第一部
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薬草学での事件があってからというもの、パーキンソンは名前の前ですっかり大人しくなったように見えた。名前を見て友人たちにヒソヒソ囁く事も、授業中に睨みをきかせて突っかかる事もしなくなった。
名前にはそれがひどく不気味に思えた。まるで嵐の前の静けさのようだった。気が付くと名前はパーキンソンをいつも以上に避けて過ごしていた。
彼女の挑戦に勝ったのは自分なのに。名前は自身の臆病さに呆れつつも、不安を拭い去る事が出来なかった。暗い廊下で二人きりになったら何をされるか分からない。
名前にはいつの間にか、右ポケットに手を突っ込んで歩く癖がついていた。大事にしまいこんでいる気配消しの石をいつでも握りしめられるようにしておくためだ。
しかしあの事件以来、セブルスとの関係は以前よりずっと良い方向に進んでいた。彼が心を開いたとまでは言えないものの、それまで名前に向けられていた厳しい視線は明らかに和らいでいた。魔法薬学で名前の不器用さに悪態をつく様子は変わらなかったが、必要とあれば調合のコツを教えてくれたりもした。ヘマをやらかす度に無視を決めつけられてきた頃と比べれば天国のようで、名前はそれだけでもあの挑戦は意味があったと自分を肯定する事が出来た。
しかしスリザリンの他の生徒は二人をますます避け始めたようだった。噂があっという間に広がったのか、上級生ですらそうだった。名前は談話室でナルシッサ・ブラックが自分を非難がましい目で睨みつけたのを見逃さなかった。
必然的に名前とセブルスは授業で座る席も、教室を移動するのも一緒になった。二人は寮内で反乱分子のように見られていたし、セブルスに関しては混血だという理由から謂れのない差別を受け始めていた。
純血の方が秀でているなんてお門違いの妄想だ。そう名前はセブルスに何度も言い聞かせたが、彼が内に秘めたコンプレックスは深い闇のようで、慰めの言葉だけではとても救い出せそうに無かった。
ルシウスだけがセブルスを見放さず、見込みのある後輩として何かを教え続けているようだった。とは言え、二人が大広間での夕食を並んで過ごす頻度はぐっと減っていた。
一人で食卓につくセブルスを見かねて、ある夜名前はミランダとの夕食に彼を組み入れようと試みた。名前はわざとらしくセブルスの隣に座って、3人での会話を繰り広げようと努力したが、しまいにはセブルスの方から一人にして欲しいと言われてしまった。口論する二人の横で、ミランダはいつも通り涼やかに食事をしていた。
「一緒に食べた方が楽しいに決まってるのに!」
夕食からの帰り道、気遣いを拒まれた悲しさに名前は思わず声を荒らげた。
「一人で本なんか読んで…本当は寂しいくせに、強がってるのよ」
「まあ本人がそう言ってるんだから、そうさせておけばいいじゃない」
ミランダは同情と悪意のどちらも抱いていないようだった。どちらでも良い、という表情をしている。廊下をまっすぐ見つめる薄いサファイアブルーの瞳が、セブルスへの興味が全く無いことを語っていた。
名前は胸のモヤモヤを顔に表したまま、黙って廊下を歩いた。最近の名前は以前と違って、セブルスと並んで受ける授業や移動時間を楽しいと感じていた。リリーを交えて過ごすランチは勿論、授業が押して短くなった昼休みに、セブルスと慌てて食べる大広間でのひとときも楽しかった。和気あいあいとまではいかないせよ、セブルスの表情は出会った頃よりも格段に柔らかくなっていた。
しかし一日の中で最もゆっくり友人と話し合える時間は、やはり夕食だ。名前とミランダがそうであるように、皆が夕食を友人と話し合う一番良い機会だと考えている。それを一人の時間として過ごすセブルスに、名前は寂しさを感じずにはいられなかった。
名前とミランダはそれぞれの宿題を終わらせるため8階の部屋にこもり、おしゃべりをしながら羊皮紙にペンを走らせた。私語や実技が禁止される図書館と、敵ばかりで居心地の悪い談話室。八方塞がりに見える環境の中で唯一自由に過ごせるこの不思議な部屋は、今や名前の生活に欠かせないものとなっていた。
名前は宿題を片付けた後、ミランダの変身術入門を借りて後半のページを読み進めていた。2年生になって取り組む最初の課題は、どうやらコガネムシをボタンに変えるというものらしい。教科書に記載されている理論や法則は相変わらず小難しく、名前はそれを読み飛ばして、とりあえずコガネムシに魔法をかけてみたいという衝動に駆られた。
すると名前の心の声に呼ばれたかのように、どこからやって来たのか、机の上に小さなコガネムシが現れた。名前は目を見張った。やはりこの部屋は生きている。
コガネムシはじっと身動きをとらずに、魔法をかけられるのを待っているかのようだった。名前は慌てて教科書にある呪文のかけ方を見直した。コガネムシの丸いフォルムに、変身させたいボタンを思い描く…。机の上のコガネムシは、緑の背中に金色の光が反射してキラキラと輝いている。名前にはそれが高級な金細工のように見えた。
名前は息を止めて、コガネムシめがけて杖をひと振りした。カチャッという小さな音とともにコガネムシの姿が消えた。代わりにそこには金縁に彩られた深緑のボタンが置かれていた。
「ワーオ」
横目でその様子を見ていたミランダが、冷静さを崩さずに声を上げた。
「2年生の最初の関門よ。一瞬で仕上げるとはさすがね」
名前は今しがた出現したばかりのボタンを拾い上げた。どこから見ても完璧なボタンだった。コガネムシの足1本すら残っていない。我ながら満足のいく出来だ。欲を言えば、もう少し豪華な装飾をしたいと名前は思った。
「ちゃんとスリザリンカラーなのね?」
ミランダが名前の隣に立ってクスクスと笑った。それを聞いて名前は思わず顔をしかめた。
「寮のカラーに合わせるつもりは全くなかったよ」
反論するようにレパリファージを唱えて、名前はコガネムシを本来の姿に戻してやった。そして今度はその緑にとらわれないよう意識し、ミランダの顔を一瞬見つめてから杖を振った。コガネムシは鮮やかなサファイアブルーに金の線が入った美しいボタンに変身した。
「ほら、あなたの瞳と同じ色」
出来上がったボタンをミランダに手渡しながら、名前は得意げに言った。ミランダはボタンを頭上にかかげ、宙に浮くランタンの光を反射させてその美しさを楽しんでいた。
いつの間にか、時刻は23時を過ぎていた。眠気を覚えた二人は気配消しの石を頼って寮の寝室へと戻ることにした。
明日はいよいよハロウィンだ。ミランダからハロウィンのご馳走について聞いて以来、名前は日ごとにワクワクと浮き足立っていた。この数日間、明日の夕食を心待ちにして過ごしてきた。その日がとうとうやって来るのだ。
ふと、名前はセブルスの事を思い出した。明日のハロウィンも一人で過ごすつもりなんだろうか。いつもよりも目立つご馳走の席で、ルシウスが彼の隣に座るとは思えなかった。
明日の夜は何と拒絶されても、ミランダと共にセブルスの隣に座ろう。名前はそう決意した。豪勢なお祝いの食卓で友人を孤独にさせるわけにはいかない。
翌日は朝からどんよりとした曇り空で、冷たい北風が吹き荒れていた。明日から11月とはいえ、この時期にしては異例の寒さだった。朝食の席では冬用のローブに身を包む生徒たちが多く見られた。
