第一部
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9月1日。キングス・クロスの上空は今にも雨を降らさんばかりの黒い雲で覆われていた。
汽車の後方に位置するコンパートメントにミランダと向かい合わせで座りながら、名前はうっすらと曇りかけた窓を手で撫でるように拭いた。ミランダは名前の様子を気にとめることなく、新聞をぱらぱらとめくっている。名前は拭き取った水滴の冷たさを指に感じながら、目の前に広げられた新聞の一面をちらと見た。『闇の印』と呼ばれるおどろおどろしい骸骨が見知らぬ夜空に浮かび上がっている。
この夏休みの間に、何もかもが変わってしまったかのようだった。ヴォルデモート。今やその名を知らぬ魔法使いはいない。純血主義を掲げる、新時代の指導者。彼をそう支持する闇の魔法使い達が、マグルを複数殺したという。その危険な新勢力を声高に批判した魔法使いの何人かはある日を境に突然姿を消し、行方不明の状態が2ヶ月以上続いている。
これまでもそういった事件はあった。魔法界で戦争が始まっている、兼ねてよりそう宣言する者もいた。しかしホグワーツでの生活は、城の外とは世界が異なるかのように平和で、命の危険を感じる出来事など無きに等しかった。生徒たちの大半は勉強に励み、友人と笑い合い、テストへの不安やクィディッチの勝敗などの小さな悩みを大袈裟に抱えながら充実した学生生活を送っている。美しい森と湖に囲まれ、尽きること無い食事をたらふく食べ、夜は暖かいベッドで眠りにつく。そこに何の不自由があっただろう。
そんな環境に慣れ親しんでいたホグワーツ生が、この夏休みに現実世界で目の当たりにしたショックは計り知れない。殺人、拷問、行方不明。そんなニュースが毎日のように入ってくる。夢を見ているのではないか、名前は何度もそう思っては目を擦った。ホグワーツにいた時だって、ミランダに届く新聞に毎朝目を通していたはずだ。記事を見ながら「物騒な世の中」と呟いた回数は数知れない。しかしその呟きはお決まりの台詞であって、そこに心からの危機感や恐怖といったものは含まれていなかった。『魔法省が対策をー…』そこまで読んだところで新聞をたたみ、さて今日の授業ではうまくやれるだろうかと、目の前の課題で頭をいっぱいにして大広間を去るのが日常だった。
今自分がいるこの世界はなんだろう。ホグワーツから離れて初めて、名前はイギリス全土が強大な脅威に晒されている事に気付いた。ヴォルデモートの支持者は国内のみならず、世界的に増えているという。
戦争。今までそれは語り継がれる無関係な出来事であり、歴史上のキーワードにしか過ぎなかった。魔法戦争や世界大戦は、もう何十年も前に終わった事では無かったのか。まさか、自分が生きる時代に限って。自分が戦争に巻き込まれる世代であるなど、到底信じることが出来ない。
夏休みを終えてホグワーツに戻る生徒のほとんど全員が、名前と同じ気持ちを抱いているようだった。汽車に乗る前の生徒たちの様子は、例年と明らかに違っていた。ホームに響く笑い声は少なく、両親と固く抱きしめ合って離れようとしない者もいる。見送る家族の笑顔は強ばり、それぞれが不安を押し込もうと必死のようだった。稀に余裕をたたえた家族がいるかと思えば、それらは全てスリザリン生の保護者だ。名前は異常としか思えぬその空気に早々に別れを告げ、ミランダと共に汽車へと乗り込んだ。ホグワーツ特急内のざわめきも、いつものそれとは違っていた。新学期に対する期待や、数ヶ月ぶりに会う友人との再会を喜ぶ声はどこへいってしまったのか。皆が表情を曇らせながら、今朝のニュースや昨日まであった事件の話をしている。新入生はどれほど落ち着かない気持ちでいる事だろう。青白い顔で縮こまる11歳のあどけない生徒を見ては、名前は彼らを気の毒に思った。
そんな事態の中にありながら、再会したミランダは全く以て常日頃と同じ様子だった。
恐らく彼女は何年も前から覚悟をしていたのだろう。名前はそう確信した。無言で新聞の端から端までを熟読する彼女には、そう感じさせる何かがあった。
「…トイレに行ってくるね」
遠くに響く車内販売魔女の声を耳にしながら、名前はミランダに一言告げて立ち上がった。いつもならお菓子のワゴンが通り過ぎるタイミングを逃したりはしない。しかし今日は自分でも不気味な程に食欲が無く、甘いお菓子を頬張りたいとは全く思えなかった。内臓がふわふわと揺れる感覚がする。名前は妙な気持ちの悪さを抑えながら、コンパートメントを出て別の車両へと渡った。
窓の外ではとうとう雨が降り出し、辺りは夜のように暗くなった。ガサガサと新聞をめくる音があちこちでする。名前は周囲の座席から聞こえるひそひそ声に耳をすませた。恐怖を口にする女子に、「ホグワーツほど安全な場所はない」と上級生らしき男子生徒が語りかけている。
皆が自分と同じ不安を抱えているのだ。汽車の揺れに足を取られまいと力を込めて歩きながら、名前はまた一つ先の車両へと渡った。車両間に隔てられた扉を、騒がしい音を立てぬようゆっくりと開く。名前は後ろ手で丁寧に扉を閉め、一つ前とはまた違う雰囲気に包まれたその車両を通り過ぎようとした。しかしどこからか発せられた「スネイプ」という言葉に、名前は思わず足を止めた。
「俺たちは前からお前の事が気になってたんだ。魔法薬以外に、授業では測れない大層な特技を持っている。違うか?」
高慢ちきな声が耳の奥に不快なほど響く。マルシベールだ。セブルスがその横にいるのだろうか。名前は姿の見えない彼らを手前のコンパートメントに感じながら、扉を背にかがみこんだ。
「最近世の中で起きてる事をまともに観察してれば分かるだろ。お前の能力は必要とされてるんだよ!」
マルシベールとは別の、癪に障る声の持ち主が興奮した様子で言った。エイブリーだろうか。名前は早鳴る心臓の鼓動を抑えながら、セブルスがどう答えるのか、それだけを静かに待った。彼は間違いなく今この同じ空間にいる。
「そうさ、俺たちはお前を高く評価してるんだ。なあ、スネイプ…」
マルシベールは穏やかに説き伏せるような態度で、セブルスに迫っているようだった。
「これからは俺たちと一緒に行動しないか?」
