第一部
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人生における悩み事すべてに、明確な答えが用意されていたらどれほど楽だったか。名前は来たる期末試験に向け図書館で羽根ペンを走らせながら、深く溜息をついた。人生に安易な抜け道など存在しない。自分の選択が正解かどうか、採点してくれる人すらいないのだ。仮に採点できたとしても、答えが出るのはいつになるのか。数年後か、数十年後か、生きている内は分からない事だってある。
人生最大とも思える悩みに答えを出さぬまま、この数ヶ月を名前は葛藤の内に過ごしてきた。苦手だった嘘が上手くなったのではないかと感じるほど、方々に隠し事をしながら送る生活はまるでスパイのようだ。セブルスの前では毎日宿題に追われる能天気な出来損ないを演じる傍らで、ポッターたちには動物もどきの講師として一層真剣に授業を進めてきた。この特別授業を一日でも早く終わらせなければ。名前の心は切実な思いでいっぱいだった。ポッターたちも名前のただならぬ様子に覚悟を決めたのか、以前のようなおふざけは無くなり、全員が限られた時間内での効率性を重視しながら練習に臨むようになった。しかし時折出くわすセブルスの鷹のような眼差しと、ペティグリューの進みの遅さが心労を日毎に増やし、焦りと不安の中で名前は今にも押し潰されそうだった。
誰にも勘づかれない嘘をつき通せる石があったら貸してくれないかと、ミランダに泣きついた事すらあった。しかし彼女の中での名前がとるべき道は決まっているようで、返事は断固としてノーだった。加えてそんな石は、あったとしてもあまりに高価かつ危険極まりないという。名前が所持する透明マントまがいの石や、目覚めを良くする日常魔法程度の石とはレベルが違いすぎるという事らしい。
石を渡さぬ代わりに、彼女は嘘の上手いつき方をあれこれローズに教えてくれた。後ろめたさを覚えるローズに、これもスリザリンらしく生きるコツなのだと、ミランダは笑って言った。
この数ヶ月間、何もかもを上手く隠し通してこれた自分を褒めてやりたい。名前は机に広げた教科書の上にごろんと頭を乗せながら、近すぎて見えなくなった文字をぼんやりと眺めた。期末試験の教科がすべて変身術だったらいいのに。ゴブリンの反乱はいつあっただの、混乱薬には何の材料がいるだの、試験では興味のない事ばかり頭に詰め込まなければならない。歴史的事件が起きた年月日を覚えたまま過ごしている大人がどれだけいるだろう。魔法薬だって、ほとんどの場合は店で買えば済むことなのに。明らかに不向きだと分かっている教科を投げ出して、その分を変身術や防衛術の向上に充てられたら。それこそが立派な魔女になる道なのではないかと、名前は机に突っ伏したまま悶々と考えていた。
「名前、仮にもスラグ・クラブのメンバーとして、この出来だとちょっとまずいわよ」
週末の昼下がり、開放された魔法薬学の教室で名前はリリーの手を借りながら試験の模擬調合をしていた。出来上がったのは何とも言えない茶褐色の液体だ。本来ならば鮮やかな緑色となって、白い蒸気がポンと上がるはずだった。
「さて、どこの手順が間違ってたでしょうか」
そう言ってリリーは四択が書かれた紙を名前に突き付けた。材料は全て入れたはずだ。かき混ぜの回数や、杖を振るタイミングも間違っていない。四択の内、浮かび上がってくる答えは一つだった。
「あっ…材料を入れる順番を間違えた」
「正解!」
うなだれる名前の肩を優しく叩き、リリーは紙を机に置いて余白に文字を付け足した。
「でも大丈夫よ、幸いこの魔法薬の材料は語呂合わせで何とかなるから…ほらね」
リリーが書き終えた手順語呂合わせを見ながら、名前は曖昧な表情で頷いた。多少無理やりな気もするが、覚えられなくはなさそうだ。名前は脳に書き込むつもりで、小声でそれを読み上げ反芻した。
「…うん、ありがとう。試験に出るのがこの薬だといいんだけど」
今年は例年にも増して多くの魔法薬を授業で習った。試験の実践に出されるものがその中のどれかは、本番になってみないと分からない。
「そうねえ」
リリーは腕を組んで、しばし考え込むように目線を上にした。
「でも実践で出るとしたらこれだと思うのよね。調合時間も丁度いいし、程よく難易度が高いし」
「程よく…ね」
出来損ないの液体を消し去ろうとした矢先、粘土状の物体が鍋から飛び出し名前の頬を直撃した。名前は無表情のまま頬を拭き、慣れた手つきで片付けに入った。
「でも魔法薬って、実際の生活では本を見て作るものじゃないの?」
空になった大鍋に縮小呪文をかけながら、名前はリリーに訊ねた。
「作り方を暗記する必要ってあるのかな…手順を見ながら作る方が確実な気がするけど」
「何言ってるの名前。魔法薬を作らなきゃいけないって時に、必ずしも本があるとは限らないのよ」
リリーは机の汚れをマグル式に拭いている。名前は手伝おうかと手を伸ばしたが、リリーは魔法を使わずしてあっという間にその場を綺麗に磨き上げてしまった。
「確かにね…うん、リリーならどんな時もきちんとした魔法薬を作れるよ」
手のひら大になった鍋を鞄に仕舞い込み、名前は自主的に他の机まで拭き始めたリリーに視線を向けた。
「でも私は卒業したら絶対市販のを買うようにするね。みんなの安全の為にも」
リリーは笑って、灰色の雑巾を片手に名前の元に戻ってきた。健気な掃除係へのせめてものお礼として、名前は杖を振って雑巾を真っ白い清潔な布へと転身させた。
「もし魔法薬の店が無い所で、薬が必要になったら?」
地下牢教室を後にしながら、リリーは挑むような笑みで名前に問いかけた。
「姿現しで薬屋の所まで行く」
名前は抜け目ない回答をしたつもりだったが、この問いに関してはリリーの方が一枚上手だった。
「でももし誰かに追われてたり、敵がいつ何処に現れるか分からない状況で、安易に姿現しが出来なかったら?」
階段の先から漏れる光に緑の瞳を向けながら、凛々しい表情でリリーは言った。
「闇祓いになった先輩が言ってたの。人生は必ずしも平和な時ばかりじゃないって。今日の当たり前がいつ崩れるかは分からないから、自分で生き抜く力をつけていかなきゃいけないのよ」
初夏の日差しの下行われた期末試験は、幸いにも予想を上回る結果を得られたように思えた。魔法薬の筆記試験は穴が多かったが、実技試験に関してはリリーの予想がピタリと当たったのだ。やや不自然な語呂合わせを必死に唱えていたおかげで、名前は本番では完璧とはいかないまでも、標準的な緑色の薬を作り出すことが出来た。呪文学と薬草学もまずまずの出来だ。魔法生物飼育学では試験中に二フラーが数匹逃げ出したとの知らせが入った為、ケトルバーンは生徒一人一人の実技をまともに試験している暇はないようだった。再試の報せが無い所を見ると、恐らく全員が一定以上の成績を貰えるのだろう。
ホグワーツの三年生としての生活も、いよいよ残り一日を残すのみとなった。明日の昼には汽車に乗って、お菓子を食べながらキングス・クロスに着くのをぼんやりと待っている事だろう。一年のご褒美として、車内販売では好きなものを好きなだけ買おう。自分にそう誓いながら、名前は汗ばむ陽気の中、緑茂る校庭を歩いていた。学期最終日目前にして、今年度最後の動物もどきの練習をグリフィンドールの4人がねじ込んできたのだ。
叫びの屋敷へ続く通路にはひんやりとした空気が流れていたが、透明マントを着て校庭を走り抜け、暴れ柳が動きを止めている内に穴に滑り込むという一連の動作を経て、一同は服が濡れるほど汗だくだった。今日はこの数日の中でも特に暑い。スリザリンの生徒たちは今頃涼しい談話室で荷造りやら何やらを進めているのだろう。柄にもなく彼らを羨ましく思いながら、名前は出来る限りエネルギーを温存するため無言のままトンネルを歩いた。他のメンバーも同じ事を考えていたようで、秘密の行列はいつになく静かだった。
「皆の衆、陰気な表情におさらばする時が来たぞ」
ようやく叫びの屋敷へたどり着いた頃、先頭きって一足先に着いていたシリウス・ブラックが大仰な手振りで声を上げた。突然の真夏日にうなだれていた一同だったが、言葉の意味を知るや否や全員がぱっと顔を輝かせた。彼の足元には麻袋が置かれ、その中には人数分のバタービール瓶がお宝のようにキラキラと光を放っていたのだ。
バタービールでの乾杯は練習が終わった後にするべきだと言い出す者は誰もいなかった。気の遠くなるような期間を勉強に費やし、期末試験を無事乗り越えたのだ。褒美を受け取る理由はそれだけで十分だ。
