第一部
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11月最初の土曜日、名前とミランダは図書館の片隅でありったけの本をかき集めていた。連日の雨はとうとうみぞれとなり、白く曇った窓に生徒たちが落書きをし始める季節がやって来た。窓にうっすらと浮かび上がるハートマークを横目に、名前は分厚い歴史書をぱらぱらとめくった。
「スリザリンの伝記はあらかた調べたつもりだけど…」
名前の横で古びた大型の本を広げながら、ミランダがため息をついた。
「ダメね、載ってない。変身術に関することは何も書かれてないわ」
名前の手元の歴史書にも、望んでいる情報はひとつも書かれていないようだった。名前は重たい表紙を閉じ、積み重なった本の上に顎を乗せて、10メートルほど先の席に目をやった。後ろからでも見てとれる程の猫背で机に向かっているのは、他ならぬセブルス・スネイプだ。
「…そんなに気になるなら、向こうに行ったっていいのよ」
ミランダのいたずらな笑みを見るや否や、名前は慌てて首を振った。セブルスはこちらの存在には気付いていない。しかし今に彼が振り返るのではないかと、名前はほとんど秒刻みにセブルスの背中に視線を向けていた。
「でも名前、あなた彼と話したくてうずうずしてるようにしか見えないけど」
「ううん、そんな事ない、大丈夫」
ミランダに図星をつかれたのを誤魔化すように、名前は閉じたばかりの本を再び開いた。
「それに彼、今すごく集中してるみたいだし…。話しかけても迷惑な顔されるだけだって、分かってるからいいの」
ミランダは首を傾げながら「ふうん」と微笑み、やみくもにページをめくる名前の手に自分の手を重ねた。
「まあ、恐らくだけど…組分け帽子の言ったことは、そう単純では無さそうね。少なくともサラザール・スリザリンとの繋がりを指したわけじゃないと思うわ」
「私もそう思う」
ミランダの言葉に名前は頷いて答えた。
「やっぱり帽子が言ってるのは、いま現在…あるいは未来に、スリザリン生じゃなきゃ気付けない何かがあるって事なのかも」
「そもそも名前にとっての"きっかけ"が、事件なのか物なのか、それとも人なのか…考え得る選択肢が多すぎるのよね」
そう言ってミランダは思い詰めたような顔で机の上に視線を落とした。二人の間に長い沈黙が流れた。名前はもはや、今日この日に答えを出すことは無理だろうと感じていた。それどころか、この一年かけても結論が出ないような気さえする。名前は隣で思い悩む友人に申し訳なさを感じ、彼女の顔を遠慮がちに覗き込んだ。
「ミランダ、付き合わせちゃってごめんね。今日は三年生が初めてホグズミードに行ける日なのに…」
「ホグズミードなんて今年はどうでもいいわ。来年あなたと行けばいいんだもの」
どこか宙を見つめた状態のままで、ミランダが言った。
「それに、これは私自身がすごく興味を持ってる事だからいいの。組分け帽子の話をした途端、マクゴナガル先生が動物もどきの指導を承諾したっていうのも…引っかかるわ…」
「マクゴナガル先生が何か知ってると思う?」
「どうかしら」
小一時間固まっていた体を突然すっと起こして、ミランダが名前に向き直った。
「これは直感でしかないけど…先生は何も知らないと思うわ。ただ組分け帽子の言葉はそれだけ重いという事よ。ベテランの教授の意志を変えてしまうくらい、影響力のある"絶対"の言葉なのよ」
「うーん」
30分前と何ら変わらないセブルスの背中に目をやってから、名前は本の山の上で両腕を思いっきり伸ばした。
「ここまで来ておいて、実は変身術の才能じゃありませんでした、なんて事だったら笑えるよね」
「ハ、ハ、ハね。本当は何の才能かしら?」
「大鍋を爆発させる才能?」
二人はクスクスと声をひそめて笑った。その時ふいに、名前とミランダそれぞれの肩に誰かの手が置かれ、二人はさっと後ろを振り返った。
「名前、ミランダ」
「リリー!」
その見慣れた美しい顔に、名前はほっと胸を撫で下ろした。
「びっくりした。先生かと思った」
「ふふ、図書館で私語をしてはいけません。スリザリン10点減点」
リリーの一言に名前たちはまたクスクスと笑った。しかしリリーの後ろにいたグリフィンドールの女生徒が軽く咳払いをした事で、三人の笑い声は消え入るようにやんだ。リリーは慌てて「じゃあね」と手を振り、名前とミランダの横を通り過ぎていった。
「あの子はいい子だけど、そのお友達は典型的なグリフィンドールね」
ウェーブのかかった黒髪をかき上げながら、ミランダがつまらなそうに言った。
「考え無しにスリザリンを敵視するお馬鹿さんばっか。私、自分の目で見て考えない人は嫌いだわ」
「そうだね…」
ミランダの言葉に相づちを打ちながら、名前の目はリリーの向かった先を捉えていた。リリーは名前たちにしたのと同じように、セブルスに後ろから近付いてその肩にそっと手を置いた。驚いて振り返ったセブルスを見て、彼女はおかしそうに笑っている。セブルスの見開かれた目にリリーがうつり、たちまち彼の顔にも笑みが広がった。
「そう長くはいられないはずよ。ほら、やっぱり」
名前の視線の先を追いながら、ミランダが呟いた。ちょうどリリーの友人が顔をしかめながら強めの咳払いをした所だった。リリーはセブルスにも軽く手を振って、先に歩き出した友人を急いで追いかけて行った。
「名前、このタイミングであなたも行けば?」
ミランダがにやつきながら名前の背中を手で押した。しかし名前の足に動き出す気配は全く無く、二人は無言で見つめ合った。
「私は、同じ寮だから授業でも会えるし」
