第一部
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魔法薬学の地下教室にガッシャーンと派手な落下音が響きわたった。名前・苗字が今しがた、木箱に立てかけられた4つの試験管を杖で吹き飛ばしてしまったのだ。
大鍋に向けたはずの魔法が、どういうわけか鍋横のガラス試験管を爆破させてしまった。スラグホーン先生が驚いてやって来て、名前を呆れた目で一瞥した後、散らばった破片に再生呪文をかけた。名前がごめんなさいを言い終わる前に先生はいそいそと立ち去り、教室の端で髪の一部を燃やしてしまったグリフィンドール生の方へと向かっていった。
名前の隣に座るセブルス・スネイプは唖然とした表情で、もはや声も出ないようだった。名前は彼の冷たい視線に顔を赤らめながら、教科書に書かれた杖の正しい振り方を食い入るように見つめた。しかし突然の失敗に動揺しきった頭では、流れるような文字を追うばかりで内容がひとつも入って来なかった。
ミランダに自分がセブルスを好いていると言われたあの日から、毎日がどうもうまくいかない。名前はそんな悩みを抱えていた。特に魔法薬学の授業では顕著なほどに失態が増え、名前は早くも一年次の期末試験での成功を泥まみれに塗り替えていた。慎重を機すれば機する程、何かしらのヘマが起きてしまう。自分を不安げに見つめるセブルスの目が気になって、思うように集中出来ないのだ。名前にはそれが分かっていた。もっとも、セブルスから向けられるのは火気厳禁の爆発因子を警戒するような視線で、決して好意的なそれではないのだがー。
完成まであと一歩という段階まで何とか漕ぎ着けた時、タイミング悪く終業のベルが鳴った。名前は慌てて教科書を見直し、最後のかき混ぜ回数を脳に刻み込むように反復して読んだ。大鍋に杖を向けたその時、隣のセブルスが荷物をまとめて立ち上がった。
「あ…」
名前は反射的にセブルスの顔を見つめたものの、言葉につまって口をぱくぱくさせた。今までなら不満げに、さも当然のように手伝いを命じられたのに。自分の発言がもたらす様々な印象を意識し始めた途端、ここ最近の名前はセブルスにどんな言葉をかけるべきか分からなくなってしまっていた。
「何だ?」
大鍋の前に呆然と腰掛けた名前を見下ろしながら、セブルスが不審そうに眉をひそめた。
「早く混ぜないとダメになるぞ。まあ、正しく出来たところで救いようが無さそうな色だが…」
「う、うん、そうする」
名前はセブルスから逃げるように目を逸らし、改まって杖を構えた。そしてはたと手を止め、教科書に再び目をやった。この一瞬の間にかき混ぜる回数を忘れてしまったのだ。
「さっき本を見たところじゃないか」
憐れむような目つきでセブルスが言った。
「大丈夫か?この頃ますます馬鹿になってるぞ」
「大丈夫、大丈夫」
反論もせぬまま、名前は泳ぐように流れて見える教科書の文字を注視した。指で文字を捕まえるようになぞること数十秒、ようやく正しい回数の記述にたどり着いた。
最後の作業を始めた時、ため息をついてセブルスがその場を離れて行ったのに名前は気付いた。心からさーっと熱が失われていくような感じがした。教室から出ていくタイミングを合わせるのはいつも名前の方だ。セブルスにはわざわざ名前を待ってまで行動を共にする気概はない…。
人波がザワザワと出口に集中するのを感じ取りながら、名前は狭まった視界の中で鍋を3回ゆっくりとかき混ぜた。煙が上がるのを見届けて、小瓶に魔法薬を詰めたら終了だ。震える手つきで小瓶の蓋を開けながら名前は考えた。今ならまだセブルスに追いつけるだろうか。しかし息を切らせながら後を追うなんて、気味悪く思われるだろうか…。
ふと名前の視界に鮮やかな赤い色が飛び込んできた。この魔法薬は正しく完成すれば緑色の煙があがるはずだ。名前は血の気が引くのを感じ、慌てて顔を上げた。しかし名前が見た赤は煙のそれではなく、一人の少女の豊かな髪色だった。
「名前、大丈夫?」
赤毛の長髪をかき上げながら、リリーが名前の大鍋を覗き込んだ。煙はまだ上がってはいない。
「どうかな…ダメかも…」
本来ならばかき混ぜてすぐ、緑色の煙が立ち込めるはずだ。名前はやきもきしながら両手を握りしめた。
「もしかしたら、二角獣の角の粉末を少し足すといいかも」
そう言ってリリーは机に置かれた小鉢を手に取った。
「ちょっと試してみてもいい?」
「うん、もちろん」
名前は大きく頷いて、リリーに大鍋の前を明け渡した。二年次でグリフィンドールとの合同授業となってからというもの、クラス中がリリーの魔法薬学への溢れる才能を目の当たりにしてきた。彼女が最も得意とするのは、セブルスと同じくこの科目らしい。
リリーが粉末をひとつまみ鍋に入れて杖を振ると、たちまち鮮やかな緑の煙が立ち上った。
「わあ…!」
名前は目を丸くして鍋底を見た。セブルスにも劣らない出来だ。名前は完成した魔法薬を急いで瓶に移し、栓をきつく締めた。
「ありがとう、リリー」
「どういたしまして」
手に残った粉末を払い落としながら、花のように美しくリリーが笑いかけた。名前はその魅力に心を打たれてから、思い出したように慌てて身の回りの片付けを始めた。
リリーは魔女としての直感に非常に優れているようだった。このところ魔法薬学の授業でスラグホーン先生の賞賛を受けるのは、決まってリリーとセブルスだ。それでいてリリーは傲慢さのかけらもなく、常に謙虚に物事にあたっている。名前は自分に変身術という唯一の強みがなければ、劣等感からこの二人と居る事には耐えられなかっただろうと思った。
「セブルスは?先に行っちゃったの?」
名前の急ぎの片付けを見守りながら、リリーが何気なくたずねた。
「あ、うん」
リリーの問いかけに名前は再び口角が下がるのを感じ、咄嗟にそれを引き上げて作り笑いをした。
「まあ、セブルスも忙しいみたいだし…待っててもらうの申し訳ないから」
名前はさも自分が彼を先に帰したような言い方をして、心の傷を浅くしようとした。荷物をまとめて出口付近に目をやると、リリーの友人と思しき数人が扉の脇で彼女を待っていた。
