第一部
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重たい黒雲が支配する空を、渡り鳥が逃げるように飛び去っていく。輝く太陽を最後に見たのはいつだろう。西塔の螺旋階段を下りながら、名前は硝子窓から見える灰色の景色を眺めていた。まだ昼過ぎだというのに、外はまるで夜のように暗い。ホグワーツの校内は燭台柱に一日中火を灯す事で何とか明るさを保っているが、季節のせいにするには不自然なほど、外の世界は暗がりに包まれている。行き交う下級生たちの無邪気な笑い声を耳にしながら、名前は胸のざわめきを落ち着かせるように冷たい手摺に指をかけた。この天気を不吉だと思うのは自分だけだろうか。
ホグワーツでの生活はすっかり様変わりしてしまった。セブルスはあれ以来名前と関わりを持つ事なく、マルシベールたちと寝食を共にしている。この数ヶ月、名前は何度も彼を説得しようと努力を重ねてきた。しかし話し掛けようとしても、彼はすぐにどこかへ行ってしまう。"一人きりの授業"がこれほど孤独で居心地の悪いものであるとは、名前は想像もしていなかった。魔法薬学の教室で、隣に座って調合のあれやこれを指示してくれる存在はもういない。たとえ見本と異なる色の煙を生み出してしまっても、誰も何も言わないのだ。
とはいえレイブンクローとの合同授業では、そんな状況も珍しい事ではない。地下牢教室に響くおしゃべり声は全てスリザリン生のもので、レイブンクロー生たちは黙々と一人で自身の大鍋に向き合っている。しかしその状況が名前の心を慰める事は決してなかった。この孤独感は単なる寂しさではない。一人で授業を受けるのが心細い訳でもない。ただセブルスが自分から離れていってしまった事への、どうしようもない喪失感なのだと、名前は胸が張り裂けんばかりに理解していた。
新学期初日以来、リーマスも表立って話しかけるのをやめてしまった。グリフィンドールの四人はすれ違っても名前に視線すら向ける事なく、相変わらず他人のように振る舞い続けている。セブルスを想って下した決断が、結果的に名前に双方を失わせてしまった。セブルスの事はもう諦めたから、動物もどきの練習を続けよう。自分がそう言える程めでたい性格だったならば、少しは救われるのだろうか。ご都合主義を恐れずに打ち明ける勇気があれば、形は違えど楽しい生活に戻れるだろうか。
しかしセブルスが自分のもとに戻ってくる可能性だってゼロではない。これだけ距離を置かれながらも、名前は一筋の希望を捨てきれないでいた。マルシベールとエイブリーに嫌気が差す日が、セブルスにもいつか来るかもしれない。かつての自分とパーキンソンのように、友人ではいられなくなる瞬間はある日突然やって来る。目先の孤独から逃れようとジェームズたちにすがるのは、浅ましく危険な考えだ。その全てが愚かな皮算用だと分かっていても、一度自分が突き放した彼らにすり寄るのはこの上なく難しい事だった。
長い階段を下った先に、自分を待つ影を見つけて名前は彼女の元へと走った。大きな緑の瞳と目が合う。名前の周りで唯一変わらないものといえば、ミランダと、正面で手を振るリリーの存在だけだ。名前とリリーは肩を並べ、スリザリンとグリフィンドールの合同授業が行われる薬草学の温室へと歩き始めた。
「セブとはどう?」
やや足早に廊下を進みながら、リリーがたずねた。
「今週は何か一言でも話せた?」
「ううん、相変わらず」
足元に向けてため息をつき、名前は力なく答えた 。
「なんて言うか…もうこっちから話し掛けるような雰囲気でもなくて」
「そんな、名前、諦めないでちょうだい」
リリーは右腕で本を抱えながら、左腕を伸ばして名前の肩に手をかけた。
「あなたは彼と同じ寮なんだから。お願いよ。あなた達が仲直りしてくれないと、私だって困るわ」
美しい顔が眉を八の字に下げながら、自分をじっと見つめている。名前はどこか気まずさを感じて、さっと視線を逸らした。そんな目で見ないで欲しい。リリーは分かっていないのだ。セブルスにとって、自分とリリーが同じ意味での"友人"であるはずがない。リリーは何も分かっちゃいないー。
「うん…努力する」
心の奥底に込み上げる苛立ちにも似た感情をぐっと押し殺して、名前はリリーの顔を見ぬまま呟いた。近頃、彼女に対してこんな気持ちを抱く事が増えている。リリーは何も悪くないのに。そんな自己嫌悪が、名前の胸の内を更に掻き乱していた。
温室のドアを開いた瞬間、室内にいた何人かが名前たちを怪訝そうな目で振り返る。グリフィンドールとスリザリンの組み合わせは今まで以上に稀有な存在になったようだ。今年度に入って変化した多くの事柄、その内の一つが他寮からスリザリンへ向けられる視線だった。名前は低学年のハッフルパフ生たちが、自分が廊下を歩くだけで何か怖いものを見たかのように端に寄る光景を何度も見てきた。まるでぶつかった途端に死の呪いをかけられるとでも思っているかのように。そんな彼らの反応を大抵のスリザリンは嘲笑い、通路が広くなってちょうど良いとばかりに我が物顔で通り過ぎていく。しかし名前は怯えた顔で自分から遠ざかろうとする下級生を見る度に、心がちくりと痛むのだった。
「スリザリンってだけで、今やすっかり悪者だもの。歩いてるだけで嫌になるよ」
授業開始から数十分。ひらひら花の苗を抱えながら、名前とリリーは教室の外にある植え込みへと向かっていた。二人が先月から育てていた苗は植え替えの時期を迎え、温室の庭で蔓を広げるひらひら花の集団に加わる事になったのだ。
「そうね…辛いわよね」
名前のぼやきに物憂げに頷きながら、リリーが言った。
「私はそういう偏見こそが一番危険なものだと思うけれど…純血主義も、あなたへの心無い彼らの態度も、突き詰めれば全部偏見のせいよ」
しばらくして目の前に名前の身長ほどの蔓を持つ大きな植物が現れ、二人はそこで足を止めた。まちまちに花が咲いている。名前はしゃがみこんで、育ちきった蔓に当たらないようスコップで慎重に土を掘り始めた。
「さっきだって、私があなたと一緒に温室に入っただけでー…」
小さなひらひら花の新たな住居を掘り進めながら、名前は苦々しげに呟いた。
「グリフィンドールの人たちは何か嫌なものでも見たかのような目を向けてくる。隣にあなたが一緒にいるんだから、私がそうであるわけないのに…」
「勿論よ。みんな、あなたがあんな卑劣な奴らと同じだなんて思ってないわ」
名前から一メートルほど離れた位置で、大きなひらひら花越しにリリーが答えた。
「ただ過敏になってるだけなのよ。ほら、この間あの許せない事件があったでしょう。メリー・マクドナルドの…」
その名前を聞いて、名前は思わず力いっぱいにスコップを土に突きつけた。マルシベールが彼女に何をしたのか、リリーから聞いた時は心底ぞっとしたものだ。凶悪な騒ぎを起こしている死喰い人とやらと何ら変わらない。決して冗談では済まされない、悪質な闇の魔術だったのだ。
「あんな嫌なやつと友達になるなんて、セブは一体何を考えてるのかしら…」
リリーの声が遠くに響く。名前は小さな鉢からひらひら花を慎重に取り出し、今しがた掘ったばかりの穴にその根を植えた。花の蔓がペシペシと手を叩く。まるで別れの挨拶のようだ。自分を励ましてくれているようなその仕草に、名前は小さく微笑んだ。
「そういえば、名前」
