◆第四章◆『誰がための強さ』
ふわり、と風が草木を揺らす音が耳に届く。
次に目を覚ましたとき、俺の頭の下には、衣服越しに伝わる少し硬くてひんやりとした感触があった。
視線を上げると、ライムが俺の頭の上で本を広げ、静かにページをめくっているところだった。夕暮れの赤い光が、静まり返った森を不気味なほど赤く染めている。
「――っ!」
俺はハッとして飛び起きた。
「俺……そのまま、寝ちまったのか……?」
小さく呟きながら、自分の両手を見る。異種族を殺したあの感触がまだ残っている気がして、背中に冷や汗が流れた。もしあの時、ライムがそばで俺の罪悪感を全肯定して抱きしめてくれなかったら――今頃、俺の精神は狂って壊れていたに違いない。
「おはようございます、マスター。落ち着きましたか?」
ライムは静かに本を閉じると、すと、と立ち上がり、小さな手で服についた草の汚れを丁寧に叩き落とした。
「ああ……ライムのおかげだよ。俺の我が儘に付き合ってくれて、本当にありがとな」
心からの感謝を伝えると、ライムはいつもの無表情な顔のまま、すっと俺に向かって小さな手を差し出してきた。
「マスターの護衛ですから、当たり前のことです。戻りましょう。お疲れでしょう? 武器のシステムテストも完了しました」
「……そうだな。帰ろう」
俺はライムのひんやりとした手を握りしめ、光のゲートをくぐってアスタリスクへと帰還した。
――だが、自室の前にたどり着いた瞬間、その安らぎは一瞬でぶち壊された。
「よぉ」
ドアの脇に背中を預け、気怠げにタバコを吹かしている男――塁が、俺たちの帰りを待っていた。
「……っ」
俺が露骨に嫌悪の表情を浮かべ、足を止めたその瞬間。
ライムが素早い動きで俺を部屋の中へと押し入れた。そして自らが部屋の扉の前に立ちはだかり、類を中に入れないように毅然と立ちはだかったのだ。
「塁さん。マスターはお疲れです。用件は明日にお願いいたします」
小さな身体での、絶対的な拒絶。
塁は咥えタバコのまま、眉根を寄せて不快そうに舌打ちをした。
「機械のくせに生意気だな。だからアリスが作るAIは嫌いなんだよ。――そこをどけ。命令だ」
塁が冷たく言い放つが、ライムは一歩も引かなかった。その澄んだ瞳が、類を無機質に射抜く。
「最優先はマスターの精神的ストレスを無くすことです。暫く、塁さんはマスターに近づかないでください。……あなたはマスターの『ガン』ですから」
「チッ……」
塁はもう一度大きく舌打ちをすると、タバコを床に踏み消した。
「お前の製作者に文句言ってやるからな!」
吐き捨て、塁は通路の奥へと遠ざかっていった。足音が完全に消えるのを見届けてから、ライムは部屋に入り、静かにドアを閉めた。
「マスター。包帯を変えましょう」
ライムは何事もなかったかのように救急箱を持ち、俺をベッドに座るよう促す。俺はベッドに腰掛けながら、どうしても拭えない不安を口にした。
「なぁ、ライム……お前、大丈夫なのか? あんな風に類さんに逆らって……」
「問題ありません。僕はマスターのために作られたAIです。製作者と塁さんからも、マスターの命令には絶対に従えと言われています」
ライムは俺の包帯を丁寧に解きながら、淡々と、だけど確かな響きを持って言葉を紡ぐ。
「マスターは、塁さんが嫌いですよね?」
「っ……嫌いっていうか、その……価値観が合わないっていうか……」
「今のマスターにとって、塁さんと対面することは深刻な精神的ストレスになります。安心してください。暫くは僕が、塁さんからの仕事を引き受けてマスターにお持ちします。マスターは心を落ち着かせることだけを優先してください」
ライムの手が、新しい白い包帯を俺の手に巻いていく。
「敵を討てたとしても、大切な方を亡くされたマスターの心の傷は、まだ癒えていませんから」
「…………」
胸の奥が、温かい何かで満たされていくのが分かった。
こいつはAIだ。だけど、アスタリスクの誰よりも、俺のことを本気で心配してくれている。いや――AIだからこそ、バグのない純粋な忠誠心で、俺を守るために必死になってくれているんだ。
「ありがとうな、ライム。俺の味方でいてくれて」
「僕はマスターの護衛ですから、当然ですよ。ずっと傍にいます。さぁ、お休みください」
「わかった。……おやすみ、ライム」
「おやすみなさい。マスター」
ライムが部屋の明かりを落とし、静かな暗闇が訪れる。
真珠を失ってバラバラに壊れそうだった俺の世界は、ライムという完璧な守護者によって、優しく、そして強固に閉じ込められようとしていた。