第一部
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窓に打ちつける大粒の雨をぼんやり眺めながら、名前は机の上で宝石と見紛うばかりの美しいボタンを弄んでいた。変身術の教室では四方八方から呪文を唱える声が響き、誰も彼もが目の前の課題を成功させようと躍起になっている。
授業開始から数十分、名前は退屈でたまらなくなっていた。今日の課題は変身術の効果を取り消す呪文、レパリファージの実践である。名前が一年前のちょうど今頃、セブルスに間接的に教わった呪文だ。
名前の隣に座るセブルスは教科書のページを早々にめくり、来月の授業で教わるであろう呪文に目を通していた。しかし名前は教科書の別のページを開く気にもなれず、20分前まではコガネムシの姿だった小さなボタンに細工を加えていた。机の上に置かれた『変身術入門』に関しては、名前は前年度のうちに全てを習得してしまったのだ。
名前がこれ以上隙間がないというくらいの装飾をボタンに施し終えた頃、セブルスが教科書を横に押しやって机のスペースを広げ始めた。変身解除されたコガネムシを指でつまみながら、セブルスは杖を構えて狙いを定めている。名前は彼がこれから発する呪文が何なのか気になり、自分の方に押しやられた教科書をちらりと見た。
「ちょっとセブルス」
彼が開いていたページには物をグニャグニャにする魔法について書かれており、名前はそれを見るや否や思わずセブルスの杖腕を掴んだ。
「…何だ」
呪文を唱えかけたまさにその瞬間を邪魔され、あからさまな不快感を示しながらセブルスが渋々杖を下ろした。
「セブルス、まさかスポンジファイをそのコガネムシにかけようとしてるの?」
「他に何があるって言うんだ?」
「その呪文は生き物にはかけちゃダメ!」
セブルスの手中にあるコガネムシを、名前は庇うように指さした。
「物を柔らかくしたり、伸ばしたりする呪文なんだよ?生き物にかけたら可哀想でしょ!」
「このコガネムシは実験に使うための材料じゃないか」
何を言われているのか理解し兼ねるという表情で、セブルスは指先でコガネムシをつんと突いた。
「人間に対するくらげ足の呪いと同じだろう?」
「くらげ足の呪いだって、自分がかけられたら嫌でしょ」
名前は小さな抵抗としてセブルスの教科書を奪い、彼の指先にぶら下がったコガネムシに憐れみの目を向けた。
「それだけ正体の分からない物に変身させておいてよく言う」
苛立ちを含んだ声で、セブルスは名前の手元のボタンを顎で指した。
「ボタンにするのは良くても、スポンジにするのは残酷だって言うのか?何が違うのか全く分からないな」
「だから、スポンジファイはコガネムシに感覚が残ったままだから…」
反発する気持ちを前面に押し出しながら、名前は必死に論理的な説明となる言葉を探した。しかしセブルスの暗い眼差しに捉えられると、話したい内容が空を掴むようにふわふわと消えていってしまう。
「ボタンはコガネムシであって、コガネムシでないというか……とにかく、生き物の状態のままスポンジファイをかけるのは良くないの!」
名前は半ば強引な口調で主張を締めたものの、敗北を認めざるを得なかった。なぜコガネムシにスポンジファイをかけてはならないのか。結局のところ、自分は変身術の論理については全く分かっていないのだ。そう思うと、名前の心にじんわりと焦りが広がり始めた。
「前から思っていたが、君は論理に欠けてるところがあるよな」
セブルスは納得いかないというように顔をしかめながら、ガラス瓶の中にコガネムシを放り投げた。
「この実験台のコガネムシだって、本当にコガネムシかどうか怪しいところだ」
「どういう意味?」
今度は名前がセブルスの発言に疑問を持つ番だった。セブルスはガラス瓶を片手で振って、中に閉じ込められた憐れなコガネムシを揺り動かした。
「変身術では生物を物に、物を生物に変えられるわけだ。このコガネムシの正体だって、実は小さな石ころかもしれないぞ」
名前は目から鱗が落ちる思いで瓶の中のコガネムシを見つめた。それもそうだと、名前はセブルスの言葉に深く納得していた。そして変身術の教室に置かれた全ての物が、何かしら別の正体を持った生物に見えてくるような不思議な感覚に襲われた。
「おい」
感心したように辺りを見まわす名前に、セブルスが不安げに言葉をかけた。
「ただの冗談だぞ?分かってるのか?」
しかし名前の目はとっくに、列の前から歩いてくるマクゴナガルに向けられていた。名前の視線に気付き、彼女はほんの少し歩みを早めて二人の傍にやってきた。
「どうかしましたか?ミス・苗字」
