第一部
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青白く輝く満月の下、ホグワーツは新学期最初の晩餐を迎えていた。大広間は生徒たちの笑い声に溢れ、あちこちからカチャカチャと食器の音が鳴り響く。組分けの儀式では気絶せんばかりに緊張していた新入生たちも、宴が始まって一時間も経つ頃にはリラックスの表情を浮かべていた。
テーブル上のデザートがすっかり空になったタイミングで、ダンブルドアが立ち上がり祝席のお開きを告げた。生徒たちはまばらに立ち上がり、右も左も分からない一年生たちを集める監督生の声が四つのテーブルから響く。そんな夜を迎えるのも3回目となり、ホグワーツの生活にすっかり慣れきった名前は人波が落ち着くまで席に座ったまま待つことにした。
「それにしても、夏休みだっていうのによくここまで頑張ったわね」
書き込みでびっしりになった名前のノートをめくりながら、ミランダが言った。
「彼も彼ね。こんなのほとんど嫌がらせじゃない」
ノートには、名前がセブルスとの会話で拾い上げた動物の名前が所狭しと書かれていた。夏休み前と唯一違うのは、その名前のいくつかがバツ印で消されているところだ。後ろのページには、それぞれの動物に関する短い考察が記されている。休暇の間名前がいかに思い悩み、どれほど"練習"したかが一目で分かるノートだった。
「そうかな?私としては、セブルスなりの励ましだったと思うんだけど…」
そう言う名前に呆れたような笑みを向けて、ミランダはノートをぱたんと閉じた。新入生が監督生に連れられて去り、その後に続いて上級生がぞろぞろと扉の前に列をなしている。その混み合うさまに名前はまだ立ち上がる気になれず、段々と人が減っていく周囲をぼんやりと眺める事にした。
扉へ向かう在校生の列の中にもセブルスはいないようだ。ホグワーツに着いてから彼の姿を一度も見ていない事が、名前には心底気がかりだった。ホグズミード駅で後ろ姿を見かけた気がする。しかしご馳走が並ぶテーブルの隅から隅を見渡してもセブルスの影は無く、名前は彼に何かあったのではないかと考えずにはいられなかった。
誰か、彼の居場所を知っている人はいないだろうか。名前は複雑な思いでリリーを探し始めた。しかしグリフィンドールのテーブルに彼女の姿は見られない。それどころか自分と同じく気だるげに座ったままのジェームズ・ポッターと目が合ってしまい、名前は思わず弾けるようにして席を立った。
「行こうミランダ、もう行こう」
名前はミランダを急かしたて、立ち上がった彼女の背中を押して扉へと向かった。ポッターと同じ行動を取っていると思うと、心の底から嫌気が差すようだ。名前は混雑した大階段下の踊り場を抜け、地下に続く階段へ足を踏み入れた。
「あ、ちょっと名前」
ローブの裾を急に引っ張られ、名前はバランスを崩して転びそうになった。名前より一段上に立つミランダがそれを両手で受け止め、来た道を振り返りながら言った。
「私、満月草を取りに湖の方まで行かなきゃいけないの。ほら、今日って満月でしょう?」
「えっ今から?」
あまりに予想外な申し出に、名前は素っ頓狂な声をあげてしまった。ミランダの一風変わった言動にはもう慣れたつもりでいたが、まさか新学期初日の夜に規則を破って城を抜け出そうとするとは。名前は眉をひそめながらポケットに手をやり、麻袋に入った気配消しの石を取り出した。
「満月草なんて…温室のじゃダメなの?」
石の指輪を右手の中指に嵌めながら名前は訊ねた。
「そもそも何に使うの?」
「詳しくは言えないけど…ある魔法薬を作る必要があって」
そう軽く答えて、ミランダは名前が取り出したのと同じ指輪を嵌めた。彼女の返事から察するにその魔法薬が何かは教えてもらえないだろう。名前は詮索を諦め、談話室へ向かう人混みをかき分けながら校庭に続く扉へと早足で向かった。
空には雲一つなく、冷たい白色の大きな満月が不気味なほど美しく輝いていた。初秋の夜風が肌に心地よい。名前とミランダは月の光だけを頼りに石の道を下り、草が生い茂った道を走るように抜け、あっという間に静かな湖のほとりにたどり着いた。
ここへ来たのは一年生のバレンタインデー以来だ。名前はあの日の出来事を思い出しながら、暗い森の入口へ向かうミランダの後を追った。忘れもしない。一年半前の満月の夜、セブルスをここに案内したのだ。行く手を塞ぐシダの葉はあの時よりも更に背丈を増したようだった。満月草の広がる草むらへと続く最後の一葉に手をかけたところで、ミランダが名前に囁いた。
「何かいる」
ミランダが唇に人差し指を当てたのを見て、名前は開きかけた口を咄嗟に閉じた。不気味な静寂の中に、サク、と草を踏みしめるような音が小さく響いた。間違いなく何かがシダの葉の向こうで動いている。
湖のほとりとは言え、ここはホグワーツの森の一部だ。飢えた熊が人里に降りてくるように、森の奥にひそむ魔法生物がここまで来る可能性が無いとは言い切れない。息を殺したまま、ミランダが静かに杖を取り出した。名前も内ポケットに入れた杖にゆっくりと手をかけ、振り向いたミランダと示し合わせるかのように見つめあった。
すると急に暗闇が開け、眩しいばかりの光が名前の目に飛び込んできた。ミランダが目にも止まらぬ速さで、視界を遮っていたシダの葉を押し退けたのだ。ミランダがハッと息を飲んだのと同時に、名前はあっと声を上げた。
