第一部
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11月の第一土曜日、ホグワーツの玄関ホールには生徒達の長い行列が出来ていた。ハロウィンは三日前に過ぎ去ってしまったが、それを憂う表情はどこにもない。名前は列の中に混ざりながら期待に胸を膨らませていた。今日はホグワーツに入学して初めて、ホグズミード行きが許された日なのだ。扉の前でチェックを受け、名前とミランダは他の生徒と同じように早足で馬車の停車場へ向かった。
「休暇以外でホグワーツの外に出るなんて、何だか変な感じ」
馬のいない馬車に乗り込みながら、名前はほころぶ顔を引き締めようと澄まして言った。隣に座るミランダの落ち着きっぷりを見ている内に、興奮を表に出すのが恥ずかしくなってきたのだ。
「名前、もっと目に見えてワクワクしていいのよ」
笑いながら、まるで母親のような口ぶりでミランダが言った。
「見てごらんなさいな、私たちの後ろの集団。あれくらい素直に騒いだって問題ないわ」
ミランダが指差した先では、ジェームズ・ポッターとその仲間達が歓声を上げながら後方の馬車めがけて走り寄ってくる所だった。名前の「うわっ」という嫌悪の声を合図にするかのように、二人を乗せた馬車は馬なしのままガタガタと走り始めた。
「男の子って…特にグリフィンドールのあの三人って、何であんなに馬鹿なんだろう」
遠ざかっていくポッターたちの笑い声を背に受けながら、名前は呆れた表情でため息をついた。後方の馬車からは立て続けに杖火花が上がり、ちょっとした花火大会になっている。
「あら、あの子達はとっても成績優秀って聞いてるけど」
そう言って、ミランダは後続の馬車を振り返るように窓からひょいと顔を出した。
「それにあのお仲間は全部で四人だと思ってたけど。リーマス・ルーピンだけは例外なのね?」
「彼は思慮深いし、問題児でもないから。正直どうしてポッターたちと仲良くしてるのか…もっと良いグループがあるはずなのに」
ミランダにそう告げたものの、名前は自分の言葉に大きな嘘があると分かっていた。ある意味ではリーマスが一番の問題児と言えるのかもしれない。それに彼と仲間たちが深い友情で繋がっている事も理解している。リーマスの秘密を知って以来、名前の中ではポッター達の印象が僅かながらに変わりつつあった。
「大切な事って、目には見えないわね」
意味深な呟きを残して、ミランダは馬車の進む先へと向き直った。ミランダに秘密を隠し通すことは難しい。彼女自身もそれを理解した上で、表向きの会話に付き合ってくれているのだろう。自分たちにだってポッターたちに負けず劣らずの友情がある。名前は一人誇らし気に笑みを浮かべた。
馬車は秋の森を走り抜け、ホグズミード駅のそばで停車した。ここまでは最早見慣れた景色だ。名前はミランダと馬車を降りながら、待望のホグズミード村へと駆けていく生徒たちに続いた。ホグワーツ特急へ向かう際とは逆の方向に歩みを進める新鮮さと、その行く手に待つ未知への期待に名前の胸は大きく高鳴り始めた。そしてホグズミードの入口へ辿り着いた瞬間、名前のポーカーフェイスはとうとう維持しきれないものとなった。
「すごい…!」
目の前に広がる非日常の光景に名前は思わず声を上げた。道の両脇にコテージが並び、遠目からでもカラフルな店で溢れているのが分かる。まるでおしゃれな絵本から飛び出てきたような村だ。目を輝かせる名前の隣で、ミランダが満足そうに微笑んだ。
「そうそう、そうこなくっちゃ。さあ名前、ここからは本来のあなたを解放して、思いっきり楽しむわよ」
ミランダはまず『ゾンコのいたずら専門店』へ名前を連れて行った。「何かお腹に入れる前に行っておいた方がいいから」とミランダが言った理由は、その店に入ってすぐに分かった。あちらこちらに危険ないたずら道具が並べられている。棚に陳列されたティーカップが突然、客の手にしていたキャンディを噛み砕き始めたのを見て名前は呆気にとられた。こんな店には今まで入った事がない。
「なかなか刺激的でしょ?」
噛みつきフリスビーの入った箱を上下に軽く振りながらミランダが言った。その傍らでは『実演』として、噛みつきフリスビーが透明のショーケースの中で暴れまわっている。今にもケースを破壊しかねない勢いだ。
「ミランダ、それ買うの?」
「いいえ、まさか。こんなのホグワーツに着いた途端没収よ」
ミランダは箱を陳列棚に戻してから、実演のフリスビーが閉じ込められているショーケースを指でコンコンと叩いた。
「でも面白い発想よね…こういう珍しい商品から学ぶものは沢山あるわ」
ショーケースを隔ててミランダの指に噛み付こうとするフリスビーにたじろぎながら、名前はもう少し安全で愉快な物を探そうと身を翻した。しかし視線の先に噛みつきフリスビーよりも顔を青くさせる危険因子を見つけ、名前は慌ててミランダの手を掴んだ。ポッターたちが店内に入ってきたのだ。
「ミランダ、もう行こう」
名前はポッターたちの視界から逃れるように身を屈め、ミランダの背中を押しながら早々にゾンコを後にした。しかし背の高いシリウス・ブラックの視界は人一倍広かったようで、名前に気付いた彼は「おい」と声を掛けてきた。名前はそれに気付かないふりをして、店のドアを急いで閉めた。
「彼らの事、避けてるのね?」
ゾンコから早足で遠ざかり、数軒の店を通過した先でミランダがたずねた。
「そうだよ」
冷たい風が吹く通りで冷や汗を流しながら名前は答えた。
「考えてもみてよ。私が彼らと話してる所を、もしセブルスに見られでもしたら…」
「それはそうね」
ミランダは顎に手を当て納得した様子で言った。
「他のスリザリン生でも…いえ、どの寮の生徒でもダメね。あっという間に噂になるわ」
「でしょ?」
後ろにそれらしい影がないか振り返りつつ、名前はため息をついた。
「なのに向こうは全く分かってないんだから…。ほんとデリカシーがないっていうか、思慮浅いっていうか…」
「声を掛けてもらいたくないなら早く言わないと。あなた達、これから定期的に集まるんでしょ?彼はその事で何か言いたそうだったわよ」
