第一部
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週明けの朝、名前は覚悟を決めて朝食の席に臨んでいた。ジェームズ・ポッターに動物もどきである事を知られた。スリザリンを過剰なほど敵対視する彼が、垣間見た秘密を周囲に言いふらさない筈がない。きっと大広間に足を踏み入れた瞬間、生徒たちの探るような視線やひそひそ声を浴びることになるだろう。名前は出来るだけ周りを見ないよう努めながら、さっと大広間に入り出口に近いテーブルの隅に腰を下ろした。しかし意外な事に囁き声はひとつも聞こえてこない。名前はコソコソと辺りを見渡した。そして予想に反して、自分に向けられている視線が全く無いことに目を見張った。
名前に対するポッターの態度が急変した事に気付いたのは翌日の昼休みだった。名前が変身の成功を伝えるべき最後の一人、リリーと並んで昼食をとっていた時のことである。誰かに盗み聞きされる事の無いよう、名前はあらかじめ人気の少ない廊下を選んだつもりだった。そんな場所の中でも更に人目につきにくい、影に隠れたようなベンチに名前とリリーは座っていた。しかしどこから聞きつけたのか、二人の前に突然ポッターが現れたのである。
「やあ、エバンズ、苗字。奇遇だね」
「名前、行きましょ」
ポッターの顔を見るやいなや、リリーは名前の手を掴んで立ち上がった。
「待ってくれよ、ちょっと苗字と話したい事があるんだ」
慌てて立ちはだかるポッターに、リリーはつんと目を吊り上げた。
「名前はいま私と大事な話をしてるの。人をからかってばかりのあなたと話してる暇なんてないの」
「今までの事は悪かったと思ってる!」
ポッターのあまりに必死な様子に、名前とリリーは思わず目を見合わせた。こんなに余裕のない彼を見るのは初めてだ。
「頼む、苗字。教えて欲しいんだ」
息を切らさんばかりの勢いで、ポッターは名前に顔をぴったりと近付けて言った。
「今まで君にした無礼は謝るし、今後も君をからかうなんて事は一切しない。そうだ、金が欲しいならいくらでも払う…」
宿敵から発せられた言葉の数々に名前は目を丸くした。金?天下のポッターが、なぜここまで必死に自分を追いかけて来るのだろう。名前は彼に向かって口を開きかけたが、その瞬間リリーが名前の腕をぐっと引っ張り、逃げるようにその場から連れ去ろうとした。
「待てってば!別に悪さしようと思ってるわけじゃないんだ!」
「当たり前でしょう!」
行く手を塞ぐポッターに苛立ちながら、リリーが名前の代わりに答えた。
「とにかく名前はあなたの誘いになんか乗りません。名前、相手にしちゃダメよ」
セブルスと同じような事を言う。そんな風に思いながら、名前はリリーに手を引かれるがままに廊下を後にした。ポッターはしつこく追いかけてきたが、周りに段々と増えていく生徒たちに気付き、渋々諦めたようだった。
動物もどきの成功以後、名前への態度が変わったのはポッターだけではなかった。魔法薬学の授業終わり、散らかりきった机の片付けをする名前の元にスラグホーンがいそいそとやって来て、にっこりと微笑みながら一枚のカードを差し出してきたのだ。スリザリンの寮監は、自寮に一晩にして50点が付与された理由をよく知っていた。
「ハロウィン前にちょっとした食事会をする予定でね。名前、君にもぜひ来て欲しい」
「ありがとうございます…」
白地に日時の書かれたカードを受け取りながら、これがあのスラグクラブへの招待状かと名前は息を飲んだ。
「ここだけの話だが」
そう前置きして、スラグホーンは名前に小声で囁いた。
「寮監として、君の事を大変誇らしく思う。もし良ければ、近いうちに変身を見せてくれないかね。もちろん他の生徒には秘密だがー…」
背後でガタッと音がし、名前は思わず振り返った。セブルスが立ち上がって教室から出て行くところだった。名前はスラグホーンに向き直り、招待状を掲げながら彼にたずねた。
「これ、セブルスも来ますか?」
「ん?ああ、彼にも声は掛けているがね」
スラグホーンはやれやれという仕草でため息をついた。
「どうもこういう集まりが好きではないらしい。もう少し社交的な性格であればね…」
「そうですか…」
名前は目線を下げ、招待状に記された文字をもう一度見た。開催日時までの時間がカウントダウンされる仕組みのようだ。
「そうそう、君はリリーと仲が良かったはずだ。彼女と一緒に来なさい」
名案だとばかりにスラグホーンの顔がぱっと明るくなった。名前は曖昧に返事をしてから招待状をポケットにしまい、スラグホーンに不自然なほど温かく見守られながら教室を後にした。
今まで名前もろくに覚えらえていなかったのに。ひんやりとした地下を歩きながら、名前はここ数日ですっかり変わってしまった二人に違和感を覚えずにはいられなかった。
「ねえ、セブルスはスラグホーン先生の会に行かないの?」
夕食後の踊り場で運良くセブルスを捕まえ、名前は例の招待状をちらつかせながら彼にたずねた。
「行かない」
ぶっきらぼうにそう答え、セブルスは立ち止まるでもなく名前の前から去ろうとした。
「待って待って」
いつものようにセブルスを追い掛けながら、名前は逃がすまいとその腕をつかんだ。
「私、一度も行ったことないからちょっと不安で…セブルスが一緒に来てくれたら安心なんだけど」
「僕である必要はないだろう」
眉間にしわを寄せながら、セブルスは更にペースを速めて歩き出した。
「君の周りなら、他にも参加者がいるはずだ」
「えっ…まあ、どうしてもダメならリリーに頼ろうとは思ってるけど」