「セブルス!」
草の向こうで二人と対峙する形で立っていたのは、緊張した面持ちで杖を構えたセブルスだった。お互いの顔を見るやいなや、名前たちはほっとため息をついて、満月草の広場に足を踏み入れた。
「どうりで大広間にいないと思った!こんな所で何してるの!?」
二ヶ月ぶりに見るセブルスの顔は、さらに痩せて青白くなったように見えた。名前は彼のもとに近付いて、そのローブのポケットからはみ出している何本もの草木を見た。
「スネイプ。どうやらあなたと私、同じ魔法薬を作ろうとしてるみたいね」
セブルスが名前の問いに答える前に、ミランダが落ち着きはらった声で言った。名前は隣に立つセブルスと背後のミランダを交互に見ながら訊ねた。
「何?二人とも何を作ろうとしてるの?」
しかし名前の質問などまるで聞こえなかったかのように、セブルスとミランダは沈黙のなか各々の採集に向き合い始めた。しゃがみ込んで満月草を摘む二人の横で、名前はもやもやを抱えながら腕を組んで待つ他なかった。
セブルスとミランダが草摘みを終えたのは偶然にも同じタイミングだった。ローブの土を払って立ち上がりながら、ミランダがセブルスに言った。
「悪いけどあなたの作戦、上手くいくとは思えないわね。他人への詮索は程々にすべきよ」
「そうやって人の考えを覗き込むような真似はやめろ」
嫌悪感をあらわにしながら、セブルスが噛みつくように答えた。
「気味が悪い」
「それにしても、ここからどうやって帰るつもりだったの?」
セブルスの刺々しい態度をものともせずに、ミランダがたたみかけるように訊ねた。
「新学期初日の夜は外出禁止よ。初日から寮の得点を大幅に差し引こうなんて、かなりの度胸があるじゃない」
「僕はそう簡単に捕まるような間抜けじゃない」
セブルスはミランダから顔を背け、名前をちらりと見た。名前は何と声をかけて良いか分からず、ただ気まずい瞬きをしてその場をやり過ごした。
「それに、そんなのお互い様だろう。君たちには見つからない完璧な手段でもあるっていうのか?」
「ええ、もちろん」
ミランダがさり気なくかざした左手を見て、セブルスは面白くなさそうに舌打ちをした。彼は名前たちに背を向け、校庭へと続く道へ向かい始めた。杖灯り無しでは足下も見えない道だが、満月の夜だけは自然の光が行く手を照らしてくれる。
「でもあなたと一緒に帰るのが嫌だとは言ってないわよ。ね?」
突然自分に向けられたミランダの視線とその言葉に、名前は面食らって口をぱくぱくさせた。
「あ、うん、もちろん。セブルス、良かったら一緒に帰らない?」
名前の申し出にセブルスはぴたりと歩みを止め、不審そうな面持ちで振り返った。
「君たちと一緒に帰れば…その、効果が僕にもあるのか?」
「そうよ」
名前の手を掴んで引き連れながら、ミランダが言った。三人はシダの葉に囲まれたけもの道に円形に立ち、お互いの顔を見合わせた。
「左手を出して」
ミランダに言われるがままに、セブルスがゆっくりと手を差し出した。名前は驚いてミランダを見た。セブルスにも気配消しの石をあげるつもりなのだろうか。あんなにも頑固にセブルスとの親交を拒んでいたミランダが。名前はミランダの表情に気を取られるあまり、彼女に右手を引っ張られた事に気付かなかった。
「はい、これであなたにも効果があるわ。名前が気配を消す石をつけてるから」
右手に重ねられた手の持ち主を見て、名前は何が起きたのかすぐには理解出来ないまま突っ立っていた。赤面は後からやってきた。セブルスは名前の手を掴むでもなく、ただ同じようにあっけに捉えて手元を見ていた。そんな二人に目もくれず、ミランダは先頭をきって校庭へと向かい始めた。
「さ、行きましょ。早く寮に戻って荷解きをしなきゃ」
おずおずと進む名前とセブルスを一瞥して、付け加えるようにミランダが言った。
「スネイプ、ちゃんと彼女の手を握ってなきゃダメよ。新学期の夜はいつもより監視が厳しいんだから」
「手じゃなくて、石だろう」
不服そうに呟きながら、セブルスは名前の手を軽く握って歩き出した。名前は彼のペースを乱さないよう、上半身をぎくしゃくさせながら早足で何とか歩幅を合わせた。
長時間屋外にいたせいか、セブルスの手はひんやりと冷たかった。名前の方はと言うと対照的に、顔も手も火照って仕方がない。手の内に握る汗を悟られまいと必死になりながら、名前は無言で森の中を歩いた。足下の草木が石畳に変わったところで、満月を映す湖が現れ、三人はふとその水面に目をやった。
「あ」
水際にそびえる岩の上に何か白いものが佇んでいるのを発見し、名前は思わず口を開いた。
「何かいる…鳥?」
「鷺だ」
名前の隣で、セブルスが小さく呟いた。鷺は水面に顔を向けながら、微動だにせず立っている。寝ているのだろうか。月光に照らされたその美しい姿に、名前は思わず見入ってしまった。
「あの白鷺、少し前まで二羽だったのよ」
名前たちの前を歩いていたミランダが、足を止めて湖を振り返りながら言った。
「つがいだったの。あの岩の上に一緒にいる所をよく見たわ。でもいつからか、あの一羽だけになった…」
「もう一羽は、どこか遠くに行っちゃったって事?」
名前の問いかけに、ミランダは微笑んで頷いた。