その言葉に、名前は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。この話には聞き覚えがある。地下牢でマルシベールたちの会話を盗み聞きした時だ。セブルスの才能が役に立つと、彼らは何かを獲得したような口ぶりで話していた。しかしあの頃はスリザリンの誰もが、セブルスがポリジュース薬を作ってグリフィンドールを陥れたという噂に感心して、同じような話題を繰り広げていた時期でもあった。その後も変わらぬ環境を維持し続けるセブルスを見て、名前はマルシベールたちの不穏な存在を忘れかけていたのだった。
「…そうする事で、何の得がある?」
沈黙を破ったセブルスの声に、名前は身を強ばらせた。エイブリーがふんっと鼻で笑う。三人のうちの誰かが、座席に深く腰掛け直す音が聞こえた。
「何の得があるかって?そんなの、数え切れないさ」
自信たっぷりにマルシベールが答えた。その様子はまるでかつてのルシウス・マルフォイを連想させるようで、その嫌な記憶に名前は奥歯をぐっと噛み締めた。
「お前の学びたいものは俺たちが学びたいとするものだ。いずれ世界中で求められるようになる、そんな力だ。俺たちとお前が組めば、今に学校中をあっと言わせる事が出来るだろうな」
「就職先にも困らないぞ」
恐らくマルシベールの隣で、エイブリーが笑い声を上げながら言った。マルシベールもその提案にふっと笑い、付け足すように呟いた。
「そうだ、その通りだな…お前はマルフォイしか知らないだろうが…こっちには既に、他にもパイプがあるんだぜ」
車輪の軋みが、大きすぎる雑音となって車内に響いた。大粒の雨は吹き荒れる風に煽られ、ボタボタと窓を強打していく。
「…なるほど」
一時の沈黙を経て、セブルスが口を開いた。表情の読めない、淡々とした物言いだ。コンパートメントの座席がギイと音を立てる。セブルスはきっと断ってくれるはずだ。名前は汗の滲む手を握りしめながら、足元の床板を見つめていた。そしてその視界に突如現れた影に気付き、心臓が止まりかける中あっと息を飲んだ。
「分かった」
扉の前で縮こまる名前を無表情に見下ろしながら、セブルスは背後のコンパートメントに座るマルシベールたちにはっきりと告げた。
「お前たちと共に行動しよう」
どしゃぶりの雨の中、ホグズミード駅から馬のいない馬車に揺られ、城の門をくぐった気がする。落ち着かなさそうに体を揺らす新入生たちを前に、組分け帽子が意味深な歌を歌った気もする。
汽車を降りてからの記憶が曖昧なまま、名前はぼんやりとスリザリンのテーブルに座っていた。新学期初日の夜を彩るホグワーツのきらびやかな装飾も、並べられた数々のご馳走も、まるで視界に入ってこない。霞がかったもやのようなものが、瞳にずっと張り付いている。
「…ねえ、聞いてる?」
真正面に座るはずのミランダの声すら、遥か遠くから聞こえてくるようだ。「聞いてるよ」と名前は小声で返事をした。
「吸魂鬼に魂でも吸われたかのようね」
ミランダはそうぼやいて、名前に構わず食事を始めた。生徒たちの話し声や食器を動かす雑音はまとまったひとつの塊となり、煩いと思わせる事もなく耳に馴染んでいく。名前はミランダが取り分けたローストチキンを目の前に認識しながらも、それを手にする事なく深い思考の中にのめり込んでいた。
マルシベールとエイブリーがセブルスに投げかけた提案にはどんな真意が込められていたのか。セブルスは彼らと共に行動すると、自分を前にして見せつけるように宣言した。理解するには限界のある感情の群れが、頭の中で大波となって荒れ狂っている。
なぜ、どうして?マルシベールたちに挟まれて夕食をとるセブルスを、名前は離れた席からじっと見つめた。ぼやけた視界の中で、セブルスの姿だけは急に焦点が合ったようにはっきりと見える。
セブルスは硬い表情をしながらも、新しい友人の話にきちんと耳を傾けている。表向きの対応ではない、心から興味を持って聞いている顔だ。
前にも、こんな事があったー。名前はセブルスの隣に座るマルシベールに、かつてセブルスを熱心に育て上げようとしていたルシウス・マルフォイの面影を再び重ねた。あの男は今どこで何をしているんだろう。汽車の中でマルシベールからマルフォイの名が出たのは、偶然なのか、それとも…。
名前が一分考え事をしている間に、周りの時間はその数十倍の速さで進んでいたようだった。食べ物を口に運んだ記憶も朧気のうちに、新しい監督生が新入生たちの先頭に立って寮へ向かおうとしている。真後ろで席を立ったレイブンクローの何人かが、名前の背中にぶつかりながら出口へと歩いていく。扉付近に座っていたセブルスたちの姿は人混みへと紛れ、依然としてテーブルから立ち上がらない生徒を教師陣が急き立て始めた。
名前はミランダに袖を引かれるがままに、退席する列の後方でぼんやりと頭上を眺めていた。今夜は雨のせいで星が見えない。魔法がかけられた天井ならば、嘘でも満点の星空を映してくれればいいのに。どんよりとした灰色の雲の集団は、心の不安を一層重たいものにしていく。雲間に一瞬の光線が走り、木々をなぎ倒さんばかりの雷が鳴り響いた。
「名前」
大広間を出たところで、ミランダが名前の肩を叩いた。彼女が指差す方を向くと、談話室へと向かう群衆の中、一人立ち止まったリーマス・ルーピンがこちらに手を降っていた。
「やあ」
リーマスは生徒たちの波をくぐり抜ながら、名前の方へと近付いてきた。また一段と背が伸びた。そんな事をふと思いながら、名前はリーマスの顔を見上げた。
「ちょっと名前を借りてもいいかい?」
リーマスはそうミランダに断りを入れ、「どうぞ」と去っていった彼女の背中に礼を言った。
「名前、僕と二人だけで話をするのだったら問題ないだろう?」
問題、その単語に名前はぴくりと指先を震わせた。前学期の最終日、セブルスに問い詰められた事を思い出す。"問題"の発覚は彼と自分の友情を脅かし、二寮にまたがる均衡にヒビを入れる結果となった。それでも目の前に立つリーマスは、あの日のセブルスとは対極にあるような表情で、名前の返事を辛抱強く待っている。
「うん、大丈夫」
雑踏の中、かすかに聞こえる程度の声で名前は答えた。
「ありがとう」
リーマスは穏やかに目を閉じ、ゆっくりと瞼を開いて言った。
「場所を移そう。そんなに時間は取らせないから」
無言で道行く二人が、足を止めたのはとある人気ない廊下のタペストリーの前だった。この場所には見覚えがある。周囲の視線が無いことを確認しながらリーマスがそれをめくると、下に続く隠し階段が現れた。そうだ。以前もグリフィンドールの彼らに、ここに押しやられたのだった。そう思い出しながら、名前は階段を下って狭い踊り場を目指すリーマスの後に続いた。