「先生…」
机に置かれた豪華な装飾のボタンに目を瞬かせたマクゴナガルをよそに、名前は率直な疑問を投げかけた。
「このコガネムシは、本当にコガネムシなんですか?つまり、元は別の何かで、先生がコガネムシに変身させた…そういう事もあり得るんですか?」
名前の質問は、完璧に飾りつけられたボタン以上にマクゴナガルを驚かせたようだった。名前の真剣な表情を見て、マクゴナガルは微笑みながら言った。
「面白い質問ですね。結論から言えば、このコガネムシは本物です」
「ああ、そうなんですか…」
この貴重な質問の時間を逃すまいとする名前の隣で、セブルスは自分は関係がないとでも言うように、わざとらしく教科書を立ててその間に顔を隠した。マクゴナガルと名前はお互いをまっすぐ見つめ合いながら、話を続けた。
「ですが目の前にある万物すべてに関して、そういった疑問を持つのは素晴らしいことです。実に変身術的です」
「物の正体を確かめるのは、どうやったら出来るんですか?」
名前は自分の手柄ではない発想を褒められたことに僅かな罪悪感を覚えながらも、この議論を終わらせたくない思いでいっぱいだった。
「レベリオ…物や人の本来の姿を現す呪文があります。難しい呪文の類に入りますから、まだ教える事は出来ませんが」
「人も?人が変身したものも、暴くことが出来るんですか?」
「勿論出来ます。有名な例では、かのグリンデルバルドがこの呪文で正体を見破られました。レベリオは便利な呪文です。ただ動物もどきとなって活動している魔法使いにとっては、警戒すべき魔法ですね」
「動物もどき!」
名前は興奮に胸が高鳴り、思わず声を上げた。
「先生、動物もどきについてはいつ教えてもらえますか?」
「動物もどきの基礎である異種間変身の理論については3年生で学びます。実践は4年生になってから、ホロホロチョウをテンジクネズミに変えてもらいますよ」
「それで、動物もどきになる方法は何年生で習えますか?」
名前がそう訊ねた途端、マクゴナガルの顔からふと笑みが消えた。教室は相変わらず生徒たちが呪文を叫ぶ声で騒がしかったが、名前とマクゴナガルの間には一瞬の静寂が流れたように感じられた。
「ミス・苗字、動物もどきは通常教えることが出来ません。あれは大変に高度な魔法です」
「でも先生はそれが出来る…」
「そうです」
マクゴナガルは厳しさの中に誇らしさを滲ませたような口調で言った。
「ただ、変身術のクラスで皆さんに教えるような魔法ではありません」
名前が口を開きかけたその瞬間、列の前方でボンっという爆発音とともに小さな煙が上がった。マクゴナガルはため息をつきながら、身を翻してその惨事の現場へと去って行ってしまった。
「なんてバカな質問してるんだ?」
セブルスが縦に置いた教科書からちらりと顔を覗かせて、名前に向かって言った。
「バカじゃないよ。興味深い質問だって先生が言ったの、聞いてたでしょ」
名前はじっとマクゴナガルの後ろ姿を見つめた。しわのないローブに身を包んだ長身の女性が猫に変身するその瞬間を、この目で何度も見てみたいという気持ちを抑えきれなかった。
「通常…先生は、"通常"教えることが出来ないって言った…」
「君に何か非常事態が迫ってるとでも?」
セブルスは教科書を机の上にバタリと倒し、退屈そうにページをぱらぱらとめくった。
「あのね、私、セブルスが動物もどきなら認めてくれるって言うから、こんなにこだわってるんだけど?」
予想以上に無関心なセブルスに、名前は少しだけ腹が立った。
「もう少し興味持ってくれたっていいじゃない」
「ああ、確かに言った。でも君が動物もどきになれたところで、僕に何の利益があるんだ?それが分からなきゃ、いまいち盛り上がらないな」
名前はきっと厳しい目つきでセブルスを睨んだが、セブルスは怯むことなく無表情で見つめ返すだけだった。憤りを感じてセブルスに睨みをきかせたつもりが、その目に数秒見つめられただけで、名前の怒りは心臓の鼓動にあっという間にかき消されてしまった。名前は顔が火照る前に慌てて目をそらし、大作とも呼べるボタンをレパリファージで一瞬のうちにコガネムシに戻した。タイミング良く、終業のベルが鳴ったところだった。
待ちに待った昼休み時間を逃すまいと、生徒たちは慌ただしく荷物をまとめ始めた。名前もいつもならセブルスと肩を並べて教室を足早に出るところだ。しかし今日の名前には、大広間のサンドイッチよりも興味をそそられるものがあった。
「セブルス、悪いけど先に行ってて」
もともと自分と歩幅を合わせる気など彼には無いと分かりつつも、名前は一応の断りを入れた。セブルスは返事らしい返事もせぬまま、痩せた腕に教科書を抱えて出ていった。