「そうね、遠くに…亡くなってしまったんでしょうね」
名前はあっと息を飲んだ。ショックが胸の奥にのしかかるような気がした。それを聞くと、岩の上の白鷺は悲しそうにうなだれているように見える。
「鷺は一途な生き物なのよ」
湖をまっすぐ見つめながら、ミランダがぽつりと言った。
「一生をかけて、一羽しか愛さない。あの鷺も死んだ片割れを想い続けているんでしょうね…」
新学期初日のホグワーツの夜は、ミランダの言う通り確かに通常よりも多くの見回りが校内をうろついていた。新入生が迷子になっていないか確かめる目的もあるのだろう。教師や監督生の傍を息を殺して通り過ぎながら、名前たちは何とかスリザリンの談話室へとたどり着いた。石の扉を抜けるやいなやセブルスは名前からぱっと手を離し、名前は手の甲に触れるひんやりとした空気に少し寂しさを感じた。
それぞれの寝室へ続く通路で三人は別れ、ローズは三年生の女子部屋へと一人はいっていった。進級しても寝室の並びは今までと変わらない。隣のベッドで寝息をたてるパーキンソンにため息をつきながら、名前は備え付けの机に教科書を並べ、空になったトランクをベッドの下に入れてから横になった。相変わらず暗い部屋だ。少し高めの枕に頭を預けながら、名前はゆっくりと目を閉じた。セブルスの冷たい手の感覚が、まだ右手に少しだけ残っているような気がした。
「夏休み中も魔法を使わずに変身の努力をしていたとは、大変素晴らしい事ですね」
九月最初の土曜日。名前の使い込んだノートをぱらぱらとめくりながら、マクゴナガルが柔らかに微笑みかけた。
「それで、どうでした?何かピンと来るものはありましたか?」
「そうですね…何しろ、数が多くて…ひとつひとつやっていこうとは思っています」
変身術の教室の窓からは、初秋の明るい光が差し込んでいた。名前はマクゴナガルからノートを受け取り、動物リストの最初のページを開いた。動物ごとに共感できるポイントや、魅力的に感じた点が短く書かれている。虫など何も思い浮かばない動物に関しては黒字で大きくバツがされていた。
「分かりました。それではまず…ウサギ、からやってみますか」
名前の手元のノートを覗き込みながら、マクゴナガルが言った。名前は「はい」と頷き、野原で駆け回るウサギを頭に思い浮かべながら、全神経を集中させて動物もどきの変身を試みた。しかし頭に長い耳が生えることも、小さな丸いしっぽが現れることも無く、名前は全身の力が抜けていくのをただ感じるばかりだった。
「きちんと変身する動物のイメージをしていますか?」
10ばかりの動物を試し終わった頃、マクゴナガルが静かに訊ねた。
「はい、そう努力してるつもりなんですが…」
額の際に汗を感じながら、名前は控えめな態度で答えた。
「ウサギだったら、野原をかける姿とか…ヒツジだったら、自分にふわふわの毛があるところとか…やってみてはいるんですけど…」
「それらはちゃんと、見たことがある動物ですか?」
手を後ろに組みながら、マクゴナガルは一瞬のうちに猫へと姿を変え、また一瞬のうちに元の姿へと戻った。
「動物もどきはイメージが非常に大切です。特に初回の変身では、実際に見て印象に残っている動物を思い浮かべなければなりません」
「実際に、ですか?」
名前は目を丸くしてマクゴナガルを見た。マクゴナガルは頷いて、黒板に杖を向けサラサラと板書をし始めた。
「動物もどきに関して、変身が慣れてくる頃に思い浮かべるのは変身後の自分自身です。しかし初めて変身する際…つまり、変身後の自分の姿を知らない場合は、最も共感できる動物の姿を克明に描けなければなりません」
黒板に二つの図を描き終えて、マクゴナガルはゆっくりと杖を下ろした。
「想像の姿とはあやふやなものです。共感する要素があり、なおかつ実際に見て印象に残っている動物はいませんか?」
「えーと…」
名前は急いでノートを見た。猿、穴熊、キツネ、ヤモリ…。どれもこの目で見た事はあれど、それがいつだったのか、はたまた図鑑か現実だったかすら覚えていない。印象に残る程の動物は見当たらなかった。しかし焦りながらページをめくった先に、名前はある動物を見つけた。
「あ…」
「何かありましたか?」
「はい…でも、どうだか…」
名前の目に飛び込んできたのは「鷺」という一文字だった。特徴はほとんど書かれていない。かと言ってバツ印をつけるわけでもなく、そのままリストに置き去りにされていた動物だった。しかし名前の脳裏には、くっきりとある鷺の姿が思い浮かんでいた。満月の夜に湖のほとりで見たあの白鷺だ。名前は息を飲んで、ノートから顔を上げて姿勢をただした。
「分からないですけど…やってみます」
名前は目を閉じて、あの日見た鷺の姿を思い起こした。今までの動物とは比べ物にならない程、くっきりと浮かぶその姿に名前は驚いた。まるであの日に戻って、目の前であの鳥を見ているかのようだ。名前は変身に意識を集中させながら、そのままミランダの言葉を思い出していた。
『鷺は一途な生き物なのよ。一生をかけて、一羽しか愛さない…』
突然、名前は自分の腕に電流が走ったような刺激を感じた。胸の奥から何か重たいものが込み上げ、口から出してくれと言っているかのようだ。途端に名前は恐ろしさを感じ、目を開いて両手を振り払った。
「大丈夫ですか?」
