第一部
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約束の14時。名前は憂鬱な気持ちで暴れ柳のある城のはずれを目指し始めた。校庭はのどかな休日を楽しむ生徒達で溢れていたが、名前と同じ方向に向かう者は誰一人としていない。立ち入り禁止区域に入ったことが知られたら間違いなく罰則だ。頭の中で文句を垂れ流しながら城壁を抜けると、いよいよ遠くに暴れ柳が見えてきた。棍棒を両手に持つ、屈強な衛兵のようだ。鬱蒼と茂る草を踏みつけながら、名前は訪れた事のないホグワーツの敷地を重たい足取りで進んで行った。もしここで先生や管理人に出くわしたら、なんと言い訳すれば良いのだろう。背の高い草木が生い茂る森の入口に差し掛かった所で、名前はピタリと足を止めた。茂みの中から聞き覚えのあるヒソヒソ声がしたのである。暴れ柳への距離はもう100メートル程しかない。
「規則をご存知ないんですかね?」
ジェームズ・ポッターたちの傍らに近付き、名前はセブルスを真似て嫌味ったらしく声をかけた。
「それとも暴れ柳にボコボコにされるのが動物もどきのコツなのかしら」
「今に分かるさ。暴れ柳の先を抜けたらね」
ポッターは怯むことなく、余裕たっぷりに笑みを浮かべて言った。
「僕たちはこの木の扱いに慣れてるから。よし、じゃあ行くぞ」
「行くってどこに?まさか…」
「そう、そのまさかなんだ」
名前の肩をぽんと叩いて、リーマスが申し訳なさそうに囁いた。
「人目につかない所と言ったら、あそこしか無いんだよ」
「そんな無茶な!」
すっかり準備万端という顔の四人を見渡しながら、名前は声を張り上げた。
「ホグワーツから抜け出すなんて…もっと別の…教室を探すとか…」
「先生にもゴーストにも見つからない、そんな都合の良い場所がホグワーツにあるのか?」
シリウス・ブラックがため息混じりに問いかけた。名前は思わず「8階!」と叫びがかったが、すんでのところで踏みとどまった。いくら安全の為とはいえ、あの部屋を彼らに知られる訳にはいかない。
「ない、けど…」
本音を押し殺しながら、名前は渋々呟いた。ブラックは「ほれ見たことか」と言わんばかりに鼻を鳴らし、懐から何かを取り出してリーマスの手を引っ張った。
「それに立ち入り禁止といっても、見られなければ問題ない」
「そんな、どう考えたって無理…」
名前が反論を言い終える前に、リーマスとブラックが忽然と姿を消した。一体何が起きたのか。名前が目をぱちくりさせている間に、二人分の足音が地面を駆け抜けていった。遠くでブラックの悪態が聞こえたかと思うと、先程までじっと根を張っていただけの暴れ柳が突然その幹を振り回し始めた。怒ったトロールが棍棒を振り回す姿そっくりだ。それよりも更に恐ろしく感じるのは、暴れ柳がトロールより速く賢いせいだろうか。
名前は唖然としてその場に釘付けになった。あんな一撃に当たってはひとたまりもない。一番太く大きい枝が拳を振り下ろすように地面を叩き、名前は堪らず悲鳴を上げた。地面は衝撃のあまり凹みがかっている。あんな木に誰が向かっていけるだろう。その場から立ち去りたい一心で、名前は無意識のうちに後ずさりしていた。それに気付いたポッターが「おい!」と名前の手を掴み、目を見て諭すように言った。
「大丈夫だ、苗字。もうすぐで大人しくなるから」
「全然大丈夫じゃない!」
名前はもはや半泣きの状態で、ポッターの手を振りほどこうとした。
「私、やっぱりあなた達に協力するのはー…」
しかしポッターの言った事は正しかった。何の前触れもなく、暴れ柳がぴたりと動きを止めたのである。ほんの一秒前まで荒れ狂っていたのが嘘のように、その巨大な魔法植物はすっと背筋を伸ばして再び動かぬ衛兵となった。
「ジェームズ!」
名前は遠くから響く声の主に目を見張った。リーマスとブラックはいつの間にそこへ辿り着いたのか、暴れ柳の根元に身を埋めている。上半身だけを地上に出したまま、ブラックが何かを掴んで掲げた。するとポッターは名前の前に躍り出て、杖を手にし「アクシオ!」と叫んだ。
何かが勢い良く暴れ柳から飛んできて、ポッターの手の中に収まった。輝く銀色の布だ。ポッターは名前とペティグリューの手を掴んで引き寄せ、顔をくっつけて言った。
「僕の透明マントだ。三人で入るにはギリギリだな…誰かの足が見えるかもしれない」
「えっ、何、どうするの」
慌てふためく名前の問いに答えぬまま、ポッターは銀色の布をバサリと自分たちに被せた。
「よし、走るぞ!それ!」
ポッターに腕を引かれるがまま、名前は彼らと共に全速力で駆け出した。巨大な暴れ柳が目の前に近付いてくる。
「穴だ!」そう叫んだポッターに背中を押され、訳の分からぬまま名前は木の根元へ踏み込んだ。根元に開いた大きな穴に足を取られたと思った瞬間、名前の体は吸い込まれるようにその中へ落ちていった。
滑り落ちた先には暗いトンネルが広がっていた。名前の後からペティグリュー、ポッターが降りてきて、トンネル内はあわやドミノ倒しになるところだった。名前は立ち上がり、土だらけになったローブをはらった。驚いた事にポッターは笑顔さえ浮かべている。まるで滑り台で遊ぶ子供のようだ。その余裕綽々な様子から、名前は全てを理解した。ここが何処なのかも、彼らが普段何をしているのかも、今やはっきりと分かったのだ。一番乗りだったであろうブラックは全員の姿を確認すると、体を折り曲げてトンネルの先へと進み始めた。
「ここが叫びの屋敷に繋がってるのね?」
目の前を歩くリーマスに、名前は恐る恐るたずねた。
「そうだよ。すまないけど、少し歩くんだ」
「どれくらい?」
「少なくともー…」
先頭を歩くブラックが二人の会話に割って入った。
「狼人間がホグワーツに顔を出さないくらいの距離だな」
ブラックの皮肉通り、そのトンネルは延々と続くような長さだった。グリフィンドールの四人は冗談を口にしながら遠足に向かうかのように笑い合っていたが、名前はとてもそんな気分にはなれず黙々と通路を歩いた。もう十分すぎる程歩いたのではないか。そう感じた所で道は上り坂になり、曲がりくねった角を抜けた先にとうとう光が差し込んできた。
「さあ、着いたぞ!」
一足先に出口へと辿り着いたブラックが声を張り上げた。リーマスに続いて、名前は長いトンネルからやっとの思いで這い上がった。視線の先に部屋が広がっている。お世辞にも綺麗とはいえない状態の部屋だ。壁紙は殆ど剥がれかけ、あちこちに破壊された家具が散らばっている。叫びの屋敷の一室だ。
「ちょっとは勉強できる環境に戻さないとな」
そう言って、ポッターは手当たり次第に修復呪文を唱え始めた。ブラックとリーマスもそれに倣い、ひしゃげて横転した椅子を直し、机を立たせ、割れたランプに光を灯した。三人の魔法のおかげで、屋敷の中は人が何とか生活出来そうな空間へと息を吹き返していった。
「さて、先生」
