第一部
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憂鬱な日々に救いの手を差し伸べるように、間もなくしてクリスマス休暇がやって来たのは名前にとって非常に幸運だった。あの事件以来名前はポッターへの苛立ちが治まりきらず、親切に動物もどきを教える事などとても出来ないと練習をキャンセルし続けていた。喜びを告げるクリスマスデコレーションに心の傷を抉られては、あの日の後悔に苛まれる。心のもやがこれ以上増えるのを避けるため、名前はクリスマスのホグズミードに行くのをやめた。向こうでセブルスとリリーに合流すればとミランダは言ったが、セブルスの気持ちを知っているからこそ、そんな図々しい事は出来ない。自分はポッターのような無礼な輩とは違うのだから。
ホグワーツを一時離れて、家族の温もりに包まれた名前は再び心の安定を取り戻すことが出来た。フクロウが運んできたリリーからのクリスマスプレゼントに動揺こそしたものの、お返しのプレゼントを贈る余裕が戻ってきている事に名前はほっとした。悲しみや後悔といった負の感情は、ホグワーツの見えない何かによって必要以上に増幅されていたのかもしれない。クリスマスの翌日には、名前は驚くほどすっきりした気持ちになっていた。また新しい日々を頑張ればいい。チャンスなどこれから幾らでも作ればいいのだ。ホグワーツに篭もりっきりのセブルスに思いを馳せながら、名前は悪い記憶に別れを告げて前に踏み出す決意をした。
心のリセットに繋がる穏やかなクリスマス休暇を過ごせて、本当に良かった。再びホグワーツへと向かう旅路の中、狭いコンパートメントで目の前に座るリリーに精一杯の笑顔を向けながら、名前は心の底からそう思った。二人は偶然にも9と3/4番線ホームで一緒になり、ごく自然な流れで席を共にする事になったのだ。
汽車はキングス・クロス駅を発車したばかりだ。あの件に関して吹っ切れたとはいえ、いざリリーを目の前にすると、依然として複雑な気持ちになってしまう。名前はしきりに通路を覗き見ては、車内販売の魔女が来るのを今か今かと待っていた。何か甘いものを口にすれば、少しはリラックス出来るかもしれない。
「クリスマスプレゼント、ありがとう名前!」
名前のそんな気持ちに気付く筈も無く、リリーはこの数年でより魅力的になった笑顔を浮かべた。
「魔法のかかった紅茶って、私見たことなかったの!すごいのね、お湯を注ぐと宝石みたいな光があちこちに浮かんで…家族がみんなびっくりしてたわ」
「ううん、こちらこそ」
口角に力を込めながら、名前はリリーからのプレゼントがどれほど嬉しかったかを大仰に語った。リリーに贈った紅茶は、家にそれらしいプレゼントがないか急いで探した物だ。リリーとミランダからは毎年クリスマスプレゼントをもらっているはずなのに、今年はリリーへの贈り物を用意するのをうっかり忘れていたのだ。しかし本当に"うっかり"だったのだろうか。見て見ぬふりをしていたのではないか。
「リリーの家族にも、楽しんでもらえたなら良かった」
自問自答に封をしながら、名前は自然な微笑みを取り繕って言った。考えれば考える程、自分が嫌な人間に思えてきてしまうのだ。前向きに進むと決意したばかりの新しい年を、ホグワーツに着く前から台無しにしてはならない。
「もうびっくりよ。パパもママも『まるで花火を見てるみたい!』って」
満面の笑みで家族の様子を語るリリーの愛らしさに、名前は毒牙を抜かれる思いがした。この子の前では誰であろうと敵わない。そんな事、ずっと前から分かっているはずだったのに。
「リリーはきょうだいとかいるんだっけ?」
遠くから近付いてくる車内販売の声に注意を傾けながら、名前は世間話程度の話題を振った。しかし予想とは裏腹に、その何の気なしの話題はリリーの表情を曇らせたようだった。
「うん…妹がいるんだけど…」
リリーは視線を床に落とし、寂しげな声で答えた。
「私の事、もう好きじゃないみたい。昔はあんなに仲が良かったのに…私だけが魔女だったせいで…」
リリーでも輝きを失う時があるとは。うな垂れる彼女を前に、名前は慰めの言葉を必死に探した。家族の喧嘩なんてそう永遠には続かない。きっといつか仲直り出来る日が来るだろう。しかし事情も知らずに、そう軽々しく言っては逆に傷つけてしまわないだろうか。名前がおろおろと狼狽えていると、助け舟を出すかのように、お菓子のカートをひいた魔女が通路脇にぬっと現れた。
「あ、あ、買います!」
名前は立ち上がって車内販売魔女を呼び止め、硬貨の入ったポーチを取り出しながらカートの中身を物色した。リリーも同じようにお菓子の山を覗き込みながら、準備万端とばかりに財布を握りしめている。ホグワーツに着いてからも毎日ベッドで食べられるようにと、名前はありったけのフィフィフィズビーと蛙チョコレートを老魔女から受け取った。
車窓からの眺めは次第に建物が減っていき、名前がその日最初のフィフィフィズビーによる浮遊を終えた頃には、景色はすっかり一面緑の田園地帯となっていた。かぼちゃパイの包みをくしゃくしゃと丸めながら、ふとリリーが名前にたずねた。