「そういうの、なんて言うか知ってる?弱虫って言うのよ」
ミランダはため息をつきながら立ち上がり、散らかった本たちを拾い上げ始めた。
「私そろそろ行かなきゃ。ダンブルドアと約束があるの」
「ダンブルドア?」
目を丸くしながら、名前は思わず聞き返した。
「校長先生と?ミランダ、一体何をしたの?」
「罰則じゃないわよ」
ミランダが両腕に本を抱えながら笑って言った。
「ダンブルドアとは定期的にお茶してるの。私はほら、少し特別でしょう?」
ミランダの手いっぱいに光る石の指輪が目に入り、名前は納得して頷いた。二人は分厚い本を何冊も抱えて、それぞれが元あった場所を目指し始めた。全ての本を返し終えて図書館を出る頃には、名前の手指はじんじんと赤くなっていた。
「それじゃ、また夕食でね」
図書館の扉を背に、ミランダは石をジャラジャラと鳴らしながら左の廊下へと去っていった。名前は友人の背を見送って、8階の部屋に行こうかと思い立った。しかし前方から歩いてくる人物たちを目にして、名前は反射的に歩みを止めてしまった。
「やあ、名前」
ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックの後ろで、リーマスが名前に笑顔で挨拶をした。名前も軽く手をあげてそれに応えようとしたが、名前が言葉を発するよりも早くシリウスが口を開いた。
「苗字、さっきまで一緒にいた奴はなんだ?全身アクセサリーまみれとは…すごいセンスだな」
「スリザリンの事だ、どうせ闇の魔術の何かだろ?」
ジェームズの言葉に、シリウスが愉快そうに笑った。名前はジェームズに掴みかからんばかりの勢いで彼を睨んだ。
「そうやって何でもかんでも決めつけないでよ。ミランダは立派な人だし、闇の魔術だって毛嫌いしてるわ。あなたたちよりずっと良い子なんだから!」
「苗字、別に僕たちは良い子でいたいわけじゃないんだよ」
名前の勢いに全く動じずに、ジェームズがやれやれという仕草をしながら言った。それを聞いたシリウスが笑いながらジェームズを小突いた。
「友よ、君はもう少しお行儀良くすべきだと俺は思う」
背の高いシリウスとジェームズに行く手を阻まれ、名前は彼らを無視して通り過ぎる事も出来なかった。スリザリンへの偏見を持つなと、彼らにガツンと言ってやりたい。そんな気持ちが名前の中でふつふつと沸き上がっていた。
「とにかく」
リリーの後ろに立っていたグリフィンドール生の事も思い出しながら、名前は語気を強めて言った。
「スリザリンだからって誰でも彼でも敵視するのはやめて。闇の魔術なんて、私もミランダも大っ嫌いなんだから。あなたたちはスリザリンに対して偏見を持ちすぎよ」
「彼女の言う通りだ、ジェームズ、シリウス」
ジェームズと名前の間に割って入るように、リーマスが両手を伸ばして二人を制した。
「名前は本当に良い子だ。僕が保証する」
「そうは言っても、リーマス」
ジェームズが名前の後ろをじっと見つめながら言った。
「闇の魔術愛好家と、本当に良い子が親しい友達なんかになれるか?僕はそうは思わないんだ…噂をすればさ…」
ジェームズが指差した先を、名前はハッと振り返った。セブルスが本を片手に、図書館からまさに出てきたところだった。名前とセブルスの目が合い、セブルスの視線がジェームズへとうつった。二人の杖から閃光が飛び出したのはほんの一瞬のうちだった。
ジェームズの放った呪いは図書館脇の壁に衝突し、セブルスの杖から飛び出した呪いはジェームズを逸れて後ろにいた別の生徒に当たった。呪いをまともにくらったピーター・ペティグリューは地面にうずくまり、肥大化していく前歯を両手で必死に押さえた。しかし素手で呪いの進行を止めるのは到底不可能なようだった。
「図書館で何を借りてきたんだ、スニベルス?」
セブルスの呪いを横飛びでかわしながら、ジェームズが叫んだ。
「真っ黒な表紙を拝見する限り、ハッピーエンドのおとぎ話では無さそうだな」
ジェームズの横にシリウスが躍り出て、杖を一振りしながら言った。二本の杖から放たれた閃光を器用に避けて、セブルスが声を荒らげた。
「ポッター、お前はスリザリンであれば女子にも寄ってたかって攻撃するのか?騎士道精神が聞いて呆れる」
「それは早とちりってやつだ、スニベルス。僕は彼女のお友達に関してちょっと質問をしていただけだよ」
セブルスがジェームズの呪いを避けた先の死角めがけて、シリウスが杖で狙いを定めた。名前は咄嗟に杖を引き抜きシリウスに呪いを放とうとした。しかしリーマスが名前の手首を掴み、名前の杖が放った閃光は空に散って消えた。
「リーマス、邪魔しないで!」
「だめだ、名前、抑えるんだ。余計ややこしくなる」
名前はリーマスの手を振りほどこうとしたが、出来なかった。思いのほか力が強い。すると突然、リーマスの頭上を赤い閃光がかすめた。
「スネイプ!名前に当たったらどうするつもりだ!」
リーマスが見たこともない形相で怒りを露わにし、セブルスに怒鳴った。そのあまりの剣幕に、ジェームズとシリウスも驚いてリーマスを見た。セブルスだけが負けず劣らずの勢いで、リーマスに向けて怒鳴り返した。
「僕にはお前が彼女を攻撃したようにしか見えなかった!偽善者ぶるのもいい加減にしろ!」
息を切らしながら、セブルスが三人めがけて呪いを飛ばした。咄嗟にリーマスが名前の肩を抱いて屈みこみ、二人は床に伏せるようにして呪いを避けた。ジェームズとシリウスが体勢を持ち直し、揃ってセブルスに杖を向けた。どちらかの杖から飛び出した閃光がセブルスの手をかすめ、彼の持っていた本が床に音を立てて落ちた。
