第一部
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白鷺への変身を果たしてから8時間。名前はホグワーツの校長室で四人の大人に囲まれていた。見たことも無い魔法道具があちらこちらで煌めきを放っている。頭上には歴代校長の肖像画が掲げられ、その殆どは眠っているかと思いきや、ちらちらと名前を細目で眺めているようだ。名前はどこに視線を向けて良いか分からず、じっと手元を見つめながら大人達の会話が終わるのを待っていた。
8階の部屋で白鷺へと変身した後、名前はミランダと共に放心状態となり、しばらく二人して部屋の隅に座っていた。途切れ途切れに会話をしながら、いつの間にか現れた大窓の外をぼんやりと眺めていたのだ。名前が動物もどきの成功を自覚し、なすべき事を思い出したのは空に夕焼けが広がり始めた頃だった。名前は夕食に向かうマクゴナガルを廊下で捕まえ、取り急ぎの報告をした。名前の頭にはマクゴナガルが多少驚くであろう事と、寮の得点をいくらか貰えるかもしれないという考えしかなかった。しかし事は予想外の方向へと向かっていった。名前の変身をその目で確かめるやいなや、マクゴナガルは大広間での夕食をキャンセルし、名前は変身術の教室に缶詰めにされながら無数の書類に目を通す羽目になったのだ。
そして門限も過ぎた21時。名前はこれまで訪れた事もなかった校長室の真ん中に立っている。部屋の奥の書斎にダンブルドアが腰掛け、名前の目の前ではマクゴナガルと魔法省から出向いた二人の男性が何やら小難しい話をしていた。一人は小柄で白髪まじりの初老の魔法使い、もう一人は40代くらいだろうか、四角い頭が印象的だ。魔法省の役人たちは暖炉から出てきた際、名前に握手しながら自己紹介をしたが、あまりに突然だったが故に名前は二人の名前を既に忘れてしまっていた。
「さて、これで必要な書類は全て揃いましたな」
ダンブルドアが今しがたサインした羊皮紙を受け取りながら、初老の魔法使いが言った。
「それでは肝心の変身をチェックさせて頂きましょうか」
「少し距離をとった方が良いでしょう、彼女の動物もどきは羽を広げる可能性が高いので」
マクゴナガルの言葉に大人たちは頷き、それぞれが名前との間隔を一定以上保つように立ち位置を移動し始めた。名前はその様子をただ眺めながら、相変わらず気まずい思いで手元をもじもじといじっていた。
「それではミス・苗字」
名前と2メートルほどの距離を空けた状態で、魔法省の役人が声をかけた。
「変身を始めてくれるかね?」
「はい」
名前は頷き、深呼吸をして真っ白な鷺に姿を変えた。昨日まであんなにも苦戦していたのが嘘のようだ。マクゴナガルの言っていた通り、一度習得してしまえばその後の変身は容易なものだった。名前の姿を見た魔法省の二人が声を上げて拍手をし、その奥でダンブルドアがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、もういいでしょう」
初老の魔法使いが手を掲げたのを合図に、名前は全身の力を抜くようにして変身を解いた。
「素晴らしい、実に素晴らしい。13歳でこの実力とはまさに天才だ」
魔法省の二人が改めて拍手をし、名前は照れながら頭を下げた。そろそろ解放されるのだろうか。目まぐるしく過ぎた一日に、名前は眠気を覚え始めていた。
「これで登録は完了ですね。ご苦労様でした、レイモンド」
初老の魔法使いが書類の枚数を確認するのを手伝いながら、マクゴナガルが声をかけた。
「土曜日の夜に呼び出してすみませんでした。本来ならば休日でしょうに」
「いや、ミネルバ、とんでもない!」
レイモンドと呼ばれた魔法使いはにこやかに微笑みながら、名前を見て言った。
「こんなにも優秀な学生に会えるなんて、一生に一度あるか分からない!」
「将来はぜひ魔法省へ」
そう言いながらもう一人の魔法使いが再び名前に手を差し出し、名前は曖昧な表情でそれに応えた。四角い頭をした彼の手は名前の2倍ほどもあり、握られた手の握力には思わず眠気が覚めんばかりだった。
「これだけ変身術に優れた職員がいれば、魔法法執行部は大助かりだろう。かつての貴女のような働きをしてくれそうですね、ミネルバ?」
「あなたは私が働いていた頃を知らないでしょう」
照れたように笑いながら、マクゴナガルが呟いた。
「それにこの子が魔法省に入るためには、もう少し他の成績を上げませんと…」
マクゴナガルの言葉を聞いて、名前はどきりと心臓が脈打つのを感じた。変身術以外の成績において、自分はあまり優秀ではないらしい。中でも魔法薬学が足を引っ張っているのだろう。名前は昨年度の期末試験での成績を思い出し、心の中で小さく呻いた。
「それでは我々はこれで」
レイモンドが杖を一振りすると、書類が宙を舞いひとりでに彼の鞄の中へと収まった。マクゴナガルが暖炉脇の缶を手に取り、蓋を開けて中からフルーパウダーをひとつまみ取り出した。
「おお、レイモンド、渡し忘れが」
魔法省の二人が暖炉に足を踏み入れかけたその時、部屋の奥からダンブルドアがいそいそとやって来て、レイモンドたちは暖炉からすっと足を戻した。ダンブルドアは「すまんのう」と断りながら、金色の煌びやかな糸細工が施された小袋を彼らに手渡した。
「わしからの休日手当じゃ。美味しいレモンキャンディでのう、きっと気に入ると思う」
「アルバス、お気遣い頂いてー…」
大人たちの別れ際の会話が再度始まり、その輪に入れぬ名前は口を閉じたまま周囲をぼんやりと眺めていた。肖像画はもう全員寝てしまったようだ。名前は視線を奥へとやり、分厚い本が敷き詰められた壁を見た。ダンブルドアがいつから持っている本なのか名前には想像もつかないが、どれもかなり古い物に違いない。偉大な魔法使いの叡智の源に、名前は一人感じ入っていた。そしてふと、棚の一角に見慣れた物体が置かれている事に気付いた。組分け帽子だ。
組分け帽子はくたびれた姿で、じっと動かずに飾られていた。在校生にとっては最早お馴染みのその様子だが、あの帽子が初めて動いた時はどんなに驚いたか。名前は入学式のあの日、突然口を開いたボロボロの帽子にリーマスと二人して飛び上がりそうになった事を思い出した。あの時はまさか自分がスリザリンに組分けされ、挙句の果て動物もどきになるなど想像すらしていなかった。