今日はハロウィンのご馳走にありつく前に、飛行訓練の授業がある。朝食を終えて大広間を後にしながら、名前は思わずため息をついた。箒に乗ってわざわざ寒風のなかに飛び込んでいく事を思うと、気が滅入って仕方がない。
セブルスも同じ気持ちのようだった。飛行訓練場の芝生に座り込む彼はいつも以上に生気がなく、寒さに身を固まらせている。
「おはよう」
セブルスの隣に腰掛けながら、名前は口を開いた。その拍子に冷気が舞い込んできて、歯がひんやりと冷たくなるのを感じた。セブルスは言葉を発するのも億劫だというように、青白い顔で小さく頷いた。
飛行訓練の授業が終われば、午後は得意の変身術だ。この2時間だけ我慢すれば、あっという間にハロウィンパーティの時間になる。そう自分に言い聞かせて、名前は勢いよく立ち上がった。しかしその瞬間また強い北風が吹きつけ、名前の士気を崩しにかかってくるかのように身を凍らせた。
フーチ先生が顔を強ばらせながら訓練場に入ってきたのを見て、ようやくセブルスものろのろと立ち上がった。生徒たちは各々箒を手にして、授業の説明を聞くために先生の周りに集まった。
今日の課題は障害物を避けながらのジグザグ飛行だ。先生が杖をひと振りすると、頭上に赤い光のポールが何本も現れた。光の間を縫うようにして飛ぶ指示を受け、生徒たちは順番に飛び立つため列を作った。
ポールはUの字に描かれていたため、発進したばかりの生徒と、奥でターンしてジグザグに戻ってくる生徒とがぶつかり合うシーンが何回かあった。その度にフーチ先生は箒に乗った他のプレイヤーをうまく避けるのも課題の内だと叫んだ。
名前は心臓の鼓動を早足に響かせながら自分の番を待っていた。箒のコントロールを失って、後に続くセブルスに思いっきり体当たりしてしまったらどうしよう。名前にはその惨事の様子がはっきりと目に浮かぶようだった。
名前の前にはパーキンソン率いるスリザリンのグループが、おしゃべりをしながら待ちくたびれた様子で並んでいた。名前は目の前に立つ話したこともない女子の鮮やかな金髪をじっと見ていた。どうすればうまくポールを回避できるか想像するのに精一杯で、彼女たちの話は一言も頭に入ってこない。目の前から金髪が消えた瞬間、名前はとうとう自分の番が来たかと顔を上げた。
しかしそうではなかった。いつの間にか、名前の目の前にはパーキンソンが立っていた。金髪の友人と順番を替えたようだ。名前は胸の内がざわつくのを感じた。パーキンソンは名前に背を向けたまま、くだらないおしゃべりを続けている。しかしその背中から溢れる不穏な空気に、名前は気を取られないわけにはいかなかった。
とうとう順番が近づいてきた。パーキンソンが箒に跨がって地面を一蹴りし、颯爽と空へ飛び出した。見事な飛び姿だった。安定した体勢で、器用にポールを避けていく。
彼女が折り返し地点に達したら、いよいよ自分が飛び立つ番だ。名前は準備のために箒に跨った。その瞬間、視界の右端で誰かが悲鳴をあげた。
ジグザグ飛行を終えたハッフルパフ生が何か騒いでいる。フーチ先生が何事かと彼らの方に向かっていった。名前も騒ぎの元を覗き込もうとしたが、ちょうどパーキンソンが最奥のポイントから折り返してくる所だった。名前は慌てて地面を蹴って、空に飛び上がった。
地上から光のポールまでは10メートルほど離れているようだった。案の定、北風が進路を妨げるかのように吹き付けてくる。最初のポールを名前はうまく避けきれず、箒の柄の先がものの見事にぶつかった。左に箒を切ってから、右方向に素早く飛ぶのがまた難しい。名前は落ち着いて、安全に進もうと深呼吸した。加速をしすぎないよう気を付けなければ。
2本目のポールを通過して、名前は右方向に切り替えるべく箒を傾けた。まさにその時、名前は反対側から飛んでくるパーキンソンを見た。パーキンソンは勝ち誇ったような笑みとともに、ローブに忍ばせた何かをこちらに向けている。それが杖だと分かるやいなや、名前はあっと息を飲んで箒の柄を強く握りしめた。
しかし名前が気付いた時にはすでに遅かった。パーキンソンが何かを呟いた瞬間、物凄い威力の突風に名前は突き飛ばされた。朝から吹き荒れていた北風ではない。目に見えない巨人の手に、力いっぱい押しのけられたような衝撃だ。
名前の手が、足が、箒を離れた。一瞬の出来事だった。名前は城の壁に背中を打ちつけ、地面にドサッと落下した。
「名前!」
女生徒たちの悲鳴にまじって、自分の名を叫ぶ声が聞こえた。しかしその声の主を気にするほどの余裕はなかった。名前は全身の激痛とともに、意識が遠のいていくのを感じた。緑の芝を映した視界が狭くなっていく。背中に鋭い痛みが走り、とうとう真っ暗な闇が訪れた。
名前は静かな暖かい場所で意識を取り戻した。目を開いた先には、白い天井が広がっている。名前はまた朝が来たのかと思った。しかし左肩に言いしれない痛みが走った瞬間、名前は何もかもを思い出した。そうだった。自分は箒から落ちたのだ。
「気が付きましたか?」
奥から女性の優しい声が聞こえた。名前が声のした方に顔を向けると、校医のマダム・ポンフリーが水差しを手にして立っていた。
「あ、はい…」
名前は弱々しく答えた。同時に安堵感が心にしみ渡るように広がった。自分は生きている。マダム・ポンフリーが自分を診てくれている。
「ひどい骨折でしたよ」
名前のベッド横へ近付いてから、マダム・ポンフリーがため息をついた。
「クィディッチ選手だってここまでの怪我は滅多にしません。打ち所が悪かったら、どうなっていたことか…」
マダムの言葉に名前は愕然とした。そんなにも危険な怪我をしたなんて。自分のものと思われるサイドテーブルを見ると、見たこともない色の液体が入ったボトル置かれている。
「あの、この怪我…治りますか?」
左肩の痛みに歯を食いしばりながら、名前は恐る恐るたずねた。
「もちろん治りますとも」
マダムは微笑んで答えたが、すぐに真剣な厳しい眼差しになった。
「ただ左肩の骨が一部、複雑に砕けていました。すでに処置は終わっていますが、元通りくっつくまで時間がかかります。あと8時間はここに寝ていてください」
思ったよりも深刻ではなかった状況に名前はほっとした。たったの8時間だ。外はまだ明るい。今日のうちには自室に帰れる。
しかし間もなく、今日が何の日であったかを思い出して名前は絶句した。目の前の時計は15時を指していた。8時間後は23時だ。ハロウィンは終わってしまう。
「5時間で何とかなりませんか?」
名前は先程と打って変わって、泣きつくようにマダム・ポンフリーにたずねた。マダムは眉を下げ憐れむような顔をした。
「今日ここに来た人は皆そう言いますよ…残念ですが」
名前は放心状態になりながら天井を見つめた。あんなにも楽しみにしていたハロウィンの食事に出られない。絶望のあまり、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。悔しさと悲しさから、涙がぽろぽろと溢れ出した。皆がハロウィンのご馳走を楽しんでいる頃、自分はここで一人だ。そしてミランダも、セブルスも…。
ふと、勝ち誇った笑みのパーキンソンが脳裏をよぎった。あの時彼女は確実に杖を突きつけていた。思えばパーキンソンが途中で飛ぶ順番を変えたのは、自分を陥れるためだったのだろう。彼女はずっと復讐の機会を狙っていたんだー。