「去年は色々と迷惑をかけたね」
踊り場に差し掛かる最後の数段に腰掛けながら、リーマスが口を開いた。
「君は僕たちが思っていた以上に協力してくれて…とても助かったし、嬉しかったよ」
名前に隣に座るよう促し、躊躇いがちに口元を動かした後、リーマスはぽつりとたずねた。
「…僕たちと、もう会えない理由を教えて欲しいんだ」
その話だろうと覚悟はしていた。名前は顔色ひとつ変えることないまま、冷たい石段に腰を下ろした。一方的に彼らに別れを告げたあの日から、新学期に4人の内の誰かがそれを聞いてくるような気はしていたのだ。リーマスは名前に顔を向け、慌てて付け足すように言った。
「いや、僕は何となく分かってはいるんだ。ただ…君からのきちんとした回答がない限り、納得出来ないとジェームズが言っていて…」
「ううん、ジェームズの言う通りだと思う」
リーマスの瞳から逃げるように、名前は階段下の石畳に視線を落とした。
「あんな突然に言っても、混乱させるだけだって分かってた」
自分の言葉が続くのを、リーマスは黙って待っている。痛いほどの沈黙の中、名前は息の音さえ立てぬまま、両手を組んで床の一点を見つめていた。あの日見たセブルスの足元が、幻影となって目の前に現れる。
「私…あなたたちと一緒にいれて、何だかんだ楽しかった」
幻が履くその靴は汚れにまみれ、くすんだ色をしている。まるで自分がそれを磨くのをさぼっていたかのような、その汚れを見て見ぬふりをしてきたような、奇妙な罪悪感が心の奥で疼き出す。
「だけど…私…」
名前は自身の意識すら遠くに感じながら、ほとんど息まじりの声で呟いた。
「セブルスを…失いたくなくて…」
秘密の階段に、再び沈黙が流れた。眼下に広がる美しい床は、長い間見つめている内に、いくつもの薄汚れた模様が広がっていることに気付く。磨けば落ちる汚れだろうか。幻と一緒に、消えてくれる存在なのだろうか。
「名前」
固く組んでいた手は、いつの間にか震えていたようだった。リーマスは名前の手をそっと握り、温めるように優しく包んだ。
「スネイプが…君と僕たちが関わってるのを良く思わなかったんだね?」
そう言って、リーマスは自嘲気味にふっと笑った。
「いや、そりゃ、そうだよね。僕たちだって同じ事を思ってきたんだから」
リーマスは名前の手を握りしめたまま、仕方ないというように首を傾げた。
「どちらかの友情を選べなんて、あまりにも酷すぎるな。本当にごめんよ」
汽車の中で出会った最初の友人は、責めるわけでも、不平を言うわけでもなく、ただ穏やかに自分の隣に座っている。その見慣れた瞳に見つめられ、名前は思わず涙がこぼれるのを感じた。
「私…」
流れた涙は名前の手を覆うリーマスの骨ばった指にぽたりと落ちた。言う必要が無い事だとは分かっている。しかし何もかもを包み込んでくれるようなリーマスの優しさに、この心の辛さを一部でも預けてしまいたかった。
「私…セブルスが好きなの」
ローズの告白にリーマスの眉がぴくりと動いた。しかし彼はそれ以上表情を崩さず、努めてそのまま名前の話に耳を傾けようと無言の意思表示をした。
「あなたたちからすれば、馬鹿げた事に聞こえるのは分かってる…間違った選択だって、言うのも分かってる」
こみ上げる嗚咽を必死に喉の奥にとどめながら、名前は泣きじゃくる寸前の震える声で呟いた。
「だけど、彼は…本当は優しい所もあって…自分以外の誰かのために、必死になる事だって出来て…悪い所もいっぱいあるけど……今まで私を、いつも助けてくれて……」
「もういいよ、名前」
とうとう涙を止められなくなった名前の背中に、リーマスは片腕をまわし、それ以上は話さなくていいと言わんばかりに名前をぎこちなく抱きしめた。
「もういい、大丈夫だ。僕は君を否定したりはしない。君のした選択を疑う事だって、絶対にしないよ」
滲んだ視界では、床の汚れも石壁の色もインクのように混ざり合って区別がつかない。名前は目に溜まった涙を流しきるように瞼を閉じ、リーマスのローブに顔を埋めた。洗いたての清潔な香りがする。しかし記憶の内にある薬品の匂いが鼻をつき、名前はまたもや幻が現れた事を知った。目を閉じてもなお、幻影は追い掛けるのをやめてはくれない。
二人がタペストリーを抜け廊下に戻った頃、時刻は既に消灯近くなっていた。見回りの監督生が生徒たちに寮へ早く帰るよう呼びかけている。大階段付近まで帰路を共にしながら、名前とリーマスは何気ない会話をぽつりぽつりと繰り返していた。
「監督生になりたいと思うかい?」
「まさか」
涙の痕を指で拭いながら、名前はリーマスの問いに笑って答えた。
「スリザリンの誰かの面倒を見るなんてまっぴら。リーマスはどうなの?」
「僕?」
リーマスは無気力な笑みを浮かべながら、はーっと息を吐いた。
「僕こそまさかだ。考えてみた事もないよ」
「そう?あなたみたいな監督生がいたらいいなあって思うけど」
そう言って名前はリーマスの顔を覗き込むように見上げた。
「優しいし、適度に常識があって…あの4人の中ならリーマスが一番ぴったりだよ」
「彼らと一緒にしないでくれよ」
名前の言葉にリーマスは声を上げて笑った。少しずつ、お互いの雰囲気がいつも通りに戻っていく。このまま秘密も涙も、全てが無かった事になってくれはしないだろうか。
「名前、その…」
地下牢に続く階段前で立ち止まりながら、リーマスは出会った頃よりずっと低くなった声で、躊躇いがちに名前にたずねた。
「あの集会は続けられなくなるにしても…もし、僕が君と話すのを許されているのであれば…これからも、変わらず話し掛けてもいいかい」
勿論、と返事をしようとした矢先、名前は声が詰まるのを感じた。また涙が込み上げそうになったのだ。友人にそんな事を言わせてしまう今の自分は、本当に正しい道を進んでいるのだろうか。
「…うん、うん」
葛藤を胸の中に抑えながら、名前は泣きそうな顔を悟られまいと俯きがちに答えた。
「いつだって、あなたが話し掛けてくれるのを待ってる」
リーマスと別れた後の道のりは、この上なく冷たく孤独だった。暗い廊下に緑の炎が揺れる。スリザリンの敷地に入った合図だ。地下牢の石壁にもたれて会話を続ける生徒たちに、監督生は「消灯だぞ」と上辺だけの注意をして去っていく。スリザリンは決して自寮の点数を差し引くような事はしない。悪事をはたらく同寮生がいても、笑って見て見ぬふりをする。それがこの寮のやり方なのだ。