甘く冷たいバタービールは体の疲れ全てを吹き飛ばすようだった。5人はしばし解放感に浸りながら、他愛もない話で笑い合った。練習を始めたばかりの頃は、自分が馴染むことも無いであろう集団をいかに厳しく指導するかで名前の頭はいっぱいだった。それが半年以上経って、多少の気を許せる仲になるとは。一年前の自分が聞いたらさぞ驚くだろう。敵対視していたはずの悪戯軍団と、叫びの屋敷でバタービールを飲み交しているなんて。
「ピーターが変身術の試験でヘマしなかったのは初めてじゃないか?」
空き瓶をクルクルと回しながら、ジェームズ・ポッターが言った。
「名前先生のお陰だな。去年なんて跳ね返ってきた呪文のせいで椅子ごと吹き飛んでたんだぞ」
ピーター・ペティグリューは自身の過去の失敗を笑い飛ばしながら、「ありがとう、名前」と気恥ずかしそうに呟いた。未だ慣れないその呼び名に、名前は照れくささを感じつつバタービールの最後の一口を流し込んだ。
他の誰にも言えない秘密を共有しているのだから、結束力を高めるために心の距離を縮めよう。ジェームズのそんな提案から、下の名前で呼び合うようになり1ヶ月が経った。校内では決して話し掛けないという約束を守り続ける事を条件に、名前は渋々それを承諾したのだった。
「だけど夏休みに入ったら、どうせ忘れちゃうんでしょう?」
付き合いにくいと感じていたピーターの扱いも、今や慣れたものだ。名前の言葉にピーターは何度も首を振りながら、「毎日練習するよ!」と気合い十分に答えた。
その日の練習は今までで一番楽しいものだった。各々がこの半年の成果を手応えとして実感出来ている。ジェームズとシリウスに関しては、このペースだとクリスマス前には変身を果たせるかもしれない。二人の才能に感心しながら、名前はあと一歩の所で躓いているピーターを懸命に指導した。きちんと向き合えば真剣に応えてくれる、そんな彼らの熱意ある姿勢に、名前はいつしか親しみとやりがいを感じ始めていた。友好的に関わり合えば、お互いの良い所も沢山見えてくる。何より4人が打ち解けていくのを嬉しそうに見守るリーマスの姿が、名前たちに笑顔を与えていた。
後ろめたさを感じる事なくセブルスに接するために、一日でも早くこの授業を終わらせたい。その気持ちは本当だ。しかし以前とは全く違う感情が心の中に芽生えている。義理で始めたはずの秘密集会は名前にとって次第に自分の力をも伸ばす機会となり、予期せぬ友情を育む場へと変化していた。
数時間後、自分たちへの拍手で練習を終え、5人は夕暮れの空気が流れるトンネルを歩いて帰った。うだるような昼間の暑さと引き換えに、夏の夜は風が爽やかで心地良い。トンネルの終着点に近付くにつれ、新鮮な空気が胸に入ってくる。次ここに来る時は四年生だ。遂に折り返しの学年となる。そんな事を考えながら、いつもの算段で暴れ柳を後にしようと穴を登りかけた時、名前の上にいたジェームズが「待て!」と小声で叫んだ。
夕食時の時刻だが、夏の空にはまだ明るいオレンジの陽が残っている。校庭の様子は杖灯り無しで十分よく見えた。それゆえにジェームズはいち早く危険を察知したのだ。
「参ったな。城の入口にフーチが立ってる」
ジェームズの言葉にシリウスが悪態をつき、背の高い彼は名前の頭を楽に乗り越えて穴の外をさっと覗いた。
「箒の手入れをしているな…何だありゃ、今までこんな時間にやってた事あったか」
「明日が学期最終日だからじゃないかな」
名前の後ろにいたリーマスが不安そうに声をかけた。
「先生たちも明日帰るはずだ。今日中に残った仕事を片付けておくつもりなんだろう」
「いつまでいるつもりかな?」
全員がまさに抱いていた疑問を、ピーターがぽつりと口にした。
「夕食にありつけないのはキツいなあ…」
「仕方ない。もう少し様子を見よう」
ジェームズの判断に一同は穴をよじ登るのをやめ、はあとため息をついて地面に座り込んだ。シリウスがその長身を活かし、見張りとなって穴の先を見つめている。バタービールのエネルギーはそろそろ切れてしまいそうだ。名前が空腹を覚えかけたその時、シリウスが「あっ」と声を上げた。
「フーチ夫人、訓練場の方に行ったぞ。抜け出すなら今だ」
「もう帰っては来ないか?」
急いで透明マントを広げながら、ジェームズがたずねた。
「いや…箒たちは置いたままだ。恐らく何かを取りに行ったんだろうな。すぐ戻ってきそうだぞ」
ふむ、とジェームズは顎に手を当て、一同をざっと見渡した。
「3回に分けて抜け出す暇はなさそうだ。悪いが名前、今日は一緒にマントに入ってくれ」
ジェームズの言葉に名前は黙って頷いた。仕方あるまい。この時間、校庭に残っている生徒は殆どいないだろう。荷造りや後片付けに勤しんでいるはずだ。誰かに見られる可能性は低い。
「順番だが…」
マントをばさりと広げながら、真剣な表情でジェームズが指示を出した。
「まず名前、シリウス、ピーターが先に行ってくれ。僕とリーマスはとりあえず残る」
「おいおい、それではちょっとバランスが悪いんじゃないか、友よ」
外を覗いていた身を翻し、シリウスが眉根をひそめた。
「俺とピーターだけでも高低差があるっていうのに、そこに名前を入れるのは…」
「ピーターが名前をおぶれば君と同じくらいの高さになるだろう」
ジェームズの言葉に、名前とピーターは驚いて顔を見合わせた。ジェームズは二人の反論を待たずして、言いたい事はよく分かる、と身振りで制して言った。
「二度の移動で済むためにはこれしかないんだ。それとも一晩中暴れ柳の下にいたいか?」
「わ、分かったよ」
ピーターは自信なさ気に頭を掻き、制服についた土をはらって立ち上がった。名前もそれに続いたが、果たしてピーターが自分をおぶって走るなど、本当に出来るのだろうか。ハグリッドのような大男ならまだしも、同い年の頼りない少年に自分の体重を預けるなんて。正直言って心配だ。
「それで、俺たちが先に着いたらマントをそっちに渡せばいいんだな?」
ジェームズからマントを受け取りながら、シリウスがたずねた。
「ああ、いつもの段取りでやってくれ。僕がアクシオで呼び寄せる」
そう言いながらジェームズは不安がる名前とピーターを一纏めに寄せ合い、「早く準備を」と催促した。
「ピーターごめんね、重かったら言ってね」
穴から体を半分出した状態で、名前はピーターの背中に思い切って乗っかった。ピーターは「大丈夫」と返事をしたが、その声の様子から察するに大丈夫では無さそうだ。
ジェームズがマントを上方に広げると、三人はあっという間に透明のベールに包まれた。シリウスの合図と共に三人は校庭に飛び出し、足や手が一瞬でも出る事のないようくっ付き合いながら全速力で走った。ピーターが走り始めた瞬間にずり落ちそうになった名前は、必死の思いで彼の肩を強く掴んだ。ピーターは悲鳴のような声を上げたが、責任感から何とか崩れ落ちることなく廊下の入口までの距離を走り切り、シリウスがマントを剥がすその瞬間まで名前のおぶり役という使命を全うしてみせた。
辺りには誰もいない。名前はとりあえずの安心を得て、来た道を振り返った。暴れ柳は穴の中に人が潜んでいるとは思えないほど静かだ。シリウスはマントをくしゃくしゃに畳んで手を振り上げようとしたが、すんでのところで踏みとどまった。
「まずい、フーチが戻ってきた」
三人は反射的に柱の影に隠れながら、掃除用具のようなものを抱えて戻ってくるフーチの姿を見た。あと三秒遅れていたら、マントで走り去る足音を聞かれていたかもしれない。間一髪の切り抜けに、名前は汗のにじむ手を握りしめた。
「ダメだな。ありゃまたしばらく退かないぞ」
ため息をついて、シリウスはマントを更に小さく畳み薄手のローブの中にしまった。
「ジェームズ達には悪いが、もう少し待っててもらう必要があるな」
「えっ、置いてっちゃうの?」
城の中心に向かって歩き出したシリウスに、名前は驚いて声を上げた。
「名前、気をつけなくていいのか?もう城の中だぞ」
シリウスは振り向き、ふっと表情を和らげて答えた。
「フーチが去るのをぼんやり指くわえて待ってるよりも、この時間を使ってジェームズたちの夕食を調達する方が賢いだろ。俺たちはいったん大広間に行く」
確かにシリウスの言う通りかもしれないが、どうだろう。名前は複雑な思いで暴れ柳をもう一度振り返った。フーチもじき夕食に向かうはずだ。夜遅くまでジェームズとリーマスが取り残されるとは思えない。
「そうね…わかった」
シリウスの後をあたふたと追いかけるピーターを見送って、名前は彼らと適度な距離が空くのを待った。二人の後ろ姿が小さくなっていく。曲がり角でその影が見えなくなったのを確認して、もう大丈夫だろうと名前は動き出した。これだけ間隔が空いている状態ならば、誰から見ても赤の他人同士だ。