修復したばかりの椅子に腰掛けて、ブラックがたずねた。
「何から始めればいいのかな」
四人の視線が一斉に注がれ、先生とは自分の事かと名前はそこで気が付いた。名前は椅子に座らず前に進み出て、教壇を模した机の脇に教師らしく立つことにした。
「えっと…まずは、動物もどきの理論を学んでもらいます」
「おいおい、マジかよ」
期待はずれといった顔で、ブラックが低く呻いた。
「座学なんてすっ飛ばして、すぐに実践じゃダメなのか?」
「ダメに決まってるでしょ!」
足を投げ出した不良丸出しのブラックに対し、名前は厳しい口調で言った。
「動物もどきは慎重に扱わなきゃいけない魔法なの。理論やリスクを知った上で挑戦しないと失敗するし、そもそも真剣に向かい合う気がないなら私は教えません!」
「分かった、分かった君の言う通りにやるよ」
ポッターがシリウスを押さえつけるように手を上げた。
「それに僕たち真剣だ」
「…それなら良いけど」
四人を半ば睨みつけるように見回してから、名前は黒板代わりになりそうな家具を探した。叫びの屋敷は、ホグワーツの教室とはあまりに違っている。名前は仕方なく部屋の隅にかかった鏡を黒板に変え、それを中央に移動させ授業を進める事にした。
「それで」
ぼけっと自分を見つめる男子学生たちに対して、名前は再び厳しい態度でたずねた。
「座学って事は、みんなに覚えてもらいたい事を話す訳だけど。誰も何も持ってきてないの?」
「そりゃ、何にも言われなかったから」
ブラックは杖を取り出し、他には何もありませんと示すようにローブのポケットを裏返しにした。名前は大きくため息をついてその場に屈み、拾い集めた適当な木屑をお粗末なペンとノートに変えた。
「すっげえ」
間に合わせの筆記用具を受け取りながら、ポッターが感心したように声を上げた。リーマスとペティグリューは遠慮がちに名前に礼を言い、ブラックはふんぞり返ったまま受け取ったペンを口にくわえた。
「まず、動物もどきは非常に便利な魔法であると同時に、悪用される確率も高い事を知っておかなければなりません」
マクゴナガルの言葉をそっくりそのまま引用しながら、名前は最初の講義を始めた。
「動物もどきは変装、もしくは身を隠すための究極の手段。つまりそれを必要とする魔法使いは何らかの隠密行動に携わっている…そう判断されても全く文句が言えないの。だから魔法省はイギリス全土の動物もどきを"登録"という形で全員把握しています」
しん、と部屋に沈黙が流れた。先程まで目を輝かせていたポッターをはじめとする全員が黙って床に視線を落としている。その何とも言えない様子に疑問を感じながらも、名前は咳払いをして話を続けた。
「…もちろん、私も登録しています」
「あー…登録しなかった場合は、どうなるんですか?」
ジェームズ・ポッターがおもむろに挙手をしながら質問した。俯いていた他の三人も一斉に顔を上げ、その答えを待ちわびるように名前を見ている。
「登録しなかったら?」
考えてもみなかった問いに面食らいつつ、名前はポッターの問いに答えた。
「そりゃ…法律違反として、アズカバン行きになるでしょうね」
再び重たい沈黙が流れた。四人とも暗い顔で机の上をじっと見つめている。何かまずいことを言っただろうか。名前は不安な気持ちを胸に抱きながら、講義を進めるため黒板に向き直って理論法則を記し始めた。
「…そういうわけで、授業では生物から無生物への変身しか習ってないと思うけど、動物もどきの基礎は生物から別の生物への変身なの」
40分は経っただろうか。名前は基礎理論の説明をようやく終えようとしていた。グリフィンドールの四人は意外にも終始メモをとり、真面目な様子で名前の話を聞いている。動物もどきを習得しようという覚悟に揺らぎは無いようだ。名前は彼らの熱心さを認め、実践指導に移る事にした。
「じゃあ今から私が動物を適当に用意するから…それを、えーっと…フクロウに変えてみて」
名前は少し迷ってから、四人それぞれの机に出現呪文でネズミを出した。
「苗字、君って本当に変身術に関しては天才なんだな」
机の上をクンクンと嗅ぎ回るネズミを捕まえながら、ポッターが言った。
「このネズミたちは一体どっから来たんだ?」
「え…その辺だよ。ホグズミードにいっぱいいる動物なら確実に用意出来るから」
感心したように頷いてから、ポッターはネズミを手で押さえつつ練習を始めた。部屋の中の光景はさながらホグワーツでの本当の授業のようになり、名前はマクゴナガルを真似て四人の生徒たちの間を巡回して見ることにした。生物同士への変身は、範囲で言えば四年生だ。優秀なポッターたちであればそう難しくはないだろう。
名前の予想通り、数回の失敗でコツを掴んだブラックが一番に課題を成功させた。ブラックはネズミの灰色を残したままのフクロウを得意げに飛ばし、他の挑戦者を眺めるべく名前の後ろについてまわった。次点でポッターが成功をおさめ、30分ほど経った頃リーマスが追いつくように小柄なフクロウを生み出した。部屋は放し飼いにされた三羽のフクロウと新しい魔法を習得した三人の少年で騒がしくなり、先程までの真剣な雰囲気はどこへやら、あっという間に遊び場へと変わってしまったようだった。しかし名前は心底もどかしい気持ちで、ピーター・ペティグリューと向かい合って座っていた。
「頑張って、フクロウの形を思い出して」
杖を振るも何も起こせずにいるペティグリューを、名前は必死に励ました。
「ほら、今もその辺を飛び回ってるでしょ?落ち着いて、じっくり観察して姿を目に焼き付けるの」
ペティグリューは弱々しく頷きながら、飛んでいるフクロウたちを真剣に見ては、ネズミに魔法をかけようとした。だがどうにも上手くいかない。遊び半分にペティグリューをからかっていたポッターたちも、彼のあまりの不器用さにとうとう焦りを覚えたのか、気付けば名前を含む四人がペティグリューを囲んで椅子を並べる事態となっていた。
名前を筆頭にそれぞれがアドバイスし、ペティグリューがそれを実践しようと試みる。しかし杖の先から火花や短い閃光が出るばかりで、結果は常に失敗だった。名前たちは根気よく彼を励まし続けたが、部屋の中は次第に暗く寒くなっていった。
「そろそろ帰ろう。夕食にいないと怪しまれる」
ポッターが席を立ち、ペティグリューの背中をバシッと叩いた。
「ピーターのそれは宿題だな。幸い、校内で練習しててもお咎め無しの魔法だ」
ポッターの言葉に全員が笑ったが、疲労を隠しきれない力ない笑いだった。教える側も教わる側も、想像していた以上にエネルギーが要る。ホグワーツに向けて長いトンネルを再び歩くのはとてつもなく億劫だった。
「次はいつにする?」
ようやく暴れ柳の根元にたどり着いた頃、ブラックが一同を見渡してたずねた。
「もうすぐ今年最初のクィディッチ戦があるんだ」
頭をくしゃくしゃと掻きながら、ジェームズ・ポッターはどこか得意げな様子で言った。