「今だジェームズ、拾え!」
シリウスの叫びにジェームズがパッと動き出し、まるでブラッジャーを避けるシーカーのごとく呪いをかわしながら、目にも止まらぬ速さで落ちた本を手に取った。
「とうとう証拠を抑えたぞ、スニベルス」
勝ち誇った笑みを浮かべながら、ジェームズが本のページを乱雑にめくった。
「完全なる闇の魔術の本だ。おい、図書館のどこでこんな本を見つけた?閲覧禁止の棚じゃないだろうな?」
「返せ!」
セブルスは何度目とも分からない呪いを杖から放ったが、本に気を取られていたうちにシリウスが彼の後ろに回り込んでいた。シリウスはセブルスを羽交い締めするように抑え、セブルスはあらん限りの悪態をつきながら暴れ始めた。
「ブラック!」
リーマスに腕を掴まれている事も忘れ、名前は思わず杖腕を振り上げて叫んだ。しかしその瞬間どこからか三本の紅の閃光が目にも止まらぬ速さで飛び出し、セブルス、シリウス、そしてジェームズの手から杖をはじき飛ばした。
「やめなさい!!」
廊下中に甲高い声が響き、名前は声の主を慌てて振り返った。フリットウィックの小さな手の中には既に三本の杖が収められている。リーマスが名前の手を離し、ほっとしたように息をついた。
「廊下での魔法は禁止だと何度言えば分かるのかね?ましてや喧嘩だなんて、とんでもない!全員罰則だ!」
「待ってください先生」
くしゃくしゃの頭を掻きながら、ジェームズがフリットウィックの前に進み出た。
「全員は関係ありません。魔法を使ったのは僕と、スネイプと…」
「僕です」
シリウスが気だるそうにジェームズの肩をポンと叩いた。ジェームズがそれに応えるかのようにシリウスの背中を叩き、二人は口元に微かな笑みを浮かべた。
「君たち三人が揉み合っていたというのは百も承知だ」
顔をしかめながら、フリットウィックがジェームズを見た。
「ポッター、その本は?」
「スネイプのです」
「それでは、まずそれを彼に返しなさい」
「でも先生、この本はー…」
ジェームズの反論を手をあげて制し、フリットウィックがため息混じりに言った。
「ポッター、ブラック、スネイプの三人。私についてきなさい。そこで処分を決める。ペティグリュー、君は今すぐ医務室に行った方がいいだろう」
ピーター・ペティグリューの前歯は今や顎を貫通せんばかりに伸び、彼はグロテスクなリスのような、ネズミのような姿に変わっていた。半泣きになりながらその場を走り去っていったピーターに、名前は思わず同情した。
フリットウィックは三人の杖を抱えたまま歩き出し、ジェームズとシリウス、そしてセブルスは重たそうな足取りでその後についていった。騒動を見物していた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように去り、図書館前の回廊には名前とリーマスだけが残った。
名前は足元に落ちていた、一枚の紙切れを拾い上げた。どこかのページの切れ端だ。セブルスの本から落ちたものだろうか、ページ番号と断片的に文字が書かれている。名前はそれをポケットにしまい、リーマスに向き直った。
「リーマス、こんな事は言いたくないけど…」
「僕も同じだ」
疲れた顔を名前に向けながら、リーマスが重たい口調で言った。
「でも君も分かっただろう。スネイプは闇の魔術に心酔してるんだ。ジェームズからすれば、ああする事が彼なりの正義なのさ」
「彼なりの正義?」
リーマスの言葉に、名前は静かな怒りが湧き上がるのを感じた。ポケットを握りしめながら、名前は震える声で胸の奥の本音を吐き出した。
「寄ってたかって、複数で一人を攻撃するのが正義?それがグリフィンドールなの?友達なら止めてよ!」
リーマスは目を見開き、今までに無い表情で名前を見た。怒りとも悲しみともとれるその顔に、名前は思わず引き下がりそうになった。
「それじゃあ、僕からもグリフィンドールとして言わせてもらうよ」
拳を握りしめながら、リーマスはきっぱりと言葉を口にした。
「君がスネイプの友達なら、手遅れになる前に闇の魔術をやめさせろ」
リーマスは力のこもった視線を名前に投げつけ、さっと身を翻してその場を去っていった。彼の背中から漂う不穏な雰囲気に、名前は声を掛けることも出来なかった。薄暗い廊下に消えていくリーマスの姿を見つめながら、名前は足の震えを取り繕うように、腕を抱いて寒さに凍える振りをした。
夕食の席でのセブルスは、普段といたって変わらない様子だった。彼は例の黒い本を堂々とテーブルに広げ、ぼんやりとスープを口に運んでいた。彼が読んでいる書物の中身を咎める者は、スリザリンのテーブルにはいない。夕食の終わりにルシウスがセブルスの隣に腰掛け、本を指さして何やら話し始めた。名前は遠くからそれをじっと眺めていた。
昼間のみぞれは夜になってから雪に変わり、ホグワーツ城は本格的な冬の訪れを迎えたようだった。名前はミランダに一言告げて、大広間から出て行くセブルスの後を追った。
談話室でもなく、図書館でもない場所に向かうセブルスの後ろを歩きながら、名前はいつ声を掛けていいものか悩みに悩んでいた。冷たく暗い冬の廊下で、その少年はあたりに溶け込んで消えてしまいそうなくらい危うい存在に思えた。
名前はいつの間にか知らない回廊に出ていた。天井に浮び上がるオレンジ色のランタンが、夜の暗闇をぼんやりと打ち消してくれている場所だった。大広間の賑わいとは対照的に、人気が全くない。柱の間のボックス席のように設けられた石の椅子に近付いて、セブルスは初めて腰を下ろした。
「名前、僕に何か用か」