このまま大広間に直接行って、早めの夕食を済ませてしまおう。今日の内に寮の部屋の片付けを終わらせなければならない。ミランダと踊り場で合流する事を見越して、名前はシリウスたちと同じ道を辿り、中庭に続く玄関から城に入った。案の定夕食に向かう生徒たちで大広間前は混み合っている。名前はその波に加わって部屋へ入ろうと歩みを進めたが、人ひとり隔てた先に立ち止まるシリウスとピーターに気付き、思わず目を見張った。
「マクゴナガル先生頼みます、今だけは勘弁してください」
「いいえ、今すぐ私の部屋に来なさい。あなたたちの罰則は昼に予定されていたんですよ、お分かりですか?」
マクゴナガルが名前に背を向けた状態で、シリウスとピーターを叱りつけている。その状況が何を意味しているのか、彼らの素行を知る身からすれば一目瞭然だ。また罰則をすっぽかしたに違いない。
「先生、次は…次は必ず行きます、二倍の罰則でいいんで…今だけはちょっとどうしても」
「次はありません!」
マクゴナガルはいつになく厳しい声で、シリウスの要求を跳ねつけた。
「夕食に関しては私の部屋でとる事を許します。さあさっさと行きますよ。今年度の罰則を来年度に持ち越そうなんて、とんでもない」
マクゴナガルはシリウスとピーターを引っ張り、生徒の群れに逆らう形できびきびと歩き始めた。シリウスは透明マントを持ったままだ。予期せぬ自体を目の当たりにし、名前は思わず彼らの後を追った。シリウスは校庭側を気にするようにちらちらと振り向きながら歩いている。息を殺して追いかけてくる名前の姿にも、その内気付いたようだった。
『どうするの!?』
引きずられていくシリウスと目が合い、名前は声を出さずに口を大きく動かした。
シリウスは顔をしかめながら、やけくそだと言うようにローブの内側からマントを取り出した。名前に投げる素振りをしている。これを取っていけ、と言っているようだ。
『私が!?』
名前は眉をひそめ、目を丸くしながら自分を指さした。シリウスはマクゴナガルに気付かれない程度に頷き、早く取っていってくれと言わんばかりにマントを持つ手を後ろに伸ばした。あと少しでも素振りを大きくしたら、マクゴナガルに気付かれてしまう。名前は半ば混乱したまま、「アクシオ」と小声でマントを呼び寄せた。
透明マントはすっと名前の手中に収まり、シリウスは名前に完全に背を向けた状態でマクゴナガルの部屋へと歩き出した。名前は銀色の布を慌てて隠し、再び人混みに紛れながら元来た道を辿り始めた。厄介な事になった。目立たぬよう校庭に出て、暴れ柳の側まで向かわなければならない。
踊り場を抜けて外に出ると、陽は早くも僅かに傾き始めていた。問題はフーチがまだあの場にいるかどうかだ。大広間の教師席を覗いてから来れば良かったと、名前は少しだけ後悔した。しかし大広間に顔を出す所を万が一セブルスに見られたら、それはそれで都合が悪い。そのまま夕食の席に付かず校庭に向かって去っていくなど、どう考えても怪しいの一言だ。
校庭の脇に広がる閑散とした廊下を、名前はそわそわと落ち着かない気持ちで歩き続けた。冷や汗をかくこと数分後、遂に視界に暴れ柳が入ってきた。目の前にそびえるのは先程シリウスたちと隠れた柱だ。名前は再度その影に身を落とし、フーチが大量の箒とともに佇んでいた場所を見た。なんと箒は一本残らず綺麗に片付けられ、猫一匹いない静かな草原が広がっている。
名前は柱から飛び出し、暴れ柳の下に潜んでいるであろうジェームズたちに向けてマントを掲げた。すると瞬時にしてマントは名前の手を離れ、高速の飛行物体となって暴れ柳の根元に引きずり込まれていった。ジェームズがアクシオを唱えたのだ。
名前はほっと胸を撫で下ろし、急いで大広間へと向かった。まだ夕食は始まったばかりだが、ジェームズたちに追い付かれない内にこの場を後にしなくては。彼らも慌てて城へと走ってくる事だろう。名前は駆け足で復路を辿り、何とか彼らと空間を同じにする事なく城の踊り場へと足を踏み入れた。
「ずいぶん疲れてるみたいね?」
大広間へ入るやいなや、扉の側で名前を待っていたミランダが声をかけた。いつも通り、彼女は多くを訊ねてはこない。ある程度は"分かって"いるのだろう。名前は乱れた髪を手ぐしで整えながら、「色々あって」と答えた。
いつも通り賑やかな笑い声が響く大広間だが、生徒たちは皆どこか慌ただしそうだった。学期末の後片付けに追われる者、やり残しが多い者、シリウスのように罰則が終わっていない者など様々いるのだろう。セブルスの姿も見られない。彼の事だ、マグルの家庭に戻る前にやっておきたい事が山ほどあるのかもしれない。
名前はグリフィンドールのテーブルにあえて背を向けて座ったので、ジェームズとリーマスが無事この場にいるかは分からずじまいだった。しかしシリウスたちがマクゴナガルに捕まったところを見る限り、あの二人、少なくともジェームズは共犯なのではないだろうか。彼らが自分の背後でのんびりと食事をとっている可能性は低いかもしれない。頭の隅でそんな事を考えながら、名前は今年度最後となるホグワーツの夕食を感慨深く味わっていた。
夕食の終わり、ミランダは何かを「返しにいかなきゃ」と校長室へと行ってしまった。ダンブルドアから個人的な借り物をしている生徒が一体どれだけいるだろう。しかし約三年の付き合いを経た今、ミランダの言動に対して名前はそれ程驚かなくなっていた。この一年で自分の生活は大きく変わった。動物もどきを習得し、魔法省の役人にも会い、限られた数名しか載っていない名簿に登録され、グリフィンドールの問題児たちといくつもの規則破りに相当する集会を重ねている。ミランダと同じくらい、他人に対して言えない秘密が増えたのだ。
地下への階段を降りながら、身につけた時計の針が指し示す位置を見て名前はため息をついた。まだ夜はこれから、という時間帯だ。談話室は人で溢れかえっているだろう。いつもならどこかに寄り道して帰るところだが、自室の片付けが終わっていない今そうも言っていられない。名前は仕方なしに薄暗い廊下を進みスリザリン寮を目指した。魔法薬学の教室が近いせいか、薬品の匂いが鼻をつく。夕食時は地下にある厨房から漂う食欲を誘う香りと、魔法薬の煙とが混ざりあって何とも言えない空間となるのだ。それにしても今日は魔法薬の匂いが一層強いように感じられる。名前はいつもと少し違う空気を吸い込みながら、魔法薬学の教室に誰かいるのかと覗き込もうとした。しかしその瞬間、名前は手首を強く掴まれ、そのまま後ろにぐいっと引っ張られた。
「セ、セブルス」
背後に立っていた少年の顔を見て、名前は叫びかけた声を何とか抑えた。セブルスはそのまま教室へと名前を引き入れ、古扉をバタンと閉めた。教室は無人だ。ただならぬ雰囲気のセブルスに名前は不吉な予感を覚えたが、もはや逃げ出すことは出来ない。
「今日ー…」
暗い瞳で名前を見据えながら、セブルスがゆっくりと口を開いた。
「校庭のはずれで、不可思議な光景を見たんだ」
「そうなの?」
何気ない声のトーンを装いながら、名前は後ろ手にある机にもたれかかって言った。3メートル先に立つセブルスは、言い知れない威圧感を放っている。
「君が何やら慌てた様子でな。一風変わった、銀色の布を手にしていた」
一刻も早くこの場を離れたい名前の心と裏腹に、セブルスは獲物を狙う蛇のように、ゆらりと少しずつ名前の方へ近付いてくる。閉ざされた扉は、今や果てしなく遠くに見えた。
「すると突然…何の前触れもなく、その布がどこかへ飛んで行ったんだ。どこだか分かるか?」
「さあ」
自分でも馬鹿げた返事だと思いつつも、名前は顔を青くしながら唇を震わせて答えた。口に出すには、この一言が精一杯だった。
「驚いたことに、暴れ柳の根元だった」
セブルスは名前との距離をさらに縮め、不思議だ、というようにわざとらしい手振りをした。
「ところが真に驚くべきはその後だった。そこから何かが出てきたんだ。風もないまっさらな地面に、草を踏み倒していく足跡のようなものが見えた」
名前は無言のまま、セブルスの足元に目をやった。この状況に屈することなく、彼の顔を見続ける勇気など自分にはない。磨かれていないくすんだ色の革靴は名前の足先で止まり、脅すようにゆっくりと二度足踏みをした。
「そこで僕は陰に隠れて目を凝らして見ていた」
勿体ぶった口ぶりで話を進めながら、セブルスはこの上なく近付いた距離でじっと名前を見下ろしている。名前は靴に視線を向けるのにも耐えかね、ぎゅっと目を瞑った。この一年で背が伸びた彼に、俯いている自分の表情はちらとも見る事が出来ないだろう。しかしこの隠せぬ恐怖はどうしたって伝わっている。
「僕が何を見たか、君は分かっているだろう?」