その場にしゃがみ込んだ名前に駆け寄って、マクゴナガルが心配そうに声をかけた。
「はい…」
そう答えながらも、名前は自分が汗でびっしょりになっているのが分かった。腕の力は抜け、まるで自分のものでないような違和感がある。名前はよろよろと立ち上がり、今しがた起こった事への衝撃に目がくらみそうになった。
「何か掴んだようですね」
放心状態で椅子に腰掛ける名前を見下ろしながら、マクゴナガルが言った。
「ですが本日の授業はここまでにしましょう。その動物について、あなたの中で整理する時間が必要かもしれません」
ふらつく足どりで教室を後にしながら、名前の心は興奮と戸惑いでいっぱいだった。今まであんな感覚は味わった事がなかった。それと同時に、名前は自身の中でもう答えが出ている事を自覚していた。
「…鷺なんだ」
中庭へと続く階段を上りながら、名前は小さく呟いた。
自分は鷺なのだ。あのまま変身しようと思えば出来たはずだ。恐怖のあまり、変身を自分自身で止めてしまった。あんなに早く成功させたいと思っていたのに、いざその時が来てみると心がついていかなかった。とりわけ、鷺という動物の特徴に関してだ。名前は自分の覚悟のなさに肩を落とし、太陽の輝く暖かな庭へと足を踏み入れた。
石造りのベンチに腰掛けて本を読みながら、ミランダが名前を待っていた。その脇には茶色い紙袋が置かれている。名前が近付くと、彼女は本から顔を上げて静かに微笑んだ。
「今日はどうだった?」
「ミランダ…」
名前は何から話せば良いか分からず、定まらない視線のまま彼女の隣に腰を下ろした。
「私……私、他の人を好きになれるかな?」
「え?」
名前の言葉にミランダはぱちくりと目を見開いた。名前自身も自分の口からついて出た疑問に驚き、はっと唇に手を当てた。
「何か分かったのね?」
ミランダは紙袋からサンドイッチを取り出し、そのひとつを名前に渡した。
「落ち着いて。食べながら話しましょ」
サンドイッチを機械的に口に運びながら、名前は今日の特別授業で起こった全てを話した。鷺への変身に関して、注意を向けたのはその印象に残る姿だった。特徴に関して特段共感を持ったとは感じていない。共感云々を感じる前に、腕が背中が、勝手に拡がり始めたのだ。
「そうなの…鷺かもしれなのね…」
名前の話を聞き終えて、ミランダがぽつりと呟いた。
「でも、言われてみればぴったりだわ。美しいし、意志の強さも感じるし」
「でも、鷺は一生一羽しか愛さないんでしょう?そんな事言われたら、私ー…」
名前の慌てふためく様子を見て、ミランダがクスクスと笑い出した。その予想外の反応に、名前は口にしたサンドイッチを飲み込む事さえ忘れてしまった。
「動物もどきの法則がどこまで当てはまるかは知らないけど…でも共感するからと言って実際に人生がそうなるかって言われたら、違うんじゃないかしら」
「そう思う?」
「思うわ。例えば私なら…そうね…ヤマネコとか、単独行動をする動物に共感を覚えるけど、実際に自分の人生がそうかって言われると違うわ。二年生になってから、あなたが現れたもの」
名前は頭を抱えながら地面に視線を落とした。確かにミランダの言う通りだ。しかし動物もどきの場合は、単なる共感だけでは変身出来ない。それに名前が感じている恐怖の原因は、鷺に人生を投影してしまう事よりも、大した共感も感じないままに変身の兆しが見えてしまった事にあった。
「…確かめたい。どうせ分かる事なら、今日中にやってしまいたい」
名前は顔を上げ、ミランダの目を見て言った。隣に座る親友は頷き、名前の手にそっと自分の手を重ねた。
二人の向かう場所はひとつだった。土曜日の自由時間を満喫する生徒達を追い越し、名前たちは早足で8階へと向かった。秘密の小部屋がある廊下は、幸いな事にいつも人通りが少ない。お決まりの動作をして現れた扉を開くと、そこはいつもより広い空間に変化していた。名前とミランダは思わず目を見合わせ、神妙な面持ちで部屋へ入った。
部屋の中には机も椅子もなく、窓以外は殆ど何も無い空間だった。奥に大きな鏡がある。いつも過ごしている部屋とは全く異なる内装だ。呆然と立ち尽くす名前の横で、ミランダが小声で囁いた。
「部屋は分かってるんだわ。私たちが何をしたいか…」
名前とミランダは見つめ合い、決意を確かめるかのように互いに頷いた。名前は部屋の中央へとゆっくり歩みを進め、ミランダから十分な距離を取って立ち止まった。
「もし…もし何か大変な事になったら、止めてくれる?」
名前は弱々しい笑みを浮かべながらミランダに問いかけた。ミランダはふふっと笑い、杖を取り出して答えた。
「大丈夫。最悪の場合、マダム・ポンフリーを呼んでくるから」
名前はミランダに背を向け、大きく深呼吸した。今までこんな緊張と恐怖は感じたことがない。心臓が骨まで響くように強く脈打ち、全身の血が猛スピードで流れていくようだ。名前はゆっくりと目を閉じた。頭に浮かぶのは、あの日見た鷺の姿だ。変身へと意識を向けた途端、鋭い感覚とともに名前の腕は拡大し、背中がえぐれるように変化し始めた。胸の奥から喉を通じて何かが込み上がってくる。名前はその全てに身を任せた。何十分も時間をかけて変化しているように感じられたが、その変身はほんの一瞬の出来事だった。
「名前…素晴らしいわ……」
目を開ける寸前に、名前は背後でミランダが小さく呟くのを聞いた。