名前に背中を向けたままの状態で、セブルスが静かにたずねた。名前はゆっくりと歩みを進め、セブルスの向かいの椅子に座った。縮こまらずにはいられない寒さにも関わらず、石の椅子は不思議と心地よい温度に保たれていた。
「いつからバレてた?」
名前は張り詰めた空気を和らげるように、ふっと微笑んだ。
「大広間を出た時から」
セブルスは呆れたようにため息をつき、足を組んで窓の外に目をやった。
「罰則の件なら、大した事じゃない。トロフィー・ルームを掃除するだけだ。あのクズ共と一緒なのは最悪だが…一日耐えれば済むことだ」
「そっか…」
気の利いた返事も出来ぬまま、名前はセブルスの視線の先をぼんやりと見つめた。しんしんと降り積もる雪が、あたりの音をすべてかき消してしまったかのようだ。それほどに静かな場所だった。静寂の中で、リーマスが去り際に投げた言葉が名前の頭に響き渡った。
名前はポケットに手を伸ばし、騒動の後に拾い上げた紙切れを取り出した。
「これ、セブルスが持ってた本の切れ端?」
セブルスは怪訝そうにそれを受け取り、ページの横に書かれた文字列をじっと見た。
「確かにそうだ」
セブルスは杖を取り出し、本を広げてページの切れ端を破れた部分に合わせた。
「レパロ」
セブルスは何も言わずに本を閉じ、また窓の外を眺め始めた。名前は彼の手にしっかりと収められた黒い本の表紙を見ようとした。表紙の文字も黒なのか、一見するだけでは何が書かれているかは全く分からない。
「その本は…図書館のなの?」
「違う」
名前が勇気を出して口にした質問は一瞬で否定され、二人の間に再び沈黙が流れた。足音はおろか、風の音も、雨漏りの音一滴すらしない。
「…買ったの?」
話したいのはこんな事ではない。そう分かりつつも、名前の口からは事の上辺をなぞるような問いかけしか出てこなかった。
「ルシウスから貰った」
セブルスがそう小さく呟き、名前は顔を上げてセブルスを見た。彼は目を合わせようとはせず、その黒い瞳には、一定のリズムで舞い落ちる白い雪だけが映っているようだった。
名前は息を飲んで闇の魔術の本を見つめた。ルシウス・マルフォイの関心が何であるかは、とうの昔に分かっていた事だった。セブルスとルシウスはその共通の関心から通じ合っている。その事も、とっくに気付いていた筈だった。
闇の魔術は良くない、やめるべきだ、身の破滅に繋がるだけだ…陳腐な言葉が名前の頭の中を駆け抜け、口に出そうとしては白い吐息となって消えていった。同時に恐れが胸の内に拡がり始めていた。今この瞬間、セブルスに向かって闇の魔術をやめろと言ったら、彼は自分を嫌いになるだろうか。
窓の外の白い雪に、だんだんと紅色が混ざり始めたように名前には感じられた。リーマスの顔が浮かび、ジェームズとシリウスの悪戯な笑顔が過ぎ去った後、雪の中に微笑みかけるリリーの幻を見たようだった。
リリーがこの場にいたら、何と言うだろうか。きっと闇の魔術の本なんか、今すぐ捨てるよう言うに違いない。ジェームズたちと同じように、セブルスから力ずくで本を奪うかもしれない。
名前は真っ黒な本に添えられた、セブルスの細い手を見た。大事そうに本を抱き、その指には所々にインクが滲んでいる。名前はとうとう告げるべき言葉を飲み込んだ。唇をきつく結ぶように口を閉じ、視線を床に落として黙り込んだ。
「名前」
セブルスが唐突に口を開いた。目線を変えぬまま、唇だけを微かに動かして彼はぽつりと呟いた。
「…僕が友達を守ろうとするのは、おかしな事か?」
名前は静かにセブルスを見た。リーマスの時とは違い、その顔から具体的な感情は一つも読み取れない。セブルスは遠くを見つめながら、機械的に口だけを動かしているかのようだった。
「まさか、何もおかしくないよ」
名前は囁くように彼に言った。耳鳴りを感じるくらいの静けさの中では、これくらいの大きさが丁度よかった。
「誰がそんな事言ったの?」
「誰でもない。思っただけだ。ただ…」
躊躇うように一度口を閉じてから、セブルスは消え入りそうな声で答えた。
「あいつらより僕は臆病なのかと…もしそうかと思うと、凄く嫌な気持ちになるんだ」
「違うよ」
名前は心を込めて言葉を返した。セブルスが何を言わんとしているか、名前にはよく分かっていた。
「グリフィンドールじゃないからって臆病な事にはならないよ。昼間のピーター・ペティグリューを見た?セブルスの攻撃に恐れおののいて震えてたじゃない」
「あの間抜けの出来損ない」
そう言いながら、セブルスがふっと笑った。セブルスの青白い顔に、ランタンのオレンジ色がほんのりと差したようだった。
「そうだよ。セブルスにはただ…ただ、スリザリンの求める要素の方が多かっただけだよ」
その言葉に、セブルスは初めて名前の目を見た。名前は心臓が重い鼓動を打ち始めるのを感じ、息が止まりそうになった。
「君もそうか?」
「私は…」
名前は言いかけて、言葉に詰まった。黒い瞳に真っ直ぐに見つめられ、心の奥底を覗かれているような気分がした。
「私は……分からない」
「だろうな」
そう言ってセブルスはおもむろに立ち上がり、握りしめていた本をローブのポケットにしまった。
「寒い。談話室に帰る」
「えっ、じゃあ私も帰る」
名前は慌てて立ち上がった事で、ローブを足に引っ掛けてつんのめりそうになった。そんな名前の様子に、セブルスが声を上げて笑った。
「当たり前だろう。僕を追いかけてきたくせに、君がここにぽつんと一人で残るとでも?」
静まり返った廊下に二人の足音が生まれると、空間全体が生気を取り戻したかのように輝き始めた。セブルスが猫背になりながら歩く姿を見て、名前はその背中を軽く叩いて言った。