「だから僕はちょいと忙しくなるな…来週のこの時間は、ちょうど練習場でしごかれてる最中だ」
「まあ、いずれにせよピーター次第か」
そう笑いながら、ブラックはペティグリューの頭を軽く小突いた。ペティグリューはブラックに合わせて笑ったが、その目尻は1ミリも下がることなく、額には薄ら汗を浮かべている。
「僕の試合が終わってからだから…じゃあ二週間後の日曜日はどうだ?同じ時間、同じ集合場所で」
「…わかった」
ポッターの提案に名前は渋々頷き、念を押して言った。
「もし何か変更があっても、絶対直接話しかけないでね。目立たないフクロウで送って」
「努力するよ」
ポッターは伸びをしながら適当な相槌を打った後、「そうだ」とローブの内側から再びあの銀のマントを取り出した。
「苗字、これを着て先に行けよ。僕たちと一緒にいるところを見られちゃ都合が悪いんだろ」
名前は手を伸ばし、ポッターから流れるような触り心地のマントを受け取った。おもむろにマントを肩にかけると、触れたところがたちまち透明になった。体の一部が無くなったかのような、妙な感覚だ。
「これ、どうやって返せば…」
「君が城壁に近付いたあたりで、僕がアクシオする」
ポッターは暴れ柳の根元から外へと顔を少しだけ覗かせ、辺りを見張るように目をこらした。
「今なら誰もいない。チャンスだ」
彼らに急かされるがまま名前はマントで全身を覆い、暴れ柳の穴から這い出た。外はすでに夜の暗さだ。名前はマントが風で翻らないよう注意しながら、駆け足で城へと向かった。城壁へとたどり着き、左右を見渡す。ミランダの石で何度も規則破りをしてきたはずの名前だったが、周囲の視線をこれほどまでに恐れた事はなかった。安全を確認し、やっとの思いでマントを脱ぐと、透明マントは突風に吹かれるかの如くあっという間に名前の手元を離れていった。
名前は暴れ柳を振り返る事なく、そのまま早足で大広間へと向かった。何事も無かったかのように、自然な態度で夕食の席につかなくてはならない。さも今まで図書館にいたかのような雰囲気を醸し出さねば。14時から今までの『偽の行動』を頭の中で組み立てながら、名前は灯篭に照らされた城内へと澄ました顔で入って行った。
何かあっても直接話しかけない。名前がポッター達と交わした約束は、それからというもの徹底的に守られているように思えた。リーマス以外の三人は名前と廊下ですれ違っても目線すら送らず、まるで互いに名前も知らない生徒であるかのように振る舞った。五人の秘密は、ミランダを除けば誰にも気付かれていない。練習場所を叫びの屋敷にしたのは正解だった。ポッターたちの事をあまり褒めたくはない名前だったが、規則破りに関する彼らの才能は認めざるを得なかった。
しかし事件は突然起こった。クィディッチ対抗戦を明日に控え、対戦チームであるグリフィンドールとレイブンクローの生徒たちが浮き足立っていた金曜日。夕食を終えた名前は、就寝までの時間を有意義に過ごそうと一人図書館へと向かっていた。天文学の授業を控えたミランダと大広間で別れ、平日のうちに魔法史の宿題を終える決意をした名前の心はやる気に満ち溢れていた。ただでさえ日曜日は例の授業で半日潰れてしまうのだ。今やっておけば週末の負担を軽くする事が出来る。しかしそんな名前の計画は、城の東側へと続く通路を曲がった所で突如として崩れ去った。
曲がり角で自分を待ち伏せしていたのであろうポッターに腕を引っ張られ、名前は声にならない叫びを上げた。その瞬間後ろから透明マントを被せられ、名前は何が起こったのか分からぬままにグリフィンドールの四人と共に、目的地とは全く別の方向に歩き出していた。
四人の少年たちは神妙な面持ちで、不気味なほど静かだった。ブラックが見慣れないタペストリーを翻すと隠し階段が現れ、五人は無言のままそれを下った。名前は存在すら知らなかった隠し通路だが、彼らにとっては見知った場所なのだろう。階段が途切れ、薄暗い踊り場に着いた所でようやくポッターは名前の透明マントを剥がした。名前が姿を現すや否や、ポッターいつになく怒りを浮かべた表情で叫んだ。
「やられた!!」
「え…何?何が?」
ポッターの剣幕を見る限り、ただ事ではない。名前は嫌な予感をいくつも思い浮かべながらたずねた。しかしその答えはどの予想とも異なるものだった。
「スニベルスが、ポリジュース薬を使った」
その場が水を打ったように静まり返った。ポッターは名前を睨みつけるようにじっと見ている。名前はただ唖然とするばかりで、事態への理解が追いつかぬままポッターを見つめ返した。
「…誰に?」
名前の問いかけにポッターはペティグリューをぐいと引き寄せ、名前の前に突き出した。
「ピーターは授業が終わってから夕食までの間、気絶していたんだ。どこにいたと思う?掃除用具の小部屋だ」
「俺とジェームズは夕方、クィディッチ競技場にいたんだ」
名前の後ろにいたブラックが口を開き、ポッターと同じく怒りのこもった表情で言った。
「ピーターは最後の授業でしくって…魔法薬の調合が終わるまで居残りだったんだ。リーマスは大階段の一階でピーターを待ってたんだと。いつまでもスリザリンの地下牢にいるのは気分が悪いからな」
「やっとピーターが来たと思って近付くと、どうにも様子がおかしいと」
ポッターは今度は隅にいたリーマスの肩を掴み、ぐいと前に押し出した。
「最初は失敗して落ち込んでるだけかと思った。でもそれにしちゃ妙に暗い、暗すぎる」
「魔法薬の失敗なんてピーターにとってはお約束みたいなもんだからな」
縮こまるペティグリューの横でブラックが口を挟んだ。
「そこで奴は…リーマス、ここからは君が話せよ」
ポッターの指示に、リーマスは心底気が乗らない様子だった。彼は小さくため息をつき、名前をちらと見てから仕方なさそうに話し始めた。
「その、ピーターだと思ってた彼が急におかしな質問をしてきたんだ。例のあれはいつだっけ、どこだっけ…って。何を指してるか分からないから、なんの事?って聞いたんだけど、何故かはぐらかされてしまって…だから僕、ここでは言えない内容の事かと思ったんだ。でもそんなの、二つしかないだろう?」
リーマスの言葉に、名前の心臓は早鐘のように鳴り出した。その後何が起こったのか、今すぐに知りたい気持ちと永遠に知りたくない気持ちとがぶつかり合い、手足が震えている。リーマスは「それで…」と口にしてから、申し訳なさそうに間を置いて言った。
「それで僕、言ったんだ。あの練習の事かい?って。そしたら彼はそうだと言うんだ。だから僕、日曜日の14時だよって…」
「あの野郎!!」
ブラックが叫びながら石壁を蹴った事に、名前は驚いて飛び上がりそうになった。心臓にこんなにも負荷がかかった試しは無いと思う程、名前はこの場の雰囲気に神経をすり減らしていた。
「でも…僕、そこで気付いたんだ。ピーターにしてはやっぱり様子がおかしいって」
リーマスは再びため息をついてから、吐き出すように一気に話した。