「あなたは、白鷺なのね……」
名前は今や手ではなくなった手を震わせながら、ゆっくりと目を開けた。目の前の鏡にうつる自分の姿は、あの日湖で見た白鷺の生き写しのようだった。
テーブル上のデザートがすっかり空になったタイミングで、ダンブルドアが立ち上がり祝席のお開きを告げた。生徒たちはまばらに立ち上がり、右も左も分からない一年生たちを集める監督生の声が四つのテーブルから響く。そんな夜を迎えるのも3回目となり、ホグワーツの生活にすっかり慣れきった名前は人波が落ち着くまで席に座ったまま待つことにした。
「それにしても、夏休みだっていうのによくここまで頑張ったわね」
書き込みでびっしりになった名前のノートをめくりながら、ミランダが言った。
「彼も彼ね。こんなのほとんど嫌がらせじゃない」
ノートには、名前がセブルスとの会話で拾い上げた動物の名前が所狭しと書かれていた。夏休み前と唯一違うのは、その名前のいくつかがバツ印で消されているところだ。後ろのページには、それぞれの動物に関する短い考察が記されている。休暇の間名前がいかに思い悩み、どれほど"練習"したかが一目で分かるノートだった。
「そうかな?私としては、セブルスなりの励ましだったと思うんだけど…」
そう言う名前に呆れたような笑みを向けて、ミランダはノートをぱたんと閉じた。新入生が監督生に連れられて去り、その後に続いて上級生がぞろぞろと扉の前に列をなしている。その混み合うさまに名前はまだ立ち上がる気になれず、段々と人が減っていく周囲をぼんやりと眺める事にした。
扉へ向かう在校生の列の中にもセブルスはいないようだ。ホグワーツに着いてから彼の姿を一度も見ていない事が、名前には心底気がかりだった。ホグズミード駅で後ろ姿を見かけた気がする。しかしご馳走が並ぶテーブルの隅から隅を見渡してもセブルスの影は無く、名前は彼に何かあったのではないかと考えずにはいられなかった。
誰か、彼の居場所を知っている人はいないだろうか。名前は複雑な思いでリリーを探し始めた。しかしグリフィンドールのテーブルに彼女の姿は見られない。それどころか自分と同じく気だるげに座ったままのジェームズ・ポッターと目が合ってしまい、名前は思わず弾けるようにして席を立った。
「行こうミランダ、もう行こう」
名前はミランダを急かしたて、立ち上がった彼女の背中を押して扉へと向かった。ポッターと同じ行動を取っていると思うと、心の底から嫌気が差すようだ。名前は混雑した大階段下の踊り場を抜け、地下に続く階段へ足を踏み入れた。
「あ、ちょっと名前」
ローブの裾を急に引っ張られ、名前はバランスを崩して転びそうになった。名前より一段上に立つミランダがそれを両手で受け止め、来た道を振り返りながら言った。
「私、満月草を取りに湖の方まで行かなきゃいけないの。ほら、今日って満月でしょう?」
「えっ今から?」
あまりに予想外な申し出に、名前は素っ頓狂な声をあげてしまった。ミランダの一風変わった言動にはもう慣れたつもりでいたが、まさか新学期初日の夜に規則を破って城を抜け出そうとするとは。名前は眉をひそめながらポケットに手をやり、麻袋に入った気配消しの石を取り出した。
「満月草なんて…温室のじゃダメなの?」
石の指輪を右手の中指に嵌めながら名前は訊ねた。
「そもそも何に使うの?」
「詳しくは言えないけど…ある魔法薬を作る必要があって」
そう軽く答えて、ミランダは名前が取り出したのと同じ指輪を嵌めた。彼女の返事から察するにその魔法薬が何かは教えてもらえないだろう。名前は詮索を諦め、談話室へ向かう人混みをかき分けながら校庭に続く扉へと早足で向かった。
空には雲一つなく、冷たい白色の大きな満月が不気味なほど美しく輝いていた。初秋の夜風が肌に心地よい。名前とミランダは月の光だけを頼りに石の道を下り、草が生い茂った道を走るように抜け、あっという間に静かな湖のほとりにたどり着いた。
ここへ来たのは一年生のバレンタインデー以来だ。名前はあの日の出来事を思い出しながら、暗い森の入口へ向かうミランダの後を追った。忘れもしない。一年半前の満月の夜、セブルスをここに案内したのだ。行く手を塞ぐシダの葉はあの時よりも更に背丈を増したようだった。満月草の広がる草むらへと続く最後の一葉に手をかけたところで、ミランダが名前に囁いた。
「何かいる」
ミランダが唇に人差し指を当てたのを見て、名前は開きかけた口を咄嗟に閉じた。不気味な静寂の中に、サク、と草を踏みしめるような音が小さく響いた。間違いなく何かがシダの葉の向こうで動いている。
湖のほとりとは言え、ここはホグワーツの森の一部だ。飢えた熊が人里に降りてくるように、森の奥にひそむ魔法生物がここまで来る可能性が無いとは言い切れない。息を殺したまま、ミランダが静かに杖を取り出した。名前も内ポケットに入れた杖にゆっくりと手をかけ、振り向いたミランダと示し合わせるかのように見つめあった。
すると急に暗闇が開け、眩しいばかりの光が名前の目に飛び込んできた。ミランダが目にも止まらぬ速さで、視界を遮っていたシダの葉を押し退けたのだ。ミランダがハッと息を飲んだのと同時に、名前はあっと声を上げた。
「セブルス!」