静かに投げかけられた問いに、名前は一瞬の迷いを見せた後、言葉無く頷いた。もうここにはつき通せる嘘など存在しない。名前はその一度の小さな頷きで、絶望に近い思いを抱きつつ、全てを認めた。
「…なぜ君が奴の手助けをしている?奴らはなぜ暴れ柳なんかにいたんだ?」
セブルスはそれまで必死に抑えていた怒りを、とうとう制御出来なくなっているようだった。彼は次第に語気を強め、憎しみをあらわにしながら声を荒らげて言った。
「答えろ、奴らとどういう関係なんだ!?お前たちはあそこで何をしていた!?」
「違う、違うの!」
止まりかけた心臓を揺さぶり起こすように、名前は顔を上げて叫んだ。
「あれは…今日の事は、シリウス・ブラックに頼まれたの」
「ブラックの頼まれ事を聞いた?お前たちは日頃から助け合うような仲だったのか?」
名前の弁明は火に油を注いだ結果となり、セブルスの怒りを余計に煽ってしまったようだった。見たことの無い表情のセブルスに、名前はこの上ない恐怖を覚えた。
「誤解よ…その、ブラックには…」
恐ろしさに身をすくめる一方で、名前の頭の片隅にはかろうじて冷静さが残っていた。僅かに残った理性の部分が、咄嗟に嘘をつけと叫んでいる。名前は吹き出る汗に手を滑らせながら、机の端を歩行杖のように握りしめて言った。
「ブラックたちには、その、借りがあったの…この前、リリーと魔法薬を勉強した時に…」
"上手く嘘をつくには、半分の真実を混ぜろ"。ミランダが教えてくれた方法だ。パニックに支配された脳の中で、居場所を追われながら辛うじて踏ん張り続けるひと握りの冷静さが、名前の舌に言葉を一節ずつ載せていく。
「どうしても教室を使いたかったんだけど、試験前で人がいっぱいで…席が空いてなくて…」
セブルスは殺気立つ目つきのまま、黙って名前の話を聞いていた。彼はリリーの名前が出た事で少し慎重になっているようだった。あの日教室が人でいっぱいだったのは本当だ。名前は真実を述べてから、するりと嘘を忍び込ませた。
「そこにブラックとポッターが座ってて…多分、リリーがいたからだと思うんだけど…彼らが、まだ調合が終わってないけどって言いながら、席を譲ってくれたの」
絞り出す自分の声は終始震えている。名前はセブルスの目を見る覚悟を依然持てないまま、薬品と思わしき汚れにまみれたその袖の裾に視線を移した。
「それでさっきブラックに、偶然会って…あの時助けてやったんだから、借りを返せって…わけの分からないままにマントを渡されて、行けって言われた場所に行ったの…」
教室は沈黙に包まれ、水滴がしたたる音が石造りの地下空間に大きく響いた。セブルスは発言の真偽を見極めるように、黙って名前の目を見つめている。
よくもここまでさらりと嘘がつけたものだ。セブルスの視線に怖気づきながらも、陰の自分は危険回避の道を必死に切り開こうとしている。
「ポッターにそれを届けるよう言われたのか?」
名前の出方を伺うように、セブルスがやや高圧的にたずねた。名前は頭の中で注意深く言葉を選びながら、その問いに答えるべく口を開いた。
「そう…でも私、そこでポッターたちが何をしてたかなんて知らない。マントだって、私が何もしない間に暴れ柳に飛ばされていったんだもの。ポッターになんて会いたくなかったから、その後すぐ城に戻ったよ」
嘘は組み立てられた。後戻りの出来ない状況で、名前は作り上げた架空の事実が疑惑の壁を打ち砕いたように感じた。セブルスは相変わらず暗い瞳で名前を捉えていたが、その詰め切った距離には僅かに隙が生まれている。今ならここを立ち去る事も出来るだろう。
「たった二席の礼としては、随分と親切なお返しをしたものだな?」
セブルスの口調には相変わらず不愉快さが込められていたが、その怒りのピークは過ぎ去り、これ以上追及するのは時間の無駄だと考えたらしい。彼は名前に背を向け歩き出し、扉の前で振り返って言った。
「二度と奴らに借りなど作るな。僕が許さない」
セブルスは壁に叩きつけんばかりの勢いで扉を開き、荒々しくその場を去っていった。
名前は張りつめた緊張から解き放たれ、足を震わせたまま傍にあった椅子に崩れ落ちるように腰掛けた。アズカバンに収監される裁判のようだった。心臓はまだ早鐘のように鳴り響き、冷や汗は流れ続けている。顔は真っ青で冷たいのに、頭には血が上がってのぼせてしまいそうだ。セブルスに嘘をつき通した。そして彼はそれを信じたのだ。名前は安堵すると同時に、また嘘を重ねたという事実が、自分を深い罪悪感の海に突き落とすのを感じた。
名前は焦点の定まらない視点のまま立ち上がり、教室の端にあった紙を裂いて急いでメモを書いた。リリーへのメモだ。セブルスは名前の知る中で、誰よりも疑い深い性格だ。事の真相をリリーに確認しに行く事だろう。リリーがセブルスに声を掛けられる前に、何とかして話を合わせてもらわなければならない。彼女は多くを詮索しないはずだ。シリウスとジェームズに魔法薬学の教室で席を譲られたことにして欲しい、そう走り書きで記し、名前はそのメモを握りしめたまま教室を出た。
暗い地下牢にリリーの姿があるはずもなく、名前は駆け足で廊下を突き進み、息を切らして階段を登り続けた。グリフィンドール塔に行かなくては。メモを蛙に変えて、グリフィンドール生のローブに忍ばせようかとも考えた。しかし今は何よりも確実性が欲しい。偽の蛙は踏みつけられたが最後、人の行き交う廊下に落ち、ボロボロの切れ端となって捨てられてしまうだろう。自分の手で渡さなくては。名前はあまりの重圧と焦燥に涙目になりながら、なりふり構わず走った。そしてとうとう明るく鮮やかな、太った貴婦人の肖像画を前にして足を止めた。
そこにたどり着いて初めて、名前は周囲の視線が一斉に自分に向けられている事に気づいた。紅の集団の中に一点の緑が混じるその光景を、生徒たちは異形に出会ったかのような目で見ている。途端に名前は顔が火照るのを感じた。胸が苦しくなるまで走ったせいではない。疎外感が鎖となって首を絞めてくる。自分がどれ程場違いな状況にいるかを知らしめるかのように、集団は名前を指さしてヒソヒソ会話し始めた。
リリーはどこだろう。名前は目眩を起こしそうになりながら、赤毛の少女を必死に探そうとした。しかし周りを見れば見るほど、猜疑と嫌悪の目が否応なしに降りかかってくる。名前は眉をひそめるグリフィンドール生たちの眼差しに耐えかね、広がる世界を遮るように視線を床に落とした。大広間や教室では感じたことの無い感情だ。他寮の敷地に自分が、スリザリン生が入るという事は、こんなにも強く拒絶されるものなのか。メモは名前の手の中でくしゃくしゃに丸められ、みすぼらしい球体へと姿を変えていた。もうこれ以上ここにはいられない。名前は後退りしながら階段を降りようとした。しかしよろめく視界の中で、しまったと思った時にはもう遅かった。体が後向きに為す術なく倒れていく。
「危ない!」
間一髪の所で名前の背中を受け止めたのは、あろう事かジェームズ・ポッターだった。
「何してるんだよ、こんな所で…」
名前は地に足がある事を感じながら、ゆっくりとジェームズを振り返った。眼鏡の奥で、驚きと戸惑いに溢れた瞳が名前を映している。
「組分け帽子にやっぱり君はグリフィンドールだって言われたのか?」
ジェームズの隣で、シリウスが笑いながら冗談を飛ばした。しかし今の名前にはそれを受け流す余裕もなく、その弱々しい姿にシリウスはぎょっとしたようだった。
「お願い…これを、リリーに渡して…すぐに」
名前はジェームズだけに聞き取れる声で、ゴミ屑にも見える紙の切れ端を手渡した。ジェームズは怪訝そうな顔でそれを受け取り、これが何なのか訊ねたかったのだろう、戸惑いながら口を開こうとした。しかし名前の顔を見て、彼はその好奇心を心の奥に押し込んだようだった。
「それと…」
ついに決断を下す時が来てしまった。とっくに答えが出ていた筈なのに、直視したくないあまり先延ばしにしてきてしまった。潰れそうなこの気持ちは、セブルスに嘘をついた事への罰なのだ。名前は息を吸い込み、先程より更に小さな声で呟いた。
「あなたたちとは、もう、ああいう風に会えない」
「な…なんだって?」
そのか細い声を聞き取ろうと、ジェームズは屈んで名前に目線を合わせようとした。そんな彼の様子に、声が何度も詰まりそうになる。名前はぐっと拳を握りしめ、遂に言わねばならない事を告げた。
「もう、動物もどきを教えられない。ごめんなさい」
ジェームズは目を見開き、混乱の中咄嗟に何かを言おうとした。それが引き止めの言葉であり、抗議の叫びでもある事は名前にも分かっていた。分かっているからこそ、聞く必要は無い。耳を傾けたら最後、言い訳を並べて彼らを助けたくなってしまう。