教室はあっという間にがらんどうになった。机の前に突っ立った名前と、教卓に腰掛けたままのマクゴナガルの目が合った。
「ミス・苗字…」
「先生、動物もどきになる方法について教えて欲しいんです」
静かな教室に名前のはっきりとした声が響き渡った。生徒たちでいっぱいの時とは違い、音を吸収するものが減った途端こんなにも大きく響くとは。意図せず反響した自分の声に名前は面食らった。
「あなたが動物もどきになりたいのは分かりましたが」
マクゴナガルは落ち着き払って、静かな声で答えた。
「なぜ動物もどきになりたいのですか?そこが重要です」
「なぜ…」
名前は言葉に詰まった。同時にマクゴナガルの目つきが思っていたよりも厳しいものであることに気付き、手にじんわりと汗が滲むのを感じた。
「私…それは、その…」
「あなたは知らないかもしれませんが、動物もどきは非常に難しいだけでなく、大きなリスクも伴うのです」
「そうなんですか?」
「動物もどきとは一種の変装です。そのため魔法省は動物もどきを習得した魔法使い・魔女に関しては、その登録を義務付けています。何故だかわかりますか?」
名前は息を飲んだ。マクゴナガルの険しい表情に、その質問の答えは書かれたも同然だった。
「悪さをしないため、ですか…?」
「その通りです」
そう言ってマクゴナガルは杖を一振りした。すると名前の目の前に皿に盛られたサンドイッチとパンプキンジュースが現れ、ゆっくりと机に着地した。この時間大広間に並ぶのと同じものだ。
「この話は長くなりますから、お昼を食べながらにしましょう」
「あ、ありがとうございます、いただきます」
名前はマクゴナガルと向かい合うようにして座り、サンドイッチを手に取った。やわらかなパンの食感は、張りつめた緊張から解放する役割を果たそうとしているかのようだった。
名前が昼食を口にしたのを見届けて、「さて」とマクゴナガルが話を続けた。
「動物もどきの能力というのは、普段の生活では全く必要のないものです。動物もどきは変装もしくは身を隠すための手段の一つです。それを必要とする魔法使いは何らかの隠密行動に携わっていると判断されても文句は言えません。魔法省は常に動物もどきの登録者には目を光らせているんですよ」
「つまり…先生も、そういう隠密行動のために動物もどきになったんですか?」
「いいえ、私は…」
マクゴナガルは気まずそうに視線をそらし、パンプキンジュースを一口飲んで言った。
「"変身術の分野における幅広い研究の結果"としてです」
「私も、私もそうです!」
一瞬垣間見えたマクゴナガルの隙をねらって、名前は語気を強めた。
「私も変身術の勉強のために動物もどきに挑戦してみたいんです」
「ミス・苗字、言うのは簡単ですが」
マクゴナガルは再び厳しさを顔に滲ませて答えた。
「動物もどきはNEWT試験を遥かに超える難しさです。今世紀は7人しか魔法省に登録されていないのですよ」
マクゴナガルから告げられた思わぬ事実に、名前は言葉を失った。7人。聞き間違いだと信じたかった。今世紀が始まってから70年も経つという中で、動物もどきはたったの7人?
名前の失望した表情に、マクゴナガルは諦めを感じ取ったようだった。彼女はサンドイッチを一口ほおばり、背筋をただして名前に向き直った。
「あなたの変身術の能力は大変に高く評価しています。本当に近年稀に見る、素晴らしい才能です。ですが納得出来る目的がない限り、NEWT試験すら終えていない学生に動物もどきを教える事は出来ません」
この件はこれで打ち切りである、そうマクゴナガルの目が語っていた。名前は半分しか手をつけていないサンドイッチに視線を落とした。何を言って良いのか分からない。しかしここで引きさがってはいけない。名前の心の中で、まるで本能がそう囁くかのように、強い気持ちが湧きあがっていた。名前は口を開き、自分の切り札とも呼べるカードに手をかけた。
「先生、帽子が…組分け帽子が私に言ったんです」
名前は緊張で声が震えるのを感じた。マクゴナガルは手にしたサンドイッチから顔を上げ、神妙な面持ちで名前を見た。
「何をですか?」
「私には、ある才能があると…。私の両親はハッフルパフでした。だから私も、そうなると思ってたんです。でも帽子が…スリザリンに行けば、私の才能がもっと伸びるって。スリザリンに才能を伸ばすきっかけがあるって言ったんです」
語りながら、名前は身が凍るような思いがした。まるで何か神秘的な呪文を唱えているかのように、体が不思議な感覚に包まれるのを感じた。