「煙突飛行とか、箒とか…魔法には速い移動手段っていっぱいあるのに、どうしてホグワーツは何時間も汽車に揺られるんだと思う?」
「えっ…何でだろう」
思いがけない問いに名前は面食らった。理由なんて考えたことも無い。煙突飛行で行けたらどんなに楽だろうと思ったことはあれど、ホグワーツの煙突ネットワークは基本的に遮断されているのだ。
「私ね」
リリーはくすっと笑いながら、キラキラと輝く瞳で名前を見た。
「ホグワーツに着くまでに、友達といっぱい話すためだと思うの。新入生なんかは特にね、汽車の中で友達ができたりするでしょう?」
「ああ、確かにそうかも」
リリーの考えに名前は納得して頷いた。言われてみれば、自分とリーマスが知り合ったのもホグワーツ特急での出来事だった。あの偶然の出会いが無ければ、リーマスとは今でも知らない者同士だったかもしれない。彼の秘密を知る事はおろか、その友達に動物もどきを教えるなんて決して起こりえなかっただろう。
「大袈裟かもしれないけど…最初の出会いで、学校での生活が大きく変わることだってあるもんね」
「そうよね、ほんと」
名前の言葉にリリーは笑顔で相づちを打ち、少し間を置いてから改まった表情で口を開いた。
「名前、セブに何か隠し事してるでしょう?」
突然の問いかけに、名前は目をぱちくりさせてリリーを見た。一瞬にして全身に緊張が走り、顔の筋肉が強ばって動かない。名前は早鳴る心臓の鼓動を頭の中にまで響かせながら、この場にふさわしい答えを必死に探した。リリーは何故それを知っているのか。グリフィンドールゆえに、何かを見破られたのだろうか。そもそも隠し事のどこまでを知っているのだろう。一秒もの間に様々な考えが名前の頭に浮かんでは消え、慎重に言葉選びをしなければとプレッシャーをかけてくる。
「な…何のこと?」
口から突いて出たのは、自分でも呆れるほど陳腐な誤魔化しだった。考え得る中で最も間抜けな回答を選んでしまった。名前の嘘を当たり前に見透かしたリリーは、くすくすと笑いながら手を口に当てた。
「あなたって嘘が下手ね、名前」
リリーは無邪気な笑顔を浮かべながら、名前の緊張をなだめるように言った。
「安心して、私もそれが何かは知らないから。ただセブルスが気にしてたのよ…あなたに嘘をつかれたって」
「セブルスが?」
思いがけない事実を告げられ、名前はシートから飛び上がらんばかりに驚いた。
「いつそんな事言ってたの?」
「冬休み前にホグズミードに行った時」
手のひら大の缶ケースからペパーミントキャンディを取り出して、リリーはそれを名前に一つ差し出した。冬休み前、確かに自分はセブルスに嘘をついた。口に広がったペパーミントの清涼感が名前の頭の中の記憶を鮮明に思い出させた。ポッターたちに動物もどきを教えに行く前、セブルスと大広間で出くわした時だ。魔法生物飼育学の敷地に忘れ物を取りに行くと嘘をついた自分を、セブルスは不審そうな目で見ていた。あの時に違いない。
「私もその時はセブに勘違いじゃない?って言ったんだけど…ほら、彼って誤解しやすいし、されやすいから」
キャンディを舌で転がしながら、リリーは何か愛らしい小動物を見るかのような眼差しで微笑んだ。
「でもその様子だと本当なのね」
名前は返す言葉もなく、背中に汗を感じながら黙りこくっていた。ポッターたちの手助けをしている事までは気付かれていないようだ。しかし問題は、セブルスにも言えない秘密がある事を彼自身に知られてしまった事にある。もし彼がその事を面白くないと感じていたら、一体どうするだろう。リーマスの秘密と同じように、暴く日を待ち望んであの手この手を打つだろうか…。
「彼、相当ショックだったみたいよ」
リリーの言葉に名前は耳を疑った。ホグワーツ特急はどこかのトンネルに入り、暗い壁が窓を一面覆う。汽車の走る轟音がトンネル内で反響し、耳をつんざいた。聞き間違えだろうか。そう不安に思いながら、名前はリリーに改めて訊ねた。
「…ごめん、何て?」
「セブルスよ。あなたに嘘をつかれたのが、ショックだったんですって」
思いもよらぬ告白に、名前は目を瞬かせた。自分の嘘にセブルスがショックを受けるなんて、そんな事あるわけがない。実際あの時だって、馬鹿にするように鼻で笑われたのだから。
「あり得ないよ。冗談でそう言ったんでしょ?」
「いいえ、まさか」
そう答えるリリーの表情は真剣そのものだった。
「セブの言ってる事が冗談か本気かなんて、すぐ分かるわよ。小さい頃から見てるんだもの。かなりうじうじ悩んでたわよ」
点になりかけた目を、名前は手でごしごしと拭った。セブルスが自分の言動を気にかけるどころか、それについて悩んでいたなんて。本当にそんな事があるのだろうか。汽車に乗るまでは、ホグズミードでセブルスとリリーが過ごした時間についてなど1ミリたりとも聞きたくない、そう思っていた。しかし今の名前にとって、事態は急変したと言ってもいい。あの日ホグズミードでセブルスがリリーに何を話したのか、俄然聞き出したくなったのだ。
「…他には何か言ってた?」
鳴り響く車輪の音に妨げられまいと、名前は耳を澄ましながらリリーに問いかけた。
「あなたの話はいっぱいしてたわよ」