「だから今度は僕がピーターに聞いたんだ。明日ジェームズが試合に勝ったら、ピーターから彼には何をあげるんだっけってね。答えは蛙チョコレート20個なんだけど、本人が忘れるわけないんだ、ちょうど二時間前に話していた事だからね。だけど"その"ピーターは、忘れたなんて言うんだ。それで僕、思わずその腕を掴んだ。誰かがピーターにすり替わってるんだと思ったから。そしたら彼は僕の手を振りほどいて、人混みに紛れるように逃げ出したんだ」
「で、その一時間後に本物のピーターは小部屋で目覚めた、と…」
ポッターは再び名前を睨みつけ、尋問官のような素振りで問いただした。
「どう思う?苗字」
「どうって……」
新学期から今日までの記憶が、渦を巻く水流となって鮮明に思い起こされ、名前の脳裏にフラッシュバックした。森のはずれで何かの材料を集めていたセブルス、追いかけてもどこかへ消えてしまうその姿、ホグズミードにも来ず、ポリジュース薬が載った魔法薬の本を読んでいたー。
「それは…本当にセブルスだったっていう証拠があるの?」
名前は気丈に振る舞おうとしたが、狙いとは裏腹に声は自然と震えてしまう。重たい沈黙がその場に流れ、ポッターは瞬きもせず名前の目をじっと見つめるばかりだった。
「…目に見える証拠はない」
落ち着いた口ぶりで沈黙を破ったのはリーマスだった。彼はポッターとは違う温かみのある瞳を名前に向けたが、その表情は厳しさに満ちていた。
「だけど…分かるだろう、名前」
名前はぐっと奥歯を噛み締めた。リーマスの言う通り、分かりきったことなのだ。ここでセブルスを庇ったとしても何の得にもならない。名前は力なく頷き、引き下がるように地面に視線を落とした。
「とにかく、明後日の練習は中止だ。時間を変更したところであいつは一日中僕達を見張るだろうからな」
苛立った様子で地面を踏み鳴らしながら、ポッターがたずねた。
「来週土曜の13時はどうだ、苗字」
「どうだじゃなくて、お願いしますでしょ…」
小さく文句を呟いてから、名前は頭の中に予定を書き入れた。
「今日の件に関しては私、知らなかったことにするから」
「そいつはどうかな」
名前の背後で、ブラックがせせら笑うように言った。
「俺達はあいつの悪事を、とことんバラしていくつもりだぜ」
その宣言通り、セブルス・スネイプがポリジュース薬を使ってピーター・ペティグリューになりすましたという事件は翌日のうちにホグワーツ中に広まっていた。グリフィンドール生はスリザリンの足を引っ張るため何とかその証拠を探そうと必死になり、前代未聞の噂話に教員の殆どは困惑した様子を見せていた。しかしスリザリン寮内でのセブルスの評価は下がるどころかうなぎのぼりになり、あちらこちらでスリザリン生が愉快そうにその話をする場面を名前は何度も目撃した。
そして肝心のセブルス本人は、その件に関して決して口を割らなかった。名前が噂話を耳にした体で話しかけても、彼は「何の事だか、さっぱり分からない」と逃げるようにその場を後にするのだった。
セブルスの中では、作戦は失敗に終わったのだろう。ポッターたちは嫌味ったらしいほど上品な日曜日を過ごし、セブルスはその貴重な時間と労力を失ったのだから。週明けの彼はいつも以上に機嫌が悪いようだった。名前と並んで受ける魔法薬学でもセブルスは一度も口を開く事なく、授業が終わるや否や荒々しく教室を出て行ってしまった。
「名前、ちょっといいかね?」
セブルスを追いかけようか迷った矢先、スラグホーンが羊皮紙を手に名前に話し掛けてきた。名前は急いでスラグホーンに向き直り、手渡された羊皮紙を見た。先日提出した、二角獣の角に関してのレポートだ。
「君のこのレポートはよく出来ていた…んだが」
スラグホーンは前かがみになり、声をひそめて名前にたずねた。
「例の、セブルスのポリジュース薬を君も手伝ったのかね」
「え!?」
名前は驚いて顔を上げた。そして数秒遅れで、スラグホーンがなぜそんな事を聞くのかを理解した。自分はこのレポートで、セブルスに促されるがままにポリジュース薬について書いたのだ。
「いえ、まさか、全く関わってないです」
スラグホーンが抱いている疑念を名前は慌てて否定した。
「私は…本を書き写しただけで」
スラグホーンは口を半開きにしたまま2,3回頷き、名前のレポートをじっと眺めた。やはり自分一人で仕上げたレポートを提出すべきだったか。名前の心の中に、小さく後悔が芽生えた。
「先生は…その」
思案に耽ったままのスラグホーンに、名前はおずおずとたずねた。
「セブルスが本当にポリジュース薬を作ったと思いますか?」
「ううむ…」
スラグホーンは悩ましげに腕を組み、顔をしかめて唸った。
「証拠がなくては何とも言えんね。しかしまあ、ここだけの話だが…」
そう言ってスラグホーンは更に声を落とし、殆ど名前の耳元で囁くような形で言った。
「もしも本当ならば、私はむしろ誇らしい気持ちだがね。褒めてやりたいとすら思う」
スラグホーンの隠しきれない笑顔に、名前はつられて同じように笑った。スラグホーンは一瞬だが、いたずらに成功した少年のような笑みを浮かべていた。この調子であればセブルスが責められることは無いかもしれない。少なくとも寮監からは…。名前はどこかほっとした気持ちで、羊皮紙を鞄にしまい地下教室を後にした。
寒々とした地下の廊下に残っている生徒はごく僅かだった。名前はすぐにでも暖かい場所に行きたいと足早に廊下を歩いた。冬の地下牢は屋外と変わらない寒さだ。ずっと温室で薬草学の授業を受けたいと願うほど、この冬の寒さは特に厳しい。地下牢こそ魔法で暖かくすれば良いのに。そう心の中で文句をこぼしながら歩いていた名前だったが、ふと「スネイプ」という単語を耳にし、その場で思わず立ち止まった。
声の主は数メートル先にいるスリザリンの同級生、エイブリーとマルシベールだった。二人は名前に気付かぬまま話を続けている。名前は咄嗟に柱の影に隠れ、その会話に耳を澄ました。
「…ポリジュース薬の事が本当なら、あいつは間違いなく役に立つぞ」
「グリフィンドールを憎んでるしな。何より闇の魔術を好んでいる…大いに素質アリだ」
名前は息を殺しながら彼らの言葉に集中して耳を傾けた。ポリジュース薬の件を褒めているだけかと思ったが、何やら怪しげな雰囲気だ。名前は気配消しの石を取り出そうとしたが、人気のないこの空間ではポケットを探る音すら響きかねないと感じ、ローブの布が擦れないようゆっくりと手を戻した。
「いつ声をかける?すぐにか?」
「いやいや、もう少し待とう。あいつは厄介な事に半純血だ。グリフィンドールの穢れた血と一緒にいる所を見たことがあるだろう?」
意地の悪い笑い声が地下牢に響いた。間違いなく、彼らはリリーの事を言っている。石造りの柱の裏で、名前は怒りに飛び出しそうになるのを必死にこらえた。
「だから今すぐに全てを話すのはよそう。肝心な事は、奴と穢れた血を引き離した後だ」
「そうだな」