「ごめん。友達、待たせちゃってるね」
名前は顔を赤らめながら立ち上がった。どういうわけか、リリーが自分と帰路を共にする為に待ってくれているとばかり思っていた。彼女には既に待っている友人がいるというのに。
「全然よ」
リリーは優しく首を振って答えた。
「出来ることなら、あなたをグリフィンドールの友達にも紹介したいんだけど…」
名前が紅のローブに身を包んだ女生徒たちをちらりと見ると、その中の一人と目が合った。しかしすぐに顔を逸らされてしまい、緑色のローブを着た自分は歓迎されていないのだと名前は悟った。
「ううん、大丈夫。気遣ってくれてありがとう」
名前は出来上がった魔法薬を教卓の上に提出しに行くからと、リリーとその場で別れた。彼女たちが教室を出ると、薬品の匂いであふれる薄暗い地下室に名前は一人になった。遠くで女の子たちの楽しげな笑い声が響いている。
夕食までの時間をどう過ごそうか。名前は教卓を背にして立ち止まった。こんな時いつも一緒に行動できる友達がいたらいいのに。名前は年上のミランダを、グリフィンドールのリリーを、そして自分を置いて行ってしまったセブルスを少し恨めしく思った。
すると突然教室の扉が開き、一人きりの空間にぼんやりと油断しきっていた名前は慌てて姿勢を正した。しかし教室に入ってきたのは同い年の見知った顔だった。
「あれ?」
名前の姿に驚いて、リーマスが声を上げた。
「名前、まだいたんだ」
「リーマス、どうしたの?」
突如現れたのが馴染み深い友人だった事にほっと胸を撫で下ろし、名前は再び楽な姿勢をとった。
「僕、スラグホーン先生に…あーえっと、相談があって」
リーマスは顔二つ分ほどもある大きな本を両手で抱えながら、教室内をキョロキョロと見渡した。
「でも先生はいないみたいだね。それならいいんだ、今日じゃなくても」
「それ、何の本?」
好奇心を抑えきれず、名前はリーマスの持つ巨大な本を指差してたずねた。動物の皮のような、重厚感溢れるカバーに包まれている。
「ああ、ハグリッドから借りた本だよ。今から返しに行くところなんだ」
「ハグリッド?」
普段の会話では登場しない名前に、名前は思わず目を丸くした。
「ハグリッドって、森番の?入学の日に道案内してくれた、あのハグリッド?」
「そうだよ、懐かしいね」
リーマスがふっと笑った。あの日、名前とリーマスは共にホグズミード駅に降り立ち、組み分け帽子が二人を別々の寮に分けるまで並んで時を過ごしたのだ。
「リーマス、いつの間に彼と仲良くなったの?」
森番のハグリッドと親交を持つ可能性など、名前は今まで考えた事も無かった。ハグリッドは先生ではないが、れっきとした大人だ。名前は心のどこかで、管理人のフィルチと同じくらいの近寄りがたさを彼に感じていた。
「名前はハグリッドと話した事ないの?」
リーマスはリーマスで、意外そうな目を名前に向けた。
「グリフィンドール生は入学してから、みんな彼と一言は必ず話すんだけど」
それを聞いて名前は首を振った。またしてもグリフィンドールの壁が目の前に立ちはだかったような気がした。心の底に積み重なっていく寂しさに、名前は無意識に視線を落とした。床の上には魔法薬の材料がこれでもかというくらい散らかっている。自分と同じくらい不器用な生徒が他にもいるらしい。
「じゃあ、今から一緒に会いに行くかい?」
「えっ?」
リーマスの言葉に名前は驚いて顔をあげた。彼は穏やかな顔つきで、名前の返事を待っている。
「でもそんな、知らない生徒が急に訪ねるなんて…」
「ハグリッドはお客なら誰でも大歓迎だよ」
リーマスは笑いながら身を翻し、地下教室のドアを開けた。
「あ、それとも何か予定があったかな?」
「ううん、無いけど…」
名前は躊躇いがちにドアへと近寄った。突然の未知への誘いにどう答えるべきか分からなかった。
「じゃあ一緒においでよ。僕についてきて」
リーマスに連れられ、名前は地下牢を後にし、夕陽が輝く校庭に出た。ひんやりとした秋の風が木の葉を舞い上げ、飛んできた枯葉が名前の髪に絡み付いた。緩やかな坂を下っていくと、石造りの小屋が目に飛び込んできた。その横には巨大なカボチャがいくつも転がっている。
「ハグリッド!」
リーマスが小屋のドアを拳でノックすると、ガタガタという音ともに、名前の2倍はあるであろう巨大な男が姿を現した。
「リーマス!」
ハグリッドは大きな顔いっぱいに笑みを浮かべ、リーマスの背中をボンと叩いた。その衝撃で痩せた体のリーマスはよろめき、抱えていた本を落としそうになった。
「今日はジェームズたちは一緒じゃねえのか、え?」
「うん、今日は僕が先に用事があったもんだから…」
リーマスを小屋の中に招き入れる途中で、ハグリッドの目がはたと名前を捉えた。それに気付いたリーマスが慌てて名前の手を引っ張った。
「友達をつれてきたんだ。名前・苗字、2年生だよ」
「あ、初めまして」
名前はハグリッドの大きさに気圧されながら、強ばった笑顔で挨拶した。
「驚いた、スリザリンとは珍しいな!」
二人が小屋の中に入った事を確認して、ハグリッドが扉をバタンと閉めた。本人は軽い動作のつもりなのだろうが、その余りの勢いに入口の砂埃が名前の顔付近まで舞い上がった。
ハグリッドの小屋は見たこともないような不思議な空間だった。あちこちに籠のような物が吊るされ、干した肉や動物の皮からお世辞にも良いとは言えない匂いが漂っている。名前はその匂いへの不快感が顔に表れないよう細心の注意を払った。
「外のカボチャすごいね」
木製の椅子に腰掛けながら、リーマスが窓の外を指さした。一番大きなカボチャは座ったリーマスの目線と同じくらいの高さに育っている。
「もうすぐハロウィンだからな!うんとでっかいのを育てんと」
ハグリッドは部屋の隅でガチャガチャと何かを取り出して、暖炉の脇にかがみ込んだ。お湯を沸かしているらしい。