リリーはニコニコしながら、その日の出来事を思い出すように斜め上を仰いだ。
「魔法薬学での名前の様子とか…宿題を見てあげたとか…」
「それって私への文句じゃない?」
これまでの魔法薬学の授業を振り返り、名前は眉をひそめた。セブルスにとって良い思い出だったとは到底言い難いはずなのだ。
「本当に文句だったらセブは話題にすら挙げないわよ」
豊かな赤髪を耳にかけ、リリーは言った。
「それにあなたへのクリスマスプレゼントを選ぼうっていくつか店に寄ったんだけど…セブったら興味無いとか言いながら、あなたの為に色々探してたし」
「そうなの?」
思ってもみなかった事実に名前は目を見張った。
「あなたに隠れて闇のグッズを探してたんじゃなくて?」
「違うわよ。名前へのクリスマスプレゼントは結局二人で決めたんだから。あの日はとっても楽しかったわ!」
リリーの無邪気な言葉に、名前の心が再びちくりと痛んだ。幻想的な雪景色のなか、二人が楽しそうに並んで歩く姿が目に浮かぶ。リリーがセブルスの手を引いて、あの店この店と次々にまわり、買い物を終えた二人は三本の箒でバタービールを注文する。泡のヒゲをつけながら、二人は幸せそうに見つめ合って…。
汽車はトンネルを抜け、雲間からもれる光がコンパートメントに射し込んだ。これだけははっきりさせておきたい。名前は覚悟を決めて、かねてより気にかかっていた疑問をぶつけようと決意した。
「リリーは…その…」
いざ口に出そうとすると、緊張で唇が震える。しかしリリーの気持ちを知るタイミングは今しかない。これを逃せばもうチャンスは早々やって来ないだろう。名前は生唾を飲み込み、心を占めていたモヤモヤをやっとの思いで言葉にした。
「リリーは…セブルスの事が好きなの?」
訊ねられたその意味を、リリーはすぐには理解出来なかったようだった。雪に覆われた山々がホグワーツ特急を包み込む。一瞬の沈黙の後、リリーは全てを悟ったかのように両手であっと口を抑えた。
「ああ、名前…そうだったのね…!」
名前の顔とコンパートメントの外を交互に見渡しながら、火照った表情でリリーが叫んだ。
「私ったら…あなたたち二人と一緒にいて、今まで気付かなかったなんて!信じられない!」
リリーは口を覆っていた手をぱっと前に出し、しどろもどろになった名前の両手を掴んだ。名前はどう反応して良いか分からぬまま、困惑した顔を彼女に向けた。
「勿論セブの事は好きよ。友達として、ね」
リリーは息を切らさん勢いで、まくしたてるように言った。
「つまりあなたの心配するような事は何もないってこと!ああ、なんて素敵なのかしら!私あなたを精一杯応援するわ!!」
「リリー、待って待って」
頬を紅潮させて息巻くリリーに気まずさを感じながら、名前はそっと手を下ろして言った。
「その…そっか、そうなんだけど…」
"セブルスが好きなのはあなたなの"、そう言いかけて名前は口をつぐんだ。自分がこの場で言って良い事ではない。しかし二人が両想いな訳ではなかった。少なくとも最悪のシナリオは免れたのだ。リリーのセブルスに対する想いが友情である事に名前は心底ほっとして、口の中で忘れられていたペパーミントの香りが戻ってくるのを感じた。
「セブルスはあなたの気持ちを知らないのよね?」
リリーは美しい緑の目をキラキラと輝かせている。名前が勿論とばかりに頷くと、赤毛の少女は喜びが体から溢れんばかりにそわそわし始めた。
「私なんでも協力するから。そうね…まずは二人きりで食事をする日を増やした方がいいわね。湖のほとりで過ごすのも良いって友達が言ってたわ。それに次のホグズミード行きの日は、絶対に一緒に行って…」
「リリー」
目の前でどんどん話が進んでいく不安から、名前は思わず彼女を制すように呼び止めた。リリーは喋るのをやめてはたと名前を見たが、その表情を見るやいなや天使のような顔で再び名前の手を取った。
「大丈夫。セブルスもきっとあなたが好きだわ」
残念ながらそうではないのだ。その事をどう伝えればいいのだろう。彼には他に好きな人がいる、そう告げた暁には、リリーはあの手この手でセブルスの想い人を本人に問いただすだろう。三人それぞれにとって、そんなにもバツが悪い話はない。結局名前は否定も肯定も出来ぬまま、はしゃぐリリーの"作戦"を複雑な思いで聞いていた。彼女の優しさがこんなにも心に痛く響くとは。どんな状況にあっても、リリーが自分の大好きな友人である事に変わりはない。しかし名前は一刻も早く汽車がホグズミード駅に到着しないかと、内心祈らずにはいられなかった。
そうして始まったホグワーツの新学期は、不自然な計らいを感じずにいる日は一日も無いというくらい、リリーの気遣いに溢れた毎日となった。リリーに昼食をちゃんと食べるよう厳しく言われたセブルスが大広間で名前の前に現れたり、三人で取りつけたはずの約束を直前でリリーがすっぽかしたりと、とにかくリリーは名前とセブルスが二人きりになるよう躍起になっているようだった。ある時は廊下をセブルスと歩いていたリリーが、視線の先に名前を見つけるや否や突然セブルスに別れを告げてどこかへ行ってしまった。話の途中で置き去りにされたセブルスは何が起きたのかも分からぬまま、名前が彼の目の前まで近付いても尚リリーの走り去った方向をぽかんと見つめるばかりだった。