名前は目を丸くしてミランダを見た。その顎に当てられた白い手には、今日も石の指輪がびっしりと嵌められている。
「そんな事まで"分かって"たの?」
名前は冷え切った頭を抱え、小さく呻くように言った。
「最近のあなた、思い悩みすぎて心の声がしょっちゅう漏れてたから」
ミランダは素知らぬ顔でそっぽを向き、次なるお目当ての店へと歩き出した。
「いずれにせよ、早く彼らと話した方がいいわよ。スネイプといる時に声をかけられるより前にね」
二番目に訪れた店はミランダお気に入りの羽根ペン専門店だった。定番の雉羽根のほか、孔雀など珍しい種類が所狭しと並べられている。価格帯も様々で、大きな宝石がはめ込まれた高級羽根ペンは魔法のケースに入れられて厳重に保管されていた。
「昔、あなたに羽根ペンを贈ったの覚えてる?」
七色に輝く羽根ペンを手に取りながら、ミランダがたずねた。
「これ可愛いわね…あなたに贈ったのはもう少しシンプルだったけど」
「私が一年生の時、クリスマスにプレゼントしてくれたペンでしょ?今でも使ってるよ」
「あれ、ここで買ったのよ」
「そうだったんだ」
名前は改めて店内をぐるりと見渡した。二年前、ミランダから貰った羽根ペンは鮮やかなエメラルド色だった。棚の中段に並ぶ羽根ペンの列に似たようなデザインの物を見つけて、名前は目を凝らした。『12ガリオン』と書かれている。名前は気まずい面持ちで高級羽根ペンたちから離れ、『おつとめ品』と書かれた樽のコーナーへそそくさと向かった。
名前が"天気と同じ色に変わる羽根ペン"を見ている間に、ミランダは七色羽根ペンの会計を済ませてきたようだった。二人は店を出て、暖かい屋内で小腹を満たす事にした。
「スネイプは来てないの?」
次なる目的地への道を歩きながら、ミランダが名前にたずねた。ホグズミードは通りも店も見渡す限り、どこもホグワーツ生でいっぱいだ。
「さすがに来てると思うよ。私たち三年生にとっては初めてのチャンスだもの」
名前はセブルスの姿を探してきょろきょろと辺りを見回した。先週はスラグ・クラブの夕食会へ彼を連れて行けた事に満足しきって、ホグズミードの話をするのをすっかり忘れていた。セブルスの事だ、きっと一人で行動しているに違いない。リリーはグリフィンドールの友人と過ごしているはずだ。
しかし、もしリリーがセブルスを誘ったとしたら…?ふとした疑念が名前の脳裏をよぎった。この幸福に満ちた空間で、自分は二人が並んで歩く姿を目にすることになるのだろうか。そんな時、自分はどんな表情で二人に手を振ればいいだろう。
「次は一緒に行くよう誘ってみたら?」
地面に視線を落としたままの名前を覗き込んで、ミランダが言った。
「例年通りならクリスマス休暇前にチャンスがあるはずよ」
「でも…ミランダは行かないの?」
恐らく自分の不安を彼女は全て読み取ったのだろう。そう分かりつつも、名前はたずねた。
「ホグズミードにおける私の事なら気にしないで。実は"お客さん"が住んでるの」
「お客さん?」
「そうそう。今日は勿論行かないけどね。今までは一人でその人の所に行ってたの」
「ああ、だから」
昨年度の思い出が蘇り、名前はぽんと手を打った。
「だからこの間の夏休み、ホグズミードに寄るって言ってたの?」
「鋭いわね」
名前の推理にミランダは笑顔で頷いた。
「お話程度だったら私一人で行くんだけどね。あの時はちょっと大事な"商談"があったから、家族と一緒にホグズミードに滞在してたの」
「へえー…」
そのあまりにも大人な発言に、名前は感心して言葉を失ってしまった。
「何にせよ、スネイプと来たらあの店にでも立ち寄るといいわよ」
名前は顔を上げてミランダの指差す先を見た。やりすぎな程ピンクに包まれた店が存在感たっぷりに建っている。店の窓はフリルで飾られ、少女趣味なカップやソーサーがいくつも並べられていた。
「うわーーー」
引きつった笑顔を浮かべながら、名前はミランダにだけ聞こえる大きさで声を上げた。ちょうどホグワーツ生のカップルが身を寄せ合いながら出てきた所だった。
「あんな所入ろうなんて言ったら殺されちゃうよ」
「でしょうね」
おかしそうに笑いながら、ミランダは名前の手を引っ張った。
「ここの方がずっと良いと思うわよ」
ミランダが『三本の箒』のドアを開くと、中から暖かな空気が流れ出し名前の冷えた鼻先を撫でるようにほぐした。柱木の香りと菓子の甘い匂いが合わさり、どこか懐かしい居心地の良さを感じさせる。三本の箒は今まで入ったホグズミードのどの店よりも人でいっぱいだった。ホグワーツ生以外の客も大勢いる。名前とミランダは店の奥の二人席に座り、名物のバタービールが運ばれて来るのを待った。
「これがバタービールか〜!」
モコモコの白い泡で髭を作りながら、名前は目を閉じてその美味しさを存分に味わった。じんわりと広がる甘みが疲れを吹き飛ばし、体の芯から温まるようだ。周りの誰もが注文する理由に納得しつつ、名前は幸せたっぷりに息をついた。
「ホグズミードって素敵だね…ホグワーツでも毎日バタービールが飲めたらいいのにな」
「持ち帰りも出来るわよ」
名前と同じように泡の髭を生やしながら、ミランダは椅子を背に振り返り店内を見渡した。
「バタービールは瓶でも売ってるから。確かカウンターの辺りに…あら、あらあら」
ミランダの視線の先を見た途端、名前はバタービールをむせ込みそうになった。ジェームズ・ポッターを先頭にグリフィンドールの四人がこちらへやって来る。名前は慌てて周囲を見渡した。もはや逃れることは出来ない。幸いにして三本の箒にセブルスの姿は無かった。
「苗字、例の件で伝えたい事があって来た」
二人の座るテーブルに近づくやいなや、ポッターは馴れ馴れしく椅子に寄りかかって言った。
「あー…お友達に聞かれると、その、あんまり都合が良くないな」
「だったらそういう話は手紙か何かにしてくれない?」
ポッターの態度に苛立ちながら、名前はバタービールのついた口元を拭った。