遠くで医務室のドアが開く音がした。聞き覚えのある女の子の声だ。マダム・ポンフリーと何か話している。次第に足音が名前の方に近付いてきた。
「ミス・苗字、あなたに面会ですよ」
カーテン越しから聞こえるマダムの言葉に、名前は驚いて顔を上げた。先程のドアが自分のために開かれたものだとは思わなかった。名前がどうぞ、と答えると、目の前のカーテンがさっと開いた。
「名前!」
燃えるような赤毛が名前の目に飛び込んできた。リリーだった。よく見るとその後ろにセブルスも立っている。リリーは今にも泣きそうな顔で名前を見つめていた。
「大丈夫なの!?まだ痛いわよね?いつ治るの!?」
リリーは明らかな動揺を見せながら、名前の隣にかがみこんだ。マダム・ポンフリーがシーっと指を立てたので、リリーは慌てて口を押さえた。
「大丈夫だよ」
名前は微笑んで言った。リリーが自分をこんなにも心配してくれている事が嬉しくて、気付けば自然に笑みがこぼれていた。
「今日中には…夜中には、寮に戻れるって」
「そう…」
それを聞いて、リリーは安心したような、残念そうな顔をした。ハロウィンのご馳走の事が彼女の頭にもあったのだろう。名前は努めてその話題に触れないようにした。
「パーキンソンが君に呪いをかけた」
それまで黙っていたセブルスが突然口を開いた。名前もリリーも目を見張って彼を見た。
「やっぱり…」
セブルスが自分の後ろにいてくれて良かったと名前は心から思った。あの卑劣な攻撃の目撃者がいた、それだけで救われる気がする。しかしリリーはそれを聞いて更に心をかき乱されたようだった。
「だけど、どうしてそれをフーチ先生は放っておいたの!?」
リリーがこんなに怒るのを名前は見たことがなかった。豊かな赤毛と同じくらい、彼女は顔を真っ赤にさせている。
「あの少し前に、誰かが蛇を出した。そういう魔法がある」
リリーと真逆を行くかのように、セブルスはいたって冷静だった。
「それに気を取られて、フーチは君たちを見ていなかった。たまたま突風が吹いただけだと…それに君の不器用さが加わっての事故だと。皆はそう思っている」
あの時ハッフルパフ生が騒いでいたのはそれだったのか、と名前は納得した。同時に、この怪我がますます仕組まれたものであることが分かってきた。パーキンソンが仲間の誰かに蛇を仕掛けるよう指示したに違いない。
「そんなのってないわ!!」
リリーが思わず声を荒らげたので、マダム・ポンフリーが3人の方を鋭く睨んだ。それを見てリリーはまた口を押さえ、小声で非難した。
「セブ、あなたが見ていたんだから…!それを先生に言うべきだわ」
しかし名前はそれには賛成しかねた。パーキンソンは名前が薬草学の授業中、彼女の足を蛇にしたことを黙っていた。こちらが告発すれば、向こうも同じ事をするだろう。名前は二人にそう話した。
「でも…でも、死んでたかもしれないのよ!」
リリーは発作的に名前の手を握りしめて言った。
「あなたはちょっとした悪戯をしただけだわ…それも私のために。あっちは本気で、あなたを殺そうとしたのよ!」
そう言われると確かに恐ろしい、と名前は思った。パーキンソンの中に冷酷さや残忍さが潜んでいるのは百も承知だったが、それが自分の身にこうして降りかかるとは想像もしていなかった。リリーの言葉に名前は思わず黙りこくってしまった。
「…名前、とりあえず何か出来ることはある?」
気落ちした名前を少しでも励まそうと、リリーが遠慮がちにたずねた。二人がハロウィンの話を持ち出してこないのが、名前には何よりありがたかった。そしてこの事故を、今夜共に過ごすはずだった友人に知らせていない事に気付いた。
「あー…伝言を頼みたいかも」
名前の言葉にリリーは頷いて、メモを探そうとした。名前はメモする程の事でもないと笑ってそれを制して、リリーに言った。
「私のスリザリンの友達…ミランダ・フラメルっていう、2年生の女の子がいるんだけど。その子にこうなった事を伝えてくれないかな…物凄い数の石を付けてる子だから、見ればすぐ分かると思う」
「ミランダね、覚えたわ」
リリーは力強く頷いた。リリーであればミランダも"わかって"くれるだろうと名前は思った。
本当はハロウィンのご馳走も、持ってきてもらえるなら頼みたいところだった。しかし今ハロウィンの話を持ち出しては、無念さのあまりまた泣いてしまう可能性もある。名前は目に浮かびそうになった涙をぐっと堪えて、その気持ちを胸の奥へ押しやった。
「他には何かある?」
「何もないよ」
リリーの問いかけに穏やかに答えて、名前は再び開かれた医務室のドアに目をやった。グリフィンドールの誰かが入ってきた。驚いたことに真ん中の女子の足がクニャクニャに曲がっている。二人のグリフィンドール生がそれを両脇から支えていた。
「メリー!」
名前の視線の先を見て、リリーが叫んだ。どうやら友人らしい。メリーと呼ばれた女の子はその声に気付いて、真っ赤に泣き腫らした目をリリーに向けた。
「くらげ足の呪いだ」
セブルスがおかしそうにクックと笑った。しかしリリーに睨まれると彼はたちまち口を閉じ、メリーから視線をそらして窓の外を眺め始めた。
「名前、ごめんなさい、ちょっとあの子の所に行ってきてもいいかしら?」
リリーが申し訳なさそうに断り、名前は「もちろん」と自寮の友人のもとに行くよう彼女を促した。リリーはぱたぱたと足音を立てながらメリーに駆け寄っていった。
名前は変わり果ててしまったメリーの足を遠目に見ながら、ふといつもの癖でポケットに右手を突っ込んだ。地面に左向きで落下したためか、体の右側の痛みはほとんど無かった。しかし名前はいつもと違うその感覚に、さっと血の気が引くのを感じた。
「…ない」
名前はかすれ声で無意識下に呟いた。震えだした右手でポケットの中をまさぐってみたが、それは忽然と姿を消していた。
「なんだ?」セブルスが眉をひそめて名前を見た。
「石が…」
名前の両手は、もはや隠し切れないほどに震えていた。
「石がない…ミランダからもらった、気配消しの石が…」
それを聞いて、セブルスの表情が固くなった。彼は周りを見渡してから、リリーが元いた位置まで名前に近寄って小声でたずねた。
「あの時に落としたって事か?」
「そうだと思う…」
名前は肩の痛みも忘れ、最悪の結論に頭を支配されていた。何てことをしてしまったんだろう。石を早く探さなくては。今すぐ探しに行かなくては。
慌てて立ち上がろうとした名前をセブルスが咄嗟に引き止めた。セブルスの顔には緊張感こそあったものの、その態度は変わらず冷静だった。
「落ち着け」
動揺する名前の瞳をまっすぐ見つめながらセブルスが言った。
「パーキンソンは石のことを知っているのか?」
名前は首を振った。もはや声も出せなかった。もし石が見つからなかったら…それどころか誰かに拾われてしまったら…。ミランダと自分の友情は一瞬で破綻してしまうだろう。
「私、行く、探しに行く」
名前はセブルスの手を振りほどこうとした。しかしすぐに肩の激痛がやってきて、名前は思わず呻いて彼から手を離した。
「そんな怪我で今すぐ行けるわけないだろう」
セブルスはイライラしながら声を荒らげ、名前を見下ろして言った。
「パーキンソンが知らないなら、君はただ落としただけだ。盗まれたわけじゃない」
「でも、誰かが拾うかもしれない!」
名前はパニックになりかけながら小声で叫んだ。