リリーの"暗躍"はやりすぎな上に、セブルスの不信感を不必要に買ってしまっているのではないだろうか。名前の嫌な予感は見事に当たった。セブルスが大広間で渋々昼食をとるようになり一週間が経った頃、彼は不機嫌に満ち満ちた表情で名前の正面の席に腰掛けた。
「リリーと君は喧嘩でもしてるのか?」
ごもっともな見解だと名前は思った。自分の姿を見るなり、会話を中断してまでセブルスから離れていってしまうリリー。思えばリリーとはこの一週間まともな会話をしていない。セブルスに気付かれぬ範囲で、彼女は名前に毎回ウインクを送り続けているのだが、セブルスからすれば二人は顔もつき合わせぬまずい状態に見えるのだろう。
「してないよ。むしろ今までにないくらい仲良しだもん」
本当の事だ。複雑な胸中のあまり名前は笑顔を取り繕うのを忘れ、浮かない表情でそう答えてしまった。
「ふうん」
疑いたっぷりの眼差しを名前に向けたまま、セブルスは大皿のサンドイッチに手を飛ばした。
「最近君を見かけると、リリーはすぐどこかに行ってしまうんだが…本当に、本当に仲良しなのか?」
「誓って、仲良しのままよ」
名前は後ろめたさを感じながらも、セブルスに面と向かってはっきり告げた。やはりリリーのこの作戦は失敗だ。今日中に彼女と会って、不自然な振る舞いをやめてもらうよう言わなくては。セブルスがリリーを好きでいる限り、事はそう単純には進まないのだ。
「…まあ、確かに今度は嘘じゃなさそうだ」
セブルスがぶっきらぼうに呟いたその言葉に、名前はぴたりと手を止めた。突然訪れた緊張が体中の筋肉を強ばらせる。名前のその様子を受けて、セブルスは更に勘ぐるような視線を向けた。
「君は嘘が下手だからな」
何もかもお見通しというような余裕さを醸し出しながら、セブルスは肘をついて名前の目をじっと見た。心の奥を見透かすようなその目つきに、名前は有り余る心当たりから逃げ出したくなりそうだった。
以前ついたあの嘘に関して追及をされるのだろうか。あんな粗末な誤魔化し方でセブルスを納得させられたはずがないのだ。しかし突然の今、整合性のある嘘をつけるとはとても思えない。何か、何か辻褄の合う言い訳を考えなくては。波のような焦りに押されながら、名前は頭の中で必死に考えを巡らせた。セブルスは何から聞いてくるだろう。あの日本当は何をしていたのか気になっているに違いない。あの時咄嗟に忘れ物という嘘をついたは良いものの、魔法飼育学の敷地に何を忘れたのか、その内容を考えていなかった。羽根ペンにしよう。しかしあの授業で羽根ペンを取り出す機会など早々ない。窮地とも呼べる状況下で焦燥し切った名前を見据えながら、セブルスがとうとう口を開いた。名前は瞬きすら出来ずに、彼の肘のあたりをじっと見つめていた。もうお腹が痛いと言って立ち去るしかない。そう覚悟を決めた名前だったが、セブルスの口から出た言葉は名前が想像していたどの問いとも違っていた。
「…君を信じていいんだな?」
セブルスの発言に、名前は驚いて目を見張った。彼はどこか照れくさそうに眉をしかめてはいるが、その眼差しは名前を真っ直ぐに見据え、真剣そのものだ。予想だにしていなかったセブルスの態度に、名前は呆けた表情で彼を見つめ返した。たった一言の返事にこれ以上間をあけてはならない、そう判断した名前の脳が、セブルスの気持ちを心で処理するよりも前に勝手に口を開かせた。
「うん」
名前の返事を聞いたセブルスは念押しするように頷き、テーブルの上に散らかったパンくずを床に落としながら席を立った。いつの間に食べ終わったのか、セブルスの皿によそってあった昼食は空になっている。彼がいつものように気だるそうな表情で、背中を猫背に丸めながら立ち去っていくのを名前は黙って見ていた。彼の後ろ姿はいつも真っ黒だ。セブルスが視界から消えて初めて、名前は今しがた発した一言が何を意味するのかを思い知った。
セブルスは気付いている。自分がこの期に及んでも決して言うことが出来ない、冗談半分にも伝えられない隠し事をしているのを彼は知っている。そして同時に彼は、それが自分たちの友情を裏切るものでは無いと信じたいのだ。お互いが良しとするもの、忌むべきもの、味方と敵が同じである事を彼は心の底で願っている。それこそがスリザリンで名前とセブルスを結びつけた絆の背景なのだから。
生徒たちが次々と大広間を去っていく中、名前は一人身動きせぬままセブルスが座っていた先を見つめていた。ぼやけた視界の中で、時折紅色の波がゆらめきながら流れてくる。約束は二つに一つだ。どちらを大切にすべきかなんて、考える間もなく決まっている。ポッターたちへの手助けを終わらせなければならない。分かっている。誰に言われなくとも、選ぶべき道は自分が一番分かっているのだ。
名前は席を立ち、大広間の扉前に溢れる生徒の群れに加わった。こんなにも人がいるホグワーツで、自分が振り向いてもらいたいのはたったの一人だけだ。何を躊躇う必要があるだろう。四つの色が混ざり合う群衆の中で絵の具のように溶けながら、名前はその波に流されるがままに歩いた。景色を景色とも思わずに、ぼんやりと向かうべき方向だけを見据えていたつもりだった。