しかし…組分け帽子を眺めている内に、名前は胸の奥がざわめき始めるのを感じた。組分け帽子には、こうなる事が最初から分かっていたのだろうか。あの日帽子が耳元で囁いた、スリザリンで得られる天才的な才能とは、動物もどきの事だったのだろうか。暖炉脇で繰り広げられる大人たちの会話を遠くに覚えながら、名前は帽子の言葉の意味を再び考えていた。
スリザリンにしかないきっかけが何だったかと問われれば、やはり答えはミランダの存在になるだろう。以前ミランダ本人は笑って否定したが、動物もどきの対象である白鷺について教えてくれたのは彼女だ。新学期最初の日、ミランダと共に湖のほとりに行かなければ、あの白鷺の姿を見ることはなかった。そしてスリザリンに組分けされていなければ、あの不思議な年上の少女とは決して知り合う事など無かっただろう。
「ではでは、今度こそおいとませねば」
レイモンドの声に名前はハッと我に返り、いそいそと暖炉の側へ寄った。
「引き止めてすまなかったのう」
「いやあ!素晴らしい夜でしたよ。なあ、クインビー?」
「全くです」
四角い頭の魔法使い、クインビーは暖炉に足を踏み入れる前に名前を振り返り、力強い眼差しで微笑みながら言った。
「五年後、魔法省でお会いしよう」
二人の大人は緑の煙に包まれ、暖炉から一瞬の内に姿を消した。
校長室に静けさが戻り、名前は所在なさげにマクゴナガルを見た。マクゴナガルは名前に背を向ける形でフルーパウダーの入れ物を片付けている。暖炉脇から身を翻したダンブルドアと目が合い、名前は反射的に背筋をすっと伸ばした。
「そうじゃ、ミス・苗字、君にこそ褒美をやらんとのう」
そう言いながらダンブルドアは机へと向かい、名前についてくるよう手招きした。名前は先程まで眺めていた部屋の奥へと足を踏み入れ、ダンブルドアの机の前で彼が引き出しから取り出す何かを待った。
「実に見事な変身じゃった。わしもマクゴナガル先生も誇らしい気持ちでいっぱいじゃ」
レイモンドたちに渡した小袋と同じものを名前に差し出しながら、ダンブルドアが言った。
「わしのおすすめのレモンキャンディじゃよ。それと、スリザリンに50点与えよう」
「ごっ」
受け取ったばかりの小袋を落としかけ、名前は思わず声を上げた。
「50点ですか?」
「そうじゃよ。足りんかね?」
ダンブルドアはおかしそうに笑い、胸まで伸びるあご髭を撫でた。特徴的な半月眼鏡の奥で青い瞳が若々しく輝いている。
「いいえ!逆です、50点なんて…」
名前はしどろもどろになりながら、レモンキャンディの入った包みを両手で握りしめた。
「そんなに貰っていいんでしょうか」
「勿論ですとも」
いつの間に現れたのか、名前はすぐ隣に立つマクゴナガルの声に顔を上げた。二人の教師は優しく微笑み、名前の努力をこの上なく労わろうとしてくれている。
「くどいようではありますが、動物もどきとは大変高度な魔法です。ごく僅かな魔法使いにしか習得出来ません。それをあなたは、その歳で、ほんの数ヶ月でやってのけましたー…」
名前はマクゴナガルの姿越しに、ふとあの組分け帽子を見た。相変わらずピクリとも動かぬまま、棚の上にひっそりと飾られている。名前は今この場で、組分け帽子を再び被りたい衝動に駆られた。帽子の言った才能とは動物もどきの事だったのだろうか。スリザリンにしかないきっかけとは、ミランダの存在なのだろうか。
どうしても答え合わせがしたい。組分けの真実を知れば、スリザリンへの違和感を拭い去る事が出来るかもしれないー。
「ミネルバ」
静かに響いたダンブルドアの声に名前は急いで視線を戻した。ダンブルドアは名前をちらりと見た後、マクゴナガルに顔を向けて言った。
「ミス・苗字はわしが寮まで送り届けよう。君はもう休みなさい」
「そうですか?申し訳ないですね」
言葉とは対照的にマクゴナガルはさっと身を翻し、まるで示し合わせていたかのようにあっさりと校長室のドアへ向かった。ぽつんと佇む名前に「おやすみなさい」と一言告げて、マクゴナガルは廊下へと続く階段を降りていった。扉が閉まり、マクゴナガルの足音が遠くへ消えてから、ダンブルドアがゆっくりと口を開いた。
「組分け帽子が気になっているようじゃな?」
「あっ…はい」
自分の行動を全て見透かされていた事に気付き、名前は顔を赤らめながら答えた。
「その…入学式の日、帽子に不思議な事を言われたんです。それが今でもずっと気になっていて…」
「変身術の事かの?」
「そうだと思いたいんですけど…よく分からないんです」
ダンブルドアが帽子を被ってみないかと言ってくれはしないだろうか。名前はサインを送るように帽子とダンブルドアを交互に見ながら、下唇を軽く噛んだ。
「もう一度聞いてみるかね?」
ダンブルドアはゆっくりと立ち上がり、数歩進んで組分け帽子が収められた棚に手をかけた。名前は途端に全身が緊張に包まれるのを感じた。ダンブルドアの手に乗って、あのボロボロの帽子がこちらへ近付いてくる。
ダンブルドアが手をさっと振ると、名前の横に見覚えのある丸椅子が現れた。ホグワーツの生徒ならば誰しも一度は腰掛けたであろう、入学式で使われるあの椅子だ。名前は黙ってそこに座り、組分け帽子が頭の上に被せられるのをじっと待った。
名前の頭に触れた瞬間、古びた帽子は眠りから突然目覚めたかのようにハッと息を吸い、名前の髪を持ち上げんばかりに鍔を大きく動かした。帽子に眉までをすっぽり覆われ、未知の生き物のように動くその様子に懐かしさを感じながら、名前はおずおずと帽子に話し掛けた。
「私の組分けの事、覚えてますか?」
「一人とて組分けの結果を忘れたことは無い!」
耳元で大きく響いたその声に、名前は慌てて帽子の両鍔を持ち、頭から少しだけ浮かせるようにして持ち上げた。
「あの…あなたが言った才能についてなんですけど…私、ちゃんと伸ばせてますか?」
「君は着実に力をつけている。私の言った事に間違いがないのは分かっているはずだ」
「じゃあ、あの才能っていうのはやっぱり変身術の事なんですね?」
一つ目の答え合わせに胸を撫で下ろしながら、名前は畳み掛けた。
