◆第五章◆『機械仕掛けの揺り籠』
ソケットケーブルの光の道を抜け、その先にある異世界へと足を踏み入れた瞬間――フワリ、と、優しく湿り気を帯びた本物の「風」が、俺の頬を撫でた。
視界が一気に開ける。アスタリスクの無機質な鉄の匂いも、宇宙空間の完全な暗闇もない。そこに広がっていたのは、見渡す限りの鮮やかな緑の草原と、どこまでも高く澄み切った青空だった。
「……あ」
気付けば、いつの間にか足はしっかりと大地を踏みしめていた。
あまりの心地よさに思わず肩の力が抜けていく。それを察したように、ライムは握っていた俺の手をそっと離し、トコトコと草を踏みしめながら前へと歩き出した。
「行きましょうか、マスター」
「え、あ……でも、ライム。仕事でもないのに、勝手に異世界を歩き回るのは不味いんじゃ……」
アスタリスクの厳しい規律が頭をよぎり、俺は慌ててライムを止めようとした。許可のない異世界への立ち入りは、あのユイや塁にどんな咎めを受けるか分からない。
けれど、ライムは足を止め、振り返ってじっと俺を見つめた。
「いいえ。僕の最優先の仕事は、マスターを守ることです。ですから、マスターの精神的ストレスを中和することも、僕の立派な仕事です」
「俺の、ストレス中和……?」
「はい」
ライムは大人びた瞳を少しだけ瞬かせ、淡々と、けれど確かな意志を込めて言葉を紡ぐ。
「アスタリスクの過去ログを解析した結果、マスターはかつて、真珠さんと共に様々な異世界へ赴かれていたと記録(ログ)に残っていました。その際のマスターのバイタルデータは、アスタリスク内にいる時よりも極めて安定しています。……ゆえに、マスターのストレス中和に必要なのは、あの世界(アスタリスク)ではなく、異世界での気分転換であると推測し、ここへ連れ出しました」
ライムはそこで言葉を区切ると、ちょこんと小さく首を傾げた。
「――僕の推測は、間違えていますか?」
真っ直ぐな、汚れのない瞳だった。
AIとしての圧倒的な合理性でログを分析し、導き出した結果。けれどその根底にあるのは、間違いなく「俺を救いたい」という、この小さな身体に宿る無垢な優しさそのものだった。
真珠が消えてから、ずっと胸の奥に居座っていた冷たい塊が、草原の風に溶けていくような気がした。
「……ふはっ」
気付けば、俺の口から自然と笑みが零れ落ちていた。こんな風に心の底から笑えたのは、一体いつ以来だろう。
「いいや、大正解だよ、ライム。……流石は俺の相棒だな」
俺は歩み寄り、愛おしさを込めて、ライムの柔らかい髪をぽんぽんと大きく撫で回した。
ライムは嬉しそうに目を細め、どこか自慢げに、口元を小さく緩めて微笑んだ。その顔は、AIの冷徹さなんて微塵もない、ただ褒められて喜ぶ8歳の子供そのものだった。
「じゃあ、少し歩こうか。もし魔物がいたら倒したいから、サポートを頼んでも良いかな?」
俺はヘッドホンを耳に装着し、今度は自分から、青々とした草原の先へと一歩を踏み出した。
もう、背中を追いかけてくる塁の影なんて怖くなかった。俺には、俺のことを誰よりも考えてくれる、新しい最高の相棒が隣にいる。
「ええ。勿論です、マスター」
ライムは力強く頷くと、俺の歩調に合わせるようにして、ぴったりと横に並んで歩き出した。どこまでも続く緑の絨毯の上を、俺たちは風を浴びながら、ゆっくりと進んでいった。