今も、そしてこれからも、選ぶべき道は決まっている。そう心に決めたはずなのに、何故その時目にせねばならなかったのか。すれ違う友人の顔に刻まれた傷跡だけは、ぼかす事の出来ない鮮明な景色として、名前の目に焼き付いて離れなかった。
ホグワーツを一時離れて、家族の温もりに包まれた名前は再び心の安定を取り戻すことが出来た。フクロウが運んできたリリーからのクリスマスプレゼントに動揺こそしたものの、お返しのプレゼントを贈る余裕が戻ってきている事に名前はほっとした。悲しみや後悔といった負の感情は、ホグワーツの見えない何かによって必要以上に増幅されていたのかもしれない。クリスマスの翌日には、名前は驚くほどすっきりした気持ちになっていた。また新しい日々を頑張ればいい。チャンスなどこれから幾らでも作ればいいのだ。ホグワーツに篭もりっきりのセブルスに思いを馳せながら、名前は悪い記憶に別れを告げて前に踏み出す決意をした。
心のリセットに繋がる穏やかなクリスマス休暇を過ごせて、本当に良かった。再びホグワーツへと向かう旅路の中、狭いコンパートメントで目の前に座るリリーに精一杯の笑顔を向けながら、名前は心の底からそう思った。二人は偶然にも9と3/4番線ホームで一緒になり、ごく自然な流れで席を共にする事になったのだ。
汽車はキングス・クロス駅を発車したばかりだ。あの件に関して吹っ切れたとはいえ、いざリリーを目の前にすると、依然として複雑な気持ちになってしまう。名前はしきりに通路を覗き見ては、車内販売の魔女が来るのを今か今かと待っていた。何か甘いものを口にすれば、少しはリラックス出来るかもしれない。
「クリスマスプレゼント、ありがとう名前!」
名前のそんな気持ちに気付く筈も無く、リリーはこの数年でより魅力的になった笑顔を浮かべた。
「魔法のかかった紅茶って、私見たことなかったの!すごいのね、お湯を注ぐと宝石みたいな光があちこちに浮かんで…家族がみんなびっくりしてたわ」
「ううん、こちらこそ」
口角に力を込めながら、名前はリリーからのプレゼントがどれほど嬉しかったかを大仰に語った。リリーに贈った紅茶は、家にそれらしいプレゼントがないか急いで探した物だ。リリーとミランダからは毎年クリスマスプレゼントをもらっているはずなのに、今年はリリーへの贈り物を用意するのをうっかり忘れていたのだ。しかし本当に"うっかり"だったのだろうか。見て見ぬふりをしていたのではないか。
「リリーの家族にも、楽しんでもらえたなら良かった」
自問自答に封をしながら、名前は自然な微笑みを取り繕って言った。考えれば考える程、自分が嫌な人間に思えてきてしまうのだ。前向きに進むと決意したばかりの新しい年を、ホグワーツに着く前から台無しにしてはならない。
「もうびっくりよ。パパもママも『まるで花火を見てるみたい!』って」
満面の笑みで家族の様子を語るリリーの愛らしさに、名前は毒牙を抜かれる思いがした。この子の前では誰であろうと敵わない。そんな事、ずっと前から分かっているはずだったのに。
「リリーはきょうだいとかいるんだっけ?」
遠くから近付いてくる車内販売の声に注意を傾けながら、名前は世間話程度の話題を振った。しかし予想とは裏腹に、その何の気なしの話題はリリーの表情を曇らせたようだった。
「うん…妹がいるんだけど…」
リリーは視線を床に落とし、寂しげな声で答えた。
「私の事、もう好きじゃないみたい。昔はあんなに仲が良かったのに…私だけが魔女だったせいで…」
リリーでも輝きを失う時があるとは。うな垂れる彼女を前に、名前は慰めの言葉を必死に探した。家族の喧嘩なんてそう永遠には続かない。きっといつか仲直り出来る日が来るだろう。しかし事情も知らずに、そう軽々しく言っては逆に傷つけてしまわないだろうか。名前がおろおろと狼狽えていると、助け舟を出すかのように、お菓子のカートをひいた魔女が通路脇にぬっと現れた。
「あ、あ、買います!」
名前は立ち上がって車内販売魔女を呼び止め、硬貨の入ったポーチを取り出しながらカートの中身を物色した。リリーも同じようにお菓子の山を覗き込みながら、準備万端とばかりに財布を握りしめている。ホグワーツに着いてからも毎日ベッドで食べられるようにと、名前はありったけのフィフィフィズビーと蛙チョコレートを老魔女から受け取った。
車窓からの眺めは次第に建物が減っていき、名前がその日最初のフィフィフィズビーによる浮遊を終えた頃には、景色はすっかり一面緑の田園地帯となっていた。かぼちゃパイの包みをくしゃくしゃと丸めながら、ふとリリーが名前にたずねた。
「煙突飛行とか、箒とか…魔法には速い移動手段っていっぱいあるのに、どうしてホグワーツは何時間も汽車に揺られるんだと思う?」
「えっ…何でだろう」
思いがけない問いに名前は面食らった。理由なんて考えたことも無い。煙突飛行で行けたらどんなに楽だろうと思ったことはあれど、ホグワーツの煙突ネットワークは基本的に遮断されているのだ。
「私ね」