「石は麻袋に入ってる…訓練場にそんなのが落ちてたら、誰かが見つけて拾うかもしれない。もう拾われちゃったかもしれない…」
名前は焦燥と絶望とに一気にのまれて、顔が蒼白となっていくのを感じた。指先の感覚がほとんど無い。早く見つけなければ、訓練場に行かなければ。背中には冷や汗が流れ、足はフワフワと浮くようだった。
セブルスは深くため息をついてその場を離れ去った。名前は彼の行動に気付かないほど、自分の思考に集中していた。何か、今すぐ訓練場を探しに行けるような魔法がないだろうか。こんな時コガネムシをボタンにする呪文などは全く意味を持たなかった。浮遊呪文も、掃除の呪文も、窮地には何の役にも立たない。
名前がうつむいて震えながら必死に考えを巡らせていると、カーテンが開いてマダム・ポンフリーが急に現れた。名前は異様に驚いて全身をビクッと反らせてしまった。
「たしかに、少し気を鎮める必要があるようですね…」
コップに謎の液体を注ぎながら、マダムが言った。
「これをお飲みなさい。今すぐですよ」
拒否する権利はなかった。名前は混乱しながら、言われるがままに手渡されたコップを受け取り、それをひと飲みした。途端に視界がぼやけていくのを感じた。しまった。眠ってしまう。名前は必死に抗おうとしたが、無駄だった。意識がまたしてもゆっくりと遠のいて行った。
まるで一定時間記憶を失ったかのようだった。名前は急に、ぱっと目が覚めた。またしても白い天井が目の前にあった。しかし先ほどとは光の量が違い、医務室も水を打ったような静けさだ。夜になったのだ。
慌てて時計を見ると、時刻は24時をまわっていた。名前は驚きのあまり声も出なかった。慌てて上体を起こし、ベッドから飛び出ようとしたその瞬間、何かがドサドサと足元から落ちる音がした。
「目が覚めましたか?」
音を聞きつけてマダム・ポンフリーがやってきた。名前は呆然と立ち尽くしたまま、床に散らばった大量のお菓子を見つめた。キラキラと光る紙に包まれたチョコレート、特大サイズの虹色キャンディ、箱に入ったアップルパイ…。あっけに捉えた顔の名前を見て、マダムがふふっと笑った。
「あなたが寝ている間に、ミス・フラメルとミス・エバンズがハロウィンのご馳走を持ってきてくれていましたよ」
マダムが杖を振ると、散乱したお菓子たちがひとかたまりになって宙に集まった。どこからともなく飛んできたシーツが、それらをプレゼントのように丁寧に包んだ。
「さて、ではこれを持って。私があなたを寮まで送ります」
はちきれんばかりに膨れ上がったシーツの包みを渡され、名前は何が何だか分からないままに、マダム・ポンフリーの後に続いた。医務室を出ると、薄暗い廊下が広がっていた。二人はスリザリンの談話室目指して歩き始めた。お菓子の詰め合わせは顔が隠れてしまうくらい巨大で、名前は何度もそれを落としそうになったので、見かねたマダム・ポンフリーが途中から浮遊呪文をかけてくれた。
深夜の気まぐれな階段をゆっくりと下り、マダムは地下牢のスリザリン寮に名前が入っていくまでその姿を見届けてくれた。
石扉を開き、名前はひっそりと談話室に足を踏み入れた。誰もいない。床には名前が抱えているお菓子と同じ模様の包み紙が散乱していた。色とりどりの美しい残骸がハロウィンの終わりを告げている。
名前は談話室のテーブルにひとまずシーツの包みを置いた。どうしていいか分からなかった。名前は額に手を当てて、暖炉の前のソファに座り込んだ。
気配消しの石を探さなくては。訓練場に行かなくては。しかし石なしでは、姿を誤魔化すことは出来ない。途中で誰かに捕まってしまう。
夢遊病のふりをすれば切り抜けられるだろうか?うまく人目につかず、訓練場にさえたどり着ければ……夜明け前に石を見つけることが出来たら……。
「おい」
突然、背後で霧の中から声がしたような気がした。名前は慌てて振り返った。前にもこんな事があった。忘れもしない、ミランダと初めて出会った時だ。名前は自分の視線の先をゴーストだと思った。しかし今回は…霞みがかってぼやけたその姿を、自分の生きた友人だとすぐに認める事が出来た。
「セブルス!」
名前は息を飲んだ。消え入りそうな影で漂っているのは、セブルス・スネイプその人だった。
セブルスはにやりと笑ったように見えた。そして次の瞬間、その姿はくっきりと現実のものとなった。しかしセブルスの顔を驚いて見つめているだけの名前には、それが何を意味するのか理解するのに時間がかかった。
「おいってば」
飲み込みの遅い名前に苛立ったのか、セブルスは乱暴に石を名前に突きつけた。名前は反射的に受けとったそれが何なのか、一瞬分からないほど面食らっていた。
「それじゃ…」
手のひらに置かれた透明の石の指輪を見つめながら、名前は震える声で言った。
「それじゃ、セブルスが石を見つけに行ってくれたの…?」
「呼び寄せ呪文を試してみたかった」
そう言いながら、セブルスは石の上に小さな麻袋をぽとりと落とした。
「"そういう物"は反応しないかとも思ったが…意外と試してみるもんだな」
「ああ、セブルス…!」
名前はこの感謝をどう表していいか分からなかった。石を握りしめながら、名前は感激のあまり彼に抱きつこうとした。それを察知したセブルスが大きく身をのけぞったので、名前は宙を抱く形となった。
「いつ探しに行ったの?あの後すぐ行ってくれたの?」
「人目がない時に決まってるだろ」
セブルスはやや警戒するように、名前から一定の距離を置きながら答えた。
「今日がハロウィンだったのは幸いだったな。先生たちも大広間で浮かれていたから、監視の目はほとんど無かった」
「ハロウィンパーティに行かずに探してくれたの?」
名前は目を丸くして呟いた。ホグワーツの一大行事を、まさか自ら見放す生徒がいるなんて。言葉だけでは言い表せない熱い気持ちがこみ上げてくるのを名前は感じた。
「あんなの、どうだっていい」
セブルスは照れたようにそっぽを向きながら言った。ご馳走とは無縁そうな痩せ細った体をしている。名前は咄嗟にシーツに包まれたお菓子たちを持ち上げて、セブルスにそれを差し出した。
「これ、あげる、全部」
名前から肩幅ほどもある大きな包みを突きつけられ、セブルスは困惑した表情を浮かべた。
「いや、いい、いらない」
「いいから、受け取って!」
名前はセブルスの胸めがけて、両手で力いっぱい巨大な包みを押し付けた。その剣幕にとうとうセブルスが折れ、彼は仕方なさそうに包みを両腕で抱えた。
「私、あなたがこんなに優しいだなんて…知らなかった…」
名前は本当に、セブルスに家族のように抱きつきたい気持ちでいっぱいだった。彼の頬に感謝のキスをしたかった。
「そんなんじゃない」
セブルスは包みの大きさにバランスを崩しそうになりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「勘違いするな。単に君の言う通り、誰かに先に拾われたらまずいと思っただけだ。あの忌々しいポッターとかに…」
抱えていた包みの端から不意にバラバラとキャンディがこぼれ、セブルスがため息をついた。
「やっぱり、これ、君が持ってけ。僕は今落ちた分だけでいい」
セブルスが合図もせずに包みを投げたので、名前は慌てて両腕を広げ、間一髪でそれを捕まえた。その拍子にまたお菓子がバラバラと床に落ちた。セブルスは鼻で笑いながら、散らばったキャンディを腕に抱えて、何も言わずに寝室へと消えていった。
