秒考え込んでから、ポンフリーは部屋の後方に視線を向け、名前に少し待つよう言い残して奥へと歩いて行った。
それから一分も経たずうちに彼女は扉前に戻り、いくぶん不安そうな顔で名前を見た後、「一番奥のベッドですよ」とひっそり囁いた。
クィディッチの本格シーズンはまだ始まっていない。そのため医務室のベッドはほとんど空いていた。何より今は授業中だ、自分以外見舞いに来る者もいない。やっかいな呪いを受けてしまったと思われる数人の前を通り過ぎ、名前はカーテンで仕切られた最奥のベッドの前で立ち止まった。
「……リーマス?」
自分でも情けなくなるほど震えた声に、名前は思わず拳を握りしめた。しかしカーテンの奥から返ってきた声は名前の想像よりもずっと明るく、予期せぬ調子に面食らっている1秒の間に、目の前のカーテンがシャッと開いた。
「名前!どうしたの?まだ授業中だろう?」
ベッドから身を起こしたリーマスの姿に、名前は戸惑いながらもほっと安堵した。傷の処置は大方終わったのだろう、いつもの彼とほとんど変わりないようだ。顔には疲れがにじむものの、リーマスの瞳はいくらか輝いて見えた。自分が身構えていた最悪の事態は起きていないのか、それともまだ本人の耳に届いていないだけなのかー。
「大丈夫?僕より顔色が悪いみたいだけど」
その問いかけに名前はハッとして、「大丈夫!」と目を擦った。一睡もできずに泣き明かしていたなど、誰にも悟られたくない。名前は目周りを抑えながら、「ちょっと寝不足で…」と必死に笑顔を取り繕った。リーマスはそんな名前を気遣ってか、特に詮索することもなく、ただ「はい」と手元にあった蛙チョコレートを差し出した。
「えっ、いいの?」
すっと差し出された未開封のチョコは、嬉しくも気軽に受け取ってはいけない物のような気がして、名前は手を伸ばすのを躊躇った。
「もちろん、寝不足にはチョコだからね」
リーマスはふっと笑いながら、名前の手をとり蛙チョコレートをぎゅっと握らせた。
「僕の分なら気にしないで。どうせこの後シリウスたちが山ほど持ってくるだろうから…」
"シリウス"。その名前を聞いた途端、名前は眉が引き攣るのを感じた。名前は彼の事について口を開きかけたが、「開けてみて!」と急かすリーマスへの返事と共に、声は喉の奥へ消えていった。
上蓋を開けると、手のひらサイズの茶色い蛙が「ゲコッ」と鳴いた。ここが医務室である事を分かっているのか、中の蛙は飛び出す様子もなく大人しい。名前は蛙を取り出して口にくわえ、その四肢の下に敷かれていたカードをリーマスが見える位置でめくってみせた。
「ダンブルドアか」
リーマスがふふっと笑った。小さな窓枠の中から、見慣れた白髭の魔法使いがこちらを見つめている。
「一年生の頃は、みんなカードを必死に集めてたなあ」
「懐かしいね」
いまや完全なるチョコレートと化した蛙をかじりながら、名前は呟いた。ホグワーツ特急で初めて過ごした時の事を今でもよく覚えている。車内販売の魔女がたくさんのお菓子をカートに載せてやって来るあの瞬間は、誰もが目を輝かせるものだ。向かい合わせの席に座っていたリーマスと共に、蛙チョコレートやパンプキンパイ、風船ガムなんかを買い集めたっけ…。
「それにしても、よく僕が今日ここにいるって分かったね?」
リーマスのその一言が、名前を追憶の彼方から現実へと呼び戻した。口の中に広がる甘さはあの頃と同じに感じられる一方で、目の前に佇む少年は随分と大人になってしまったようだ。穏やかな視線の下で名前は事を誤魔化す気にもなれず、正直に打ち明けることにした。
「実は…昨日の薬草学の授業中に、あなたたちの会話が聞こえちゃって」
「ああ、なるほど」
リーマスはさほど意外でもないという口ぶりで、傷の残る頬を掻きながら言った。
「それじゃ、その他の余計な話についても聞かれちゃったかもしれないね」
「…まあね」
そう答えながら、名前は好奇心から彼らの話を盗み聞きしてしまった事を心底悔やんだ。あの時大人しくリリーと共に教室へ戻っていればよかったものの。もう一切関わらないと決めたはずなのに、心の底では彼らの事がずっと気になって仕方なかった。動物もどきという重大な秘密を分かち合い、共に切磋琢磨したあの日々は、地下の寮で過ごす身にとっては眩しすぎる程に刺激的な時間だったのだ。様々な壁を乗り越えた先に友情が芽生える瞬間があるとしたら、あの時こそまさにそうだったのだろう。