皮肉なことに、寮の扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのはマルシベールだった。寝るにはまだ早いこの時間、談話室では数人の生徒たちがたむろしている。そこにセブルスの姿がないのを確認して、名前はマルシベールに歩み寄った。
「セブルスはどこ?」
今まで挨拶すらした事の無い同級生からの問いかけに、マルシベールは心底鬱陶しそうな顔をした。
「知るもんか」
彼はぶっきらぼうにそう答えた後、顔を必要以上に高く上げ、嫌悪感たっぷりに名前を見下ろして言った。
「あんまりあいつに関わるなよ。お前、前から目障りだったんだ」
名前は少年の顔をはたきたい衝動をぐっと堪え、談話室の入口へと身を翻した。マルシベールの嫌味ったらしい笑い声が背中に突き刺さる。名前は扉を乱暴に開き、再び暗い廊下に身を投げるようにしてスリザリン寮を飛び出した。先ほど監督生に注意を受けた一行が、すれ違いに談話室へ戻っていく。
冷たい石壁にもたれ掛かった体勢のまま、名前はその場にへたり込むように腰を下ろした。ここにいればいずれ彼が現れることを自分はよく知っている。両腕で自らを抱きしめながら、名前は誰にも表情を悟られまいと、胸元に深く顔を埋めた。廊下は静まり返っている。誰かが自分を監視しているわけでも、見知ったゴーストが通り過ぎるわけでもない。しかしこの暗い通路の奥に待ち人が現れるのを、今か今かと眺めながら待ち続けるのはあまりに苦しい。この心が不安も何も感じない、鋼のように無機質なものならば、いっそここで眠ってしまいたい。名前はそう願いながら、固く瞼を閉じた。しかしホグワーツ特急で目にした光景が切れ目なく繰り返されるばかりで、心臓の鼓動が休まる兆しは依然として見られない。
その足音は突然やって来た。てきぱきとした歩き方とは程遠い、気だるそうに踵を引きずって進む音。静寂に包まれた地下牢で、その音は必要以上に大きく響いた。その響きが最大限になった時、足音は止まり、名前は両腕を組んだまま僅かに顔を上げた。幻となって現れた薄汚れた靴が、現実として今目の前にある。
「…そんな所で何をしている」
頭上から投げかけられたその声は、名前の心情とは対照的にこの上ない冷静さを帯びていた。
「今回の合言葉は君の頭でも覚えられる簡易さだと思ったが?」
「…追い出されたと言ったら?」
あながち嘘とも言いきれない自分の答えに自嘲しながら、名前は足元に向けて小さく呟いた。
「本当は、あなたを待ってた。話したい事があって」
数秒の間、セブルスは名前を見下ろしながらその話が始まるのを待っていた。しかしなかなか言葉を発しないその様子に痺れを切らしたのか、彼は億劫そうに膝を屈めて名前の顔を真っ直ぐに見た。
「君は何を考えているんだ?」
探るように目を細めながらセブルスはたずねた。
「僕を避けていたかと思えば、汽車で盗み聞きなどして」
「避けてなんかない!」
セブルスの言葉に名前は顔を上げ、焦りを顕に反論した。星のない夜空をそのまま映したような、真っ暗な瞳と目が合う。
「私は…ただ、友達として…」
反射的に声を上げたものの、後に続く適切な言葉を見つけるのは容易ではなかった。名前は口ごもりながら、誤解を与えない言い方は無いかと必死に探した。
「汽車であなたの声が聞こえたから…話したいと思っただけで…」
「それで、たまたまタイミングが悪かったと?」
疑念たっぷりの口調で、セブルスは名前に再び問いかけた。名前は小さく頷き、視線を足元に戻した。自分を見据える黒い瞳が恐ろしい。
「セブルス…あの…」
両手を膝上で強く握りしめながら、名前は唇を震わせながら口を開いた。
「汽車であなたがマルシベールたちに言ったこと…あれは、どういう意味なの?」
「どういう意味だと?」
投げかけられた疑問に面食らったかのように、セブルスは眉をひそめて言った。
「君があの場で全てを聞いていたなら…そのままの意味だ。他に何がある?」
「あいつらと一緒に行動する気でいるの?」
そんな事は受け入れられないと、名前の本心が内側で叫びを上げた。名前は恐れをも忘れて身を起こし、セブルスに掴みかかった。
「あなたがあいつらと…まさか、そんな一緒にいられるわけないでしょ?マグル生まれを酷い呼び名で虐げるような、根のひん曲がったやつらなのに?」
名前に肩を揺さぶられながらも、セブルスは微動だにしなかった。名前の目を冷静に見据えたままだ。彼は無駄な息遣い一つせずに、低い声で呟いた。
「僕に君以外の友人が出来たことが気に入らないと、はっきり言ったらどうだ」
「セブルス…!」
名前は湧き上がる激しい感情に顔を歪め、彼の肩を掴む十の指に力を込めた。
「違う、そういう事じゃない…あなたは分かってない…マルシベールたちがどういう人間なのか…」
「君が彼らを気に食わないから、僕に対しても付き合うなと?」
セブルスは冷めきった表情で、名前を見つめて言った。
「それと同じ事を、今まで僕は君に対して願ってきたつもりだった」
苦々しい表情を浮かべた後、セブルスは肩に置かれた名前の手を取り、鬱陶しそうにそれを引き離した。
「しかし上手くいかなかった…新学期早々、グリフィンドールの生徒と二人きりで仲良く大広間から消えていく程だ。改めて思い知らされたね」
名前は目を見開いてセブルスを見た。空を掴む手が震える。
「僕の要求は何の効力も持たない。それどころか間違っていたのではないかと…そう思うようにすらなった」
言葉を失った名前を足下にセブルスは立ち上がり、埃を払うようにローブを翻した。
「一方の感情で互いの交友関係を縛るなんて、馬鹿馬鹿しい事だ。君ならよく分かるだろう?僕にそれを教えてくれた、張本人なのだから」
冷えきった床に膝をついたまま、名前は目の前で閉ざされていく石扉を見た。かすかな薬品の香りを残して、見慣れた後ろ姿が消えていく。汚れにまみれた髪が、服が、靴が、音もなしに去っていく。泣きじゃくる自分を包んだリーマスの清潔なローブを思い出しながら、名前は声を詰まらせた。
戻れるものならば、戻りたい。そう名前は心の底で小さく呟いた。同じ輝きの同じ服に身を包んでいた、出会った日の自分たちに。その先に衝突が待っているとは想像もしていなかった、あの日の幼い自分たちに。
「私は、あの日に戻りたい…」