「こっちだって直接話しかけて欲しくないんだけど」
「私の存在なら気にしないで」
そう言って、ミランダは鞄から羊皮紙と先程買ったばかりの羽根ペンを取り出した。
「魔法史の宿題があるの。あなたたちの会話が聞こえないくらい没頭しておくわ」
黙々とレポートを書き始めたミランダに、名前とポッターたちは思わず顔を見合わせた。一瞬の沈黙の後「まあいいか」とシリウス・ブラックが肩をすくめ、声を落として言った。
「例の件だが、とりあえず明日第一回目をやろうと思う」
「明日!?」
突然の申し出に名前は手元が滑り、バタービールをこぼしそうになった。
「どうしてそう急なの!?」
「そりゃそうだよね、ごめん名前」
ポッターとブラックの間からリーマスが顔を覗かせ、腰を低くして謝った。グループ内の唯一の良心は申し訳なさの表れからか、ポッターとブラックの肩を名前から引き離すように掴んでいる。
「なんだ、何か予定でもあるのか?」
「あります!」
涼しい顔して自分を見下ろすブラックに腹を立てながら、名前はきっぱりと言い放った。明日は名前にとってホグズミードよりも大事な予定が入っている。課題を終わらせていない体で、セブルスに勉強を教えてもらうのだ。
「一日中?数時間だけでも空いてないか?」
椅子から身を離し、やや低めの姿勢でポッターがたずねた。真剣な眼差しのポッター、そしてその隣に立つリーマスを見て、名前は渋々口を開いた。
「まあ…午後なら、空いてますけど」
「よし、決まりだ!」
ポッターはパッと顔を明るくさせ、リーマスの背中を平手でバンと叩いて言った。
「じゃあ明日の14時に玄関ホールで。よろしく頼む」
「玄関ホール?そんな人目につく所で…」
去りかけるポッターのローブを引っ張り、名前は小声で叫んだ。
「それとお願いだから、セブルスの前では絶対私に話しかけないで!」
笑顔だったポッターの表情が一瞬にして曇り、彼は眼鏡の奥から嫌疑の眼差しを名前に向けた。
「スネイプ?どういう意味だ?」
「私、彼との仲をややこしくしたくないの。私があなた達に味方してるって知られたら、絶対面倒な事になる…」
「苗字。ここらではっきりさせたいんだが、君はスネイプの悪事には加担してないと信じていいんだよな?」
「ジェームズ!」
名前がポッターを睨みつけたその時、リーマスが手を広げ二人の間に割って入った。
「君が疑ってるような事は無いって何度も言ってるだろう。悪かったね名前、せっかくのバタービールを邪魔して」
「う、ううん」
リーマスに背中を押されて去っていくポッターを見つめながら、名前はジョッキに入ったバタービールを一気に飲み干した。ポッターにどう思われようが気にならないが、果たしてあれを約束として受け取って貰えたのだろうか。名前の心にもわもわとした不安が広がり始めた。
「まあ、大丈夫でしょう。きっとルーピンが今みたく止めてくれるわ」
10センチほど文字で埋まった羊皮紙から顔を上げ、ミランダが言った。
「もう終わったって捉えて良いのよね?」
「あ、うん、ごめんね」
固くなっていた表情を和らげて、名前はミランダに向き直った。
「あんな調子だもん、先が思いやられるよ…」
「男の子なんてあんなものよね」
紙とペンを鞄にしまい、温かなバタービールを飲み干してからミランダは最後の提案をした。
「ハニーデュークスでお菓子を買って帰りましょ」
ホグワーツに戻り、夜が更けてからもホグズミードで高まった興奮は中々おさまりきらなかった。名前とミランダは夕食も早々に、ハニーデュークスから持ち帰った色とりどりの菓子を8階の部屋で開封し、ああだこうだと言い合いながらちょっとしたパーティに明け暮れた。もうこのままお菓子に埋もれて寝てしまいたい。名前は心からそう願ったが、明日のセブルスとの約束がその自堕落な思想を改めさせた。門限もすっかり過ぎた頃、名前とミランダは名残惜しい思いで部屋を後にし、寮のベッドへ大人しく帰っていった。
翌日、セブルスは9時より前から図書館にいたようだった。名前が時間ぴったりに着いた頃、彼は既に奥の席で大きな書物を広げていた。名前は彼の隣にうきうきと腰掛け、白紙の羊皮紙と魔法薬学の教科書、そしてミランダから貰ったエメラルドの羽根ペンを机に出した。
「セブルス、昨日ホグズミードに行ったよね?どこ回った?」
名前の問いかけに、セブルスは本から顔を上げて気だるそうに目を細めた。ふう、とため息をつき、彼は前腕ほどもある大きな古書をバタリと閉じた。
「行ってない」
「え!?」
予想外の返答に名前は思わず叫んでしまった。少し離れた場所に立つ司書が、名前に向かって睨みをきかせた。
「い、行ってない?なんで?」
「他にやる事があったからだ」
「でも、初めてのホグズミードだよ?セブルス行ったことないでしょう?」
声をひそめながら、名前はセブルスの顔をまじまじと見た。強がりではなく、本当に興味がないといった表情だ。名前は驚きのあまり後に続く言葉を見失ってしまった。
「一生に一度しか行けないわけじゃないだろう?ホグワーツで過ごしている限り、いや、魔法使いである限りこれからいくらだって行く機会があるんだ。だから今回は別の事を優先した」
「それはそうだけど…」
納得いかない面持ちでペンの羽根先をいじりながら、名前は呟いた。
「ホグズミードを差し置いてでもやりたい事って…一体何をしてたの?」
「勉強を教えてもらう気があるのか、ないのか?」
「…あります」
セブルスを苛立たせてはいけないと、名前は仕方なく追及をやめ教科書を広げた。
「"二角獣の角の応用性に関して"…教科書に載ってるのは理解出来たけど、使われる魔法薬をひたすら書いていけばいいのかな」
教科書に記載された魔法薬の作り方を書いていく。それが名前が実際にした方法だった。もっともそうして出来上がったレポートはスラグ・クラブの会があったあの夜に捨ててしまったが。名前は期待を込めた眼差しでセブルスを見たが、彼が用意していた答えはまたしても名前の予想とは異なるものだった。
「応用性、という意味ではその教科書はダメだ。このレポートには使わない」