ただその壁を壊す前に自分はもっとよく考えるべきだった。崩れた瓦礫は誰かを傷付ける事もある。しかし当時の自分はその可能性について考える間もなく、ヒビが入った瞬間に壁を蹴り飛ばしてしまった。
名前の言葉がそれ以上続かない事に、リーマスは何かを察したようだった。彼は努めて上げていた口角をすっと戻し、真剣な表情で名前を見上げた。
「君がそんな面持ちで来たという事は、昨晩僕の知らない何かがあったんだね?」
リーマスの核心をつく言葉に、名前の心臓はドクンと重く脈打った。やはり彼は何も知らないのだ。まっすぐ注がれるその眼差しを見て、名前は思わず息を止めた。はぐらかすことが出来ない一方で、自分が話して良い事だとも到底思えない。昨晩だけの話ではない。もし今日、自分が枕で頭を塞いでいたあの間に、最悪の事態が起きていたとしたら……
名前が覚悟を決めてぎゅっと目を瞑ったその瞬間、その場の緊張が予期せずふっと揺らいだ。リーマスの視線が別の方向へと向いたのだ。その視線につられて名前が振り返った先には、リーマスの予想通り、両腕いっぱいにチョコレートを抱えたジェームズとシリウスが立っていた。
二人は名前の姿を見て目を丸くしたのも束の間、察しの良さを働かせたのか、すぐにシリウスが頭を抱えながら「あ〜〜」と呻いた。
次この二人に会ったならば、間髪入れずに声を上げて非難しようと、名前は昨夜から心に決めていた。実の所それだけでは飽きたりない。自分たちがした事がどんなに非情で恐ろしいか、それを認めさせ後悔させるまでその場を離れず、徹底的に問い詰め叱責しようと思っていた。しかしいざ当人を目の前にすると、心臓が重い早鳴りをするばかりで、言葉は一言も出てこなかった。もはやこの高ぶる感情が何なのかさえ分からない。体全体を震わせんばかりの衝動は、怒りや憤りといった陳腐な感情を通り越しているようにさえ感じられた。
名前のただらなぬ様子にいち早く気付いたのはジェームズだった。彼は抱えていた菓子類をベッドの上にどさっと落とすと、無言のまま名前に手招きをして医務室の出口へと向かった。シリウスがジェームズに引っ張られるような形でその後に続いていく。リーマスをチョコレートの山と共にベッドに残し、三人は重たい沈黙の内に医務室前の廊下へと出た。
「君が何を知ったかはもう分かった」
壁際の柱に隠れるように寄りながらジェームズが言った。
「騒ぎにはなっていない。だから安心してくれ」
悪戯の常習犯から発せられたその言葉は、名前の期待とは程遠く、それどころか神経を逆撫でするような台詞だった。騒ぎにはなっていない?安心しろ?自分が何にショックを受けてここへ来たのか、この少年は全く分かっていないのだ。その現実を理解した途端、唇を縛っていた紐がするりと解けたが如く、気付けば名前は考える間もなく彼らに向かって叫んでいた。
「あなたたち、自分が何をしたか分かってるの!?」
それまで我慢していた感情を急に爆発させたことで、名前は言葉と涙が同時に溢れ出るのを感じた。
「人を…人を殺すところだったのよ…それも、自分たちの友人を人殺しにするところだった!!」
「分かってる」
そう小さく呟きながら、ジェームズはクシャクシャと髪を丸めて下を向いた。その意外にも弱気な態度に名前は一瞬しり込みしたが、隣で柱にもたれかかっていたシリウスがそうはさせまいと言わんばかりに食ってかかった。
「なんだってそんなにも奴を庇うんだ?」
どんなに眉根を寄せても崩れない美しい顔のまま、シリウスははっきりと言い放った。
「スネイプなんて、殺されて当然の人間だ」
氷柱が全身を突き刺したようだった。名前はシリウスにまっすぐ顔を向け、たじろぐ様子もないその瞳を抉るように見つめた。
「シリウス…あなた正気なの?」
「至って正気、真面目な意見さ」