扉の前に突っ立ったままの名前にリーマスが手招きし、自分の隣に来るようにとジェスチャーした。名前はハグリッドにぶつからないよう暖炉の前を避けて迂回し、女の子ならば二人は座れるであろう大きな椅子に腰掛けた。
「そんでお前さん、名前と言ったか?」
大きなティーカップと大きなロックケーキを差し出しながら、ハグリッドがたずねた。頷いた名前の横にハグリッドが腰を下ろすと、床がギシっと不穏な音を立てたので、名前は地面が凹んだのではないかと思わず足元を見てしまった。
「まあくつろいでくれや」
そう言って、ハグリッドはロックケーキをガブリと一口食べた。名前もそれに続いて目の前のロックケーキを手に取ったが、かじりついた瞬間、反射的に歯に力を込めるのをやめた。名前の脳がこれを噛み砕くのは危険だと判断したのだ。あまりにも硬い。
名前は思わず隣に座るリーマスを見た。リーマスも同じく歯を折られそうになったようで、片手でロックケーキを弄びながら困ったような笑みを浮かべている。
「スリザリンが俺の小屋に来るなんて初めてかもしれんなあ」
豪快にお手製のロックケーキを平らげながら、ハグリッドはしげしげと名前を眺めた。
「お前さんたち、どうして友達になった?」
「ホグワーツ特急で同じコンパートメントになったんだ。そこから組分けまで一緒にいたんだよ」
リーマスが最初のひと口を何とか奥歯で噛み砕きながら言った。名前はというと、欠けたロックケーキの一部を口の中で飴のように転がしていた。舌の上で徐々にふやけて、食べやすくなるかもしれない。
「それに何ていうか…名前はあまりスリザリンっぽくないんだ。いい意味でね」
リーマスがくぐもった声で笑った。口に詰めたロックケーキが相当邪魔しているのだろう。
「ほう、それじゃあお前さんたちがいつもいがみ合ってるスリザリンとは違うってわけか」
湯気のたちこめた紅茶を躊躇いなく飲みながら、ハグリッドが言った。
「お前さんたちの嫌いな、スネイプなんかとは。そういうこったな?」
ハグリッドの口から突然セブルスの名前が出たことに、名前は驚いてロックケーキを喉に詰まらせそうになった。
「ああ、まあそういうことだねー…」
「でも私、セブルスとは仲が良いよ」
名前は思わずリーマスの言葉を遮って言った。それを聞いたハグリッドは混乱したように目を丸くした。
「ああ、うん、勿論それは知ってるよ」
リーマスがむせながら言葉を返した。
「ただ彼と違って君はみんなに親切だし…つまり、彼より性格がいいって意味だよ、うん」
名前は不審そうにリーマスを見つめ、舌でふやかしていたロックケーキを頬の奥に詰めて言った。
「リーマスたちはどうしてセブルスを嫌ってるの?そりゃ無愛想なのは認めるけど…彼が何か悪いことでもした?」
「まあ…僕はそれほど、彼を嫌ってる訳では無いんだけど」
リーマスは困り顔で目を伏せ、呟くように答えた。
「ジェームズとシリウスにとっては出会った頃から気に入らないみたいなんだ。スネイプからしてもそうさ、お互いにね」
「私からしたらポッターたちの方がよっぽどたちが悪いと思うんだけど」
セブルスが彼らから受けた数々の挑発は忘れようもない。名前は噛み付くように言った。
「いつも先に言いがかりをつけて攻撃してくるのはポッターとブラックじゃない」
「まあ…そう言われても仕方ないね」
リーマスは穏やかな口調を保ってはいたが、その目つきは明らかに強く鋭くなっていた。
「確かにあの二人はやりすぎる所がある。でもスネイプみたいに闇の魔術に興味を持ったりはしない」
「どうどう、お前さんたち、友達じゃなかったのか?」
白熱しかけたリーマスと名前の言い争いを制すように、ハグリッドが二人の前で大きく手を振った。名前はハッと彼の存在を思い出し、衝動的に声を荒らげてしまった自分を恥じた。
「ああ、僕たちは良い友達だよ、ほんとに」
リーマスも同じ事を思ったようで、咄嗟に自分が持ってきた本に話を逸らした。
「ハグリッド、この本貸してくれてありがとう。とても勉強になったよ」
「おお、そうか!そりゃあ良かった!」
ハグリッドは嬉しそうな笑顔で本の表紙をバンと叩いた。リーマスが抱えていた時はあんなにも巨大に見えた本だが、ハグリッドの手に収まるとむしろ小さい文庫本のように感じられる。
「その本、何なの?」
顔を火照らせながら、名前は普段の調子を装おってたずねた。リーマスとの些細な衝突を早く水に流してしまいたかった。
「魔法生物の本だよ」
名前の期待に応えるかのように、リーマスがいつもの優しい笑顔を向けて言った。
「ハグリッドは魔法生物にすごく詳しいんだ。僕も知っておかなきゃいけないと思って…あーなんと言うか、勉強のためにね」
「名前、お前さんも読むといい!」
そう言ってハグリッドはぐいと革表紙の本を名前に押し付けた。やはり巨大だ。あまりの大きさに、名前が本を持った瞬間視界が革表紙ですべて埋まってしまった。
名前は本をテーブルに置き、ティーカップやロックケーキの皿を落とさないよう気をつけながらページをめくった。本の冒頭には美しい挿絵と共に、神秘の魔法生物・ユニコーンについての説明が書かれている。
「綺麗…」
名前は透き通るような美しさを持つ、ユニコーンの絵をじっくりと眺めた。
「ユニコーンはいいぞ。俺もたまに見かけるが、連中はとにかく美しい」
「ユニコーンがホグワーツにいるの?」
ハグリッドの言葉に、名前は驚いて顔を上げた。生まれてこの方、本物のユニコーンなど見たこともない。
「ああ、勿論おるとも。ホグワーツの森には何でもいる」
そう言ってハグリッドは窓の外の鬱蒼とした暗闇を指差した。
「それにユニコーンならケトルバーン先生が授業で教えてくれるはずだぞ。毎年の課題になっとるからな」
「ホグワーツの森…」
名前は外を振り返りながら呟いた。いわゆる禁じられた森と呼ばれている、生徒立ち入り禁止の場所だ。そこに入ろうと企むことはおろか、何が棲んでいるのかすら考えた事も無かった。
「森にはどのくらいの生き物がいるの?」
「とても数え切れん!」
名前の問いに、ハグリッドが声を上げて笑った。