名前はその姿を影が闇に混じるまで見つめていた。抱きしめたチョコレートが溶けてしまいそうなくらい、指先が熱くなっていた。
名前にはそれがひどく不気味に思えた。まるで嵐の前の静けさのようだった。気が付くと名前はパーキンソンをいつも以上に避けて過ごしていた。
彼女の挑戦に勝ったのは自分なのに。名前は自身の臆病さに呆れつつも、不安を拭い去る事が出来なかった。暗い廊下で二人きりになったら何をされるか分からない。
名前にはいつの間にか、右ポケットに手を突っ込んで歩く癖がついていた。大事にしまいこんでいる気配消しの石をいつでも握りしめられるようにしておくためだ。
しかしあの事件以来、セブルスとの関係は以前よりずっと良い方向に進んでいた。彼が心を開いたとまでは言えないものの、それまで名前に向けられていた厳しい視線は明らかに和らいでいた。魔法薬学で名前の不器用さに悪態をつく様子は変わらなかったが、必要とあれば調合のコツを教えてくれたりもした。ヘマをやらかす度に無視を決めつけられてきた頃と比べれば天国のようで、名前はそれだけでもあの挑戦は意味があったと自分を肯定する事が出来た。
しかしスリザリンの他の生徒は二人をますます避け始めたようだった。噂があっという間に広がったのか、上級生ですらそうだった。名前は談話室でナルシッサ・ブラックが自分を非難がましい目で睨みつけたのを見逃さなかった。
必然的に名前とセブルスは授業で座る席も、教室を移動するのも一緒になった。二人は寮内で反乱分子のように見られていたし、セブルスに関しては混血だという理由から謂れのない差別を受け始めていた。
純血の方が秀でているなんてお門違いの妄想だ。そう名前はセブルスに何度も言い聞かせたが、彼が内に秘めたコンプレックスは深い闇のようで、慰めの言葉だけではとても救い出せそうに無かった。
ルシウスだけがセブルスを見放さず、見込みのある後輩として何かを教え続けているようだった。とは言え、二人が大広間での夕食を並んで過ごす頻度はぐっと減っていた。
一人で食卓につくセブルスを見かねて、ある夜名前はミランダとの夕食に彼を組み入れようと試みた。名前はわざとらしくセブルスの隣に座って、3人での会話を繰り広げようと努力したが、しまいにはセブルスの方から一人にして欲しいと言われてしまった。口論する二人の横で、ミランダはいつも通り涼やかに食事をしていた。
「一緒に食べた方が楽しいに決まってるのに!」
夕食からの帰り道、気遣いを拒まれた悲しさに名前は思わず声を荒らげた。
「一人で本なんか読んで…本当は寂しいくせに、強がってるのよ」
「まあ本人がそう言ってるんだから、そうさせておけばいいじゃない」
ミランダは同情と悪意のどちらも抱いていないようだった。どちらでも良い、という表情をしている。廊下をまっすぐ見つめる薄いサファイアブルーの瞳が、セブルスへの興味が全く無いことを語っていた。
名前は胸のモヤモヤを顔に表したまま、黙って廊下を歩いた。最近の名前は以前と違って、セブルスと並んで受ける授業や移動時間を楽しいと感じていた。リリーを交えて過ごすランチは勿論、授業が押して短くなった昼休みに、セブルスと慌てて食べる大広間でのひとときも楽しかった。和気あいあいとまではいかないせよ、セブルスの表情は出会った頃よりも格段に柔らかくなっていた。
しかし一日の中で最もゆっくり友人と話し合える時間は、やはり夕食だ。名前とミランダがそうであるように、皆が夕食を友人と話し合う一番良い機会だと考えている。それを一人の時間として過ごすセブルスに、名前は寂しさを感じずにはいられなかった。
名前とミランダはそれぞれの宿題を終わらせるため8階の部屋にこもり、おしゃべりをしながら羊皮紙にペンを走らせた。私語や実技が禁止される図書館と、敵ばかりで居心地の悪い談話室。八方塞がりに見える環境の中で唯一自由に過ごせるこの不思議な部屋は、今や名前の生活に欠かせないものとなっていた。
名前は宿題を片付けた後、ミランダの変身術入門を借りて後半のページを読み進めていた。2年生になって取り組む最初の課題は、どうやらコガネムシをボタンに変えるというものらしい。教科書に記載されている理論や法則は相変わらず小難しく、名前はそれを読み飛ばして、とりあえずコガネムシに魔法をかけてみたいという衝動に駆られた。
すると名前の心の声に呼ばれたかのように、どこからやって来たのか、机の上に小さなコガネムシが現れた。名前は目を見張った。やはりこの部屋は生きている。
コガネムシはじっと身動きをとらずに、魔法をかけられるのを待っているかのようだった。名前は慌てて教科書にある呪文のかけ方を見直した。コガネムシの丸いフォルムに、変身させたいボタンを思い描く…。机の上のコガネムシは、緑の背中に金色の光が反射してキラキラと輝いている。名前にはそれが高級な金細工のように見えた。
名前は息を止めて、コガネムシめがけて杖をひと振りした。カチャッという小さな音とともにコガネムシの姿が消えた。代わりにそこには金縁に彩られた深緑のボタンが置かれていた。
「ワーオ」
横目でその様子を見ていたミランダが、冷静さを崩さずに声を上げた。
「2年生の最初の関門よ。一瞬で仕上げるとはさすがね」
名前は今しがた出現したばかりのボタンを拾い上げた。どこから見ても完璧なボタンだった。コガネムシの足1本すら残っていない。我ながら満足のいく出来だ。欲を言えば、もう少し豪華な装飾をしたいと名前は思った。
「ちゃんとスリザリンカラーなのね?」
ミランダが名前の隣に立ってクスクスと笑った。それを聞いて名前は思わず顔をしかめた。
「寮のカラーに合わせるつもりは全くなかったよ」
反論するようにレパリファージを唱えて、名前はコガネムシを本来の姿に戻してやった。そして今度はその緑にとらわれないよう意識し、ミランダの顔を一瞬見つめてから杖を振った。コガネムシは鮮やかなサファイアブルーに金の線が入った美しいボタンに変身した。
「ほら、あなたの瞳と同じ色」
出来上がったボタンをミランダに手渡しながら、名前は得意げに言った。ミランダはボタンを頭上にかかげ、宙に浮くランタンの光を反射させてその美しさを楽しんでいた。
いつの間にか、時刻は23時を過ぎていた。眠気を覚えた二人は気配消しの石を頼って寮の寝室へと戻ることにした。
明日はいよいよハロウィンだ。ミランダからハロウィンのご馳走について聞いて以来、名前は日ごとにワクワクと浮き足立っていた。この数日間、明日の夕食を心待ちにして過ごしてきた。その日がとうとうやって来るのだ。
ふと、名前はセブルスの事を思い出した。明日のハロウィンも一人で過ごすつもりなんだろうか。いつもよりも目立つご馳走の席で、ルシウスが彼の隣に座るとは思えなかった。
明日の夜は何と拒絶されても、ミランダと共にセブルスの隣に座ろう。名前はそう決意した。豪勢なお祝いの食卓で友人を孤独にさせるわけにはいかない。
翌日は朝からどんよりとした曇り空で、冷たい北風が吹き荒れていた。明日から11月とはいえ、この時期にしては異例の寒さだった。朝食の席では冬用のローブに身を包む生徒たちが多く見られた。
今日はハロウィンのご馳走にありつく前に、飛行訓練の授業がある。朝食を終えて大広間を後にしながら、名前は思わずため息をついた。箒に乗ってわざわざ寒風のなかに飛び込んでいく事を思うと、気が滅入って仕方がない。