背後に響くジェームズの声は、自分に向けられたものでは無い。更なる嘘を言い聞かせながら、名前はグリフィンドール塔から地下へと階段を一気に駆け下りた。暖色の明るい光たちが視界から遠ざかっていく。待ち受ける先は、自分のあるべき場所へと続く、薄暗い廊下と冷たい石扉だった。
人生最大とも思える悩みに答えを出さぬまま、この数ヶ月を名前は葛藤の内に過ごしてきた。苦手だった嘘が上手くなったのではないかと感じるほど、方々に隠し事をしながら送る生活はまるでスパイのようだ。セブルスの前では毎日宿題に追われる能天気な出来損ないを演じる傍らで、ポッターたちには動物もどきの講師として一層真剣に授業を進めてきた。この特別授業を一日でも早く終わらせなければ。名前の心は切実な思いでいっぱいだった。ポッターたちも名前のただならぬ様子に覚悟を決めたのか、以前のようなおふざけは無くなり、全員が限られた時間内での効率性を重視しながら練習に臨むようになった。しかし時折出くわすセブルスの鷹のような眼差しと、ペティグリューの進みの遅さが心労を日毎に増やし、焦りと不安の中で名前は今にも押し潰されそうだった。
誰にも勘づかれない嘘をつき通せる石があったら貸してくれないかと、ミランダに泣きついた事すらあった。しかし彼女の中での名前がとるべき道は決まっているようで、返事は断固としてノーだった。加えてそんな石は、あったとしてもあまりに高価かつ危険極まりないという。名前が所持する透明マントまがいの石や、目覚めを良くする日常魔法程度の石とはレベルが違いすぎるという事らしい。
石を渡さぬ代わりに、彼女は嘘の上手いつき方をあれこれローズに教えてくれた。後ろめたさを覚えるローズに、これもスリザリンらしく生きるコツなのだと、ミランダは笑って言った。
この数ヶ月間、何もかもを上手く隠し通してこれた自分を褒めてやりたい。名前は机に広げた教科書の上にごろんと頭を乗せながら、近すぎて見えなくなった文字をぼんやりと眺めた。期末試験の教科がすべて変身術だったらいいのに。ゴブリンの反乱はいつあっただの、混乱薬には何の材料がいるだの、試験では興味のない事ばかり頭に詰め込まなければならない。歴史的事件が起きた年月日を覚えたまま過ごしている大人がどれだけいるだろう。魔法薬だって、ほとんどの場合は店で買えば済むことなのに。明らかに不向きだと分かっている教科を投げ出して、その分を変身術や防衛術の向上に充てられたら。それこそが立派な魔女になる道なのではないかと、名前は机に突っ伏したまま悶々と考えていた。
「名前、仮にもスラグ・クラブのメンバーとして、この出来だとちょっとまずいわよ」
週末の昼下がり、開放された魔法薬学の教室で名前はリリーの手を借りながら試験の模擬調合をしていた。出来上がったのは何とも言えない茶褐色の液体だ。本来ならば鮮やかな緑色となって、白い蒸気がポンと上がるはずだった。
「さて、どこの手順が間違ってたでしょうか」
そう言ってリリーは四択が書かれた紙を名前に突き付けた。材料は全て入れたはずだ。かき混ぜの回数や、杖を振るタイミングも間違っていない。四択の内、浮かび上がってくる答えは一つだった。
「あっ…材料を入れる順番を間違えた」
「正解!」
うなだれる名前の肩を優しく叩き、リリーは紙を机に置いて余白に文字を付け足した。
「でも大丈夫よ、幸いこの魔法薬の材料は語呂合わせで何とかなるから…ほらね」
リリーが書き終えた手順語呂合わせを見ながら、名前は曖昧な表情で頷いた。多少無理やりな気もするが、覚えられなくはなさそうだ。名前は脳に書き込むつもりで、小声でそれを読み上げ反芻した。
「…うん、ありがとう。試験に出るのがこの薬だといいんだけど」
今年は例年にも増して多くの魔法薬を授業で習った。試験の実践に出されるものがその中のどれかは、本番になってみないと分からない。
「そうねえ」
リリーは腕を組んで、しばし考え込むように目線を上にした。
「でも実践で出るとしたらこれだと思うのよね。調合時間も丁度いいし、程よく難易度が高いし」
「程よく…ね」
出来損ないの液体を消し去ろうとした矢先、粘土状の物体が鍋から飛び出し名前の頬を直撃した。名前は無表情のまま頬を拭き、慣れた手つきで片付けに入った。
「でも魔法薬って、実際の生活では本を見て作るものじゃないの?」
空になった大鍋に縮小呪文をかけながら、名前はリリーに訊ねた。
「作り方を暗記する必要ってあるのかな…手順を見ながら作る方が確実な気がするけど」
「何言ってるの名前。魔法薬を作らなきゃいけないって時に、必ずしも本があるとは限らないのよ」
リリーは机の汚れをマグル式に拭いている。名前は手伝おうかと手を伸ばしたが、リリーは魔法を使わずしてあっという間にその場を綺麗に磨き上げてしまった。
「確かにね…うん、リリーならどんな時もきちんとした魔法薬を作れるよ」
手のひら大になった鍋を鞄に仕舞い込み、名前は自主的に他の机まで拭き始めたリリーに視線を向けた。
「でも私は卒業したら絶対市販のを買うようにするね。みんなの安全の為にも」
リリーは笑って、灰色の雑巾を片手に名前の元に戻ってきた。健気な掃除係へのせめてものお礼として、名前は杖を振って雑巾を真っ白い清潔な布へと転身させた。
「もし魔法薬の店が無い所で、薬が必要になったら?」
地下牢教室を後にしながら、リリーは挑むような笑みで名前に問いかけた。
「姿現しで薬屋の所まで行く」
名前は抜け目ない回答をしたつもりだったが、この問いに関してはリリーの方が一枚上手だった。
「でももし誰かに追われてたり、敵がいつ何処に現れるか分からない状況で、安易に姿現しが出来なかったら?」
階段の先から漏れる光に緑の瞳を向けながら、凛々しい表情でリリーは言った。
「闇祓いになった先輩が言ってたの。人生は必ずしも平和な時ばかりじゃないって。今日の当たり前がいつ崩れるかは分からないから、自分で生き抜く力をつけていかなきゃいけないのよ」
初夏の日差しの下行われた期末試験は、幸いにも予想を上回る結果を得られたように思えた。魔法薬の筆記試験は穴が多かったが、実技試験に関してはリリーの予想がピタリと当たったのだ。やや不自然な語呂合わせを必死に唱えていたおかげで、名前は本番では完璧とはいかないまでも、標準的な緑色の薬を作り出すことが出来た。呪文学と薬草学もまずまずの出来だ。魔法生物飼育学では試験中に二フラーが数匹逃げ出したとの知らせが入った為、ケトルバーンは生徒一人一人の実技をまともに試験している暇はないようだった。再試の報せが無い所を見ると、恐らく全員が一定以上の成績を貰えるのだろう。
ホグワーツの三年生としての生活も、いよいよ残り一日を残すのみとなった。明日の昼には汽車に乗って、お菓子を食べながらキングス・クロスに着くのをぼんやりと待っている事だろう。一年のご褒美として、車内販売では好きなものを好きなだけ買おう。自分にそう誓いながら、名前は汗ばむ陽気の中、緑茂る校庭を歩いていた。学期最終日目前にして、今年度最後の動物もどきの練習をグリフィンドールの4人がねじ込んできたのだ。
叫びの屋敷へ続く通路にはひんやりとした空気が流れていたが、透明マントを着て校庭を走り抜け、暴れ柳が動きを止めている内に穴に滑り込むという一連の動作を経て、一同は服が濡れるほど汗だくだった。今日はこの数日の中でも特に暑い。スリザリンの生徒たちは今頃涼しい談話室で荷造りやら何やらを進めているのだろう。柄にもなく彼らを羨ましく思いながら、名前は出来る限りエネルギーを温存するため無言のままトンネルを歩いた。他のメンバーも同じ事を考えていたようで、秘密の行列はいつになく静かだった。
「皆の衆、陰気な表情におさらばする時が来たぞ」
ようやく叫びの屋敷へたどり着いた頃、先頭きって一足先に着いていたシリウス・ブラックが大仰な手振りで声を上げた。突然の真夏日にうなだれていた一同だったが、言葉の意味を知るや否や全員がぱっと顔を輝かせた。彼の足元には麻袋が置かれ、その中には人数分のバタービール瓶がお宝のようにキラキラと光を放っていたのだ。
バタービールでの乾杯は練習が終わった後にするべきだと言い出す者は誰もいなかった。気の遠くなるような期間を勉強に費やし、期末試験を無事乗り越えたのだ。褒美を受け取る理由はそれだけで十分だ。
甘く冷たいバタービールは体の疲れ全てを吹き飛ばすようだった。5人はしばし解放感に浸りながら、他愛もない話で笑い合った。練習を始めたばかりの頃は、自分が馴染むことも無いであろう集団をいかに厳しく指導するかで名前の頭はいっぱいだった。それが半年以上経って、多少の気を許せる仲になるとは。一年前の自分が聞いたらさぞ驚くだろう。敵対視していたはずの悪戯軍団と、叫びの屋敷でバタービールを飲み交しているなんて。