そう言いながら、シリウスはふっと笑う余裕さえ見せてみた。氷柱に手足を貫かれたままの名前は、彼に突っかかる事も出来ぬまま、その整った顔が残酷な言葉を吐き出す様をただ眺めるしか無かった。
「あー…つまりな」
柱により深くもたれかかった状態で口を開きながら、シリウスは天井を仰ぎ、一呼吸置いて続けた。
「君があいつをどう評価してるか、俺は知らないが、このまま野放しにすれば奴は将来絶対に殺人者になるぞ」
シリウスの放ったその一言は、今まで耳にしたどんな言葉よりも名前の心を揺さぶるものだった。面と向かって叫んで非難しようとあんなに強く心に決めていたのに。自分の唇がただ震えるだけで、ろくに声も出せない状況になるとは予想もしていなかった。
「どうして…」
やっとの思いで絞り出した抗議の言葉は、あまりに小さく弱々しく、シリウスの耳に入る前に床に落ちて消えてしまいそうだった。
「どうして、そんなひどいことが言えるの…?」
視界がぼんやりと揺らぎ始める。様々な感情が波のように押し寄せ、涙すら出てこない。焦点の定まらない目で立ち尽くす名前をよそに、シリウスは理路整然と話し始めた。
「どうしても何も無い。奴が向かう先を考えればそう思うのは当然だろう。マルシベールとエイブリーは既に両親ともに死喰い人だと聞いたぞ。それもただの死喰い人じゃない、ヴォルデモートと古くから親しい間柄だそうじゃないか」
シリウスの口から聞いたことも無い情報が立て続けに発され、名前は思わず顔を上げた。彼の表情はいつになく真剣で、その声のトーンからも、ふざけたり嘘をついている様子は一切見受けられない。
「スネイプは奴らと同じ道を目指して行動してるとしか思えない」
何も言い返せない名前に対し、ジェームズがたたみかけるように持論を述べた。
「でなきゃ何だって善良なスリザリンである君を棄てて、マルシベールたちとつるむ必要がある?」
汽車の中で偶然聞いてしまったあの三人の会話が、耳の奥にこだまして響く。グリフィンドールの少年たちの悪ふざけとは比較にならないほど不穏な雰囲気に溢れていたあの光景は、背後に強大な闇の力があったせいだろうか。
「とは言え」
ジェームズが話を制するように手を前に出した。
「スニベルスごときのためにリーマスの手を汚すわけにはいかない。だから昨日僕は奴を救ってやったんだ」
その言葉に、名前の意識は再び昨夜へと呼び戻された。擦り傷をつくり、土まみれになって帰寮したセブルスの姿が思い出され、名前は目を細めてジェームズを見た。
「どういうこと…?」
「ジェームズは暴れ柳に飛び込んでって、スニベルスを救ったんだ」
悪びれる様子を一切見せぬまま、シリウスがジェームズの肩を掴んで言った。
「まさかあいつが一人でのそのそ帰ってこれたとでも思ったか?」
「救った…?」
誇らしさすら垣間見れる笑みを浮かべた少年を前に、名前は彼らの話すことが全く理解出来なくなった。
「あなたたち、一体何を言ってるの?」
「まあなんだ、今回の件を仕組んだのはいわば俺一人なんだ」
シリウスはそうして当然だったと言わんばかりに、肩をすくめてため息をついた。
「ところがジェームズにそれを話した瞬間、こいつは顔色を変えて奴を助けに行っちまった。なんと驚いたことに、ジェームズ・ポッターは宿敵の命を救ったんだ。グリフィンドールの騎士道精神ここにあり、だな」
シリウスのその言葉に、頭の中で何かがプツンと切れる音がした。無意識の内に抑えつけていた強い衝動は、うち落とされた火薬のように爆発し、名前はこれ以上ないほどに声を荒らげて反論した。
「なにが騎士道よ!聞いて呆れる!!」
予期しない剣幕に一瞬怯んだシリウスとジェームズを、名前は見逃さなかった。
「自分たちの企みがどれだけ卑劣だったか分かってないの?友達の苦しみを想像することも出来なかったの?姿を見られたリーマスが、どんなに辛い思いをするか…!」
「俺はスネイプとの違いを言ってるんだ!」
名前に負けぬ勢いで、シリウスが声を張り上げた。
「卑劣さで言えば奴の方がずっと上だろう。それにもし、昨夜の立場が逆だったら奴はどうすると思う?人狼の穴に落ちた俺を、奴は助けに来ると思うか?」
「それは…」
予想だにしていなかったシリウスの問いかけに、名前はぐっと言葉を詰まらせた。