草の向こうで二人と対峙する形で立っていたのは、緊張した面持ちで杖を構えたセブルスだった。お互いの顔を見るやいなや、名前たちはほっとため息をついて、満月草の広場に足を踏み入れた。
「どうりで大広間にいないと思った!こんな所で何してるの!?」
二ヶ月ぶりに見るセブルスの顔は、さらに痩せて青白くなったように見えた。名前は彼のもとに近付いて、そのローブのポケットからはみ出している何本もの草木を見た。
「スネイプ。どうやらあなたと私、同じ魔法薬を作ろうとしてるみたいね」
セブルスが名前の問いに答える前に、ミランダが落ち着きはらった声で言った。名前は隣に立つセブルスと背後のミランダを交互に見ながら訊ねた。
「何?二人とも何を作ろうとしてるの?」
しかし名前の質問などまるで聞こえなかったかのように、セブルスとミランダは沈黙のなか各々の採集に向き合い始めた。しゃがみ込んで満月草を摘む二人の横で、名前はもやもやを抱えながら腕を組んで待つ他なかった。
セブルスとミランダが草摘みを終えたのは偶然にも同じタイミングだった。ローブの土を払って立ち上がりながら、ミランダがセブルスに言った。
「悪いけどあなたの作戦、上手くいくとは思えないわね。他人への詮索は程々にすべきよ」
「そうやって人の考えを覗き込むような真似はやめろ」
嫌悪感をあらわにしながら、セブルスが噛みつくように答えた。
「気味が悪い」
「それにしても、ここからどうやって帰るつもりだったの?」
セブルスの刺々しい態度をものともせずに、ミランダがたたみかけるように訊ねた。
「新学期初日の夜は外出禁止よ。初日から寮の得点を大幅に差し引こうなんて、かなりの度胸があるじゃない」
「僕はそう簡単に捕まるような間抜けじゃない」
セブルスはミランダから顔を背け、名前をちらりと見た。名前は何と声をかけて良いか分からず、ただ気まずい瞬きをしてその場をやり過ごした。
「それに、そんなのお互い様だろう。君たちには見つからない完璧な手段でもあるっていうのか?」
「ええ、もちろん」
ミランダがさり気なくかざした左手を見て、セブルスは面白くなさそうに舌打ちをした。彼は名前たちに背を向け、校庭へと続く道へ向かい始めた。杖灯り無しでは足下も見えない道だが、満月の夜だけは自然の光が行く手を照らしてくれる。
「でもあなたと一緒に帰るのが嫌だとは言ってないわよ。ね?」
突然自分に向けられたミランダの視線とその言葉に、名前は面食らって口をぱくぱくさせた。
「あ、うん、もちろん。セブルス、良かったら一緒に帰らない?」
名前の申し出にセブルスはぴたりと歩みを止め、不審そうな面持ちで振り返った。
「君たちと一緒に帰れば…その、効果が僕にもあるのか?」
「そうよ」
名前の手を掴んで引き連れながら、ミランダが言った。三人はシダの葉に囲まれたけもの道に円形に立ち、お互いの顔を見合わせた。
「左手を出して」
ミランダに言われるがままに、セブルスがゆっくりと手を差し出した。名前は驚いてミランダを見た。セブルスにも気配消しの石をあげるつもりなのだろうか。あんなにも頑固にセブルスとの親交を拒んでいたミランダが。名前はミランダの表情に気を取られるあまり、彼女に右手を引っ張られた事に気付かなかった。
「はい、これであなたにも効果があるわ。名前が気配を消す石をつけてるから」
右手に重ねられた手の持ち主を見て、名前は何が起きたのかすぐには理解出来ないまま突っ立っていた。赤面は後からやってきた。セブルスは名前の手を掴むでもなく、ただ同じようにあっけに捉えて手元を見ていた。そんな二人に目もくれず、ミランダは先頭をきって校庭へと向かい始めた。
「さ、行きましょ。早く寮に戻って荷解きをしなきゃ」
おずおずと進む名前とセブルスを一瞥して、付け加えるようにミランダが言った。
「スネイプ、ちゃんと彼女の手を握ってなきゃダメよ。新学期の夜はいつもより監視が厳しいんだから」
「手じゃなくて、石だろう」
不服そうに呟きながら、セブルスは名前の手を軽く握って歩き出した。名前は彼のペースを乱さないよう、上半身をぎくしゃくさせながら早足で何とか歩幅を合わせた。
長時間屋外にいたせいか、セブルスの手はひんやりと冷たかった。名前の方はと言うと対照的に、顔も手も火照って仕方がない。手の内に握る汗を悟られまいと必死になりながら、名前は無言で森の中を歩いた。足下の草木が石畳に変わったところで、満月を映す湖が現れ、三人はふとその水面に目をやった。
「あ」
水際にそびえる岩の上に何か白いものが佇んでいるのを発見し、名前は思わず口を開いた。
「何かいる…鳥?」
「鷺だ」
名前の隣で、セブルスが小さく呟いた。鷺は水面に顔を向けながら、微動だにせず立っている。寝ているのだろうか。月光に照らされたその美しい姿に、名前は思わず見入ってしまった。
「あの白鷺、少し前まで二羽だったのよ」
名前たちの前を歩いていたミランダが、足を止めて湖を振り返りながら言った。
「つがいだったの。あの岩の上に一緒にいる所をよく見たわ。でもいつからか、あの一羽だけになった…」
「もう一羽は、どこか遠くに行っちゃったって事?」
名前の問いかけに、ミランダは微笑んで頷いた。
「そうね、遠くに…亡くなってしまったんでしょうね」
名前はあっと息を飲んだ。ショックが胸の奥にのしかかるような気がした。それを聞くと、岩の上の白鷺は悲しそうにうなだれているように見える。