「スリザリンにしかないきっかけって、何ですか?私はもう見つけられてますか?」
「無論、君は見つけておる」
「そのきっかけって、私の友達ですか?」
帽子の次なる答えにはやる気持ちを抱きながら、名前は早口で訊ねた。
「ミランダ・フラメルの事ですか?」
すると名前の握っていた帽子はだらんと鍔を垂れ、部屋に突然の静寂が訪れた。名前は息を止めて帽子の答えを待っていたが、頭の上に乗せたそれはぴくりとも動かない。
「あれ…?」
名前は帽子の表面を探りながら、そこに表情があるかを確かめた。しかし手に感じるのはざらざらとした古い布の質感のみである。
「どうやら帽子には黙秘権があるようじゃのう」
名前の頭からそっと帽子を離し、ダンブルドアが笑って言った。
「答えられないのか、答えたくないのかは分からんが…」
「そんな…私それが知りたかったんです」
期待を裏切られた事にがっくりと肩を落としながら、名前はダンブルドアに言った。
「帽子は私の才能…変身術の才能が、スリザリンであれば他の寮よりもっと伸びるって言ったんです。スリザリンにしか無いきっかけがあるからって…それで、私が動物もどきになる為のヒントをくれたのが友達なんです」
理路整然と言葉をまとめている余裕は無かった。名前はダンブルドアの静かな瞳を見つめて、この偉大な魔法使いが何かしらの答えをくれるのではないかと再び希望を抱き始めた。
「ミランダ・フラメルが私に変身のヒントをくれたんです。先生も彼女の事はよくご存知でしょう?」
「そうじゃな」
ダンブルドアは椅子に腰掛け、半月メガネをぐいと押し上げて答えた。
「聞いている限りでは、君の中でもう答えは出ているようじゃがの」
名前は息を飲み、ダンブルドアの手元にある帽子へ視線を移した。帽子はただの帽子として横たわったままだ。やはり、そうなのか。きっかけとはミランダの事だったのか。
「しかし何であれ…ミス・フラメルに君という素敵な親友が出来た事はわしも嬉しく思っておる」
ダンブルドアは名前の前で手を組み、優しく微笑んで言った。
「彼女は様々な力を持つと共に、様々な制限に縛られてもいる。正直、わしは彼女が友人を一人も作らぬまま卒業していくのではないかと心配しておったんじゃ」
「でも、ミランダって本当に普通の子です。いや、その」
とっさの発言を取り繕うように、名前は慌てて言葉を付け足した。
「良い意味で、普通の女の子だと思います。もちろん石とか、彼女の家とか、不思議な事はいっぱいありますけど…でも彼女自身はとても魅力的だし、実は社交的なんじゃないかって思う時もあります」
「それは彼女が心を開いた君だからこそ観察できる点じゃな」
ダンブルドアは興味深そうに名前の瞳を覗き込んだ。
「わしはミス・フラメルの家族と親交がある…ゆえに彼女が抱える奇妙な制約についても、一部理解しているつもりではあるが」
ダンブルドアはおもむろに立ち上がり、組分け帽子を棚に戻しながら言葉を続けた。
「彼女から石を預かるほど信頼されるというのは相当な事じゃ。ミス・苗字、君にはそうさせるだけの特別な何かがあるのじゃろう」
「それは…」
名前は棚の上の帽子から目を離さぬまま訊ねた。
「才能という意味でですか?」
「いいや」
名前の想像と裏腹に、ダンブルドアはゆっくりと首を振った。
「人柄や、信念じゃよ」
目をぱちくりさせる名前をよそに、ダンブルドアはそのまま書斎の小階段を降り、振り返って小さく手招きした。
「すっかり遅くなってしまったのう。いくら明日が日曜とはいえ、夜更かしは禁物じゃ」
校長室からスリザリン寮までの道のりをダンブルドアと歩くというのは、とても奇妙で新鮮であると同時に、不思議な緊張感が漂うものでもあった。すれ違う見回りの監督生が、何か大変な事をやらかしたのだろうとばかりに名前の姿を目で追ってくる。明日何かしら良くない噂でも流れてしまうんだろうか。暗がりの階段を杖灯で照らしながら、名前とダンブルドアはゆっくりとホグワーツの地下へ向かった。
「ここに来るのは久しぶりじゃのう」
スリザリン寮の入口付近に着いた頃、ダンブルドアが口を開いた。
「スリザリンの諸君は規則を破っても、うまくそれを隠すものじゃ…なのでこうしてわしが寮まで送り届けるというのは稀での」
名前は曖昧に微笑みながら、合言葉で石の扉が開くのを待った。扉が消え去った先に見える談話室の風景は、相変わらず暗く陰気だ。
「それではおやすみ」
「おやすみなさい」
ダンブルドアに見守られながら、名前は談話室の入口へと足を踏み入れた。そして背中にまだダンブルドアの視線がある事を確認して、さっと彼を振り返った。
「先生から見て、私ってスリザリンらしいですか?」
「何とも答えにくい質問じゃのう」
名前の最後の問いかけに、ダンブルドアはくすくすと笑った。
「らしいところもある、と言っておこうかの。君のひたむきな向上心や友人に対する誠実さは、スリザリンが求める理想に近いとわしは思う」
「…ありがとうございます。おやすみなさい」
名前は誰もいない談話室を早足で通り抜け、ポケットから気配消しの石を取り出し自室のベッドへ飛び込んだ。考えたい事が山ほどある。しかし柔らかな枕に頭を預けた瞬間、まどろむ暇もなく名前は眠りへと落ちていった。
日曜日は分厚い雲と夏の終わりの太陽が互いに競い合っているような、はっきりとしない天気だった。この時期のホグワーツらしい空模様だ。
私服に身を包んだ生徒たちで溢れる廊下を、名前は急ぎ足で身を隠すように歩いていた。一晩でスリザリンの得点が50点も増えたという事件は大きな話題となり、名前は真実を悟られまいと朝食時から縮こまっていた。動物もどきである事を闇雲にひけらかすべきではない。そうマクゴナガルに教えられたのだ。
大広間を出てから程なくして、ミランダはダンブルドアと約束があるからと校長室へ行ってしまった。二人で何を話すのかは想像もつかないが、昨日の今日で自分の話が出ないはずも無い。名前はそわそわと浮き足立ったまま、自分が達成した事柄を伝えるべく人物を探していた。セブルスだ。