植え替えを無事に終えたリリーが、ローズの背後にまわりながらたずねた。
「ここに一緒に来たのは初めてじゃないわね。覚えてる?」
「うん」
名前は振り返り、服についた土を払って立ち上がった。
「一年生の時…ここで初めて、あなたと話した」
「そうね」
はにかんだ笑顔を名前に向けて、リリーはしばしの間黙ってひらひら花を見つめていた。風になびく豊かな赤毛は、あの頃と変わらない無邪気さを含んでいる。名前は空になった鉢をぶら下げながら、リリーの横顔をじっと見た。彼女は美しい。
思い出の場所を後にして、二人は温室への帰路を歩き始めた。すれ違いに他の生徒たちが各々の植え替え場所へと向かっていく。緑色のローブが目に入る度、それがセブルスの姿ではないかと習慣的に確かめてしまう。仮にそうだったとしても、声を掛けてもらえるはずないのに。凛として前を向くリリーとは対照的に、名前はどんよりと暗い気持ちに呑み込まれるようだった。右奥から騒がしい笑い声がする。声の方向へちらと視線をやると、ウィゲン樹の鉢植えを抱えながら大股で歩くジェームズたちが見えた。彼らはこちらに気付くことなく、いつものようにあれこれを話し合いながら鉢植えを運ぶべき場所に運んでいる。
「リリー、ちょっと先に行ってて」
「え?」
その場でぴたりと立ち止まった名前を振り返り、リリーは不思議そうな顔をした。
「どうしたの?何かあった?」
「あーえっと、植え替えの最後に土を被せるのを忘れたかもしれなくて」
後方をちらちらと気にする素振りをしながら、名前は咄嗟にでまかせを言った。
「そう?」
明らかに怪訝そうな表情で、リリーが問いかけた。
「私の記憶では、あなたのひらひら花はきちんと植えられてたように思うけど…」
「心配になってきちゃったから、一度確かめに行ってくる」
名前はリリーを先へと急き立てつつ、出来損ないの言い訳に慌てて付け足しをした。
「あと、ちょっとトイレ」
リリーが肩をすくめて温室へ戻って行ったのを確認してから、名前は自然な足取りを装ってジェームズたちの後を追った。周囲の生徒たちがちょうど良いカモフラージュになる。こんな時、素性の知られていない動物もどきならそれこそ変身が役に立つのだろう。しかし自分をモデルに散々教えてきた相手にとっては何の意味もない。動物もどきは秘めるべき能力なのだというマクゴナガルからの忠告を、名前は今更ながらに噛みしめた。
ジェームズたちはスリザリン生とは死んでも同じ敷地を選ばないと決めたようで、既に作業を進めている緑色のローブを避けるようにして庭のはずれへと向かっていく。名前は彼らが背の高い迷路のような茂みに沿って歩いている事に気付き、先回りしてその茂みの裏側へとまわった。ジェームズたちの声が段々とはっきり聞こえてくる。大人の背よりもずっと高い生垣を隔てながら、とうとう名前は彼らの真横の位置に並んだ。
「で、これからどうする?」
シリウス・ブラックが苛立った様子で何か議論を持ちかけているようだ。
「毎晩閲覧禁止の棚に行くのもそろそろ飽きてきたぞ。次は何のステップが必要なのか、名前に一言聞くんじゃダメなのか?」
茂みの先で自分の名前が出たことに驚き、名前は危うく木の枝に躓きかけるところだった。彼らは動物もどきの話をしている。お目当てのスペースを見つけたのか、四人の足音はそこで止まった。
「いや…ここまで来たからには、自分たちの力でやりたい。そう思わないか?」
自信とプライドに満ちた物言いで、ジェームズがシリウスを諭した。
「今の僕たちなら名前なしでも成し遂げられるさ」
「聞いたか、ピーター。肝に銘じておくんだな」
シリウスは短くため息をつき、今すべき作業に向き合い始めたようだった。四人がスコップで土を掘り返す音が聞こえる。
「それにしても、だ」
しばらく経った頃、再びシリウスが口を開いた。
「スネイプの野郎…あいつのせいで、せっかくのチャンスが台無しだ。未だにコソコソと嗅ぎ回りやがって」
ジェームズが生返事をした。リーマスとピーターは何を思うのか、黙ったままだ。名前は音をたてぬよう慎重に忍び足をしながら、ドアを隔てて耳を澄ますが如く、生垣に顔をくっつけた。
「あいつは隙あらば僕たちを退学させられる理由を見つけようとしているからな。今だってどこかで聞き耳立ててるかもしれない」
ジェームズの言葉に名前は思わず体を強ばらせた。今この状態で彼らに見つかってしまったら、どう言い訳すれば良いのだろう。
「スリザリンとの合同授業なんて、罰則のトイレ掃除よりも勘弁だぜ」
シリウスの言葉の後に、初めてピーターがへらへら笑う声がした。ジェームズが深く相槌を打ち、付け加えるように言った。
「せめて箒の授業だったらな。奴らの鼻をへし折ってやれるのに」
リーマス以外の笑い声がその場に響く。彼が今どんな表情をしているか、名前には何となく察しがつくような気がした。三人もそれに気付いたのだろう。笑い声がやんだ頃、シリウスが「リーマス」と声をかけた。
「そういえば今日は満月だったな」
話題の重さとは裏腹に、シリウスの言葉は全く深刻さをはらんでいなかった。まるで夕食のメニューの話をするかのように、彼は難なく自然に言ってのけた。
「ああ。もうこの授業が終わったら、マダム・ポンフリーのところに行かないと」
ようやくリーマスが口を開いた。疲れきった声だ。空が刻一刻と暗くなっていくのが、彼には憂鬱でたまらないのだろう。
「そうだな。満月、満月…」
シリウスがぼやくように繰り返した。そしてふと思いついたように、一同に疑問を投げかけた。
「今夜もスネイプはリーマスの後をつけると思うか?」
「思うね」
ジェームズが即座に答えた。
「今年に入ってそうじゃなかった事なんてあるか?」
「そうだよな」
シリウスは何やら自信ありげな様子で、噛みしめるように呟いた。
「つまり、我々が奴にお目にかかれる可能性も非常に高いというわけだ」
太陽が一度も雲間から顔を覗かせる事なく、一日が終わろうとしている。薬草学の授業を終え、自由時間に明日までの宿題を片付けた名前はいつもより早めに大広間へ入った。テーブルに夕食が現れるのはもう少し先だろう。部屋には自分を含め、レイブンクローとハッフルパフの数人しかいない。しかしそれでいい。名前は持ち込んだ本を読み進めるフリをしながら、注意深く大広間の入口扉を見つめていた。
薬草学でシリウスたちが話していた事の内容がどうも引っ掛かる。セブルスが満月の日のリーマスをつけ回しているなど、名前にとっては初耳だった。太陽はとうとう顔を出さなかったが、皮肉な事に満月は今宵も夜空を照らすのだろう。天井に広がる魔法の空が、日が暮れるにつれ雲が流れていった事を告げている。幾ばくかの星の光を従えながら、満月は今にも昇り上がってくるようだ。
名前の心は言い知れぬ不安でいっぱいだった。シリウスは今夜、リーマスをつけるセブルスにあえて出くわすつもりだ。その後彼らがどういう衝突をするのかは、ある程度想像がつく。ジェームズとシリウスがセブルスとやり合い、ピーターは影でその様を楽しそうに観戦するのだろう。
シリウスの口からマルシベールやエイブリーの名前は出なかった。セブルスが一人でリーマスを追っているという事だ。リーマスはいつ暴れ柳へ向かうんだろう?名前はちらちらと時計に目をやりながら、本の背を握りしめた。満月が出てからでは遅い。もう既に移動したのだろうか?