「えっ」
当惑する名前に、セブルスは手元にあった一冊の本を押し付けた。
「ここに二角獣の角の粉末を使った高度な魔法薬についてが書かれている。君のレベルなら…まあ、それを書き写すだけで問題ないだろう」
「うわ、いつ買ったのこんな本」
三年生には到底似つかわしくない、難解な書物だった。聞いたこともないような魔法薬の一覧が載せられており、一つの作り方も長々と数ページにわたっている。セブルスはこれを全て理解したのだろうか。その秀才っぷりに、名前は頭が下がる思いがした。
「この本の真ん中付近に…二角獣の角を有益に使う魔法薬の記述がある。ポリジュース薬だ」
「ポリジュース薬…」
セブルスが慣れた手つきでページをめくると、作業工程がひときわ複雑そうな魔法薬の章が現れた。
「これを書き写しでもしておけ。スラグホーンは君がそこに辿り着いただけでも感心するだろう」
「へえ…ありがとう」
セブルスに言われるがままに、名前はポリジュース薬の作成手順を読み始めた。理屈は分かるが、とても再現出来そうにない。あまりの難しさに本を閉じかけた名前だったが、読み進めるうちにセブルスの手書き文字が増えてきた事に気が付いた。まるで一度作った事があるような詳細なメモ書きだ。材料の"変身したい相手の一部"に関しては、その横に小さく『髪』とまで文字が書かれている。
「セブルス、これ…」
「つべこべ言わずにさっさとやれ」
セブルスの強い圧に口をつぐみ、名前は黙って本の記述を写すことにした。『二角獣の角の粉末には、ポリジュース薬での応用性が挙げられるー…』ほぼ書き写すだけの単純作業は、名前の集中力を散乱させるものだった。セブルスは隣で何をしているんだろうか。名前が来る前に読んでいた大型の古書を再び広げ、それを熱心に読み込んでいる。
課題の解決が書き写しだけと言うなら、自分に本を渡すだけで済んだだろうに。見張り番のように隣に座るセブルスの存在が、名前にはたまらなく嬉しく感じられた。
「…名前」
作業を始めて40分程経った頃、急にセブルスが口を開いた。名前はぴたりと手を止め、顔を上げてセブルスを見た。
「なに?何か間違えた?」
「あいつはー…」
声をひそめながら、セブルスはゆらりと正面を指差した。
「あいつは、何故さっきから君を見ている?」
セブルスの指の先にいたのは、小柄でぽっちゃりとしたピーター・ペティグリューだった。ペティグリューは慌ててこちらから視線を逸らし、わざとらしく本を探すふりをしてその場を誤魔化そうとしている。
「最初は僕を監視しているのかと思ったが、そうじゃない。どうやら君を見ている」
「はあ、なんだろ…」
ペティグリューが自分を見ていた理由など、名前には手に取るように分かっていた。おおかた今日の集合場所が変わっただとか、そんなような事に違いない。使いっ走り役のペティグリューが自分に伝えに来たのだろう。名前はペティグリューの下手な動きに呆れつつも、セブルスの前で話しかけないという約束を彼が守ってくれている事に感謝した。
「目障りだな」
忌々しそうにセブルスが舌打ちした。名前はペティグリューに何とかしてサインを送ろうとしたが、彼は姿を隠すのに必死で今やこちらを見ようともしない。ミランダ以外の誰かに"察しの石"を持たせたいとこれほどまでに思った事はなかった。
「まあ…何か悪さしてるわけじゃないし、ね?」
名前は急いでレポートのまとめを書き、依然ペティグリューを睨みつけたままのセブルスにそれを突きつけた。
「レポート書けたよ、どうかな?」
「ふん」
セブルスは羊皮紙を受け取って、生徒の宿題を採点する教師のような厳しい表情でそれを読み始めた。
「クサカゲロウを煮込む日数が間違っている。12日じゃない、21日だ」
「えっ」
名前は急いで本を見直し、該当の箇所を見つけてあっと声を漏らした。
「すみません…」
名前の課題が片付いてもなお、二人は席を並べて図書館に居続けた。セブルスは自習を兼ねてこの日を選んだのだろう。名前は殆どやる事が無くなり暇を持て余していたが、セブルスの隣に座っていたい一心で、適当な書物を棚から借りてきてはそれを流し読みしていた。二人が図書館を後にしたのは昼食の時間を過ぎてからだった。
「セブルスもご飯食べるでしょ?」
大広間のドアを前にして、名前は図書館から肩を並べて歩いてきたセブルスに問いかけた。彼は曖昧な返事をしたかと思うと、杖を取り出して「アクシオ」とぶっきらぼうに呼び寄せ呪文を唱えた。
「あっこら!」
遠くのテーブルからセブルスの元へと飛んできたサンドイッチを見て、名前は声を上げた。
「そんな横着しないで一緒に席で食べましょうよ!」
「いや、いい。時間が惜しい」
そう言い残し、セブルスは大広間前に群がる生徒達をかき分けて廊下の先へと行ってしまった。名前は迷いなく彼を追いかけようとしたが、後ろからローブをぐっと引っ張られ、反射的に足を止めた。
「何…あ、ああ」
振り返った先におどおどと佇むピーター・ペティグリューを見て、名前は仕方なくセブルスを追うのを諦めた。
「さっきはごめんね。セブルスの前で話しかけないでくれてありがとう」
「いや、そんなそんな。君を怒らせたら元も子もないからね」
ペティグリューは気弱な笑みを浮かべ、周囲を警戒するように見渡してから名前に言った。
「今日の集合場所なんだけど、やっぱり玄関ホールは目立つからまずいって。そこで変更後の場所を君に伝えに来たんだ」
「やっぱりね。そうだと思った」
名前はため息をつきながらたずねた。
「それで、どこなの?」
「暴れ柳の近く」
「えっ!?」
予想外の答えに名前は目を丸くしてペティグリューを見た。ペティグリューはびくっと体を丸め、名前を直視せずに小声で呟いた。
「行けば分かるから、大丈夫。それじゃ」
「待って待って、だってあそこは立ち入り禁止になったんじゃ…」
名前はペティグリューに詳しい訳を聞こうとしたが、彼はその場からネズミのように素早く立ち去ってしまった。