「まあ少なくともその本に載ってるやつらは全部いるぞ。載ってないやつも大勢いる。例えばアクロマンチュラなんか…」
聞き慣れない名前に、名前とリーマスが同時に眉をひそめた。
「アクロ…何?」
「いや、何でもねえ、忘れてくれ」
ハグリッドはなぜか気まずそうに頭を振って、ドカっと深く腰掛け直した。
「まあそういう森にいるやつらと出来るだけ仲良くしながら交流を持ち続けるのが、俺の仕事のひとつだ」
名前は素直に尊敬の念を抱いた。ハグリッドの日常は、一般には想像出来ないほどの刺激で満ち溢れているに違いない。普通の人が出会ったことも無い生き物を彼は数多く知っているのだ。
「そういう魔法生物に会う時はどうやって行くの?たくさん武装していくの?」
「武装?とんでもねえ!」
名前の問いに、ハグリッドは目を丸くして答えた。
「森に棲んでるやつらにはかすり傷ひとつ与えちゃなんねえ。なんだって武器を持ってく必要がある?」
「でも…」
名前は本のページをめくった先の恐ろしい挿絵に釘付けになった。ヤギの胴体からライオンの頭が生えている。よく見ると尻尾はドラゴンのようだ。「血に飢えており、非常に危険」と書かれている。
「もし、この…キメラとかに出会ったら?」
「出会ったからと言って、決して手出しはしねえ。向こうが気分を害したら、そりゃ退散するしかねえがー…」
ハグリッドは紅茶をぐいっと飲み、笑って言った。
「名前、俺は森にいるやつらが好きだ。好きなもんには、素でぶつかっていくもんだ」
「素で?」
「生物に限らずな。人間でも、何に対しても言えることだ。行動をヘタに計算したり、自分を無理に繕ったりするのは良くねえ。結局相手を警戒させて遠ざけちまう。仲良くなりてえ相手には、素を出していくのが一番だ」
名前は思わず息を飲んだ。ハグリッドの言葉は、まさに自分がこの数日間抱えていた悩みへの答えに感じられた。セブルスへの行動を意識するあまり、彼との距離が開いてしまったような気がしていた名前に対する救いの回答だった。
「だから名前、お前さんも俺の前でどんどん素を出してくれや!お、ロックケーキもう食べたか?どうだった?」
「あ、とっても…歯ごたえがあった」
名前の咄嗟の返事に、隣に座るリーマスがひくっと笑った。ハグリッドは満足そうに頷き、棚からお代わりを出そうと立ち上がった。それに気付いた名前とリーマスはもうすぐ夕食だからと慌てて理由をつけて、全力で彼を引き止めた。
ハグリッドの小屋で過ごす時間は想像以上に楽しく、気付けばあっという間に夕食の時間になっていた。半月がのぼる夕闇の中、三人は揃って大広間へと向かった。グリフィンドール生とスリザリン生、そして森番の大男が並んで歩く姿は世にも珍しく、城のあちこちで生徒たちが振り返るほどの注目ぶりだった。
「それじゃあ名前、またね」
職員テーブルへ向かうハグリッドを追うように、リーマスがグリフィンドールの席へと去っていった。名前は今日の事に対して礼を言い、扉の前でいつも通りミランダを探した。
夕食の開始から15分ほど遅れてしまった。彼女はもう先に席に着いているかもしれない。スリザリンのテーブルの奥を覗き込むと、案の定ミランダの指いっぱいにつけた石の指輪がキラキラと信号を送るように輝いていた。
名前は大広間に足を踏み入れ、親友のもとへ早足で向かおうとした。しかし名前が大広間の扉を離れると同時に、見知った顔がその扉に内側から手をかけた。
「セブルス!」
名前は鉢合わせした同級生に驚いて声を上げた。
「どっか行くの?何か忘れ物?」
「え?」
セブルスも少し驚いたような、面食らったような顔で名前を見た。
「いや、別に…もう食べ終わったから、出るところだ」
「もう!?」
名前は思わず壁の大時計を振り返った。
「夕食が始まってまだ15分じゃない!」
「それだけあれば十分だ」
セブルスのその答えから、またしても彼が一人で夕食を過ごしたであろう事は明らかだった。このまま彼と別れてしまうのは惜しい。頭にふとある考えが浮かび、名前は口を開きかけた。
「なんだ?」
名前の何か言いたげな様子を察して、セブルスが怪訝そうに目を細めた。名前から示されるのはろくな提案ではないと分かっているような顔だ。恐らく夕食を一緒に過ごせと言ってくる、とでも思っているのだろう。
しかし今の名前の考えは違う。もしかしたらもっと嫌がられるかもしれない。そう思うと、名前は開きかけた口をすぐさま閉じてしまいたい衝動にかられた。だがその瞬間、ハグリッドの言葉が脳裏をよぎった。
好きなもんには、素でぶつかっていくもんだー。
「あの、特に用事が無ければでいいんだけど」
名前は言いながらにして顔が火照ってくるのを感じた。しかし一度言い出してしまえば、言葉は口からスルスルと簡単に出てきた。
「良かったら図書館で待っててくれない?魔法薬学の課題で分からないところがあって…」
「ああ、わかった」
名前の葛藤とは裏腹に、セブルスからは思いがけずスムーズな答えが返ってきた。
「じゃあ夕食が終わったら、魔法薬の蔵書付近にある窓際の席に来い。僕はいつもそこにいる」
「あ、う、うん、オッケー」
名前は信じられない思いでセブルスを見た。そして同時に嬉しさがどっと込み上げてきた。セブルスと何気なく話せただけでなく、共に過ごす約束まで出来たなんて。
「そんなに分からない所があるのか?」
その場に根が生えたように立ち尽くす名前を見て、セブルスがふっと鼻で笑った。
「え?」
「ずいぶんと救われたような顔をしていたから」
そう言うとセブルスは図書館の方向へと身を翻した。
「あまり待たせるなよ」
「うん、もちろん!」
歩き始めたセブルスの背中に向けて名前は叫んだ。
「すぐ行く!急いで行く!」
名前は走るようにスリザリンのテーブル奥へと進み、ミランダに待たせた事を詫びてから、骨付きのチキンを一本取って慌ただしく食べ始めた。これを食べ終わればセブルスと一緒に勉強することが出来る。そう思うと心が踊るようだ。