「セブルス、姿勢を良くしたらもう少し背が高く見えるのに」
セブルスのローブを引っ張りながら、名前は出来るだけゆっくり歩こうと、彼を夜の散歩に誘った。
「スリザリンの伝記はあらかた調べたつもりだけど…」
名前の横で古びた大型の本を広げながら、ミランダがため息をついた。
「ダメね、載ってない。変身術に関することは何も書かれてないわ」
名前の手元の歴史書にも、望んでいる情報はひとつも書かれていないようだった。名前は重たい表紙を閉じ、積み重なった本の上に顎を乗せて、10メートルほど先の席に目をやった。後ろからでも見てとれる程の猫背で机に向かっているのは、他ならぬセブルス・スネイプだ。
「…そんなに気になるなら、向こうに行ったっていいのよ」
ミランダのいたずらな笑みを見るや否や、名前は慌てて首を振った。セブルスはこちらの存在には気付いていない。しかし今に彼が振り返るのではないかと、名前はほとんど秒刻みにセブルスの背中に視線を向けていた。
「でも名前、あなた彼と話したくてうずうずしてるようにしか見えないけど」
「ううん、そんな事ない、大丈夫」
ミランダに図星をつかれたのを誤魔化すように、名前は閉じたばかりの本を再び開いた。
「それに彼、今すごく集中してるみたいだし…。話しかけても迷惑な顔されるだけだって、分かってるからいいの」
ミランダは首を傾げながら「ふうん」と微笑み、やみくもにページをめくる名前の手に自分の手を重ねた。
「まあ、恐らくだけど…組分け帽子の言ったことは、そう単純では無さそうね。少なくともサラザール・スリザリンとの繋がりを指したわけじゃないと思うわ」
「私もそう思う」
ミランダの言葉に名前は頷いて答えた。
「やっぱり帽子が言ってるのは、いま現在…あるいは未来に、スリザリン生じゃなきゃ気付けない何かがあるって事なのかも」
「そもそも名前にとっての"きっかけ"が、事件なのか物なのか、それとも人なのか…考え得る選択肢が多すぎるのよね」
そう言ってミランダは思い詰めたような顔で机の上に視線を落とした。二人の間に長い沈黙が流れた。名前はもはや、今日この日に答えを出すことは無理だろうと感じていた。それどころか、この一年かけても結論が出ないような気さえする。名前は隣で思い悩む友人に申し訳なさを感じ、彼女の顔を遠慮がちに覗き込んだ。
「ミランダ、付き合わせちゃってごめんね。今日は三年生が初めてホグズミードに行ける日なのに…」
「ホグズミードなんて今年はどうでもいいわ。来年あなたと行けばいいんだもの」
どこか宙を見つめた状態のままで、ミランダが言った。
「それに、これは私自身がすごく興味を持ってる事だからいいの。組分け帽子の話をした途端、マクゴナガル先生が動物もどきの指導を承諾したっていうのも…引っかかるわ…」
「マクゴナガル先生が何か知ってると思う?」
「どうかしら」
小一時間固まっていた体を突然すっと起こして、ミランダが名前に向き直った。
「これは直感でしかないけど…先生は何も知らないと思うわ。ただ組分け帽子の言葉はそれだけ重いという事よ。ベテランの教授の意志を変えてしまうくらい、影響力のある"絶対"の言葉なのよ」
「うーん」
30分前と何ら変わらないセブルスの背中に目をやってから、名前は本の山の上で両腕を思いっきり伸ばした。
「ここまで来ておいて、実は変身術の才能じゃありませんでした、なんて事だったら笑えるよね」
「ハ、ハ、ハね。本当は何の才能かしら?」
「大鍋を爆発させる才能?」
二人はクスクスと声をひそめて笑った。その時ふいに、名前とミランダそれぞれの肩に誰かの手が置かれ、二人はさっと後ろを振り返った。
「名前、ミランダ」
「リリー!」
その見慣れた美しい顔に、名前はほっと胸を撫で下ろした。
「びっくりした。先生かと思った」
「ふふ、図書館で私語をしてはいけません。スリザリン10点減点」
リリーの一言に名前たちはまたクスクスと笑った。しかしリリーの後ろにいたグリフィンドールの女生徒が軽く咳払いをした事で、三人の笑い声は消え入るようにやんだ。リリーは慌てて「じゃあね」と手を振り、名前とミランダの横を通り過ぎていった。
「あの子はいい子だけど、そのお友達は典型的なグリフィンドールね」
ウェーブのかかった黒髪をかき上げながら、ミランダがつまらなそうに言った。
「考え無しにスリザリンを敵視するお馬鹿さんばっか。私、自分の目で見て考えない人は嫌いだわ」
「そうだね…」
ミランダの言葉に相づちを打ちながら、名前の目はリリーの向かった先を捉えていた。リリーは名前たちにしたのと同じように、セブルスに後ろから近付いてその肩にそっと手を置いた。驚いて振り返ったセブルスを見て、彼女はおかしそうに笑っている。セブルスの見開かれた目にリリーがうつり、たちまち彼の顔にも笑みが広がった。
「そう長くはいられないはずよ。ほら、やっぱり」
名前の視線の先を追いながら、ミランダが呟いた。ちょうどリリーの友人が顔をしかめながら強めの咳払いをした所だった。リリーはセブルスにも軽く手を振って、先に歩き出した友人を急いで追いかけて行った。
「名前、このタイミングであなたも行けば?」
ミランダがにやつきながら名前の背中を手で押した。しかし名前の足に動き出す気配は全く無く、二人は無言で見つめ合った。
「私は、同じ寮だから授業でも会えるし」
「そういうの、なんて言うか知ってる?弱虫って言うのよ」
ミランダはため息をつきながら立ち上がり、散らかった本たちを拾い上げ始めた。
「私そろそろ行かなきゃ。ダンブルドアと約束があるの」