静かに笑うマルシベールに対して、含みのある口調でエイブリーが言った。
「まずはお友達からだ」
歩き始めた二人の足音はコツコツと廊下に響き、次第に遠ざかって行った。名前は音が聞こえなくなったのを確認して、そろりと柱の影から抜け出した。
エイブリーとマルシベールの姿はもう無い。石の壁を基調とした薄暗い空間が広がっているだけだ。しかしその見慣れた景色の中に広がる漠然とした不安を、名前は拭い去る事が出来なかった。
「規則をご存知ないんですかね?」
ジェームズ・ポッターたちの傍らに近付き、名前はセブルスを真似て嫌味ったらしく声をかけた。
「それとも暴れ柳にボコボコにされるのが動物もどきのコツなのかしら」
「今に分かるさ。暴れ柳の先を抜けたらね」
ポッターは怯むことなく、余裕たっぷりに笑みを浮かべて言った。
「僕たちはこの木の扱いに慣れてるから。よし、じゃあ行くぞ」
「行くってどこに?まさか…」
「そう、そのまさかなんだ」
名前の肩をぽんと叩いて、リーマスが申し訳なさそうに囁いた。
「人目につかない所と言ったら、あそこしか無いんだよ」
「そんな無茶な!」
すっかり準備万端という顔の四人を見渡しながら、名前は声を張り上げた。
「ホグワーツから抜け出すなんて…もっと別の…教室を探すとか…」
「先生にもゴーストにも見つからない、そんな都合の良い場所がホグワーツにあるのか?」
シリウス・ブラックがため息混じりに問いかけた。名前は思わず「8階!」と叫びがかったが、すんでのところで踏みとどまった。いくら安全の為とはいえ、あの部屋を彼らに知られる訳にはいかない。
「ない、けど…」
本音を押し殺しながら、名前は渋々呟いた。ブラックは「ほれ見たことか」と言わんばかりに鼻を鳴らし、懐から何かを取り出してリーマスの手を引っ張った。
「それに立ち入り禁止といっても、見られなければ問題ない」
「そんな、どう考えたって無理…」
名前が反論を言い終える前に、リーマスとブラックが忽然と姿を消した。一体何が起きたのか。名前が目をぱちくりさせている間に、二人分の足音が地面を駆け抜けていった。遠くでブラックの悪態が聞こえたかと思うと、先程までじっと根を張っていただけの暴れ柳が突然その幹を振り回し始めた。怒ったトロールが棍棒を振り回す姿そっくりだ。それよりも更に恐ろしく感じるのは、暴れ柳がトロールより速く賢いせいだろうか。
名前は唖然としてその場に釘付けになった。あんな一撃に当たってはひとたまりもない。一番太く大きい枝が拳を振り下ろすように地面を叩き、名前は堪らず悲鳴を上げた。地面は衝撃のあまり凹みがかっている。あんな木に誰が向かっていけるだろう。その場から立ち去りたい一心で、名前は無意識のうちに後ずさりしていた。それに気付いたポッターが「おい!」と名前の手を掴み、目を見て諭すように言った。
「大丈夫だ、苗字。もうすぐで大人しくなるから」
「全然大丈夫じゃない!」
名前はもはや半泣きの状態で、ポッターの手を振りほどこうとした。
「私、やっぱりあなた達に協力するのはー…」
しかしポッターの言った事は正しかった。何の前触れもなく、暴れ柳がぴたりと動きを止めたのである。ほんの一秒前まで荒れ狂っていたのが嘘のように、その巨大な魔法植物はすっと背筋を伸ばして再び動かぬ衛兵となった。
「ジェームズ!」
名前は遠くから響く声の主に目を見張った。リーマスとブラックはいつの間にそこへ辿り着いたのか、暴れ柳の根元に身を埋めている。上半身だけを地上に出したまま、ブラックが何かを掴んで掲げた。するとポッターは名前の前に躍り出て、杖を手にし「アクシオ!」と叫んだ。
何かが勢い良く暴れ柳から飛んできて、ポッターの手の中に収まった。輝く銀色の布だ。ポッターは名前とペティグリューの手を掴んで引き寄せ、顔をくっつけて言った。
「僕の透明マントだ。三人で入るにはギリギリだな…誰かの足が見えるかもしれない」
「えっ、何、どうするの」
慌てふためく名前の問いに答えぬまま、ポッターは銀色の布をバサリと自分たちに被せた。
「よし、走るぞ!それ!」
ポッターに腕を引かれるがまま、名前は彼らと共に全速力で駆け出した。巨大な暴れ柳が目の前に近付いてくる。
「穴だ!」そう叫んだポッターに背中を押され、訳の分からぬまま名前は木の根元へ踏み込んだ。根元に開いた大きな穴に足を取られたと思った瞬間、名前の体は吸い込まれるようにその中へ落ちていった。
滑り落ちた先には暗いトンネルが広がっていた。名前の後からペティグリュー、ポッターが降りてきて、トンネル内はあわやドミノ倒しになるところだった。名前は立ち上がり、土だらけになったローブをはらった。驚いた事にポッターは笑顔さえ浮かべている。まるで滑り台で遊ぶ子供のようだ。その余裕綽々な様子から、名前は全てを理解した。ここが何処なのかも、彼らが普段何をしているのかも、今やはっきりと分かったのだ。一番乗りだったであろうブラックは全員の姿を確認すると、体を折り曲げてトンネルの先へと進み始めた。
「ここが叫びの屋敷に繋がってるのね?」
目の前を歩くリーマスに、名前は恐る恐るたずねた。
「そうだよ。すまないけど、少し歩くんだ」
「どれくらい?」
「少なくともー…」
先頭を歩くブラックが二人の会話に割って入った。
「狼人間がホグワーツに顔を出さないくらいの距離だな」
ブラックの皮肉通り、そのトンネルは延々と続くような長さだった。グリフィンドールの四人は冗談を口にしながら遠足に向かうかのように笑い合っていたが、名前はとてもそんな気分にはなれず黙々と通路を歩いた。もう十分すぎる程歩いたのではないか。そう感じた所で道は上り坂になり、曲がりくねった角を抜けた先にとうとう光が差し込んできた。
「さあ、着いたぞ!」
一足先に出口へと辿り着いたブラックが声を張り上げた。リーマスに続いて、名前は長いトンネルからやっとの思いで這い上がった。視線の先に部屋が広がっている。お世辞にも綺麗とはいえない状態の部屋だ。壁紙は殆ど剥がれかけ、あちこちに破壊された家具が散らばっている。叫びの屋敷の一室だ。
「ちょっとは勉強できる環境に戻さないとな」
そう言って、ポッターは手当たり次第に修復呪文を唱え始めた。ブラックとリーマスもそれに倣い、ひしゃげて横転した椅子を直し、机を立たせ、割れたランプに光を灯した。三人の魔法のおかげで、屋敷の中は人が何とか生活出来そうな空間へと息を吹き返していった。
「さて、先生」
修復したばかりの椅子に腰掛けて、ブラックがたずねた。
「何から始めればいいのかな」
四人の視線が一斉に注がれ、先生とは自分の事かと名前はそこで気が付いた。名前は椅子に座らず前に進み出て、教壇を模した机の脇に教師らしく立つことにした。
「えっと…まずは、動物もどきの理論を学んでもらいます」
「おいおい、マジかよ」
期待はずれといった顔で、ブラックが低く呻いた。
「座学なんてすっ飛ばして、すぐに実践じゃダメなのか?」