そわそわと浮き足立つ理由をミランダが隣で"察して"いたとしても、名前はもうお構いなしだった。自分は確かに、セブルスの事が好きなのだ。それを否定するつもりも、恥じる気持ちも、今の名前には微塵もなかった。
大鍋に向けたはずの魔法が、どういうわけか鍋横のガラス試験管を爆破させてしまった。スラグホーン先生が驚いてやって来て、名前を呆れた目で一瞥した後、散らばった破片に再生呪文をかけた。名前がごめんなさいを言い終わる前に先生はいそいそと立ち去り、教室の端で髪の一部を燃やしてしまったグリフィンドール生の方へと向かっていった。
名前の隣に座るセブルス・スネイプは唖然とした表情で、もはや声も出ないようだった。名前は彼の冷たい視線に顔を赤らめながら、教科書に書かれた杖の正しい振り方を食い入るように見つめた。しかし突然の失敗に動揺しきった頭では、流れるような文字を追うばかりで内容がひとつも入って来なかった。
ミランダに自分がセブルスを好いていると言われたあの日から、毎日がどうもうまくいかない。名前はそんな悩みを抱えていた。特に魔法薬学の授業では顕著なほどに失態が増え、名前は早くも一年次の期末試験での成功を泥まみれに塗り替えていた。慎重を機すれば機する程、何かしらのヘマが起きてしまう。自分を不安げに見つめるセブルスの目が気になって、思うように集中出来ないのだ。名前にはそれが分かっていた。もっとも、セブルスから向けられるのは火気厳禁の爆発因子を警戒するような視線で、決して好意的なそれではないのだがー。
完成まであと一歩という段階まで何とか漕ぎ着けた時、タイミング悪く終業のベルが鳴った。名前は慌てて教科書を見直し、最後のかき混ぜ回数を脳に刻み込むように反復して読んだ。大鍋に杖を向けたその時、隣のセブルスが荷物をまとめて立ち上がった。
「あ…」
名前は反射的にセブルスの顔を見つめたものの、言葉につまって口をぱくぱくさせた。今までなら不満げに、さも当然のように手伝いを命じられたのに。自分の発言がもたらす様々な印象を意識し始めた途端、ここ最近の名前はセブルスにどんな言葉をかけるべきか分からなくなってしまっていた。
「何だ?」
大鍋の前に呆然と腰掛けた名前を見下ろしながら、セブルスが不審そうに眉をひそめた。
「早く混ぜないとダメになるぞ。まあ、正しく出来たところで救いようが無さそうな色だが…」
「う、うん、そうする」
名前はセブルスから逃げるように目を逸らし、改まって杖を構えた。そしてはたと手を止め、教科書に再び目をやった。この一瞬の間にかき混ぜる回数を忘れてしまったのだ。
「さっき本を見たところじゃないか」
憐れむような目つきでセブルスが言った。
「大丈夫か?この頃ますます馬鹿になってるぞ」
「大丈夫、大丈夫」
反論もせぬまま、名前は泳ぐように流れて見える教科書の文字を注視した。指で文字を捕まえるようになぞること数十秒、ようやく正しい回数の記述にたどり着いた。
最後の作業を始めた時、ため息をついてセブルスがその場を離れて行ったのに名前は気付いた。心からさーっと熱が失われていくような感じがした。教室から出ていくタイミングを合わせるのはいつも名前の方だ。セブルスにはわざわざ名前を待ってまで行動を共にする気概はない…。
人波がザワザワと出口に集中するのを感じ取りながら、名前は狭まった視界の中で鍋を3回ゆっくりとかき混ぜた。煙が上がるのを見届けて、小瓶に魔法薬を詰めたら終了だ。震える手つきで小瓶の蓋を開けながら名前は考えた。今ならまだセブルスに追いつけるだろうか。しかし息を切らせながら後を追うなんて、気味悪く思われるだろうか…。
ふと名前の視界に鮮やかな赤い色が飛び込んできた。この魔法薬は正しく完成すれば緑色の煙があがるはずだ。名前は血の気が引くのを感じ、慌てて顔を上げた。しかし名前が見た赤は煙のそれではなく、一人の少女の豊かな髪色だった。
「名前、大丈夫?」
赤毛の長髪をかき上げながら、リリーが名前の大鍋を覗き込んだ。煙はまだ上がってはいない。
「どうかな…ダメかも…」
本来ならばかき混ぜてすぐ、緑色の煙が立ち込めるはずだ。名前はやきもきしながら両手を握りしめた。
「もしかしたら、二角獣の角の粉末を少し足すといいかも」
そう言ってリリーは机に置かれた小鉢を手に取った。
「ちょっと試してみてもいい?」
「うん、もちろん」
名前は大きく頷いて、リリーに大鍋の前を明け渡した。二年次でグリフィンドールとの合同授業となってからというもの、クラス中がリリーの魔法薬学への溢れる才能を目の当たりにしてきた。彼女が最も得意とするのは、セブルスと同じくこの科目らしい。
リリーが粉末をひとつまみ鍋に入れて杖を振ると、たちまち鮮やかな緑の煙が立ち上った。
「わあ…!」
名前は目を丸くして鍋底を見た。セブルスにも劣らない出来だ。名前は完成した魔法薬を急いで瓶に移し、栓をきつく締めた。
「ありがとう、リリー」
「どういたしまして」
手に残った粉末を払い落としながら、花のように美しくリリーが笑いかけた。名前はその魅力に心を打たれてから、思い出したように慌てて身の回りの片付けを始めた。
リリーは魔女としての直感に非常に優れているようだった。このところ魔法薬学の授業でスラグホーン先生の賞賛を受けるのは、決まってリリーとセブルスだ。それでいてリリーは傲慢さのかけらもなく、常に謙虚に物事にあたっている。名前は自分に変身術という唯一の強みがなければ、劣等感からこの二人と居る事には耐えられなかっただろうと思った。
「セブルスは?先に行っちゃったの?」
名前の急ぎの片付けを見守りながら、リリーが何気なくたずねた。
「あ、うん」
リリーの問いかけに名前は再び口角が下がるのを感じ、咄嗟にそれを引き上げて作り笑いをした。
「まあ、セブルスも忙しいみたいだし…待っててもらうの申し訳ないから」
名前はさも自分が彼を先に帰したような言い方をして、心の傷を浅くしようとした。荷物をまとめて出口付近に目をやると、リリーの友人と思しき数人が扉の脇で彼女を待っていた。
「ごめん。友達、待たせちゃってるね」