「ダンブルドア?」
目を丸くしながら、名前は思わず聞き返した。
「校長先生と?ミランダ、一体何をしたの?」
「罰則じゃないわよ」
ミランダが両腕に本を抱えながら笑って言った。
「ダンブルドアとは定期的にお茶してるの。私はほら、少し特別でしょう?」
ミランダの手いっぱいに光る石の指輪が目に入り、名前は納得して頷いた。二人は分厚い本を何冊も抱えて、それぞれが元あった場所を目指し始めた。全ての本を返し終えて図書館を出る頃には、名前の手指はじんじんと赤くなっていた。
「それじゃ、また夕食でね」
図書館の扉を背に、ミランダは石をジャラジャラと鳴らしながら左の廊下へと去っていった。名前は友人の背を見送って、8階の部屋に行こうかと思い立った。しかし前方から歩いてくる人物たちを目にして、名前は反射的に歩みを止めてしまった。
「やあ、名前」
ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックの後ろで、リーマスが名前に笑顔で挨拶をした。名前も軽く手をあげてそれに応えようとしたが、名前が言葉を発するよりも早くシリウスが口を開いた。
「苗字、さっきまで一緒にいた奴はなんだ?全身アクセサリーまみれとは…すごいセンスだな」
「スリザリンの事だ、どうせ闇の魔術の何かだろ?」
ジェームズの言葉に、シリウスが愉快そうに笑った。名前はジェームズに掴みかからんばかりの勢いで彼を睨んだ。
「そうやって何でもかんでも決めつけないでよ。ミランダは立派な人だし、闇の魔術だって毛嫌いしてるわ。あなたたちよりずっと良い子なんだから!」
「苗字、別に僕たちは良い子でいたいわけじゃないんだよ」
名前の勢いに全く動じずに、ジェームズがやれやれという仕草をしながら言った。それを聞いたシリウスが笑いながらジェームズを小突いた。
「友よ、君はもう少しお行儀良くすべきだと俺は思う」
背の高いシリウスとジェームズに行く手を阻まれ、名前は彼らを無視して通り過ぎる事も出来なかった。スリザリンへの偏見を持つなと、彼らにガツンと言ってやりたい。そんな気持ちが名前の中でふつふつと沸き上がっていた。
「とにかく」
リリーの後ろに立っていたグリフィンドール生の事も思い出しながら、名前は語気を強めて言った。
「スリザリンだからって誰でも彼でも敵視するのはやめて。闇の魔術なんて、私もミランダも大っ嫌いなんだから。あなたたちはスリザリンに対して偏見を持ちすぎよ」
「彼女の言う通りだ、ジェームズ、シリウス」
ジェームズと名前の間に割って入るように、リーマスが両手を伸ばして二人を制した。
「名前は本当に良い子だ。僕が保証する」
「そうは言っても、リーマス」
ジェームズが名前の後ろをじっと見つめながら言った。
「闇の魔術愛好家と、本当に良い子が親しい友達なんかになれるか?僕はそうは思わないんだ…噂をすればさ…」
ジェームズが指差した先を、名前はハッと振り返った。セブルスが本を片手に、図書館からまさに出てきたところだった。名前とセブルスの目が合い、セブルスの視線がジェームズへとうつった。二人の杖から閃光が飛び出したのはほんの一瞬のうちだった。
ジェームズの放った呪いは図書館脇の壁に衝突し、セブルスの杖から飛び出した呪いはジェームズを逸れて後ろにいた別の生徒に当たった。呪いをまともにくらったピーター・ペティグリューは地面にうずくまり、肥大化していく前歯を両手で必死に押さえた。しかし素手で呪いの進行を止めるのは到底不可能なようだった。
「図書館で何を借りてきたんだ、スニベルス?」
セブルスの呪いを横飛びでかわしながら、ジェームズが叫んだ。
「真っ黒な表紙を拝見する限り、ハッピーエンドのおとぎ話では無さそうだな」
ジェームズの横にシリウスが躍り出て、杖を一振りしながら言った。二本の杖から放たれた閃光を器用に避けて、セブルスが声を荒らげた。
「ポッター、お前はスリザリンであれば女子にも寄ってたかって攻撃するのか?騎士道精神が聞いて呆れる」
「それは早とちりってやつだ、スニベルス。僕は彼女のお友達に関してちょっと質問をしていただけだよ」
セブルスがジェームズの呪いを避けた先の死角めがけて、シリウスが杖で狙いを定めた。名前は咄嗟に杖を引き抜きシリウスに呪いを放とうとした。しかしリーマスが名前の手首を掴み、名前の杖が放った閃光は空に散って消えた。
「リーマス、邪魔しないで!」
「だめだ、名前、抑えるんだ。余計ややこしくなる」
名前はリーマスの手を振りほどこうとしたが、出来なかった。思いのほか力が強い。すると突然、リーマスの頭上を赤い閃光がかすめた。
「スネイプ!名前に当たったらどうするつもりだ!」
リーマスが見たこともない形相で怒りを露わにし、セブルスに怒鳴った。そのあまりの剣幕に、ジェームズとシリウスも驚いてリーマスを見た。セブルスだけが負けず劣らずの勢いで、リーマスに向けて怒鳴り返した。
「僕にはお前が彼女を攻撃したようにしか見えなかった!偽善者ぶるのもいい加減にしろ!」
息を切らしながら、セブルスが三人めがけて呪いを飛ばした。咄嗟にリーマスが名前の肩を抱いて屈みこみ、二人は床に伏せるようにして呪いを避けた。ジェームズとシリウスが体勢を持ち直し、揃ってセブルスに杖を向けた。どちらかの杖から飛び出した閃光がセブルスの手をかすめ、彼の持っていた本が床に音を立てて落ちた。
「今だジェームズ、拾え!」
シリウスの叫びにジェームズがパッと動き出し、まるでブラッジャーを避けるシーカーのごとく呪いをかわしながら、目にも止まらぬ速さで落ちた本を手に取った。