セブルスも同じ気持ちのようだった。飛行訓練場の芝生に座り込む彼はいつも以上に生気がなく、寒さに身を固まらせている。
「おはよう」
セブルスの隣に腰掛けながら、名前は口を開いた。その拍子に冷気が舞い込んできて、歯がひんやりと冷たくなるのを感じた。セブルスは言葉を発するのも億劫だというように、青白い顔で小さく頷いた。
飛行訓練の授業が終われば、午後は得意の変身術だ。この2時間だけ我慢すれば、あっという間にハロウィンパーティの時間になる。そう自分に言い聞かせて、名前は勢いよく立ち上がった。しかしその瞬間また強い北風が吹きつけ、名前の士気を崩しにかかってくるかのように身を凍らせた。
フーチ先生が顔を強ばらせながら訓練場に入ってきたのを見て、ようやくセブルスものろのろと立ち上がった。生徒たちは各々箒を手にして、授業の説明を聞くために先生の周りに集まった。
今日の課題は障害物を避けながらのジグザグ飛行だ。先生が杖をひと振りすると、頭上に赤い光のポールが何本も現れた。光の間を縫うようにして飛ぶ指示を受け、生徒たちは順番に飛び立つため列を作った。
ポールはUの字に描かれていたため、発進したばかりの生徒と、奥でターンしてジグザグに戻ってくる生徒とがぶつかり合うシーンが何回かあった。その度にフーチ先生は箒に乗った他のプレイヤーをうまく避けるのも課題の内だと叫んだ。
名前は心臓の鼓動を早足に響かせながら自分の番を待っていた。箒のコントロールを失って、後に続くセブルスに思いっきり体当たりしてしまったらどうしよう。名前にはその惨事の様子がはっきりと目に浮かぶようだった。
名前の前にはパーキンソン率いるスリザリンのグループが、おしゃべりをしながら待ちくたびれた様子で並んでいた。名前は目の前に立つ話したこともない女子の鮮やかな金髪をじっと見ていた。どうすればうまくポールを回避できるか想像するのに精一杯で、彼女たちの話は一言も頭に入ってこない。目の前から金髪が消えた瞬間、名前はとうとう自分の番が来たかと顔を上げた。
しかしそうではなかった。いつの間にか、名前の目の前にはパーキンソンが立っていた。金髪の友人と順番を替えたようだ。名前は胸の内がざわつくのを感じた。パーキンソンは名前に背を向けたまま、くだらないおしゃべりを続けている。しかしその背中から溢れる不穏な空気に、名前は気を取られないわけにはいかなかった。
とうとう順番が近づいてきた。パーキンソンが箒に跨がって地面を一蹴りし、颯爽と空へ飛び出した。見事な飛び姿だった。安定した体勢で、器用にポールを避けていく。
彼女が折り返し地点に達したら、いよいよ自分が飛び立つ番だ。名前は準備のために箒に跨った。その瞬間、視界の右端で誰かが悲鳴をあげた。
ジグザグ飛行を終えたハッフルパフ生が何か騒いでいる。フーチ先生が何事かと彼らの方に向かっていった。名前も騒ぎの元を覗き込もうとしたが、ちょうどパーキンソンが最奥のポイントから折り返してくる所だった。名前は慌てて地面を蹴って、空に飛び上がった。
地上から光のポールまでは10メートルほど離れているようだった。案の定、北風が進路を妨げるかのように吹き付けてくる。最初のポールを名前はうまく避けきれず、箒の柄の先がものの見事にぶつかった。左に箒を切ってから、右方向に素早く飛ぶのがまた難しい。名前は落ち着いて、安全に進もうと深呼吸した。加速をしすぎないよう気を付けなければ。
2本目のポールを通過して、名前は右方向に切り替えるべく箒を傾けた。まさにその時、名前は反対側から飛んでくるパーキンソンを見た。パーキンソンは勝ち誇ったような笑みとともに、ローブに忍ばせた何かをこちらに向けている。それが杖だと分かるやいなや、名前はあっと息を飲んで箒の柄を強く握りしめた。
しかし名前が気付いた時にはすでに遅かった。パーキンソンが何かを呟いた瞬間、物凄い威力の突風に名前は突き飛ばされた。朝から吹き荒れていた北風ではない。目に見えない巨人の手に、力いっぱい押しのけられたような衝撃だ。
名前の手が、足が、箒を離れた。一瞬の出来事だった。名前は城の壁に背中を打ちつけ、地面にドサッと落下した。
「名前!」
女生徒たちの悲鳴にまじって、自分の名を叫ぶ声が聞こえた。しかしその声の主を気にするほどの余裕はなかった。名前は全身の激痛とともに、意識が遠のいていくのを感じた。緑の芝を映した視界が狭くなっていく。背中に鋭い痛みが走り、とうとう真っ暗な闇が訪れた。
名前は静かな暖かい場所で意識を取り戻した。目を開いた先には、白い天井が広がっている。名前はまた朝が来たのかと思った。しかし左肩に言いしれない痛みが走った瞬間、名前は何もかもを思い出した。そうだった。自分は箒から落ちたのだ。
「気が付きましたか?」
奥から女性の優しい声が聞こえた。名前が声のした方に顔を向けると、校医のマダム・ポンフリーが水差しを手にして立っていた。
「あ、はい…」
名前は弱々しく答えた。同時に安堵感が心にしみ渡るように広がった。自分は生きている。マダム・ポンフリーが自分を診てくれている。
「ひどい骨折でしたよ」
名前のベッド横へ近付いてから、マダム・ポンフリーがため息をついた。
「クィディッチ選手だってここまでの怪我は滅多にしません。打ち所が悪かったら、どうなっていたことか…」
マダムの言葉に名前は愕然とした。そんなにも危険な怪我をしたなんて。自分のものと思われるサイドテーブルを見ると、見たこともない色の液体が入ったボトル置かれている。
「あの、この怪我…治りますか?」
左肩の痛みに歯を食いしばりながら、名前は恐る恐るたずねた。
「もちろん治りますとも」
マダムは微笑んで答えたが、すぐに真剣な厳しい眼差しになった。
「ただ左肩の骨が一部、複雑に砕けていました。すでに処置は終わっていますが、元通りくっつくまで時間がかかります。あと8時間はここに寝ていてください」
思ったよりも深刻ではなかった状況に名前はほっとした。たったの8時間だ。外はまだ明るい。今日のうちには自室に帰れる。
しかし間もなく、今日が何の日であったかを思い出して名前は絶句した。目の前の時計は15時を指していた。8時間後は23時だ。ハロウィンは終わってしまう。
「5時間で何とかなりませんか?」
名前は先程と打って変わって、泣きつくようにマダム・ポンフリーにたずねた。マダムは眉を下げ憐れむような顔をした。
「今日ここに来た人は皆そう言いますよ…残念ですが」
名前は放心状態になりながら天井を見つめた。あんなにも楽しみにしていたハロウィンの食事に出られない。絶望のあまり、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。悔しさと悲しさから、涙がぽろぽろと溢れ出した。皆がハロウィンのご馳走を楽しんでいる頃、自分はここで一人だ。そしてミランダも、セブルスも…。
ふと、勝ち誇った笑みのパーキンソンが脳裏をよぎった。あの時彼女は確実に杖を突きつけていた。思えばパーキンソンが途中で飛ぶ順番を変えたのは、自分を陥れるためだったのだろう。彼女はずっと復讐の機会を狙っていたんだー。
遠くで医務室のドアが開く音がした。聞き覚えのある女の子の声だ。マダム・ポンフリーと何か話している。次第に足音が名前の方に近付いてきた。
「ミス・苗字、あなたに面会ですよ」