セブルスの早足に必死で追い付きつつ、名前は言い訳がましく言葉を並べた。
「でもリリーもグリフィンドールの誰かと来るんじゃないかな?私、リリーの寮の友達にはあんまり良く思われてないみたいで…」
「そんな馬鹿たちは招待されないはずだ」
「セブルスってば、何でそんなに行きたくないの?」
曲がり角で隠れるように身を屈めたセブルスの腕を名前は両手で引っ張った。
「スラグホーン先生の会ってそんなにつまらないの?」
「いいや、気絶するほど面白いさ」
セブルスの適当な言い分に名前は追究する事を諦め、ぱっと手を放した。いつの間にか馴染みのない通路に出ていた。図書館へ続く廊下でも、談話室にたどり着くための近道でもない。
「…セブルス、どこに行くの?」
眉をひそめながら、名前は彼に問いかけた。
「それ以上何も聞くな」
セブルスは初めて足を止め、名前を振り返って言った。
「やる事があるんだ。君だって秘密裏に変身を練習してただろう。それと同じだ」
名前は腕を組み、懐疑的な目でセブルスを見た。新学期初日の夜に湖のほとりで遭遇した事や、先日のポッターとの喧嘩がふと頭をよぎったのだ。セブルスは何か企んでいるに違いない。恐らく、良くない事だろう。
「…うん、まあ」
地面に視線を落とし、名前は渋々頷いた。
「悪さしてる訳じゃないならいいけど…ただ私、気になってるんだよね。新学期の日にミランダがあなたに言ったでしょ、何か知らないけどやめた方がいい、みたいな…」
しかし名前が顔を上げた先では、既にセブルスは姿を消していた。名前は苦々しい思いで廊下の先をじっと見つめた後、身を翻して元来た道を歩き出した。
白い石壁に囲まれた廊下は寒々しく、ゴーストさえも見当たらない。しかし数メートル進んだ辺りで、どこからかヒソヒソと囁き合う声が聞こえてきた。周囲には誰もいない。気のせいだろうか。ホグワーツにいれば不可解な出来事などしょっちゅうだ。名前は頭を横に振って、城の中央部へ続く道を曲がろうとした。しかしそこで名前は先の囁き声の正体を知ることとなった。
「わっ!!」
目の前に壁のようにして現れた男子生徒に驚いて、名前は思わず叫び声をあげた。ポッター、ブラック、ペティグリューの三人衆だ。
「シーッ、苗字、悪いけど君をつけてたんだ」
人差し指を唇に当てながら、真ん中に立つポッターが小声で言った。
「人がいない所で話したい事がある。ここならチャンスだ。頼む、本気のお願いなんだ」
「一体何なの?」
後をつけられていた不快感よりも、不気味なほど低姿勢なポッターへの興味が名前の中で僅かに勝った。ポッターは辺りに人がいないことを確認して、名前の耳元に囁いた。
「動物もどきになる方法を教えてほしい」
衝撃のあまり、名前は目を見開いたまま石のように固まってしまった。考え得る中で最も愚かな質問だが、ポッターの顔は真剣そのものだ。名前は信じられない思いで彼を見つめ、答えをきっぱりと口にした。
「ダメ。何がどうあろうと、絶対にダメ」
「だから言っただろ、ジェームズ」
ポッターと名前の間に割って入るようにして、背の高いシリウス・ブラックがひょいと顔を覗かせた。
「俺達がそうなる必要性について話さないと、やっこさん永遠に承諾してくれないぜ」
「分かってる、分かってる。でもどこまで話して良いやら…」
ジェームズは困り顔のまま、頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「苗字、僕たちはある重大な目的の為に動物もどきになりたいんだ」
「何なの?」
名前の問いに、三人は神妙な面持ちでお互いの顔を見合った。長い沈黙の後、重々しく口を開いたのはポッターだった。
「その…友達の為なんだ。大事な友達の手助けをしてやりたいんだ」
「何の手助け?」
「ダメだ、言えない!」
名前の質問を突き飛ばすかのように、ポッターはブラックに向かって小声のまま叫んだ。
「僕たちからは言えない、そうだろう?」
ブラックはポッターを押しのけ、名前の前に身を乗り出して言った。
「俺たちの友達が…その、体調が良くない時があるんだ。定期的にね」
ブラックは涼しい顔をしつつも、その詳細を悟られまいと慎重に言葉を選んでいるようだった。
「奴は体調を崩すと自分をうまくコントロール出来なくて…それを恥じているし、そのせいで心の奥に孤独を抱えている。だから俺たちは…そんな時、奴のそばにいてあげたいんだ」
「いればいいじゃない」
話の内容が全く見えてこず、眉根にシワを寄せながら名前は彼らにたずねた。
「それと動物もどきが、何の関係があるっていうの?」
名前の三度目の質問に、彼らは再び黙りこくってしまった。もっとも端にいるピーター・ペティグリューは一度も言葉を発していないが。名前はブラックの話を頭の中で整理しながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「まさか…あなた達の友達って、動物なの?」
三人の表情が一瞬ぎくりとこわばったように見えた。ポッターが「どうする」とブラックに囁き、ブラックが顔をしかめながら首を傾げるのを、名前は不審な気持ちで眺めていた。
「まあ…そうだ、そうだな、うん…そういう事にさせてくれ」
悩ましげに腕を組みながら、ブラックが言った。
「ここで本題だ。動物もどきになる方法を教えてくれ」
「ダメに決まってるでしょ、そんな訳の分からない理由で」
なおも隠し事を続ける彼らに、名前は首を振って答えた。
「そもそも動物もどきは安易に習得する魔法じゃないの。すごく難しいし、もちろん悪さはしちゃいけない。魔法省に登録だってするんだから」
「魔法省に登録?」