名前は顔を赤らめながら立ち上がった。どういうわけか、リリーが自分と帰路を共にする為に待ってくれているとばかり思っていた。彼女には既に待っている友人がいるというのに。
「全然よ」
リリーは優しく首を振って答えた。
「出来ることなら、あなたをグリフィンドールの友達にも紹介したいんだけど…」
名前が紅のローブに身を包んだ女生徒たちをちらりと見ると、その中の一人と目が合った。しかしすぐに顔を逸らされてしまい、緑色のローブを着た自分は歓迎されていないのだと名前は悟った。
「ううん、大丈夫。気遣ってくれてありがとう」
名前は出来上がった魔法薬を教卓の上に提出しに行くからと、リリーとその場で別れた。彼女たちが教室を出ると、薬品の匂いであふれる薄暗い地下室に名前は一人になった。遠くで女の子たちの楽しげな笑い声が響いている。
夕食までの時間をどう過ごそうか。名前は教卓を背にして立ち止まった。こんな時いつも一緒に行動できる友達がいたらいいのに。名前は年上のミランダを、グリフィンドールのリリーを、そして自分を置いて行ってしまったセブルスを少し恨めしく思った。
すると突然教室の扉が開き、一人きりの空間にぼんやりと油断しきっていた名前は慌てて姿勢を正した。しかし教室に入ってきたのは同い年の見知った顔だった。
「あれ?」
名前の姿に驚いて、リーマスが声を上げた。
「名前、まだいたんだ」
「リーマス、どうしたの?」
突如現れたのが馴染み深い友人だった事にほっと胸を撫で下ろし、名前は再び楽な姿勢をとった。
「僕、スラグホーン先生に…あーえっと、相談があって」
リーマスは顔二つ分ほどもある大きな本を両手で抱えながら、教室内をキョロキョロと見渡した。
「でも先生はいないみたいだね。それならいいんだ、今日じゃなくても」
「それ、何の本?」
好奇心を抑えきれず、名前はリーマスの持つ巨大な本を指差してたずねた。動物の皮のような、重厚感溢れるカバーに包まれている。
「ああ、ハグリッドから借りた本だよ。今から返しに行くところなんだ」
「ハグリッド?」
普段の会話では登場しない名前に、名前は思わず目を丸くした。
「ハグリッドって、森番の?入学の日に道案内してくれた、あのハグリッド?」
「そうだよ、懐かしいね」
リーマスがふっと笑った。あの日、名前とリーマスは共にホグズミード駅に降り立ち、組み分け帽子が二人を別々の寮に分けるまで並んで時を過ごしたのだ。
「リーマス、いつの間に彼と仲良くなったの?」
森番のハグリッドと親交を持つ可能性など、名前は今まで考えた事も無かった。ハグリッドは先生ではないが、れっきとした大人だ。名前は心のどこかで、管理人のフィルチと同じくらいの近寄りがたさを彼に感じていた。
「名前はハグリッドと話した事ないの?」
リーマスはリーマスで、意外そうな目を名前に向けた。
「グリフィンドール生は入学してから、みんな彼と一言は必ず話すんだけど」
それを聞いて名前は首を振った。またしてもグリフィンドールの壁が目の前に立ちはだかったような気がした。心の底に積み重なっていく寂しさに、名前は無意識に視線を落とした。床の上には魔法薬の材料がこれでもかというくらい散らかっている。自分と同じくらい不器用な生徒が他にもいるらしい。
「じゃあ、今から一緒に会いに行くかい?」
「えっ?」
リーマスの言葉に名前は驚いて顔をあげた。彼は穏やかな顔つきで、名前の返事を待っている。
「でもそんな、知らない生徒が急に訪ねるなんて…」
「ハグリッドはお客なら誰でも大歓迎だよ」
リーマスは笑いながら身を翻し、地下教室のドアを開けた。
「あ、それとも何か予定があったかな?」
「ううん、無いけど…」
名前は躊躇いがちにドアへと近寄った。突然の未知への誘いにどう答えるべきか分からなかった。
「じゃあ一緒においでよ。僕についてきて」
リーマスに連れられ、名前は地下牢を後にし、夕陽が輝く校庭に出た。ひんやりとした秋の風が木の葉を舞い上げ、飛んできた枯葉が名前の髪に絡み付いた。緩やかな坂を下っていくと、石造りの小屋が目に飛び込んできた。その横には巨大なカボチャがいくつも転がっている。
「ハグリッド!」
リーマスが小屋のドアを拳でノックすると、ガタガタという音ともに、名前の2倍はあるであろう巨大な男が姿を現した。
「リーマス!」
ハグリッドは大きな顔いっぱいに笑みを浮かべ、リーマスの背中をボンと叩いた。その衝撃で痩せた体のリーマスはよろめき、抱えていた本を落としそうになった。
「今日はジェームズたちは一緒じゃねえのか、え?」
「うん、今日は僕が先に用事があったもんだから…」
リーマスを小屋の中に招き入れる途中で、ハグリッドの目がはたと名前を捉えた。それに気付いたリーマスが慌てて名前の手を引っ張った。
「友達をつれてきたんだ。名前・苗字、2年生だよ」
「あ、初めまして」
名前はハグリッドの大きさに気圧されながら、強ばった笑顔で挨拶した。
「驚いた、スリザリンとは珍しいな!」
二人が小屋の中に入った事を確認して、ハグリッドが扉をバタンと閉めた。本人は軽い動作のつもりなのだろうが、その余りの勢いに入口の砂埃が名前の顔付近まで舞い上がった。
ハグリッドの小屋は見たこともないような不思議な空間だった。あちこちに籠のような物が吊るされ、干した肉や動物の皮からお世辞にも良いとは言えない匂いが漂っている。名前はその匂いへの不快感が顔に表れないよう細心の注意を払った。
「外のカボチャすごいね」
木製の椅子に腰掛けながら、リーマスが窓の外を指さした。一番大きなカボチャは座ったリーマスの目線と同じくらいの高さに育っている。
「もうすぐハロウィンだからな!うんとでっかいのを育てんと」
ハグリッドは部屋の隅でガチャガチャと何かを取り出して、暖炉の脇にかがみ込んだ。お湯を沸かしているらしい。
扉の前に突っ立ったままの名前にリーマスが手招きし、自分の隣に来るようにとジェスチャーした。名前はハグリッドにぶつからないよう暖炉の前を避けて迂回し、女の子ならば二人は座れるであろう大きな椅子に腰掛けた。