セブルスが今この場に現れますように。名前は必死にそう願った。マルシベールたちと一緒でもいい。いつものように夕食をとり、余計な詮索をする事なく談話室へと帰ってくれれば。ジェームズたちと無為な争いを交わさずにいてくれれば、今日のところはそれで十分だ。
数分後、テーブルにカトラリーがカチャカチャと置かれ始めた。銀のフォークやナイフ、真っ白な皿が所狭しに並べられる。その音を皮切りに、四寮の生徒たちが列をなして大広間に入ってきた。名前は本を閉じ、混み合う入口をじっと見つめた。ほどけていく列の中心を注視しながら、緑のローブを一人も逃すまいと目で追っていく。しかしセブルスの姿は数分経っても現れない。そうこうする内にテーブルは燻製の香り漂う夕食で埋め尽くされ、それを取り分ける食器の音が広間に鳴り響いた。名前の視線の先に目当ての人物は現れない。ミランダが静かに名前の正面に座り、訳知り顔で同じように入口へと視線を向けた。二人は言葉さえ交わさぬまま、人まばらとなった扉を見つめていた。そして駆け足で飛び込んできた深紅のローブの三人を見て、名前は「あっ」と小さく声を上げた。
ジェームズ、シリウス、ピーターが何やら笑い合いながらグリフィンドールの席へと歩いていく。彼らの服や髪は、ジェームズのいつもくしゃくしゃな癖っ毛を除いては、一箇所も乱れていない。制服を少々着崩してはいるものの、喧嘩の後でない事は確かだ。彼らのその様子に名前はほっと胸を撫で下ろした。ジェームズたちはセブルスへの攻撃を今夜は思い止まったのかもしれない。天井の端に満月が現れ始めた。リーマスはもう叫びの屋敷へ行ってしまった頃だろう。
名前は扉から目を逸らし、大皿にのったスモークサーモンと、沈黙を維持し続けているミランダとに対面しようとした。しかし何かがおかしい。名前は改めて振り返り、今や生徒でいっぱいになったスリザリンのテーブルをざっと見渡した。マルシベールとエイブリーが席に着いて食事を始めている。
「セブルスは?」
咄嗟に差した嫌な予感を、名前は堪らず口にした。
「いつも、マルシベールの横にいるじゃない…セブルスはどこ?」
ミランダは名前を見つめながら、「さあ」と肩をすくめた。彼女は今、名前の"嫌な予感"を心の内で共有しているはずだ。しかしミランダはどうしようもないと言わんばかりに、ため息をついて夕食を皿に取り分け始めた。
大広間は賑やかな声で埋め尽くされ、入口の扉はとうとうひとりでにバタンと閉まった。夕食を望む全員が部屋に揃ったという意味だ。名前はゆっくりと入口から顔を背け、おもむろにフォークを握って食事に臨む素振りをした。見かねたミランダが名前の皿にサーモンを魔法で寄こす。名前はぼんやりと礼を言い、濃い焼き目のついたメインディッシュを小さく切り分ける作業にしばし没頭する事にした。
リーマスはマダム・ポンフリーに引率されて暴れ柳に向かう。親指大の切り身を口にしながら、名前は頭の中で考えた。マダム・ポンフリーの目をかい潜るだけでも難しいのに、ましてや暴れ柳のその先へなど、ジェームズたち以外の誰が辿り着けようか。普通の生徒たちの目から見れば、あの木はただの恐ろしい木だ。その秘密を暴く事はセブルスにだって出来やしないだろう。
彼はリーマスが暴れ柳の根元に潜りこむのを見たのだろうか。もしその姿を見たとしても、後に続くのは容易ではない。その敷地に一歩足を踏み入れようものなら、暴れ柳は否応なく拳を振り下ろしてくる。初めてあの木に近付いた日の事を思い出し、名前は思わず目を瞑った。巨大な棍棒を振り回すかのようなあの姿。一撃でも食らったらひとたまりもないだろうと思わせる、あの重さと俊敏さ。骨折だけで済めばまだいいものだ。名前はそのおぞましい光景を思い浮かべた後、新たな不安にサーモンをごくりと飲み込んだ。もし、セブルスが怪我をしていたら?
あり得ない話ではない。リーマスが暴れ柳の穴に入っていくのを見たとしたら、彼はその後に続こうとするだろう。しかしそこにあの大樹の拳が襲いかかってきたとしたら。ジェームズたちとの喧嘩とは比べ物にならない怪我を負ってしまう。暴れ柳を止める術など、その秘密を知る者以外にどうして分かるだろう。ましてや彼はジェームズたちほど身体能力が高いわけでもないのに。
「私、もうお腹いっぱいだから行くね」
サーモンの一切れだけを平らげ、名前はフォークを置いてミランダに告げた。新たな不安が心を占める。手足がそわそわと動き出し、とても座ってなどいられない。
「あまり遅くならない事ね」
空になったゴブレットに飲み物を注ぎ足しながら、ミランダが言った。
「就寝時間までには寮に戻った方がいいわ」
「うん、分かってる」
生徒たちが食事を続ける中、名前は席を立って大広間の出入口へと向かった。マルシベールがちらと自分を見た気がする。不快な視線に振り返ることもせず、名前は扉を開けて廊下へと出た。先程までの賑やかさが嘘だったかのように、辺りはしんと静まり返っている。冷たい空気が北から流れ、廊下の奥には古いドレスを纏ったゴーストが見える。名前は"気配消しの石"を麻袋から取り出し、それをぎゅっと握りしめ夜の校庭へと向かった。
フクロウの鳴き声が森に響き、身震いするような風が音を立てて吹き荒んでいる。月の光だけが照らす夜道を、名前は早足で進んで行った。セブルスがどうか無事でありますように。怪我をする事も、暴れ柳に近付く事もしていませんように。名前はそう祈りながら、人気のない暗い道を急いだ。最悪の光景がふと脳裏によぎる度、名前はそれを払いのけるように首を振った。
しかし、もし嫌な予感が当たってしまっていたら。怪我をして横たわっているセブルスを見つけた場合、どうすればいいんだろう?息を切らしながら、名前は必死に考えた。自分の浮遊呪文はセブルスの重さにも耐えてくれるだろうか。医務室に連れて行けたとして、マダム・ポンフリーにどう言い訳すれば良いのか。廊下で倒れていたと言ったら不審な顔をされるだろうか。名前は頭の中にありとあらゆる考えを張り巡らせた。そしてある事にはっと気付き、突然ぴたりと足を止めた。そもそも自分が暴れ柳の元へ向かっているこの状況自体が、セブルスからすれば不自然なのではないか?
青ざめた顔で、名前は思わずその場にしゃがみこんだ。そうだった。自分はなんてバカなのだろう。今セブルスを追って暴れ柳の敷地にたどり着こうものなら、自分はリーマスの秘密を知っていると白状するようなものだ。名前は手の中の石を一層強く握りしめ、慌てて元来た道を辿った。今の自分は誰にも見つかってはならない。セブルスにも、ジェームズたちにも、他の誰であってもだ。
名前は自身の浅はかさに呆れ返りながら、灯りのともる城の中へと走った。セブルスを止めたいという一心から、自分が重大な秘密を隠し持っている事を忘れていた。もう今はどうする事も出来ない。セブルスが大広間に何食わぬ顔で現れ、遅れて食事をとっている事を祈るしかない。
名前は息を切らしながら城の階段までたどり着き、がっくりと膝を折った。夕食を終えた生徒たちで踊り場は溢れ、誰も今しがた戻ったばかりの名前の存在には気付いていない。名前は混雑に飲み込まれるように前へ進み、乱れた髪を直す気力もなくその流れに身を任せた。ジェームズが自分の横を駆け抜けて行った気がする。しかし今はグリフィンドールの彼らの行動など、どうでも良かった。早く城の中でセブルスの姿を確認したい。大広間、図書館、地下牢、談話室。心当たりがある場所を全て探さなくては。名前は押し寄せる波に逆らうように大広間の扉に手をかけ、平和な食事の余韻漂うその部屋を蒼白な顔で見渡した。