「ピーターが変身術の試験でヘマしなかったのは初めてじゃないか?」
空き瓶をクルクルと回しながら、ジェームズ・ポッターが言った。
「名前先生のお陰だな。去年なんて跳ね返ってきた呪文のせいで椅子ごと吹き飛んでたんだぞ」
ピーター・ペティグリューは自身の過去の失敗を笑い飛ばしながら、「ありがとう、名前」と気恥ずかしそうに呟いた。未だ慣れないその呼び名に、名前は照れくささを感じつつバタービールの最後の一口を流し込んだ。
他の誰にも言えない秘密を共有しているのだから、結束力を高めるために心の距離を縮めよう。ジェームズのそんな提案から、下の名前で呼び合うようになり1ヶ月が経った。校内では決して話し掛けないという約束を守り続ける事を条件に、名前は渋々それを承諾したのだった。
「だけど夏休みに入ったら、どうせ忘れちゃうんでしょう?」
付き合いにくいと感じていたピーターの扱いも、今や慣れたものだ。名前の言葉にピーターは何度も首を振りながら、「毎日練習するよ!」と気合い十分に答えた。
その日の練習は今までで一番楽しいものだった。各々がこの半年の成果を手応えとして実感出来ている。ジェームズとシリウスに関しては、このペースだとクリスマス前には変身を果たせるかもしれない。二人の才能に感心しながら、名前はあと一歩の所で躓いているピーターを懸命に指導した。きちんと向き合えば真剣に応えてくれる、そんな彼らの熱意ある姿勢に、名前はいつしか親しみとやりがいを感じ始めていた。友好的に関わり合えば、お互いの良い所も沢山見えてくる。何より4人が打ち解けていくのを嬉しそうに見守るリーマスの姿が、名前たちに笑顔を与えていた。
後ろめたさを感じる事なくセブルスに接するために、一日でも早くこの授業を終わらせたい。その気持ちは本当だ。しかし以前とは全く違う感情が心の中に芽生えている。義理で始めたはずの秘密集会は名前にとって次第に自分の力をも伸ばす機会となり、予期せぬ友情を育む場へと変化していた。
数時間後、自分たちへの拍手で練習を終え、5人は夕暮れの空気が流れるトンネルを歩いて帰った。うだるような昼間の暑さと引き換えに、夏の夜は風が爽やかで心地良い。トンネルの終着点に近付くにつれ、新鮮な空気が胸に入ってくる。次ここに来る時は四年生だ。遂に折り返しの学年となる。そんな事を考えながら、いつもの算段で暴れ柳を後にしようと穴を登りかけた時、名前の上にいたジェームズが「待て!」と小声で叫んだ。
夕食時の時刻だが、夏の空にはまだ明るいオレンジの陽が残っている。校庭の様子は杖灯り無しで十分よく見えた。それゆえにジェームズはいち早く危険を察知したのだ。
「参ったな。城の入口にフーチが立ってる」
ジェームズの言葉にシリウスが悪態をつき、背の高い彼は名前の頭を楽に乗り越えて穴の外をさっと覗いた。
「箒の手入れをしているな…何だありゃ、今までこんな時間にやってた事あったか」
「明日が学期最終日だからじゃないかな」
名前の後ろにいたリーマスが不安そうに声をかけた。
「先生たちも明日帰るはずだ。今日中に残った仕事を片付けておくつもりなんだろう」
「いつまでいるつもりかな?」
全員がまさに抱いていた疑問を、ピーターがぽつりと口にした。
「夕食にありつけないのはキツいなあ…」
「仕方ない。もう少し様子を見よう」
ジェームズの判断に一同は穴をよじ登るのをやめ、はあとため息をついて地面に座り込んだ。シリウスがその長身を活かし、見張りとなって穴の先を見つめている。バタービールのエネルギーはそろそろ切れてしまいそうだ。名前が空腹を覚えかけたその時、シリウスが「あっ」と声を上げた。
「フーチ夫人、訓練場の方に行ったぞ。抜け出すなら今だ」
「もう帰っては来ないか?」
急いで透明マントを広げながら、ジェームズがたずねた。
「いや…箒たちは置いたままだ。恐らく何かを取りに行ったんだろうな。すぐ戻ってきそうだぞ」
ふむ、とジェームズは顎に手を当て、一同をざっと見渡した。
「3回に分けて抜け出す暇はなさそうだ。悪いが名前、今日は一緒にマントに入ってくれ」
ジェームズの言葉に名前は黙って頷いた。仕方あるまい。この時間、校庭に残っている生徒は殆どいないだろう。荷造りや後片付けに勤しんでいるはずだ。誰かに見られる可能性は低い。
「順番だが…」
マントをばさりと広げながら、真剣な表情でジェームズが指示を出した。
「まず名前、シリウス、ピーターが先に行ってくれ。僕とリーマスはとりあえず残る」
「おいおい、それではちょっとバランスが悪いんじゃないか、友よ」
外を覗いていた身を翻し、シリウスが眉根をひそめた。
「俺とピーターだけでも高低差があるっていうのに、そこに名前を入れるのは…」
「ピーターが名前をおぶれば君と同じくらいの高さになるだろう」
ジェームズの言葉に、名前とピーターは驚いて顔を見合わせた。ジェームズは二人の反論を待たずして、言いたい事はよく分かる、と身振りで制して言った。
「二度の移動で済むためにはこれしかないんだ。それとも一晩中暴れ柳の下にいたいか?」
「わ、分かったよ」
ピーターは自信なさ気に頭を掻き、制服についた土をはらって立ち上がった。名前もそれに続いたが、果たしてピーターが自分をおぶって走るなど、本当に出来るのだろうか。ハグリッドのような大男ならまだしも、同い年の頼りない少年に自分の体重を預けるなんて。正直言って心配だ。
「それで、俺たちが先に着いたらマントをそっちに渡せばいいんだな?」
ジェームズからマントを受け取りながら、シリウスがたずねた。
「ああ、いつもの段取りでやってくれ。僕がアクシオで呼び寄せる」
そう言いながらジェームズは不安がる名前とピーターを一纏めに寄せ合い、「早く準備を」と催促した。
「ピーターごめんね、重かったら言ってね」
穴から体を半分出した状態で、名前はピーターの背中に思い切って乗っかった。ピーターは「大丈夫」と返事をしたが、その声の様子から察するに大丈夫では無さそうだ。
ジェームズがマントを上方に広げると、三人はあっという間に透明のベールに包まれた。シリウスの合図と共に三人は校庭に飛び出し、足や手が一瞬でも出る事のないようくっ付き合いながら全速力で走った。ピーターが走り始めた瞬間にずり落ちそうになった名前は、必死の思いで彼の肩を強く掴んだ。ピーターは悲鳴のような声を上げたが、責任感から何とか崩れ落ちることなく廊下の入口までの距離を走り切り、シリウスがマントを剥がすその瞬間まで名前のおぶり役という使命を全うしてみせた。
辺りには誰もいない。名前はとりあえずの安心を得て、来た道を振り返った。暴れ柳は穴の中に人が潜んでいるとは思えないほど静かだ。シリウスはマントをくしゃくしゃに畳んで手を振り上げようとしたが、すんでのところで踏みとどまった。
「まずい、フーチが戻ってきた」
三人は反射的に柱の影に隠れながら、掃除用具のようなものを抱えて戻ってくるフーチの姿を見た。あと三秒遅れていたら、マントで走り去る足音を聞かれていたかもしれない。間一髪の切り抜けに、名前は汗のにじむ手を握りしめた。
「ダメだな。ありゃまたしばらく退かないぞ」
ため息をついて、シリウスはマントを更に小さく畳み薄手のローブの中にしまった。
「ジェームズ達には悪いが、もう少し待っててもらう必要があるな」
「えっ、置いてっちゃうの?」
城の中心に向かって歩き出したシリウスに、名前は驚いて声を上げた。
「名前、気をつけなくていいのか?もう城の中だぞ」
シリウスは振り向き、ふっと表情を和らげて答えた。
「フーチが去るのをぼんやり指くわえて待ってるよりも、この時間を使ってジェームズたちの夕食を調達する方が賢いだろ。俺たちはいったん大広間に行く」
確かにシリウスの言う通りかもしれないが、どうだろう。名前は複雑な思いで暴れ柳をもう一度振り返った。フーチもじき夕食に向かうはずだ。夜遅くまでジェームズとリーマスが取り残されるとは思えない。
「そうね…わかった」
シリウスの後をあたふたと追いかけるピーターを見送って、名前は彼らと適度な距離が空くのを待った。二人の後ろ姿が小さくなっていく。曲がり角でその影が見えなくなったのを確認して、もう大丈夫だろうと名前は動き出した。これだけ間隔が空いている状態ならば、誰から見ても赤の他人同士だ。
このまま大広間に直接行って、早めの夕食を済ませてしまおう。今日の内に寮の部屋の片付けを終わらせなければならない。ミランダと踊り場で合流する事を見越して、名前はシリウスたちと同じ道を辿り、中庭に続く玄関から城に入った。案の定夕食に向かう生徒たちで大広間前は混み合っている。名前はその波に加わって部屋へ入ろうと歩みを進めたが、人ひとり隔てた先に立ち止まるシリウスとピーターに気付き、思わず目を見張った。