「鷺は一途な生き物なのよ」
湖をまっすぐ見つめながら、ミランダがぽつりと言った。
「一生をかけて、一羽しか愛さない。あの鷺も死んだ片割れを想い続けているんでしょうね…」
新学期初日のホグワーツの夜は、ミランダの言う通り確かに通常よりも多くの見回りが校内をうろついていた。新入生が迷子になっていないか確かめる目的もあるのだろう。教師や監督生の傍を息を殺して通り過ぎながら、名前たちは何とかスリザリンの談話室へとたどり着いた。石の扉を抜けるやいなやセブルスは名前からぱっと手を離し、名前は手の甲に触れるひんやりとした空気に少し寂しさを感じた。
それぞれの寝室へ続く通路で三人は別れ、ローズは三年生の女子部屋へと一人はいっていった。進級しても寝室の並びは今までと変わらない。隣のベッドで寝息をたてるパーキンソンにため息をつきながら、名前は備え付けの机に教科書を並べ、空になったトランクをベッドの下に入れてから横になった。相変わらず暗い部屋だ。少し高めの枕に頭を預けながら、名前はゆっくりと目を閉じた。セブルスの冷たい手の感覚が、まだ右手に少しだけ残っているような気がした。
「夏休み中も魔法を使わずに変身の努力をしていたとは、大変素晴らしい事ですね」
九月最初の土曜日。名前の使い込んだノートをぱらぱらとめくりながら、マクゴナガルが柔らかに微笑みかけた。
「それで、どうでした?何かピンと来るものはありましたか?」
「そうですね…何しろ、数が多くて…ひとつひとつやっていこうとは思っています」
変身術の教室の窓からは、初秋の明るい光が差し込んでいた。名前はマクゴナガルからノートを受け取り、動物リストの最初のページを開いた。動物ごとに共感できるポイントや、魅力的に感じた点が短く書かれている。虫など何も思い浮かばない動物に関しては黒字で大きくバツがされていた。
「分かりました。それではまず…ウサギ、からやってみますか」
名前の手元のノートを覗き込みながら、マクゴナガルが言った。名前は「はい」と頷き、野原で駆け回るウサギを頭に思い浮かべながら、全神経を集中させて動物もどきの変身を試みた。しかし頭に長い耳が生えることも、小さな丸いしっぽが現れることも無く、名前は全身の力が抜けていくのをただ感じるばかりだった。
「きちんと変身する動物のイメージをしていますか?」
10ばかりの動物を試し終わった頃、マクゴナガルが静かに訊ねた。
「はい、そう努力してるつもりなんですが…」
額の際に汗を感じながら、名前は控えめな態度で答えた。
「ウサギだったら、野原をかける姿とか…ヒツジだったら、自分にふわふわの毛があるところとか…やってみてはいるんですけど…」
「それらはちゃんと、見たことがある動物ですか?」
手を後ろに組みながら、マクゴナガルは一瞬のうちに猫へと姿を変え、また一瞬のうちに元の姿へと戻った。
「動物もどきはイメージが非常に大切です。特に初回の変身では、実際に見て印象に残っている動物を思い浮かべなければなりません」
「実際に、ですか?」
名前は目を丸くしてマクゴナガルを見た。マクゴナガルは頷いて、黒板に杖を向けサラサラと板書をし始めた。
「動物もどきに関して、変身が慣れてくる頃に思い浮かべるのは変身後の自分自身です。しかし初めて変身する際…つまり、変身後の自分の姿を知らない場合は、最も共感できる動物の姿を克明に描けなければなりません」
黒板に二つの図を描き終えて、マクゴナガルはゆっくりと杖を下ろした。
「想像の姿とはあやふやなものです。共感する要素があり、なおかつ実際に見て印象に残っている動物はいませんか?」
「えーと…」
名前は急いでノートを見た。猿、穴熊、キツネ、ヤモリ…。どれもこの目で見た事はあれど、それがいつだったのか、はたまた図鑑か現実だったかすら覚えていない。印象に残る程の動物は見当たらなかった。しかし焦りながらページをめくった先に、名前はある動物を見つけた。
「あ…」
「何かありましたか?」
「はい…でも、どうだか…」
名前の目に飛び込んできたのは「鷺」という一文字だった。特徴はほとんど書かれていない。かと言ってバツ印をつけるわけでもなく、そのままリストに置き去りにされていた動物だった。しかし名前の脳裏には、くっきりとある鷺の姿が思い浮かんでいた。満月の夜に湖のほとりで見たあの白鷺だ。名前は息を飲んで、ノートから顔を上げて姿勢をただした。
「分からないですけど…やってみます」
名前は目を閉じて、あの日見た鷺の姿を思い起こした。今までの動物とは比べ物にならない程、くっきりと浮かぶその姿に名前は驚いた。まるであの日に戻って、目の前であの鳥を見ているかのようだ。名前は変身に意識を集中させながら、そのままミランダの言葉を思い出していた。
『鷺は一途な生き物なのよ。一生をかけて、一羽しか愛さない…』
突然、名前は自分の腕に電流が走ったような刺激を感じた。胸の奥から何か重たいものが込み上げ、口から出してくれと言っているかのようだ。途端に名前は恐ろしさを感じ、目を開いて両手を振り払った。
「大丈夫ですか?」
その場にしゃがみ込んだ名前に駆け寄って、マクゴナガルが心配そうに声をかけた。
「はい…」
そう答えながらも、名前は自分が汗でびっしょりになっているのが分かった。腕の力は抜け、まるで自分のものでないような違和感がある。名前はよろよろと立ち上がり、今しがた起こった事への衝撃に目がくらみそうになった。