「とうとう証拠を抑えたぞ、スニベルス」
勝ち誇った笑みを浮かべながら、ジェームズが本のページを乱雑にめくった。
「完全なる闇の魔術の本だ。おい、図書館のどこでこんな本を見つけた?閲覧禁止の棚じゃないだろうな?」
「返せ!」
セブルスは何度目とも分からない呪いを杖から放ったが、本に気を取られていたうちにシリウスが彼の後ろに回り込んでいた。シリウスはセブルスを羽交い締めするように抑え、セブルスはあらん限りの悪態をつきながら暴れ始めた。
「ブラック!」
リーマスに腕を掴まれている事も忘れ、名前は思わず杖腕を振り上げて叫んだ。しかしその瞬間どこからか三本の紅の閃光が目にも止まらぬ速さで飛び出し、セブルス、シリウス、そしてジェームズの手から杖をはじき飛ばした。
「やめなさい!!」
廊下中に甲高い声が響き、名前は声の主を慌てて振り返った。フリットウィックの小さな手の中には既に三本の杖が収められている。リーマスが名前の手を離し、ほっとしたように息をついた。
「廊下での魔法は禁止だと何度言えば分かるのかね?ましてや喧嘩だなんて、とんでもない!全員罰則だ!」
「待ってください先生」
くしゃくしゃの頭を掻きながら、ジェームズがフリットウィックの前に進み出た。
「全員は関係ありません。魔法を使ったのは僕と、スネイプと…」
「僕です」
シリウスが気だるそうにジェームズの肩をポンと叩いた。ジェームズがそれに応えるかのようにシリウスの背中を叩き、二人は口元に微かな笑みを浮かべた。
「君たち三人が揉み合っていたというのは百も承知だ」
顔をしかめながら、フリットウィックがジェームズを見た。
「ポッター、その本は?」
「スネイプのです」
「それでは、まずそれを彼に返しなさい」
「でも先生、この本はー…」
ジェームズの反論を手をあげて制し、フリットウィックがため息混じりに言った。
「ポッター、ブラック、スネイプの三人。私についてきなさい。そこで処分を決める。ペティグリュー、君は今すぐ医務室に行った方がいいだろう」
ピーター・ペティグリューの前歯は今や顎を貫通せんばかりに伸び、彼はグロテスクなリスのような、ネズミのような姿に変わっていた。半泣きになりながらその場を走り去っていったピーターに、名前は思わず同情した。
フリットウィックは三人の杖を抱えたまま歩き出し、ジェームズとシリウス、そしてセブルスは重たそうな足取りでその後についていった。騒動を見物していた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように去り、図書館前の回廊には名前とリーマスだけが残った。
名前は足元に落ちていた、一枚の紙切れを拾い上げた。どこかのページの切れ端だ。セブルスの本から落ちたものだろうか、ページ番号と断片的に文字が書かれている。名前はそれをポケットにしまい、リーマスに向き直った。
「リーマス、こんな事は言いたくないけど…」
「僕も同じだ」
疲れた顔を名前に向けながら、リーマスが重たい口調で言った。
「でも君も分かっただろう。スネイプは闇の魔術に心酔してるんだ。ジェームズからすれば、ああする事が彼なりの正義なのさ」
「彼なりの正義?」
リーマスの言葉に、名前は静かな怒りが湧き上がるのを感じた。ポケットを握りしめながら、名前は震える声で胸の奥の本音を吐き出した。
「寄ってたかって、複数で一人を攻撃するのが正義?それがグリフィンドールなの?友達なら止めてよ!」
リーマスは目を見開き、今までに無い表情で名前を見た。怒りとも悲しみともとれるその顔に、名前は思わず引き下がりそうになった。
「それじゃあ、僕からもグリフィンドールとして言わせてもらうよ」
拳を握りしめながら、リーマスはきっぱりと言葉を口にした。
「君がスネイプの友達なら、手遅れになる前に闇の魔術をやめさせろ」
リーマスは力のこもった視線を名前に投げつけ、さっと身を翻してその場を去っていった。彼の背中から漂う不穏な雰囲気に、名前は声を掛けることも出来なかった。薄暗い廊下に消えていくリーマスの姿を見つめながら、名前は足の震えを取り繕うように、腕を抱いて寒さに凍える振りをした。
夕食の席でのセブルスは、普段といたって変わらない様子だった。彼は例の黒い本を堂々とテーブルに広げ、ぼんやりとスープを口に運んでいた。彼が読んでいる書物の中身を咎める者は、スリザリンのテーブルにはいない。夕食の終わりにルシウスがセブルスの隣に腰掛け、本を指さして何やら話し始めた。名前は遠くからそれをじっと眺めていた。
昼間のみぞれは夜になってから雪に変わり、ホグワーツ城は本格的な冬の訪れを迎えたようだった。名前はミランダに一言告げて、大広間から出て行くセブルスの後を追った。
談話室でもなく、図書館でもない場所に向かうセブルスの後ろを歩きながら、名前はいつ声を掛けていいものか悩みに悩んでいた。冷たく暗い冬の廊下で、その少年はあたりに溶け込んで消えてしまいそうなくらい危うい存在に思えた。
名前はいつの間にか知らない回廊に出ていた。天井に浮び上がるオレンジ色のランタンが、夜の暗闇をぼんやりと打ち消してくれている場所だった。大広間の賑わいとは対照的に、人気が全くない。柱の間のボックス席のように設けられた石の椅子に近付いて、セブルスは初めて腰を下ろした。
「名前、僕に何か用か」
名前に背中を向けたままの状態で、セブルスが静かにたずねた。名前はゆっくりと歩みを進め、セブルスの向かいの椅子に座った。縮こまらずにはいられない寒さにも関わらず、石の椅子は不思議と心地よい温度に保たれていた。