「分からない…けど、今話してるのはそういう事じゃー」
「そらな!」
シリウスは勝ち誇ったように、フンと挑発的な笑みを浮かべた。
「奴は絶対に敵を助けたりしないぜ。君も分かっているくせに。そういう所にスリザリンらしさがあらわれるんだ」
"スリザリンらしさ"ー。廊下で、教室で、見ず知らずの他寮の生徒から浴びせられる冷たい視線が、まるでこの場に集まったかのように思い起こされる。自分を見下げる偏見の眼差しに、名前は全身がカッと熱くなった。
「あなただって、その残酷な行いにブラック家の血がよくあらわれてるじゃない!!」
瞬間的に口をついた言葉は、その場を静まり返させるには十分すぎるほどの威力を持っていた。シリウスの瞳からは一瞬にして戦意が消え失せ、息をあげる名前の前で、グリフィンドールの二人は無機物に変えられた動物のごとく静かになった。名前ははっと口をつぐんだが、重く流れる沈黙が自分たちの愚かさを代弁していた。
こんな形を望んでいたわけでは無いのに。名前は二人に背を向け、たまらずその場を後にした。
終業の鐘が鳴り、教室から廊下へと生徒たちが流れてくる。四色のローブは各所で混ざり合いつつも、群れをなすように大きな単色の塊となって移動していく。紅と緑は混ざり合えば最後、互いが醜い色に化してしまうと言わんばかりに反発し合い、避け合いながら弧を描いていく。偏見の応酬としてもたらされるものは、同じく悪意に満ちた偏見なのだ。名前は己の口から出た言葉に苦味を感じながら、自分を正当化しようとするあまり濁ってしまった心を憂いた。
リーマスが狼人間である事を仄めかすような噂は、それから数日経っても一向に流れはしなかった。リーマスに対するグリフィンドール生の態度は誰一人変わらず、スリザリンの生徒は彼の事を気にも留めない。一見平和に思えるその状況が、名前にとっては不穏以外の何物でもなかった。何らかの力であの夜の出来事が無かったことになっているならばそれで良い。しかし現実は予想を遥かに超えた、複雑怪奇な状況となっていた。『ポッターがスネイプを救った』という武勇伝だけが、グリフィンドール寮内で一人歩きしたらしい。そしてその噂は時間とともに扉をすり抜け、廊下を走り、ゴシップを欲する生徒たちに満遍なく届き渡った。『暴れ柳』という衝撃的な場所、そして一方が宿敵への慈悲を見せたというその内容は、全容が明らかでないからこそ、多くの者の興味を惹きつけた。グリフィンドール塔を抜け出したその噂話は、ものの数時間で当事者たちの耳に入るほど城中に染み渡ったのである。
あの日以来絶えず不安な気持ちを抱えたまま、名前はひとり夕方の廊下を歩いていた。日が暮れる時刻がすっかり早くなり、その日最後の授業が終わる頃には、暗い空が支配者として頭上を覆うようになった。肌を包む冷気と厚ぼったくなった生徒たちの服装が、季節が秋から冬に移り変わりつつある事を知らせている。
北へ向かう者、南へ行く者、廊下を行き交う足取りはまばらだ。名前は数冊の本を脇に抱え、柱の隙間から見える風景を時折覗きながら、これから取り組もうとしているレポートの冒頭について考えていた。魔法史の課題はいつも書き始めるまでに時間がかかる。一度筆がのればさして苦ではないものの、そこに至るまでが常に気力との戦いだった。名前は小さくため息をついて、廊下の突き当たりを右に曲がり、柱を挟んだ先に広がる中庭に再び目をやった。芝生の上で解放感に浸る生徒たちが羨ましい。名前は前に向き直り、少し進んだところでまた習慣的に中庭に視線を移した。ゴブストーンにはしゃぐ声が廊下まで響き渡っている。今の時期の一、二年生には課題らしい課題もないのだろう。かつては自分もそうだった。懐かしさに思いを馳せながら、遊びに勤しむ下級生たちに顔を背けようとした矢先、数メートル先によく知る姿かたちを見つけ、名前は思わず息を飲んだ。中庭の淵に、セブルスとリリーが立っている。