目をメガネと同じくらい丸くしながら、ポッターが素っ頓狂な声を上げた。
「そうか、まいったな…いや、分かってるよそんな事。僕たちは色々と覚悟の上だ」
「悪いけど、私には全くそう聞こえない」
名前は強い信念のもと、断固として申し出を拒否した。
「私は変身術のNEWT試験もパスした上で、本当に毎日努力したの。あなた達のふわふわした理由には全然共感できないし、動物もどきと真剣に向きあってるとも思えないわ」
ブラックは深くため息をつき、諦めたようにポッターの肩を叩いた。しかしポッターは引き下がらなかった。彼は人目を避けている事も忘れ、最後の望みを託すかのように声を張り上げた。
「頼む!苗字、教えてくれたら君の要求も僕たちが叶える。何だっていい。それくらい本気なんだ」
あの傲慢ちきのポッターが、今こうして自分の目の前で膝を折らんばかりに懇願している。それを思うと名前は複雑な気持ちだった。自分こそ王だと信じきっているであろうポッターが、これ程までにプライドを捨てる理由とは何なのか。
「何でも?私の要求、何でも叶えてくれるの?」
名前の言葉に、ポッターはごくりと唾を飲んだ。その目からは並ならぬ覚悟が感じられるようだった。
「ああ、何でも」
額に汗すら浮かべるポッターの顔を探るように見つめ、とうとう名前は今まで言いたくて仕方なかった事を口にした。
「じゃあ、セブルスに今後一切手出しをしないで」
「それは出来ない!!」
その勢いあまる即答に、名前は驚いてよろめきそうになった。ポッターを試すはずの発言が、威力を増して自分に跳ね返ってきたかのようだ。
「え…」
「悪いが、それだけは出来ない。目の前で起きてる犯罪を見過ごせと言ってるようなもんだ」
ポッターの言葉に名前は堪忍袋の緒が切れるのを感じた。何と酷い言い方をするのだろう。名前は反論すらせず、ポッターたちを押しのけて小走りでその場から立ち去った。
「苗字、待ってくれ!それ以外なら!それ以外なら、何だって聞く!!」
背中に響くポッターの声を憎たらしく思いながら、名前は足早に暗い廊下を後にした。
その翌日も翌々日も、名前はポッターたちを避けるようにして行動した。校内ですれ違うのは勿論のこと、グリフィンドールとの合同授業でも出来る限り距離を空けていられるよう細心の注意を払った。動物もどきの教示を拒否した腹いせに自分の秘密をばら撒かれるかもしれない。当初はそう心配していた名前だったが、ポッターたちにその気はないようだった。彼らを神経質なまでに避け続けた結果、名前はポッターたちと目が合う事もなく一週間を無事終えようとしていた。
金曜日の夜はホグワーツ中が解放感に満ち溢れている。山のような宿題に手をつけていなくても、悠然たる土日の存在がそれらをうやむやにしてくれるからだ。名前はお気に入りのポークチョップを皿に盛り、大広間の片隅でミランダと他愛もない話をしながら穏やかな時間を過ごしていた。今日の夜空は雲が薄く、細切れの三日月が青白く輝いている。現実の空を映すホグワーツの天井を見上げながら、名前は時折降り注ぐ流れ星をぼんやりと眺めていた。
「名前」
ミランダが手元を指差し、名前は目線を天井からぱっと下ろした。いつの間に飛んで来たのか、紙で折られた鳥が食器の間に佇んでいる。名前がそれを手に取ると鳥はくたっと羽を下ろし、何の変哲もないノートの切れ端へと姿を戻した。
『 名前
ハグリッドから面白い本を借りた。君も気に入ると思う。
良かったら夕食後に大時計の下で。
リーマス』
手紙を読み終えるや否や、名前は背を向けていたグリフィンドールのテーブルを振り返ってリーマスを探した。彼もスリザリンのテーブルに背を向ける形で座っており、こちらからその表情は見えない。名前は彼の周りにいるポッターたちと目が合う前に視線を戻し、短く『OK』とだけ返事を書いて鳥を再び旅に出した。
夕食後、大時計の下で先に待っていたのはリーマスだった。その手に抱えているのは例の本かと思いきや、クラッチ型のケースだ。名前がリーマスの元に駆け寄ると、彼はどこか疲れた顔で「やあ」と声を掛けた。
「それがその本なの?」
古びた革のケースをまじまじと見ながら、名前はたずねた。
「ああ、そうそう。この中にあるんだ」
リーマスはあやす様にケースを揺らし、「少し歩こう」と中庭に向かって歩き出した。
中庭では名前が大広間で眺めていた空と全く同じ光景が待ち構えていた。秋もすっかり深まったこの頃、夜の風はひんやりと肌を刺すように冷たい。とりわけ今日はここ一段と寒いようだ。夕食後に暖かな城を抜け出す物好きは他にはいないようで、名前とリーマスの周りには人っ子一人見当たらなかった。
「ねえリーマス、ちょっと寒くない?」
中庭の噴水を越えてもなお突き進むリーマスに、名前は後ろから声を掛けた。
「ああ、そうだね、ごめん」
リーマスは振り返り、回廊の柱に回り込んでから初めて足を止めた。
「この本がね、その…あまり人目に触れると良くないかもと思って…いや、悪い本ではないんだよ。ただ少し暴れるから、捕り逃したらハグリッドに迷惑がかかる」
「暴れる?」
リーマスの言葉にやや後ずさりしながら、名前は彼と少しだけ距離を空けてそのクラッチケースを見守った。
「見ててね…」
リーマスはしゃがみこんでゆっくりとケースを開き、両手で抱きかかえるようにしてその"本"を取り出した。
「わ!!」
彼が取り出したその物体に、名前は思わず声を上げた。リーマスが手にしている物は誰がどう見ても、本とは程遠い得体の知れない怪物だ。
「あはは、驚いた?」
名前に向かって牙を剥き出しにするそれを撫でながら、リーマスが無邪気に笑った。