カーテン越しから聞こえるマダムの言葉に、名前は驚いて顔を上げた。先程のドアが自分のために開かれたものだとは思わなかった。名前がどうぞ、と答えると、目の前のカーテンがさっと開いた。
「名前!」
燃えるような赤毛が名前の目に飛び込んできた。リリーだった。よく見るとその後ろにセブルスも立っている。リリーは今にも泣きそうな顔で名前を見つめていた。
「大丈夫なの!?まだ痛いわよね?いつ治るの!?」
リリーは明らかな動揺を見せながら、名前の隣にかがみこんだ。マダム・ポンフリーがシーっと指を立てたので、リリーは慌てて口を押さえた。
「大丈夫だよ」
名前は微笑んで言った。リリーが自分をこんなにも心配してくれている事が嬉しくて、気付けば自然に笑みがこぼれていた。
「今日中には…夜中には、寮に戻れるって」
「そう…」
それを聞いて、リリーは安心したような、残念そうな顔をした。ハロウィンのご馳走の事が彼女の頭にもあったのだろう。名前は努めてその話題に触れないようにした。
「パーキンソンが君に呪いをかけた」
それまで黙っていたセブルスが突然口を開いた。名前もリリーも目を見張って彼を見た。
「やっぱり…」
セブルスが自分の後ろにいてくれて良かったと名前は心から思った。あの卑劣な攻撃の目撃者がいた、それだけで救われる気がする。しかしリリーはそれを聞いて更に心をかき乱されたようだった。
「だけど、どうしてそれをフーチ先生は放っておいたの!?」
リリーがこんなに怒るのを名前は見たことがなかった。豊かな赤毛と同じくらい、彼女は顔を真っ赤にさせている。
「あの少し前に、誰かが蛇を出した。そういう魔法がある」
リリーと真逆を行くかのように、セブルスはいたって冷静だった。
「それに気を取られて、フーチは君たちを見ていなかった。たまたま突風が吹いただけだと…それに君の不器用さが加わっての事故だと。皆はそう思っている」
あの時ハッフルパフ生が騒いでいたのはそれだったのか、と名前は納得した。同時に、この怪我がますます仕組まれたものであることが分かってきた。パーキンソンが仲間の誰かに蛇を仕掛けるよう指示したに違いない。
「そんなのってないわ!!」
リリーが思わず声を荒らげたので、マダム・ポンフリーが3人の方を鋭く睨んだ。それを見てリリーはまた口を押さえ、小声で非難した。
「セブ、あなたが見ていたんだから…!それを先生に言うべきだわ」
しかし名前はそれには賛成しかねた。パーキンソンは名前が薬草学の授業中、彼女の足を蛇にしたことを黙っていた。こちらが告発すれば、向こうも同じ事をするだろう。名前は二人にそう話した。
「でも…でも、死んでたかもしれないのよ!」
リリーは発作的に名前の手を握りしめて言った。
「あなたはちょっとした悪戯をしただけだわ…それも私のために。あっちは本気で、あなたを殺そうとしたのよ!」
そう言われると確かに恐ろしい、と名前は思った。パーキンソンの中に冷酷さや残忍さが潜んでいるのは百も承知だったが、それが自分の身にこうして降りかかるとは想像もしていなかった。リリーの言葉に名前は思わず黙りこくってしまった。
「…名前、とりあえず何か出来ることはある?」
気落ちした名前を少しでも励まそうと、リリーが遠慮がちにたずねた。二人がハロウィンの話を持ち出してこないのが、名前には何よりありがたかった。そしてこの事故を、今夜共に過ごすはずだった友人に知らせていない事に気付いた。
「あー…伝言を頼みたいかも」
名前の言葉にリリーは頷いて、メモを探そうとした。名前はメモする程の事でもないと笑ってそれを制して、リリーに言った。
「私のスリザリンの友達…ミランダ・フラメルっていう、2年生の女の子がいるんだけど。その子にこうなった事を伝えてくれないかな…物凄い数の石を付けてる子だから、見ればすぐ分かると思う」
「ミランダね、覚えたわ」
リリーは力強く頷いた。リリーであればミランダも"わかって"くれるだろうと名前は思った。
本当はハロウィンのご馳走も、持ってきてもらえるなら頼みたいところだった。しかし今ハロウィンの話を持ち出しては、無念さのあまりまた泣いてしまう可能性もある。名前は目に浮かびそうになった涙をぐっと堪えて、その気持ちを胸の奥へ押しやった。
「他には何かある?」
「何もないよ」
リリーの問いかけに穏やかに答えて、名前は再び開かれた医務室のドアに目をやった。グリフィンドールの誰かが入ってきた。驚いたことに真ん中の女子の足がクニャクニャに曲がっている。二人のグリフィンドール生がそれを両脇から支えていた。
「メリー!」
名前の視線の先を見て、リリーが叫んだ。どうやら友人らしい。メリーと呼ばれた女の子はその声に気付いて、真っ赤に泣き腫らした目をリリーに向けた。
「くらげ足の呪いだ」
セブルスがおかしそうにクックと笑った。しかしリリーに睨まれると彼はたちまち口を閉じ、メリーから視線をそらして窓の外を眺め始めた。
「名前、ごめんなさい、ちょっとあの子の所に行ってきてもいいかしら?」
リリーが申し訳なさそうに断り、名前は「もちろん」と自寮の友人のもとに行くよう彼女を促した。リリーはぱたぱたと足音を立てながらメリーに駆け寄っていった。
名前は変わり果ててしまったメリーの足を遠目に見ながら、ふといつもの癖でポケットに右手を突っ込んだ。地面に左向きで落下したためか、体の右側の痛みはほとんど無かった。しかし名前はいつもと違うその感覚に、さっと血の気が引くのを感じた。
「…ない」
名前はかすれ声で無意識下に呟いた。震えだした右手でポケットの中をまさぐってみたが、それは忽然と姿を消していた。
「なんだ?」セブルスが眉をひそめて名前を見た。
「石が…」
名前の両手は、もはや隠し切れないほどに震えていた。
「石がない…ミランダからもらった、気配消しの石が…」
それを聞いて、セブルスの表情が固くなった。彼は周りを見渡してから、リリーが元いた位置まで名前に近寄って小声でたずねた。
「あの時に落としたって事か?」
「そうだと思う…」
名前は肩の痛みも忘れ、最悪の結論に頭を支配されていた。何てことをしてしまったんだろう。石を早く探さなくては。今すぐ探しに行かなくては。
慌てて立ち上がろうとした名前をセブルスが咄嗟に引き止めた。セブルスの顔には緊張感こそあったものの、その態度は変わらず冷静だった。
「落ち着け」
動揺する名前の瞳をまっすぐ見つめながらセブルスが言った。
「パーキンソンは石のことを知っているのか?」
名前は首を振った。もはや声も出せなかった。もし石が見つからなかったら…それどころか誰かに拾われてしまったら…。ミランダと自分の友情は一瞬で破綻してしまうだろう。
「私、行く、探しに行く」
名前はセブルスの手を振りほどこうとした。しかしすぐに肩の激痛がやってきて、名前は思わず呻いて彼から手を離した。
「そんな怪我で今すぐ行けるわけないだろう」
セブルスはイライラしながら声を荒らげ、名前を見下ろして言った。
「パーキンソンが知らないなら、君はただ落としただけだ。盗まれたわけじゃない」
「でも、誰かが拾うかもしれない!」
名前はパニックになりかけながら小声で叫んだ。
「石は麻袋に入ってる…訓練場にそんなのが落ちてたら、誰かが見つけて拾うかもしれない。もう拾われちゃったかもしれない…」