名前は一人頭を抱え、暴れ柳に関して自分の知る限りの事を思い出していた。少し前に生徒が怪我をして、それ以来近付くのは禁止になった事。そしてリーマスが満月の夜、あの木からホグズミードに出入りしているらしいという事…。
「…アクシオ」
嫌な予感を残したまま、名前は飛んできたサンドイッチを手に取り、重たい足取りで一人校庭へと向かった。
「休暇以外でホグワーツの外に出るなんて、何だか変な感じ」
馬のいない馬車に乗り込みながら、名前はほころぶ顔を引き締めようと澄まして言った。隣に座るミランダの落ち着きっぷりを見ている内に、興奮を表に出すのが恥ずかしくなってきたのだ。
「名前、もっと目に見えてワクワクしていいのよ」
笑いながら、まるで母親のような口ぶりでミランダが言った。
「見てごらんなさいな、私たちの後ろの集団。あれくらい素直に騒いだって問題ないわ」
ミランダが指差した先では、ジェームズ・ポッターとその仲間達が歓声を上げながら後方の馬車めがけて走り寄ってくる所だった。名前の「うわっ」という嫌悪の声を合図にするかのように、二人を乗せた馬車は馬なしのままガタガタと走り始めた。
「男の子って…特にグリフィンドールのあの三人って、何であんなに馬鹿なんだろう」
遠ざかっていくポッターたちの笑い声を背に受けながら、名前は呆れた表情でため息をついた。後方の馬車からは立て続けに杖火花が上がり、ちょっとした花火大会になっている。
「あら、あの子達はとっても成績優秀って聞いてるけど」
そう言って、ミランダは後続の馬車を振り返るように窓からひょいと顔を出した。
「それにあのお仲間は全部で四人だと思ってたけど。リーマス・ルーピンだけは例外なのね?」
「彼は思慮深いし、問題児でもないから。正直どうしてポッターたちと仲良くしてるのか…もっと良いグループがあるはずなのに」
ミランダにそう告げたものの、名前は自分の言葉に大きな嘘があると分かっていた。ある意味ではリーマスが一番の問題児と言えるのかもしれない。それに彼と仲間たちが深い友情で繋がっている事も理解している。リーマスの秘密を知って以来、名前の中ではポッター達の印象が僅かながらに変わりつつあった。
「大切な事って、目には見えないわね」
意味深な呟きを残して、ミランダは馬車の進む先へと向き直った。ミランダに秘密を隠し通すことは難しい。彼女自身もそれを理解した上で、表向きの会話に付き合ってくれているのだろう。自分たちにだってポッターたちに負けず劣らずの友情がある。名前は一人誇らし気に笑みを浮かべた。
馬車は秋の森を走り抜け、ホグズミード駅のそばで停車した。ここまでは最早見慣れた景色だ。名前はミランダと馬車を降りながら、待望のホグズミード村へと駆けていく生徒たちに続いた。ホグワーツ特急へ向かう際とは逆の方向に歩みを進める新鮮さと、その行く手に待つ未知への期待に名前の胸は大きく高鳴り始めた。そしてホグズミードの入口へ辿り着いた瞬間、名前のポーカーフェイスはとうとう維持しきれないものとなった。
「すごい…!」
目の前に広がる非日常の光景に名前は思わず声を上げた。道の両脇にコテージが並び、遠目からでもカラフルな店で溢れているのが分かる。まるでおしゃれな絵本から飛び出てきたような村だ。目を輝かせる名前の隣で、ミランダが満足そうに微笑んだ。
「そうそう、そうこなくっちゃ。さあ名前、ここからは本来のあなたを解放して、思いっきり楽しむわよ」
ミランダはまず『ゾンコのいたずら専門店』へ名前を連れて行った。「何かお腹に入れる前に行っておいた方がいいから」とミランダが言った理由は、その店に入ってすぐに分かった。あちらこちらに危険ないたずら道具が並べられている。棚に陳列されたティーカップが突然、客の手にしていたキャンディを噛み砕き始めたのを見て名前は呆気にとられた。こんな店には今まで入った事がない。
「なかなか刺激的でしょ?」
噛みつきフリスビーの入った箱を上下に軽く振りながらミランダが言った。その傍らでは『実演』として、噛みつきフリスビーが透明のショーケースの中で暴れまわっている。今にもケースを破壊しかねない勢いだ。
「ミランダ、それ買うの?」
「いいえ、まさか。こんなのホグワーツに着いた途端没収よ」
ミランダは箱を陳列棚に戻してから、実演のフリスビーが閉じ込められているショーケースを指でコンコンと叩いた。
「でも面白い発想よね…こういう珍しい商品から学ぶものは沢山あるわ」
ショーケースを隔ててミランダの指に噛み付こうとするフリスビーにたじろぎながら、名前はもう少し安全で愉快な物を探そうと身を翻した。しかし視線の先に噛みつきフリスビーよりも顔を青くさせる危険因子を見つけ、名前は慌ててミランダの手を掴んだ。ポッターたちが店内に入ってきたのだ。
「ミランダ、もう行こう」
名前はポッターたちの視界から逃れるように身を屈め、ミランダの背中を押しながら早々にゾンコを後にした。しかし背の高いシリウス・ブラックの視界は人一倍広かったようで、名前に気付いた彼は「おい」と声を掛けてきた。名前はそれに気付かないふりをして、店のドアを急いで閉めた。
「彼らの事、避けてるのね?」
ゾンコから早足で遠ざかり、数軒の店を通過した先でミランダがたずねた。
「そうだよ」
冷たい風が吹く通りで冷や汗を流しながら名前は答えた。
「考えてもみてよ。私が彼らと話してる所を、もしセブルスに見られでもしたら…」
「それはそうね」
ミランダは顎に手を当て納得した様子で言った。
「他のスリザリン生でも…いえ、どの寮の生徒でもダメね。あっという間に噂になるわ」
「でしょ?」
後ろにそれらしい影がないか振り返りつつ、名前はため息をついた。
「なのに向こうは全く分かってないんだから…。ほんとデリカシーがないっていうか、思慮浅いっていうか…」
「声を掛けてもらいたくないなら早く言わないと。あなた達、これから定期的に集まるんでしょ?彼はその事で何か言いたそうだったわよ」
名前は目を丸くしてミランダを見た。その顎に当てられた白い手には、今日も石の指輪がびっしりと嵌められている。
「そんな事まで"分かって"たの?」
名前は冷え切った頭を抱え、小さく呻くように言った。