「大丈夫。撫でていれば大人しいから…たまに噛むけどね…」
「そ、それ、何ていう魔法生物?」
柱を防壁にして隠れながら、名前は恐る恐るたずねた。
「いやいや、本なんだよ!見てて」
そう言ってリーマスは怪物の頭を数回撫で、目を閉じたのを確認してからその"表紙"をばっと広げた。
「ね?これ、『怪物的な怪物の本』って言うんだ」
「怪物的な…怪物の本……」
リーマスの手におさめられた分厚い毛皮の本を見つめながら、名前はそろりそろりと柱からそれに近付いた。意外にもきちんとした内容の本だ。しかし耳を澄ますと、怪物の寝息がページの裏から聞こえてくるような気がする。
「これ、ちゃんと売られてる物なの?まさかハグリッドが変身術で何かを本にしたんじゃ…」
「面白いこと言うね」
リーマスはおかしそうに笑いながら、本の背表紙をぱらりとめくった。
「安心して、売り物だよ。ほらね…あ、著者のところは噛み切られてて読めないや…」
複雑な面持ちで佇む名前に、リーマスはひょいと本を手渡して言った。
「名前も持ってみなよ、毛皮だから暖かいよ」
「え…あ、うん……」
名前は手に汗を浮かべながら渋々それを受け取った。ふわりとした毛の感触が指に伝った瞬間、思っていたより悪くないかもしれないと前向きな考えが名前の脳裏をよぎった。しかしそれも束の間の誤算だった。
「あっ!」
怪物的な怪物の本は瞬く間に名前の手からぴょんと飛び出し、地面に着地すると同時に背表紙から足を生やしてカシャカシャと猛スピードで駆け出した。
「まずい!!」
リーマスと名前は弾けるように柱の影から飛び出し、慌ててその後を追った。本は信じられない程すばしっこく、名前の足ではとても追いつけそうにない。
「名前、下がってて!」
杖を抜き出しながらリーマスが叫び、名前は言われるがままにその場に止まった。
「ペトリフィカス・トタルス!」
リーマスの放った呪文は見事に命中し、本は一瞬の内に動きを止めドサリと廊下に落ちた。
「危なかった…」
目を見開いたまま硬直した本を手に取りながら、リーマスがため息をついた。
「いつフィニートする?」
注意深く杖を本に向けながら、名前は彼に問いかけた。
「ペトリフィカス・トタルスが効くなんて、やっぱりこれ生物なんじゃ…」
「そんな気がしてきたね」
毛むくじゃらの怪物を革のケースにしまいながら、リーマスは片手で額の汗をぬぐった。
「今は気がたってるだろうから、フィニートは後で僕がしておくよ…ハグリッドに返すまでこのままで良いかもしれないな、ウン」
ケースに入れられた謎の生き物が身動きしないのを確かめ、名前とリーマスは柱の脇にしゃがみ込み深くため息をついた。ケトルバーン先生の指定教科書がこれでなくて良かった。名前は心の底でそう安堵しながら、隣でぼんやりと床に姿勢を落とすリーマスを見た。
「リーマス、そろそろ城に戻らない?」
「あっ、そうだね…あ、いや…もう少しここで話をしてもいいかい」
本を追いかけて流れ出た汗が、冷たい夜風にさらされ鳥肌が立ち始めている。しかしリーマスの物寂しげな表情を見るとノーとは言えず、名前は「いいよ」と静かに頷いた。
二人の間にしばし沈黙が流れた。リーマスは本当に話したい事があるのだろうか。名前はちらちらと視線をやったが、彼は俯いて黙りこくるばかりで、とても楽しい話をしたがっているようには思えない。
「何か悩み事でもあるの?」
沈黙に耐えかねて、名前は彼に小声でたずねた。リーマスは目線を少しだけ浮かせ、ためらいがちに口をもごもごと動かした。
「いや…まあ、あると言えばあるかな…」
「私で良ければ聞くよ」
「うん、ありがとう…」
リーマスはそう呟いたきり、再び黙り込んでしまった。風が木々を揺らす音だけが辺りに響く。冷たい空気の中、膝を抱えて並ぶだけのこの状況はひどく気まずい。
「そういえば、この間ポッターたちが変なこと言ってきたんだよ」
沈黙を破りたい一心で、名前は気付けば話したくもない話題をリーマスに振っていた。
「へえ、なんて?」
「なんか…動物もどきになりたいとか何とか…」
「ああ、その話ね」
名前の横でリーマスが力なく笑った。その顔はいつもに増して疲れ切っているように見えた。
「僕はやめとけって言ったんだけどね…」
「やっぱりそうだったんだ?」
リーマスの答えを聞いて、名前は少しだけ気持ちが明るくなるのを感じた。
「リーマスだけがいなかったから、もしかしたらそうじゃないかなって思ったの。あの人たち、動物の友達がいるの?犬か猫か知らないけど…」
「動物の友達ね」
ははっと乾いた笑い声を上げ、リーマスはゆっくりと名前に顔を向けた。
「僕も知ってるよ、そいつの事」
「そうなの?」
名前は目をぱちくりさせてリーマスを見た。一体どこの誰、いや何の事なのだろう。リーマスは頷いて、天井を仰ぎながら言った。
「名前、こんな時間に外に呼び出して悪かったと思ってる。怪物的な怪物の本は、そんなに見せたい訳でもなかったんだ」
「え?」
名前は突然の言葉にきょとんとした。リーマスはおもむろに立ち上がり、名前に背を向けて話を続けた。
「動物の友達について知ってるっていうのも、半分本当で、半分嘘なんだ」
「どういう事?」
名前は怪訝な表情で彼を見上げ、その後ろ姿に問いかけた。
「名前、君と僕は汽車で出会った時から良い友達だ。勿論今もそうだし、出来ることならこれからもそうでありたいと思う」
言葉をはっきりと口にしながらも、リーマスの体は僅かに震えているように見える。名前は彼に近付いて、その肩に手をかけようとした。
「でも」
リーマスの力強い語気に、名前は伸ばしかけた手をぴたりと止めた。