名前が朝食の席に着いた頃にはセブルスの姿は既に無かった。誰かに訊ねようにも、名前以上に彼の居場所を知るスリザリン生がいるとは思えない。必然的に名前は城中を探さねばならなかった。談話室や図書館のいつもの席は勿論、西の中庭や魔法薬学の教室まで隈なく探しても尚、セブルスの影は見当たらない。名前が他に思い当たる場所は一つだった。8階の部屋のような、想像もつかない秘密の場所で彼が何らかの作業をしている可能性は十分にある。とは言え湖のほとりに一度足を運ぶ価値はあるだろう。名前はそう決心し、地下室から出て階段を上り、校庭へと続く道のりを急いでいた。
休日の校庭では生徒たちが思い思いに羽根を伸ばして遊んでいる。新入生と思われる小さなグリフィンドール生たちが名前の脇をすり抜け、遠くに見えるハグリッドの小屋を指差しながら走って行った。名前はそれを微笑ましく思いながら、湖に接する森のはずれを目指し始めた。もしセブルスが見つからなければ、帰り道にハグリッドの小屋に寄ってみようか。グリフィンドールの一年生たちを目で追っている内に、名前は久々にハグリッドに会いたくなっていた。湖のほとりに行く前に、少し覗いてみても良いかもしれない。しかし石畳の道を外れるよりも早く、聞き覚えのある声に名前はぴたりと足を止める事となった。
「お前がピーターに呪いをかけた事は分かってるんだぞ、スニベルス!」
名前が振り返った先では、箒を抱えたジェームズ・ポッターと頭から爪先まで真っ黒な姿のセブルス・スネイプが口論をしていた。彼らの姿は城壁の影に隠れていて、周りには他に誰もいない。今にも杖を抜き出さんばかりの勢いに、名前は慌てて二人の元へと駆け寄った。
「ピーターはお前とすれ違った後、気付けば掃除用具の部屋に倒れてたんだと。一体何をしたんだ?お前の事だ、彼から何か盗ったんだろう」
「僕があんなやつの何を欲しがるって言うんだ?夢でも見たんだろう、あの間抜け」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
名前が二人の傍にたどり着いた頃には、ポッターがセブルスの胸元に掴みかかり、既に一触即発の状態となっていた。セブルスは右手でローブにしまわれた杖を掴んだが、その隙を捉えたポッターの方が一枚上手だった。
「嘘だと言うなら、これを取り返してみろスニベルス!」
ポッターはそう叫ぶなり片足で箒に跨り、セブルスのポケットからくすねた薬草をこれ見よがしに掲げて空へと飛び出した。猛スピードで上昇したポッターの姿はあっという間に小さくなり、雲の切れ間から指す光がきらりと彼の眼鏡に反射した。
「ポッター!!返せ!!止まれ!!」
「なに、どうしたの、何を取られたの?」
宙に向かって叫ぶセブルスの肩に手をかけ、名前は彼を見てたずねた。
「ポッターが悪いの?それとも、あなたぺティグリューから何か盗んだの?」
「あの出来損ないの事はどうだっていい!」
セブルスからポッターに対する苛立ちと等しいものを向けられ、その荒々しさに名前は一瞬怯んだ。頭上ではポッターがセブルスを挑発するように薬草をわざと落とし、それをキャッチするを繰り返している。目にもとまらぬ速さだ。グリフィンドールの名シーカーを前に、地面に突っ立っているスリザリンの二人はかくも無力に見えた。
「君は…」
セブルスは名前を指さしてから、その手をそのまま額に戻し頭を抱えながら呻いた。
「飛べない。知っている。今の君に手伝ってもらうことは無い、あっちに行ってくれ」
「ちょっと!」
良からぬ魔法を繰り出そうと杖を構えたセブルスの腕を掴んで、名前は叫んだ。
「決めつけないでよ。ねえ、セブルスが悪いんじゃないなら私が取り返してあげる」
「何言ってるんだ?」
セブルスは怪訝そうに眉をひそめ、名前の手を振りほどこうとした。
「そんなの君に出来るわけー…」
「答えて!!どっちなの?」
名前の必死の勢いにセブルスは息を飲み、唇をほとんど動かさぬまま小さく呟いた。
「僕は悪くない」
セブルスの答えを聞くや否や、名前は白鷺としての羽を広げて空へと飛び上がった。目を見開いたポッターの姿がどんどん近くなっていく。箒での飛行とは全く違う、完全にコントロールが効くこの状態に名前は歓声をあげそうになった。しかし今は素早く薬草を取り返し、目撃者のいない内に元の姿に戻らなければ。名前はスピードを上げ、ポッターの真横に躍り出た。ポッターは呆然とするばかりで、意外にも全く抵抗を見せない。名前は彼の手に握られた薬草をくちばしで奪い取り、急降下して地面に降り立った。
「うえっ」
元の姿に戻った途端、噛み締めていた薬草の苦味が口に広がり、名前は慌ててそれを吐き出した。
「はい、どうぞ」
薬草を差し出した先では、セブルスがポッターと全く同じ顔をして立ち尽くしていた。その反応を見て、名前はうずうずと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。初めてセブルスに一泡吹かせる事が出来たのだ。
「ね、そういう訳で、私ー…」
「苗字!!」
名前の言葉に覆いかぶさるように、いつの間にか地面に降りてきたポッターが大声で叫んだ。
「苗字、君に聞きたい事がある!」
セブルスはポッターを睨みつけると、名前からさっと薬草を受け取り身を翻して歩き出した。名前は急いでその後を追い、ポッターの呼び掛けを聞かなかった事にした。
「苗字、待ってくれ!今まで君にした事は謝る!頼む、僕の話を聞いてくれ!!」
「絶対に関わるんじゃない」
走るように城へと向かいながら、セブルスが呟いた。ポッターの声は次第に遠くなり、追いかける事も諦めたのか、遂にその叫びは聞こえなくなった。
「ねえ、そんな事よりセブルス!」
何の感想も漏らさない彼の様子に腹立たしさを覚えながら、名前はセブルスのローブを引っ張った。セブルスはそれでも立ち止まることなく、一心不乱に前を向いて歩いている。
「さっきの、私が白鷺に変身したの見てたでしょう!?」
「他に何を見てたと言うんだ」
セブルスの素っ気ない答えに、名前は掴んでいたローブをはらりと手放した。
「セブルスが…」
少しでも褒めて貰えるかと思ったのに。名前は沈む心に歩幅を縮め、か細い声で呟いた。
「動物もどきになったら、私の能力を認めてくれるって言ったのに…」