「それで必死に探しました…自分の才能が何なのか。私、変身術以外は全くダメなんです。でも変身術は、先生もご存知の通り、まあまあ得意かなって…今も3年生の範囲は全部出来るようになったんです」
「帽子がスリザリンであれば変身術の才能が伸ばせると言ったんですか?」
「大まかに言えばそうです」
名前はすがるような目でマクゴナガルを見た。
「それがなぜなのかは、今も分かりません。先生はグリフィンドールの寮監だし…。でも、そう言われたからには私、努力したいんです。自分の変身術がどこまで伸びるのか、やってみたいんです」
マクゴナガルは黙りこくって、名前をじっと見つめた。名前も見つめ返した。お互いの本心を探り合うような時間が、何秒か過ぎた。静寂の中で時計の長針がカチッと時を刻む音がした後、マクゴナガルが口を開いた。
「…私はホグワーツの生徒だった頃、ダンブルドア先生から動物もどきを習いました」
緑の目が真剣に、まっすぐに名前に向けられた。
「ミス・苗字、もしあなたがOWL試験とNEWT試験それぞれに用意が出来たと思う時が来たら、私に言いなさい。段階的にテストしましょう。そしてあなたがNEWT試験に合格するだけの十分な技量があると分かった時…その時初めて、動物もどきに関するレクチャーをいたしましょう」
「先生…!」
名前は胸いっぱいに溢れる嬉しさに声を詰まらせた。
「ありがとうございます!」
「そうと決まれば、皆に合わせてコガネムシをボタンに変えている場合ではありませんよ」
マクゴナガルは立ち上がって、名前の傍らに近寄って言った。
「3年生の範囲を終えていると言いましたね?よろしい。それでは次回の授業の際、私に3年生の課題を一つ一つ見せてください。それが合格であれば、4年生の課題に進む許可を出しましょう」
「それじゃあ、私は変身術の授業中も先に進んでていいって事ですか?」
「そうしなければ、とても動物もどきを覚える時間などありませんよ」
二人きりになってから初めて、マクゴナガルが微笑んで言った。
「伸びつつある才能を足止めさせるのは愚かな事です。あなたは人の何十倍ものスピードで、何百倍もの質で変身術を習得していかねばなりません」
「マクゴナガル先生…私、頑張ります、絶対にやってみせます」
弾む足取りで、名前は変身術の教室を後にし、午後の魔法薬学の授業へと向かった。セブルスに、ミランダに、リリーに、今この昼休みの間に起きたことを話したくて仕方がなかった。名前は始業のベルとほぼ同時に地下牢教室へとすべり込んだ。
名前がいつもの席に着くと、机の上に既に前回提出した課題が評価とともに返ってきていた。名前の小瓶には「A」のラベルが堂々と貼られ、それを隣に座るセブルスが信じられないという目で見ている。
「僕が教室を出た時はあんなに酷い状態だったのに」
名前が小瓶を手にする前にセブルスがそれを取り上げ、疑うように様々な角度で魔法薬を見た。
「私もまさか、Aがもらえるとは思わなかった…」
名前はセブルスの手中にある自分の成果を呆然と見た。厳密に言えば自分の成果ではないが、ここ数週間の汚名を払拭出来た事には違いない。
「何をしたんだ?」
セブルスが小瓶を名前に手渡して言った。名前の技量を全く信じていない顔だ。
「あの後ね、リリーが手伝ってくれて」
名前は教室の前方でスラグホーンに笑顔を向けている赤毛の少女をちらと見た。
「リリーが、何だったかな、何かを足してみたら?って言ったの。そしたらあっという間に良い出来になって…リリーって本当にセンスがあるよね」
「ああ、そういうことか…」
セブルスは肘をついて、手を顎に当てながらリリーの方をじっと見た。
「本当に…彼女は素晴らしい…そうだな…」
名前はセブルスがリリーに向けるその熱っぽい視線に傷つくまいとした。しかし無駄な努力だった。リリーはこちらの視線には全く気付くことなく、グリフィンドールの仲間と笑い合っている。セブルスの心はもはやここには無いようで、名前はどうしようもない切なさが胸に広がっていくのを感じた。
「セブルス、ねえセブルス」
名前は彼の気を引こうと、隣で必死に呼びかけた。
「お昼休みの時間、マクゴナガル先生と何を話したと思う?」
「さあ…」
セブルスの黒い瞳には、相変わらず美しい赤毛が映っている。名前はますます焦りを感じ始めた。焦りと不安が、さっきまでの高揚した気持ちを消し去ってしまったかのようだ。
「あのね、マクゴナガル先生が私にー…」
「さてさて、おしゃべりをやめて!」
名前の言葉をかき消す勢いで、スラグホーンの声が教室中に響き渡った。
「今日は新しい魔法薬の実演から入るとしよう。皆、教卓の周りに集まって」