「ダメに決まってるでしょ!」
足を投げ出した不良丸出しのブラックに対し、名前は厳しい口調で言った。
「動物もどきは慎重に扱わなきゃいけない魔法なの。理論やリスクを知った上で挑戦しないと失敗するし、そもそも真剣に向かい合う気がないなら私は教えません!」
「分かった、分かった君の言う通りにやるよ」
ポッターがシリウスを押さえつけるように手を上げた。
「それに僕たち真剣だ」
「…それなら良いけど」
四人を半ば睨みつけるように見回してから、名前は黒板代わりになりそうな家具を探した。叫びの屋敷は、ホグワーツの教室とはあまりに違っている。名前は仕方なく部屋の隅にかかった鏡を黒板に変え、それを中央に移動させ授業を進める事にした。
「それで」
ぼけっと自分を見つめる男子学生たちに対して、名前は再び厳しい態度でたずねた。
「座学って事は、みんなに覚えてもらいたい事を話す訳だけど。誰も何も持ってきてないの?」
「そりゃ、何にも言われなかったから」
ブラックは杖を取り出し、他には何もありませんと示すようにローブのポケットを裏返しにした。名前は大きくため息をついてその場に屈み、拾い集めた適当な木屑をお粗末なペンとノートに変えた。
「すっげえ」
間に合わせの筆記用具を受け取りながら、ポッターが感心したように声を上げた。リーマスとペティグリューは遠慮がちに名前に礼を言い、ブラックはふんぞり返ったまま受け取ったペンを口にくわえた。
「まず、動物もどきは非常に便利な魔法であると同時に、悪用される確率も高い事を知っておかなければなりません」
マクゴナガルの言葉をそっくりそのまま引用しながら、名前は最初の講義を始めた。
「動物もどきは変装、もしくは身を隠すための究極の手段。つまりそれを必要とする魔法使いは何らかの隠密行動に携わっている…そう判断されても全く文句が言えないの。だから魔法省はイギリス全土の動物もどきを"登録"という形で全員把握しています」
しん、と部屋に沈黙が流れた。先程まで目を輝かせていたポッターをはじめとする全員が黙って床に視線を落としている。その何とも言えない様子に疑問を感じながらも、名前は咳払いをして話を続けた。
「…もちろん、私も登録しています」
「あー…登録しなかった場合は、どうなるんですか?」
ジェームズ・ポッターがおもむろに挙手をしながら質問した。俯いていた他の三人も一斉に顔を上げ、その答えを待ちわびるように名前を見ている。
「登録しなかったら?」
考えてもみなかった問いに面食らいつつ、名前はポッターの問いに答えた。
「そりゃ…法律違反として、アズカバン行きになるでしょうね」
再び重たい沈黙が流れた。四人とも暗い顔で机の上をじっと見つめている。何かまずいことを言っただろうか。名前は不安な気持ちを胸に抱きながら、講義を進めるため黒板に向き直って理論法則を記し始めた。
「…そういうわけで、授業では生物から無生物への変身しか習ってないと思うけど、動物もどきの基礎は生物から別の生物への変身なの」
40分は経っただろうか。名前は基礎理論の説明をようやく終えようとしていた。グリフィンドールの四人は意外にも終始メモをとり、真面目な様子で名前の話を聞いている。動物もどきを習得しようという覚悟に揺らぎは無いようだ。名前は彼らの熱心さを認め、実践指導に移る事にした。
「じゃあ今から私が動物を適当に用意するから…それを、えーっと…フクロウに変えてみて」
名前は少し迷ってから、四人それぞれの机に出現呪文でネズミを出した。
「苗字、君って本当に変身術に関しては天才なんだな」
机の上をクンクンと嗅ぎ回るネズミを捕まえながら、ポッターが言った。
「このネズミたちは一体どっから来たんだ?」
「え…その辺だよ。ホグズミードにいっぱいいる動物なら確実に用意出来るから」
感心したように頷いてから、ポッターはネズミを手で押さえつつ練習を始めた。部屋の中の光景はさながらホグワーツでの本当の授業のようになり、名前はマクゴナガルを真似て四人の生徒たちの間を巡回して見ることにした。生物同士への変身は、範囲で言えば四年生だ。優秀なポッターたちであればそう難しくはないだろう。
名前の予想通り、数回の失敗でコツを掴んだブラックが一番に課題を成功させた。ブラックはネズミの灰色を残したままのフクロウを得意げに飛ばし、他の挑戦者を眺めるべく名前の後ろについてまわった。次点でポッターが成功をおさめ、30分ほど経った頃リーマスが追いつくように小柄なフクロウを生み出した。部屋は放し飼いにされた三羽のフクロウと新しい魔法を習得した三人の少年で騒がしくなり、先程までの真剣な雰囲気はどこへやら、あっという間に遊び場へと変わってしまったようだった。しかし名前は心底もどかしい気持ちで、ピーター・ペティグリューと向かい合って座っていた。
「頑張って、フクロウの形を思い出して」
杖を振るも何も起こせずにいるペティグリューを、名前は必死に励ました。
「ほら、今もその辺を飛び回ってるでしょ?落ち着いて、じっくり観察して姿を目に焼き付けるの」
ペティグリューは弱々しく頷きながら、飛んでいるフクロウたちを真剣に見ては、ネズミに魔法をかけようとした。だがどうにも上手くいかない。遊び半分にペティグリューをからかっていたポッターたちも、彼のあまりの不器用さにとうとう焦りを覚えたのか、気付けば名前を含む四人がペティグリューを囲んで椅子を並べる事態となっていた。
名前を筆頭にそれぞれがアドバイスし、ペティグリューがそれを実践しようと試みる。しかし杖の先から火花や短い閃光が出るばかりで、結果は常に失敗だった。名前たちは根気よく彼を励まし続けたが、部屋の中は次第に暗く寒くなっていった。
「そろそろ帰ろう。夕食にいないと怪しまれる」
ポッターが席を立ち、ペティグリューの背中をバシッと叩いた。
「ピーターのそれは宿題だな。幸い、校内で練習しててもお咎め無しの魔法だ」
ポッターの言葉に全員が笑ったが、疲労を隠しきれない力ない笑いだった。教える側も教わる側も、想像していた以上にエネルギーが要る。ホグワーツに向けて長いトンネルを再び歩くのはとてつもなく億劫だった。
「次はいつにする?」
ようやく暴れ柳の根元にたどり着いた頃、ブラックが一同を見渡してたずねた。
「もうすぐ今年最初のクィディッチ戦があるんだ」
頭をくしゃくしゃと掻きながら、ジェームズ・ポッターはどこか得意げな様子で言った。
「だから僕はちょいと忙しくなるな…来週のこの時間は、ちょうど練習場でしごかれてる最中だ」
「まあ、いずれにせよピーター次第か」
そう笑いながら、ブラックはペティグリューの頭を軽く小突いた。ペティグリューはブラックに合わせて笑ったが、その目尻は1ミリも下がることなく、額には薄ら汗を浮かべている。
「僕の試合が終わってからだから…じゃあ二週間後の日曜日はどうだ?同じ時間、同じ集合場所で」
「…わかった」
ポッターの提案に名前は渋々頷き、念を押して言った。