「最近のあなた、思い悩みすぎて心の声がしょっちゅう漏れてたから」
ミランダは素知らぬ顔でそっぽを向き、次なるお目当ての店へと歩き出した。
「いずれにせよ、早く彼らと話した方がいいわよ。スネイプといる時に声をかけられるより前にね」
二番目に訪れた店はミランダお気に入りの羽根ペン専門店だった。定番の雉羽根のほか、孔雀など珍しい種類が所狭しと並べられている。価格帯も様々で、大きな宝石がはめ込まれた高級羽根ペンは魔法のケースに入れられて厳重に保管されていた。
「昔、あなたに羽根ペンを贈ったの覚えてる?」
七色に輝く羽根ペンを手に取りながら、ミランダがたずねた。
「これ可愛いわね…あなたに贈ったのはもう少しシンプルだったけど」
「私が一年生の時、クリスマスにプレゼントしてくれたペンでしょ?今でも使ってるよ」
「あれ、ここで買ったのよ」
「そうだったんだ」
名前は改めて店内をぐるりと見渡した。二年前、ミランダから貰った羽根ペンは鮮やかなエメラルド色だった。棚の中段に並ぶ羽根ペンの列に似たようなデザインの物を見つけて、名前は目を凝らした。『12ガリオン』と書かれている。名前は気まずい面持ちで高級羽根ペンたちから離れ、『おつとめ品』と書かれた樽のコーナーへそそくさと向かった。
名前が"天気と同じ色に変わる羽根ペン"を見ている間に、ミランダは七色羽根ペンの会計を済ませてきたようだった。二人は店を出て、暖かい屋内で小腹を満たす事にした。
「スネイプは来てないの?」
次なる目的地への道を歩きながら、ミランダが名前にたずねた。ホグズミードは通りも店も見渡す限り、どこもホグワーツ生でいっぱいだ。
「さすがに来てると思うよ。私たち三年生にとっては初めてのチャンスだもの」
名前はセブルスの姿を探してきょろきょろと辺りを見回した。先週はスラグ・クラブの夕食会へ彼を連れて行けた事に満足しきって、ホグズミードの話をするのをすっかり忘れていた。セブルスの事だ、きっと一人で行動しているに違いない。リリーはグリフィンドールの友人と過ごしているはずだ。
しかし、もしリリーがセブルスを誘ったとしたら…?ふとした疑念が名前の脳裏をよぎった。この幸福に満ちた空間で、自分は二人が並んで歩く姿を目にすることになるのだろうか。そんな時、自分はどんな表情で二人に手を振ればいいだろう。
「次は一緒に行くよう誘ってみたら?」
地面に視線を落としたままの名前を覗き込んで、ミランダが言った。
「例年通りならクリスマス休暇前にチャンスがあるはずよ」
「でも…ミランダは行かないの?」
恐らく自分の不安を彼女は全て読み取ったのだろう。そう分かりつつも、名前はたずねた。
「ホグズミードにおける私の事なら気にしないで。実は"お客さん"が住んでるの」
「お客さん?」
「そうそう。今日は勿論行かないけどね。今までは一人でその人の所に行ってたの」
「ああ、だから」
昨年度の思い出が蘇り、名前はぽんと手を打った。
「だからこの間の夏休み、ホグズミードに寄るって言ってたの?」
「鋭いわね」
名前の推理にミランダは笑顔で頷いた。
「お話程度だったら私一人で行くんだけどね。あの時はちょっと大事な"商談"があったから、家族と一緒にホグズミードに滞在してたの」
「へえー…」
そのあまりにも大人な発言に、名前は感心して言葉を失ってしまった。
「何にせよ、スネイプと来たらあの店にでも立ち寄るといいわよ」
名前は顔を上げてミランダの指差す先を見た。やりすぎな程ピンクに包まれた店が存在感たっぷりに建っている。店の窓はフリルで飾られ、少女趣味なカップやソーサーがいくつも並べられていた。
「うわーーー」
引きつった笑顔を浮かべながら、名前はミランダにだけ聞こえる大きさで声を上げた。ちょうどホグワーツ生のカップルが身を寄せ合いながら出てきた所だった。
「あんな所入ろうなんて言ったら殺されちゃうよ」
「でしょうね」
おかしそうに笑いながら、ミランダは名前の手を引っ張った。
「ここの方がずっと良いと思うわよ」
ミランダが『三本の箒』のドアを開くと、中から暖かな空気が流れ出し名前の冷えた鼻先を撫でるようにほぐした。柱木の香りと菓子の甘い匂いが合わさり、どこか懐かしい居心地の良さを感じさせる。三本の箒は今まで入ったホグズミードのどの店よりも人でいっぱいだった。ホグワーツ生以外の客も大勢いる。名前とミランダは店の奥の二人席に座り、名物のバタービールが運ばれて来るのを待った。
「これがバタービールか〜!」
モコモコの白い泡で髭を作りながら、名前は目を閉じてその美味しさを存分に味わった。じんわりと広がる甘みが疲れを吹き飛ばし、体の芯から温まるようだ。周りの誰もが注文する理由に納得しつつ、名前は幸せたっぷりに息をついた。
「ホグズミードって素敵だね…ホグワーツでも毎日バタービールが飲めたらいいのにな」
「持ち帰りも出来るわよ」
名前と同じように泡の髭を生やしながら、ミランダは椅子を背に振り返り店内を見渡した。
「バタービールは瓶でも売ってるから。確かカウンターの辺りに…あら、あらあら」
ミランダの視線の先を見た途端、名前はバタービールをむせ込みそうになった。ジェームズ・ポッターを先頭にグリフィンドールの四人がこちらへやって来る。名前は慌てて周囲を見渡した。もはや逃れることは出来ない。幸いにして三本の箒にセブルスの姿は無かった。
「苗字、例の件で伝えたい事があって来た」
二人の座るテーブルに近づくやいなや、ポッターは馴れ馴れしく椅子に寄りかかって言った。
「あー…お友達に聞かれると、その、あんまり都合が良くないな」
「だったらそういう話は手紙か何かにしてくれない?」
ポッターの態度に苛立ちながら、名前はバタービールのついた口元を拭った。
「こっちだって直接話しかけて欲しくないんだけど」
「私の存在なら気にしないで」
そう言って、ミランダは鞄から羊皮紙と先程買ったばかりの羽根ペンを取り出した。
「魔法史の宿題があるの。あなたたちの会話が聞こえないくらい没頭しておくわ」