生徒たちが一斉に立ち上がり、教室の前方に集まり始めた。名前は足早に向かうセブルスを追いながら、彼の目が依然としてリリーを捉えていることに気付かずにはいられなかった。
授業開始から数十分、名前は退屈でたまらなくなっていた。今日の課題は変身術の効果を取り消す呪文、レパリファージの実践である。名前が一年前のちょうど今頃、セブルスに間接的に教わった呪文だ。
名前の隣に座るセブルスは教科書のページを早々にめくり、来月の授業で教わるであろう呪文に目を通していた。しかし名前は教科書の別のページを開く気にもなれず、20分前まではコガネムシの姿だった小さなボタンに細工を加えていた。机の上に置かれた『変身術入門』に関しては、名前は前年度のうちに全てを習得してしまったのだ。
名前がこれ以上隙間がないというくらいの装飾をボタンに施し終えた頃、セブルスが教科書を横に押しやって机のスペースを広げ始めた。変身解除されたコガネムシを指でつまみながら、セブルスは杖を構えて狙いを定めている。名前は彼がこれから発する呪文が何なのか気になり、自分の方に押しやられた教科書をちらりと見た。
「ちょっとセブルス」
彼が開いていたページには物をグニャグニャにする魔法について書かれており、名前はそれを見るや否や思わずセブルスの杖腕を掴んだ。
「…何だ」
呪文を唱えかけたまさにその瞬間を邪魔され、あからさまな不快感を示しながらセブルスが渋々杖を下ろした。
「セブルス、まさかスポンジファイをそのコガネムシにかけようとしてるの?」
「他に何があるって言うんだ?」
「その呪文は生き物にはかけちゃダメ!」
セブルスの手中にあるコガネムシを、名前は庇うように指さした。
「物を柔らかくしたり、伸ばしたりする呪文なんだよ?生き物にかけたら可哀想でしょ!」
「このコガネムシは実験に使うための材料じゃないか」
何を言われているのか理解し兼ねるという表情で、セブルスは指先でコガネムシをつんと突いた。
「人間に対するくらげ足の呪いと同じだろう?」
「くらげ足の呪いだって、自分がかけられたら嫌でしょ」
名前は小さな抵抗としてセブルスの教科書を奪い、彼の指先にぶら下がったコガネムシに憐れみの目を向けた。
「それだけ正体の分からない物に変身させておいてよく言う」
苛立ちを含んだ声で、セブルスは名前の手元のボタンを顎で指した。
「ボタンにするのは良くても、スポンジにするのは残酷だって言うのか?何が違うのか全く分からないな」
「だから、スポンジファイはコガネムシに感覚が残ったままだから…」
反発する気持ちを前面に押し出しながら、名前は必死に論理的な説明となる言葉を探した。しかしセブルスの暗い眼差しに捉えられると、話したい内容が空を掴むようにふわふわと消えていってしまう。
「ボタンはコガネムシであって、コガネムシでないというか……とにかく、生き物の状態のままスポンジファイをかけるのは良くないの!」
名前は半ば強引な口調で主張を締めたものの、敗北を認めざるを得なかった。なぜコガネムシにスポンジファイをかけてはならないのか。結局のところ、自分は変身術の論理については全く分かっていないのだ。そう思うと、名前の心にじんわりと焦りが広がり始めた。
「前から思っていたが、君は論理に欠けてるところがあるよな」
セブルスは納得いかないというように顔をしかめながら、ガラス瓶の中にコガネムシを放り投げた。
「この実験台のコガネムシだって、本当にコガネムシかどうか怪しいところだ」
「どういう意味?」
今度は名前がセブルスの発言に疑問を持つ番だった。セブルスはガラス瓶を片手で振って、中に閉じ込められた憐れなコガネムシを揺り動かした。
「変身術では生物を物に、物を生物に変えられるわけだ。このコガネムシの正体だって、実は小さな石ころかもしれないぞ」
名前は目から鱗が落ちる思いで瓶の中のコガネムシを見つめた。それもそうだと、名前はセブルスの言葉に深く納得していた。そして変身術の教室に置かれた全ての物が、何かしら別の正体を持った生物に見えてくるような不思議な感覚に襲われた。
「おい」
感心したように辺りを見まわす名前に、セブルスが不安げに言葉をかけた。
「ただの冗談だぞ?分かってるのか?」
しかし名前の目はとっくに、列の前から歩いてくるマクゴナガルに向けられていた。名前の視線に気付き、彼女はほんの少し歩みを早めて二人の傍にやってきた。
「どうかしましたか?ミス・苗字」
「先生…」
机に置かれた豪華な装飾のボタンに目を瞬かせたマクゴナガルをよそに、名前は率直な疑問を投げかけた。
