◆第四章◆『誰がための強さ』


 塁のオフィスは、いつもと変わらず冷たい静寂に包まれていた。デスクの上の灰皿には山のようなタバコの吸い後の隙間から細い煙が頼りなく立ち上っている。

 その灰色の世界の中で、俺はただ、椅子に深く腰掛けたまま、ボロボロと涙を流し続けることしかできなかった。

 ゲートを叩き続けた両手の拳からは、じわりと赤い血が滲み、床に小さな点を作っていく。

 塁は何も言わなかった。

 慰めるわけでも、責めるわけでもなく、ただ俺の前に膝をつくと、救急箱から取り出した白い包帯を、俺の血塗られた手に黙々と巻き付けていく。その手つきは驚くほど手慣れていて、だからこそ、この世界では「傷つくこと」がどれほど日常茶飯事なのかを突きつけられているようで、余計に胸が締め付けられた。

「……俺が…」

 包帯が擦れるかすかな音の隙間から俺の声が漏れ出る。

「俺がもっと、強ければ……。システムのことだけじゃなくて、戦うコードでも何でも、もっと、もっと強ければ、真珠は死ななかったのに……っ!」

 ぐっと奥歯を噛み締める。視界が涙で歪み、真珠が光の粒子になって消えていく瞬間が、何度も何度も脳裏にフラッシュバックして頭が狂いそうだった。自分が無力なせいで、彼女を盾にしてしまった。自分を責める言葉しか出てこない。

 だが、塁さんは包帯を結び終えると、表情ひとつ変えずに、淡々たんたんと、当たり前の事実を告げるように言った。

「そうだ。お前は弱い。だから護衛として真珠を付けたんだ。お前を庇って消滅するのもアイツの仕事タスクだ」

「――っ!」

 心臓がドクリと跳ねた。
 仕事。当然。その冷酷な単語が、俺の頭の中で激しく弾け飛ぶ。

「…ふざ…けるな……っ!」

 弾かれたように立ち上がった。激しい怒りが全身の血を駆け巡り、気がつけば俺は、目の前に座っている塁の襟首を包帯まみれの両手で力任せに掴み上げていた。

「ならなんで!なんで異種族がいる異世界に行かせたんだっ!!! 真珠が意思を持つ生き物を殺せないことぐらい、あんた達なら、とっくに…っとっくに把握していただろっ!それなのにっ…!!」

 喉がちぎれるほどの怒声を塁の顔面に叩きつける。

 真珠の優しさを知っていながら、戦えないと分かっていながら、なぜあの場所に送ったのか。殺されると分かっていて見殺しにしたのではないか。塁の胸ぐらを掴む手に、じわじわと血が滲み包帯を赤く染めていく。

 それでも、コイツは眉ひとつ動かさなかった。

 ただ、咥えていたタバコを深く吸い込むと、ふーっと、俺の顔に向けて白い煙を吹きかけた。

「う、く……っ」

 ツンとしたヤニの臭いに思わずせ返り、視界が遮られる。その一瞬の隙に、塁は俺の手首を掴み、拒絶の意志を示すように、力ずくでその襟首から手を離させた。

 塁は衣服の乱れを気にする風でもなく、ただ冷え切った双眸そうぼうで俺を見つめ直す。

「それは真珠が勝手に決めたルールだ。アスタリスクのルールに異種族を排除してはいけないなんて決まりは無い。必要なら異種族を排除させる為の戦闘員なんて他にいくらでもいる」

 塁の言葉は、どこまでも合理的で、だからこそ残酷だった。

「だがソイツらじゃお前を守れない。だから真珠に、そのままお前の護衛を続けさせた。そして真珠は護衛の仕事タスクを全うした。お前何か勘違いしてないか?戦闘員を志願したのも護衛を受け入れたのも真珠本人だ。消滅する覚悟ぐらい持ってなきゃ戦闘員にはなれるわけねぇだろ。ガキが。それだけのことにいちいち突っかかってくんじゃねぇよ」

「……っ……」

 言葉が出なかった。

 真珠のあの悲痛な叫びも、命を賭した優しさも、この男にとっては、システムの仕様と効率の天秤てんびんにかけられた「ただの選択肢の一つ」でしかなかったのだ。

 掴みかかっていた腕の力が完全に抜け、俺はガタガタと震える足で、また椅子へと力なく腰掛けた。

 頭の芯が、怒りと絶望で酷く冷えていくのを感じる。

 誰かに守られている限り、誰かが身代わりになって消えていく。アスタリスクがそういう世界なら、ユイや塁がそういう人間なら――

「なら、強くなる……」

 俯いたまま、掠れた声で呟いた。

「俺が、俺自身を守れるように……もう、護衛なんて必要ない!!」

 言い捨てると同時に、俺は塁のオフィスを飛び出した。
 塁が引き留める声はしなかった。

 包帯の巻かれた手を強く握り締め、滲み出る血の痛みを怒りに変えながら、俺はただ、自分の部屋へ向かって、暗い通路をがむしゃらに走り続けた。
1/11ページ