リリーの表情は柱の影に隠れてこちらからは見えないものの、セブルスは何とも言えない険しい顔をしている。名前は足を止め、廊下の壁際に寄って彼らを隙間から伺うように見た。セブルスが次第に憤りに満ちた表情を浮かべ始めた事に、名前は目を見張った。リリーと平和な会話を交わしているわけでは無いらしい。名前は反射的にポケットの中へ手をしのばせた。あの二人が何を話しているのか、どうしても聞きたい。指に触れた"気配消しの石"にすがって、名前はゆっくりと彼らに近付いた。
「……のは、わかっているわ」
二人の声が届く位置で名前は足を止め、リリーが寄りかかる柱を反対側で盾にしながら、ポケットの石を強く握った。リリーの口調は本当に幼馴染に向けられたものなのか疑わしいほどに、冷たく感じられる。
「どうして、あの人たちにそんなにこだわるの?あの人たちが夜何をしているかが、なぜ気になるの?」
「僕はただ、あの連中は、みんなが思っているほどすばらしいわけじゃないって、きみに教えようとしているだけだ」
二人が誰をめぐって口論しているのか、名前はすぐに分かった。ジェームズたちの話をしている。セブルスはリリーを説き伏せようとしているのか、その言葉には並々ならぬ激しさが感じられた。
「でも、あの人たちは闇の魔術を使わないわ」
石に触れる指がぴくっと動いた。まさかリリーはセブルスに面と向かって闇の魔術から手を引くよう諭しているのではあるまいか。ともすれば、先程からのセブルスの頭に血が上ったような顔色も理由が伺い知れる。しかし二人の会話は、名前の予期せぬ方向へと舵を切っていった。
「それに、あなたはとても恩知らずよ」
リリーは周囲を憚ってか、声を低くして言った。
「このあいだの晩に何があったか、聞いたわ。あなたは『暴れ柳』のそばのトンネルをこっそり下っていって、そこで何があったかは知らないけど、ジェームズ・ポッターがあなたを救ったとー」
「救った?救った!?」
声を潜めるリリーと対照的に、セブルスは声を張り上げ、吐き棄てるように言った。
「きみはあいつが英雄だと思っているのか?あいつは自分自身と自分の仲間を救っただけだ!きみは絶対にあいつに…僕がきみに許さないー」
「わたしに何を許さないの?」
憤るセブルスに負けぬ勢いで、リリーが噛み付くように言葉を繰り返した。
「何を許さないの?」
「そういうつもりじゃー」
リリーの剣幕に尻込みしたのか、先ほどまでの威勢が嘘だったかのように、セブルスはすぐに言い直した。
「ただ僕は、きみが騙されるのを見たくない…」
その優しい言葉に、名前は胸がちくりと痛むのを感じた。セブルスはただの友人である自分に対しても、多少なり同じ気持ちを抱いていてくれたかもしれないのに。リリーを背に挟んで、目頭がじんと熱くなる。しかし涙を浮かべるよりも先に、セブルスの口から飛び出た発言が名前の身を再び強ばらせた。
「あいつは、きみに気がある。ジェームズ・ポッターは、きみのことが好きなんだ!」
セブルスの放ったその言葉は、本人の意に反して無理やり出てきたかのようだった。ジェームズがリリーに気があることなど、彼を知る者であれば皆知っている。しかし問題はそこでは無い。リリーに対して、セブルスの口からそれが告げられるなど、名前は予想だにしていなかった。てっきり彼は、あの晩ジェームズとシリウスが自身に何を仕掛けたのかを、リリーに暴露するものだと思っていたのにー。
「だけどあいつは、違うんだ…」
セブルス自身も自分の発言に戸惑い、苦しんでいるのか、その話す内容はもはや支離滅裂だった。
「みんながそう思っているみたいな…クィディッチの大物ヒーローだとかー」
「ジェームズ・ポッターが、傲慢でいやなやつなのはわかっているわ」
リリーはセブルスの言葉を遮り、きっぱりと言った。
「あなたに言われるまでもないわ。でも、マルシベールとかエイブリーが冗談のつもりでしていることは、邪悪そのものだわ」
名前はその場に凍りついたかのように身動きが出来なくなった。今、リリーははっきりと、闇の魔術への嫌悪をセブルスの前で述べている。
「セブ、邪悪なことなのよ。あなたが、どうしてあんな人たちと友達になれるのか、わたしにはわからない」