「僕には、君と友達でいられなくなる可能性を覚悟した上で、言わなきゃいけない事があるんだ。三人の親友のために、どうしても打ち明けなきゃならない」
「リーマス…?」
「名前」
深く息を吸い込んで、リーマスはくるりと名前を振り返った。柱の間から差し込む三日月の光が、彼の顔を青白く照らしている。
「僕は、狼人間なんだ」
名前に対するポッターの態度が急変した事に気付いたのは翌日の昼休みだった。名前が変身の成功を伝えるべき最後の一人、リリーと並んで昼食をとっていた時のことである。誰かに盗み聞きされる事の無いよう、名前はあらかじめ人気の少ない廊下を選んだつもりだった。そんな場所の中でも更に人目につきにくい、影に隠れたようなベンチに名前とリリーは座っていた。しかしどこから聞きつけたのか、二人の前に突然ポッターが現れたのである。
「やあ、エバンズ、苗字。奇遇だね」
「名前、行きましょ」
ポッターの顔を見るやいなや、リリーは名前の手を掴んで立ち上がった。
「待ってくれよ、ちょっと苗字と話したい事があるんだ」
慌てて立ちはだかるポッターに、リリーはつんと目を吊り上げた。
「名前はいま私と大事な話をしてるの。人をからかってばかりのあなたと話してる暇なんてないの」
「今までの事は悪かったと思ってる!」
ポッターのあまりに必死な様子に、名前とリリーは思わず目を見合わせた。こんなに余裕のない彼を見るのは初めてだ。
「頼む、苗字。教えて欲しいんだ」
息を切らさんばかりの勢いで、ポッターは名前に顔をぴったりと近付けて言った。
「今まで君にした無礼は謝るし、今後も君をからかうなんて事は一切しない。そうだ、金が欲しいならいくらでも払う…」
宿敵から発せられた言葉の数々に名前は目を丸くした。金?天下のポッターが、なぜここまで必死に自分を追いかけて来るのだろう。名前は彼に向かって口を開きかけたが、その瞬間リリーが名前の腕をぐっと引っ張り、逃げるようにその場から連れ去ろうとした。
「待てってば!別に悪さしようと思ってるわけじゃないんだ!」
「当たり前でしょう!」
行く手を塞ぐポッターに苛立ちながら、リリーが名前の代わりに答えた。
「とにかく名前はあなたの誘いになんか乗りません。名前、相手にしちゃダメよ」
セブルスと同じような事を言う。そんな風に思いながら、名前はリリーに手を引かれるがままに廊下を後にした。ポッターはしつこく追いかけてきたが、周りに段々と増えていく生徒たちに気付き、渋々諦めたようだった。
動物もどきの成功以後、名前への態度が変わったのはポッターだけではなかった。魔法薬学の授業終わり、散らかりきった机の片付けをする名前の元にスラグホーンがいそいそとやって来て、にっこりと微笑みながら一枚のカードを差し出してきたのだ。スリザリンの寮監は、自寮に一晩にして50点が付与された理由をよく知っていた。
「ハロウィン前にちょっとした食事会をする予定でね。名前、君にもぜひ来て欲しい」
「ありがとうございます…」
白地に日時の書かれたカードを受け取りながら、これがあのスラグクラブへの招待状かと名前は息を飲んだ。
「ここだけの話だが」
そう前置きして、スラグホーンは名前に小声で囁いた。
「寮監として、君の事を大変誇らしく思う。もし良ければ、近いうちに変身を見せてくれないかね。もちろん他の生徒には秘密だがー…」
背後でガタッと音がし、名前は思わず振り返った。セブルスが立ち上がって教室から出て行くところだった。名前はスラグホーンに向き直り、招待状を掲げながら彼にたずねた。
「これ、セブルスも来ますか?」
「ん?ああ、彼にも声は掛けているがね」
スラグホーンはやれやれという仕草でため息をついた。
「どうもこういう集まりが好きではないらしい。もう少し社交的な性格であればね…」
「そうですか…」
名前は目線を下げ、招待状に記された文字をもう一度見た。開催日時までの時間がカウントダウンされる仕組みのようだ。
「そうそう、君はリリーと仲が良かったはずだ。彼女と一緒に来なさい」
名案だとばかりにスラグホーンの顔がぱっと明るくなった。名前は曖昧に返事をしてから招待状をポケットにしまい、スラグホーンに不自然なほど温かく見守られながら教室を後にした。
今まで名前もろくに覚えらえていなかったのに。ひんやりとした地下を歩きながら、名前はここ数日ですっかり変わってしまった二人に違和感を覚えずにはいられなかった。
「ねえ、セブルスはスラグホーン先生の会に行かないの?」
夕食後の踊り場で運良くセブルスを捕まえ、名前は例の招待状をちらつかせながら彼にたずねた。
「行かない」
ぶっきらぼうにそう答え、セブルスは立ち止まるでもなく名前の前から去ろうとした。
「待って待って」
いつものようにセブルスを追い掛けながら、名前は逃がすまいとその腕をつかんだ。
「私、一度も行ったことないからちょっと不安で…セブルスが一緒に来てくれたら安心なんだけど」
「僕である必要はないだろう」
眉間にしわを寄せながら、セブルスは更にペースを速めて歩き出した。
「君の周りなら、他にも参加者がいるはずだ」
「えっ…まあ、どうしてもダメならリリーに頼ろうとは思ってるけど」
セブルスの早足に必死で追い付きつつ、名前は言い訳がましく言葉を並べた。
「でもリリーもグリフィンドールの誰かと来るんじゃないかな?私、リリーの寮の友達にはあんまり良く思われてないみたいで…」
「そんな馬鹿たちは招待されないはずだ」
「セブルスってば、何でそんなに行きたくないの?」
曲がり角で隠れるように身を屈めたセブルスの腕を名前は両手で引っ張った。