「そんでお前さん、名前と言ったか?」
大きなティーカップと大きなロックケーキを差し出しながら、ハグリッドがたずねた。頷いた名前の横にハグリッドが腰を下ろすと、床がギシっと不穏な音を立てたので、名前は地面が凹んだのではないかと思わず足元を見てしまった。
「まあくつろいでくれや」
そう言って、ハグリッドはロックケーキをガブリと一口食べた。名前もそれに続いて目の前のロックケーキを手に取ったが、かじりついた瞬間、反射的に歯に力を込めるのをやめた。名前の脳がこれを噛み砕くのは危険だと判断したのだ。あまりにも硬い。
名前は思わず隣に座るリーマスを見た。リーマスも同じく歯を折られそうになったようで、片手でロックケーキを弄びながら困ったような笑みを浮かべている。
「スリザリンが俺の小屋に来るなんて初めてかもしれんなあ」
豪快にお手製のロックケーキを平らげながら、ハグリッドはしげしげと名前を眺めた。
「お前さんたち、どうして友達になった?」
「ホグワーツ特急で同じコンパートメントになったんだ。そこから組分けまで一緒にいたんだよ」
リーマスが最初のひと口を何とか奥歯で噛み砕きながら言った。名前はというと、欠けたロックケーキの一部を口の中で飴のように転がしていた。舌の上で徐々にふやけて、食べやすくなるかもしれない。
「それに何ていうか…名前はあまりスリザリンっぽくないんだ。いい意味でね」
リーマスがくぐもった声で笑った。口に詰めたロックケーキが相当邪魔しているのだろう。
「ほう、それじゃあお前さんたちがいつもいがみ合ってるスリザリンとは違うってわけか」
湯気のたちこめた紅茶を躊躇いなく飲みながら、ハグリッドが言った。
「お前さんたちの嫌いな、スネイプなんかとは。そういうこったな?」
ハグリッドの口から突然セブルスの名前が出たことに、名前は驚いてロックケーキを喉に詰まらせそうになった。
「ああ、まあそういうことだねー…」
「でも私、セブルスとは仲が良いよ」
名前は思わずリーマスの言葉を遮って言った。それを聞いたハグリッドは混乱したように目を丸くした。
「ああ、うん、勿論それは知ってるよ」
リーマスがむせながら言葉を返した。
「ただ彼と違って君はみんなに親切だし…つまり、彼より性格がいいって意味だよ、うん」
名前は不審そうにリーマスを見つめ、舌でふやかしていたロックケーキを頬の奥に詰めて言った。
「リーマスたちはどうしてセブルスを嫌ってるの?そりゃ無愛想なのは認めるけど…彼が何か悪いことでもした?」
「まあ…僕はそれほど、彼を嫌ってる訳では無いんだけど」
リーマスは困り顔で目を伏せ、呟くように答えた。
「ジェームズとシリウスにとっては出会った頃から気に入らないみたいなんだ。スネイプからしてもそうさ、お互いにね」
「私からしたらポッターたちの方がよっぽどたちが悪いと思うんだけど」
セブルスが彼らから受けた数々の挑発は忘れようもない。名前は噛み付くように言った。
「いつも先に言いがかりをつけて攻撃してくるのはポッターとブラックじゃない」
「まあ…そう言われても仕方ないね」
リーマスは穏やかな口調を保ってはいたが、その目つきは明らかに強く鋭くなっていた。
「確かにあの二人はやりすぎる所がある。でもスネイプみたいに闇の魔術に興味を持ったりはしない」
「どうどう、お前さんたち、友達じゃなかったのか?」
白熱しかけたリーマスと名前の言い争いを制すように、ハグリッドが二人の前で大きく手を振った。名前はハッと彼の存在を思い出し、衝動的に声を荒らげてしまった自分を恥じた。
「ああ、僕たちは良い友達だよ、ほんとに」
リーマスも同じ事を思ったようで、咄嗟に自分が持ってきた本に話を逸らした。
「ハグリッド、この本貸してくれてありがとう。とても勉強になったよ」
「おお、そうか!そりゃあ良かった!」
ハグリッドは嬉しそうな笑顔で本の表紙をバンと叩いた。リーマスが抱えていた時はあんなにも巨大に見えた本だが、ハグリッドの手に収まるとむしろ小さい文庫本のように感じられる。
「その本、何なの?」
顔を火照らせながら、名前は普段の調子を装おってたずねた。リーマスとの些細な衝突を早く水に流してしまいたかった。
「魔法生物の本だよ」
名前の期待に応えるかのように、リーマスがいつもの優しい笑顔を向けて言った。
「ハグリッドは魔法生物にすごく詳しいんだ。僕も知っておかなきゃいけないと思って…あーなんと言うか、勉強のためにね」
「名前、お前さんも読むといい!」
そう言ってハグリッドはぐいと革表紙の本を名前に押し付けた。やはり巨大だ。あまりの大きさに、名前が本を持った瞬間視界が革表紙ですべて埋まってしまった。
名前は本をテーブルに置き、ティーカップやロックケーキの皿を落とさないよう気をつけながらページをめくった。本の冒頭には美しい挿絵と共に、神秘の魔法生物・ユニコーンについての説明が書かれている。
「綺麗…」
名前は透き通るような美しさを持つ、ユニコーンの絵をじっくりと眺めた。
「ユニコーンはいいぞ。俺もたまに見かけるが、連中はとにかく美しい」
「ユニコーンがホグワーツにいるの?」
ハグリッドの言葉に、名前は驚いて顔を上げた。生まれてこの方、本物のユニコーンなど見たこともない。
「ああ、勿論おるとも。ホグワーツの森には何でもいる」
そう言ってハグリッドは窓の外の鬱蒼とした暗闇を指差した。
「それにユニコーンならケトルバーン先生が授業で教えてくれるはずだぞ。毎年の課題になっとるからな」
「ホグワーツの森…」
名前は外を振り返りながら呟いた。いわゆる禁じられた森と呼ばれている、生徒立ち入り禁止の場所だ。そこに入ろうと企むことはおろか、何が棲んでいるのかすら考えた事も無かった。
「森にはどのくらいの生き物がいるの?」
「とても数え切れん!」
名前の問いに、ハグリッドが声を上げて笑った。
「まあ少なくともその本に載ってるやつらは全部いるぞ。載ってないやつも大勢いる。例えばアクロマンチュラなんか…」
聞き慣れない名前に、名前とリーマスが同時に眉をひそめた。