「もし何か変更があっても、絶対直接話しかけないでね。目立たないフクロウで送って」
「努力するよ」
ポッターは伸びをしながら適当な相槌を打った後、「そうだ」とローブの内側から再びあの銀のマントを取り出した。
「苗字、これを着て先に行けよ。僕たちと一緒にいるところを見られちゃ都合が悪いんだろ」
名前は手を伸ばし、ポッターから流れるような触り心地のマントを受け取った。おもむろにマントを肩にかけると、触れたところがたちまち透明になった。体の一部が無くなったかのような、妙な感覚だ。
「これ、どうやって返せば…」
「君が城壁に近付いたあたりで、僕がアクシオする」
ポッターは暴れ柳の根元から外へと顔を少しだけ覗かせ、辺りを見張るように目をこらした。
「今なら誰もいない。チャンスだ」
彼らに急かされるがまま名前はマントで全身を覆い、暴れ柳の穴から這い出た。外はすでに夜の暗さだ。名前はマントが風で翻らないよう注意しながら、駆け足で城へと向かった。城壁へとたどり着き、左右を見渡す。ミランダの石で何度も規則破りをしてきたはずの名前だったが、周囲の視線をこれほどまでに恐れた事はなかった。安全を確認し、やっとの思いでマントを脱ぐと、透明マントは突風に吹かれるかの如くあっという間に名前の手元を離れていった。
名前は暴れ柳を振り返る事なく、そのまま早足で大広間へと向かった。何事も無かったかのように、自然な態度で夕食の席につかなくてはならない。さも今まで図書館にいたかのような雰囲気を醸し出さねば。14時から今までの『偽の行動』を頭の中で組み立てながら、名前は灯篭に照らされた城内へと澄ました顔で入って行った。
何かあっても直接話しかけない。名前がポッター達と交わした約束は、それからというもの徹底的に守られているように思えた。リーマス以外の三人は名前と廊下ですれ違っても目線すら送らず、まるで互いに名前も知らない生徒であるかのように振る舞った。五人の秘密は、ミランダを除けば誰にも気付かれていない。練習場所を叫びの屋敷にしたのは正解だった。ポッターたちの事をあまり褒めたくはない名前だったが、規則破りに関する彼らの才能は認めざるを得なかった。
しかし事件は突然起こった。クィディッチ対抗戦を明日に控え、対戦チームであるグリフィンドールとレイブンクローの生徒たちが浮き足立っていた金曜日。夕食を終えた名前は、就寝までの時間を有意義に過ごそうと一人図書館へと向かっていた。天文学の授業を控えたミランダと大広間で別れ、平日のうちに魔法史の宿題を終える決意をした名前の心はやる気に満ち溢れていた。ただでさえ日曜日は例の授業で半日潰れてしまうのだ。今やっておけば週末の負担を軽くする事が出来る。しかしそんな名前の計画は、城の東側へと続く通路を曲がった所で突如として崩れ去った。
曲がり角で自分を待ち伏せしていたのであろうポッターに腕を引っ張られ、名前は声にならない叫びを上げた。その瞬間後ろから透明マントを被せられ、名前は何が起こったのか分からぬままにグリフィンドールの四人と共に、目的地とは全く別の方向に歩き出していた。
四人の少年たちは神妙な面持ちで、不気味なほど静かだった。ブラックが見慣れないタペストリーを翻すと隠し階段が現れ、五人は無言のままそれを下った。名前は存在すら知らなかった隠し通路だが、彼らにとっては見知った場所なのだろう。階段が途切れ、薄暗い踊り場に着いた所でようやくポッターは名前の透明マントを剥がした。名前が姿を現すや否や、ポッターいつになく怒りを浮かべた表情で叫んだ。
「やられた!!」
「え…何?何が?」
ポッターの剣幕を見る限り、ただ事ではない。名前は嫌な予感をいくつも思い浮かべながらたずねた。しかしその答えはどの予想とも異なるものだった。
「スニベルスが、ポリジュース薬を使った」
その場が水を打ったように静まり返った。ポッターは名前を睨みつけるようにじっと見ている。名前はただ唖然とするばかりで、事態への理解が追いつかぬままポッターを見つめ返した。
「…誰に?」
名前の問いかけにポッターはペティグリューをぐいと引き寄せ、名前の前に突き出した。
「ピーターは授業が終わってから夕食までの間、気絶していたんだ。どこにいたと思う?掃除用具の小部屋だ」
「俺とジェームズは夕方、クィディッチ競技場にいたんだ」
名前の後ろにいたブラックが口を開き、ポッターと同じく怒りのこもった表情で言った。
「ピーターは最後の授業でしくって…魔法薬の調合が終わるまで居残りだったんだ。リーマスは大階段の一階でピーターを待ってたんだと。いつまでもスリザリンの地下牢にいるのは気分が悪いからな」
「やっとピーターが来たと思って近付くと、どうにも様子がおかしいと」
ポッターは今度は隅にいたリーマスの肩を掴み、ぐいと前に押し出した。
「最初は失敗して落ち込んでるだけかと思った。でもそれにしちゃ妙に暗い、暗すぎる」
「魔法薬の失敗なんてピーターにとってはお約束みたいなもんだからな」
縮こまるペティグリューの横でブラックが口を挟んだ。
「そこで奴は…リーマス、ここからは君が話せよ」
ポッターの指示に、リーマスは心底気が乗らない様子だった。彼は小さくため息をつき、名前をちらと見てから仕方なさそうに話し始めた。
「その、ピーターだと思ってた彼が急におかしな質問をしてきたんだ。例のあれはいつだっけ、どこだっけ…って。何を指してるか分からないから、なんの事?って聞いたんだけど、何故かはぐらかされてしまって…だから僕、ここでは言えない内容の事かと思ったんだ。でもそんなの、二つしかないだろう?」
リーマスの言葉に、名前の心臓は早鐘のように鳴り出した。その後何が起こったのか、今すぐに知りたい気持ちと永遠に知りたくない気持ちとがぶつかり合い、手足が震えている。リーマスは「それで…」と口にしてから、申し訳なさそうに間を置いて言った。
「それで僕、言ったんだ。あの練習の事かい?って。そしたら彼はそうだと言うんだ。だから僕、日曜日の14時だよって…」
「あの野郎!!」
ブラックが叫びながら石壁を蹴った事に、名前は驚いて飛び上がりそうになった。心臓にこんなにも負荷がかかった試しは無いと思う程、名前はこの場の雰囲気に神経をすり減らしていた。
「でも…僕、そこで気付いたんだ。ピーターにしてはやっぱり様子がおかしいって」
リーマスは再びため息をついてから、吐き出すように一気に話した。
「だから今度は僕がピーターに聞いたんだ。明日ジェームズが試合に勝ったら、ピーターから彼には何をあげるんだっけってね。答えは蛙チョコレート20個なんだけど、本人が忘れるわけないんだ、ちょうど二時間前に話していた事だからね。だけど"その"ピーターは、忘れたなんて言うんだ。それで僕、思わずその腕を掴んだ。誰かがピーターにすり替わってるんだと思ったから。そしたら彼は僕の手を振りほどいて、人混みに紛れるように逃げ出したんだ」