「そんなもの」
セブルスはぴたりと歩みを止め、名前に向き直って言った。
「…とっくに認めている」
名前は驚いて顔を上げ、目の前の黒い瞳をじっと見た。セブルスは照れくさそうに名前から顔を背け、雲に覆われた城を目指して再び早足で歩き始めた。
8階の部屋で白鷺へと変身した後、名前はミランダと共に放心状態となり、しばらく二人して部屋の隅に座っていた。途切れ途切れに会話をしながら、いつの間にか現れた大窓の外をぼんやりと眺めていたのだ。名前が動物もどきの成功を自覚し、なすべき事を思い出したのは空に夕焼けが広がり始めた頃だった。名前は夕食に向かうマクゴナガルを廊下で捕まえ、取り急ぎの報告をした。名前の頭にはマクゴナガルが多少驚くであろう事と、寮の得点をいくらか貰えるかもしれないという考えしかなかった。しかし事は予想外の方向へと向かっていった。名前の変身をその目で確かめるやいなや、マクゴナガルは大広間での夕食をキャンセルし、名前は変身術の教室に缶詰めにされながら無数の書類に目を通す羽目になったのだ。
そして門限も過ぎた21時。名前はこれまで訪れた事もなかった校長室の真ん中に立っている。部屋の奥の書斎にダンブルドアが腰掛け、名前の目の前ではマクゴナガルと魔法省から出向いた二人の男性が何やら小難しい話をしていた。一人は小柄で白髪まじりの初老の魔法使い、もう一人は40代くらいだろうか、四角い頭が印象的だ。魔法省の役人たちは暖炉から出てきた際、名前に握手しながら自己紹介をしたが、あまりに突然だったが故に名前は二人の名前を既に忘れてしまっていた。
「さて、これで必要な書類は全て揃いましたな」
ダンブルドアが今しがたサインした羊皮紙を受け取りながら、初老の魔法使いが言った。
「それでは肝心の変身をチェックさせて頂きましょうか」
「少し距離をとった方が良いでしょう、彼女の動物もどきは羽を広げる可能性が高いので」
マクゴナガルの言葉に大人たちは頷き、それぞれが名前との間隔を一定以上保つように立ち位置を移動し始めた。名前はその様子をただ眺めながら、相変わらず気まずい思いで手元をもじもじといじっていた。
「それではミス・苗字」
名前と2メートルほどの距離を空けた状態で、魔法省の役人が声をかけた。
「変身を始めてくれるかね?」
「はい」
名前は頷き、深呼吸をして真っ白な鷺に姿を変えた。昨日まであんなにも苦戦していたのが嘘のようだ。マクゴナガルの言っていた通り、一度習得してしまえばその後の変身は容易なものだった。名前の姿を見た魔法省の二人が声を上げて拍手をし、その奥でダンブルドアがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、もういいでしょう」
初老の魔法使いが手を掲げたのを合図に、名前は全身の力を抜くようにして変身を解いた。
「素晴らしい、実に素晴らしい。13歳でこの実力とはまさに天才だ」
魔法省の二人が改めて拍手をし、名前は照れながら頭を下げた。そろそろ解放されるのだろうか。目まぐるしく過ぎた一日に、名前は眠気を覚え始めていた。
「これで登録は完了ですね。ご苦労様でした、レイモンド」
初老の魔法使いが書類の枚数を確認するのを手伝いながら、マクゴナガルが声をかけた。
「土曜日の夜に呼び出してすみませんでした。本来ならば休日でしょうに」
「いや、ミネルバ、とんでもない!」
レイモンドと呼ばれた魔法使いはにこやかに微笑みながら、名前を見て言った。
「こんなにも優秀な学生に会えるなんて、一生に一度あるか分からない!」
「将来はぜひ魔法省へ」
そう言いながらもう一人の魔法使いが再び名前に手を差し出し、名前は曖昧な表情でそれに応えた。四角い頭をした彼の手は名前の2倍ほどもあり、握られた手の握力には思わず眠気が覚めんばかりだった。
「これだけ変身術に優れた職員がいれば、魔法法執行部は大助かりだろう。かつての貴女のような働きをしてくれそうですね、ミネルバ?」
「あなたは私が働いていた頃を知らないでしょう」
照れたように笑いながら、マクゴナガルが呟いた。
「それにこの子が魔法省に入るためには、もう少し他の成績を上げませんと…」
マクゴナガルの言葉を聞いて、名前はどきりと心臓が脈打つのを感じた。変身術以外の成績において、自分はあまり優秀ではないらしい。中でも魔法薬学が足を引っ張っているのだろう。名前は昨年度の期末試験での成績を思い出し、心の中で小さく呻いた。
「それでは我々はこれで」
レイモンドが杖を一振りすると、書類が宙を舞いひとりでに彼の鞄の中へと収まった。マクゴナガルが暖炉脇の缶を手に取り、蓋を開けて中からフルーパウダーをひとつまみ取り出した。
「おお、レイモンド、渡し忘れが」
魔法省の二人が暖炉に足を踏み入れかけたその時、部屋の奥からダンブルドアがいそいそとやって来て、レイモンドたちは暖炉からすっと足を戻した。ダンブルドアは「すまんのう」と断りながら、金色の煌びやかな糸細工が施された小袋を彼らに手渡した。
「わしからの休日手当じゃ。美味しいレモンキャンディでのう、きっと気に入ると思う」
「アルバス、お気遣い頂いてー…」
大人たちの別れ際の会話が再度始まり、その輪に入れぬ名前は口を閉じたまま周囲をぼんやりと眺めていた。肖像画はもう全員寝てしまったようだ。名前は視線を奥へとやり、分厚い本が敷き詰められた壁を見た。ダンブルドアがいつから持っている本なのか名前には想像もつかないが、どれもかなり古い物に違いない。偉大な魔法使いの叡智の源に、名前は一人感じ入っていた。そしてふと、棚の一角に見慣れた物体が置かれている事に気付いた。組分け帽子だ。
組分け帽子はくたびれた姿で、じっと動かずに飾られていた。在校生にとっては最早お馴染みのその様子だが、あの帽子が初めて動いた時はどんなに驚いたか。名前は入学式のあの日、突然口を開いたボロボロの帽子にリーマスと二人して飛び上がりそうになった事を思い出した。あの時はまさか自分がスリザリンに組分けされ、挙句の果て動物もどきになるなど想像すらしていなかった。