「アクロ…何?」
「いや、何でもねえ、忘れてくれ」
ハグリッドはなぜか気まずそうに頭を振って、ドカっと深く腰掛け直した。
「まあそういう森にいるやつらと出来るだけ仲良くしながら交流を持ち続けるのが、俺の仕事のひとつだ」
名前は素直に尊敬の念を抱いた。ハグリッドの日常は、一般には想像出来ないほどの刺激で満ち溢れているに違いない。普通の人が出会ったことも無い生き物を彼は数多く知っているのだ。
「そういう魔法生物に会う時はどうやって行くの?たくさん武装していくの?」
「武装?とんでもねえ!」
名前の問いに、ハグリッドは目を丸くして答えた。
「森に棲んでるやつらにはかすり傷ひとつ与えちゃなんねえ。なんだって武器を持ってく必要がある?」
「でも…」
名前は本のページをめくった先の恐ろしい挿絵に釘付けになった。ヤギの胴体からライオンの頭が生えている。よく見ると尻尾はドラゴンのようだ。「血に飢えており、非常に危険」と書かれている。
「もし、この…キメラとかに出会ったら?」
「出会ったからと言って、決して手出しはしねえ。向こうが気分を害したら、そりゃ退散するしかねえがー…」
ハグリッドは紅茶をぐいっと飲み、笑って言った。
「名前、俺は森にいるやつらが好きだ。好きなもんには、素でぶつかっていくもんだ」
「素で?」
「生物に限らずな。人間でも、何に対しても言えることだ。行動をヘタに計算したり、自分を無理に繕ったりするのは良くねえ。結局相手を警戒させて遠ざけちまう。仲良くなりてえ相手には、素を出していくのが一番だ」
名前は思わず息を飲んだ。ハグリッドの言葉は、まさに自分がこの数日間抱えていた悩みへの答えに感じられた。セブルスへの行動を意識するあまり、彼との距離が開いてしまったような気がしていた名前に対する救いの回答だった。
「だから名前、お前さんも俺の前でどんどん素を出してくれや!お、ロックケーキもう食べたか?どうだった?」
「あ、とっても…歯ごたえがあった」
名前の咄嗟の返事に、隣に座るリーマスがひくっと笑った。ハグリッドは満足そうに頷き、棚からお代わりを出そうと立ち上がった。それに気付いた名前とリーマスはもうすぐ夕食だからと慌てて理由をつけて、全力で彼を引き止めた。
ハグリッドの小屋で過ごす時間は想像以上に楽しく、気付けばあっという間に夕食の時間になっていた。半月がのぼる夕闇の中、三人は揃って大広間へと向かった。グリフィンドール生とスリザリン生、そして森番の大男が並んで歩く姿は世にも珍しく、城のあちこちで生徒たちが振り返るほどの注目ぶりだった。
「それじゃあ名前、またね」
職員テーブルへ向かうハグリッドを追うように、リーマスがグリフィンドールの席へと去っていった。名前は今日の事に対して礼を言い、扉の前でいつも通りミランダを探した。
夕食の開始から15分ほど遅れてしまった。彼女はもう先に席に着いているかもしれない。スリザリンのテーブルの奥を覗き込むと、案の定ミランダの指いっぱいにつけた石の指輪がキラキラと信号を送るように輝いていた。
名前は大広間に足を踏み入れ、親友のもとへ早足で向かおうとした。しかし名前が大広間の扉を離れると同時に、見知った顔がその扉に内側から手をかけた。
「セブルス!」
名前は鉢合わせした同級生に驚いて声を上げた。
「どっか行くの?何か忘れ物?」
「え?」
セブルスも少し驚いたような、面食らったような顔で名前を見た。
「いや、別に…もう食べ終わったから、出るところだ」
「もう!?」
名前は思わず壁の大時計を振り返った。
「夕食が始まってまだ15分じゃない!」
「それだけあれば十分だ」
セブルスのその答えから、またしても彼が一人で夕食を過ごしたであろう事は明らかだった。このまま彼と別れてしまうのは惜しい。頭にふとある考えが浮かび、名前は口を開きかけた。
「なんだ?」
名前の何か言いたげな様子を察して、セブルスが怪訝そうに目を細めた。名前から示されるのはろくな提案ではないと分かっているような顔だ。恐らく夕食を一緒に過ごせと言ってくる、とでも思っているのだろう。
しかし今の名前の考えは違う。もしかしたらもっと嫌がられるかもしれない。そう思うと、名前は開きかけた口をすぐさま閉じてしまいたい衝動にかられた。だがその瞬間、ハグリッドの言葉が脳裏をよぎった。
好きなもんには、素でぶつかっていくもんだー。
「あの、特に用事が無ければでいいんだけど」
名前は言いながらにして顔が火照ってくるのを感じた。しかし一度言い出してしまえば、言葉は口からスルスルと簡単に出てきた。
「良かったら図書館で待っててくれない?魔法薬学の課題で分からないところがあって…」
「ああ、わかった」
名前の葛藤とは裏腹に、セブルスからは思いがけずスムーズな答えが返ってきた。
「じゃあ夕食が終わったら、魔法薬の蔵書付近にある窓際の席に来い。僕はいつもそこにいる」
「あ、う、うん、オッケー」
名前は信じられない思いでセブルスを見た。そして同時に嬉しさがどっと込み上げてきた。セブルスと何気なく話せただけでなく、共に過ごす約束まで出来たなんて。
「そんなに分からない所があるのか?」
その場に根が生えたように立ち尽くす名前を見て、セブルスがふっと鼻で笑った。
「え?」
「ずいぶんと救われたような顔をしていたから」
そう言うとセブルスは図書館の方向へと身を翻した。
「あまり待たせるなよ」
「うん、もちろん!」
歩き始めたセブルスの背中に向けて名前は叫んだ。
「すぐ行く!急いで行く!」
名前は走るようにスリザリンのテーブル奥へと進み、ミランダに待たせた事を詫びてから、骨付きのチキンを一本取って慌ただしく食べ始めた。これを食べ終わればセブルスと一緒に勉強することが出来る。そう思うと心が踊るようだ。
そわそわと浮き足立つ理由をミランダが隣で"察して"いたとしても、名前はもうお構いなしだった。自分は確かに、セブルスの事が好きなのだ。それを否定するつもりも、恥じる気持ちも、今の名前には微塵もなかった。