「で、その一時間後に本物のピーターは小部屋で目覚めた、と…」
ポッターは再び名前を睨みつけ、尋問官のような素振りで問いただした。
「どう思う?苗字」
「どうって……」
新学期から今日までの記憶が、渦を巻く水流となって鮮明に思い起こされ、名前の脳裏にフラッシュバックした。森のはずれで何かの材料を集めていたセブルス、追いかけてもどこかへ消えてしまうその姿、ホグズミードにも来ず、ポリジュース薬が載った魔法薬の本を読んでいたー。
「それは…本当にセブルスだったっていう証拠があるの?」
名前は気丈に振る舞おうとしたが、狙いとは裏腹に声は自然と震えてしまう。重たい沈黙がその場に流れ、ポッターは瞬きもせず名前の目をじっと見つめるばかりだった。
「…目に見える証拠はない」
落ち着いた口ぶりで沈黙を破ったのはリーマスだった。彼はポッターとは違う温かみのある瞳を名前に向けたが、その表情は厳しさに満ちていた。
「だけど…分かるだろう、名前」
名前はぐっと奥歯を噛み締めた。リーマスの言う通り、分かりきったことなのだ。ここでセブルスを庇ったとしても何の得にもならない。名前は力なく頷き、引き下がるように地面に視線を落とした。
「とにかく、明後日の練習は中止だ。時間を変更したところであいつは一日中僕達を見張るだろうからな」
苛立った様子で地面を踏み鳴らしながら、ポッターがたずねた。
「来週土曜の13時はどうだ、苗字」
「どうだじゃなくて、お願いしますでしょ…」
小さく文句を呟いてから、名前は頭の中に予定を書き入れた。
「今日の件に関しては私、知らなかったことにするから」
「そいつはどうかな」
名前の背後で、ブラックがせせら笑うように言った。
「俺達はあいつの悪事を、とことんバラしていくつもりだぜ」
その宣言通り、セブルス・スネイプがポリジュース薬を使ってピーター・ペティグリューになりすましたという事件は翌日のうちにホグワーツ中に広まっていた。グリフィンドール生はスリザリンの足を引っ張るため何とかその証拠を探そうと必死になり、前代未聞の噂話に教員の殆どは困惑した様子を見せていた。しかしスリザリン寮内でのセブルスの評価は下がるどころかうなぎのぼりになり、あちらこちらでスリザリン生が愉快そうにその話をする場面を名前は何度も目撃した。
そして肝心のセブルス本人は、その件に関して決して口を割らなかった。名前が噂話を耳にした体で話しかけても、彼は「何の事だか、さっぱり分からない」と逃げるようにその場を後にするのだった。
セブルスの中では、作戦は失敗に終わったのだろう。ポッターたちは嫌味ったらしいほど上品な日曜日を過ごし、セブルスはその貴重な時間と労力を失ったのだから。週明けの彼はいつも以上に機嫌が悪いようだった。名前と並んで受ける魔法薬学でもセブルスは一度も口を開く事なく、授業が終わるや否や荒々しく教室を出て行ってしまった。
「名前、ちょっといいかね?」
セブルスを追いかけようか迷った矢先、スラグホーンが羊皮紙を手に名前に話し掛けてきた。名前は急いでスラグホーンに向き直り、手渡された羊皮紙を見た。先日提出した、二角獣の角に関してのレポートだ。
「君のこのレポートはよく出来ていた…んだが」
スラグホーンは前かがみになり、声をひそめて名前にたずねた。
「例の、セブルスのポリジュース薬を君も手伝ったのかね」
「え!?」
名前は驚いて顔を上げた。そして数秒遅れで、スラグホーンがなぜそんな事を聞くのかを理解した。自分はこのレポートで、セブルスに促されるがままにポリジュース薬について書いたのだ。
「いえ、まさか、全く関わってないです」
スラグホーンが抱いている疑念を名前は慌てて否定した。
「私は…本を書き写しただけで」
スラグホーンは口を半開きにしたまま2,3回頷き、名前のレポートをじっと眺めた。やはり自分一人で仕上げたレポートを提出すべきだったか。名前の心の中に、小さく後悔が芽生えた。
「先生は…その」
思案に耽ったままのスラグホーンに、名前はおずおずとたずねた。
「セブルスが本当にポリジュース薬を作ったと思いますか?」
「ううむ…」
スラグホーンは悩ましげに腕を組み、顔をしかめて唸った。
「証拠がなくては何とも言えんね。しかしまあ、ここだけの話だが…」
そう言ってスラグホーンは更に声を落とし、殆ど名前の耳元で囁くような形で言った。
「もしも本当ならば、私はむしろ誇らしい気持ちだがね。褒めてやりたいとすら思う」
スラグホーンの隠しきれない笑顔に、名前はつられて同じように笑った。スラグホーンは一瞬だが、いたずらに成功した少年のような笑みを浮かべていた。この調子であればセブルスが責められることは無いかもしれない。少なくとも寮監からは…。名前はどこかほっとした気持ちで、羊皮紙を鞄にしまい地下教室を後にした。
寒々とした地下の廊下に残っている生徒はごく僅かだった。名前はすぐにでも暖かい場所に行きたいと足早に廊下を歩いた。冬の地下牢は屋外と変わらない寒さだ。ずっと温室で薬草学の授業を受けたいと願うほど、この冬の寒さは特に厳しい。地下牢こそ魔法で暖かくすれば良いのに。そう心の中で文句をこぼしながら歩いていた名前だったが、ふと「スネイプ」という単語を耳にし、その場で思わず立ち止まった。
声の主は数メートル先にいるスリザリンの同級生、エイブリーとマルシベールだった。二人は名前に気付かぬまま話を続けている。名前は咄嗟に柱の影に隠れ、その会話に耳を澄ました。
「…ポリジュース薬の事が本当なら、あいつは間違いなく役に立つぞ」
「グリフィンドールを憎んでるしな。何より闇の魔術を好んでいる…大いに素質アリだ」
名前は息を殺しながら彼らの言葉に集中して耳を傾けた。ポリジュース薬の件を褒めているだけかと思ったが、何やら怪しげな雰囲気だ。名前は気配消しの石を取り出そうとしたが、人気のないこの空間ではポケットを探る音すら響きかねないと感じ、ローブの布が擦れないようゆっくりと手を戻した。
「いつ声をかける?すぐにか?」
「いやいや、もう少し待とう。あいつは厄介な事に半純血だ。グリフィンドールの穢れた血と一緒にいる所を見たことがあるだろう?」
意地の悪い笑い声が地下牢に響いた。間違いなく、彼らはリリーの事を言っている。石造りの柱の裏で、名前は怒りに飛び出しそうになるのを必死にこらえた。
「だから今すぐに全てを話すのはよそう。肝心な事は、奴と穢れた血を引き離した後だ」
「そうだな」
静かに笑うマルシベールに対して、含みのある口調でエイブリーが言った。
「まずはお友達からだ」
歩き始めた二人の足音はコツコツと廊下に響き、次第に遠ざかって行った。名前は音が聞こえなくなったのを確認して、そろりと柱の影から抜け出した。
エイブリーとマルシベールの姿はもう無い。石の壁を基調とした薄暗い空間が広がっているだけだ。しかしその見慣れた景色の中に広がる漠然とした不安を、名前は拭い去る事が出来なかった。