就寝時間までには寮に戻った方が良い、ミランダのその言葉に従い、名前は見回りに出る監督生とすれ違いにスリザリン寮へ帰った。結局城のどこを探してもセブルスは見つからなかった。自分の最悪の予想が当たってしまったのだろうか。暴れ柳の下で倒れているセブルスを想像すると、言葉にできない感情がこみ上げるようで、とても平静ではいられない。談話室の暖炉の傍で、マルシベールたちが耳障りな話をしている。普段ならその声を耳に入れる事すらせず、まっすぐに寝室へと向かう。しかし今夜ばかりはそうもいかない。無事に寮へと戻ってくるセブルスをこの目で見ない限りは、一睡も出来そうにないのだ。名前は部屋の隅のソファになだれ込むように腰掛けた。マルシベールから大広間で向けられたものと同じ視線を肌に感じる。セブルスが今何処にいるかなど、どうせ彼は知らないのだろう。名前はこめかみに手を当ててその視線を遮るようにしながら、談話室にセブルスが現れるのをじっと待ち続けた。
時間はゆっくりと過ぎ去っていった。談話室には段々と人がいなくなり、二時間を過ぎた頃、薄暗いその部屋には名前以外とうとう誰もいなくなった。暖炉の火がパチパチと音を立てる。真っ黒な湖の底で、何かが動く気配がする。名前はソファの肘掛にもたれながら、石扉をじっと見つめていた。あまりにも長い間目を向けていたせいで、石の凹凸が絵画のような模様に思えてくる。その扉が動く幻覚をもう何度も見た。しかし実際は監督生を一人通したのみで、壁は相変わらず微動だにせぬままその場にずっしりと構えている。そんな状況にあってもなお、名前は少しの眠気さえ感じる事が出来なかった。この時間の遅さが、セブルスの身に何か唯ならぬ事件が起きた事を裏付けている。
今か今かと待ち続けたその時がやってきたのは真夜中を過ぎた頃だった。低い音を響かせながら開く石扉に名前は飛び上がり、ソファの背に片手でしがみついてよろける足を無理やりに固定した。スリザリン寮へ戻ってきたセブルスは、名前の想像とそう遠くない姿をしていた。顔に擦り傷を作り、服は土まみれでひどく汚れている。暗い談話室に一人佇む名前の存在に、セブルスは一瞬驚いた顔をした。しかしすぐにそれは、この上なく屈辱的で不機嫌そうな表情へと変わった。
「…何があったの?」
破れかけたローブを羽織るセブルスに近寄りながら、名前は恐る恐るたずねた。
「何も。殺されかけただけだ」
セブルスがぶっきらぼうに放った言葉に、名前は目を見開いて彼を見た。大仰な表現だとしても、笑えない冗談だ。
「殺されかけた…?」
名前は声を震わせながら、オウム返しに呟いた。セブルスは自分の予想通り暴れ柳の根元を覗こうとしたに違いない。そこであの拳を振り落とされたのだ…。しかしセブルスが口にした答えは、名前の予想を遥かに超えるものだった。
「ああ、そうだとも。君のお友達にな」
セブルスは名前を振りほどくように談話室の奥へと向かった。足も怪我しているようだ。名前は彼を引き止める勇気もなく、ただ信じられない思いでその場に立ち尽くした。
まさか、ジェームズたちに?片足を引きずるセブルスの姿と、そのボロボロになった衣服を名前は食い入るように見つめた。思えば自分が校庭から城に戻った際、走り去るジェームズの姿を見た気がする。しかし彼一人にセブルスがあんなにも無惨にやられるだろうか?シリウスが加わったとして、互角にやり合うのが彼らの常だと言うのに。様々な疑問が頭の中に渦巻く。寝室の入口前でセブルスは不意に振り返り、真っ黒な瞳で名前を鋭く睨みつけた。
「…君は知っていたな?」
セブルスに指差され、名前は全身に恐怖と戸惑いが走るのを感じた。彼が何を意味しているのか全く分からない。名前は口を微かに開いたまま、何も言葉を出せずにいた。
「そうやって黙っているのが何よりの証拠だ」
セブルスは顔を歪めながら、名前を指差す腕をゆっくりと下ろした。
「君は知っていた…恐らくもうずっと前から…」
「待って、何のことを言っているの?」
部屋の奥に立つセブルスと向き合いながら、名前は必死の思いでたずねた。事態の不明瞭さが不安と焦りを最大限にまで煽り、今や手足は小刻みに震えている。
「とぼけるな!」
セブルスは怒りを顕に、名前に掴みかかる勢いで迫った。湖の底中に響かんばかりの叫び声に、名前は青ざめながら彼の顔を見上げた。
「君は奴の正体を知っていた。知った上で、奴と親交を持っていた」
セブルスは息を荒らげて、まるでそうしていないと気が済まないとばかりに、擦り切れたローブの下で杖を握りしめた。
「前に暴れ柳のそばに君がいた時…あの言い訳は嘘だったな?君はポッターたちと奴の秘密を共有して、それを野放しにしていた!」
セブルスの怒りの意味を真に理解した途端、名前は目の前が真っ白になりそうだった。セブルスは見てしまったのだ。狼人間であるリーマスの姿を、その目でしっかりと見てしまった。
「でも…どうして…」
名前は殆どかすれ声になりながら、口をぱくぱくと動かした。それ以上は言葉が続かなかった。今夜起こった出来事の恐ろしさは、自分の想像をゆうに超えていたのだ。
「どうして狼人間の姿を見たかって?ああ、教えてやろうじゃないか」
セブルスは自暴自棄にぶちまけるかのように、名前の肩を乱暴に掴んで言った。
「僕は以前からあいつが怪しいと思っていた。そして満月の夜にやつが校医に連れられどこへ行くかをも突き止めた。あとはその先に何があるかを見るだけだった…」
セブルスはあがった息を抑えるように、一度深呼吸をしてから、見たことも無いような冷たい目を名前に向けた。
「そして今日、親切にも君の友人の一人であるシリウス・ブラックが僕にそこへの行き方を教えてくれたんだ。あの木の幹のコブを長い棒で突けば道が拓けるとな…奴が言ったことは本当だった。僕は穴に入ることが出来た」
名前はもはや返す言葉が無かった。薬草学の授業中にシリウスが思いついた企みとは、この事だったのだ。
「お陰様で僕は長年疑問に思っていた謎を突き止めることが出来た…感謝しなくてはな…ブラックにも、奴の正体を知りながら僕に隠していた君にも…」
「それは…!」
セブルスへの反論に、名前は思わず声を張り上げた。
「そんな…それは、言うべきではなかったからよ…あなただろうと誰だろうと、人の秘密を勝手に打ち明けるなんて…」
「涙ぐましい友情だな?」
セブルスは名前を突き飛ばすように肩から手を離し、苦悶に満ちた表情で言った。
「僕もそんな友情にあやかれたらどんなに良かったか」
吐き捨てるように嫌味を残して、セブルスは名前に背を向け立ち止まることなく寝室へと消えていった。床のカーペットに土が点々と続いている。名前は一人掛けのソファにゆっくりと腰を下ろし、対処し切れない感情の波に両手で顔を覆った。
シリウスは正気だろうか?悪戯では済まされない。今夜セブルスは死ぬところだった。自身の意志に反して人を殺してしまったリーマスに待ち受ける試練を、シリウスは想像もしなかったのだろうか?名前は恐ろしい運命の寸前で逃げ切ったセブルスに安堵すると共に、ここまで拗れてしまった互いの関係への絶望から吐き気さえするようだった。やはりあの時、引き返さずに暴れ柳へ向かうべきだったのだ。言い訳は何とでもなったかもしれない。少なくともセブルスがリーマスの姿を見なければ、ここまで彼の気を動転させてしまう事もなかっただろう。