「このコガネムシは、本当にコガネムシなんですか?つまり、元は別の何かで、先生がコガネムシに変身させた…そういう事もあり得るんですか?」
名前の質問は、完璧に飾りつけられたボタン以上にマクゴナガルを驚かせたようだった。名前の真剣な表情を見て、マクゴナガルは微笑みながら言った。
「面白い質問ですね。結論から言えば、このコガネムシは本物です」
「ああ、そうなんですか…」
この貴重な質問の時間を逃すまいとする名前の隣で、セブルスは自分は関係がないとでも言うように、わざとらしく教科書を立ててその間に顔を隠した。マクゴナガルと名前はお互いをまっすぐ見つめ合いながら、話を続けた。
「ですが目の前にある万物すべてに関して、そういった疑問を持つのは素晴らしいことです。実に変身術的です」
「物の正体を確かめるのは、どうやったら出来るんですか?」
名前は自分の手柄ではない発想を褒められたことに僅かな罪悪感を覚えながらも、この議論を終わらせたくない思いでいっぱいだった。
「レベリオ…物や人の本来の姿を現す呪文があります。難しい呪文の類に入りますから、まだ教える事は出来ませんが」
「人も?人が変身したものも、暴くことが出来るんですか?」
「勿論出来ます。有名な例では、かのグリンデルバルドがこの呪文で正体を見破られました。レベリオは便利な呪文です。ただ動物もどきとなって活動している魔法使いにとっては、警戒すべき魔法ですね」
「動物もどき!」
名前は興奮に胸が高鳴り、思わず声を上げた。
「先生、動物もどきについてはいつ教えてもらえますか?」
「動物もどきの基礎である異種間変身の理論については3年生で学びます。実践は4年生になってから、ホロホロチョウをテンジクネズミに変えてもらいますよ」
「それで、動物もどきになる方法は何年生で習えますか?」
名前がそう訊ねた途端、マクゴナガルの顔からふと笑みが消えた。教室は相変わらず生徒たちが呪文を叫ぶ声で騒がしかったが、名前とマクゴナガルの間には一瞬の静寂が流れたように感じられた。
「ミス・苗字、動物もどきは通常教えることが出来ません。あれは大変に高度な魔法です」
「でも先生はそれが出来る…」
「そうです」
マクゴナガルは厳しさの中に誇らしさを滲ませたような口調で言った。
「ただ、変身術のクラスで皆さんに教えるような魔法ではありません」
名前が口を開きかけたその瞬間、列の前方でボンっという爆発音とともに小さな煙が上がった。マクゴナガルはため息をつきながら、身を翻してその惨事の現場へと去って行ってしまった。
「なんてバカな質問してるんだ?」
セブルスが縦に置いた教科書からちらりと顔を覗かせて、名前に向かって言った。
「バカじゃないよ。興味深い質問だって先生が言ったの、聞いてたでしょ」
名前はじっとマクゴナガルの後ろ姿を見つめた。しわのないローブに身を包んだ長身の女性が猫に変身するその瞬間を、この目で何度も見てみたいという気持ちを抑えきれなかった。
「通常…先生は、"通常"教えることが出来ないって言った…」
「君に何か非常事態が迫ってるとでも?」
セブルスは教科書を机の上にバタリと倒し、退屈そうにページをぱらぱらとめくった。
「あのね、私、セブルスが動物もどきなら認めてくれるって言うから、こんなにこだわってるんだけど?」
予想以上に無関心なセブルスに、名前は少しだけ腹が立った。
「もう少し興味持ってくれたっていいじゃない」
「ああ、確かに言った。でも君が動物もどきになれたところで、僕に何の利益があるんだ?それが分からなきゃ、いまいち盛り上がらないな」
名前はきっと厳しい目つきでセブルスを睨んだが、セブルスは怯むことなく無表情で見つめ返すだけだった。憤りを感じてセブルスに睨みをきかせたつもりが、その目に数秒見つめられただけで、名前の怒りは心臓の鼓動にあっという間にかき消されてしまった。名前は顔が火照る前に慌てて目をそらし、大作とも呼べるボタンをレパリファージで一瞬のうちにコガネムシに戻した。タイミング良く、終業のベルが鳴ったところだった。
待ちに待った昼休み時間を逃すまいと、生徒たちは慌ただしく荷物をまとめ始めた。名前もいつもならセブルスと肩を並べて教室を足早に出るところだ。しかし今日の名前には、大広間のサンドイッチよりも興味をそそられるものがあった。
「セブルス、悪いけど先に行ってて」
もともと自分と歩幅を合わせる気など彼には無いと分かりつつも、名前は一応の断りを入れた。セブルスは返事らしい返事もせぬまま、痩せた腕に教科書を抱えて出ていった。
教室はあっという間にがらんどうになった。机の前に突っ立った名前と、教卓に腰掛けたままのマクゴナガルの目が合った。