リリーとセブルスの会話はそこで途切れ、名前は二人がその場を去ったのだという事にしばらく気付かぬまま柱にもたれかかっていた。リリーはあんなにも明確に言ってのけた。しかしセブルスは怒るわけでも、機嫌を損ねるでもなかった。名前は柱から体を離し、彼らの去った先を振り向いた。リリーと並んで歩く彼の足取りは、どこか弾んでいるようにさえ見える。
廊下の突き当たりで、リリーとセブルスは左右反対方向に別れていった。名前は反射的に走り出し、より暗い北の通路へと消えていくセブルスを追いかけた。
久々に目の前に迫ったその背中は、以前より大きく威圧的に感じられた。それが彼自身の成長なのか、自分の中にある恐怖感からなのかは分からない。名前は息を切らせつつ、勇気を振り絞ってセブルスの肩に手をかけた。
リリーだと思ったのだろうか。振り返ったセブルスの表情は思いがけず柔らかだった。しかし手の主が名前だと分かるや否や、彼はあからさまな嫌悪感に顔を歪ませた。
「どうして……」
上がった息を抑えつけながら、名前はやっとの思いで言葉を口にした。
「どうして、あの日ジェームズたちがあなたに何を企てたのか、リリーに言わなかったの…?」
「また盗み聞きか」
セブルスは心底軽蔑した表情を浮かべながら、名前を見下ろして言った。
「君に話すことじゃない」
「でもそんなの…!」
頭で考えるよりも先に、感情が口をついて出てしまう。想い人を前にして、名前は自身に歯止めが効かなくなっている事を自覚していた。
「そんなの…あなたらしくない…」
「悪役のような回答をしてほしいんだな」
名前の言葉に、セブルスは自嘲気味に笑った。
「お友達の保身がそんなに心配か?」
「あの人たちとは、もう友達なんかじゃない!」
今にも去って行ってしまいそうなその少年に対して、名前は必死に声を上げた。
「ジェームズ・ポッターたちとはもう関わらないって決めたの……本当よ、信じて……」
そう言いながら、名前は先ほどから押し留めていた涙がとうとう頬をつたうのを感じた。中庭で耳にした、リリーの冷たい口調が脳裏をよぎる。手の甲で濡れた目まわりを拭いながら、名前は小さく呟いた。
「私が一番大切に想っているのは、セブルスなの……」
重たい沈黙が両者の間に流れた。リリーが去っていった先はあんなにも賑やかだったのに。暗く寒々しい北の通路に佇む生者は、今や名前とセブルスの二人だけだ。
「じゃあ君は……」
沈黙を破ったのはセブルスだった。今の彼は明らかな嫌悪も、侮蔑に満ちた表情も浮かべていない。険しさの中にどこか期待を浮かべたような複雑な面持ちで、セブルスは言葉を続けた。
「君は、僕が何を目指しても応援してくれるのか?僕が偉大な闇の魔法使いを目指すと言ったら、力を貸してくれるか?」
あまりに残酷なその問いかけに、名前は滲む視界の中でセブルスを見た。黒い瞳は返事を待ちわびているのか、それともただ試しているだけなのか、ぶれる事無くこちらを真っ直ぐに見つめている。その眼差しは心を押し潰し、今にも息の根を止めてしまいそうだ。名前は堪らず口を開きかけたが、数秒の葛藤の末、何も言わずにそのまま口を閉じた。
答えられない。答えられるはずがない。セブルスはため息をついて、俯く名前に背を向けて歩き出した。また大きな絶望が、頭上に重くのしかかってくる。名前は涙ながらに顔を上げ、今にも暗闇と同化してしまいそうな背中に向かって力なく叫んだ。
「リリーだって反対したじゃない!」
セブルスが足を止めるであろう事を予期して、名前はあえてリリーの名を出した。
「闇の魔術は邪悪なものなのよ…私は、リリーと同じ事を言っているのに……」
リリーがセブルスを想うよりずっと、自分は彼を大切にしてきたつもりなのに。数歩先から自分を振り返るセブルスに対して、名前は己を制する余力もないまま思いの丈をぶつけた。
「私とリリーの、何が違うの…?」
窓から差し込む光は消え失せ、柱に灯るはずの炎ですらこの廊下には存在しない。暗闇の中で、セブルスは名前に対し小さく、しかしはっきりとその答えを告げた。
「彼女は僕を裏切ったりしない」
遠く、リリーが去った方角から、生徒たちの笑い声が響きこだまする。セブルスは名前を一瞥した後、 悲しそうに視線を落とし、孤独に身を包むようにして闇の先へと消えていった。