どうしてシリウスはセブルスを放っておいてくれなかったんだろう。いくらいがみ合う相手とは言え、面白半分にその死を望むなんて。悲しさと怒りと悔しさが、名前の体中を支配するかのようだった。暴れ柳の巨大な枝にセブルスが叩きのめされ、骨を折るだけではシリウスの心は満たされなかったのだろうか。セブルスは彼らとは違う。器用に暴れ柳の攻撃を避ける事なんて出来ないだろう。シリウスが何も言わずとも、追いかけた時点でセブルスは一人自滅していたかもしれないのに。
ふと、名前の脳裏に新たな疑問がよぎった。あんな狭い穴の先で、他に逃げ場のない叫びの屋敷で、セブルスは狼人間となったリーマスからどう逃げ切ったのだろう?暴れる大木をくぐり抜けるより遥かに危ういその状況を、彼はどうやって回避したのだろうか。ひどく汚れきった格好だとは思ったが、足から血を流すでもなく、かすり傷程度で無事に城まで帰ってきた。何か魔法を使ったのだろうか。並の生徒には想像もつかないような、闇の魔法を…。
名前は頭を抱え、きつく目を閉じながら、明ける気配のない夜を冷たいソファの上で過ごした。暖炉にはじける火ですら温もりからは程遠く、寒々しい静けさが辺りを支配する。瞼の裏に浮かび上がる二人の孤独な姿を重ね合わせながら、名前は深く息を吐いた。セブルスもリーマスも、今宵はひどく不安で仕方がないはずなのだ。そのどちらにも寄り添えぬまま、綻びばかりを広げてしまう自分のあまりの無力さに、名前はただ涙を流す事しか出来なかった。
ホグワーツでの生活はすっかり様変わりしてしまった。セブルスはあれ以来名前と関わりを持つ事なく、マルシベールたちと寝食を共にしている。この数ヶ月、名前は何度も彼を説得しようと努力を重ねてきた。しかし話し掛けようとしても、彼はすぐにどこかへ行ってしまう。"一人きりの授業"がこれほど孤独で居心地の悪いものであるとは、名前は想像もしていなかった。魔法薬学の教室で、隣に座って調合のあれやこれを指示してくれる存在はもういない。たとえ見本と異なる色の煙を生み出してしまっても、誰も何も言わないのだ。
とはいえレイブンクローとの合同授業では、そんな状況も珍しい事ではない。地下牢教室に響くおしゃべり声は全てスリザリン生のもので、レイブンクロー生たちは黙々と一人で自身の大鍋に向き合っている。しかしその状況が名前の心を慰める事は決してなかった。この孤独感は単なる寂しさではない。一人で授業を受けるのが心細い訳でもない。ただセブルスが自分から離れていってしまった事への、どうしようもない喪失感なのだと、名前は胸が張り裂けんばかりに理解していた。
新学期初日以来、リーマスも表立って話しかけるのをやめてしまった。グリフィンドールの四人はすれ違っても名前に視線すら向ける事なく、相変わらず他人のように振る舞い続けている。セブルスを想って下した決断が、結果的に名前に双方を失わせてしまった。セブルスの事はもう諦めたから、動物もどきの練習を続けよう。自分がそう言える程めでたい性格だったならば、少しは救われるのだろうか。ご都合主義を恐れずに打ち明ける勇気があれば、形は違えど楽しい生活に戻れるだろうか。
しかしセブルスが自分のもとに戻ってくる可能性だってゼロではない。これだけ距離を置かれながらも、名前は一筋の希望を捨てきれないでいた。マルシベールとエイブリーに嫌気が差す日が、セブルスにもいつか来るかもしれない。かつての自分とパーキンソンのように、友人ではいられなくなる瞬間はある日突然やって来る。目先の孤独から逃れようとジェームズたちにすがるのは、浅ましく危険な考えだ。その全てが愚かな皮算用だと分かっていても、一度自分が突き放した彼らにすり寄るのはこの上なく難しい事だった。
長い階段を下った先に、自分を待つ影を見つけて名前は彼女の元へと走った。大きな緑の瞳と目が合う。名前の周りで唯一変わらないものといえば、ミランダと、正面で手を振るリリーの存在だけだ。名前とリリーは肩を並べ、スリザリンとグリフィンドールの合同授業が行われる薬草学の温室へと歩き始めた。
「セブとはどう?」
やや足早に廊下を進みながら、リリーがたずねた。
「今週は何か一言でも話せた?」
「ううん、相変わらず」
足元に向けてため息をつき、名前は力なく答えた 。
「なんて言うか…もうこっちから話し掛けるような雰囲気でもなくて」
「そんな、名前、諦めないでちょうだい」
リリーは右腕で本を抱えながら、左腕を伸ばして名前の肩に手をかけた。
「あなたは彼と同じ寮なんだから。お願いよ。あなた達が仲直りしてくれないと、私だって困るわ」
美しい顔が眉を八の字に下げながら、自分をじっと見つめている。名前はどこか気まずさを感じて、さっと視線を逸らした。そんな目で見ないで欲しい。リリーは分かっていないのだ。セブルスにとって、自分とリリーが同じ意味での"友人"であるはずがない。リリーは何も分かっちゃいないー。
「うん…努力する」
心の奥底に込み上げる苛立ちにも似た感情をぐっと押し殺して、名前はリリーの顔を見ぬまま呟いた。近頃、彼女に対してこんな気持ちを抱く事が増えている。リリーは何も悪くないのに。そんな自己嫌悪が、名前の胸の内を更に掻き乱していた。
温室のドアを開いた瞬間、室内にいた何人かが名前たちを怪訝そうな目で振り返る。グリフィンドールとスリザリンの組み合わせは今まで以上に稀有な存在になったようだ。今年度に入って変化した多くの事柄、その内の一つが他寮からスリザリンへ向けられる視線だった。名前は低学年のハッフルパフ生たちが、自分が廊下を歩くだけで何か怖いものを見たかのように端に寄る光景を何度も見てきた。まるでぶつかった途端に死の呪いをかけられるとでも思っているかのように。そんな彼らの反応を大抵のスリザリンは嘲笑い、通路が広くなってちょうど良いとばかりに我が物顔で通り過ぎていく。しかし名前は怯えた顔で自分から遠ざかろうとする下級生を見る度に、心がちくりと痛むのだった。
「スリザリンってだけで、今やすっかり悪者だもの。歩いてるだけで嫌になるよ」
授業開始から数十分。ひらひら花の苗を抱えながら、名前とリリーは教室の外にある植え込みへと向かっていた。二人が先月から育てていた苗は植え替えの時期を迎え、温室の庭で蔓を広げるひらひら花の集団に加わる事になったのだ。
「そうね…辛いわよね」
名前のぼやきに物憂げに頷きながら、リリーが言った。
「私はそういう偏見こそが一番危険なものだと思うけれど…純血主義も、あなたへの心無い彼らの態度も、突き詰めれば全部偏見のせいよ」
しばらくして目の前に名前の身長ほどの蔓を持つ大きな植物が現れ、二人はそこで足を止めた。まちまちに花が咲いている。名前はしゃがみこんで、育ちきった蔓に当たらないようスコップで慎重に土を掘り始めた。
「さっきだって、私があなたと一緒に温室に入っただけでー…」
小さなひらひら花の新たな住居を掘り進めながら、名前は苦々しげに呟いた。
「グリフィンドールの人たちは何か嫌なものでも見たかのような目を向けてくる。隣にあなたが一緒にいるんだから、私がそうであるわけないのに…」
「勿論よ。みんな、あなたがあんな卑劣な奴らと同じだなんて思ってないわ」
名前から一メートルほど離れた位置で、大きなひらひら花越しにリリーが答えた。
「ただ過敏になってるだけなのよ。ほら、この間あの許せない事件があったでしょう。メリー・マクドナルドの…」
その名前を聞いて、名前は思わず力いっぱいにスコップを土に突きつけた。マルシベールが彼女に何をしたのか、リリーから聞いた時は心底ぞっとしたものだ。凶悪な騒ぎを起こしている死喰い人とやらと何ら変わらない。決して冗談では済まされない、悪質な闇の魔術だったのだ。
「あんな嫌なやつと友達になるなんて、セブは一体何を考えてるのかしら…」