黙々とレポートを書き始めたミランダに、名前とポッターたちは思わず顔を見合わせた。一瞬の沈黙の後「まあいいか」とシリウス・ブラックが肩をすくめ、声を落として言った。
「例の件だが、とりあえず明日第一回目をやろうと思う」
「明日!?」
突然の申し出に名前は手元が滑り、バタービールをこぼしそうになった。
「どうしてそう急なの!?」
「そりゃそうだよね、ごめん名前」
ポッターとブラックの間からリーマスが顔を覗かせ、腰を低くして謝った。グループ内の唯一の良心は申し訳なさの表れからか、ポッターとブラックの肩を名前から引き離すように掴んでいる。
「なんだ、何か予定でもあるのか?」
「あります!」
涼しい顔して自分を見下ろすブラックに腹を立てながら、名前はきっぱりと言い放った。明日は名前にとってホグズミードよりも大事な予定が入っている。課題を終わらせていない体で、セブルスに勉強を教えてもらうのだ。
「一日中?数時間だけでも空いてないか?」
椅子から身を離し、やや低めの姿勢でポッターがたずねた。真剣な眼差しのポッター、そしてその隣に立つリーマスを見て、名前は渋々口を開いた。
「まあ…午後なら、空いてますけど」
「よし、決まりだ!」
ポッターはパッと顔を明るくさせ、リーマスの背中を平手でバンと叩いて言った。
「じゃあ明日の14時に玄関ホールで。よろしく頼む」
「玄関ホール?そんな人目につく所で…」
去りかけるポッターのローブを引っ張り、名前は小声で叫んだ。
「それとお願いだから、セブルスの前では絶対私に話しかけないで!」
笑顔だったポッターの表情が一瞬にして曇り、彼は眼鏡の奥から嫌疑の眼差しを名前に向けた。
「スネイプ?どういう意味だ?」
「私、彼との仲をややこしくしたくないの。私があなた達に味方してるって知られたら、絶対面倒な事になる…」
「苗字。ここらではっきりさせたいんだが、君はスネイプの悪事には加担してないと信じていいんだよな?」
「ジェームズ!」
名前がポッターを睨みつけたその時、リーマスが手を広げ二人の間に割って入った。
「君が疑ってるような事は無いって何度も言ってるだろう。悪かったね名前、せっかくのバタービールを邪魔して」
「う、ううん」
リーマスに背中を押されて去っていくポッターを見つめながら、名前はジョッキに入ったバタービールを一気に飲み干した。ポッターにどう思われようが気にならないが、果たしてあれを約束として受け取って貰えたのだろうか。名前の心にもわもわとした不安が広がり始めた。
「まあ、大丈夫でしょう。きっとルーピンが今みたく止めてくれるわ」
10センチほど文字で埋まった羊皮紙から顔を上げ、ミランダが言った。
「もう終わったって捉えて良いのよね?」
「あ、うん、ごめんね」
固くなっていた表情を和らげて、名前はミランダに向き直った。
「あんな調子だもん、先が思いやられるよ…」
「男の子なんてあんなものよね」
紙とペンを鞄にしまい、温かなバタービールを飲み干してからミランダは最後の提案をした。
「ハニーデュークスでお菓子を買って帰りましょ」
ホグワーツに戻り、夜が更けてからもホグズミードで高まった興奮は中々おさまりきらなかった。名前とミランダは夕食も早々に、ハニーデュークスから持ち帰った色とりどりの菓子を8階の部屋で開封し、ああだこうだと言い合いながらちょっとしたパーティに明け暮れた。もうこのままお菓子に埋もれて寝てしまいたい。名前は心からそう願ったが、明日のセブルスとの約束がその自堕落な思想を改めさせた。門限もすっかり過ぎた頃、名前とミランダは名残惜しい思いで部屋を後にし、寮のベッドへ大人しく帰っていった。
翌日、セブルスは9時より前から図書館にいたようだった。名前が時間ぴったりに着いた頃、彼は既に奥の席で大きな書物を広げていた。名前は彼の隣にうきうきと腰掛け、白紙の羊皮紙と魔法薬学の教科書、そしてミランダから貰ったエメラルドの羽根ペンを机に出した。
「セブルス、昨日ホグズミードに行ったよね?どこ回った?」
名前の問いかけに、セブルスは本から顔を上げて気だるそうに目を細めた。ふう、とため息をつき、彼は前腕ほどもある大きな古書をバタリと閉じた。
「行ってない」
「え!?」
予想外の返答に名前は思わず叫んでしまった。少し離れた場所に立つ司書が、名前に向かって睨みをきかせた。
「い、行ってない?なんで?」
「他にやる事があったからだ」
「でも、初めてのホグズミードだよ?セブルス行ったことないでしょう?」
声をひそめながら、名前はセブルスの顔をまじまじと見た。強がりではなく、本当に興味がないといった表情だ。名前は驚きのあまり後に続く言葉を見失ってしまった。
「一生に一度しか行けないわけじゃないだろう?ホグワーツで過ごしている限り、いや、魔法使いである限りこれからいくらだって行く機会があるんだ。だから今回は別の事を優先した」
「それはそうだけど…」
納得いかない面持ちでペンの羽根先をいじりながら、名前は呟いた。
「ホグズミードを差し置いてでもやりたい事って…一体何をしてたの?」
「勉強を教えてもらう気があるのか、ないのか?」
「…あります」
セブルスを苛立たせてはいけないと、名前は仕方なく追及をやめ教科書を広げた。
「"二角獣の角の応用性に関して"…教科書に載ってるのは理解出来たけど、使われる魔法薬をひたすら書いていけばいいのかな」
教科書に記載された魔法薬の作り方を書いていく。それが名前が実際にした方法だった。もっともそうして出来上がったレポートはスラグ・クラブの会があったあの夜に捨ててしまったが。名前は期待を込めた眼差しでセブルスを見たが、彼が用意していた答えはまたしても名前の予想とは異なるものだった。
「応用性、という意味ではその教科書はダメだ。このレポートには使わない」
「えっ」
当惑する名前に、セブルスは手元にあった一冊の本を押し付けた。
「ここに二角獣の角の粉末を使った高度な魔法薬についてが書かれている。君のレベルなら…まあ、それを書き写すだけで問題ないだろう」
「うわ、いつ買ったのこんな本」