「スラグホーン先生の会ってそんなにつまらないの?」
「いいや、気絶するほど面白いさ」
セブルスの適当な言い分に名前は追究する事を諦め、ぱっと手を放した。いつの間にか馴染みのない通路に出ていた。図書館へ続く廊下でも、談話室にたどり着くための近道でもない。
「…セブルス、どこに行くの?」
眉をひそめながら、名前は彼に問いかけた。
「それ以上何も聞くな」
セブルスは初めて足を止め、名前を振り返って言った。
「やる事があるんだ。君だって秘密裏に変身を練習してただろう。それと同じだ」
名前は腕を組み、懐疑的な目でセブルスを見た。新学期初日の夜に湖のほとりで遭遇した事や、先日のポッターとの喧嘩がふと頭をよぎったのだ。セブルスは何か企んでいるに違いない。恐らく、良くない事だろう。
「…うん、まあ」
地面に視線を落とし、名前は渋々頷いた。
「悪さしてる訳じゃないならいいけど…ただ私、気になってるんだよね。新学期の日にミランダがあなたに言ったでしょ、何か知らないけどやめた方がいい、みたいな…」
しかし名前が顔を上げた先では、既にセブルスは姿を消していた。名前は苦々しい思いで廊下の先をじっと見つめた後、身を翻して元来た道を歩き出した。
白い石壁に囲まれた廊下は寒々しく、ゴーストさえも見当たらない。しかし数メートル進んだ辺りで、どこからかヒソヒソと囁き合う声が聞こえてきた。周囲には誰もいない。気のせいだろうか。ホグワーツにいれば不可解な出来事などしょっちゅうだ。名前は頭を横に振って、城の中央部へ続く道を曲がろうとした。しかしそこで名前は先の囁き声の正体を知ることとなった。
「わっ!!」
目の前に壁のようにして現れた男子生徒に驚いて、名前は思わず叫び声をあげた。ポッター、ブラック、ペティグリューの三人衆だ。
「シーッ、苗字、悪いけど君をつけてたんだ」
人差し指を唇に当てながら、真ん中に立つポッターが小声で言った。
「人がいない所で話したい事がある。ここならチャンスだ。頼む、本気のお願いなんだ」
「一体何なの?」
後をつけられていた不快感よりも、不気味なほど低姿勢なポッターへの興味が名前の中で僅かに勝った。ポッターは辺りに人がいないことを確認して、名前の耳元に囁いた。
「動物もどきになる方法を教えてほしい」
衝撃のあまり、名前は目を見開いたまま石のように固まってしまった。考え得る中で最も愚かな質問だが、ポッターの顔は真剣そのものだ。名前は信じられない思いで彼を見つめ、答えをきっぱりと口にした。
「ダメ。何がどうあろうと、絶対にダメ」
「だから言っただろ、ジェームズ」
ポッターと名前の間に割って入るようにして、背の高いシリウス・ブラックがひょいと顔を覗かせた。
「俺達がそうなる必要性について話さないと、やっこさん永遠に承諾してくれないぜ」
「分かってる、分かってる。でもどこまで話して良いやら…」
ジェームズは困り顔のまま、頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「苗字、僕たちはある重大な目的の為に動物もどきになりたいんだ」
「何なの?」
名前の問いに、三人は神妙な面持ちでお互いの顔を見合った。長い沈黙の後、重々しく口を開いたのはポッターだった。
「その…友達の為なんだ。大事な友達の手助けをしてやりたいんだ」
「何の手助け?」
「ダメだ、言えない!」
名前の質問を突き飛ばすかのように、ポッターはブラックに向かって小声のまま叫んだ。
「僕たちからは言えない、そうだろう?」
ブラックはポッターを押しのけ、名前の前に身を乗り出して言った。
「俺たちの友達が…その、体調が良くない時があるんだ。定期的にね」
ブラックは涼しい顔をしつつも、その詳細を悟られまいと慎重に言葉を選んでいるようだった。
「奴は体調を崩すと自分をうまくコントロール出来なくて…それを恥じているし、そのせいで心の奥に孤独を抱えている。だから俺たちは…そんな時、奴のそばにいてあげたいんだ」
「いればいいじゃない」
話の内容が全く見えてこず、眉根にシワを寄せながら名前は彼らにたずねた。
「それと動物もどきが、何の関係があるっていうの?」
名前の三度目の質問に、彼らは再び黙りこくってしまった。もっとも端にいるピーター・ペティグリューは一度も言葉を発していないが。名前はブラックの話を頭の中で整理しながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「まさか…あなた達の友達って、動物なの?」
三人の表情が一瞬ぎくりとこわばったように見えた。ポッターが「どうする」とブラックに囁き、ブラックが顔をしかめながら首を傾げるのを、名前は不審な気持ちで眺めていた。
「まあ…そうだ、そうだな、うん…そういう事にさせてくれ」
悩ましげに腕を組みながら、ブラックが言った。
「ここで本題だ。動物もどきになる方法を教えてくれ」
「ダメに決まってるでしょ、そんな訳の分からない理由で」
なおも隠し事を続ける彼らに、名前は首を振って答えた。
「そもそも動物もどきは安易に習得する魔法じゃないの。すごく難しいし、もちろん悪さはしちゃいけない。魔法省に登録だってするんだから」
「魔法省に登録?」
目をメガネと同じくらい丸くしながら、ポッターが素っ頓狂な声を上げた。
「そうか、まいったな…いや、分かってるよそんな事。僕たちは色々と覚悟の上だ」
「悪いけど、私には全くそう聞こえない」
名前は強い信念のもと、断固として申し出を拒否した。
「私は変身術のNEWT試験もパスした上で、本当に毎日努力したの。あなた達のふわふわした理由には全然共感できないし、動物もどきと真剣に向きあってるとも思えないわ」