リリーはくすっと笑いながら、キラキラと輝く瞳で名前を見た。
「ホグワーツに着くまでに、友達といっぱい話すためだと思うの。新入生なんかは特にね、汽車の中で友達ができたりするでしょう?」
「ああ、確かにそうかも」
リリーの考えに名前は納得して頷いた。言われてみれば、自分とリーマスが知り合ったのもホグワーツ特急での出来事だった。あの偶然の出会いが無ければ、リーマスとは今でも知らない者同士だったかもしれない。彼の秘密を知る事はおろか、その友達に動物もどきを教えるなんて決して起こりえなかっただろう。
「大袈裟かもしれないけど…最初の出会いで、学校での生活が大きく変わることだってあるもんね」
「そうよね、ほんと」
名前の言葉にリリーは笑顔で相づちを打ち、少し間を置いてから改まった表情で口を開いた。
「名前、セブに何か隠し事してるでしょう?」
突然の問いかけに、名前は目をぱちくりさせてリリーを見た。一瞬にして全身に緊張が走り、顔の筋肉が強ばって動かない。名前は早鳴る心臓の鼓動を頭の中にまで響かせながら、この場にふさわしい答えを必死に探した。リリーは何故それを知っているのか。グリフィンドールゆえに、何かを見破られたのだろうか。そもそも隠し事のどこまでを知っているのだろう。一秒もの間に様々な考えが名前の頭に浮かんでは消え、慎重に言葉選びをしなければとプレッシャーをかけてくる。
「な…何のこと?」
口から突いて出たのは、自分でも呆れるほど陳腐な誤魔化しだった。考え得る中で最も間抜けな回答を選んでしまった。名前の嘘を当たり前に見透かしたリリーは、くすくすと笑いながら手を口に当てた。
「あなたって嘘が下手ね、名前」
リリーは無邪気な笑顔を浮かべながら、名前の緊張をなだめるように言った。
「安心して、私もそれが何かは知らないから。ただセブルスが気にしてたのよ…あなたに嘘をつかれたって」
「セブルスが?」
思いがけない事実を告げられ、名前はシートから飛び上がらんばかりに驚いた。
「いつそんな事言ってたの?」
「冬休み前にホグズミードに行った時」
手のひら大の缶ケースからペパーミントキャンディを取り出して、リリーはそれを名前に一つ差し出した。冬休み前、確かに自分はセブルスに嘘をついた。口に広がったペパーミントの清涼感が名前の頭の中の記憶を鮮明に思い出させた。ポッターたちに動物もどきを教えに行く前、セブルスと大広間で出くわした時だ。魔法生物飼育学の敷地に忘れ物を取りに行くと嘘をついた自分を、セブルスは不審そうな目で見ていた。あの時に違いない。
「私もその時はセブに勘違いじゃない?って言ったんだけど…ほら、彼って誤解しやすいし、されやすいから」
キャンディを舌で転がしながら、リリーは何か愛らしい小動物を見るかのような眼差しで微笑んだ。
「でもその様子だと本当なのね」
名前は返す言葉もなく、背中に汗を感じながら黙りこくっていた。ポッターたちの手助けをしている事までは気付かれていないようだ。しかし問題は、セブルスにも言えない秘密がある事を彼自身に知られてしまった事にある。もし彼がその事を面白くないと感じていたら、一体どうするだろう。リーマスの秘密と同じように、暴く日を待ち望んであの手この手を打つだろうか…。
「彼、相当ショックだったみたいよ」
リリーの言葉に名前は耳を疑った。ホグワーツ特急はどこかのトンネルに入り、暗い壁が窓を一面覆う。汽車の走る轟音がトンネル内で反響し、耳をつんざいた。聞き間違えだろうか。そう不安に思いながら、名前はリリーに改めて訊ねた。
「…ごめん、何て?」
「セブルスよ。あなたに嘘をつかれたのが、ショックだったんですって」
思いもよらぬ告白に、名前は目を瞬かせた。自分の嘘にセブルスがショックを受けるなんて、そんな事あるわけがない。実際あの時だって、馬鹿にするように鼻で笑われたのだから。
「あり得ないよ。冗談でそう言ったんでしょ?」
「いいえ、まさか」
そう答えるリリーの表情は真剣そのものだった。
「セブの言ってる事が冗談か本気かなんて、すぐ分かるわよ。小さい頃から見てるんだもの。かなりうじうじ悩んでたわよ」
点になりかけた目を、名前は手でごしごしと拭った。セブルスが自分の言動を気にかけるどころか、それについて悩んでいたなんて。本当にそんな事があるのだろうか。汽車に乗るまでは、ホグズミードでセブルスとリリーが過ごした時間についてなど1ミリたりとも聞きたくない、そう思っていた。しかし今の名前にとって、事態は急変したと言ってもいい。あの日ホグズミードでセブルスがリリーに何を話したのか、俄然聞き出したくなったのだ。
「…他には何か言ってた?」
鳴り響く車輪の音に妨げられまいと、名前は耳を澄ましながらリリーに問いかけた。
「あなたの話はいっぱいしてたわよ」
リリーはニコニコしながら、その日の出来事を思い出すように斜め上を仰いだ。
「魔法薬学での名前の様子とか…宿題を見てあげたとか…」
「それって私への文句じゃない?」
これまでの魔法薬学の授業を振り返り、名前は眉をひそめた。セブルスにとって良い思い出だったとは到底言い難いはずなのだ。
「本当に文句だったらセブは話題にすら挙げないわよ」