リリーの声が遠くに響く。名前は小さな鉢からひらひら花を慎重に取り出し、今しがた掘ったばかりの穴にその根を植えた。花の蔓がペシペシと手を叩く。まるで別れの挨拶のようだ。自分を励ましてくれているようなその仕草に、名前は小さく微笑んだ。
「そういえば、名前」
植え替えを無事に終えたリリーが、ローズの背後にまわりながらたずねた。
「ここに一緒に来たのは初めてじゃないわね。覚えてる?」
「うん」
名前は振り返り、服についた土を払って立ち上がった。
「一年生の時…ここで初めて、あなたと話した」
「そうね」
はにかんだ笑顔を名前に向けて、リリーはしばしの間黙ってひらひら花を見つめていた。風になびく豊かな赤毛は、あの頃と変わらない無邪気さを含んでいる。名前は空になった鉢をぶら下げながら、リリーの横顔をじっと見た。彼女は美しい。
思い出の場所を後にして、二人は温室への帰路を歩き始めた。すれ違いに他の生徒たちが各々の植え替え場所へと向かっていく。緑色のローブが目に入る度、それがセブルスの姿ではないかと習慣的に確かめてしまう。仮にそうだったとしても、声を掛けてもらえるはずないのに。凛として前を向くリリーとは対照的に、名前はどんよりと暗い気持ちに呑み込まれるようだった。右奥から騒がしい笑い声がする。声の方向へちらと視線をやると、ウィゲン樹の鉢植えを抱えながら大股で歩くジェームズたちが見えた。彼らはこちらに気付くことなく、いつものようにあれこれを話し合いながら鉢植えを運ぶべき場所に運んでいる。
「リリー、ちょっと先に行ってて」
「え?」
その場でぴたりと立ち止まった名前を振り返り、リリーは不思議そうな顔をした。
「どうしたの?何かあった?」
「あーえっと、植え替えの最後に土を被せるのを忘れたかもしれなくて」
後方をちらちらと気にする素振りをしながら、名前は咄嗟にでまかせを言った。
「そう?」
明らかに怪訝そうな表情で、リリーが問いかけた。
「私の記憶では、あなたのひらひら花はきちんと植えられてたように思うけど…」
「心配になってきちゃったから、一度確かめに行ってくる」
名前はリリーを先へと急き立てつつ、出来損ないの言い訳に慌てて付け足しをした。
「あと、ちょっとトイレ」
リリーが肩をすくめて温室へ戻って行ったのを確認してから、名前は自然な足取りを装ってジェームズたちの後を追った。周囲の生徒たちがちょうど良いカモフラージュになる。こんな時、素性の知られていない動物もどきならそれこそ変身が役に立つのだろう。しかし自分をモデルに散々教えてきた相手にとっては何の意味もない。動物もどきは秘めるべき能力なのだというマクゴナガルからの忠告を、名前は今更ながらに噛みしめた。
ジェームズたちはスリザリン生とは死んでも同じ敷地を選ばないと決めたようで、既に作業を進めている緑色のローブを避けるようにして庭のはずれへと向かっていく。名前は彼らが背の高い迷路のような茂みに沿って歩いている事に気付き、先回りしてその茂みの裏側へとまわった。ジェームズたちの声が段々とはっきり聞こえてくる。大人の背よりもずっと高い生垣を隔てながら、とうとう名前は彼らの真横の位置に並んだ。
「で、これからどうする?」
シリウス・ブラックが苛立った様子で何か議論を持ちかけているようだ。
「毎晩閲覧禁止の棚に行くのもそろそろ飽きてきたぞ。次は何のステップが必要なのか、名前に一言聞くんじゃダメなのか?」
茂みの先で自分の名前が出たことに驚き、名前は危うく木の枝に躓きかけるところだった。彼らは動物もどきの話をしている。お目当てのスペースを見つけたのか、四人の足音はそこで止まった。
「いや…ここまで来たからには、自分たちの力でやりたい。そう思わないか?」
自信とプライドに満ちた物言いで、ジェームズがシリウスを諭した。
「今の僕たちなら名前なしでも成し遂げられるさ」
「聞いたか、ピーター。肝に銘じておくんだな」
シリウスは短くため息をつき、今すべき作業に向き合い始めたようだった。四人がスコップで土を掘り返す音が聞こえる。
「それにしても、だ」
しばらく経った頃、再びシリウスが口を開いた。
「スネイプの野郎…あいつのせいで、せっかくのチャンスが台無しだ。未だにコソコソと嗅ぎ回りやがって」
ジェームズが生返事をした。リーマスとピーターは何を思うのか、黙ったままだ。名前は音をたてぬよう慎重に忍び足をしながら、ドアを隔てて耳を澄ますが如く、生垣に顔をくっつけた。
「あいつは隙あらば僕たちを退学させられる理由を見つけようとしているからな。今だってどこかで聞き耳立ててるかもしれない」
ジェームズの言葉に名前は思わず体を強ばらせた。今この状態で彼らに見つかってしまったら、どう言い訳すれば良いのだろう。
「スリザリンとの合同授業なんて、罰則のトイレ掃除よりも勘弁だぜ」
シリウスの言葉の後に、初めてピーターがへらへら笑う声がした。ジェームズが深く相槌を打ち、付け加えるように言った。
「せめて箒の授業だったらな。奴らの鼻をへし折ってやれるのに」
リーマス以外の笑い声がその場に響く。彼が今どんな表情をしているか、名前には何となく察しがつくような気がした。三人もそれに気付いたのだろう。笑い声がやんだ頃、シリウスが「リーマス」と声をかけた。
「そういえば今日は満月だったな」
話題の重さとは裏腹に、シリウスの言葉は全く深刻さをはらんでいなかった。まるで夕食のメニューの話をするかのように、彼は難なく自然に言ってのけた。
「ああ。もうこの授業が終わったら、マダム・ポンフリーのところに行かないと」
ようやくリーマスが口を開いた。疲れきった声だ。空が刻一刻と暗くなっていくのが、彼には憂鬱でたまらないのだろう。
「そうだな。満月、満月…」
シリウスがぼやくように繰り返した。そしてふと思いついたように、一同に疑問を投げかけた。
「今夜もスネイプはリーマスの後をつけると思うか?」
「思うね」
ジェームズが即座に答えた。
「今年に入ってそうじゃなかった事なんてあるか?」
「そうだよな」
シリウスは何やら自信ありげな様子で、噛みしめるように呟いた。
「つまり、我々が奴にお目にかかれる可能性も非常に高いというわけだ」
太陽が一度も雲間から顔を覗かせる事なく、一日が終わろうとしている。薬草学の授業を終え、自由時間に明日までの宿題を片付けた名前はいつもより早めに大広間へ入った。テーブルに夕食が現れるのはもう少し先だろう。部屋には自分を含め、レイブンクローとハッフルパフの数人しかいない。しかしそれでいい。名前は持ち込んだ本を読み進めるフリをしながら、注意深く大広間の入口扉を見つめていた。
薬草学でシリウスたちが話していた事の内容がどうも引っ掛かる。セブルスが満月の日のリーマスをつけ回しているなど、名前にとっては初耳だった。太陽はとうとう顔を出さなかったが、皮肉な事に満月は今宵も夜空を照らすのだろう。天井に広がる魔法の空が、日が暮れるにつれ雲が流れていった事を告げている。幾ばくかの星の光を従えながら、満月は今にも昇り上がってくるようだ。
名前の心は言い知れぬ不安でいっぱいだった。シリウスは今夜、リーマスをつけるセブルスにあえて出くわすつもりだ。その後彼らがどういう衝突をするのかは、ある程度想像がつく。ジェームズとシリウスがセブルスとやり合い、ピーターは影でその様を楽しそうに観戦するのだろう。
シリウスの口からマルシベールやエイブリーの名前は出なかった。セブルスが一人でリーマスを追っているという事だ。リーマスはいつ暴れ柳へ向かうんだろう?名前はちらちらと時計に目をやりながら、本の背を握りしめた。満月が出てからでは遅い。もう既に移動したのだろうか?