「ミス・苗字…」
「先生、動物もどきになる方法について教えて欲しいんです」
静かな教室に名前のはっきりとした声が響き渡った。生徒たちでいっぱいの時とは違い、音を吸収するものが減った途端こんなにも大きく響くとは。意図せず反響した自分の声に名前は面食らった。
「あなたが動物もどきになりたいのは分かりましたが」
マクゴナガルは落ち着き払って、静かな声で答えた。
「なぜ動物もどきになりたいのですか?そこが重要です」
「なぜ…」
名前は言葉に詰まった。同時にマクゴナガルの目つきが思っていたよりも厳しいものであることに気付き、手にじんわりと汗が滲むのを感じた。
「私…それは、その…」
「あなたは知らないかもしれませんが、動物もどきは非常に難しいだけでなく、大きなリスクも伴うのです」
「そうなんですか?」
「動物もどきとは一種の変装です。そのため魔法省は動物もどきを習得した魔法使い・魔女に関しては、その登録を義務付けています。何故だかわかりますか?」
名前は息を飲んだ。マクゴナガルの険しい表情に、その質問の答えは書かれたも同然だった。
「悪さをしないため、ですか…?」
「その通りです」
そう言ってマクゴナガルは杖を一振りした。すると名前の目の前に皿に盛られたサンドイッチとパンプキンジュースが現れ、ゆっくりと机に着地した。この時間大広間に並ぶのと同じものだ。
「この話は長くなりますから、お昼を食べながらにしましょう」
「あ、ありがとうございます、いただきます」
名前はマクゴナガルと向かい合うようにして座り、サンドイッチを手に取った。やわらかなパンの食感は、張りつめた緊張から解放する役割を果たそうとしているかのようだった。
名前が昼食を口にしたのを見届けて、「さて」とマクゴナガルが話を続けた。
「動物もどきの能力というのは、普段の生活では全く必要のないものです。動物もどきは変装もしくは身を隠すための手段の一つです。それを必要とする魔法使いは何らかの隠密行動に携わっていると判断されても文句は言えません。魔法省は常に動物もどきの登録者には目を光らせているんですよ」
「つまり…先生も、そういう隠密行動のために動物もどきになったんですか?」
「いいえ、私は…」
マクゴナガルは気まずそうに視線をそらし、パンプキンジュースを一口飲んで言った。
「"変身術の分野における幅広い研究の結果"としてです」
「私も、私もそうです!」
一瞬垣間見えたマクゴナガルの隙をねらって、名前は語気を強めた。
「私も変身術の勉強のために動物もどきに挑戦してみたいんです」
「ミス・苗字、言うのは簡単ですが」
マクゴナガルは再び厳しさを顔に滲ませて答えた。
「動物もどきはNEWT試験を遥かに超える難しさです。今世紀は7人しか魔法省に登録されていないのですよ」
マクゴナガルから告げられた思わぬ事実に、名前は言葉を失った。7人。聞き間違いだと信じたかった。今世紀が始まってから70年も経つという中で、動物もどきはたったの7人?
名前の失望した表情に、マクゴナガルは諦めを感じ取ったようだった。彼女はサンドイッチを一口ほおばり、背筋をただして名前に向き直った。
「あなたの変身術の能力は大変に高く評価しています。本当に近年稀に見る、素晴らしい才能です。ですが納得出来る目的がない限り、NEWT試験すら終えていない学生に動物もどきを教える事は出来ません」
この件はこれで打ち切りである、そうマクゴナガルの目が語っていた。名前は半分しか手をつけていないサンドイッチに視線を落とした。何を言って良いのか分からない。しかしここで引きさがってはいけない。名前の心の中で、まるで本能がそう囁くかのように、強い気持ちが湧きあがっていた。名前は口を開き、自分の切り札とも呼べるカードに手をかけた。
「先生、帽子が…組分け帽子が私に言ったんです」
名前は緊張で声が震えるのを感じた。マクゴナガルは手にしたサンドイッチから顔を上げ、神妙な面持ちで名前を見た。
「何をですか?」
「私には、ある才能があると…。私の両親はハッフルパフでした。だから私も、そうなると思ってたんです。でも帽子が…スリザリンに行けば、私の才能がもっと伸びるって。スリザリンに才能を伸ばすきっかけがあるって言ったんです」
語りながら、名前は身が凍るような思いがした。まるで何か神秘的な呪文を唱えているかのように、体が不思議な感覚に包まれるのを感じた。
「それで必死に探しました…自分の才能が何なのか。私、変身術以外は全くダメなんです。でも変身術は、先生もご存知の通り、まあまあ得意かなって…今も3年生の範囲は全部出来るようになったんです」