豊かな赤髪を耳にかけ、リリーは言った。
「それにあなたへのクリスマスプレゼントを選ぼうっていくつか店に寄ったんだけど…セブったら興味無いとか言いながら、あなたの為に色々探してたし」
「そうなの?」
思ってもみなかった事実に名前は目を見張った。
「あなたに隠れて闇のグッズを探してたんじゃなくて?」
「違うわよ。名前へのクリスマスプレゼントは結局二人で決めたんだから。あの日はとっても楽しかったわ!」
リリーの無邪気な言葉に、名前の心が再びちくりと痛んだ。幻想的な雪景色のなか、二人が楽しそうに並んで歩く姿が目に浮かぶ。リリーがセブルスの手を引いて、あの店この店と次々にまわり、買い物を終えた二人は三本の箒でバタービールを注文する。泡のヒゲをつけながら、二人は幸せそうに見つめ合って…。
汽車はトンネルを抜け、雲間からもれる光がコンパートメントに射し込んだ。これだけははっきりさせておきたい。名前は覚悟を決めて、かねてより気にかかっていた疑問をぶつけようと決意した。
「リリーは…その…」
いざ口に出そうとすると、緊張で唇が震える。しかしリリーの気持ちを知るタイミングは今しかない。これを逃せばもうチャンスは早々やって来ないだろう。名前は生唾を飲み込み、心を占めていたモヤモヤをやっとの思いで言葉にした。
「リリーは…セブルスの事が好きなの?」
訊ねられたその意味を、リリーはすぐには理解出来なかったようだった。雪に覆われた山々がホグワーツ特急を包み込む。一瞬の沈黙の後、リリーは全てを悟ったかのように両手であっと口を抑えた。
「ああ、名前…そうだったのね…!」
名前の顔とコンパートメントの外を交互に見渡しながら、火照った表情でリリーが叫んだ。
「私ったら…あなたたち二人と一緒にいて、今まで気付かなかったなんて!信じられない!」
リリーは口を覆っていた手をぱっと前に出し、しどろもどろになった名前の両手を掴んだ。名前はどう反応して良いか分からぬまま、困惑した顔を彼女に向けた。
「勿論セブの事は好きよ。友達として、ね」
リリーは息を切らさん勢いで、まくしたてるように言った。
「つまりあなたの心配するような事は何もないってこと!ああ、なんて素敵なのかしら!私あなたを精一杯応援するわ!!」
「リリー、待って待って」
頬を紅潮させて息巻くリリーに気まずさを感じながら、名前はそっと手を下ろして言った。
「その…そっか、そうなんだけど…」
"セブルスが好きなのはあなたなの"、そう言いかけて名前は口をつぐんだ。自分がこの場で言って良い事ではない。しかし二人が両想いな訳ではなかった。少なくとも最悪のシナリオは免れたのだ。リリーのセブルスに対する想いが友情である事に名前は心底ほっとして、口の中で忘れられていたペパーミントの香りが戻ってくるのを感じた。
「セブルスはあなたの気持ちを知らないのよね?」
リリーは美しい緑の目をキラキラと輝かせている。名前が勿論とばかりに頷くと、赤毛の少女は喜びが体から溢れんばかりにそわそわし始めた。
「私なんでも協力するから。そうね…まずは二人きりで食事をする日を増やした方がいいわね。湖のほとりで過ごすのも良いって友達が言ってたわ。それに次のホグズミード行きの日は、絶対に一緒に行って…」
「リリー」
目の前でどんどん話が進んでいく不安から、名前は思わず彼女を制すように呼び止めた。リリーは喋るのをやめてはたと名前を見たが、その表情を見るやいなや天使のような顔で再び名前の手を取った。
「大丈夫。セブルスもきっとあなたが好きだわ」
残念ながらそうではないのだ。その事をどう伝えればいいのだろう。彼には他に好きな人がいる、そう告げた暁には、リリーはあの手この手でセブルスの想い人を本人に問いただすだろう。三人それぞれにとって、そんなにもバツが悪い話はない。結局名前は否定も肯定も出来ぬまま、はしゃぐリリーの"作戦"を複雑な思いで聞いていた。彼女の優しさがこんなにも心に痛く響くとは。どんな状況にあっても、リリーが自分の大好きな友人である事に変わりはない。しかし名前は一刻も早く汽車がホグズミード駅に到着しないかと、内心祈らずにはいられなかった。
そうして始まったホグワーツの新学期は、不自然な計らいを感じずにいる日は一日も無いというくらい、リリーの気遣いに溢れた毎日となった。リリーに昼食をちゃんと食べるよう厳しく言われたセブルスが大広間で名前の前に現れたり、三人で取りつけたはずの約束を直前でリリーがすっぽかしたりと、とにかくリリーは名前とセブルスが二人きりになるよう躍起になっているようだった。ある時は廊下をセブルスと歩いていたリリーが、視線の先に名前を見つけるや否や突然セブルスに別れを告げてどこかへ行ってしまった。話の途中で置き去りにされたセブルスは何が起きたのかも分からぬまま、名前が彼の目の前まで近付いても尚リリーの走り去った方向をぽかんと見つめるばかりだった。
リリーの"暗躍"はやりすぎな上に、セブルスの不信感を不必要に買ってしまっているのではないだろうか。名前の嫌な予感は見事に当たった。セブルスが大広間で渋々昼食をとるようになり一週間が経った頃、彼は不機嫌に満ち満ちた表情で名前の正面の席に腰掛けた。