しかし…組分け帽子を眺めている内に、名前は胸の奥がざわめき始めるのを感じた。組分け帽子には、こうなる事が最初から分かっていたのだろうか。あの日帽子が耳元で囁いた、スリザリンで得られる天才的な才能とは、動物もどきの事だったのだろうか。暖炉脇で繰り広げられる大人たちの会話を遠くに覚えながら、名前は帽子の言葉の意味を再び考えていた。
スリザリンにしかないきっかけが何だったかと問われれば、やはり答えはミランダの存在になるだろう。以前ミランダ本人は笑って否定したが、動物もどきの対象である白鷺について教えてくれたのは彼女だ。新学期最初の日、ミランダと共に湖のほとりに行かなければ、あの白鷺の姿を見ることはなかった。そしてスリザリンに組分けされていなければ、あの不思議な年上の少女とは決して知り合う事など無かっただろう。
「ではでは、今度こそおいとませねば」
レイモンドの声に名前はハッと我に返り、いそいそと暖炉の側へ寄った。
「引き止めてすまなかったのう」
「いやあ!素晴らしい夜でしたよ。なあ、クインビー?」
「全くです」
四角い頭の魔法使い、クインビーは暖炉に足を踏み入れる前に名前を振り返り、力強い眼差しで微笑みながら言った。
「五年後、魔法省でお会いしよう」
二人の大人は緑の煙に包まれ、暖炉から一瞬の内に姿を消した。
校長室に静けさが戻り、名前は所在なさげにマクゴナガルを見た。マクゴナガルは名前に背を向ける形でフルーパウダーの入れ物を片付けている。暖炉脇から身を翻したダンブルドアと目が合い、名前は反射的に背筋をすっと伸ばした。
「そうじゃ、ミス・苗字、君にこそ褒美をやらんとのう」
そう言いながらダンブルドアは机へと向かい、名前についてくるよう手招きした。名前は先程まで眺めていた部屋の奥へと足を踏み入れ、ダンブルドアの机の前で彼が引き出しから取り出す何かを待った。
「実に見事な変身じゃった。わしもマクゴナガル先生も誇らしい気持ちでいっぱいじゃ」
レイモンドたちに渡した小袋と同じものを名前に差し出しながら、ダンブルドアが言った。
「わしのおすすめのレモンキャンディじゃよ。それと、スリザリンに50点与えよう」
「ごっ」
受け取ったばかりの小袋を落としかけ、名前は思わず声を上げた。
「50点ですか?」
「そうじゃよ。足りんかね?」
ダンブルドアはおかしそうに笑い、胸まで伸びるあご髭を撫でた。特徴的な半月眼鏡の奥で青い瞳が若々しく輝いている。
「いいえ!逆です、50点なんて…」
名前はしどろもどろになりながら、レモンキャンディの入った包みを両手で握りしめた。
「そんなに貰っていいんでしょうか」
「勿論ですとも」
いつの間に現れたのか、名前はすぐ隣に立つマクゴナガルの声に顔を上げた。二人の教師は優しく微笑み、名前の努力をこの上なく労わろうとしてくれている。
「くどいようではありますが、動物もどきとは大変高度な魔法です。ごく僅かな魔法使いにしか習得出来ません。それをあなたは、その歳で、ほんの数ヶ月でやってのけましたー…」
名前はマクゴナガルの姿越しに、ふとあの組分け帽子を見た。相変わらずピクリとも動かぬまま、棚の上にひっそりと飾られている。名前は今この場で、組分け帽子を再び被りたい衝動に駆られた。帽子の言った才能とは動物もどきの事だったのだろうか。スリザリンにしかないきっかけとは、ミランダの存在なのだろうか。
どうしても答え合わせがしたい。組分けの真実を知れば、スリザリンへの違和感を拭い去る事が出来るかもしれないー。
「ミネルバ」
静かに響いたダンブルドアの声に名前は急いで視線を戻した。ダンブルドアは名前をちらりと見た後、マクゴナガルに顔を向けて言った。
「ミス・苗字はわしが寮まで送り届けよう。君はもう休みなさい」
「そうですか?申し訳ないですね」
言葉とは対照的にマクゴナガルはさっと身を翻し、まるで示し合わせていたかのようにあっさりと校長室のドアへ向かった。ぽつんと佇む名前に「おやすみなさい」と一言告げて、マクゴナガルは廊下へと続く階段を降りていった。扉が閉まり、マクゴナガルの足音が遠くへ消えてから、ダンブルドアがゆっくりと口を開いた。
「組分け帽子が気になっているようじゃな?」
「あっ…はい」
自分の行動を全て見透かされていた事に気付き、名前は顔を赤らめながら答えた。
「その…入学式の日、帽子に不思議な事を言われたんです。それが今でもずっと気になっていて…」
「変身術の事かの?」
「そうだと思いたいんですけど…よく分からないんです」
ダンブルドアが帽子を被ってみないかと言ってくれはしないだろうか。名前はサインを送るように帽子とダンブルドアを交互に見ながら、下唇を軽く噛んだ。
「もう一度聞いてみるかね?」
ダンブルドアはゆっくりと立ち上がり、数歩進んで組分け帽子が収められた棚に手をかけた。名前は途端に全身が緊張に包まれるのを感じた。ダンブルドアの手に乗って、あのボロボロの帽子がこちらへ近付いてくる。
ダンブルドアが手をさっと振ると、名前の横に見覚えのある丸椅子が現れた。ホグワーツの生徒ならば誰しも一度は腰掛けたであろう、入学式で使われるあの椅子だ。名前は黙ってそこに座り、組分け帽子が頭の上に被せられるのをじっと待った。
名前の頭に触れた瞬間、古びた帽子は眠りから突然目覚めたかのようにハッと息を吸い、名前の髪を持ち上げんばかりに鍔を大きく動かした。帽子に眉までをすっぽり覆われ、未知の生き物のように動くその様子に懐かしさを感じながら、名前はおずおずと帽子に話し掛けた。
「私の組分けの事、覚えてますか?」
「一人とて組分けの結果を忘れたことは無い!」
耳元で大きく響いたその声に、名前は慌てて帽子の両鍔を持ち、頭から少しだけ浮かせるようにして持ち上げた。
「あの…あなたが言った才能についてなんですけど…私、ちゃんと伸ばせてますか?」
「君は着実に力をつけている。私の言った事に間違いがないのは分かっているはずだ」
「じゃあ、あの才能っていうのはやっぱり変身術の事なんですね?」
一つ目の答え合わせに胸を撫で下ろしながら、名前は畳み掛けた。
「スリザリンにしかないきっかけって、何ですか?私はもう見つけられてますか?」
「無論、君は見つけておる」
「そのきっかけって、私の友達ですか?」
帽子の次なる答えにはやる気持ちを抱きながら、名前は早口で訊ねた。