三年生には到底似つかわしくない、難解な書物だった。聞いたこともないような魔法薬の一覧が載せられており、一つの作り方も長々と数ページにわたっている。セブルスはこれを全て理解したのだろうか。その秀才っぷりに、名前は頭が下がる思いがした。
「この本の真ん中付近に…二角獣の角を有益に使う魔法薬の記述がある。ポリジュース薬だ」
「ポリジュース薬…」
セブルスが慣れた手つきでページをめくると、作業工程がひときわ複雑そうな魔法薬の章が現れた。
「これを書き写しでもしておけ。スラグホーンは君がそこに辿り着いただけでも感心するだろう」
「へえ…ありがとう」
セブルスに言われるがままに、名前はポリジュース薬の作成手順を読み始めた。理屈は分かるが、とても再現出来そうにない。あまりの難しさに本を閉じかけた名前だったが、読み進めるうちにセブルスの手書き文字が増えてきた事に気が付いた。まるで一度作った事があるような詳細なメモ書きだ。材料の"変身したい相手の一部"に関しては、その横に小さく『髪』とまで文字が書かれている。
「セブルス、これ…」
「つべこべ言わずにさっさとやれ」
セブルスの強い圧に口をつぐみ、名前は黙って本の記述を写すことにした。『二角獣の角の粉末には、ポリジュース薬での応用性が挙げられるー…』ほぼ書き写すだけの単純作業は、名前の集中力を散乱させるものだった。セブルスは隣で何をしているんだろうか。名前が来る前に読んでいた大型の古書を再び広げ、それを熱心に読み込んでいる。
課題の解決が書き写しだけと言うなら、自分に本を渡すだけで済んだだろうに。見張り番のように隣に座るセブルスの存在が、名前にはたまらなく嬉しく感じられた。
「…名前」
作業を始めて40分程経った頃、急にセブルスが口を開いた。名前はぴたりと手を止め、顔を上げてセブルスを見た。
「なに?何か間違えた?」
「あいつはー…」
声をひそめながら、セブルスはゆらりと正面を指差した。
「あいつは、何故さっきから君を見ている?」
セブルスの指の先にいたのは、小柄でぽっちゃりとしたピーター・ペティグリューだった。ペティグリューは慌ててこちらから視線を逸らし、わざとらしく本を探すふりをしてその場を誤魔化そうとしている。
「最初は僕を監視しているのかと思ったが、そうじゃない。どうやら君を見ている」
「はあ、なんだろ…」
ペティグリューが自分を見ていた理由など、名前には手に取るように分かっていた。おおかた今日の集合場所が変わっただとか、そんなような事に違いない。使いっ走り役のペティグリューが自分に伝えに来たのだろう。名前はペティグリューの下手な動きに呆れつつも、セブルスの前で話しかけないという約束を彼が守ってくれている事に感謝した。
「目障りだな」
忌々しそうにセブルスが舌打ちした。名前はペティグリューに何とかしてサインを送ろうとしたが、彼は姿を隠すのに必死で今やこちらを見ようともしない。ミランダ以外の誰かに"察しの石"を持たせたいとこれほどまでに思った事はなかった。
「まあ…何か悪さしてるわけじゃないし、ね?」
名前は急いでレポートのまとめを書き、依然ペティグリューを睨みつけたままのセブルスにそれを突きつけた。
「レポート書けたよ、どうかな?」
「ふん」
セブルスは羊皮紙を受け取って、生徒の宿題を採点する教師のような厳しい表情でそれを読み始めた。
「クサカゲロウを煮込む日数が間違っている。12日じゃない、21日だ」
「えっ」
名前は急いで本を見直し、該当の箇所を見つけてあっと声を漏らした。
「すみません…」
名前の課題が片付いてもなお、二人は席を並べて図書館に居続けた。セブルスは自習を兼ねてこの日を選んだのだろう。名前は殆どやる事が無くなり暇を持て余していたが、セブルスの隣に座っていたい一心で、適当な書物を棚から借りてきてはそれを流し読みしていた。二人が図書館を後にしたのは昼食の時間を過ぎてからだった。
「セブルスもご飯食べるでしょ?」
大広間のドアを前にして、名前は図書館から肩を並べて歩いてきたセブルスに問いかけた。彼は曖昧な返事をしたかと思うと、杖を取り出して「アクシオ」とぶっきらぼうに呼び寄せ呪文を唱えた。
「あっこら!」
遠くのテーブルからセブルスの元へと飛んできたサンドイッチを見て、名前は声を上げた。
「そんな横着しないで一緒に席で食べましょうよ!」
「いや、いい。時間が惜しい」
そう言い残し、セブルスは大広間前に群がる生徒達をかき分けて廊下の先へと行ってしまった。名前は迷いなく彼を追いかけようとしたが、後ろからローブをぐっと引っ張られ、反射的に足を止めた。
「何…あ、ああ」
振り返った先におどおどと佇むピーター・ペティグリューを見て、名前は仕方なくセブルスを追うのを諦めた。
「さっきはごめんね。セブルスの前で話しかけないでくれてありがとう」
「いや、そんなそんな。君を怒らせたら元も子もないからね」
ペティグリューは気弱な笑みを浮かべ、周囲を警戒するように見渡してから名前に言った。
「今日の集合場所なんだけど、やっぱり玄関ホールは目立つからまずいって。そこで変更後の場所を君に伝えに来たんだ」
「やっぱりね。そうだと思った」
名前はため息をつきながらたずねた。
「それで、どこなの?」
「暴れ柳の近く」
「えっ!?」
予想外の答えに名前は目を丸くしてペティグリューを見た。ペティグリューはびくっと体を丸め、名前を直視せずに小声で呟いた。
「行けば分かるから、大丈夫。それじゃ」
「待って待って、だってあそこは立ち入り禁止になったんじゃ…」
名前はペティグリューに詳しい訳を聞こうとしたが、彼はその場からネズミのように素早く立ち去ってしまった。
名前は一人頭を抱え、暴れ柳に関して自分の知る限りの事を思い出していた。少し前に生徒が怪我をして、それ以来近付くのは禁止になった事。そしてリーマスが満月の夜、あの木からホグズミードに出入りしているらしいという事…。
「…アクシオ」
嫌な予感を残したまま、名前は飛んできたサンドイッチを手に取り、重たい足取りで一人校庭へと向かった。