ブラックは深くため息をつき、諦めたようにポッターの肩を叩いた。しかしポッターは引き下がらなかった。彼は人目を避けている事も忘れ、最後の望みを託すかのように声を張り上げた。
「頼む!苗字、教えてくれたら君の要求も僕たちが叶える。何だっていい。それくらい本気なんだ」
あの傲慢ちきのポッターが、今こうして自分の目の前で膝を折らんばかりに懇願している。それを思うと名前は複雑な気持ちだった。自分こそ王だと信じきっているであろうポッターが、これ程までにプライドを捨てる理由とは何なのか。
「何でも?私の要求、何でも叶えてくれるの?」
名前の言葉に、ポッターはごくりと唾を飲んだ。その目からは並ならぬ覚悟が感じられるようだった。
「ああ、何でも」
額に汗すら浮かべるポッターの顔を探るように見つめ、とうとう名前は今まで言いたくて仕方なかった事を口にした。
「じゃあ、セブルスに今後一切手出しをしないで」
「それは出来ない!!」
その勢いあまる即答に、名前は驚いてよろめきそうになった。ポッターを試すはずの発言が、威力を増して自分に跳ね返ってきたかのようだ。
「え…」
「悪いが、それだけは出来ない。目の前で起きてる犯罪を見過ごせと言ってるようなもんだ」
ポッターの言葉に名前は堪忍袋の緒が切れるのを感じた。何と酷い言い方をするのだろう。名前は反論すらせず、ポッターたちを押しのけて小走りでその場から立ち去った。
「苗字、待ってくれ!それ以外なら!それ以外なら、何だって聞く!!」
背中に響くポッターの声を憎たらしく思いながら、名前は足早に暗い廊下を後にした。
その翌日も翌々日も、名前はポッターたちを避けるようにして行動した。校内ですれ違うのは勿論のこと、グリフィンドールとの合同授業でも出来る限り距離を空けていられるよう細心の注意を払った。動物もどきの教示を拒否した腹いせに自分の秘密をばら撒かれるかもしれない。当初はそう心配していた名前だったが、ポッターたちにその気はないようだった。彼らを神経質なまでに避け続けた結果、名前はポッターたちと目が合う事もなく一週間を無事終えようとしていた。
金曜日の夜はホグワーツ中が解放感に満ち溢れている。山のような宿題に手をつけていなくても、悠然たる土日の存在がそれらをうやむやにしてくれるからだ。名前はお気に入りのポークチョップを皿に盛り、大広間の片隅でミランダと他愛もない話をしながら穏やかな時間を過ごしていた。今日の夜空は雲が薄く、細切れの三日月が青白く輝いている。現実の空を映すホグワーツの天井を見上げながら、名前は時折降り注ぐ流れ星をぼんやりと眺めていた。
「名前」
ミランダが手元を指差し、名前は目線を天井からぱっと下ろした。いつの間に飛んで来たのか、紙で折られた鳥が食器の間に佇んでいる。名前がそれを手に取ると鳥はくたっと羽を下ろし、何の変哲もないノートの切れ端へと姿を戻した。
『 名前
ハグリッドから面白い本を借りた。君も気に入ると思う。
良かったら夕食後に大時計の下で。
リーマス』
手紙を読み終えるや否や、名前は背を向けていたグリフィンドールのテーブルを振り返ってリーマスを探した。彼もスリザリンのテーブルに背を向ける形で座っており、こちらからその表情は見えない。名前は彼の周りにいるポッターたちと目が合う前に視線を戻し、短く『OK』とだけ返事を書いて鳥を再び旅に出した。
夕食後、大時計の下で先に待っていたのはリーマスだった。その手に抱えているのは例の本かと思いきや、クラッチ型のケースだ。名前がリーマスの元に駆け寄ると、彼はどこか疲れた顔で「やあ」と声を掛けた。
「それがその本なの?」
古びた革のケースをまじまじと見ながら、名前はたずねた。
「ああ、そうそう。この中にあるんだ」
リーマスはあやす様にケースを揺らし、「少し歩こう」と中庭に向かって歩き出した。
中庭では名前が大広間で眺めていた空と全く同じ光景が待ち構えていた。秋もすっかり深まったこの頃、夜の風はひんやりと肌を刺すように冷たい。とりわけ今日はここ一段と寒いようだ。夕食後に暖かな城を抜け出す物好きは他にはいないようで、名前とリーマスの周りには人っ子一人見当たらなかった。
「ねえリーマス、ちょっと寒くない?」
中庭の噴水を越えてもなお突き進むリーマスに、名前は後ろから声を掛けた。
「ああ、そうだね、ごめん」
リーマスは振り返り、回廊の柱に回り込んでから初めて足を止めた。
「この本がね、その…あまり人目に触れると良くないかもと思って…いや、悪い本ではないんだよ。ただ少し暴れるから、捕り逃したらハグリッドに迷惑がかかる」
「暴れる?」
リーマスの言葉にやや後ずさりしながら、名前は彼と少しだけ距離を空けてそのクラッチケースを見守った。
「見ててね…」
リーマスはしゃがみこんでゆっくりとケースを開き、両手で抱きかかえるようにしてその"本"を取り出した。
「わ!!」
彼が取り出したその物体に、名前は思わず声を上げた。リーマスが手にしている物は誰がどう見ても、本とは程遠い得体の知れない怪物だ。
「あはは、驚いた?」
名前に向かって牙を剥き出しにするそれを撫でながら、リーマスが無邪気に笑った。
「大丈夫。撫でていれば大人しいから…たまに噛むけどね…」
「そ、それ、何ていう魔法生物?」
柱を防壁にして隠れながら、名前は恐る恐るたずねた。
「いやいや、本なんだよ!見てて」
そう言ってリーマスは怪物の頭を数回撫で、目を閉じたのを確認してからその"表紙"をばっと広げた。
「ね?これ、『怪物的な怪物の本』って言うんだ」