「何か掴んだようですね」
放心状態で椅子に腰掛ける名前を見下ろしながら、マクゴナガルが言った。
「ですが本日の授業はここまでにしましょう。その動物について、あなたの中で整理する時間が必要かもしれません」
ふらつく足どりで教室を後にしながら、名前の心は興奮と戸惑いでいっぱいだった。今まであんな感覚は味わった事がなかった。それと同時に、名前は自身の中でもう答えが出ている事を自覚していた。
「…鷺なんだ」
中庭へと続く階段を上りながら、名前は小さく呟いた。
自分は鷺なのだ。あのまま変身しようと思えば出来たはずだ。恐怖のあまり、変身を自分自身で止めてしまった。あんなに早く成功させたいと思っていたのに、いざその時が来てみると心がついていかなかった。とりわけ、鷺という動物の特徴に関してだ。名前は自分の覚悟のなさに肩を落とし、太陽の輝く暖かな庭へと足を踏み入れた。
石造りのベンチに腰掛けて本を読みながら、ミランダが名前を待っていた。その脇には茶色い紙袋が置かれている。名前が近付くと、彼女は本から顔を上げて静かに微笑んだ。
「今日はどうだった?」
「ミランダ…」
名前は何から話せば良いか分からず、定まらない視線のまま彼女の隣に腰を下ろした。
「私……私、他の人を好きになれるかな?」
「え?」
名前の言葉にミランダはぱちくりと目を見開いた。名前自身も自分の口からついて出た疑問に驚き、はっと唇に手を当てた。
「何か分かったのね?」
ミランダは紙袋からサンドイッチを取り出し、そのひとつを名前に渡した。
「落ち着いて。食べながら話しましょ」
サンドイッチを機械的に口に運びながら、名前は今日の特別授業で起こった全てを話した。鷺への変身に関して、注意を向けたのはその印象に残る姿だった。特徴に関して特段共感を持ったとは感じていない。共感云々を感じる前に、腕が背中が、勝手に拡がり始めたのだ。
「そうなの…鷺かもしれなのね…」
名前の話を聞き終えて、ミランダがぽつりと呟いた。
「でも、言われてみればぴったりだわ。美しいし、意志の強さも感じるし」
「でも、鷺は一生一羽しか愛さないんでしょう?そんな事言われたら、私ー…」
名前の慌てふためく様子を見て、ミランダがクスクスと笑い出した。その予想外の反応に、名前は口にしたサンドイッチを飲み込む事さえ忘れてしまった。
「動物もどきの法則がどこまで当てはまるかは知らないけど…でも共感するからと言って実際に人生がそうなるかって言われたら、違うんじゃないかしら」
「そう思う?」
「思うわ。例えば私なら…そうね…ヤマネコとか、単独行動をする動物に共感を覚えるけど、実際に自分の人生がそうかって言われると違うわ。二年生になってから、あなたが現れたもの」
名前は頭を抱えながら地面に視線を落とした。確かにミランダの言う通りだ。しかし動物もどきの場合は、単なる共感だけでは変身出来ない。それに名前が感じている恐怖の原因は、鷺に人生を投影してしまう事よりも、大した共感も感じないままに変身の兆しが見えてしまった事にあった。
「…確かめたい。どうせ分かる事なら、今日中にやってしまいたい」
名前は顔を上げ、ミランダの目を見て言った。隣に座る親友は頷き、名前の手にそっと自分の手を重ねた。
二人の向かう場所はひとつだった。土曜日の自由時間を満喫する生徒達を追い越し、名前たちは早足で8階へと向かった。秘密の小部屋がある廊下は、幸いな事にいつも人通りが少ない。お決まりの動作をして現れた扉を開くと、そこはいつもより広い空間に変化していた。名前とミランダは思わず目を見合わせ、神妙な面持ちで部屋へ入った。
部屋の中には机も椅子もなく、窓以外は殆ど何も無い空間だった。奥に大きな鏡がある。いつも過ごしている部屋とは全く異なる内装だ。呆然と立ち尽くす名前の横で、ミランダが小声で囁いた。
「部屋は分かってるんだわ。私たちが何をしたいか…」
名前とミランダは見つめ合い、決意を確かめるかのように互いに頷いた。名前は部屋の中央へとゆっくり歩みを進め、ミランダから十分な距離を取って立ち止まった。
「もし…もし何か大変な事になったら、止めてくれる?」
名前は弱々しい笑みを浮かべながらミランダに問いかけた。ミランダはふふっと笑い、杖を取り出して答えた。
「大丈夫。最悪の場合、マダム・ポンフリーを呼んでくるから」
名前はミランダに背を向け、大きく深呼吸した。今までこんな緊張と恐怖は感じたことがない。心臓が骨まで響くように強く脈打ち、全身の血が猛スピードで流れていくようだ。名前はゆっくりと目を閉じた。頭に浮かぶのは、あの日見た鷺の姿だ。変身へと意識を向けた途端、鋭い感覚とともに名前の腕は拡大し、背中がえぐれるように変化し始めた。胸の奥から喉を通じて何かが込み上がってくる。名前はその全てに身を任せた。何十分も時間をかけて変化しているように感じられたが、その変身はほんの一瞬の出来事だった。
「名前…素晴らしいわ……」
目を開ける寸前に、名前は背後でミランダが小さく呟くのを聞いた。
「あなたは、白鷺なのね……」
名前は今や手ではなくなった手を震わせながら、ゆっくりと目を開けた。目の前の鏡にうつる自分の姿は、あの日湖で見た白鷺の生き写しのようだった。