「リリーと君は喧嘩でもしてるのか?」
ごもっともな見解だと名前は思った。自分の姿を見るなり、会話を中断してまでセブルスから離れていってしまうリリー。思えばリリーとはこの一週間まともな会話をしていない。セブルスに気付かれぬ範囲で、彼女は名前に毎回ウインクを送り続けているのだが、セブルスからすれば二人は顔もつき合わせぬまずい状態に見えるのだろう。
「してないよ。むしろ今までにないくらい仲良しだもん」
本当の事だ。複雑な胸中のあまり名前は笑顔を取り繕うのを忘れ、浮かない表情でそう答えてしまった。
「ふうん」
疑いたっぷりの眼差しを名前に向けたまま、セブルスは大皿のサンドイッチに手を飛ばした。
「最近君を見かけると、リリーはすぐどこかに行ってしまうんだが…本当に、本当に仲良しなのか?」
「誓って、仲良しのままよ」
名前は後ろめたさを感じながらも、セブルスに面と向かってはっきり告げた。やはりリリーのこの作戦は失敗だ。今日中に彼女と会って、不自然な振る舞いをやめてもらうよう言わなくては。セブルスがリリーを好きでいる限り、事はそう単純には進まないのだ。
「…まあ、確かに今度は嘘じゃなさそうだ」
セブルスがぶっきらぼうに呟いたその言葉に、名前はぴたりと手を止めた。突然訪れた緊張が体中の筋肉を強ばらせる。名前のその様子を受けて、セブルスは更に勘ぐるような視線を向けた。
「君は嘘が下手だからな」
何もかもお見通しというような余裕さを醸し出しながら、セブルスは肘をついて名前の目をじっと見た。心の奥を見透かすようなその目つきに、名前は有り余る心当たりから逃げ出したくなりそうだった。
以前ついたあの嘘に関して追及をされるのだろうか。あんな粗末な誤魔化し方でセブルスを納得させられたはずがないのだ。しかし突然の今、整合性のある嘘をつけるとはとても思えない。何か、何か辻褄の合う言い訳を考えなくては。波のような焦りに押されながら、名前は頭の中で必死に考えを巡らせた。セブルスは何から聞いてくるだろう。あの日本当は何をしていたのか気になっているに違いない。あの時咄嗟に忘れ物という嘘をついたは良いものの、魔法飼育学の敷地に何を忘れたのか、その内容を考えていなかった。羽根ペンにしよう。しかしあの授業で羽根ペンを取り出す機会など早々ない。窮地とも呼べる状況下で焦燥し切った名前を見据えながら、セブルスがとうとう口を開いた。名前は瞬きすら出来ずに、彼の肘のあたりをじっと見つめていた。もうお腹が痛いと言って立ち去るしかない。そう覚悟を決めた名前だったが、セブルスの口から出た言葉は名前が想像していたどの問いとも違っていた。
「…君を信じていいんだな?」
セブルスの発言に、名前は驚いて目を見張った。彼はどこか照れくさそうに眉をしかめてはいるが、その眼差しは名前を真っ直ぐに見据え、真剣そのものだ。予想だにしていなかったセブルスの態度に、名前は呆けた表情で彼を見つめ返した。たった一言の返事にこれ以上間をあけてはならない、そう判断した名前の脳が、セブルスの気持ちを心で処理するよりも前に勝手に口を開かせた。
「うん」
名前の返事を聞いたセブルスは念押しするように頷き、テーブルの上に散らかったパンくずを床に落としながら席を立った。いつの間に食べ終わったのか、セブルスの皿によそってあった昼食は空になっている。彼がいつものように気だるそうな表情で、背中を猫背に丸めながら立ち去っていくのを名前は黙って見ていた。彼の後ろ姿はいつも真っ黒だ。セブルスが視界から消えて初めて、名前は今しがた発した一言が何を意味するのかを思い知った。
セブルスは気付いている。自分がこの期に及んでも決して言うことが出来ない、冗談半分にも伝えられない隠し事をしているのを彼は知っている。そして同時に彼は、それが自分たちの友情を裏切るものでは無いと信じたいのだ。お互いが良しとするもの、忌むべきもの、味方と敵が同じである事を彼は心の底で願っている。それこそがスリザリンで名前とセブルスを結びつけた絆の背景なのだから。
生徒たちが次々と大広間を去っていく中、名前は一人身動きせぬままセブルスが座っていた先を見つめていた。ぼやけた視界の中で、時折紅色の波がゆらめきながら流れてくる。約束は二つに一つだ。どちらを大切にすべきかなんて、考える間もなく決まっている。ポッターたちへの手助けを終わらせなければならない。分かっている。誰に言われなくとも、選ぶべき道は自分が一番分かっているのだ。
名前は席を立ち、大広間の扉前に溢れる生徒の群れに加わった。こんなにも人がいるホグワーツで、自分が振り向いてもらいたいのはたったの一人だけだ。何を躊躇う必要があるだろう。四つの色が混ざり合う群衆の中で絵の具のように溶けながら、名前はその波に流されるがままに歩いた。景色を景色とも思わずに、ぼんやりと向かうべき方向だけを見据えていたつもりだった。
今も、そしてこれからも、選ぶべき道は決まっている。そう心に決めたはずなのに、何故その時目にせねばならなかったのか。すれ違う友人の顔に刻まれた傷跡だけは、ぼかす事の出来ない鮮明な景色として、名前の目に焼き付いて離れなかった。