「いつからバレてた?」
名前は張り詰めた空気を和らげるように、ふっと微笑んだ。
「大広間を出た時から」
セブルスは呆れたようにため息をつき、足を組んで窓の外に目をやった。
「罰則の件なら、大した事じゃない。トロフィー・ルームを掃除するだけだ。あのクズ共と一緒なのは最悪だが…一日耐えれば済むことだ」
「そっか…」
気の利いた返事も出来ぬまま、名前はセブルスの視線の先をぼんやりと見つめた。しんしんと降り積もる雪が、あたりの音をすべてかき消してしまったかのようだ。それほどに静かな場所だった。静寂の中で、リーマスが去り際に投げた言葉が名前の頭に響き渡った。
名前はポケットに手を伸ばし、騒動の後に拾い上げた紙切れを取り出した。
「これ、セブルスが持ってた本の切れ端?」
セブルスは怪訝そうにそれを受け取り、ページの横に書かれた文字列をじっと見た。
「確かにそうだ」
セブルスは杖を取り出し、本を広げてページの切れ端を破れた部分に合わせた。
「レパロ」
セブルスは何も言わずに本を閉じ、また窓の外を眺め始めた。名前は彼の手にしっかりと収められた黒い本の表紙を見ようとした。表紙の文字も黒なのか、一見するだけでは何が書かれているかは全く分からない。
「その本は…図書館のなの?」
「違う」
名前が勇気を出して口にした質問は一瞬で否定され、二人の間に再び沈黙が流れた。足音はおろか、風の音も、雨漏りの音一滴すらしない。
「…買ったの?」
話したいのはこんな事ではない。そう分かりつつも、名前の口からは事の上辺をなぞるような問いかけしか出てこなかった。
「ルシウスから貰った」
セブルスがそう小さく呟き、名前は顔を上げてセブルスを見た。彼は目を合わせようとはせず、その黒い瞳には、一定のリズムで舞い落ちる白い雪だけが映っているようだった。
名前は息を飲んで闇の魔術の本を見つめた。ルシウス・マルフォイの関心が何であるかは、とうの昔に分かっていた事だった。セブルスとルシウスはその共通の関心から通じ合っている。その事も、とっくに気付いていた筈だった。
闇の魔術は良くない、やめるべきだ、身の破滅に繋がるだけだ…陳腐な言葉が名前の頭の中を駆け抜け、口に出そうとしては白い吐息となって消えていった。同時に恐れが胸の内に拡がり始めていた。今この瞬間、セブルスに向かって闇の魔術をやめろと言ったら、彼は自分を嫌いになるだろうか。
窓の外の白い雪に、だんだんと紅色が混ざり始めたように名前には感じられた。リーマスの顔が浮かび、ジェームズとシリウスの悪戯な笑顔が過ぎ去った後、雪の中に微笑みかけるリリーの幻を見たようだった。
リリーがこの場にいたら、何と言うだろうか。きっと闇の魔術の本なんか、今すぐ捨てるよう言うに違いない。ジェームズたちと同じように、セブルスから力ずくで本を奪うかもしれない。
名前は真っ黒な本に添えられた、セブルスの細い手を見た。大事そうに本を抱き、その指には所々にインクが滲んでいる。名前はとうとう告げるべき言葉を飲み込んだ。唇をきつく結ぶように口を閉じ、視線を床に落として黙り込んだ。
「名前」
セブルスが唐突に口を開いた。目線を変えぬまま、唇だけを微かに動かして彼はぽつりと呟いた。
「…僕が友達を守ろうとするのは、おかしな事か?」
名前は静かにセブルスを見た。リーマスの時とは違い、その顔から具体的な感情は一つも読み取れない。セブルスは遠くを見つめながら、機械的に口だけを動かしているかのようだった。
「まさか、何もおかしくないよ」
名前は囁くように彼に言った。耳鳴りを感じるくらいの静けさの中では、これくらいの大きさが丁度よかった。
「誰がそんな事言ったの?」
「誰でもない。思っただけだ。ただ…」
躊躇うように一度口を閉じてから、セブルスは消え入りそうな声で答えた。
「あいつらより僕は臆病なのかと…もしそうかと思うと、凄く嫌な気持ちになるんだ」
「違うよ」
名前は心を込めて言葉を返した。セブルスが何を言わんとしているか、名前にはよく分かっていた。
「グリフィンドールじゃないからって臆病な事にはならないよ。昼間のピーター・ペティグリューを見た?セブルスの攻撃に恐れおののいて震えてたじゃない」
「あの間抜けの出来損ない」
そう言いながら、セブルスがふっと笑った。セブルスの青白い顔に、ランタンのオレンジ色がほんのりと差したようだった。
「そうだよ。セブルスにはただ…ただ、スリザリンの求める要素の方が多かっただけだよ」
その言葉に、セブルスは初めて名前の目を見た。名前は心臓が重い鼓動を打ち始めるのを感じ、息が止まりそうになった。
「君もそうか?」
「私は…」
名前は言いかけて、言葉に詰まった。黒い瞳に真っ直ぐに見つめられ、心の奥底を覗かれているような気分がした。
「私は……分からない」
「だろうな」
そう言ってセブルスはおもむろに立ち上がり、握りしめていた本をローブのポケットにしまった。
「寒い。談話室に帰る」
「えっ、じゃあ私も帰る」
名前は慌てて立ち上がった事で、ローブを足に引っ掛けてつんのめりそうになった。そんな名前の様子に、セブルスが声を上げて笑った。
「当たり前だろう。僕を追いかけてきたくせに、君がここにぽつんと一人で残るとでも?」
静まり返った廊下に二人の足音が生まれると、空間全体が生気を取り戻したかのように輝き始めた。セブルスが猫背になりながら歩く姿を見て、名前はその背中を軽く叩いて言った。
「セブルス、姿勢を良くしたらもう少し背が高く見えるのに」
セブルスのローブを引っ張りながら、名前は出来るだけゆっくり歩こうと、彼を夜の散歩に誘った。