「怪物的な…怪物の本……」
リーマスの手におさめられた分厚い毛皮の本を見つめながら、名前はそろりそろりと柱からそれに近付いた。意外にもきちんとした内容の本だ。しかし耳を澄ますと、怪物の寝息がページの裏から聞こえてくるような気がする。
「これ、ちゃんと売られてる物なの?まさかハグリッドが変身術で何かを本にしたんじゃ…」
「面白いこと言うね」
リーマスはおかしそうに笑いながら、本の背表紙をぱらりとめくった。
「安心して、売り物だよ。ほらね…あ、著者のところは噛み切られてて読めないや…」
複雑な面持ちで佇む名前に、リーマスはひょいと本を手渡して言った。
「名前も持ってみなよ、毛皮だから暖かいよ」
「え…あ、うん……」
名前は手に汗を浮かべながら渋々それを受け取った。ふわりとした毛の感触が指に伝った瞬間、思っていたより悪くないかもしれないと前向きな考えが名前の脳裏をよぎった。しかしそれも束の間の誤算だった。
「あっ!」
怪物的な怪物の本は瞬く間に名前の手からぴょんと飛び出し、地面に着地すると同時に背表紙から足を生やしてカシャカシャと猛スピードで駆け出した。
「まずい!!」
リーマスと名前は弾けるように柱の影から飛び出し、慌ててその後を追った。本は信じられない程すばしっこく、名前の足ではとても追いつけそうにない。
「名前、下がってて!」
杖を抜き出しながらリーマスが叫び、名前は言われるがままにその場に止まった。
「ペトリフィカス・トタルス!」
リーマスの放った呪文は見事に命中し、本は一瞬の内に動きを止めドサリと廊下に落ちた。
「危なかった…」
目を見開いたまま硬直した本を手に取りながら、リーマスがため息をついた。
「いつフィニートする?」
注意深く杖を本に向けながら、名前は彼に問いかけた。
「ペトリフィカス・トタルスが効くなんて、やっぱりこれ生物なんじゃ…」
「そんな気がしてきたね」
毛むくじゃらの怪物を革のケースにしまいながら、リーマスは片手で額の汗をぬぐった。
「今は気がたってるだろうから、フィニートは後で僕がしておくよ…ハグリッドに返すまでこのままで良いかもしれないな、ウン」
ケースに入れられた謎の生き物が身動きしないのを確かめ、名前とリーマスは柱の脇にしゃがみ込み深くため息をついた。ケトルバーン先生の指定教科書がこれでなくて良かった。名前は心の底でそう安堵しながら、隣でぼんやりと床に姿勢を落とすリーマスを見た。
「リーマス、そろそろ城に戻らない?」
「あっ、そうだね…あ、いや…もう少しここで話をしてもいいかい」
本を追いかけて流れ出た汗が、冷たい夜風にさらされ鳥肌が立ち始めている。しかしリーマスの物寂しげな表情を見るとノーとは言えず、名前は「いいよ」と静かに頷いた。
二人の間にしばし沈黙が流れた。リーマスは本当に話したい事があるのだろうか。名前はちらちらと視線をやったが、彼は俯いて黙りこくるばかりで、とても楽しい話をしたがっているようには思えない。
「何か悩み事でもあるの?」
沈黙に耐えかねて、名前は彼に小声でたずねた。リーマスは目線を少しだけ浮かせ、ためらいがちに口をもごもごと動かした。
「いや…まあ、あると言えばあるかな…」
「私で良ければ聞くよ」
「うん、ありがとう…」
リーマスはそう呟いたきり、再び黙り込んでしまった。風が木々を揺らす音だけが辺りに響く。冷たい空気の中、膝を抱えて並ぶだけのこの状況はひどく気まずい。
「そういえば、この間ポッターたちが変なこと言ってきたんだよ」
沈黙を破りたい一心で、名前は気付けば話したくもない話題をリーマスに振っていた。
「へえ、なんて?」
「なんか…動物もどきになりたいとか何とか…」
「ああ、その話ね」
名前の横でリーマスが力なく笑った。その顔はいつもに増して疲れ切っているように見えた。
「僕はやめとけって言ったんだけどね…」
「やっぱりそうだったんだ?」
リーマスの答えを聞いて、名前は少しだけ気持ちが明るくなるのを感じた。
「リーマスだけがいなかったから、もしかしたらそうじゃないかなって思ったの。あの人たち、動物の友達がいるの?犬か猫か知らないけど…」
「動物の友達ね」
ははっと乾いた笑い声を上げ、リーマスはゆっくりと名前に顔を向けた。
「僕も知ってるよ、そいつの事」
「そうなの?」
名前は目をぱちくりさせてリーマスを見た。一体どこの誰、いや何の事なのだろう。リーマスは頷いて、天井を仰ぎながら言った。
「名前、こんな時間に外に呼び出して悪かったと思ってる。怪物的な怪物の本は、そんなに見せたい訳でもなかったんだ」
「え?」
名前は突然の言葉にきょとんとした。リーマスはおもむろに立ち上がり、名前に背を向けて話を続けた。
「動物の友達について知ってるっていうのも、半分本当で、半分嘘なんだ」
「どういう事?」
名前は怪訝な表情で彼を見上げ、その後ろ姿に問いかけた。
「名前、君と僕は汽車で出会った時から良い友達だ。勿論今もそうだし、出来ることならこれからもそうでありたいと思う」
言葉をはっきりと口にしながらも、リーマスの体は僅かに震えているように見える。名前は彼に近付いて、その肩に手をかけようとした。
「でも」
リーマスの力強い語気に、名前は伸ばしかけた手をぴたりと止めた。
「僕には、君と友達でいられなくなる可能性を覚悟した上で、言わなきゃいけない事があるんだ。三人の親友のために、どうしても打ち明けなきゃならない」
「リーマス…?」
「名前」
深く息を吸い込んで、リーマスはくるりと名前を振り返った。柱の間から差し込む三日月の光が、彼の顔を青白く照らしている。
「僕は、狼人間なんだ」