名前は焦燥と絶望とに一気にのまれて、顔が蒼白となっていくのを感じた。指先の感覚がほとんど無い。早く見つけなければ、訓練場に行かなければ。背中には冷や汗が流れ、足はフワフワと浮くようだった。
セブルスは深くため息をついてその場を離れ去った。名前は彼の行動に気付かないほど、自分の思考に集中していた。何か、今すぐ訓練場を探しに行けるような魔法がないだろうか。こんな時コガネムシをボタンにする呪文などは全く意味を持たなかった。浮遊呪文も、掃除の呪文も、窮地には何の役にも立たない。
名前がうつむいて震えながら必死に考えを巡らせていると、カーテンが開いてマダム・ポンフリーが急に現れた。名前は異様に驚いて全身をビクッと反らせてしまった。
「たしかに、少し気を鎮める必要があるようですね…」
コップに謎の液体を注ぎながら、マダムが言った。
「これをお飲みなさい。今すぐですよ」
拒否する権利はなかった。名前は混乱しながら、言われるがままに手渡されたコップを受け取り、それをひと飲みした。途端に視界がぼやけていくのを感じた。しまった。眠ってしまう。名前は必死に抗おうとしたが、無駄だった。意識がまたしてもゆっくりと遠のいて行った。
まるで一定時間記憶を失ったかのようだった。名前は急に、ぱっと目が覚めた。またしても白い天井が目の前にあった。しかし先ほどとは光の量が違い、医務室も水を打ったような静けさだ。夜になったのだ。
慌てて時計を見ると、時刻は24時をまわっていた。名前は驚きのあまり声も出なかった。慌てて上体を起こし、ベッドから飛び出ようとしたその瞬間、何かがドサドサと足元から落ちる音がした。
「目が覚めましたか?」
音を聞きつけてマダム・ポンフリーがやってきた。名前は呆然と立ち尽くしたまま、床に散らばった大量のお菓子を見つめた。キラキラと光る紙に包まれたチョコレート、特大サイズの虹色キャンディ、箱に入ったアップルパイ…。あっけに捉えた顔の名前を見て、マダムがふふっと笑った。
「あなたが寝ている間に、ミス・フラメルとミス・エバンズがハロウィンのご馳走を持ってきてくれていましたよ」
マダムが杖を振ると、散乱したお菓子たちがひとかたまりになって宙に集まった。どこからともなく飛んできたシーツが、それらをプレゼントのように丁寧に包んだ。
「さて、ではこれを持って。私があなたを寮まで送ります」
はちきれんばかりに膨れ上がったシーツの包みを渡され、名前は何が何だか分からないままに、マダム・ポンフリーの後に続いた。医務室を出ると、薄暗い廊下が広がっていた。二人はスリザリンの談話室目指して歩き始めた。お菓子の詰め合わせは顔が隠れてしまうくらい巨大で、名前は何度もそれを落としそうになったので、見かねたマダム・ポンフリーが途中から浮遊呪文をかけてくれた。
深夜の気まぐれな階段をゆっくりと下り、マダムは地下牢のスリザリン寮に名前が入っていくまでその姿を見届けてくれた。
石扉を開き、名前はひっそりと談話室に足を踏み入れた。誰もいない。床には名前が抱えているお菓子と同じ模様の包み紙が散乱していた。色とりどりの美しい残骸がハロウィンの終わりを告げている。
名前は談話室のテーブルにひとまずシーツの包みを置いた。どうしていいか分からなかった。名前は額に手を当てて、暖炉の前のソファに座り込んだ。
気配消しの石を探さなくては。訓練場に行かなくては。しかし石なしでは、姿を誤魔化すことは出来ない。途中で誰かに捕まってしまう。
夢遊病のふりをすれば切り抜けられるだろうか?うまく人目につかず、訓練場にさえたどり着ければ……夜明け前に石を見つけることが出来たら……。
「おい」
突然、背後で霧の中から声がしたような気がした。名前は慌てて振り返った。前にもこんな事があった。忘れもしない、ミランダと初めて出会った時だ。名前は自分の視線の先をゴーストだと思った。しかし今回は…霞みがかってぼやけたその姿を、自分の生きた友人だとすぐに認める事が出来た。
「セブルス!」
名前は息を飲んだ。消え入りそうな影で漂っているのは、セブルス・スネイプその人だった。
セブルスはにやりと笑ったように見えた。そして次の瞬間、その姿はくっきりと現実のものとなった。しかしセブルスの顔を驚いて見つめているだけの名前には、それが何を意味するのか理解するのに時間がかかった。
「おいってば」
飲み込みの遅い名前に苛立ったのか、セブルスは乱暴に石を名前に突きつけた。名前は反射的に受けとったそれが何なのか、一瞬分からないほど面食らっていた。
「それじゃ…」
手のひらに置かれた透明の石の指輪を見つめながら、名前は震える声で言った。
「それじゃ、セブルスが石を見つけに行ってくれたの…?」
「呼び寄せ呪文を試してみたかった」
そう言いながら、セブルスは石の上に小さな麻袋をぽとりと落とした。
「"そういう物"は反応しないかとも思ったが…意外と試してみるもんだな」
「ああ、セブルス…!」
名前はこの感謝をどう表していいか分からなかった。石を握りしめながら、名前は感激のあまり彼に抱きつこうとした。それを察知したセブルスが大きく身をのけぞったので、名前は宙を抱く形となった。
「いつ探しに行ったの?あの後すぐ行ってくれたの?」
「人目がない時に決まってるだろ」
セブルスはやや警戒するように、名前から一定の距離を置きながら答えた。
「今日がハロウィンだったのは幸いだったな。先生たちも大広間で浮かれていたから、監視の目はほとんど無かった」
「ハロウィンパーティに行かずに探してくれたの?」
名前は目を丸くして呟いた。ホグワーツの一大行事を、まさか自ら見放す生徒がいるなんて。言葉だけでは言い表せない熱い気持ちがこみ上げてくるのを名前は感じた。
「あんなの、どうだっていい」
セブルスは照れたようにそっぽを向きながら言った。ご馳走とは無縁そうな痩せ細った体をしている。名前は咄嗟にシーツに包まれたお菓子たちを持ち上げて、セブルスにそれを差し出した。
「これ、あげる、全部」
名前から肩幅ほどもある大きな包みを突きつけられ、セブルスは困惑した表情を浮かべた。
「いや、いい、いらない」
「いいから、受け取って!」
名前はセブルスの胸めがけて、両手で力いっぱい巨大な包みを押し付けた。その剣幕にとうとうセブルスが折れ、彼は仕方なさそうに包みを両腕で抱えた。
「私、あなたがこんなに優しいだなんて…知らなかった…」
名前は本当に、セブルスに家族のように抱きつきたい気持ちでいっぱいだった。彼の頬に感謝のキスをしたかった。
「そんなんじゃない」
セブルスは包みの大きさにバランスを崩しそうになりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「勘違いするな。単に君の言う通り、誰かに先に拾われたらまずいと思っただけだ。あの忌々しいポッターとかに…」
抱えていた包みの端から不意にバラバラとキャンディがこぼれ、セブルスがため息をついた。
「やっぱり、これ、君が持ってけ。僕は今落ちた分だけでいい」
セブルスが合図もせずに包みを投げたので、名前は慌てて両腕を広げ、間一髪でそれを捕まえた。その拍子にまたお菓子がバラバラと床に落ちた。セブルスは鼻で笑いながら、散らばったキャンディを腕に抱えて、何も言わずに寝室へと消えていった。
名前はその姿を影が闇に混じるまで見つめていた。抱きしめたチョコレートが溶けてしまいそうなくらい、指先が熱くなっていた。