口にしてもなお叶わぬ願いは、湖の底にまで轟く雷に打たれ、暗闇の墓場へと葬られていった。
汽車の後方に位置するコンパートメントにミランダと向かい合わせで座りながら、名前はうっすらと曇りかけた窓を手で撫でるように拭いた。ミランダは名前の様子を気にとめることなく、新聞をぱらぱらとめくっている。名前は拭き取った水滴の冷たさを指に感じながら、目の前に広げられた新聞の一面をちらと見た。『闇の印』と呼ばれるおどろおどろしい骸骨が見知らぬ夜空に浮かび上がっている。
この夏休みの間に、何もかもが変わってしまったかのようだった。ヴォルデモート。今やその名を知らぬ魔法使いはいない。純血主義を掲げる、新時代の指導者。彼をそう支持する闇の魔法使い達が、マグルを複数殺したという。その危険な新勢力を声高に批判した魔法使いの何人かはある日を境に突然姿を消し、行方不明の状態が2ヶ月以上続いている。
これまでもそういった事件はあった。魔法界で戦争が始まっている、兼ねてよりそう宣言する者もいた。しかしホグワーツでの生活は、城の外とは世界が異なるかのように平和で、命の危険を感じる出来事など無きに等しかった。生徒たちの大半は勉強に励み、友人と笑い合い、テストへの不安やクィディッチの勝敗などの小さな悩みを大袈裟に抱えながら充実した学生生活を送っている。美しい森と湖に囲まれ、尽きること無い食事をたらふく食べ、夜は暖かいベッドで眠りにつく。そこに何の不自由があっただろう。
そんな環境に慣れ親しんでいたホグワーツ生が、この夏休みに現実世界で目の当たりにしたショックは計り知れない。殺人、拷問、行方不明。そんなニュースが毎日のように入ってくる。夢を見ているのではないか、名前は何度もそう思っては目を擦った。ホグワーツにいた時だって、ミランダに届く新聞に毎朝目を通していたはずだ。記事を見ながら「物騒な世の中」と呟いた回数は数知れない。しかしその呟きはお決まりの台詞であって、そこに心からの危機感や恐怖といったものは含まれていなかった。『魔法省が対策をー…』そこまで読んだところで新聞をたたみ、さて今日の授業ではうまくやれるだろうかと、目の前の課題で頭をいっぱいにして大広間を去るのが日常だった。
今自分がいるこの世界はなんだろう。ホグワーツから離れて初めて、名前はイギリス全土が強大な脅威に晒されている事に気付いた。ヴォルデモートの支持者は国内のみならず、世界的に増えているという。
戦争。今までそれは語り継がれる無関係な出来事であり、歴史上のキーワードにしか過ぎなかった。魔法戦争や世界大戦は、もう何十年も前に終わった事では無かったのか。まさか、自分が生きる時代に限って。自分が戦争に巻き込まれる世代であるなど、到底信じることが出来ない。
夏休みを終えてホグワーツに戻る生徒のほとんど全員が、名前と同じ気持ちを抱いているようだった。汽車に乗る前の生徒たちの様子は、例年と明らかに違っていた。ホームに響く笑い声は少なく、両親と固く抱きしめ合って離れようとしない者もいる。見送る家族の笑顔は強ばり、それぞれが不安を押し込もうと必死のようだった。稀に余裕をたたえた家族がいるかと思えば、それらは全てスリザリン生の保護者だ。名前は異常としか思えぬその空気に早々に別れを告げ、ミランダと共に汽車へと乗り込んだ。ホグワーツ特急内のざわめきも、いつものそれとは違っていた。新学期に対する期待や、数ヶ月ぶりに会う友人との再会を喜ぶ声はどこへいってしまったのか。皆が表情を曇らせながら、今朝のニュースや昨日まであった事件の話をしている。新入生はどれほど落ち着かない気持ちでいる事だろう。青白い顔で縮こまる11歳のあどけない生徒を見ては、名前は彼らを気の毒に思った。
そんな事態の中にありながら、再会したミランダは全く以て常日頃と同じ様子だった。
恐らく彼女は何年も前から覚悟をしていたのだろう。名前はそう確信した。無言で新聞の端から端までを熟読する彼女には、そう感じさせる何かがあった。
「…トイレに行ってくるね」
遠くに響く車内販売魔女の声を耳にしながら、名前はミランダに一言告げて立ち上がった。いつもならお菓子のワゴンが通り過ぎるタイミングを逃したりはしない。しかし今日は自分でも不気味な程に食欲が無く、甘いお菓子を頬張りたいとは全く思えなかった。内臓がふわふわと揺れる感覚がする。名前は妙な気持ちの悪さを抑えながら、コンパートメントを出て別の車両へと渡った。
窓の外ではとうとう雨が降り出し、辺りは夜のように暗くなった。ガサガサと新聞をめくる音があちこちでする。名前は周囲の座席から聞こえるひそひそ声に耳をすませた。恐怖を口にする女子に、「ホグワーツほど安全な場所はない」と上級生らしき男子生徒が語りかけている。
皆が自分と同じ不安を抱えているのだ。汽車の揺れに足を取られまいと力を込めて歩きながら、名前はまた一つ先の車両へと渡った。車両間に隔てられた扉を、騒がしい音を立てぬようゆっくりと開く。名前は後ろ手で丁寧に扉を閉め、一つ前とはまた違う雰囲気に包まれたその車両を通り過ぎようとした。しかしどこからか発せられた「スネイプ」という言葉に、名前は思わず足を止めた。
「俺たちは前からお前の事が気になってたんだ。魔法薬以外に、授業では測れない大層な特技を持っている。違うか?」
高慢ちきな声が耳の奥に不快なほど響く。マルシベールだ。セブルスがその横にいるのだろうか。名前は姿の見えない彼らを手前のコンパートメントに感じながら、扉を背にかがみこんだ。
「最近世の中で起きてる事をまともに観察してれば分かるだろ。お前の能力は必要とされてるんだよ!」
マルシベールとは別の、癪に障る声の持ち主が興奮した様子で言った。エイブリーだろうか。名前は早鳴る心臓の鼓動を抑えながら、セブルスがどう答えるのか、それだけを静かに待った。彼は間違いなく今この同じ空間にいる。
「そうさ、俺たちはお前を高く評価してるんだ。なあ、スネイプ…」
マルシベールは穏やかに説き伏せるような態度で、セブルスに迫っているようだった。
「これからは俺たちと一緒に行動しないか?」