セブルスが今この場に現れますように。名前は必死にそう願った。マルシベールたちと一緒でもいい。いつものように夕食をとり、余計な詮索をする事なく談話室へと帰ってくれれば。ジェームズたちと無為な争いを交わさずにいてくれれば、今日のところはそれで十分だ。
数分後、テーブルにカトラリーがカチャカチャと置かれ始めた。銀のフォークやナイフ、真っ白な皿が所狭しに並べられる。その音を皮切りに、四寮の生徒たちが列をなして大広間に入ってきた。名前は本を閉じ、混み合う入口をじっと見つめた。ほどけていく列の中心を注視しながら、緑のローブを一人も逃すまいと目で追っていく。しかしセブルスの姿は数分経っても現れない。そうこうする内にテーブルは燻製の香り漂う夕食で埋め尽くされ、それを取り分ける食器の音が広間に鳴り響いた。名前の視線の先に目当ての人物は現れない。ミランダが静かに名前の正面に座り、訳知り顔で同じように入口へと視線を向けた。二人は言葉さえ交わさぬまま、人まばらとなった扉を見つめていた。そして駆け足で飛び込んできた深紅のローブの三人を見て、名前は「あっ」と小さく声を上げた。
ジェームズ、シリウス、ピーターが何やら笑い合いながらグリフィンドールの席へと歩いていく。彼らの服や髪は、ジェームズのいつもくしゃくしゃな癖っ毛を除いては、一箇所も乱れていない。制服を少々着崩してはいるものの、喧嘩の後でない事は確かだ。彼らのその様子に名前はほっと胸を撫で下ろした。ジェームズたちはセブルスへの攻撃を今夜は思い止まったのかもしれない。天井の端に満月が現れ始めた。リーマスはもう叫びの屋敷へ行ってしまった頃だろう。
名前は扉から目を逸らし、大皿にのったスモークサーモンと、沈黙を維持し続けているミランダとに対面しようとした。しかし何かがおかしい。名前は改めて振り返り、今や生徒でいっぱいになったスリザリンのテーブルをざっと見渡した。マルシベールとエイブリーが席に着いて食事を始めている。
「セブルスは?」
咄嗟に差した嫌な予感を、名前は堪らず口にした。
「いつも、マルシベールの横にいるじゃない…セブルスはどこ?」
ミランダは名前を見つめながら、「さあ」と肩をすくめた。彼女は今、名前の"嫌な予感"を心の内で共有しているはずだ。しかしミランダはどうしようもないと言わんばかりに、ため息をついて夕食を皿に取り分け始めた。
大広間は賑やかな声で埋め尽くされ、入口の扉はとうとうひとりでにバタンと閉まった。夕食を望む全員が部屋に揃ったという意味だ。名前はゆっくりと入口から顔を背け、おもむろにフォークを握って食事に臨む素振りをした。見かねたミランダが名前の皿にサーモンを魔法で寄こす。名前はぼんやりと礼を言い、濃い焼き目のついたメインディッシュを小さく切り分ける作業にしばし没頭する事にした。
リーマスはマダム・ポンフリーに引率されて暴れ柳に向かう。親指大の切り身を口にしながら、名前は頭の中で考えた。マダム・ポンフリーの目をかい潜るだけでも難しいのに、ましてや暴れ柳のその先へなど、ジェームズたち以外の誰が辿り着けようか。普通の生徒たちの目から見れば、あの木はただの恐ろしい木だ。その秘密を暴く事はセブルスにだって出来やしないだろう。
彼はリーマスが暴れ柳の根元に潜りこむのを見たのだろうか。もしその姿を見たとしても、後に続くのは容易ではない。その敷地に一歩足を踏み入れようものなら、暴れ柳は否応なく拳を振り下ろしてくる。初めてあの木に近付いた日の事を思い出し、名前は思わず目を瞑った。巨大な棍棒を振り回すかのようなあの姿。一撃でも食らったらひとたまりもないだろうと思わせる、あの重さと俊敏さ。骨折だけで済めばまだいいものだ。名前はそのおぞましい光景を思い浮かべた後、新たな不安にサーモンをごくりと飲み込んだ。もし、セブルスが怪我をしていたら?
あり得ない話ではない。リーマスが暴れ柳の穴に入っていくのを見たとしたら、彼はその後に続こうとするだろう。しかしそこにあの大樹の拳が襲いかかってきたとしたら。ジェームズたちとの喧嘩とは比べ物にならない怪我を負ってしまう。暴れ柳を止める術など、その秘密を知る者以外にどうして分かるだろう。ましてや彼はジェームズたちほど身体能力が高いわけでもないのに。
「私、もうお腹いっぱいだから行くね」
サーモンの一切れだけを平らげ、名前はフォークを置いてミランダに告げた。新たな不安が心を占める。手足がそわそわと動き出し、とても座ってなどいられない。
「あまり遅くならない事ね」
空になったゴブレットに飲み物を注ぎ足しながら、ミランダが言った。
「就寝時間までには寮に戻った方がいいわ」
「うん、分かってる」
生徒たちが食事を続ける中、名前は席を立って大広間の出入口へと向かった。マルシベールがちらと自分を見た気がする。不快な視線に振り返ることもせず、名前は扉を開けて廊下へと出た。先程までの賑やかさが嘘だったかのように、辺りはしんと静まり返っている。冷たい空気が北から流れ、廊下の奥には古いドレスを纏ったゴーストが見える。名前は"気配消しの石"を麻袋から取り出し、それをぎゅっと握りしめ夜の校庭へと向かった。
フクロウの鳴き声が森に響き、身震いするような風が音を立てて吹き荒んでいる。月の光だけが照らす夜道を、名前は早足で進んで行った。セブルスがどうか無事でありますように。怪我をする事も、暴れ柳に近付く事もしていませんように。名前はそう祈りながら、人気のない暗い道を急いだ。最悪の光景がふと脳裏によぎる度、名前はそれを払いのけるように首を振った。
しかし、もし嫌な予感が当たってしまっていたら。怪我をして横たわっているセブルスを見つけた場合、どうすればいいんだろう?息を切らしながら、名前は必死に考えた。自分の浮遊呪文はセブルスの重さにも耐えてくれるだろうか。医務室に連れて行けたとして、マダム・ポンフリーにどう言い訳すれば良いのか。廊下で倒れていたと言ったら不審な顔をされるだろうか。名前は頭の中にありとあらゆる考えを張り巡らせた。そしてある事にはっと気付き、突然ぴたりと足を止めた。そもそも自分が暴れ柳の元へ向かっているこの状況自体が、セブルスからすれば不自然なのではないか?
青ざめた顔で、名前は思わずその場にしゃがみこんだ。そうだった。自分はなんてバカなのだろう。今セブルスを追って暴れ柳の敷地にたどり着こうものなら、自分はリーマスの秘密を知っていると白状するようなものだ。名前は手の中の石を一層強く握りしめ、慌てて元来た道を辿った。今の自分は誰にも見つかってはならない。セブルスにも、ジェームズたちにも、他の誰であってもだ。
名前は自身の浅はかさに呆れ返りながら、灯りのともる城の中へと走った。セブルスを止めたいという一心から、自分が重大な秘密を隠し持っている事を忘れていた。もう今はどうする事も出来ない。セブルスが大広間に何食わぬ顔で現れ、遅れて食事をとっている事を祈るしかない。
名前は息を切らしながら城の階段までたどり着き、がっくりと膝を折った。夕食を終えた生徒たちで踊り場は溢れ、誰も今しがた戻ったばかりの名前の存在には気付いていない。名前は混雑に飲み込まれるように前へ進み、乱れた髪を直す気力もなくその流れに身を任せた。ジェームズが自分の横を駆け抜けて行った気がする。しかし今はグリフィンドールの彼らの行動など、どうでも良かった。早く城の中でセブルスの姿を確認したい。大広間、図書館、地下牢、談話室。心当たりがある場所を全て探さなくては。名前は押し寄せる波に逆らうように大広間の扉に手をかけ、平和な食事の余韻漂うその部屋を蒼白な顔で見渡した。
就寝時間までには寮に戻った方が良い、ミランダのその言葉に従い、名前は見回りに出る監督生とすれ違いにスリザリン寮へ帰った。結局城のどこを探してもセブルスは見つからなかった。自分の最悪の予想が当たってしまったのだろうか。暴れ柳の下で倒れているセブルスを想像すると、言葉にできない感情がこみ上げるようで、とても平静ではいられない。談話室の暖炉の傍で、マルシベールたちが耳障りな話をしている。普段ならその声を耳に入れる事すらせず、まっすぐに寝室へと向かう。しかし今夜ばかりはそうもいかない。無事に寮へと戻ってくるセブルスをこの目で見ない限りは、一睡も出来そうにないのだ。名前は部屋の隅のソファになだれ込むように腰掛けた。マルシベールから大広間で向けられたものと同じ視線を肌に感じる。セブルスが今何処にいるかなど、どうせ彼は知らないのだろう。名前はこめかみに手を当ててその視線を遮るようにしながら、談話室にセブルスが現れるのをじっと待ち続けた。