「マクゴナガル先生頼みます、今だけは勘弁してください」
「いいえ、今すぐ私の部屋に来なさい。あなたたちの罰則は昼に予定されていたんですよ、お分かりですか?」
マクゴナガルが名前に背を向けた状態で、シリウスとピーターを叱りつけている。その状況が何を意味しているのか、彼らの素行を知る身からすれば一目瞭然だ。また罰則をすっぽかしたに違いない。
「先生、次は…次は必ず行きます、二倍の罰則でいいんで…今だけはちょっとどうしても」
「次はありません!」
マクゴナガルはいつになく厳しい声で、シリウスの要求を跳ねつけた。
「夕食に関しては私の部屋でとる事を許します。さあさっさと行きますよ。今年度の罰則を来年度に持ち越そうなんて、とんでもない」
マクゴナガルはシリウスとピーターを引っ張り、生徒の群れに逆らう形できびきびと歩き始めた。シリウスは透明マントを持ったままだ。予期せぬ自体を目の当たりにし、名前は思わず彼らの後を追った。シリウスは校庭側を気にするようにちらちらと振り向きながら歩いている。息を殺して追いかけてくる名前の姿にも、その内気付いたようだった。
『どうするの!?』
引きずられていくシリウスと目が合い、名前は声を出さずに口を大きく動かした。
シリウスは顔をしかめながら、やけくそだと言うようにローブの内側からマントを取り出した。名前に投げる素振りをしている。これを取っていけ、と言っているようだ。
『私が!?』
名前は眉をひそめ、目を丸くしながら自分を指さした。シリウスはマクゴナガルに気付かれない程度に頷き、早く取っていってくれと言わんばかりにマントを持つ手を後ろに伸ばした。あと少しでも素振りを大きくしたら、マクゴナガルに気付かれてしまう。名前は半ば混乱したまま、「アクシオ」と小声でマントを呼び寄せた。
透明マントはすっと名前の手中に収まり、シリウスは名前に完全に背を向けた状態でマクゴナガルの部屋へと歩き出した。名前は銀色の布を慌てて隠し、再び人混みに紛れながら元来た道を辿り始めた。厄介な事になった。目立たぬよう校庭に出て、暴れ柳の側まで向かわなければならない。
踊り場を抜けて外に出ると、陽は早くも僅かに傾き始めていた。問題はフーチがまだあの場にいるかどうかだ。大広間の教師席を覗いてから来れば良かったと、名前は少しだけ後悔した。しかし大広間に顔を出す所を万が一セブルスに見られたら、それはそれで都合が悪い。そのまま夕食の席に付かず校庭に向かって去っていくなど、どう考えても怪しいの一言だ。
校庭の脇に広がる閑散とした廊下を、名前はそわそわと落ち着かない気持ちで歩き続けた。冷や汗をかくこと数分後、遂に視界に暴れ柳が入ってきた。目の前にそびえるのは先程シリウスたちと隠れた柱だ。名前は再度その影に身を落とし、フーチが大量の箒とともに佇んでいた場所を見た。なんと箒は一本残らず綺麗に片付けられ、猫一匹いない静かな草原が広がっている。
名前は柱から飛び出し、暴れ柳の下に潜んでいるであろうジェームズたちに向けてマントを掲げた。すると瞬時にしてマントは名前の手を離れ、高速の飛行物体となって暴れ柳の根元に引きずり込まれていった。ジェームズがアクシオを唱えたのだ。
名前はほっと胸を撫で下ろし、急いで大広間へと向かった。まだ夕食は始まったばかりだが、ジェームズたちに追い付かれない内にこの場を後にしなくては。彼らも慌てて城へと走ってくる事だろう。名前は駆け足で復路を辿り、何とか彼らと空間を同じにする事なく城の踊り場へと足を踏み入れた。
「ずいぶん疲れてるみたいね?」
大広間へ入るやいなや、扉の側で名前を待っていたミランダが声をかけた。いつも通り、彼女は多くを訊ねてはこない。ある程度は"分かって"いるのだろう。名前は乱れた髪を手ぐしで整えながら、「色々あって」と答えた。
いつも通り賑やかな笑い声が響く大広間だが、生徒たちは皆どこか慌ただしそうだった。学期末の後片付けに追われる者、やり残しが多い者、シリウスのように罰則が終わっていない者など様々いるのだろう。セブルスの姿も見られない。彼の事だ、マグルの家庭に戻る前にやっておきたい事が山ほどあるのかもしれない。
名前はグリフィンドールのテーブルにあえて背を向けて座ったので、ジェームズとリーマスが無事この場にいるかは分からずじまいだった。しかしシリウスたちがマクゴナガルに捕まったところを見る限り、あの二人、少なくともジェームズは共犯なのではないだろうか。彼らが自分の背後でのんびりと食事をとっている可能性は低いかもしれない。頭の隅でそんな事を考えながら、名前は今年度最後となるホグワーツの夕食を感慨深く味わっていた。
夕食の終わり、ミランダは何かを「返しにいかなきゃ」と校長室へと行ってしまった。ダンブルドアから個人的な借り物をしている生徒が一体どれだけいるだろう。しかし約三年の付き合いを経た今、ミランダの言動に対して名前はそれ程驚かなくなっていた。この一年で自分の生活は大きく変わった。動物もどきを習得し、魔法省の役人にも会い、限られた数名しか載っていない名簿に登録され、グリフィンドールの問題児たちといくつもの規則破りに相当する集会を重ねている。ミランダと同じくらい、他人に対して言えない秘密が増えたのだ。
地下への階段を降りながら、身につけた時計の針が指し示す位置を見て名前はため息をついた。まだ夜はこれから、という時間帯だ。談話室は人で溢れかえっているだろう。いつもならどこかに寄り道して帰るところだが、自室の片付けが終わっていない今そうも言っていられない。名前は仕方なしに薄暗い廊下を進みスリザリン寮を目指した。魔法薬学の教室が近いせいか、薬品の匂いが鼻をつく。夕食時は地下にある厨房から漂う食欲を誘う香りと、魔法薬の煙とが混ざりあって何とも言えない空間となるのだ。それにしても今日は魔法薬の匂いが一層強いように感じられる。名前はいつもと少し違う空気を吸い込みながら、魔法薬学の教室に誰かいるのかと覗き込もうとした。しかしその瞬間、名前は手首を強く掴まれ、そのまま後ろにぐいっと引っ張られた。
「セ、セブルス」
背後に立っていた少年の顔を見て、名前は叫びかけた声を何とか抑えた。セブルスはそのまま教室へと名前を引き入れ、古扉をバタンと閉めた。教室は無人だ。ただならぬ雰囲気のセブルスに名前は不吉な予感を覚えたが、もはや逃げ出すことは出来ない。
「今日ー…」
暗い瞳で名前を見据えながら、セブルスがゆっくりと口を開いた。
「校庭のはずれで、不可思議な光景を見たんだ」
「そうなの?」
何気ない声のトーンを装いながら、名前は後ろ手にある机にもたれかかって言った。3メートル先に立つセブルスは、言い知れない威圧感を放っている。
「君が何やら慌てた様子でな。一風変わった、銀色の布を手にしていた」
一刻も早くこの場を離れたい名前の心と裏腹に、セブルスは獲物を狙う蛇のように、ゆらりと少しずつ名前の方へ近付いてくる。閉ざされた扉は、今や果てしなく遠くに見えた。
「すると突然…何の前触れもなく、その布がどこかへ飛んで行ったんだ。どこだか分かるか?」
「さあ」
自分でも馬鹿げた返事だと思いつつも、名前は顔を青くしながら唇を震わせて答えた。口に出すには、この一言が精一杯だった。
「驚いたことに、暴れ柳の根元だった」
セブルスは名前との距離をさらに縮め、不思議だ、というようにわざとらしい手振りをした。
「ところが真に驚くべきはその後だった。そこから何かが出てきたんだ。風もないまっさらな地面に、草を踏み倒していく足跡のようなものが見えた」
名前は無言のまま、セブルスの足元に目をやった。この状況に屈することなく、彼の顔を見続ける勇気など自分にはない。磨かれていないくすんだ色の革靴は名前の足先で止まり、脅すようにゆっくりと二度足踏みをした。
「そこで僕は陰に隠れて目を凝らして見ていた」
勿体ぶった口ぶりで話を進めながら、セブルスはこの上なく近付いた距離でじっと名前を見下ろしている。名前は靴に視線を向けるのにも耐えかね、ぎゅっと目を瞑った。この一年で背が伸びた彼に、俯いている自分の表情はちらとも見る事が出来ないだろう。しかしこの隠せぬ恐怖はどうしたって伝わっている。
「僕が何を見たか、君は分かっているだろう?」
静かに投げかけられた問いに、名前は一瞬の迷いを見せた後、言葉無く頷いた。もうここにはつき通せる嘘など存在しない。名前はその一度の小さな頷きで、絶望に近い思いを抱きつつ、全てを認めた。
「…なぜ君が奴の手助けをしている?奴らはなぜ暴れ柳なんかにいたんだ?」