その言葉に、名前は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。この話には聞き覚えがある。地下牢でマルシベールたちの会話を盗み聞きした時だ。セブルスの才能が役に立つと、彼らは何かを獲得したような口ぶりで話していた。しかしあの頃はスリザリンの誰もが、セブルスがポリジュース薬を作ってグリフィンドールを陥れたという噂に感心して、同じような話題を繰り広げていた時期でもあった。その後も変わらぬ環境を維持し続けるセブルスを見て、名前はマルシベールたちの不穏な存在を忘れかけていたのだった。
「…そうする事で、何の得がある?」
沈黙を破ったセブルスの声に、名前は身を強ばらせた。エイブリーがふんっと鼻で笑う。三人のうちの誰かが、座席に深く腰掛け直す音が聞こえた。
「何の得があるかって?そんなの、数え切れないさ」
自信たっぷりにマルシベールが答えた。その様子はまるでかつてのルシウス・マルフォイを連想させるようで、その嫌な記憶に名前は奥歯をぐっと噛み締めた。
「お前の学びたいものは俺たちが学びたいとするものだ。いずれ世界中で求められるようになる、そんな力だ。俺たちとお前が組めば、今に学校中をあっと言わせる事が出来るだろうな」
「就職先にも困らないぞ」
恐らくマルシベールの隣で、エイブリーが笑い声を上げながら言った。マルシベールもその提案にふっと笑い、付け足すように呟いた。
「そうだ、その通りだな…お前はマルフォイしか知らないだろうが…こっちには既に、他にもパイプがあるんだぜ」
車輪の軋みが、大きすぎる雑音となって車内に響いた。大粒の雨は吹き荒れる風に煽られ、ボタボタと窓を強打していく。
「…なるほど」
一時の沈黙を経て、セブルスが口を開いた。表情の読めない、淡々とした物言いだ。コンパートメントの座席がギイと音を立てる。セブルスはきっと断ってくれるはずだ。名前は汗の滲む手を握りしめながら、足元の床板を見つめていた。そしてその視界に突如現れた影に気付き、心臓が止まりかける中あっと息を飲んだ。
「分かった」
扉の前で縮こまる名前を無表情に見下ろしながら、セブルスは背後のコンパートメントに座るマルシベールたちにはっきりと告げた。
「お前たちと共に行動しよう」
どしゃぶりの雨の中、ホグズミード駅から馬のいない馬車に揺られ、城の門をくぐった気がする。落ち着かなさそうに体を揺らす新入生たちを前に、組分け帽子が意味深な歌を歌った気もする。
汽車を降りてからの記憶が曖昧なまま、名前はぼんやりとスリザリンのテーブルに座っていた。新学期初日の夜を彩るホグワーツのきらびやかな装飾も、並べられた数々のご馳走も、まるで視界に入ってこない。霞がかったもやのようなものが、瞳にずっと張り付いている。
「…ねえ、聞いてる?」
真正面に座るはずのミランダの声すら、遥か遠くから聞こえてくるようだ。「聞いてるよ」と名前は小声で返事をした。
「吸魂鬼に魂でも吸われたかのようね」
ミランダはそうぼやいて、名前に構わず食事を始めた。生徒たちの話し声や食器を動かす雑音はまとまったひとつの塊となり、煩いと思わせる事もなく耳に馴染んでいく。名前はミランダが取り分けたローストチキンを目の前に認識しながらも、それを手にする事なく深い思考の中にのめり込んでいた。
マルシベールとエイブリーがセブルスに投げかけた提案にはどんな真意が込められていたのか。セブルスは彼らと共に行動すると、自分を前にして見せつけるように宣言した。理解するには限界のある感情の群れが、頭の中で大波となって荒れ狂っている。
なぜ、どうして?マルシベールたちに挟まれて夕食をとるセブルスを、名前は離れた席からじっと見つめた。ぼやけた視界の中で、セブルスの姿だけは急に焦点が合ったようにはっきりと見える。
セブルスは硬い表情をしながらも、新しい友人の話にきちんと耳を傾けている。表向きの対応ではない、心から興味を持って聞いている顔だ。
前にも、こんな事があったー。名前はセブルスの隣に座るマルシベールに、かつてセブルスを熱心に育て上げようとしていたルシウス・マルフォイの面影を再び重ねた。あの男は今どこで何をしているんだろう。汽車の中でマルシベールからマルフォイの名が出たのは、偶然なのか、それとも…。
名前が一分考え事をしている間に、周りの時間はその数十倍の速さで進んでいたようだった。食べ物を口に運んだ記憶も朧気のうちに、新しい監督生が新入生たちの先頭に立って寮へ向かおうとしている。真後ろで席を立ったレイブンクローの何人かが、名前の背中にぶつかりながら出口へと歩いていく。扉付近に座っていたセブルスたちの姿は人混みへと紛れ、依然としてテーブルから立ち上がらない生徒を教師陣が急き立て始めた。
名前はミランダに袖を引かれるがままに、退席する列の後方でぼんやりと頭上を眺めていた。今夜は雨のせいで星が見えない。魔法がかけられた天井ならば、嘘でも満点の星空を映してくれればいいのに。どんよりとした灰色の雲の集団は、心の不安を一層重たいものにしていく。雲間に一瞬の光線が走り、木々をなぎ倒さんばかりの雷が鳴り響いた。
「名前」
大広間を出たところで、ミランダが名前の肩を叩いた。彼女が指差す方を向くと、談話室へと向かう群衆の中、一人立ち止まったリーマス・ルーピンがこちらに手を降っていた。
「やあ」
リーマスは生徒たちの波をくぐり抜ながら、名前の方へと近付いてきた。また一段と背が伸びた。そんな事をふと思いながら、名前はリーマスの顔を見上げた。
「ちょっと名前を借りてもいいかい?」
リーマスはそうミランダに断りを入れ、「どうぞ」と去っていった彼女の背中に礼を言った。
「名前、僕と二人だけで話をするのだったら問題ないだろう?」
問題、その単語に名前はぴくりと指先を震わせた。前学期の最終日、セブルスに問い詰められた事を思い出す。"問題"の発覚は彼と自分の友情を脅かし、二寮にまたがる均衡にヒビを入れる結果となった。それでも目の前に立つリーマスは、あの日のセブルスとは対極にあるような表情で、名前の返事を辛抱強く待っている。
「うん、大丈夫」
雑踏の中、かすかに聞こえる程度の声で名前は答えた。
「ありがとう」
リーマスは穏やかに目を閉じ、ゆっくりと瞼を開いて言った。
「場所を移そう。そんなに時間は取らせないから」
無言で道行く二人が、足を止めたのはとある人気ない廊下のタペストリーの前だった。この場所には見覚えがある。周囲の視線が無いことを確認しながらリーマスがそれをめくると、下に続く隠し階段が現れた。そうだ。以前もグリフィンドールの彼らに、ここに押しやられたのだった。そう思い出しながら、名前は階段を下って狭い踊り場を目指すリーマスの後に続いた。