時間はゆっくりと過ぎ去っていった。談話室には段々と人がいなくなり、二時間を過ぎた頃、薄暗いその部屋には名前以外とうとう誰もいなくなった。暖炉の火がパチパチと音を立てる。真っ黒な湖の底で、何かが動く気配がする。名前はソファの肘掛にもたれながら、石扉をじっと見つめていた。あまりにも長い間目を向けていたせいで、石の凹凸が絵画のような模様に思えてくる。その扉が動く幻覚をもう何度も見た。しかし実際は監督生を一人通したのみで、壁は相変わらず微動だにせぬままその場にずっしりと構えている。そんな状況にあってもなお、名前は少しの眠気さえ感じる事が出来なかった。この時間の遅さが、セブルスの身に何か唯ならぬ事件が起きた事を裏付けている。
今か今かと待ち続けたその時がやってきたのは真夜中を過ぎた頃だった。低い音を響かせながら開く石扉に名前は飛び上がり、ソファの背に片手でしがみついてよろける足を無理やりに固定した。スリザリン寮へ戻ってきたセブルスは、名前の想像とそう遠くない姿をしていた。顔に擦り傷を作り、服は土まみれでひどく汚れている。暗い談話室に一人佇む名前の存在に、セブルスは一瞬驚いた顔をした。しかしすぐにそれは、この上なく屈辱的で不機嫌そうな表情へと変わった。
「…何があったの?」
破れかけたローブを羽織るセブルスに近寄りながら、名前は恐る恐るたずねた。
「何も。殺されかけただけだ」
セブルスがぶっきらぼうに放った言葉に、名前は目を見開いて彼を見た。大仰な表現だとしても、笑えない冗談だ。
「殺されかけた…?」
名前は声を震わせながら、オウム返しに呟いた。セブルスは自分の予想通り暴れ柳の根元を覗こうとしたに違いない。そこであの拳を振り落とされたのだ…。しかしセブルスが口にした答えは、名前の予想を遥かに超えるものだった。
「ああ、そうだとも。君のお友達にな」
セブルスは名前を振りほどくように談話室の奥へと向かった。足も怪我しているようだ。名前は彼を引き止める勇気もなく、ただ信じられない思いでその場に立ち尽くした。
まさか、ジェームズたちに?片足を引きずるセブルスの姿と、そのボロボロになった衣服を名前は食い入るように見つめた。思えば自分が校庭から城に戻った際、走り去るジェームズの姿を見た気がする。しかし彼一人にセブルスがあんなにも無惨にやられるだろうか?シリウスが加わったとして、互角にやり合うのが彼らの常だと言うのに。様々な疑問が頭の中に渦巻く。寝室の入口前でセブルスは不意に振り返り、真っ黒な瞳で名前を鋭く睨みつけた。
「…君は知っていたな?」
セブルスに指差され、名前は全身に恐怖と戸惑いが走るのを感じた。彼が何を意味しているのか全く分からない。名前は口を微かに開いたまま、何も言葉を出せずにいた。
「そうやって黙っているのが何よりの証拠だ」
セブルスは顔を歪めながら、名前を指差す腕をゆっくりと下ろした。
「君は知っていた…恐らくもうずっと前から…」
「待って、何のことを言っているの?」
部屋の奥に立つセブルスと向き合いながら、名前は必死の思いでたずねた。事態の不明瞭さが不安と焦りを最大限にまで煽り、今や手足は小刻みに震えている。
「とぼけるな!」
セブルスは怒りを顕に、名前に掴みかかる勢いで迫った。湖の底中に響かんばかりの叫び声に、名前は青ざめながら彼の顔を見上げた。
「君は奴の正体を知っていた。知った上で、奴と親交を持っていた」
セブルスは息を荒らげて、まるでそうしていないと気が済まないとばかりに、擦り切れたローブの下で杖を握りしめた。
「前に暴れ柳のそばに君がいた時…あの言い訳は嘘だったな?君はポッターたちと奴の秘密を共有して、それを野放しにしていた!」
セブルスの怒りの意味を真に理解した途端、名前は目の前が真っ白になりそうだった。セブルスは見てしまったのだ。狼人間であるリーマスの姿を、その目でしっかりと見てしまった。
「でも…どうして…」
名前は殆どかすれ声になりながら、口をぱくぱくと動かした。それ以上は言葉が続かなかった。今夜起こった出来事の恐ろしさは、自分の想像をゆうに超えていたのだ。
「どうして狼人間の姿を見たかって?ああ、教えてやろうじゃないか」
セブルスは自暴自棄にぶちまけるかのように、名前の肩を乱暴に掴んで言った。
「僕は以前からあいつが怪しいと思っていた。そして満月の夜にやつが校医に連れられどこへ行くかをも突き止めた。あとはその先に何があるかを見るだけだった…」
セブルスはあがった息を抑えるように、一度深呼吸をしてから、見たことも無いような冷たい目を名前に向けた。
「そして今日、親切にも君の友人の一人であるシリウス・ブラックが僕にそこへの行き方を教えてくれたんだ。あの木の幹のコブを長い棒で突けば道が拓けるとな…奴が言ったことは本当だった。僕は穴に入ることが出来た」
名前はもはや返す言葉が無かった。薬草学の授業中にシリウスが思いついた企みとは、この事だったのだ。
「お陰様で僕は長年疑問に思っていた謎を突き止めることが出来た…感謝しなくてはな…ブラックにも、奴の正体を知りながら僕に隠していた君にも…」
「それは…!」
セブルスへの反論に、名前は思わず声を張り上げた。
「そんな…それは、言うべきではなかったからよ…あなただろうと誰だろうと、人の秘密を勝手に打ち明けるなんて…」
「涙ぐましい友情だな?」
セブルスは名前を突き飛ばすように肩から手を離し、苦悶に満ちた表情で言った。
「僕もそんな友情にあやかれたらどんなに良かったか」
吐き捨てるように嫌味を残して、セブルスは名前に背を向け立ち止まることなく寝室へと消えていった。床のカーペットに土が点々と続いている。名前は一人掛けのソファにゆっくりと腰を下ろし、対処し切れない感情の波に両手で顔を覆った。
シリウスは正気だろうか?悪戯では済まされない。今夜セブルスは死ぬところだった。自身の意志に反して人を殺してしまったリーマスに待ち受ける試練を、シリウスは想像もしなかったのだろうか?名前は恐ろしい運命の寸前で逃げ切ったセブルスに安堵すると共に、ここまで拗れてしまった互いの関係への絶望から吐き気さえするようだった。やはりあの時、引き返さずに暴れ柳へ向かうべきだったのだ。言い訳は何とでもなったかもしれない。少なくともセブルスがリーマスの姿を見なければ、ここまで彼の気を動転させてしまう事もなかっただろう。
どうしてシリウスはセブルスを放っておいてくれなかったんだろう。いくらいがみ合う相手とは言え、面白半分にその死を望むなんて。悲しさと怒りと悔しさが、名前の体中を支配するかのようだった。暴れ柳の巨大な枝にセブルスが叩きのめされ、骨を折るだけではシリウスの心は満たされなかったのだろうか。セブルスは彼らとは違う。器用に暴れ柳の攻撃を避ける事なんて出来ないだろう。シリウスが何も言わずとも、追いかけた時点でセブルスは一人自滅していたかもしれないのに。
ふと、名前の脳裏に新たな疑問がよぎった。あんな狭い穴の先で、他に逃げ場のない叫びの屋敷で、セブルスは狼人間となったリーマスからどう逃げ切ったのだろう?暴れる大木をくぐり抜けるより遥かに危ういその状況を、彼はどうやって回避したのだろうか。ひどく汚れきった格好だとは思ったが、足から血を流すでもなく、かすり傷程度で無事に城まで帰ってきた。何か魔法を使ったのだろうか。並の生徒には想像もつかないような、闇の魔法を…。
名前は頭を抱え、きつく目を閉じながら、明ける気配のない夜を冷たいソファの上で過ごした。暖炉にはじける火ですら温もりからは程遠く、寒々しい静けさが辺りを支配する。瞼の裏に浮かび上がる二人の孤独な姿を重ね合わせながら、名前は深く息を吐いた。セブルスもリーマスも、今宵はひどく不安で仕方がないはずなのだ。そのどちらにも寄り添えぬまま、綻びばかりを広げてしまう自分のあまりの無力さに、名前はただ涙を流す事しか出来なかった。