「帽子がスリザリンであれば変身術の才能が伸ばせると言ったんですか?」
「大まかに言えばそうです」
名前はすがるような目でマクゴナガルを見た。
「それがなぜなのかは、今も分かりません。先生はグリフィンドールの寮監だし…。でも、そう言われたからには私、努力したいんです。自分の変身術がどこまで伸びるのか、やってみたいんです」
マクゴナガルは黙りこくって、名前をじっと見つめた。名前も見つめ返した。お互いの本心を探り合うような時間が、何秒か過ぎた。静寂の中で時計の長針がカチッと時を刻む音がした後、マクゴナガルが口を開いた。
「…私はホグワーツの生徒だった頃、ダンブルドア先生から動物もどきを習いました」
緑の目が真剣に、まっすぐに名前に向けられた。
「ミス・苗字、もしあなたがOWL試験とNEWT試験それぞれに用意が出来たと思う時が来たら、私に言いなさい。段階的にテストしましょう。そしてあなたがNEWT試験に合格するだけの十分な技量があると分かった時…その時初めて、動物もどきに関するレクチャーをいたしましょう」
「先生…!」
名前は胸いっぱいに溢れる嬉しさに声を詰まらせた。
「ありがとうございます!」
「そうと決まれば、皆に合わせてコガネムシをボタンに変えている場合ではありませんよ」
マクゴナガルは立ち上がって、名前の傍らに近寄って言った。
「3年生の範囲を終えていると言いましたね?よろしい。それでは次回の授業の際、私に3年生の課題を一つ一つ見せてください。それが合格であれば、4年生の課題に進む許可を出しましょう」
「それじゃあ、私は変身術の授業中も先に進んでていいって事ですか?」
「そうしなければ、とても動物もどきを覚える時間などありませんよ」
二人きりになってから初めて、マクゴナガルが微笑んで言った。
「伸びつつある才能を足止めさせるのは愚かな事です。あなたは人の何十倍ものスピードで、何百倍もの質で変身術を習得していかねばなりません」
「マクゴナガル先生…私、頑張ります、絶対にやってみせます」
弾む足取りで、名前は変身術の教室を後にし、午後の魔法薬学の授業へと向かった。セブルスに、ミランダに、リリーに、今この昼休みの間に起きたことを話したくて仕方がなかった。名前は始業のベルとほぼ同時に地下牢教室へとすべり込んだ。
名前がいつもの席に着くと、机の上に既に前回提出した課題が評価とともに返ってきていた。名前の小瓶には「A」のラベルが堂々と貼られ、それを隣に座るセブルスが信じられないという目で見ている。
「僕が教室を出た時はあんなに酷い状態だったのに」
名前が小瓶を手にする前にセブルスがそれを取り上げ、疑うように様々な角度で魔法薬を見た。
「私もまさか、Aがもらえるとは思わなかった…」
名前はセブルスの手中にある自分の成果を呆然と見た。厳密に言えば自分の成果ではないが、ここ数週間の汚名を払拭出来た事には違いない。
「何をしたんだ?」
セブルスが小瓶を名前に手渡して言った。名前の技量を全く信じていない顔だ。
「あの後ね、リリーが手伝ってくれて」
名前は教室の前方でスラグホーンに笑顔を向けている赤毛の少女をちらと見た。
「リリーが、何だったかな、何かを足してみたら?って言ったの。そしたらあっという間に良い出来になって…リリーって本当にセンスがあるよね」
「ああ、そういうことか…」
セブルスは肘をついて、手を顎に当てながらリリーの方をじっと見た。
「本当に…彼女は素晴らしい…そうだな…」
名前はセブルスがリリーに向けるその熱っぽい視線に傷つくまいとした。しかし無駄な努力だった。リリーはこちらの視線には全く気付くことなく、グリフィンドールの仲間と笑い合っている。セブルスの心はもはやここには無いようで、名前はどうしようもない切なさが胸に広がっていくのを感じた。
「セブルス、ねえセブルス」
名前は彼の気を引こうと、隣で必死に呼びかけた。
「お昼休みの時間、マクゴナガル先生と何を話したと思う?」
「さあ…」
セブルスの黒い瞳には、相変わらず美しい赤毛が映っている。名前はますます焦りを感じ始めた。焦りと不安が、さっきまでの高揚した気持ちを消し去ってしまったかのようだ。
「あのね、マクゴナガル先生が私にー…」
「さてさて、おしゃべりをやめて!」
名前の言葉をかき消す勢いで、スラグホーンの声が教室中に響き渡った。
「今日は新しい魔法薬の実演から入るとしよう。皆、教卓の周りに集まって」
生徒たちが一斉に立ち上がり、教室の前方に集まり始めた。名前は足早に向かうセブルスを追いながら、彼の目が依然としてリリーを捉えていることに気付かずにはいられなかった。