「去年は色々と迷惑をかけたね」
踊り場に差し掛かる最後の数段に腰掛けながら、リーマスが口を開いた。
「君は僕たちが思っていた以上に協力してくれて…とても助かったし、嬉しかったよ」
名前に隣に座るよう促し、躊躇いがちに口元を動かした後、リーマスはぽつりとたずねた。
「…僕たちと、もう会えない理由を教えて欲しいんだ」
その話だろうと覚悟はしていた。名前は顔色ひとつ変えることないまま、冷たい石段に腰を下ろした。一方的に彼らに別れを告げたあの日から、新学期に4人の内の誰かがそれを聞いてくるような気はしていたのだ。リーマスは名前に顔を向け、慌てて付け足すように言った。
「いや、僕は何となく分かってはいるんだ。ただ…君からのきちんとした回答がない限り、納得出来ないとジェームズが言っていて…」
「ううん、ジェームズの言う通りだと思う」
リーマスの瞳から逃げるように、名前は階段下の石畳に視線を落とした。
「あんな突然に言っても、混乱させるだけだって分かってた」
自分の言葉が続くのを、リーマスは黙って待っている。痛いほどの沈黙の中、名前は息の音さえ立てぬまま、両手を組んで床の一点を見つめていた。あの日見たセブルスの足元が、幻影となって目の前に現れる。
「私…あなたたちと一緒にいれて、何だかんだ楽しかった」
幻が履くその靴は汚れにまみれ、くすんだ色をしている。まるで自分がそれを磨くのをさぼっていたかのような、その汚れを見て見ぬふりをしてきたような、奇妙な罪悪感が心の奥で疼き出す。
「だけど…私…」
名前は自身の意識すら遠くに感じながら、ほとんど息まじりの声で呟いた。
「セブルスを…失いたくなくて…」
秘密の階段に、再び沈黙が流れた。眼下に広がる美しい床は、長い間見つめている内に、いくつもの薄汚れた模様が広がっていることに気付く。磨けば落ちる汚れだろうか。幻と一緒に、消えてくれる存在なのだろうか。
「名前」
固く組んでいた手は、いつの間にか震えていたようだった。リーマスは名前の手をそっと握り、温めるように優しく包んだ。
「スネイプが…君と僕たちが関わってるのを良く思わなかったんだね?」
そう言って、リーマスは自嘲気味にふっと笑った。
「いや、そりゃ、そうだよね。僕たちだって同じ事を思ってきたんだから」
リーマスは名前の手を握りしめたまま、仕方ないというように首を傾げた。
「どちらかの友情を選べなんて、あまりにも酷すぎるな。本当にごめんよ」
汽車の中で出会った最初の友人は、責めるわけでも、不平を言うわけでもなく、ただ穏やかに自分の隣に座っている。その見慣れた瞳に見つめられ、名前は思わず涙がこぼれるのを感じた。
「私…」
流れた涙は名前の手を覆うリーマスの骨ばった指にぽたりと落ちた。言う必要が無い事だとは分かっている。しかし何もかもを包み込んでくれるようなリーマスの優しさに、この心の辛さを一部でも預けてしまいたかった。
「私…セブルスが好きなの」
ローズの告白にリーマスの眉がぴくりと動いた。しかし彼はそれ以上表情を崩さず、努めてそのまま名前の話に耳を傾けようと無言の意思表示をした。
「あなたたちからすれば、馬鹿げた事に聞こえるのは分かってる…間違った選択だって、言うのも分かってる」
こみ上げる嗚咽を必死に喉の奥にとどめながら、名前は泣きじゃくる寸前の震える声で呟いた。
「だけど、彼は…本当は優しい所もあって…自分以外の誰かのために、必死になる事だって出来て…悪い所もいっぱいあるけど……今まで私を、いつも助けてくれて……」
「もういいよ、名前」
とうとう涙を止められなくなった名前の背中に、リーマスは片腕をまわし、それ以上は話さなくていいと言わんばかりに名前をぎこちなく抱きしめた。
「もういい、大丈夫だ。僕は君を否定したりはしない。君のした選択を疑う事だって、絶対にしないよ」
滲んだ視界では、床の汚れも石壁の色もインクのように混ざり合って区別がつかない。名前は目に溜まった涙を流しきるように瞼を閉じ、リーマスのローブに顔を埋めた。洗いたての清潔な香りがする。しかし記憶の内にある薬品の匂いが鼻をつき、名前はまたもや幻が現れた事を知った。目を閉じてもなお、幻影は追い掛けるのをやめてはくれない。
二人がタペストリーを抜け廊下に戻った頃、時刻は既に消灯近くなっていた。見回りの監督生が生徒たちに寮へ早く帰るよう呼びかけている。大階段付近まで帰路を共にしながら、名前とリーマスは何気ない会話をぽつりぽつりと繰り返していた。
「監督生になりたいと思うかい?」
「まさか」
涙の痕を指で拭いながら、名前はリーマスの問いに笑って答えた。
「スリザリンの誰かの面倒を見るなんてまっぴら。リーマスはどうなの?」
「僕?」
リーマスは無気力な笑みを浮かべながら、はーっと息を吐いた。
「僕こそまさかだ。考えてみた事もないよ」
「そう?あなたみたいな監督生がいたらいいなあって思うけど」
そう言って名前はリーマスの顔を覗き込むように見上げた。
「優しいし、適度に常識があって…あの4人の中ならリーマスが一番ぴったりだよ」
「彼らと一緒にしないでくれよ」
名前の言葉にリーマスは声を上げて笑った。少しずつ、お互いの雰囲気がいつも通りに戻っていく。このまま秘密も涙も、全てが無かった事になってくれはしないだろうか。
「名前、その…」
地下牢に続く階段前で立ち止まりながら、リーマスは出会った頃よりずっと低くなった声で、躊躇いがちに名前にたずねた。
「あの集会は続けられなくなるにしても…もし、僕が君と話すのを許されているのであれば…これからも、変わらず話し掛けてもいいかい」
勿論、と返事をしようとした矢先、名前は声が詰まるのを感じた。また涙が込み上げそうになったのだ。友人にそんな事を言わせてしまう今の自分は、本当に正しい道を進んでいるのだろうか。
「…うん、うん」
葛藤を胸の中に抑えながら、名前は泣きそうな顔を悟られまいと俯きがちに答えた。
「いつだって、あなたが話し掛けてくれるのを待ってる」
リーマスと別れた後の道のりは、この上なく冷たく孤独だった。暗い廊下に緑の炎が揺れる。スリザリンの敷地に入った合図だ。地下牢の石壁にもたれて会話を続ける生徒たちに、監督生は「消灯だぞ」と上辺だけの注意をして去っていく。スリザリンは決して自寮の点数を差し引くような事はしない。悪事をはたらく同寮生がいても、笑って見て見ぬふりをする。それがこの寮のやり方なのだ。