「ミランダ・フラメルの事ですか?」
すると名前の握っていた帽子はだらんと鍔を垂れ、部屋に突然の静寂が訪れた。名前は息を止めて帽子の答えを待っていたが、頭の上に乗せたそれはぴくりとも動かない。
「あれ…?」
名前は帽子の表面を探りながら、そこに表情があるかを確かめた。しかし手に感じるのはざらざらとした古い布の質感のみである。
「どうやら帽子には黙秘権があるようじゃのう」
名前の頭からそっと帽子を離し、ダンブルドアが笑って言った。
「答えられないのか、答えたくないのかは分からんが…」
「そんな…私それが知りたかったんです」
期待を裏切られた事にがっくりと肩を落としながら、名前はダンブルドアに言った。
「帽子は私の才能…変身術の才能が、スリザリンであれば他の寮よりもっと伸びるって言ったんです。スリザリンにしか無いきっかけがあるからって…それで、私が動物もどきになる為のヒントをくれたのが友達なんです」
理路整然と言葉をまとめている余裕は無かった。名前はダンブルドアの静かな瞳を見つめて、この偉大な魔法使いが何かしらの答えをくれるのではないかと再び希望を抱き始めた。
「ミランダ・フラメルが私に変身のヒントをくれたんです。先生も彼女の事はよくご存知でしょう?」
「そうじゃな」
ダンブルドアは椅子に腰掛け、半月メガネをぐいと押し上げて答えた。
「聞いている限りでは、君の中でもう答えは出ているようじゃがの」
名前は息を飲み、ダンブルドアの手元にある帽子へ視線を移した。帽子はただの帽子として横たわったままだ。やはり、そうなのか。きっかけとはミランダの事だったのか。
「しかし何であれ…ミス・フラメルに君という素敵な親友が出来た事はわしも嬉しく思っておる」
ダンブルドアは名前の前で手を組み、優しく微笑んで言った。
「彼女は様々な力を持つと共に、様々な制限に縛られてもいる。正直、わしは彼女が友人を一人も作らぬまま卒業していくのではないかと心配しておったんじゃ」
「でも、ミランダって本当に普通の子です。いや、その」
とっさの発言を取り繕うように、名前は慌てて言葉を付け足した。
「良い意味で、普通の女の子だと思います。もちろん石とか、彼女の家とか、不思議な事はいっぱいありますけど…でも彼女自身はとても魅力的だし、実は社交的なんじゃないかって思う時もあります」
「それは彼女が心を開いた君だからこそ観察できる点じゃな」
ダンブルドアは興味深そうに名前の瞳を覗き込んだ。
「わしはミス・フラメルの家族と親交がある…ゆえに彼女が抱える奇妙な制約についても、一部理解しているつもりではあるが」
ダンブルドアはおもむろに立ち上がり、組分け帽子を棚に戻しながら言葉を続けた。
「彼女から石を預かるほど信頼されるというのは相当な事じゃ。ミス・苗字、君にはそうさせるだけの特別な何かがあるのじゃろう」
「それは…」
名前は棚の上の帽子から目を離さぬまま訊ねた。
「才能という意味でですか?」
「いいや」
名前の想像と裏腹に、ダンブルドアはゆっくりと首を振った。
「人柄や、信念じゃよ」
目をぱちくりさせる名前をよそに、ダンブルドアはそのまま書斎の小階段を降り、振り返って小さく手招きした。
「すっかり遅くなってしまったのう。いくら明日が日曜とはいえ、夜更かしは禁物じゃ」
校長室からスリザリン寮までの道のりをダンブルドアと歩くというのは、とても奇妙で新鮮であると同時に、不思議な緊張感が漂うものでもあった。すれ違う見回りの監督生が、何か大変な事をやらかしたのだろうとばかりに名前の姿を目で追ってくる。明日何かしら良くない噂でも流れてしまうんだろうか。暗がりの階段を杖灯で照らしながら、名前とダンブルドアはゆっくりとホグワーツの地下へ向かった。
「ここに来るのは久しぶりじゃのう」
スリザリン寮の入口付近に着いた頃、ダンブルドアが口を開いた。
「スリザリンの諸君は規則を破っても、うまくそれを隠すものじゃ…なのでこうしてわしが寮まで送り届けるというのは稀での」
名前は曖昧に微笑みながら、合言葉で石の扉が開くのを待った。扉が消え去った先に見える談話室の風景は、相変わらず暗く陰気だ。
「それではおやすみ」
「おやすみなさい」
ダンブルドアに見守られながら、名前は談話室の入口へと足を踏み入れた。そして背中にまだダンブルドアの視線がある事を確認して、さっと彼を振り返った。
「先生から見て、私ってスリザリンらしいですか?」
「何とも答えにくい質問じゃのう」
名前の最後の問いかけに、ダンブルドアはくすくすと笑った。
「らしいところもある、と言っておこうかの。君のひたむきな向上心や友人に対する誠実さは、スリザリンが求める理想に近いとわしは思う」
「…ありがとうございます。おやすみなさい」
名前は誰もいない談話室を早足で通り抜け、ポケットから気配消しの石を取り出し自室のベッドへ飛び込んだ。考えたい事が山ほどある。しかし柔らかな枕に頭を預けた瞬間、まどろむ暇もなく名前は眠りへと落ちていった。
日曜日は分厚い雲と夏の終わりの太陽が互いに競い合っているような、はっきりとしない天気だった。この時期のホグワーツらしい空模様だ。
私服に身を包んだ生徒たちで溢れる廊下を、名前は急ぎ足で身を隠すように歩いていた。一晩でスリザリンの得点が50点も増えたという事件は大きな話題となり、名前は真実を悟られまいと朝食時から縮こまっていた。動物もどきである事を闇雲にひけらかすべきではない。そうマクゴナガルに教えられたのだ。
大広間を出てから程なくして、ミランダはダンブルドアと約束があるからと校長室へ行ってしまった。二人で何を話すのかは想像もつかないが、昨日の今日で自分の話が出ないはずも無い。名前はそわそわと浮き足立ったまま、自分が達成した事柄を伝えるべく人物を探していた。セブルスだ。
名前が朝食の席に着いた頃にはセブルスの姿は既に無かった。誰かに訊ねようにも、名前以上に彼の居場所を知るスリザリン生がいるとは思えない。必然的に名前は城中を探さねばならなかった。談話室や図書館のいつもの席は勿論、西の中庭や魔法薬学の教室まで隈なく探しても尚、セブルスの影は見当たらない。名前が他に思い当たる場所は一つだった。8階の部屋のような、想像もつかない秘密の場所で彼が何らかの作業をしている可能性は十分にある。とは言え湖のほとりに一度足を運ぶ価値はあるだろう。名前はそう決心し、地下室から出て階段を上り、校庭へと続く道のりを急いでいた。