セブルスはそれまで必死に抑えていた怒りを、とうとう制御出来なくなっているようだった。彼は次第に語気を強め、憎しみをあらわにしながら声を荒らげて言った。
「答えろ、奴らとどういう関係なんだ!?お前たちはあそこで何をしていた!?」
「違う、違うの!」
止まりかけた心臓を揺さぶり起こすように、名前は顔を上げて叫んだ。
「あれは…今日の事は、シリウス・ブラックに頼まれたの」
「ブラックの頼まれ事を聞いた?お前たちは日頃から助け合うような仲だったのか?」
名前の弁明は火に油を注いだ結果となり、セブルスの怒りを余計に煽ってしまったようだった。見たことの無い表情のセブルスに、名前はこの上ない恐怖を覚えた。
「誤解よ…その、ブラックには…」
恐ろしさに身をすくめる一方で、名前の頭の片隅にはかろうじて冷静さが残っていた。僅かに残った理性の部分が、咄嗟に嘘をつけと叫んでいる。名前は吹き出る汗に手を滑らせながら、机の端を歩行杖のように握りしめて言った。
「ブラックたちには、その、借りがあったの…この前、リリーと魔法薬を勉強した時に…」
"上手く嘘をつくには、半分の真実を混ぜろ"。ミランダが教えてくれた方法だ。パニックに支配された脳の中で、居場所を追われながら辛うじて踏ん張り続けるひと握りの冷静さが、名前の舌に言葉を一節ずつ載せていく。
「どうしても教室を使いたかったんだけど、試験前で人がいっぱいで…席が空いてなくて…」
セブルスは殺気立つ目つきのまま、黙って名前の話を聞いていた。彼はリリーの名前が出た事で少し慎重になっているようだった。あの日教室が人でいっぱいだったのは本当だ。名前は真実を述べてから、するりと嘘を忍び込ませた。
「そこにブラックとポッターが座ってて…多分、リリーがいたからだと思うんだけど…彼らが、まだ調合が終わってないけどって言いながら、席を譲ってくれたの」
絞り出す自分の声は終始震えている。名前はセブルスの目を見る覚悟を依然持てないまま、薬品と思わしき汚れにまみれたその袖の裾に視線を移した。
「それでさっきブラックに、偶然会って…あの時助けてやったんだから、借りを返せって…わけの分からないままにマントを渡されて、行けって言われた場所に行ったの…」
教室は沈黙に包まれ、水滴がしたたる音が石造りの地下空間に大きく響いた。セブルスは発言の真偽を見極めるように、黙って名前の目を見つめている。
よくもここまでさらりと嘘がつけたものだ。セブルスの視線に怖気づきながらも、陰の自分は危険回避の道を必死に切り開こうとしている。
「ポッターにそれを届けるよう言われたのか?」
名前の出方を伺うように、セブルスがやや高圧的にたずねた。名前は頭の中で注意深く言葉を選びながら、その問いに答えるべく口を開いた。
「そう…でも私、そこでポッターたちが何をしてたかなんて知らない。マントだって、私が何もしない間に暴れ柳に飛ばされていったんだもの。ポッターになんて会いたくなかったから、その後すぐ城に戻ったよ」
嘘は組み立てられた。後戻りの出来ない状況で、名前は作り上げた架空の事実が疑惑の壁を打ち砕いたように感じた。セブルスは相変わらず暗い瞳で名前を捉えていたが、その詰め切った距離には僅かに隙が生まれている。今ならここを立ち去る事も出来るだろう。
「たった二席の礼としては、随分と親切なお返しをしたものだな?」
セブルスの口調には相変わらず不愉快さが込められていたが、その怒りのピークは過ぎ去り、これ以上追及するのは時間の無駄だと考えたらしい。彼は名前に背を向け歩き出し、扉の前で振り返って言った。
「二度と奴らに借りなど作るな。僕が許さない」
セブルスは壁に叩きつけんばかりの勢いで扉を開き、荒々しくその場を去っていった。
名前は張りつめた緊張から解き放たれ、足を震わせたまま傍にあった椅子に崩れ落ちるように腰掛けた。アズカバンに収監される裁判のようだった。心臓はまだ早鐘のように鳴り響き、冷や汗は流れ続けている。顔は真っ青で冷たいのに、頭には血が上がってのぼせてしまいそうだ。セブルスに嘘をつき通した。そして彼はそれを信じたのだ。名前は安堵すると同時に、また嘘を重ねたという事実が、自分を深い罪悪感の海に突き落とすのを感じた。
名前は焦点の定まらない視点のまま立ち上がり、教室の端にあった紙を裂いて急いでメモを書いた。リリーへのメモだ。セブルスは名前の知る中で、誰よりも疑い深い性格だ。事の真相をリリーに確認しに行く事だろう。リリーがセブルスに声を掛けられる前に、何とかして話を合わせてもらわなければならない。彼女は多くを詮索しないはずだ。シリウスとジェームズに魔法薬学の教室で席を譲られたことにして欲しい、そう走り書きで記し、名前はそのメモを握りしめたまま教室を出た。
暗い地下牢にリリーの姿があるはずもなく、名前は駆け足で廊下を突き進み、息を切らして階段を登り続けた。グリフィンドール塔に行かなくては。メモを蛙に変えて、グリフィンドール生のローブに忍ばせようかとも考えた。しかし今は何よりも確実性が欲しい。偽の蛙は踏みつけられたが最後、人の行き交う廊下に落ち、ボロボロの切れ端となって捨てられてしまうだろう。自分の手で渡さなくては。名前はあまりの重圧と焦燥に涙目になりながら、なりふり構わず走った。そしてとうとう明るく鮮やかな、太った貴婦人の肖像画を前にして足を止めた。
そこにたどり着いて初めて、名前は周囲の視線が一斉に自分に向けられている事に気づいた。紅の集団の中に一点の緑が混じるその光景を、生徒たちは異形に出会ったかのような目で見ている。途端に名前は顔が火照るのを感じた。胸が苦しくなるまで走ったせいではない。疎外感が鎖となって首を絞めてくる。自分がどれ程場違いな状況にいるかを知らしめるかのように、集団は名前を指さしてヒソヒソ会話し始めた。
リリーはどこだろう。名前は目眩を起こしそうになりながら、赤毛の少女を必死に探そうとした。しかし周りを見れば見るほど、猜疑と嫌悪の目が否応なしに降りかかってくる。名前は眉をひそめるグリフィンドール生たちの眼差しに耐えかね、広がる世界を遮るように視線を床に落とした。大広間や教室では感じたことの無い感情だ。他寮の敷地に自分が、スリザリン生が入るという事は、こんなにも強く拒絶されるものなのか。メモは名前の手の中でくしゃくしゃに丸められ、みすぼらしい球体へと姿を変えていた。もうこれ以上ここにはいられない。名前は後退りしながら階段を降りようとした。しかしよろめく視界の中で、しまったと思った時にはもう遅かった。体が後向きに為す術なく倒れていく。
「危ない!」
間一髪の所で名前の背中を受け止めたのは、あろう事かジェームズ・ポッターだった。
「何してるんだよ、こんな所で…」
名前は地に足がある事を感じながら、ゆっくりとジェームズを振り返った。眼鏡の奥で、驚きと戸惑いに溢れた瞳が名前を映している。
「組分け帽子にやっぱり君はグリフィンドールだって言われたのか?」
ジェームズの隣で、シリウスが笑いながら冗談を飛ばした。しかし今の名前にはそれを受け流す余裕もなく、その弱々しい姿にシリウスはぎょっとしたようだった。
「お願い…これを、リリーに渡して…すぐに」
名前はジェームズだけに聞き取れる声で、ゴミ屑にも見える紙の切れ端を手渡した。ジェームズは怪訝そうな顔でそれを受け取り、これが何なのか訊ねたかったのだろう、戸惑いながら口を開こうとした。しかし名前の顔を見て、彼はその好奇心を心の奥に押し込んだようだった。
「それと…」
ついに決断を下す時が来てしまった。とっくに答えが出ていた筈なのに、直視したくないあまり先延ばしにしてきてしまった。潰れそうなこの気持ちは、セブルスに嘘をついた事への罰なのだ。名前は息を吸い込み、先程より更に小さな声で呟いた。
「あなたたちとは、もう、ああいう風に会えない」
「な…なんだって?」
そのか細い声を聞き取ろうと、ジェームズは屈んで名前に目線を合わせようとした。そんな彼の様子に、声が何度も詰まりそうになる。名前はぐっと拳を握りしめ、遂に言わねばならない事を告げた。
「もう、動物もどきを教えられない。ごめんなさい」
ジェームズは目を見開き、混乱の中咄嗟に何かを言おうとした。それが引き止めの言葉であり、抗議の叫びでもある事は名前にも分かっていた。分かっているからこそ、聞く必要は無い。耳を傾けたら最後、言い訳を並べて彼らを助けたくなってしまう。
背後に響くジェームズの声は、自分に向けられたものでは無い。更なる嘘を言い聞かせながら、名前はグリフィンドール塔から地下へと階段を一気に駆け下りた。暖色の明るい光たちが視界から遠ざかっていく。待ち受ける先は、自分のあるべき場所へと続く、薄暗い廊下と冷たい石扉だった。