皮肉なことに、寮の扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのはマルシベールだった。寝るにはまだ早いこの時間、談話室では数人の生徒たちがたむろしている。そこにセブルスの姿がないのを確認して、名前はマルシベールに歩み寄った。
「セブルスはどこ?」
今まで挨拶すらした事の無い同級生からの問いかけに、マルシベールは心底鬱陶しそうな顔をした。
「知るもんか」
彼はぶっきらぼうにそう答えた後、顔を必要以上に高く上げ、嫌悪感たっぷりに名前を見下ろして言った。
「あんまりあいつに関わるなよ。お前、前から目障りだったんだ」
名前は少年の顔をはたきたい衝動をぐっと堪え、談話室の入口へと身を翻した。マルシベールの嫌味ったらしい笑い声が背中に突き刺さる。名前は扉を乱暴に開き、再び暗い廊下に身を投げるようにしてスリザリン寮を飛び出した。先ほど監督生に注意を受けた一行が、すれ違いに談話室へ戻っていく。
冷たい石壁にもたれ掛かった体勢のまま、名前はその場にへたり込むように腰を下ろした。ここにいればいずれ彼が現れることを自分はよく知っている。両腕で自らを抱きしめながら、名前は誰にも表情を悟られまいと、胸元に深く顔を埋めた。廊下は静まり返っている。誰かが自分を監視しているわけでも、見知ったゴーストが通り過ぎるわけでもない。しかしこの暗い通路の奥に待ち人が現れるのを、今か今かと眺めながら待ち続けるのはあまりに苦しい。この心が不安も何も感じない、鋼のように無機質なものならば、いっそここで眠ってしまいたい。名前はそう願いながら、固く瞼を閉じた。しかしホグワーツ特急で目にした光景が切れ目なく繰り返されるばかりで、心臓の鼓動が休まる兆しは依然として見られない。
その足音は突然やって来た。てきぱきとした歩き方とは程遠い、気だるそうに踵を引きずって進む音。静寂に包まれた地下牢で、その音は必要以上に大きく響いた。その響きが最大限になった時、足音は止まり、名前は両腕を組んだまま僅かに顔を上げた。幻となって現れた薄汚れた靴が、現実として今目の前にある。
「…そんな所で何をしている」
頭上から投げかけられたその声は、名前の心情とは対照的にこの上ない冷静さを帯びていた。
「今回の合言葉は君の頭でも覚えられる簡易さだと思ったが?」
「…追い出されたと言ったら?」
あながち嘘とも言いきれない自分の答えに自嘲しながら、名前は足元に向けて小さく呟いた。
「本当は、あなたを待ってた。話したい事があって」
数秒の間、セブルスは名前を見下ろしながらその話が始まるのを待っていた。しかしなかなか言葉を発しないその様子に痺れを切らしたのか、彼は億劫そうに膝を屈めて名前の顔を真っ直ぐに見た。
「君は何を考えているんだ?」
探るように目を細めながらセブルスはたずねた。
「僕を避けていたかと思えば、汽車で盗み聞きなどして」
「避けてなんかない!」
セブルスの言葉に名前は顔を上げ、焦りを顕に反論した。星のない夜空をそのまま映したような、真っ暗な瞳と目が合う。
「私は…ただ、友達として…」
反射的に声を上げたものの、後に続く適切な言葉を見つけるのは容易ではなかった。名前は口ごもりながら、誤解を与えない言い方は無いかと必死に探した。
「汽車であなたの声が聞こえたから…話したいと思っただけで…」
「それで、たまたまタイミングが悪かったと?」
疑念たっぷりの口調で、セブルスは名前に再び問いかけた。名前は小さく頷き、視線を足元に戻した。自分を見据える黒い瞳が恐ろしい。
「セブルス…あの…」
両手を膝上で強く握りしめながら、名前は唇を震わせながら口を開いた。
「汽車であなたがマルシベールたちに言ったこと…あれは、どういう意味なの?」
「どういう意味だと?」
投げかけられた疑問に面食らったかのように、セブルスは眉をひそめて言った。
「君があの場で全てを聞いていたなら…そのままの意味だ。他に何がある?」
「あいつらと一緒に行動する気でいるの?」
そんな事は受け入れられないと、名前の本心が内側で叫びを上げた。名前は恐れをも忘れて身を起こし、セブルスに掴みかかった。
「あなたがあいつらと…まさか、そんな一緒にいられるわけないでしょ?マグル生まれを酷い呼び名で虐げるような、根のひん曲がったやつらなのに?」
名前に肩を揺さぶられながらも、セブルスは微動だにしなかった。名前の目を冷静に見据えたままだ。彼は無駄な息遣い一つせずに、低い声で呟いた。
「僕に君以外の友人が出来たことが気に入らないと、はっきり言ったらどうだ」
「セブルス…!」
名前は湧き上がる激しい感情に顔を歪め、彼の肩を掴む十の指に力を込めた。
「違う、そういう事じゃない…あなたは分かってない…マルシベールたちがどういう人間なのか…」
「君が彼らを気に食わないから、僕に対しても付き合うなと?」
セブルスは冷めきった表情で、名前を見つめて言った。
「それと同じ事を、今まで僕は君に対して願ってきたつもりだった」
苦々しい表情を浮かべた後、セブルスは肩に置かれた名前の手を取り、鬱陶しそうにそれを引き離した。
「しかし上手くいかなかった…新学期早々、グリフィンドールの生徒と二人きりで仲良く大広間から消えていく程だ。改めて思い知らされたね」
名前は目を見開いてセブルスを見た。空を掴む手が震える。
「僕の要求は何の効力も持たない。それどころか間違っていたのではないかと…そう思うようにすらなった」
言葉を失った名前を足下にセブルスは立ち上がり、埃を払うようにローブを翻した。
「一方の感情で互いの交友関係を縛るなんて、馬鹿馬鹿しい事だ。君ならよく分かるだろう?僕にそれを教えてくれた、張本人なのだから」
冷えきった床に膝をついたまま、名前は目の前で閉ざされていく石扉を見た。かすかな薬品の香りを残して、見慣れた後ろ姿が消えていく。汚れにまみれた髪が、服が、靴が、音もなしに去っていく。泣きじゃくる自分を包んだリーマスの清潔なローブを思い出しながら、名前は声を詰まらせた。
戻れるものならば、戻りたい。そう名前は心の底で小さく呟いた。同じ輝きの同じ服に身を包んでいた、出会った日の自分たちに。その先に衝突が待っているとは想像もしていなかった、あの日の幼い自分たちに。
「私は、あの日に戻りたい…」
口にしてもなお叶わぬ願いは、湖の底にまで轟く雷に打たれ、暗闇の墓場へと葬られていった。