休日の校庭では生徒たちが思い思いに羽根を伸ばして遊んでいる。新入生と思われる小さなグリフィンドール生たちが名前の脇をすり抜け、遠くに見えるハグリッドの小屋を指差しながら走って行った。名前はそれを微笑ましく思いながら、湖に接する森のはずれを目指し始めた。もしセブルスが見つからなければ、帰り道にハグリッドの小屋に寄ってみようか。グリフィンドールの一年生たちを目で追っている内に、名前は久々にハグリッドに会いたくなっていた。湖のほとりに行く前に、少し覗いてみても良いかもしれない。しかし石畳の道を外れるよりも早く、聞き覚えのある声に名前はぴたりと足を止める事となった。
「お前がピーターに呪いをかけた事は分かってるんだぞ、スニベルス!」
名前が振り返った先では、箒を抱えたジェームズ・ポッターと頭から爪先まで真っ黒な姿のセブルス・スネイプが口論をしていた。彼らの姿は城壁の影に隠れていて、周りには他に誰もいない。今にも杖を抜き出さんばかりの勢いに、名前は慌てて二人の元へと駆け寄った。
「ピーターはお前とすれ違った後、気付けば掃除用具の部屋に倒れてたんだと。一体何をしたんだ?お前の事だ、彼から何か盗ったんだろう」
「僕があんなやつの何を欲しがるって言うんだ?夢でも見たんだろう、あの間抜け」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
名前が二人の傍にたどり着いた頃には、ポッターがセブルスの胸元に掴みかかり、既に一触即発の状態となっていた。セブルスは右手でローブにしまわれた杖を掴んだが、その隙を捉えたポッターの方が一枚上手だった。
「嘘だと言うなら、これを取り返してみろスニベルス!」
ポッターはそう叫ぶなり片足で箒に跨り、セブルスのポケットからくすねた薬草をこれ見よがしに掲げて空へと飛び出した。猛スピードで上昇したポッターの姿はあっという間に小さくなり、雲の切れ間から指す光がきらりと彼の眼鏡に反射した。
「ポッター!!返せ!!止まれ!!」
「なに、どうしたの、何を取られたの?」
宙に向かって叫ぶセブルスの肩に手をかけ、名前は彼を見てたずねた。
「ポッターが悪いの?それとも、あなたぺティグリューから何か盗んだの?」
「あの出来損ないの事はどうだっていい!」
セブルスからポッターに対する苛立ちと等しいものを向けられ、その荒々しさに名前は一瞬怯んだ。頭上ではポッターがセブルスを挑発するように薬草をわざと落とし、それをキャッチするを繰り返している。目にもとまらぬ速さだ。グリフィンドールの名シーカーを前に、地面に突っ立っているスリザリンの二人はかくも無力に見えた。
「君は…」
セブルスは名前を指さしてから、その手をそのまま額に戻し頭を抱えながら呻いた。
「飛べない。知っている。今の君に手伝ってもらうことは無い、あっちに行ってくれ」
「ちょっと!」
良からぬ魔法を繰り出そうと杖を構えたセブルスの腕を掴んで、名前は叫んだ。
「決めつけないでよ。ねえ、セブルスが悪いんじゃないなら私が取り返してあげる」
「何言ってるんだ?」
セブルスは怪訝そうに眉をひそめ、名前の手を振りほどこうとした。
「そんなの君に出来るわけー…」
「答えて!!どっちなの?」
名前の必死の勢いにセブルスは息を飲み、唇をほとんど動かさぬまま小さく呟いた。
「僕は悪くない」
セブルスの答えを聞くや否や、名前は白鷺としての羽を広げて空へと飛び上がった。目を見開いたポッターの姿がどんどん近くなっていく。箒での飛行とは全く違う、完全にコントロールが効くこの状態に名前は歓声をあげそうになった。しかし今は素早く薬草を取り返し、目撃者のいない内に元の姿に戻らなければ。名前はスピードを上げ、ポッターの真横に躍り出た。ポッターは呆然とするばかりで、意外にも全く抵抗を見せない。名前は彼の手に握られた薬草をくちばしで奪い取り、急降下して地面に降り立った。
「うえっ」
元の姿に戻った途端、噛み締めていた薬草の苦味が口に広がり、名前は慌ててそれを吐き出した。
「はい、どうぞ」
薬草を差し出した先では、セブルスがポッターと全く同じ顔をして立ち尽くしていた。その反応を見て、名前はうずうずと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。初めてセブルスに一泡吹かせる事が出来たのだ。
「ね、そういう訳で、私ー…」
「苗字!!」
名前の言葉に覆いかぶさるように、いつの間にか地面に降りてきたポッターが大声で叫んだ。
「苗字、君に聞きたい事がある!」
セブルスはポッターを睨みつけると、名前からさっと薬草を受け取り身を翻して歩き出した。名前は急いでその後を追い、ポッターの呼び掛けを聞かなかった事にした。
「苗字、待ってくれ!今まで君にした事は謝る!頼む、僕の話を聞いてくれ!!」
「絶対に関わるんじゃない」
走るように城へと向かいながら、セブルスが呟いた。ポッターの声は次第に遠くなり、追いかける事も諦めたのか、遂にその叫びは聞こえなくなった。
「ねえ、そんな事よりセブルス!」
何の感想も漏らさない彼の様子に腹立たしさを覚えながら、名前はセブルスのローブを引っ張った。セブルスはそれでも立ち止まることなく、一心不乱に前を向いて歩いている。
「さっきの、私が白鷺に変身したの見てたでしょう!?」
「他に何を見てたと言うんだ」
セブルスの素っ気ない答えに、名前は掴んでいたローブをはらりと手放した。
「セブルスが…」
少しでも褒めて貰えるかと思ったのに。名前は沈む心に歩幅を縮め、か細い声で呟いた。
「動物もどきになったら、私の能力を認めてくれるって言ったのに…」
「そんなもの」
セブルスはぴたりと歩みを止め、名前に向き直って言った。
「…とっくに認めている」
名前は驚いて顔を上げ、目の前の黒い瞳をじっと見た。セブルスは照れくさそうに名前から顔を背け、雲に覆われた城を目指して再び早足で歩き始めた。